« 鎌田慧の現代を斬る/基地縮小の声をつぶすな | トップページ | 阪神大震災現地ルポ 第11回/部落差別問題は避けられない »

サッチー報道についてのそれぞれの言い分

■月刊『記録』99年9月号掲載記事

■■■メディアは「当事者」になってはいけない サンデー毎日編集部

■過熱する「サッチー報道について」

 まさに「過熱」ということが問題だ。火をつけ、あおったのはテレビのワイドショーだが、当初のように、「約束の時間に遅れた」「醜いと言われた」だのの次元にとどまっていれば、芸能界のゴシップとして許される範囲であったと思う。また、この時点で、野村沙知代さんがテレビに登場して反論していれば、あるいはここまで長続きすることもなかっただろう。しかし、野村さんが黙っていても、視聴率が稼げるものだから次第にヒートアップしてゆく。もとより視聴率は時代、あるいは社会の反映であるから、重要視することを否定はしない。が、遺産相続訴訟の相手方の実弟を登場させて「姉は米兵相手の商売女」としゃべらせたり、コメンテーターに「刑事事件になればいい」と言わせるのは明らかに行き過ぎであり、テレビが論争の一方の当事者になったといっていいだろう。線引きが難しいことは承知しているが、メディアは「当事者」になってはいけない。
「野村沙知代」が表すもの

 野村沙知代さんは、言ってみれば「最後の闇」を利用して一人で生きていく術を身につけた女性である。かつて、こういう女性はうしろ指をさされるだけだった。が、テレビを中心とするメディアに登場して目立ち出すと(チヤホヤしたのはあくまでもメディアの側であるが)、カンにさわり始める。しかも、その取り上げられ方が、どうやら新しい生き方としてクローズアップされる「自己実現」というものを体現している女性としてである。
 これは、旧来の価値観に基づいてじっと我慢を重ねてきた人達、それが美徳だと思ってきた人達にとって心穏やかではない。今、日本は、自分達の築いてきた戦後というものの意味を問われ、グローバルスタンダードという名のアメリカンスタンダードの波に洗われている。そうした不安感が実は「野村沙知代」という形で表れているのではないか。その意味で非常に今日的な問題であると思う。

テレビは「清濁あわせ飲む」メディア フジテレビジョン広報部

■「サッチー報道」の扱いについて

 野村沙知代さんの報道に対する当局の基本的なスタンスは、節度をもって扱うということです。当初、この事件は、二~三日で報道が終わるものだと思っていました。もちろん、その小さな事件に広がりを持たせたのが、テレビ・ラジオ・週刊誌・新聞などのメディアだという問題はありますが、現在も私どもは大きな事件だと考えておりません。
 だから野村沙知代さんに対する報道を、他局ほど流していないのです。例えば記録的な大雨となった六月末、当局のワイドショー番組は、野村さんの問題を一切取り上げていません。他局は違ったようですが。
 ただそうはいっても、この問題に対する視聴者の関心は高い。それは事実です。あの年代のタレントが正面きって文句をいうことは今までなかったので、話題性もあります。テレビ局として、全く無視するわけにはいきません。
 そこで一方的な報道にならないよう、常に注意を払って番組を作っています。

■報道の姿勢が大事

 例えば野村さんを批判した本が出版された時、当局は本が出版されたことは報じましたが、本の内容まで言及しませんでした。内容に立ち入れば、当然、一方的な報道になりますので。また、野村さんが借りたまま返さないと一部で報道された花瓶についても、野村さんのコメントも取り、双方の言い分を放送するようにしました。もちろん新事実がないのに、ワイドショー的な手法で話を引っ張り、報道を続けるようなこともしていません。
 視聴者が面白いものをテレビで見たいと考える。それは批判できないと思います。そもそもテレビというのは、全ての要素が入っているものです。「清濁あわせ飲む」メディアですから。日常をそのまま含んだメディアといえるかもしれません。
 もちろん野村さんへの報道も、そういった側面があります。そのため視聴者からテレビ局に寄せられる声も、「もっとやれ」というものから、報道批判まで、一八〇度にわたる違った意見が同時に寄せられるわけです。
 だからメディア論として、どうして野村さんを取り上げるのか、あえて理屈をつけることに大きな意味があるとは思えません。むしろプライバシーに注意して、慎重に報道する姿勢が大切ではないでしょうか。
(談)

■社会現象として扱い報道 TBS報道

報道に際する注意点

  「サッチー問題」については、他局と比べるとあまり報道していないのが実情です。ただし全く取り上げないわけにもいきませんでした。
 私どもは、ある段階からこの問題が、いわゆる芸能情報を越えた一種の社会現象へと変わってきたと感じ、情報番組などでもそのような社会現象としての扱いで報道をしてきました。その際、個人バッシングにならないように注意するのはもちろん、人権にも配慮した報道を心がけてきたつもりです。

■「サッチー報道」現象について

 サッチー報道全般についてどう思うかという質問にはお答えできませんが、前述のようなスタンスを持って当社が報道してきたことを、ご理解していただければと思います。

■■■マスコミの公人として扱う テレビ朝日 情報番組センター長・栗原直汎

■「サッチー」を取り上げる理由

 野村沙知代さんを当局が報道するのは、第一に衆議院議員として繰り上げ当選の権利を持つ準公人であり、公職選挙法に違反している可能性が高いからです。
 選挙当時の名刺の一部やパンフレットには、「コロンビア大学に留学」という文字が入っています。この言葉は、選挙戦の「装飾品」とされました。
 学歴詐称で参議院議員に当選した新間正次氏が禁固六ヵ月、執行猶予四年の判決を受けたことからも、彼女の疑惑がどれほど大きな問題かわかるでしょう。浅香光代さんらが訴えていたのも、まさにその点だったと思います。
 彼女を報道する二つ目の理由は、準公人としてあまりにも品位に欠けるからです。地元の酒屋に届けさせたビールをあまったから換金させたとか、花瓶を返さないなど今までに報道された疑惑は二〇あまりにもなります。
 ただし彼女の品位を問う報道については、視聴者も多くを知るところとなりましたので、新事実が出ない限りは、もうこれ以上取り上げるつもりはありません。ただ公選法違反については、いましばらく経過をみて、状況を追ってはっきりさせたいと思ってます。
 浅香さんが野村さんを批判し始めた当時、私は、これは二週間で終わるネタだと思っていました。実際、野村さんが記者会見を開くなど、通常の対応をしていれば、その程度で終わるものであったと思います。
 それが、ここまで長引いた理由の一つには、しばらく一切の釈明を拒否しておきながら、報道が下火になった頃に、野村さんが痛烈な反撃をしてきたからです。講演会もそうですし、フジテレビ系の番組や「おしゃれ関係」への出演、『サンデー毎日』での反論など、どれも都合の悪い質問を受け付けない、一方的な内容でした。だから、関係者から反撃が巻き起こったのです。「サッチー報道」の第一幕を落としたのは浅香さんでしたが、二幕、三幕目を作り出したのは、他でもない野村さんご自身です。
 マスコミ界に限っていえば、彼女は準公人ではなく、公人です。テレビ番組にも出演していましたし、本も出版して相当額の収入を得てきた方です。だからこそマスコミの報道に、彼女からきちんとした回答をいただきたいと思うのです。

■「サッチー」の報道にあたっては

 確かにマスコミの報道全体をみれば、一部に行き過ぎた面はありましょう。例えば、三〇年以上前の彼女のプライバシーを暴くなどは、すべきではなかったと思います。あれは人間の品位を傷つける報道でした。当局でも、かなり昔の話が一度だけ報道されましたが、すぐにそのような報道は行わないように徹底いたしました。
 現在、「論点をハッキリさせて、粛々と報道せよ」と、番組制作のスタッフに私は言い続けています。ズルズルと視聴率を稼ぐように話題をひっぱる報道は、すべきではないと考えているからです。
 一時期、視聴者からもヒステリックな反響がありました。まあ、七割が「もうやめろ」という声でしたが……。しかし現在、そうした状況を越えて、公選法違反という本題に論点も戻ってきています。その点では、現在の報道状況は適正なものであると思っています。

■■■公益性・公共性が判断基準 週刊読売 記者・臼井理浩

「サッチー報道」は報道か?

■そもそも「サッチー報道」は「報道」と呼べるのか。
 今さらいうまでもないが、報道の自由は憲法上の保障を与えられている(二一条)。ただし、それは国民が国政に関与するための判断材料を提供するためだ。そして、憲法は同時に、個人の尊厳に根ざした名誉、信用、プライバシーなどの権利も保障している(十三条)。シェイクスピアだって、「私の名前を盗む者は私の財産を盗む者である」と言っている。
 どちらが優先されるかは、公人であるか、私人であるか、公益性・公共性の重要度によって、あるいは具体的な事象の具体的な表現によっても、変わってくる。個人を侮辱し、罵倒するような表現があれば、それ自体で公益性がないと判断される。したがって、公益性・公共性がほとんどなければ、それは興味本位、のぞき見趣味と呼ばれ、報道の自由の埒外にある。「報道」でもなければ「報道人」でもない。
 そうした自分の会社の報道倫理綱領はおろか、憲法や民法の条文を読んだことのない人達が、短絡的に「視聴者や読者が望むから」と番組をつくり、文章を書けば、当然、今のようなファッショ的事態になるだろう。単純な数字至上主義の果てには、法廷での弁護士とのやりとり、謝罪文と損害賠償命令の書類が待ち構えているのをお忘れなく。
 ところで、人権派弁護士は何をしているのか。 ※このコメントは、『週刊読売』編集部としてのものではなく、臼井記者のものとしていただきました。

■各メディア、それぞれの言い分 『記録』編集部

  「サッチー問題」について、各種メディアにコメントを求めた。コメントを求めたなかで、意外な反応を示したのは日本テレビだった。最初の取材申し込みに対しては、「貴誌とつき合いがないので、今回見送らせていただきたい」と広報局から断りの電話。ただ、小誌はかつて日本テレビ・プロデューサーを取材したことがあり、「つき合い」はあった。しかも他ならぬ広報局を通しての取材だ。
 そこで該当する記事を郵送し、再度申し込んだところ、「検討中です」と言われた。だが、日を改めてもう一度コメントをお願いすると「あ~、その件はお断りします」という答えだ。仕方なく取材に応じない理由を尋ねると、「お断りする理由なんてありません。理由を言わなければならないんですか」と、逆に詰問された。日本テレビは、サッチー報道にはきわめて積極的だった局ゆえに、おおいに「言い分」を語ってくれると想像し、期待したので驚いた。あの報道ぶりをみれば誰だってそう思うはずだ。
 その他、サッチー問題を比較的大きく報じてきた各メディアの「言い分」を簡単に列挙しておこう。
 『女性自身』編集部からは、「編集部では、記事がすべてと考えております。本誌のそれぞれの記事・企画でご判断いただければと思います」と、ていねいな答えが返ってきた。また『週刊女性』編集部からは、デスクから直々に電話があり、「問題は継続中でもあり、今はコメントを差し控えさせていただきます」という回答だ。過激な記事で知られる『週刊アサヒ芸能』も、「うちはあまり報道しておりませんし、まだ騒ぎの最中でもありますので、現在はコメントを差し控えさせていただきます。経過を見てから、考えたいと思います」と話している。どのメディアもコメントを出さないまでも、出さない理由ぐらいは語るものだ。
 さほどサッチー問題を報じていない『週刊ポスト』からも、「個々の事件について報道しているだけなので、サッチー問題全体については、コメントは出しにくいですね」との電話を受けた。
 少なくとも「検討」の結果、「理由」もなく「お断り」するようなメディアは、一つしかなかったわけなのである。

|

« 鎌田慧の現代を斬る/基地縮小の声をつぶすな | トップページ | 阪神大震災現地ルポ 第11回/部落差別問題は避けられない »

月刊『記録』特集モノ」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/389724/6831367

この記事へのトラックバック一覧です: サッチー報道についてのそれぞれの言い分:

» 芸能界 ランキング [東原亜希特捜部]
飯島愛。。飯島愛。。飯島愛が引退していなくなってしまったことがとても残念です。おもしろかったし、好きでした。皆さんは飯島愛がいなくなってしまってどんな心境ですか?(ベストアンサーは私の好みとか関係なく公平にしたいので投票にしようと思います。なので正直な意..... [続きを読む]

受信: 2007年6月19日 (火) 05時44分

« 鎌田慧の現代を斬る/基地縮小の声をつぶすな | トップページ | 阪神大震災現地ルポ 第11回/部落差別問題は避けられない »