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鎌田慧の現代を斬る/「インディペンデンス」国家の不思議

■月刊「記録」1997年10月号掲載記事
 (表記は掲載当時のままです)

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■戦時体制そのものだ

 政府の動きをみると、まるで戦時体制を準備しているかのようだ。いやむしろ戦時体制そのものといえる。米海軍の航空母艦インディペンデンスの小樽寄港に三六万人も集まった風景はおぞましい、
 たとえば九月二日、米軍用地強制使用の手続きを基本的に国の執行事務とする第三次勧告を、地方分権推進委員会(諸井虔委員長)は橋本龍太郎首相に提出した。これはことしの四月におこなわれた沖縄特別法(駐留軍用地特別措置法)の改悪を、さらに改悪しようとするものである。地方分権推進委員会は、地方分権あるいは地方主権を進めるためのものなのに、このように中央集権を進めているのにはあいた口がふさがらない。
 現在、米軍用地強制使用にかんして知事・市町村長などが四件の事務を委任されている。その四件のうち三件を国の事務としたうえに、新たな用地の強制使用にかんして最終的な裁決権を首相にあたえるなど、今度の改悪は強権国会につながるものだ。自民党沖縄県連の会長でさえ、「国がそこまでやってはいけない」と朝日新聞紙上でコメントを発表しているほどだ。
 米軍用地のために地主の土地を取りあげる行為は、沖縄県においてのみおこなわれている。この行為自体、沖縄県民の主権を著しく踏みにじるものである。にもかかわらず、かろうじて残された知事の権限さえ剥奪しようとは、驚くべき答申案だ。しかも強制使用される土地は、県民の望まない軍事目的に供されるのである。
 沖縄県民は「小指の痛みを知らない」と政府を批判してきたが、今度の答申における政府の態度は「小指を潰しても知らない」といったものだ。これまでも太田昌秀知事は沖縄の声を国に伝え続けてきたが、現在にいたるまで国はいっさい聞く耳を持たなかった。「基地問題に抵抗する沖縄にとどめを刺す内容。特別立法と何が違うのか」(九月三日・朝日新聞朝刊)という県民の憤りに、本土の人間も耳を傾ける必要がある。
 危険なのはこれだけではない。戦後民主改革の根幹を破壊しようとする動きが、最近の政治に目立つ。
 たとえば独占禁止法の改悪だ。欧米の巨大企業と対抗できる複合企業型の体質への変化が、大競争時代を迎える日本企業にとっては有益だと、一部マスコミは書いている。しかし大企業に経済力が集中すれば、自ずから中小企業の競争力は衰える。「国益」とは、寡占状態をつくる大企業の論理、それが戦争をもたらしてきた。
 労働基準法の改悪も問題だ。六月一一日、女子保護規定が撤廃された。これによって女性の休日労働・深夜業は、男性と同様に認められることになる。一見、男女差別をなくしたかにみえるこの改訂。しかし総務庁が同月の七日発表した労働力特別調査によれば、ここ一年間で一二〇万人増えた雇用者のうち九割が非正社員で、その三分の二が女性であるという。不安定な雇用形態を容認しながら労働基準をゆるめれば、どうなるかは明らかだ。女性の深夜労働を解禁することにより低賃金の労働力を長時間確保し、経営を強化しようする企業の論理に従ったのが、今回の改悪なのである。
 農業の自由化促進も弱いものいじめだ。政府の都合のいいように振り回された米作り小農家は、自由化によって潰されようとしている。いったい今までの減反や転作の行政指導はなんだったのか。一貫性のない政府の都合だけで生活基盤をいじくり回される小農家の悲劇は、政策の転換という言葉では癒されない。

■行革は公務のコンビニ化

 そして、とどめが行政改革である。
 明治以来の大改革と呼ばれ、いかにも税金の無駄遣いをなくすということで宣伝されている行革。しかし人間にたいするサービスを安定させることに主眼が置かれるべき公的部門に、資本の論理を導入しようとしているのが、今回の行革におけるもうひとつの側面である。独立行政法人の設立や民営化の推進は、諸手を挙げて歓迎すべきことではない。
 資本の論理に徹すればどうなるのかは、コンビニエンスストアをみればわかるだろう。狭い店舗を最大限利用するために選ばれた商品群。売り上げが悪い商品を即座に見つけだすポス・システム。便利という名のもとで違和感を持たれない定価での販売。正社員を必要としない営業形態。無駄のはぶかれたコンビニは、たしかに利益を生み出している。しかし一方で近隣の商店街が疲弊と倒産をもたらした。大量生産・大量消費、画一化した商品を特徴とするコンビニは、けっして文化を豊かにしない。資本の論理が行き着く先は、大都会の荒涼たる風景である。
 さらに法務の分野でも、見過ごせない事態があいついでいる。
 神戸で一四歳の少年が引き起こしたを殺人事件を契機に、少年法の改悪が画策されている。犯罪を犯した少年を更生させる趣旨の少年法を、刑罰強化を押し出した報復主義的な法律に変えるのは強権政治の前ぶれだ。そのうえ神戸の事件のどさくさに紛れて、永山則夫被告および三人の死刑囚が一挙に処刑された。たしかに永山被告は犯行当時一九歳であり、一八歳までは死刑にしないという少年法にはひっかからない。しかし二十歳未満で、無期懲役に減刑される判決をえた者を、検察は無理やりみせしめ的に死刑台に送るべきものではなかった。

■侵略の発端は邦人救出

 軍事的にも大きな問題があった。
 邦人救出という名目で、なんの必然性もないのに自衛隊の軍用機を橋本首相はカンボジアに出発させたのだ。これは露払いというものである。とにかくいまのうちに既成事実をつくっておこうという火事場泥棒さながらのやり口である。「邦人救出」が戦争の発端となった事実は、日中戦争の歴史をみても明らかだ。過去の東南アジアへの侵略は、先に日本企業が進出し、そのあと軍隊が救援名目で駐留するいう形でおこなわれてきた。当時から「邦人救援」とは、外国における大企業の利権確保でしかなかったのである。
 ともするとカンボジアでの「救出」は、自衛隊によって観光客の命が守られるような錯覚をおこすが、軍隊が民間人を守ることは幻想でしかない。敗戦直後の満州における日本軍の行動をみるがいい。このとき関東軍は、軍隊の防波堤として開拓農民を配置した。さらに敗戦が近くなると開拓民をおいて一目散に逃げてきたのである。沖縄でもひどかった。スパイの名目で沖縄人を殺害したり、足手まといになる住民を集団自決に追いやった例は、枚挙にいとまがない。住民を守るのではなく、むしろ住民を犠牲にして延命を図るのが、軍隊の本質なのである。
 このような日本の軍事拡張路線に、米軍のやりたい放題の行動が加わる。新聞報道によれば、日本の三一にものぼる民間の港湾において、港の水深から周辺の飲食店街の様子まで軍事目的で米軍は調査していたという。これは米軍が、有事に民間施設を巻き込もうとしている証拠である。このような危険な事態を前にして、日本の政治家が国際関係をどのように考えているのかといえば、これまた目を覆いたくなるほどの惨状だ。梶山静六官房長官が「周辺有事には台湾海峡も含まれる」などと発言して、中国から反発かっているのも記憶に新しい。国際情勢に疎い日本の政治家にとっては、アメリカのいいなりしか選択肢はないようだ。
 最近の政治におけるどう猛さは、戦前への回帰と見える。しかし、このような動きに反対する声は非常に弱い。これはかつて野党第一党であった社会党が、完全に自民党に屈服し、延命を図ろうとしていることと無縁ではない。彼らの無思想・無節操ぶりをみるにつけ、かつて彼らを支持していた層をこれほど足蹴にして天罰が当たらないのかと不思議に思うほどだ。まあ、社会党の議員がどうなっても知ったことではないが、政府をチェックし規制できる勢力を持っていない大政翼賛会の現状には、国民の自業自得とはいえ不安である。
 さて、このような状況をおおい隠すかのように、マスコミを賑わしていたのがダイアナ事件である。ダイアナの死亡を契機にイギリスの王室の不備への批判が強まり、それは皇室へも波及しそうだ。しかしこの事件契機にイギリスでプライバシー法の導入が検討されているのは、さらに驚嘆すべきことである。イギリスといえば、いちおう日本よりは民主主義的にかなり成熟した国である。その国でマスコミを規制する動きがでるとは、予想もしなかった。今後、それでなくとも規制しがたり屋の日本政府に、なんらかの影響をあたえないか心配である。 神戸の事件後、『フォーカス』による容疑者の写真掲載が問題となったが、さらに問題だったのは法務省が再発防止の勧告を出したことだ。これは政府の過剰反応だった。たしかに日本の週刊誌やワイドショーは、プライバシー暴露の悪習慣があるが、かといってそれを法的に規制するなど認められるべきものではない。マスコミ内での自主的な判断によって、問題は解決すべきである。その基準は、なんのために記事を書くということである。カネのためならなんでも書くという姿勢は、ジャーナリズムの正道ではない。たとえスキャンダル・ジャーナリズムでも、一定の基準はあるはずである。
 フェデリコ・フェリーニ監督の『甘い生活』では、マルチェロ・マストロヤンニが扮する記者と、相棒のカメラマンであるパパラッチが、ローマの街をスクーターに乗って駆け回るのが印象的であった。しかし「甘い生活」という題名からもわかるとおり、この二人は極めて自己否定的な「甘い生活」をおくっている。それはラストシーンのマストロヤンニの困惑した表情に如実にあらわれていた。スキャンダル・ジャーナリストの記者にある内心の困惑が、映画を通して伝わってきたのである。おなじようなテーマは、ウィリアム・ワイラー監督の『ローマの休日』が取りあげている。この映画は、グレゴリーペック扮する新聞記者が某国の王妃に出会うおとぎ話だが、それでも王妃の写真を撮ることに対する記者のためらいは重要なテーマのひとつになっていた。現代のパパラッチたちにも、そういった報道にたいする苦悩がないはずはない。

■責任は新聞社にある

 今回の事故では、大破した車で苦しむダイアナを撮影していたカメラマンがなん人もおり、日本円にして一億以上で売りつけたという話も伝わってきている。これではパパラッチに対する批判が一斉に吹き出すのもいたしかたない。しかし問題の本質は、これまでダイアナのスキャンダルを数千万円で買ってきた新聞社にある。新聞社が金儲けのためだけにカメラマンを利用した結果なのである。カメラマンたちを使っている新聞経営者の責任が追及されることなく、哀れなフリーカメラマンに全責任を押しつけて済まそうとするのは、本末転倒だ。さらに、そのような情報を貪るように読んでいる読者も、数千万円スキャンダルを支えている共同の責任者なのである。カネのためだけに紙面を作る新聞・雑誌社、他人を不幸にしてまでもカネを稼ごうとする記者とカメラマン。今回の事件は、現在のマスコミの堕落を典型的に物語っている。
 マスコミに代表される人の事を斟酌しない現代の風潮は、資本主義が末期的な状態になってきたことを示している。職場や学校におけるいじめの続発は、このような風潮と関連している。「人間はどのように生きるべきか」を考えることなく生活している大人が現代の荒廃を招き、さらに次世代の足元を崩しているのである。(■談)

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