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ホームレス自らを語る/一生に三度の倒産・園部俊彦(五二歳)

■月刊「記録」98年4月号掲載記事

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■バイク・カメラ・ジャズが趣味
 休日はバイクに乗るのが好きだった。愛車はホンダのCB二五〇。使い慣れていたニコンのカメラを積み込み、西へと向かう。特に行く場所を決めてはいなかったけれども、奥多摩や相模湖・津久井湖・山中湖なんかによく足を運んだ。高速道路を使わないで走るのが好きだったから、バイク好きがコーナーを攻めることでも有名な大垂水峠にもよく通った。曲がりくねったカーブも面白いし、何よりおいしい空気と景色があった。
 疲れるとバイクを止めて写真撮影に向かう。カメラにはかなり凝っていたからリバーサルフィルムを使っていた。紙に現像するんじゃなくて、スライドにして保存しておくんだ。本当によく撮ったね。
 家に帰れば音楽が待っていた。ジャズやラテン音楽が好きだった。コンポでお気に入りのCDを聞くのは最高だった。ジャズは近年の激しいものより、八ビートをしっかり刻んでいる古い曲をよく聞いた。ジミー・スミスなんか、繰り返しかけていたっけね。
 結婚もしなかったからカネもあった。なかったのは時間だよ。時間ができたらカメラを担いでバイクで日本一周したいなんて、そのころは考えていた。今じゃ、ひまがあっても飯にさえ困るというのに。いつの間にか、実現できない夢になったな。

 生まれ故郷は茨城県だ。工業高校で電気を勉強して、卒業後に電気部品を扱うメーカーに就職した。数回、会社を変わるうちに、あらゆる電気部品にくわしくなった。強い電気が流れる配電盤や、弱い電気で動く家電まで、電気関係ならばおよそどんな仕事でもできる自信があったよ。
 今、思えば、あの自信がアダになったな。自分でやってみたくなったんだ。男だったら誰だって、自分で事業をやってみたいだろう。それに、会社が得意先に出す仕事の見積もりを見るたびに、安い給料で働くのが嫌になったんだ。一九八三年、三八歳で会社を興した。会社といっても、自分一人の会社だったけれどね。東京都稲城市のマンションを自宅兼事務所にして始めた。
 コンピュータ部品や医療用電化製品の組み立てが主な仕事だった。幸い、親会社が必要な機材を提供してくれたから、設備投資にカネをかける必要もなし。おかげで借金もしなくてすんだんだ。
 会社を興してしばらくは順調そのもので、サラリーマン時代の月給を上回る収入も得たし、何より自分のために働いているのがうれしかった。

 ところが従業員一人の会社なんて、つぶれるときはあっけないもんだった。八八年、僕が四三歳のときにいきなり倒産。営業センスと事務能力がなかったのが、致命的だったんだろう。僕は職人肌だからね。採算が合わないと思っても、ついつい時間をかけて仕事をしてしまう。それを止める人もいないから、自分が納得するまで頑張ってしまう。
 職人だけでは会社は持たないよ。営業と技術屋の両方がいないとな。あの本田宗一郎だって、彼の右腕になった営業マンがいたっていうじゃないか。僕は気がついたら、どうしようもない状態にまで追いつめられていた。もう、会社をたたむしかなかった。
 堅実な経営をしていたから負債は少なかったが、ショックは大きかったよ。しばらくは何もしたくなかったね。でもまあ、働かないわけにもいかないから、電気関係の仕事を探したんだ。ところがこれがない。預金で食いつないでいたけれど、三ヶ月たっても仕事が見つからなかった。当然、カネはどんどん減っていく。仕方がないから、知り合いの建築関係の会社で働くことにしたんだ。

■五〇歳に雇い口なんかない
 ビルの壁に不燃材を吹きつける仕事だった。僕が入社する数年前までは、ボロもうけだったらしい。でも、最初は建築現場で働くの嫌でね。好きだった電気の仕事から離れるのもつらかったし、こわい世界だと思っていたんだ。いかつくて、ガラの悪い男がどなりながら働いているイメージがあった。ところが働き出してみると居心地は悪くない。三人一組で現場に入るが、みんないい人ばかりだった。仕事が完了すると、現場が変わるのも気分転換になって意外によかった。

 仕事は鹿島、フジタ、大成建設なんかの大手から直接入っていたから、大きな物件がほとんどだったよ。短くても一週間、長ければ一ヶ月くらい同じ現場に通う。納期が迫ってくれば、週休二日というわけにはいかないが、仕事さえ終われば午前中で帰れる。いつの間にか、吹きつけの仕事が好きになっていたんだ。埼玉方面の現場が多かったので、住居も巣鴨に変えた。月六万円のアパート暮らしは快適だった。
 ところが、ちょうど僕が入社したころから、発がん性物質としてアスベストが問題になり始めたんだ。うちの会社はこれを扱っていたからね。だんだん行政や建築会社のチェックが厳しくなって、経営も傾いていった。
 僕はつくづく運が悪いと思うよ。一緒に働いていた先輩なんか、よくこぼしていたんだから。「昔はこの仕事で家が建ったのに」って。そして、とうとう九六年に、会社は解散してしまった。

 従業員三〇人ほどの会社だったが、独立する人や辞める人が一挙に重なった。数週間の間にどんどん人がいなくなっていった。仕事自体は山ほどあったけれど、仕事を受ける従業員がいなくなってしまったんだ。二、三人が見切りをつけ始めたことから、連鎖反応が起きたのかもしれない。会社に行っても仕事ができないから、ついには誰も来なくなってしまった。給料が払われるかどうかもわからなくなった。
 不景気でつぶれるなら、うわさが伝わってくるから事前に準備もできた。ところがずっと先まで仕事がつまっているのに、いきなり人間だけがいなくなったんだから驚いた。もっとも自分の生活については、まったく心配していなかったけれども。会社をつぶしたときに比べれば、のん気に構えていたね。また会社を変わればいいんだって。
 でも甘かったよ。当時、僕は五〇歳になっていた。どこを探したって雇い口なんかない。数百万円の預金で食いつないで、職探しをしたが見つからない。職安にも行ったけれども、態度がひどくてね。人をバカにしたように応対するんだ。だから結局、職員とは口をきかなくなって、求人票を見に行くだけだったよ。役に立たなかったね。

■最後の幸運もつかの間
 日に日に目減りしていく預金残高が恐怖だった。きちんと雇ってくれないならば、せめて日雇いでもと、高田馬場で手配師から声をかけられるのを待った。引っ越しの手伝いなんかによく出かけたが、日給六〇〇〇円では預金の持ち出しを止めるわけにはいかなかった。
 そんなとき高田馬場の公園で、「ハウスクリーニングの仕事をしないか」と声がかかったんだ。手配師ではなく、従業員が辞めて困っていた社長が、じかに声をかけてきた。幸運だったね。手配師のようにマージンを取らないから、一日一万一〇〇〇円になる。これで助かったと思ったよ。二〇日も働けば、どうにか生活していける。一生懸命働いた。だが、これが自分にとって最後の幸運だったんだ。数ヶ月後には、また会社がつぶれた。人生に三度も倒産にあうなんて、自分には疫病神がついているんじゃないかと思ったよ。もう、どうにでもなれという気持ちになっても仕方ないだろう?

 少しでも収入を上げようと高田馬場に通ったが、五〇歳をすぎた体では、なかなか仕事はもらえない。仕方なくバイクを売った。気に入っていたカメラも質屋に入れた。コンポも。そして自分の手元に取り戻すことは、とてもできなかった。
 いつの間にか、カネ目のものがすべてなくなっていた。預金も二~三〇〇〇円になった。家賃なんか逆立ちしても払えない。身の回りの衣服だけをバッグにつめて、そっとアパートを抜け出した。どこに行くあてがあったわけでもない。気がついたら新宿にいたんだ。

■住所だけでもほしいんだ
 新宿中央公園でホームレスが寝ているのを見て、ここにいようと思ったんだ。段ボールを敷いて寝た。何もする気が起きず、二、三日はただただ寝ていたよ。貯金がなくなっていくことで、かなり精神的に追いつめられていたから、家がなくなり、家賃や食費の心配がなくなって、かえってホッとしたくらいだ。それが九七年の夏。
 それからは飯場で泊まり込みの仕事を探すようにしている。飯場に入れば、少なくとも一五日間は食事にもありつけるし、雨露もしのげる。でも、最近はこの不況だからね。やはり仕事にあぶれてしまう。休みなく仕事を入れるには、手配師と顔なじみになっていかなければならないけれども、僕にはそういうことは苦手だし・・・・・。
 高田馬場に仕事を探しに行き、あぶれた日の夜には、新宿の西口地下で寝るのが習慣になっていた。ところがこの前の火災で、地下からも追い出されてしまった。「なぎさ寮」に入りたかったが、定員オーバーで受付もしてくれなかったよ。今は、夜も中央公園で眠るようになったよ。
 自分がなるまでは、ホームレスなんて、酒やばくちで身を持ち崩した人ばかりだと思っていた。ところが結構まじめに生きてきた人間もいるんだよ。僕だって、どうしてここにいるのかわからない。何が悪かったんだろう。いまだにホームレスをしているのが信じられない。
 住所不定じゃ、定職も見つけられない。手配師が扱う日雇いの仕事しかできないんだ。しかも年金をもらうには、まだ早い。だいたい住所もないのに、どうやってもらえばいいんだ。そのうえ不況が深刻になってからは、五二歳はすっかり年寄り扱いだ。仕事がほしいよ。国が仕事を斡旋してくれないなら、せめて住所だけでもほしいんだ。そうすれば職探しができるのに……。

 九五年に実家を訪ねたときには、「土地をやるから自分で家を建てろよ」なんて兄にいわれてね。「家を建てるカネがないよ」なんて笑ってたけれど、もらっておけばよかった。今は切実に家がほしいよ。でもここまで落ちぶれてしまうと、もう、親族なんかに連絡はできないんだ。自分でもどうしていいのかわからない。寒さに震えて眠るしかない。
(九八年三月取材)

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