« 靖国を歩く/第6回 靖国の桜と気象庁(『記録』編集部) | トップページ | 靖国を歩く/第8回 忠義を押しつけられた犬たち(『記録』編集部) »

靖国を歩く/第7回 大鳥居の向こう側(『記録』編集部)

■月刊『記録』02年8月号掲載記事

    *        *        *

■日本一マニアの靖国神社 

   初めてライトアップされた靖国神社の大鳥居を見たとき、ゴジラ映画を思い出した。夜空に赤茶色に浮かび上がった大鳥居の周りを、サーチライトが照らす。バカでかい鳥居に向け何本もの光の筋がのびる光景は、自衛隊がゴジラを取り囲んでいるシーンに似ていた。 
   あまりに現実感のない光景に、私は笑った。何でこんなものを作ったのか――それが正直な感想だった。 
   当時、靖国神社は私に縁のない場所だった。歴代首相の公式参拝問題で話題にのぼるとはいえ、神社そのものに興味はないし、靖国神社の歴史など知る由もなかった。 
   そう、8年前私が感じたのは、イデオロギーとは関係ない、ただの違和感だった。
   九段下駅にもっとも近い大鳥居(第一鳥居)が、現在の形で完成したのは、1974年10月である。柱の高さが25メートル、笠木と呼ばれる上の横木の長さが焼く34メートル、全体の重さは約100トン。これだけの重量を支えるため、素材も鉄に炭素・硅素・マンガンなどなどを加えた耐候性高張力鋼板という特別な合金を使っている。 
   しかもこの大鳥居、当初の建設計画を急遽変更したという。質量にして、なんと2倍! もちろん計画の変更にともなって、鳥居を支える基礎工事も大幅な増強を強いられ、建設費も跳ね上がった。計画の抜本的な変更と言ってもいいだろう。 
   驚かされるのは、計画変更の理由だ。見積もり依頼のわずか1ヶ月前、栃木県に日本一の大きさの鳥居が完成したからだという。つまり自分たちで日本一大きい鳥居を作るため、突発的に計画を変更したのである。 
   当時の状況について、大鳥居建設の実行委員は、次のように語っている。

   小林   戎野君は三十メートルにしろと言っていましたね。
   戎野   いや三十五メートルですよ。(笑)どうしても無理なら三十メートルにしてくれと。そしたら、戎野さんが、やっぱ歩兵砲は大きいことを言う。そりゃ大きい方がいいと言われましね。
   奥谷   三十メートルにすると、幅の広がるのではないの。バランスはどうかな。
   小林   あれは、細かく比率が決まっているんだ。今の鳥居の寸法は、神社にいろいろ聞いて私が計算して決めたのですよ。今考えるとぞーっとする……。
   (『靖国人家大鳥居再建之記録』)

   なかなか大らかな話である。日本一の大きさの鳥居を作ることは、彼らにとっても至上命題だったようだ。確かに鳥居の大きさに対する靖国神社のこだわりはスゴイ。知っているだろうか? 靖国神社には、大鳥居を含めて“日本一”の鳥居が3つもある。 
   大鳥居から歩くこと数分。靖国通りに面した石造りの鳥居は、石造りの鳥居として日本一だ。高さ11.35メートル、笠木の長さも15.30メートル。第2位の大きさを誇る京都の八坂神社の鳥居に、高さで44センチ、笠木の長さで55センチ勝っているという。 
   さらに拝殿に向けて歩くと、青銅大鳥居と呼ばれる第二鳥居にぶつかる。この鳥居が、青銅として日本一の大きさを誇る。 
   いったい何をしたら、これだけ日本一が集まるのか。その答を説明するために、靖国の鳥居についての歴史をかいつまんで説明したい。

■戦争に使われた鳥居 

   1887年(明治20年)に建てられた現在の第二鳥居は、陸海軍当局が計画を進め、旧諸藩より提出された大砲を原料にして作られたものだ。この鳥居建設に対する意気込みが表れているのが、『靖国神社誌』の一文である。一部を抜き出してみよう。
  「本社は、王制の中興を翼賛し今日の昌平を開創したる神霊の祠にして、国家の永遠敬崇して忘る可からざる所なれば、鳥居の如きも宜しく其規模を壮大にして、以て万世不朽ならしむべし」 
   1945年の敗戦まで陸・海軍の管轄下にある国家施設であり、国家神道の中心地だった靖国神社の面目躍如といったところか。鳥居の大きさは、靖国の持つイデオロギーの体現となっている。 
   靖国神社の鎮座50年を記念して計画され、1921年(大正10年)6月にに施行された第一鳥居建設でも状況は変わらない。この大鳥居の建設趣意書をしたためた陸軍中将は次のように書いている。
  「(靖国神社は)永く国家を鎮護し国民の景仰する所なり、皇室の尊崇を蒙ること太く厚く、(中略)第一鳥居を新に九段坂上に建設して社頭の尊厳を加え、以て中外の儀表と為さむとす」(『靖国神社百年史』) 
   後年、「空をつくような大鳥居」と歌われた第一鳥居も、やはり国家神道を推し進めるために作られたわけだ。 
   しかし、この1921年に建てられた第一鳥居は、皮肉な運命をたどっていくことになる。1943年春頃から大鳥居の青銅がはがれ落ちるようになり、鉄骨の腐食まで確認される。しかし戦争の旗色は悪く、物資の供給もままならい状況にあって、鳥居の補修などできる状況にはなかった。背に腹はかえられぬ。軍部は、速やかに大鳥居の撤去を決定した。解体した銅や鉄は戦争に使うこと、また戦争終結後に鳥居を立て直すことを神社と約束し、木造の仮鳥居を建てたのである。 
   ところが敗戦により、軍部は靖国神社との約束を果たせなくなる。それどころか靖国神社の存続さえ危うくなった。慌てた靖国神社は、社名を変更し、宗教法人としての生き残りを図る。驚いたことに、軍事博物館の「遊蹴館」を、ローラースケートやピンポン、メリーゴーランドや映画館にしようという計画まであったという。なりふり構わず生き残りに賭けた靖国の姿が、そこに浮かび上がる。 
   こうした「逆風」の中、靖国神社は戦時中に失った大鳥居の再建を内に秘め続ける。そして冒頭に書いた通り1974年、元軍人や遺族などの寄付を集め、31年ぶりに大鳥居が建設されることとなった。 
   当時、国家護持法案が審議中だったこともあり、再建計画は極秘に進められた。企業からの大口の献金をもらえば金は集まりやすい。しかし、そこからマスコミに漏れることを恐れた実行委員は、個人から幅広く寄付金を集める方法を選択する。 
   この大鳥居の再建にも、もちろんイデオロギーの影がちらつく。大鳥居再建についての資料をまとめた『靖国人家大鳥居再建之記録』の冒頭では、靖国神社の權宮司が、国営施設ではない現在の神社の状況について、「靖國神社に祀られることを信じて、祖国の安泰を念じて散華された英霊に対して、国家が嘘を云ったことになると思う」と述べ、占領軍が日本弱体化のために靖国神社を宗教法人へと追い込んだ、という論陣を張っている。 
   しかしである。 
   この大鳥居の歴史は、すべてイデオロギーの産物と言い切れるのだろうか? 対談に表れた実行委員のおおらかさや巨大すぎる鳥居への違和感に、私は、イデオロギーと相容れない何かを感じてしまうのである。 
   実際、先述した座談会の中で、大鳥居再建の発端について、次のように語っている。
  「それに、理事長さんもこの話に触れておられたこともありましたね。靖国神社の前を、浅草寺の前の通りのように賑やかにするとか……」 
   仲店の賑やかさと国家神道の中心地。さて、これがうまく結びつくだろうか? 少なくとも私には結びつかない。人を集めてこそ、イデオロギーが形成されるとしてもである。

■明治時代はハイカラ 

   評論家の坪内雄三氏は、靖国神社がイデオロギーの中心地ではなかった時代があったことを、著作で明らかにしている。例えば「靖国神社は明治のハイカラ」(『諸君』1994年11月)では、明治時代の招魂社(現・靖国神社)の様子を描いた絵や文学作品を検証し、「一言で言って、洋風でハイカラな場所だったのである」と書き記している。 
   たしかに明治時代の靖国神社は、今とは少し様子が違う。例えば明治3、40年代の例大祭では、サーカスが名物だった。少し時代がさかのぼるが、明治4年頃の三代廣重の作品『招魂社境内ニテ フランス大曲馬』には、フランスから来日した「スリエ曲馬団」の曲芸が、いやに楽しそうに描かれている。馬上でお手玉をする女性、馬に乗りながら地面の帽子を取ろうとする男性、輪潜りをする馬などなど、画面ところ狭しと描かれた曲芸からは、見た者の興奮が伝わってくる。 
   そんな牧歌的な側面を、靖国神社から読みとるのは無理が過ぎるだろうか? しかし、あの大鳥居を見るたびに、どうも竹下登の実施した「ふるさと創生事業」を思い出してしまうのである。全国市町村一律に1億円を配分した、とんでもないバラマキ政策は、1億円の使い道に困った市町村に次々と奇妙な日本一を作らせた。「日本一長いすべり台」や「日本一大きい水車」「日本一大きい天狗面」などなど、ほとんど意味のない日本一が、一気に日本を埋め尽くした。 
   いや、間違えないでほしい。 
   靖国神社が国家神道の中心的な役割を果たし、戦争遂行に利用されてきた事実を否定するつもりはないのだ。ただ善し悪しは別にして、イデオロギーと別の論理が働いているように見える部分があることを、指摘したいのである。 
   一方で、もう1つ確かなこともある。大きくて、権威的で靖国神社の象徴ともなっている大鳥居は、イデオロギーと完全に切り離しては論じられない、という事実だ。 
   今年の御霊祭りに合わせ、遊蹴館も新装オープンした。明治42年に出された遊蹴館の意見書に、「教育上の資料に供せんとするに外ならす」と書かれた伝統を担い続けているのだろう。目に鮮やかな黄色の制服を着たコンパニオンが配置されるようになっても、やはり展示は日本の正当性を主張し続けている。 
   戦闘中のいたしかたない死どころか、生きる可能性を投げ捨て、「国のため」と死んでいった人々の礼賛のオンパレード。どんなに惨めでも、生き延びてこそ社会のためになるという発想自体、この資料館では異端らしい。 
   来館者が意見を寄せている雑記帳には、「英霊の写真を見ても虐殺に加わってとは思えない」、「正しい歴史を学べた」、などの記述があった。教育は成功しているようだ。 
   どんなに大きな鳥居を造っても、九段坂上が浅草仲店のように賑わうことは、もうあるまい。100年以上に渡ってイデオロギーを加え、国家神道の象徴として歩んできた歴史が、あらゆる建造物に意味を与えてしまう。だから多くの人の足は向かない。 
   明治時代のサーカスと似た催しが、復活することもないだろう。人を笑わせていた空間が、泣き・叫ぶ空間に変化した事実は重い。鳥居の片隅に、そんな空間を見てしまったからこそ、もったいなく感じてしまう。 
   そして8月15日。 
   靖国は怒号と主張が飛び交うだけのイデオロギーの空間となる……。 (■つづく)

|

« 靖国を歩く/第6回 靖国の桜と気象庁(『記録』編集部) | トップページ | 靖国を歩く/第8回 忠義を押しつけられた犬たち(『記録』編集部) »

靖国を歩く/奥津裕美・『記録』編集部」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/389724/6784798

この記事へのトラックバック一覧です: 靖国を歩く/第7回 大鳥居の向こう側(『記録』編集部):

« 靖国を歩く/第6回 靖国の桜と気象庁(『記録』編集部) | トップページ | 靖国を歩く/第8回 忠義を押しつけられた犬たち(『記録』編集部) »