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阪神大震災現地ルポ 第2回/避難所から出勤する被災者

■(月刊『記録』95年5月号掲載記事)

■3月23日

  3度目の阪神・神戸の訪問である。自動車のクラクションや緊急車両のサイレンによる喧騒はほぼ消え、人々の話し声や日々の暮らしの音が聞こえた。生活の息吹が少しずつ戻っている。 
   芦屋市の高井浜仮設住宅は500戸分のほぼ9割が完成し、半分ほどが入居済みだった。小さな台所と2間で30㎡弱の広さで、13日が入居開始日だった。入居者の家族構成はさまざまだが、やはり老人が多い。敷地の中を散歩していたおじいさんが「隣とは板壁1枚だから、両方から音や声がよく聞こえてな」と苦笑する。誰かいるのかと思ったら隣の足音だったりするという。 
   西山さん老夫婦は1週間ほど前に入居してきた。倒壊するまで住んでいた市営住宅と比較して、「風呂とトイレが一緒なのが使いづらい。風呂に入ると床が水浸しになってしまう」とこぼす。考えてみれば仮設住宅に設置されたユニットバスなど老人は使ったことがないから、勝手がわからないのも無理はない。年老いた入居者は口をそろえて「風呂には往生している」と語る。これが仮設住宅の現実だ。確かに「贅沢をいえばきりがない」(西山さん)が、そんなことは被災者自身が一番よくわかっている。 
   芦屋市から神戸市東灘区に入る。倒壊家屋のうち解体が進んでいるのは3~4割か。かつて福井池公園に避難していた田中尚次さん達の6軒並びの住宅は、どれも1階部分の車庫を残し跡形もなく撤去されていた。家族で車庫暮らしを続けているのは1軒だけだ。「年内には家をまた建てられそうだ」と田中さんは明るく語るが、それにはさらに住宅ローンを重ねなくてはならない。 

 1月29日に会った小野享子さんを阪神青木駅近くのアパートに訪ねた。当時は夫と2人で隣家の屋根伝いに瓦の落ちた屋根に登って防水シートを張ったばかりで、日中に家の中を片づけ、夜は家の前の会社の独身寮に避難していた。倒れて折り重なったタンスの中から、「無我夢中で、どうやって出てきたのか自分でもわからない」状態ではい出した。その際全身を圧迫され、体調不良も口にしていたが、「今は重傷者の手当てで病院も手一杯だろうから、診てもらうのはもう少し先でいい」と気丈な人だった。 
   2ヶ月を経て東灘区周辺は電気・ガス・水道・電話総て復旧し、小野さんも「ほんまありがたい」。2月から自宅に戻っていた。2階建ての古いアパートは奥の方が少し沈んでいる。正面中央に2階に上がる鉄製の階段とそれを支える柱があり、これらの鉄骨が支えになって何とか持ったという。新旧にかかわらず、倒壊は紙一重の差で起きたのだ。先日病院で異状なし診断されて一安心。防水シートと残った瓦から軽くて落下しない瓦に葺き替えるため、さらに2回も屋根に登った。重い瓦を大量に運んだせいで腕が上がらないが、この日も壊れた家具を修理するためにカナヅチを手にしていた。「性分なのよね」と笑う気丈さは相変わらずだ。 

 三宮に向かう。阪神御影駅から先は代替バスか阪急に乗り換える。1時間待ちのバスを諦めて歩く人も多い。一緒に歩いてみると阪神御影駅まで15分、毎日の通勤を考えると大変な時間だ。 
   神戸市役所の避難住民も半分近くに減って閑散としていた。遠藤義子・美和さん母娘は1階出入口そばから2階ギャラリーの一角に移っていた。市から移るように命令されて3月9日に1日かけて「引越し」た。移る場所の手配も全くないなど相変わらず冷たい神戸市はまた、避難住民以外の被災者への食事提供も26日で打ち切ると通告していた。水道は3月初旬に完全復旧したが、中央区より西はまだガスが通らない。調理できなければどこかの店で買え、税金を使うのは嫌だから私財を使えというわけか。 
   美和さんはアルバイトをしているが、義子さんは勤務先のビルが震災で破壊されて失業したため母娘の収入は減った。自宅マンションの再建には半年から1年はかかる。仮設住宅の応募に外れれば、市内のアパートを探すしかないだろうと言う。2日後の抽選で外れた母娘だが、再募集にまた応募するつもりだ。

■3月24日

 7時頃から出勤が始まり、美和さんも同刻に市役所から職場に向かった。8時頃までが出勤のピークのようで、ポートアイランドに向かう人達と一緒に歩いてみる。崩壊したポートライナーの線路を横目に、三宮駅からは約1時間半黙々と早足で歩き続け、職場のあるビルに各々吸い込まれていった。三宮駅前からの代替バスに乗れば15半で着くが、乗車待ち時間が長すぎる。 
   この「日常」に強い違和感を覚えた。そもそも避難所からの通勤自体が異様な光景なのだ。交通網が部分的でも優先的に復旧すれば企業は業務を再開する。被災していないか軽微な被災で済んだ市民は多少不便でも通勤を始め、引きずられるように避難住民も住む家さえ決まらないのに出勤せざるを得ない。 
   これを仕方がない・働かなければ生活できないからだと言い切っていいのか。被災者の約30万人も今なお避難所生活を送る8万人も、総人口からみればわずかであり、いつまでも震災騒ぎでもないということなのだろう。被災しなかった者達の、ある種の「冷たさ」を感じると言っては言い過ぎだろうか。 

  三宮の小野柄小学校にも多くの避難住民がいる。学校隣の生田川公園では、近くの市営新生田川住宅13号棟の被災者がテント生活を送っていた。建物は既に解体工事が始まっている。世話役の松本里子さんが「神戸市は何しとんのや。今まで現地に来て実態を見にきた者は1人もいない」と憤る。市役所から歩いて15~20分なのに誰も来ない。市からの提供は毛布1枚だけ。公園の隅に置いてある流し台と洗濯機はボランティアが調達し、テントや防水シートは各自で購入してきた。 
   被災各地では県知事や市長への怨嗟の声が充満している。住民の信頼を失っている行政に何の意味があるのか。確かに公設の風呂や銭湯も開き、水道も復旧、入浴や洗濯も可能になった。避難所生活を送る上での人心地がつくようにはなっているが、その先の避難住民の生活を改善する方策は止まったままで、仮設住宅がいつ完成するかも入居できるかもわからない。前日に訪れた東灘区の「西青木公園テント村」の住民達も「仮設住宅に入れなければ、ここにいるしかない」と半ば絶望的になっていた。生田川公園でも、息子と2人で登山用テントで暮らす小橋千津子さんが「梅雨になったら辛い。それまでには仮設住宅を建ててほしい」と語った。長い間の使用でテントが歪み始め、周囲をベニア板で囲い、防水シートで覆った。材料もすべて小橋さんが購入してきた。 

 復興には「公私」の差別があった。ライフラインも「公」を優先的に復旧させ、鉄道や道路など「公」の性格を伴う交通網も段階的にだが復旧しつつある。企業活動(本来は私企業なのだが)も再開した。しかし、仮設住宅を始め家庭用ライフラインなど被災者の私生活を支えるための「私」の復興は常に後回しにされている。これはある意味で、震災直後の極限的な状況よりも異常なことだ。
(■つづく)(和田芳隆)

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