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保健室の片隅で/第三回 保健室で見つけた希望

■月刊「記録」1998年3月号掲載記事

*       *        *

■嫌らしい女だらけの教室

 高校に進学して、すぐにその高校が嫌になった。女だらけの教室。そこでは、みにくい女の争いも目に見えてしまう。嘘をつく人、かばう人。すぐ群れをなすグループだらけのなかでの生活は、苦痛以外の何ものでもなくて、苦しくて、悲しくて、そこにいる自分もひっくるめて嫌だった。
 仮面をかぶって教室に入ってはみるものの、やっぱり食事もろくに食べられなかった。もともと私は、人前で食事をとることが苦手なのだが、このときは一口もダメだった。食べる気にならないわけじゃなくて、ノドを通ってくれないのだ。
 けれども、どんなに苦しくても学校を休むことは許されず、同時に逃げる場所も与えられなかった。なぜならば高校では中学のときとは違って、保健室に行くのに担任の許可が必要だったからだ。
 ところで、私が人前で食事をとれなくなったことには理由があった。幼稚園でお世話になった先生から、久しぶりに手紙を頂いて、当時の話に母と花を咲かせていた。
 そのとき私が、「私、幼稚園のときから、お弁当食べられなかった?」と聞くと、母は、「あなた、具合が悪いときにお弁当を食べたら、皆の前でもどしちゃったんだって。それで、お弁当を食べたらまたもどすからこわいって、フタを開けることができなくなったんだって」と教えてくれた
 我がことながら驚いた。今まで生きてきたなかで、一番不思議に思っていたのが、この食事ができないことだったのだが、経過した月日は長く、幼い日の記憶は薄れていて、まったくといっていいほど覚えていなかった。
 結局のところ、私は当時から人前がこわかったことがわかった。見ていたみんなの目がこわくて、そんな小さな事件さえ、心の傷になったのだ。教室が、教室のなかにいる皆が敵で、こわくて、そのなかにいるときはいつもドキドキして、緊張していることしかできない子どもだった。そういえば逃げ場を探して、よく運動場の隅の土管のなかに入り込み、ボーッと過ごしていた。「このままでいられたら、きっと幸せだろう」と思ったことを思い出した。とうとう戻ってしまった!

■とうとう戻ってしまった

 
 高校生になっても、結局、私の逃げ場は変わらなかった。おなじみの保健室へ。ただ違うところは、それが自分の学校の保健室ではなくなったこと。朝はふつうに家を出て、一度は駅まで友達と行く。それでも学校に行けなくて、どうしようもなくなったとき、駅に背を向けてひたすら歩いた。
 誰にみつかっても、なんて思われても構わないから、帰ろうと思った。どうしてそこに帰りたかったのかわからないけど、そのとき涙目で見上げた中学校は、とてつもなく大きかったことを、今でもハッキリと覚えている。
 ドキドキしながら走って、思いっきりドアを開け、保健室のなかに飛び込んで、涙がかれるほど泣いた。
 保健の先生の胸で泣きわめく私を、他の先生たちは取り囲んだ。珍しそうに見る後輩。恥ずかしさなんか少しも感じなかった。心のなかで何回も、「帰ってきちゃった」とつぶやいた。行き場がなくて、逃げ場がなくて、かばってくれる人もいなくて、私はもう少しで「存在しない人間」になりそうだったのだ。
 高校なんて行くんじゃなかった!  心からそう思った。どうして止めてくれなかったのかと先生を責めた。もともと通信制の高校に行くといっていた私に、全日制の高校へ進学するように強く勧めたのは先生たちだったからだ。進学した先で、私が教室に行けるか行けないか、そんなこと、考えもしなかったのだろうといってなじった。
 中学生のときに、「中学校の先生っていうのは、生徒をいい高校に進学させるのが仕事なのよ。その後のことは、高校側の責任。二〇歳を過ぎて犯罪者になっても、先生たちには関係ないのよ」と聞いたことがあった。
 あれは本当だろうか。本当であれば、内申書には、きっといいことばかりが書かれてあったのだろう。協調性がなくても、出席日数が足りなくても、ふつうの生徒のようにごまかされていたのかもしれない。
 そう思えば思うほど、先生や学校が憎くなって、責任転嫁だとわかってはいたけど、どうすることもできない感情のほこ先を、私はぶつけるしかなかった。ただひたすら泣き、今まで起きたことのすべてをぶちまけて、泣きながら、自分の高校生活が夢であることを祈った。
 行き場も逃げ場もない苦しみが、みんなウソであってくれることを願った。あまりにも大きな孤独感で、それは、まるで地獄へ突き落とされたような毎日だったのだ。私は叱ってほしかった。

■私は叱って欲しかった

 でもあの日、中学に帰ってきてしまった私を、どうして先生たちは温かく迎え入れてくれたのだろう。もっと冷たく突き返されるかと思っていた。けれど先生たちは、授業を中断してまで私のところに来てくれた。あの中学の、ああいう雰囲気に、いつも私は救われていたのかもしれない。
 そして「もう、学校を辞めてしまいたい」と私がいうと、「今、辞めてどうするの。がんばるって自分で決めて行ったんでしょう!」と、先生に怒られた。このとき感じた。たぶん今の私に一番効く薬は、怒られることなのだ。それをわかっていて、先生達は、私を叱り、カツを入れてくれているのだ。
 思えば、私にとって保健室とは、メッセージをもらう場所だった。そこでは心臓が痛いといえば、いろいろなメッセージつきのシップ薬を貼ってくれた。そのうち心臓が痛かったのか、心が痛かったのか、本当のことはわからなくなって、痛みが引いたとき、心のなかにはメッセージが残っていた。人が放つ言葉は、心の奥にいつまでも残り続ける。私はきっとあのとき、メッセージが欲しくて、保健室へ戻ってしまったのだろう。
 通信制の高校に入り直してから、みんなの話を聞いてみると、通信制の高校へでさえ、進学することを拒む中学の教師が多いという。願書を書いてほしいと頼んでも、断られてしまうというのだ。当然のことながら、普通高校への進学などさせてはもらえない。なぜかといえば、自分の教え子が登校拒否児だったと知られるのが恥ずかしいからだという。
 事実、担任にそう言われてしまった友達を私は知っている。彼女は、当時の担任が他校へ異動になるまで、高校へは進学できなかった。それを知ったとき、どれほど自分の環境が恵まれていたかが、さすがの私にもわかった。私は今、進学や保健室登校を認めてくれていた中学に感謝している。もし、保健室がなかったら……

■もし、保健室がなかったら・・・

 保健室を追い出された生徒は、一体どこへ行けばいいのだろう――。
 保健室に行くのに担任の許可が必要だった高校で、結果的に私は行き場を失って、中学校の保健室に逆戻りしてしまった。けれどそこにも、何度も通うことは当然できず、今度は不登校をするようになった。
 中学生の不登校と高校生の不登校では、あきらかに違う。なぜなら高校は義務教育ではないからだ。私の頭のなかには、つねに留年という二文字が揺らぎはじめ、これがかえってプレッシャーとなって、ますます足が遠のいた。
 一度、休学してプレッシャーを取り払い、落ち着いてからもう一度やり直そうかとも考えたが、そこまでしても仕方がないとわかった。どうせなじめないのだから、高校など辞めて、もっと他のことをしたほうがましだと思い、そう両親に伝えた。
 高校を辞めるという私を、両親はあまり引きとめず、理解してくれた。退学届を出したあとで、中学にその報告をしにいくと、先生たちも、「わかった」という一言を添えて見送ってくれた。
 保健室に行くために行った中学校ではなく、辞めるつもりで行った高校ではないけれど、結果的にそうなってしまった。保健室に行っていた自分を、私はずっと恥ずかしくてみじめだと思っていたし、いくら強く勧められたからといって、行きたくもない高校への進学を決めたのは、少しは世間を気にしていたからかもしれない。
 でも、学校という組織を完全に抜け出してみたら、本当にすっきりして後悔はまったくなかった。
 まず、絶望の底にいた私が、夢をもとうという気持ちになれた。養護教諭を夢見て、当時は大学検定を受けて、大学へ進学することを夢見ていた。そして、学校という組織にどうしても同化できなかった私に、義務教育時代、もしも保健室がなかったらと思うと、考えただけでもゾッとする。
 いまこうして笑っていられるのは、保健室があったからに違いない。保健室は、私のような子供にとっての避難場所なのだから。 (■つづく)

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