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鎌田慧の現代を斬る/ペルー人質事件で報道の自由を憂う

■月刊「記録」1997年2月号掲載記事(表記は掲載当時のままです)

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■報道規制は正しいか?

 ペルーの日本大使公邸占領事件は本稿執筆段階(1月17日)でまだ解決していないので、発言は難しい。けれども報道をめぐる問題については、重要なので考えてみたい。
 今回、共同通信記者とテレビ朝日系の記者がゲリラが占拠していて、政府が「立ち入り禁止」にしていた日本大使館公邸内に入った問題についてまず感じたことは、この事件にたいする対応によって、日本のジャーナリズムが、ますます報道規制を受け入れやすくなるのではないかという不安だ。というのも、新聞社やテレビ局の記者は「企業内記者」であり、記者本人の判断ではなく社員として命令系統にたいする服務義務が彼らの重要な柱になっている。読者の知る権利よりも、上層部の意向、それが強まらないかどうか疑問だ。
 この事件に対するさまざまな反応をみていると、現場にいる個人の記者が独自に判断しにくくなるような傾向が現れていた。取材はあくまでも取材者の判断と責任においてなされるはずだが、会社側の決定によって、政府に謝罪したり、チェックされたりすることが、これから増えるのではないかと心配している。
 たとえば、朝日新聞(1月11日夕刊)には、つぎのような記事が掲載されている。

 -ペルーのパンドルフィ首相は10日夕(日本時間11日朝)、リマの大統領府で内外報道陣と会見し、日本大使公邸に入って国家警察テロ対策本部に拘束されたテレビ朝日系・広島ホームテレビの人見剛史記者(26)とペルー人通訳の行動について、テレビ朝日側が「残念で不適切な行動だった」として事実上の謝罪をしたことを明らかにした。2人の身柄は「数時間以内に釈放されるだろう」と述べた。
 テレビ朝日側と話し合った結果、テレビ朝日側は(1)自主的に記者を交代させる(2)取材陣に不適切な行動をとらないよう注意する、という2点で合意。没収した取材テープ2本について、パンドルフィ首相は「政府に没収する権利がある」としながらも、テレビ朝日側や内外の報道機関からの要請もあって、「特例」として東京の本社に直接返還する、と述べた。-

 その前日には、三塚博蔵相(首相臨時代理)が、「記者を帰国したら事情を聴く」などとバカげた発言をしている。どんな権利があるというのだ。越権行為そのものである。
 この問題の背景には、ペルーの政治情勢が絡んでいる。当然のことながらゲリラの発生には、フジモリ政権が行ったゲリラへの強圧政策にたいする反発がある。このようなことはあまり報道されておらず、ただゲリラ側の行為を伝えるのが人質の生命にかかわるというようなパターン化した言い方で報道規制が行われているだけである。問題なのは、ゲリラを発生させているペルーの政治であり、突入を防げなかった政府の無能であり、メンツだけで解決を長びかせているフジモリ政権の態度である。報道はいつでも自由であらねばならず、報道の責任とは、その結果である。本当に報道によって、人質の生命が危険になったかどうか。冷静に考えるべきだ。
 共同通信の場合も、朝日系の記者の場合も、記者本人の判断によって取材したにもかかわらず、共同がさほど問題視されることなく、テレ朝だけが謝罪をともなうことになっているのも妥当ではない。政府が強制しやすい媒体なのだ。
 報道の自由の権利とはそれ以上でもそれ以下でもない。誘拐事件の時に誘拐された人間の生命にかかわるという理由で、報道を規制したり、プライバシーにかかわる問題を自己規制するのは、あくまでも例外なのである。いつの時代でも、報道は報道する者の自由と責任においてなされなければならないという原則は貫かれるべきである。
 ペルー政府は一貫して報道規制をしてきたが、報道規制をすることがゲリラとの交渉に有利だというのなら、報道がなぜ人質の生命にマイナスになるのかを明らかにしなければいけない。それなしに人質の生命を損なうとの理由で報道を抑えるのは、権力側の戦略的な報道コントロールである疑いがきわめて濃厚である。
 私たちには、1990年の湾岸戦争の時、報道が完全に米軍にコントロールされたという苦い経験がある。権力側は常に報道をコントロールしたがるものだ。実はそのような権力の報道規制を破っていくのが報道するものの任務なのである。
 大使館公邸の中がどうなっているのかを報道することは、積極的な意味があるはずだ。それをたんなる政権の交渉技術に矮小化してはいけない。人質の状況をあるていど客観的に報道することは、むしろゲリラのやっている行為を判断する基準になるはずだし、報道がゲリラの一方的な声をひろめるという批判は、それを受け取る側の判断や知りたいという権利を奪うものである。

■ペルー政府情報の垂れ流し

 今回の場合は、まだトゥパク・アマル革命運動の実態が明かにされておらず、一方ではテロリスト、一方ではゲリラ、また一方では犯罪者集団との酷評もある。しかし彼らの要求が、これまで政治犯として逮捕された仲間の釈放であることを考えれば、政治犯として扱うべきだろう。
 政治犯の要求をすべて遮断してしまうことは、政治犯を弾圧している権力の側に加担することである。わたしはテロリズムには反対であるが、報道の自由というのは政治犯の声も明確に伝えていく義務もふくんでいる。トゥパク・アマルがどのような集団なのかは、事件が解決してみないとはっきりしたことがわからないが、とにかくいまの判断基準は、ペルー政府が垂れ流す情報に支配されている。
 繰り返すが、このような時にゲリラ側の主張を聞き、人質の状況を報道するのは、報道者に与えられた任務であり、抜け駆けだとか、人質の安全を阻害するとかと批判すべきものではない。安全を阻害するというのなら、どのような形で報道が人質の生命を脅かすのかをはっきり公表して批判すべきだし、すきあらば強行突入しようと構えている政府の硬直した姿勢こそ問題だ。
 これで思い出すのが、68年に静岡県の寸又峡の温泉旅館に在日朝鮮人が銃をもって立てこもった、「金嬉老事件」である。この場合も、在日朝鮮人の圧迫された民族の意見を公表する場として、金嬉老は報道陣と交渉して記者会見を開いた。これも普段の状況では、彼ら在日朝鮮人の声が反映しないという金嬉老の焦りから起こった事件であったが、この時に報道各社は、それなりに金嬉老の声を伝えていた。
 とはいえ最終的には、報道陣の中に混じっていた私服刑事が、記者会見の場で逮捕するというマスコミ史上の大きな汚点を残している。つまり、新聞記者は、私服刑事が報道陣を装って一緒に入っていたのにもかかわらず、むしろその状況を黙認することによって逮捕に協力したわけだ。警察と報道を一体化して、報道よりも逮捕を優先させた報道上の恥部だった。
 今回の場合も報道陣に私服警官が紛れていたという情報があり、赤十字が厳重に抗議したと伝えられるが、この抗議はまっとうな行為である。報道者は警察の片棒担ぎであってはならない。
 権力は報道を規制してでも権力を行使したがるものだから、報道者は規制を打ち破って、権力の暴走を防がなくてはいけない。過去の歴史に目を転ずれば、宣戦に至るまでの権力側に不都合な情報を報道規制によって遮断した結果、何も知らない国民が戦争に駆りだされた歴史ともいえる。常に権力をチェックするのが報道の役割だと、改めて肝に命じる必要があるだろう。

■報道の自由への挑戦行為

 報道が規制されている場合、報道者の側からも報道規制を打ち破る行為が必要である。ところが、残念なことに、それは批判されがちだ。日本の場合は、記者クラブ制度が強固なため、「抜け駆け」はとかくヤリ玉に上げられやすい。たとえば、私が雲仙普賢岳の噴火に関する取材で島原の立ち入り禁止区域に入って報道した時に、「地域住民の(鎌田の取材に)感情を逆なでにした」という報道があったが、まったくデタラメだった。住民は自分たちが住んでいた地域の状況を知りたがっていたし、報道されたことによって、初めて情報を得られた、とそのあと感謝されたほどである。
 今回の事件でも、人質がどういう状況にあるかを報道することは、人質および人質の家族にとっては重要だ。それを規制することは、人質の人権を軽視し、強権によって事件を暴力的に解決しようとする政府の姿勢を支持することにつながる。
 なぜならば人質としてとらわれている人たちは、すこしでも自分に関する情報を家族に与えたいと思うし、交渉の道をひらかせて、平和的に解決することを心から願っているはずだからである。
 報道はつねに、「国益の妨げになる」「政府に不利益」「企業のためにならない」などを口実に規制されようとしているし、「国家機密」や「企業秘密」の壁にさまたげられている。こんどの場合の批判は、「人質の生命」という金看板だ。これは嘘っぱちだ。わたしも島原で「人命」と「住民の反対」を理由に書類送検された(不起訴)。トヨタ自動車の内部のことを書いた(『自動車絶望工場』)ときにも、「取材方法がフェアではない」「記録性がない」などと、企業寄りの評論家たちから罵倒されたのに対して、反論した。「北方四島」の立ち入り取材では、「国家的利益」の見地から、再三にわたって外務省から呼び出され、拒否している。報道する者が、自己規制するようになることこそ、暴力的な支配を生み出すことにつながる。たとえば、ベトナム戦争での報道が、アメリカ軍の撤退をはやめた故事を思いだしてほしい。

■報道こそ人権を救う

 今回の事件では、これまでの結果をみる限り報道者とゲリラがオープンに会話をしている間は、人質の生命に危害を与えないことが保障されている。いっさい情報を遮断した状況では、軍隊の突入の恐怖がゲリラにも人質にも強まると思う。このような判断があって、共同通信の記者やテレビ朝日系の記者は自分の責任と判断において突入したのだ、と思う。
 それに対してペルー政府が、取材したビデオを政府側が押収し、ゲリラ側の発言を削除する、という。これは報道の自由に対する挑戦行為であって、フジモリ政権がいかに民主主義的感覚に薄く、報道の自由と敵対しているかを示している。
 だいたい現在のような報道規制が起こること自体が、フジモリ政権の体質を表しているわけであり、私は別にゲリラを支持するわけではないが、ゲリラを悪とすることによって、政府への批判を封じ、国際的に政府への支持を強めようとしているようだが、このように問題解決がこじれていることこそ、恥じるべきである。
 まして取材者を国家が逮捕し、長期間拘留し、取材した内容を検閲するような行為には、ペルー政府に対して報道者は抗議するべきだと思う。繰り返しになるが、ゲリラの発言を報道することは、ゲリラを有利にするともいわれているが、ゲリラの言い分が正しいか、正しくないかを判断するのは、読者や視聴者である。もしゲリラ側に耳を傾けるべき発言があったなら、それを土台に民主主義的な改善がなされるべきである。
 いま懸念されのは、ゲリラ側の疲労を待って政府が強行突入し、人質の生命を危うくすることである。そのような悲惨な結末を迎えないためにも、ゲリラと人質の状況を報道し、彼らの訴えにも耳を傾け、交渉に向けて誘導する正当な報道こそが、ゲリラを追いつめず、平和的な解決を道をつくる。(■談)

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