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2007年6月

だいじょうぶよ・神山眞/第3回 計算されたできレース

■月刊「記録」1999年10月号掲載記事

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■良江先生に呼び出される

「神山先生、ちょっとよろしいですか?」
 おきまりのセリフで、ぼくは良江先生に呼び出された。好きな言葉が「ジャスティス」と「強くなければ優しくなれない」というだけあって、良江先生は曲がったことや不透明なことが大嫌いなのである。
 物腰柔らかく、にこやかではあるが絶対に妥協しない雰囲気が今日も漂っていた。ぼくに頭を下げさせるまで、この人の話は終わらないのだろう。だいたい「ちょっと」といったって、本当に「ちょっと」だったことなどまだ一度もないのだ。今日もまた、「はい、わかりました」と、ぼくが言う瞬間まで話は続けられるのだろう。 六月だというのに、雨一つ降らぬ天気が続く。うだるような暑さの昼下がり、良江先生のうしろをトボトボとぼくはついていった。高校生ぐらいになると職員間の力関係がわかるようで、途中で何度も子ども達に「神山先生、また説教くらうのかよ」と声をかけられた。「うるさい」と小声で注意する。
 良江先生は、髪の毛をひっつめて頭のうしろで一つに束ね、背筋をまっすぐに伸ばして歩く。その自己管理が徹底されている背中を見ていると、いったいこの人は何歳なのだろうかと思えてくる。たしか四〇歳は越えているはずだが、年齢よりも若く見え、いや、老けているようにも思える。つまり年齢不詳なのだ。不思議なことに良江先生は、いつの時代のどの写真を見せてもらっても、同じ髪型、同じ服装をしているのだった。
 そのわけを訊ねると、本人曰く、「異性に媚びを売る生き方をよしとしない」ところからきているそうである。媚びを売らないのはいいが、その徹底ぶりときたらちょっと表現に困るほどである。とうとうぼくは、学園をやめるまでの四年の間、良江先生がいつ美容院に行ったのかまったく気づかなかったほどである。
 その徹底的に管理された背中を見ていると、思わずため息が漏れた。
 あーあ、それにしても正利。おまえは一体何をしでかしたというのだ。

■かえったら、だれもいないのよ

――なんだかね、まいんち、つまんないのよ……。ぶかつでね、いじめるひといるの。ボールとかぶつけんのね。「しんたい」「しんたい」って言いながら……。いみわかんないけど、ちょっと、いやだからやめたいのよ……。
 べんきょもつまんないのよ。いみわかんないの……。だから、ねるのよ。おれには、せんせ、おこんないよ……。ねててもおこんない。せんせは、まぁ、やさしいとおもうのね。
 がくえん?
 がくえんもつまんないとおもうのね。だって、おこずかいすくないとおもうよ、おれは。みんなもっともらってるとおもうよ。いっかげつに、いっかいじゃ、すくなすぎるのよ。もっと、ゲームやりたいのよ。――

 一つ嫌なことがあると、全部が嫌になる。正利にはそんなところがあった。それにしても確かに、IQが低く、風貌が異彩を放ち、ぼんやりして口調に特徴がある。あいつはいじめられる対象になりやすいのだろう。僕もあいつが「しんたい」「しんたい」といじめられたと聞いた時には、「かわいそうに……」と思うより先に「やっぱり」という気持ちが先に起こったくらいだ。
 で、正利、いったいおまえは今回、何をやらかしたんだ?

――そのひは、たしか、はやびきしたのよ。はやびきしても、がっこのせんせも、がくえんのせんせも、おれにはあんまり、おこんないのね。だまってると、「しょうがないなぁ、正利は」とかいってみんなわらうのよ。だから、だいじょぶよ、おれは。
 はやびきして、かえったら、だれもいないのよ。それで、ちょっと、おかね、さがしてたら、あったのね。さんまんえんも……。すこしびっくりしたし、すごくうれしかったよ。そのときは……。――
 あいつは若い保母のサイフから三万円、そして僕のサイフからも少しずつ、小銭で数千円を盗んでいたらしいのだ。

■事前にすべてが決まっている

  「じゃあ、もう一回言わせてもらいますよ。正利はねぇ、動物なの!」良江先生が、さっきから僕を前にして説教を続けている。
  「はぁ、そうですかねぇ」僕は精一杯のんびりと構えてみせた。
  「動物はねぇ、悪いことをしたら、痛いめにあうってことを体に覚えさせなきゃいけないんですよ、わかります?」言葉はていねいだが、どうやら僕の態度が気に入らないようで、良江先生はかなり苛立っているように見えた。
 学校の成績はオール一。IQは72。挨拶ができないあたりも含めると、確かに正利は動物並みかもしれなかった。だからあいつを動物のように調教すべきだと、良江先生はいうのだ。
 けど、無理だよ。僕には無理だ。そもそも僕は怒ることが大の苦手なのだ。それにだいたい怒ったところで何も変わりやぁしないじゃないか。人間なんてもともと悪い生き物なんだ。ましてやあいつは親に捨てられたんだろ?
 IQが80以下なんだろ?
 するよするよ。悪いことの一つや二つ、当たり前じゃないか。いちいちきーきー、きーきー大騒ぎするんじゃねえよ。
  「聞いてる?」「はぁ……」
 はぁしか言わぬ僕に業を煮やしたのだろう。ついに彼女はこう言い放った。「ぶん殴っちゃなさいよ」「はぁ?」「憎いでしょ? 頭にくるでしょ? あいつは神山先生のこと裏切ったのよ? 殴っちゃいなさいよ! 私だったらボコボコにしてるわね!」
 体重120キロの保母が腰に手をあてて大きな声で叫び、気がつくと僕は4、5人の保母に取り囲まれていた。好奇心をもろに顔に出したまま、ニヤニヤ立っている彼らを見ていると、僕は急激に脱力感に襲われた。
 いつもそうだ。いつだってそうなんだ。この人達は誰か職員が問題を起こすとなにげなく、どこからともなく集まってくるんだ。タバコを吸いに来るふりをしながら、ジュースを飲みに来るふりをしながら、一人ずつ集まってくる。じりじりと近寄ってきては、いつのまにか当事者を取り囲み、好奇心一杯の顔で話に参加しているんだ。
 いつだってそれらは断じて偶然ではないのだ。事前にすべてが決まっているのだ。誰がぼくを呼び出すか、どういう道筋で話を進め、どういった結論にもっていくのか、誰がいつどこで登場するのかまで、細部にわたって計算されているできレースなのである。
 しょうがないな。こう取り囲まれちゃ、選ぶべき結論はただ一つだ。
 僕は意を決して立ち上がり、大きな声で宣言した。「じゃあちょっと行って、ぶん殴ってきます」良江先生が満足そうにうなずいた。
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 あいつを無事殴ることに成功すると、とたんに誰もが優しくなった。良江先生も機嫌が良くなり僕を仲間として認めてくれた。
 職員会議であいつの盗みの件を報告しても、職員達の反応は実にあっさりしたもので、なかには報告の最中に楽しそうにゲラゲラ笑う者までいた。通常、問題を起こした児童の担当職員には、四方八方から辛辣な意見が浴びせられ、顔を上げることすらできなくなってしまうものなのだが、僕が正利を殴ってきたことが、良江先生から保母達全員に十分伝えられていたようで、まったくとげとげしい雰囲気にはならなかった。
 しかしホッと胸をなでおろしたのもつかのま、この事件をきっかけに、待ってましたとばかりに、僕の指導方法に抜本的なメスが入れられることになったのだった。 (■つづく)

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保健室の片隅で・池内直美/第五回 拒食・過食・共依存

■月刊「記録」1998年5月号掲載記事

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 若い女性にとって、「太る」は恐怖の体験だ。私も二度ほど体重の激減を体験した。最初は一〇代後半のちょうど高校に入学した頃だった。食べたいのに、食べ物がノドを通ってくれない。約二年後に同様の症状が再びやってきた。聞けば私と同じような状態が若い人の間で増え続けているという。正確には「拒食症」や「過食症」といった言葉の範囲には属さないが、それに近い状態にある人が増えているのだ。
 拒食や過食嘔吐のことをご存じの方は多いと思うが、私の拒食はそこまではいかない。時々ものが食べられなくなったり、自分でも気づかない間に食べすぎ、すぐに吐いてしまうというものだ。どうしてそうなってしまうのか? 私の場合はダイエットからだった。

■最初は単なるダイエットだった

 中学生の頃は、一五四センチの身長に対して、体重六四キロという中途半端なデブだった。
 極端なデブも嫌だけれど、この中途半端な体型は悲しいほどに私を悩ませた。またダイエットして体重が減っても、お腹がへこまなかったことが、極端な食事制限に走るきっかけになった。それまでは保健室でも給食を食べていたのだが、ダイエット後は、「胃かいよう」という理由をつけて、お弁当を持っていくようになった。
 母親が作ってくれるお弁当には、胃にやさしい温野菜と少しのご飯、そしてプリンをいつも入れてくれた。でも私が口にするものは、プリンだけ。そんな生活を続けるうちに、それ以外のものがだんだんノドを通らなくなった。
 けれど、私がお弁当を持っていった本当の理由は、あまり食事をとることができないということを、親に気づいてもらいたかったからかもしれない。ただし、これは今になって、振り返って思うことである。当時は、自分でも、ダイエットと拒食症隠しを兼ねておこなっているつもりだった。
 このあたり、拒食症の原因の一つに思い当たる。拒食症になる人は、「親が心配してくれる」ことを望んでいるのだと、何かの本で読んだことがある。それだけ安心できないのだろう。人に心配されて、はじめて自分の存在を確認することができる。逆にいえば、心配されていなければ、自分の存在に自信を持てないということなのだ。
 食べなければ心配してもらえる。心配されれば安心する。安心すれば生きていける。そして、食べられるようになるか?
 いやいや、ところが現実は、そう簡単には進んでくれない。安心できるようになって、いざ食事をしようと思っても、今度は食べられなくなってしまうのだ。
 食べたいのに食べられない。ここではじめて私は焦った。するとそれが大きなプレッシャーに転じ、もっともっと食べられなくなってしまう。食べるタイミングを逃してしまうと、ますますどうにもならなくなる。
 二度目の体重激減はまさにそうだった。歯科医でのアルバイトを終えて帰宅し、夜遅いからと夕飯を抜く。就寝が遅いので、昼すぎまで寝ている。これで朝食も抜いてしまうことになり、二食目をパスだ。そしてお昼ご飯は、お腹が空きすぎているので、食べすぎないようひかえ目にしているうちに、とうとう拒食ぎみになってきた。食べたいときに、食べたいものしかノドを通らなくなってしまったのだ。
 ただし、中学生の頃と違って、家のなかが安心できないというわけではなかったので、食べようと思えばふつうに食べられたのかもしれない。けれど、もしも、もしもそこで食べられなかったら、というのがこわかった。
■どんどん痩せていく怖さ

 高校に入学した頃の最初の「拒食症ぎみ」体験は、中学卒業とともにせっかくやせた体重が、元に戻ってしまったこと、それから、たまたま家で一人で食事をしなければならなかったこととが重なり、さびしさと、それに気づいてもらえないもどかしさで、心の安定を失っていた結果だったと思う。もちろんこれも、今だから思えることで、当時は単なるダイエットをしているつもりでいた。
 母は、ある日、私が食事をとっていないことに気づき、無理に食べさせようとした。しかし、当然のことながら体はそれを拒んでしまい、すでにほとんど飲み込めなくなっていた。心の中では「お母さんに嫌われる!」と思っており、食べなければいけないと必死なのに。
「どうして食べられないのッ」。ジャガイモとニンジンとタマネギをゆでて裏ごしして、固形物が何一つ入っていないスープでさえ口に入れられない私に、ついに母はそうどなった。
 二度目のときも母はあのときと同じようにどなっただろうか。当時、ふと鏡で自分の顔を見てみた。中途半端なデブは変わってはいないのだが、なんだか頬がこけている。 「ヤバイかも……」。とっさに触った胸も、なんだか小さくなったように感じる。
 あわてて飛び乗った体重計は、喜ぶべきか、悲しむべきか、今までで一番少ない記録的な数字を示していた。五キロ以上も減っている……。自分が子宮を悪くしていることに気づき、不妊症であることも知ったばかりの頃で、どんどんやせていくことが急に不安になり出した。 私も、やせてほしいところがやせず、出っぱってほしいところが貧弱な、中途半端な脂肪のつき方をしているのでわかるのだが、女性は体型を必要以上に気にしてしまう傾向がある。周りを見ても、とても太っているようには見えず、バランスのとれた体型をしているのに、モデルのような体になれないと悩む人が多い。
 だからといって、無理なダイエットをすると、女性の場合は排卵がなくなったり、月経が止まってしまうことがあるのを忘れてはならない。ホルモンのバランスが崩れると、テレビやマスコミが騒ぐ以上に生々しく自分の身に襲いかかってくるからだ。
 アルバイト先の歯医者でピルを飲んでいる患者さんの口の中を見たことがある。身体のホルモンバランスを、お腹に子どもがいるときと同じ状態にもっていくという、避妊薬のピルである。ピルを飲んでいるだけで、口の中は白くはれ上がり、たえがたい痛みがあると患者さんは訴えた。本来あるべきの身体の形を無理に変えようとすると、これほどの影響が出るのかと驚いたものだ。

■抑圧された恐れが原因

 私のなかでの拒食症とは、ダイエットから起こる女性の病気だと思っていたのだが、どうやらそれは間違いだったらしい。これまでいただいたたくさんの手紙のなかに、拒食と過食嘔吐を克服した男性がいた。「男の人でも拒食症になるんだあ」と、最初は感心すらしていたのだが、さらに話を聞いているうちに、拒食の原因は、「彼女ができないのは、自分が太っているからだ」と思い込んでいるせいだとわかった。
「恋人同士は、体型でつき合うんじゃなくて、気持ちでつき合うものなのじゃないかなあ?」。彼がその病気に悩んでいる頃に、何度そういっても、「こんなに太っている自分を、好きだなんていってくれる女の子が、どこにいるんですかっ!」の一点張りだった。
 幸か不幸か、私には中学一年生の頃から、自分の側にいてくれる異性がいた。だから、そういう気持ちにはならなかった。けれども、彼氏や彼女に限らず、太っているからといって離れていった人などはなく、またやせたからといってそばに寄ってきた人もいなかったのだが。 その彼が、もう一つ気にしていたことは、「共依存」というものだった。
 共依存。聞き慣れていない言葉だと思う。私もこの言葉を知ったのは最近のことだ。簡単にいうと、一つのことに悩んでいる人と向き合い、一緒に悩み苦しむことで、自分も同じような悩みを抱えた状態に陥ってしまうことだ。
 簡単には理解できないだろうが、私が不登校で悩んでいたとき、両親もどうしたら私が悩まなくなるのかを悩み、共にどうしようもない泥沼に落ち込んでしまっていた。これがもっとひどく、長い時間持続する状態といえば、ある程度おわかりいただけるだろうか。
 そして共依存を気にするあまり、自分が拒食症であることを人にいえずに一人で苦しんでしまうのも、その後の症状を悪化させる原因の一つではないかと、私は考えている。体を動かせなくて溜まるストレスは、運動すれば吹き飛ぶだろう。でも、心のストレスは口から吐き出す以外に出口はないと思う。
 心のストレスをストレスと感じていない人でも、知らないうちに、きちんとどこかで口から吐き出し、ストレスを発散しているはずだからだ。
 拒食症のストレスは、食べられないことや食べすぎることではないような気がする。やせはじめた当初は、もちろん好きなものを食べられないことがストレスになっている。ここまではふつうのダイエットと同じだ。しかし、ここから拒食症になるためには、自分の身体を太っていると過剰に意識するあまり、自分のなかで自分を、肥満という弊害の被害者と思い込む、被害妄想が進んでしまったからなのではないか。
 けれども、拒食症の原因は、さらに深く探れば、自分を太っていると思い込む、その自意識だけでもない。原因はもっと他のところにあるのだ。これは私の周りにいる人を見ていてもわかる。
 ある女の子は、彼氏が自分よりやせていることを気にして、食事ができなくなったという。だが本当は、両親の不仲が彼女の心に追い打ちをかけていた。
 ある男の子、先ほど例にあげた彼だが、太っていることを気にしているのは間違いないが、よくよく話を聞いてみると、父親が亡くなってしまったことで、心の支えを失ってしまっている背景がうかがえる。
 二人とも今はふつうに食事をし、何かあれば私に相談を持ちかけてくれ、充実した毎日を送っている。しかし、ときどきは、食べものを胃が受けつけないような日もあるらしい。何かを恐れ、その恐れを抑圧している、そのストレスこそが、身体と心を破滅へと追い込んでいくのではないだろうか?
 これを書きながら私は、もう一度自分を見つめ直し、自分が幸せになるためにできることを、探そうかなあ……と思っている。 (■つづく)

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ホームレス自らを語る/半身不随の体になって・三浦俊二(五六歳)

■月刊「記録」1998年11月号掲載記事

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■四歳で養護施設に預けられた

 生まれたのは、一九四二年二月だから、太平洋戦争が始まって三ヶ月後ってことになる。生まれたところは、岡山だった。
  おやじは造船工場を経営していた。大阪に本店と工場があって、工場は岡山と沖縄にもあった。従業員も一〇〇〇人くらいはいたらしい。海軍におさめる焼き玉エンジンの船を造っていたそうだが、おれには戦争のことも、造船工場のことも、小さかったから記憶にはないよ。  戦争が終わって、工場は米軍に接収された。おやじは四つあった家屋敷を売り払って、従業員の解雇手当にあてたようだ。今なら、会社が倒産したからって、そんなことする社長なんかいないよね。おかげで、それからは悲惨のドン底さ。三人兄弟の末っ子だったが、上の兄と姉は養子になって、どこかにもらわれていった。おれは大阪の養護施設に預けられた。四つのときだったよ。(※このとき、三浦さんの両眼から大粒の涙がみるみるあふれ出し、おえつに変わって、一分間ほど続いた)
  いや、大丈夫。続けられるよ。
  施設にはすぐに慣れたと思う。まだ四つだったから、わけもわからないしね。待遇も悪くなかった。そのころは、社会福祉の施設が少なかったからじゃないかな。施設の人が「君たちの食費には、一日に一人六一円六八銭もかけている」って、よく自慢していたのを覚えているよ。
  その後、おやじは仕事を転々としたらしい。事業を起こしたり、流し台の販売をしたり。だけど、どれもうまくいかなかったようだな。おやじやおふくろが施設まで会いにくるということもなかった。そんな余裕もなかったろうし、いろいろ事情もあったんだと思う。(またしばらくおえつする)
  その施設から、小学校、中学校に通ったが、「施設の子」だからって、いじめられたりすることもなかった。あのころは、全体に貧しかったし、戦災孤児もいっぱいいたからね。中学校を出て、二年制の職業訓練校にやってもらって、鋳物のことを習った。
  それで訓練校を出て、大阪の鋳物工場に就職したんだ。だけど、熱とススとホコリのひどい工場で、若者にあんな職場は勤まらんよ。すぐに辞めたね。それから東京に出てきた。
 東京に来てからは、いろんなことをやってきたよ。まず、航空自衛隊に入った。勤務先は隣の埼玉県にあるジョンソン基地、今の入間基地だ。そこでは戦闘機の部品の整備や取り扱いをした。四年で除隊になって、三曹までいった。昔の上等兵だよ。
  自衛隊にいたとき、ボイラー取り扱いの資格を取った。資格を取るのが好きでね。その後も、冷凍機、危険物、転圧ローラーなんかの資格を取ったよ。そういう資格を生かしながら働いたんだけど、やっぱりボイラーとか空調関係の仕事が多かったね。
 ただ、四五歳をすぎると、普通の会社に就職するのは難しくなる。相手が信用しなくなるからね。おれの場合は独身だったから、余計にそうだった。それからは建設現場で働いてきた。まあ、日雇いに毛の生えたようなもんだよ。数え切れないくらい転職したけど、そのたびに環境が合わない。めぐり合わせが悪い。おれの人生そのものが、悪いめぐり合わせなんだ。
  ずっと独身だった。結婚しようなんて、思ったこともないよ。女にカネをかけるくらいなら酒を飲んでいたほうがましだった。女にもギャンブルにも興味はなかった。ただ、ただ、酒。毎晩のように飲み屋に行って、焼酎をボトルで飲んでいたからね。給料はほとんど飲んじゃったよ。

■通行人に発見されて運ばれた

 九三年の冬の寒い晩だった。街の食堂で夕飯を食ったんだ。当然、酒も飲んだ。食い終わって外に出ると、ふと目の前が暗くなって、意識が遠のいて倒れた。普段から血圧が高かったのに、酒を飲んで、いきなり寒い戸外に出たのがいけなかったようだ。
 気がついたときは、大学病院の集中治療室に寝かされていた。通行人に発見されて、救急車で運ばれたらしい。病名は脳軟化症(=脳梗塞)。命は助かったけど、右半身はまったくきかない体になっちまった。今でも歩くのは、杖にすがってやっとの状態だよ。
  病院には半年間入院していた。ホントはもっといて、リハビリとかしないといけなかったんだが、カネがないだろう。仕方なかったんだ。
 入院治療費は兄が払ってくれた。実は、子どものころに生き別れになっていた兄と姉の住所が、その後わかって、二人とも東京で暮らしていたんだ。退院してからは、姉のところに引き取られた。兄には家族があって同居できないんで、独身の姉が引き取ってくれたんだ。姉は学習塾をやって、生計を立てていた。
  けれど、姉だって女一人でやっと食べているわけだろう。そんなところへ、半身不随のおれのようなものが転がり込んで……(言葉が途切れて、おえつする)。そんな姉に面倒をかけられないと思って、そこをこっそり出たんだ。出たからって、行くあてなんてないし、新宿に来てホームレスになるしかなかった。

■四畳半のアパートも追い出され

 おれの場合は、こんな体だろう。福祉に行けば何とかしてもらえるかと思って、新宿区役所に相談に行ってみたんだ。そうしたら区が借り上げている四畳半のアパートに入れてくれた。だけど、そのせまい部屋に六人も暮らすんだ。食事はついていたけど、酒はダメ。小遣い銭もくれないから、タバコも買えない。まあ、みんな隠れて、こっそりやってはいたけどね。そこで三年暮らしたよ。
 九八年五月には、この体を引きずって横浜まで行ったんだ。横浜のほうが、福祉の待遇がいいって聞いたからね。だけど、「今、新宿区から保護されている人を、横浜に引き取ることはできない。そういう決まりになってる」って断られた。仕方なく新宿のアパートに戻ってみると、すぐに区の役人が来て 「もう、福祉は打ち切る」っていうんだ。
 それでアパートを追い出された。表向きの理由は、「禁止されている酒を飲んだ」ことになってるが、そんなことはみんなやってるからね。たぶん、横浜の役所から新宿に(照会の)連絡があって、役人がメンツをつぶされたとでも思ったんだろう。腹いせに決まっているよ。  だいたい役人なんて、態度も偉そうにして、もうあんな連中の世話になんかなりたくないね。おれはこんな体だから、堂々と福祉の世話になってもいいと思ってるんだが、「そんな気でいてもらっちゃあ困る」っていわれたし、「おまえらのために使う税金はねえ」って、はっきりいったやつもいた。
 前に福祉のことで都庁に相談に行ったら、「そういう話なら、区役所へ行け」っていわれ、区役所に行って話すと、「それは都の管轄だ」っていう。どうなっているんだ。ホームレスにも、身障者にも、それぞれ事情があるんだから、「ちゃんと話を聞け」っていいたい。
 みんな事務的に書類を処理するだけで、おれたちが明日から飯を食えなくなっても、関係ないと思ってるんだ。ホントに偉そうにしてさ。
 まあ、そういうわけで、またホームレスに逆戻りしたんだ。でも、この体でホームレスをしていくのは、つらいものがあるよ。スーパーとか、コンビニの対応も千差万別でね。親切な店もあれば、店が捨てた弁当をあさっていて、水をぶっかけられたこともある。
  夜は地下鉄のK駅で寝かせてもらってるよ。あそこの駅は親切でね。終電が出た後、ホームレスを中に入れてくれるんだ。それも朝六時までいさせてくれる。構内を汚さないっていう条件はあるけど、助かるよね。毎晩、一〇人くらいの仲間とやっかいになっている。そんなことをしてくれる駅は、ほかにはないだろう。ありがたいよ。
  今日は天気もいいから、久しぶりに友達と飲もうと思ってね。K駅から、ここ(東京都庁前の路上)までやって来たんだ。友達?酔いつぶれて、そこに寝てるやつがそうだよ。こんな体になっても、好きな酒はやめられないよね。カネ?障害者手当っていうのがあって、それで何とかやってる。でも月に二万円しか出ないんだよ。二万円で生きていくのは厳しいね。
  まあ、これも天罰なんだろうね。今まで、いいかげんに生きてきたバチが当たったんだよ。そう考えるより仕方ない。めぐり合わせの悪い人生さ。
  兄や姉に連絡?できないよ。電話で声を聞かせたりしたら、かえって心配させるだけだろう。そんなことできないよ。(またおえつを始めた) (■了)

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ホームレス自らを語る/薬だけ飲んで、飯を食ってない・佐原義行(五三歳)

■月刊「記録」1999年5月号掲載記事

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■酒乱にいたたまれず

 おれが二四歳のとき、おやじが脳いっ血で倒れてね。それきり意識のないまま、翌日には死んじまったんだ。 おやじの仕事は鉄筋工の親方で、若い衆も二〇人くらいは使っていた。おれもその下で働いていて、ゆくゆくはおやじの跡を継ぐことになっていたんだ。
 それが、あまりにも突然に死んじまっただろ。おれはまだ仕事を覚えている最中だったし、得意先のこととか、経営のこととかは何も教えてもらってなかったからね。それでも従兄弟に助けてもらったりして、何とか続けていこうとしたんだがね。
 おれは中学校を出て、すぐにおやじの下で働くようになったんだけれども、一緒に働いている親族のうち、本当は別の道を進んでいくはずだった人がいた。彼は野球が上手でノンプロに引っ張られて、そっちで活躍していたんだ。ところが、仕事中に工場の機械にはさまれて、右手中指を第一関節から落としちゃったんだ。利き手の中指が不自由になっては野球はできないから、会社を辞めて、おやじの下で働くようになったんだ。
 野球ができなくなって、やけになったのか酒におぼれていてね。それもひどい酒乱なんだ。おやじが死んでからは、それがなおひどくなって、誰彼見境なく当たってさ。若い衆もどんどん辞めていって、一〇人くらいに減っちゃったんだよ。
 おれも一年くらいは我慢したんだけどね。とてもいたたまれなくて家を飛び出しちまった。二五か六のときのことだね。
 おやじはいいおやじだったよ。酒も飲まなかったしね。でも、仕事の上では厳しかった。おれにはどこの現場に行くのも自転車しか許してくれなくて、東京・板橋の家から川崎市の現場まで自転車で通ったことだってある。
 おれの場合は、若い衆が来る前に現場に行って、仕事の段取りをつけておかなくちゃならないだろう。だから川崎に行くときなんか朝五時には家を出たよ。冬の朝暗いうちに出て、自転車で通うのはつらかったね。

■競輪で一日二〇〇万円稼いだ

 家を飛び出てからは、ずっと土工をやってきた。まあ、おやじの急死がなかったら、おれの人生もずいぶん変わっていたと思うけど、いまさら考えてもしょうがないよね。
 もっとも日雇いの土工でも、景気のいいときはあったんだよ。おれの場合は鉄筋の仕事もできたから、そんなのを手伝うと割増がもらえたりして、一ヶ月に六〇万円も稼いだことだってあるんだ。
 稼いだカネは、酒とギャンブルに使っちゃったね。競輪が好きでさ。関東一円の競輪場で行かなかったところはないもの。宇都宮や前橋あたりまで行ってたからね。 競輪の面白さは、自分で展開を推理するところさ。ピタリと当たって、一日で二〇〇万円になったこともあるからね。うそじゃないよ。
 その競輪も、もう一年以上もしていないな。仕事がなくて賭けるカネがないからね。五〇歳を超えると、途端に仕事を回してもらえなくなる。それにおれは血圧が高くてね。上が二二〇あるんだ。今はどこの現場も健康診断がやかましくて、「血圧が高い」ってだけでハネられちゃうんだから。
 景気のよかったころは、血圧が少しくらい高くたって外国人労働者だって、誰でも彼でも働けたんだよ。今、大手建設会社の現場に行ってごらん。外国人なんて一人も働いてないから。現金なもんだよね。
 おれだって仕事さえあれば働きたいよ。今は土工の仕事もほとんど機械でやるんだから、昔ほど肉体労働じゃなくなっているからね。仕事の要領はわかっているし、まだ働ける自信はあるんだ。だけど、働かせてもらえないんだからしょうがないよ。

■悪いホームレスが増えた

 ホームレスになったのは、九八年の夏からだね。新宿に近い高田馬場の公園で夜だけ段ボールの小屋を作って寝ている。暮らしていくのには新宿のほうが便利なんだけど、ホームレス同士のケンカが多いし、ちょっと油断すると物が盗まれたりと、物騒だからね。ちょっと離れた高田馬場のほうが静かで安全でいいよ。
 飯は一日に一食ありつけるかどうかって状態だから、正直いってひもじいね。ホームレスを長くやっていると、そのひもじさにも慣れるらしいけれども、おれはまだなってから一年にもならないせいか、腹が減って困る。そんなときはひたすら水を飲んでごまかすしかない。水だけはタダだからね。
 空腹を少しでも和らげるために、夜なると、あちこち歩き回って食い物を探すんだ。でも、なかなかありつけないね。そもそも、どこのコンビニが、いつゴミを出すかなんてことは誰も教えちゃくれない。そんなことをしたら、自分の取り分がなくなっちまうからね。そういう情報をつかまなければ食い物は見つからない。たまたま行ったら、食い物が捨ててあるなんてことはまずないよ。
 そういえば、売れ残りのハンバーガーをゴミとして出してくれる店も少なくなったね。このところホームレスが増えて、質の悪いのも多いんだ。そういうやつらが、ゴミが出されているその場で食い散らかすようなことをするから、店も嫌がって出さなくなったらしい。ホントに悪いのが増えたよ。
 だから今ではボランティアの炊き出しとか、差し入れが頼りだね。けれども、それだって毎日あるわけじゃない。あれだけ好きだった酒だって、正月から一滴も飲んでないんだよ。寂しいもんさ。
 血圧のほうは相変わらずだね。新宿区役所の紹介で週一回通院して、薬をもらって飲んでいる。医者は「この薬で血圧が下がらないのはおかしい」って不思議がるけど、そりゃそうだよ。薬だけ飲んで、飯を食ってないんだもの。よくなるわけないよ。薬の副作用でめまいがするくらいだからさ。
 とにかく景気だよね。景気さえよくなれば、働く意欲はあるんだからね。 (■了)

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鎌田慧の現代を斬る/悪魔の物質が日本を侵す

■月刊「記録」1998年6月号掲載記事(表記は掲載当時のままです)

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■平和利用技術が原爆に

 五月一二日、二四年ぶりにインドが核実験を再開した。米国・ロシア・中国・イギリス・フランス五ヶ国による核爆弾の独占体制は、この事件によって大きく揺らいだことになる。事件後、核保有国である五大国は一斉にインドを批判。一九七〇年に発行された核拡散防止条約(NPT)体制の崩壊が叫ばれている。
 しかし、この事件の背景としてもう一つ重要なのは、核保有国である五大国自身が核爆弾や核兵器の縮小にさほど熱意をしめしていない現実だ。冷戦が終わり緊張緩和の時代となったにも関わらず、九六年一月にはフランスが核実験をおこない、現在でも米国などは爆発を必要としない核実験・臨界前実験を続けている。こういった五大国の静かな核開発と、核保有を狙う諸各国の開発競争が核戦争の危機をさらに高めることはまちがいない。実際、インドの隣国パキスタンでも、核実験実施の動きがある。
 じつはこのパキスタンの核開発には、中国の原発技術が大きく影響しているといわれている。パキスタンの核研究施設で生産している濃縮ウランは、「平和利用」の代名詞を使い中国の原発技術が造りだした代物なのだ。 いうまでもなく原発は原爆の商業利用である。つまり、人殺しの技術を商売に転用するかたちで発展してきたのだ。その原発と原爆の関係は、核保有五大国がいずれも早期から原発を抱えていた国であり、イギリス・フランスにいたっては再処理によって、大量のプルトニウムを生産していることからも確認できよう。原発技術はいつでも原爆製造技術に転化しうるのである。
 そうなると、気になるのが日本の動向だ。
 再処理を終え、フランスからぞくぞくともどってきているプルトニウムは、国内にたまりだした。だから、日本が核爆弾をつくるのではないかという、アジア各国の疑念は晴れることはない。
 本来、再処理工場で発生したプルトニウムは、増殖炉や転換炉で使う方針だった。しかし増殖炉構想がもんじゅの事故によって事実上破綻したため、今後はプルトニウムが大量に余りつづけることになる。対策として福井県の原発地帯を手はじめに、MOX燃料を使う方針が打ちだされた。これはプルサーマル計画といわれるもので、プルトニウムとウランの混合酸化物燃料(MOX燃料)を、いまの原発施設で燃やす方法だ。だがこの急場しのぎの方法には、安全性に関する保障がまったくとれない。
 結局、原発を動かし再処理を続けようとする限り、日本は増え続けるプルトニウムの利用方法に悩まされ続けられることになる。そしてプルトニウムが余りつづければ、将来、憲法改悪とセットになって原爆製造という悪魔の道に迷い込む可能性さえある。インドやパキスタン、イスラエルなど、核開発を目指している国を批判するだけでなく、自分の問題として考える段階に日本もきているということだ。

■核廃棄物問題を知らない原発旗振り役

 だが問題は、プルトニウムの扱いだけにとどまらない。
 原発の使用済み燃料は、高レベル放射性廃棄物として、青森県六ヶ所村へはこばれている。ここでは、二〇〇三年の操業にむけ再処理工場が建設されている。高レベル放射性廃棄物の最終処分地は、いまだに決定されず、六ヶ所村にしても、一時的に受け入れているだけである。
 最終処分地をどこかにつくりあげようと、政府はあせっている。北海道の幌延町には「深地層試験場」なるものを建設し、そこでの実験を突破口に最終処分地に選定しようとしたが、住民の反対が強く、ことしの二月には科学技術庁が白紙撤回を打ちださざるを得なくなった。岐阜県の土岐市にも同様の施設が計画され、最終処分場としての疑惑がもたれている。しかし、これもさほど計画が進展しているわけではない。
 また先述したプルサーマル計画によって、またまた発生する廃棄物をどこに捨てるのかという問題も、今後の大きな課題になる。福井県などは廃棄を了承したようだが、捨てる場所さえ決まっていないのに了承するなど無責任もはなはだしい。
 そんな状況のなか、電気事業連合会(電事連)会長の荒木浩会長が、原子力委員会の懇談会で発言した内容が新聞に報道され、読むものを唖然とさせた(四月二五日『朝日新聞』)。
 荒木会長は原発推進の代表者でもあるが、なんと「電気事業者でありながら、こんなに大変な問題であることをはじめて知った」と、高レベル放射性廃棄物の問題について語ったという。そのうえ「原子力を始めた当初、(高レベル放射性廃棄物は)一生使っても、豆粒一つぐらいと思っていた」と言ってのけたというのだ。こんな程度の認識しかない男が、原子力推進の旗振りをし、日本を核汚染列島にしようとしているのだから、お粗末というだけでは済まされない。この無責任さは糾弾されるべきである。
 彼はさらに「もう少し国民に(原子力についての的確な)情報を発信してほしい」と国に要望したというが、原発反対運動では放射性廃棄物の問題を数十年も前から批判してきた。この発言によって、彼が反対意見にまったくきく耳をもたなかった事実も明らかになった。
 さらに、この日の懇談会では、これまでの方針のように廃棄物は地下数百メートルの地中層に埋めることを合意したほかに、「発生者負担の原則」から電気事業者と民間主体の組織が処分を担うことも合意されたという。これは最終的に電力会社そのものが核廃棄物の責任をもつのではなく、民間下請け企業に処分を任せるといった無責任な方針の決定を意味する。人類にもっとも危険な高レベル放射性廃棄物を、これほどいいかげに扱うとは呆れるほかない。

■原発1つで霞ヶ関ビル3個分

 では低レベルの廃棄物について処理方法がきちんと決まっているのかといえば、これまたいいかげんことのうえない。
 三月三一日に運転が停止され、解体が決まった茨城県東海村の原発は、日本における廃炉時代の先駆けともいえるものだ。だが、この一六万六千キロワットの小型原発でさえ、解体されれば、霞ヶ関ビル三個分の鉄骨コンクリートの廃棄物に変わるという。
 現在稼働している原発の多くは、この一〇倍にあたる、百十万数キロワットの発電量を誇るマンモス原発である。これを廃炉にした場合には、なんと確実に霞ヶ関ビル一〇個分以上の廃棄物となる。つまりこれから廃炉時代が進むにつれて、使用済み核燃料以外にも、膨大な核汚染物質が発生することになるのである。もちろんその始末の仕方も決まっているはずがない。高レベル廃棄物の回収処分地も決まっておらず、廃炉による廃材の処分も決まっていないのにもかかわらず、政府はいまだに原発の建設を増進しようとしている。
 四月二五日の『朝日新聞』の記事によれば、通産省・資源エネルギー庁は、二〇一〇年度までに二一基の原発増設が必要だとほざいている。そうしなければ、温室効果ガス削減の国際公約達成のため、エネルギーの使用削減が強制的におこなわれるようになるため、国内総生産(GDP)が押し下げられ、七三~二二五万人の失業者が発生すると脅迫している。
 この不況時代にさらに失業がでるぞと脅し、原発誘導にむけようとはまさしく火事場泥棒。原発にたいしての反対世論が強まり、打つ手がなくなった通産省・資源エネルギー庁の姑息なやり方がよく表れている。
 だいたい「二〇一〇年までに二一基の原発を建設する」といった数字は尋常ではない。現在、日本では一八ヶ所、五二基の原発が建設されている。これらは国内初の商業炉である東海原発の運転開始から現在まで、三二年間に建設されたものだ。一二年間で二一基という計画がどれほど強引かわかるだろう。
 じつは二酸化炭素の削減を名目にした、原発関係者の原発増設へむけての巻き返しは、日本のだけのことではない。米国でも平均寿命を四〇年としていた原発を、さらに一〇~二〇年稼働させるという恐るべき方針を打ちだしている。
 しかし、考えてみるがいい。地球温暖化という危機的現象を、もっとも危険な原発によってくいとめようという発想が、そもそも主客転倒している。人類がいま問われているのは、エネルギーの消費をどういう形で少なくし、どのような文明を創造していくべきかという選択の方法なのである。まず、今後もエネルギー需要が伸び続けることを前提にしているという、恐ろしく時代遅れな発想は根本から間違っている。エネルギー需要や産業高率だけを視野に入れた主張では、もはや誰も納得しない。

■安全性よりフル操業

 ところが原発関係者は、時代の必然ともいえる意識改革の必要性に気づいていない。その典型例が、原発における定期検査期間の短縮だ。これは稼働率を引き上げるために、定期検査による炉の休止期間を短くするというというものである。この方針により、福井県内の原発は前年度より二・四ヶ月も短縮されてた。つまり安全性よりもフル操業を選んだわけだ。
 たしかに最近、わずかながら原発の事故件数が減っている。だが原子炉を停止するほど大規模な重大事故も、全国で一二件も起こっているのである。もっと細かな事故をふくめると、福井県内の一四基だけをみても二一件にものぼるという。もんじゅは運転中止となり、ふげんは七件もの事故が発生し、敦賀原発一号機が三件、大飯発の二号・四号基でも二件ずつ事故が起こっている。このような状況で、検査日数を減らすのは自殺行為である。

■自衛隊の武器使用まで

 原発が破壊するのは、自然環境だけではない。地域の環境までも大きく変えてしまうのである。
 現在、原発周辺でよく聞かれるのは、原発の所在地付近で厳戒体制がとられていることだ。監視カメラやセンサー、警備員が大量に配置され、その結果、住民情報が原発サイドに徹底的に収集されているという。地域住民の反原発運動の高まりを警戒してのことである。
 一方で、住民の意識をうまく利用しようとする人物も現れている。ことし三月、使用済み核燃料の搬入おこなわれた青森県では、県知事の木村守男が橋本龍太郎首相に面会を要請した。このパフォーマンスは大いに話題になったが、二人が原発にたいしてどのような意見を交換したのかは、明らかにされていない。原発や再処理工場の建設、あるいは高レベルの廃棄物の搬入について、木村知事は反対を表明したことがない。そして首相の考えていることは、原発に関わる問題を既成事実化することだけだ。皮肉なことに、このパフォーマンスで明らかになったのは、強行手段を用いなければ、原発問題について首相が地元の知事と話し合うことさえありえないという現実だけだった。
 さらにもっと悪質な形で原発を利用しようという輩もいる。
 フランスから日本までのプルトニウム運搬は、以前から核ジャックが懸念され、運送護衛手段の強化が世界各国から要請されていた。現在、日本では海上保安庁が防衛にあたっているが、最近、政府内には自衛隊を活用する方針が検討され、武器使用まで確定されようとしている。警備会社や警察力では対応できないといういい方によって、自衛隊の治安出動への道がひらかれようとしているのだ。
 結局、原発は造れば造るほど、処理不能な高レベル廃棄物を発生させ、廃炉も増え、日本を放射漬けにする。そして厳戒国家となる。そればかりか各国からは核兵器製造の疑惑をかけられ、対策としてプルトニウムを燃料化すれば新たな危険を生む。そのうえ地域環境を壊し、国内の軍事態勢の強化までも導きかねない。これがどんづまりにきた、悪魔の物質「核」をとりまく現実なのである。 (■談)

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鎌田慧の現代を斬る/ご都合主義政権なクビ切りにはダンコ抵抗を!

■月刊「記録」1998年5月号掲載記事(表記は記載当時のままです)

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■将来を暗示する三人の社長の自殺

 新年度を迎えたが、日本経済は土壇場になっている。昨年度の倒産件数は一万七千四三九件に、負債総額も一五兆一千二〇三億円にも達し、戦後最悪だった前年度を六五%も上回った。大型倒産の予想記事などが週刊誌などでもしきりに掲載されているように、依然として暗い見通しにあるのに変わりはない。
 ことしの二月二六日、国立市のホテルで三人の社長が心中するという事件が発生した。これから日本各地で頻発するであろう悲劇の幕開けを感じさせる事件だった。 九六年六月期の決算において、三人の社長が経営する会社は六四億三千万円、二七億七千万円、一三億一千万円もの売上高をあげていた。金額を見てもらえばわかる通り、中堅の企業といえる。だが銀行の貸し渋りもあり、三人とも資金繰りに困って自殺していったのだ。一見、非常に特異な事件のように思えるが、よくよく見てみるとここには日本経済の将来が暗示されている。
 この事件の特徴は、自動車関連業種であったことと、三人がたがいに密接な取引関係にあったことである。好況をつづけてきた自動車業界にあって、三人はそれぞれ、車内装飾メーカー、その卸商、そして小売業者という関係にあった。しかも彼らは頻繁に会っている友人だったのだ。
 彼らは密接な取引関係にあったために、連鎖的な経済が一挙に崩壊していく。このもたれ合いは、日本の産業システムの縮図そのものだ。しかも、このような崩壊が、日本経済を長年ささえつづけてきた自動車産業で起こった事実は、経済全体の見通しに暗い影を投げかけている。
 なにも自殺などしなくともよかった。多くの人がそう考えたであろう。だが自分の身体を抵当にして保険金を貰う以外、自社の再建見通しがつかなかった事実は、いまの資本主義の根源的な矛盾をあらわしている。
 現在の不況は、橋本内閣の無責任・無能体制にある。彼らは調子に乗って財政改革などを旗印にした。年金を圧縮し、公共料金を上げ、医療費を上げ、税金を上げ、消費税を上げ、弱いものいじめを繰り返した。まさに人民殺しの経済政策だ。国民がカゼをひいている状態を知りながら、内閣は減税を止めるという形で布団をはいだのだ。結果、日本国民は四〇度以上の高熱にうなされ続けている。そんな状態に、いささか慌てたのか、ようやく今頃になって減税を含めた財政出動八兆円などを政府は発表した。だが、これも容態をずいぶんこじらせてからのハナ薬だ。
 これによって、またぞろ公共事業を増やすことになる。今の経済不安を解決するために、国の資金を使うことには反対しない。だが本当に国民のために使われるのかというと、疑問が残る。これまでの銀行の救済策とおなじような大企業救済策で、悪名高い公共事業の大幅復活で、財界寄りの政策でしかない。疲弊した国民生活を直接的に救済するには、どうすればいいのかといった方針がまったくみえない。不況を利用した財界救護策というしかない。
 橋本内閣のとんでもない経済政策として触れておかねばならないのは、こればかりではない。PKO(株価維持策)などは想像を絶するシロモノだ。この政策は株価を政府資金でつり上げようとするものだが、そもそも投機を目的とするバクチ的な株式市場に政府資金をつぎ込むなど尋常のサタではない。

■まやかしの失業率

 総務庁の発表によれば、失業率は三・六%、完全失業者は前月より八万人多い二四六万人に達した。一九五三年の調査開始以来、最悪の数字である。
 もう少し細かく見てみると、男性の失業率は三・七%。女性は前月より〇・二ポイント悪化の三・四%となっている。まっ先にリストラの対象ともなる五五~六四歳の男性の失業率は六・二%である。さらに世帯単位でとらえた世帯主の失業率は、二・七%にまで上がっている。
 だが、この数字でさえまやかしなのである。かつて指摘したように日本の失業率は、完全に失業しているものと職業安定所を通じて求職しているものを基準に統計を取っている。そのため実質的には五%前後の失業率だと考えられている。パートタイマーも家内労働者もすべて就業者に入れている数字のマジックが存在する。このようなごまかしからも、政府が雇用危機をどう考えているかわかろうというものだ。
 産業別の就業者の統計も厳しい。前年比で製造業は六四万人が、建設業では一四万人が減少している。これだけ就業者が減りだすと、これからのリストラにたいする不安もあって庶民は財布の紐をきつく締める。その影響を受け、百貨店の売り上げも一年以上もの間、下がり続けている。このまま失業者の増大、消費の低迷、コストの下落という悪循環に陥れば、待っているのはデフレ経済である。
 五〇年前のアーサー・ミラーの作品『セールスマンの死』とおなじような状況が、日本のあちこちで起こりつつあるのだ。『セールスマンの死』は三〇年以上おなじ会社に勤めたセールスマンが、成績が悪くなったのを理由に解雇され、住宅ローンを保険金で払うために自殺する、という米国の悲劇だった。だがこの話は、対岸の火事ではない。それどころかもっと深刻な様相を呈しはじめている。
 九七年度の個人破産件数は七万一二九九件となり、前年の五万六四九四件をはるかに上回ったという報告がある。とくに住宅ローンを払いきれず破産する例は、あとを絶たない。
 不動産業者や銀行にそそのかされ、最高値で住宅を売りつけられ、無担保の融資に踊った庶民の傷は深い。家をもつような身分でもなかったのにもかかわらず自宅を構え、残業が減ったためローンが払えなくなっているケースが多い。生活水準に比べて基本給が決して高いとはいえない日本では、持ち家は残業で建てるほかない。ここにも世界一といわれた日本経済が隠しもつ貧弱さがある。
 ローンが払えなければ、家を売るしかない。だがこの不景気では売れるはずもない。結局、購入時の三分の一で競売されるといった悲劇が、無数に発生している。
 身分不相応な行動を起こしていたのは、個人だけにとどまらない。かつて金余りの日本企業は米国に進出し、米国内の不動産を買いまくった。ところが今や、日本の焦げ付いた担保物件が米国資本に買われるという逆流現象が起こっている。
 日本企業の進出は米国ばかりではなかった。アジアにも競って投資した。それが現在、大きな焦げ付きとなっている。結果どうなったかといえば、日本資本の「オーバープレゼンス」が問題になったインドネシア・タイなどの国で経済混乱が起こっているのである。アジア経済混乱を引き起こしたのは、やはり日本だったわけだ。かつての戦争とおなじような罪過を犯したことになる。
 思い返してみれば、バブル期は経営者も労働者も酒に酔っぱらったような状態だった。それをあおったのが銀行であり不動産屋であり、そこから多額の広告収入を得ていた新聞社なのだ。社会の木鐸といわる新聞の正体までがこれである。いま、必要なのは、批判的なジャーナリズムである。

■大量のリストラ予備軍

 不況を利用した極端なリストラも深刻である。
 現在、リストラ対象者は定年間近の就業者だけではない。三〇歳を過ぎればリストラの対象になる。『朝日新聞』三月二八日の朝刊には、最近の主なリストラが掲載されていたので抜き出してみた。このあとに発表されたリストラ計画も加えておいたので、眺めてみてほしい。 レナウンは五〇〇人の希望退職募集。新日軽は四〇〇人の希望退職募集。レナウンルックは二〇〇人の希望退職募集。吉富製薬は早期退職に一三二人が募集。サクラダは希望退職に一〇〇人弱が応募。鐘紡は早期退職制度などでグループ全体で一万八千九〇〇人を二〇〇〇年度に二千四〇〇人削減。全日本空輸は選択定年などで一万四千七〇〇人を二〇〇〇年度までに千人削減。大阪ガスは退職者補充の抑制などで一万二〇〇人を二〇一〇年までに二千二〇〇人削減。東急建設は出向などで四千九〇〇人を二〇〇〇年度までに九〇〇人削減。ジャパンエナジーは三千二五〇人を二〇〇一年までに七五〇人削減。ヤクルトは二千八〇〇人の従業員を二年間で三〇〇人削減。清水建設は九千人を三年間で千人削減。
 大手企業では千人規模のリストラが、当たり前のようにおこなわれようとしている。しかもこの表にはあらわれていない中小企業からこれ以上の大量の労働者が放出されるのだ。これでは庶民が消費を控えるのも当たり前である。
 もちろんリストラと同時に新規採用も減らされている。四月六日に『朝日新聞』朝刊が報じたところによれば、来春の新卒採用に関する主要企業二〇〇社を対象にしたアンケートにおいて、「『増やす』が二九社(一四・五%)、『減らす』が六六社(三三%)、『前年並』が六九社(三四・五%)、『未定』は三六社(一八%)だった。去年六月にまとめた今春の採用計画アンケート(対象百社)では、五三%が『増やす』と答え、『減らす』は一三%だった。対象数がちがうので、正確な比較はできないが、今回は採用抑制の傾向がはっきりとうかがえる」と書いている。企業は社員を欲していない。いつでもクビが切れ、人件費もかからない派遣労働者を望んでいる。ここに大きな問題がある。
 いま財界と労働者を御用学者と企業側ですすめているのが、労働基準法の改悪、労働者の総パート化、総アルバイター化である。能力賃金など、能力のないものは、「死ね」との分断政策である。

■組合意識も雲散霧消

 こういった不景気ほど労働組合にがんばってほしいのだが、相変わらず彼らはだらしがない。
 たとえば鉄鋼労使などは、二年間の賃上げを固定させる「隔年春闘」を打ち出した。来年もおなじ額の賃上げが保障されたとして、この制度を喜ぶむきもあるが、それが恒常化すると賃上げ闘争など消えてしまう。賃上げ闘争はたんに賃金を上げるばかりではない。労働運動の中心に位置する柱なのである。それが解体されてしまえば、もはや労働組合などまったく存在理由がなくなるだろう。
 いまや政府および経営者のやりたい放題が続いているが、それにたいするチェック機能はない。これが日本最大の悲劇である。現在、コミュニティーユニオンや管理職組合などが、個人個人の労働者の権利をかろうじて守っている。本来ならもっと大がかりに労働組合が対処すべきであろう。だが自分の身分の安定しか考えていない連合の幹部などには、そういった意識はまるでない。連合会長が経営者と同窓であり、おなじ様な身分であることが日本の労働運動の退廃を象徴的に物語っている。
 これから必要なのは、各現場でのクビ切りを認めず、失業者をこれ以上増やさないこと。失業者の闘争をつくり出していくこと。さらにはローンの破綻者の運動を形作ること。この三点だろう。
 現在噴出している資本主義の矛盾にたいして、もっと個別な現象から大胆な運動の提起が必要とされている。 (■談)

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ホームレス自らを語る/若気の過ちが一生を決めた・高島伸夫(六二歳)

■月刊「記録」1998年7月号掲載記事

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■ポンを教わったのが運の尽き

 ……オ、おれ……う、うまく……話しが……で、でき……ないんだ。そ……そんなでも……き、聞いて……く、くれる……のかい。(彼は強度の吃音者。以下の文章は、どもりながら、とつとつと語ってくれた話を構成し直したものである)
  生まれは千葉の館山。おやじは漁師をしていた。漁師といっても、自前の船を持っているわけじゃなくて、雇われて漁船に乗る漁師のほうなんだ。
  おれは七人兄弟の六番目。兄弟は多かったけど、特に貧しい暮らしというわけじゃなかった。小学校四年生のときが、終戦。館山には航空隊の基地があっただろう。時々だけど、米軍の空襲があった。空襲警報が出るたびに、海岸べりにあった防空壕まで、走って逃げ込んでいたんだが、もうそれをしなくていいっていうんで、子ども心にホッとしたのを覚えているよ。
  中学を卒業して、おれも漁師になった。おやじがそうだったし、上の兄たちの何人かも漁師になっていたから、そうなるのが当然のように育てられてたしね。おやじが乗っている船に、一緒に乗ったこともあるよ。
  漁は近海漁業が主で、巻き網船に乗ることが多かった。二隻の船で網の両端を引きながら、魚を巻き込むようにしてとる漁で、サバやイワシなんかをとった。
  二隻の船で重い網を引くわけだから、タイミングとか、呼吸が難しいんだ。それに海の上での力仕事でもあるから、危険でもあった。だけど仕事がつらいと思ったことはなかったね。むしろ楽しいくらいだった。カネにもなったしね。そのころ(一九五一年ごろ)は、同じ中卒で工場に働きに出た連中なんかより、何倍も稼げたんだから。
  ただ、一五、六歳のガキが小金を持つと、ろくなことにならないね。漁師っていうのは、ひまなときが多いんだ。漁に出るのが朝早い分、昼ごろには陸に上がっちゃうだろう。海がしけて漁のできない日は、一日中ゴロゴロして、そんなのが何日も続いたりするからね。
  そうすると、悪い誘いがくるんだ。おれも知り合いのヤクザに誘われて、ばくち場に出入りするようになっていた。花札とか、チンチロリンとばく。ありガネを全部巻き上げられても、若いからブレーキがきかなくなって、どんどんのめり込んじまうんだ。
  それにポンも覚えさせられた。ポンっていうのはヒロポンのことで、今でいう覚せい剤だよ。ポンをやると、三日くらいぶっ続けでばくちを打っても平気なんだ。それでばくちは負けが続くし、ポン浸けだろう。借金だけが増えていく。ヤクザからの借金だから、取り立てが厳しくてね。
 どんどん追いつめられていって、泥棒でもするしかなくなっていた。ホントのところは、ヤクザがそれとなく泥棒の方法を教えてくれて、そう仕向けるんだけどね。深夜、魚を養殖しているイケスに忍び込んで、生きたイセエビとか、クルマエビなんかを盗み出すんだ。
  そのころの館山には、カツギヤのおばさんというのがいっぱいいてね。毎朝、始発電車に乗って東京まで行商に行くんだが、そのおばさんたちに買ってもらうんだ。イセエビは高く売れたよ。これもヤクザに教わったんだがね。
 ただ、せまい街だろう。すぐにバレて、警察に捕まっちまった。そのときは、まだ未成年だったし、初犯ということもあって、書類送検だけで許されたけどね。
  若いというか、ガキというか、それでも懲りないんだよね。また同じことをして捕まった。今度は重犯だから少年院に二年間入れられたよ。少年院は非行少年の更生施設とかいってるけど、そんなのはうそ。入所している先輩たちから、上手なカツアゲ(恐喝)の仕方とか、悪い手口ばかりを教わって、かえって悪くなっちまうんだ。あんなところに入って、よくなることは絶対にないね。

■地方を転々と日雇い回り

 少年院を出所すると、おれもいっぱしの悪ぶって、ヤクザとつき合ったり、またばくち場に出入りしたり、もう漁師で働く気なんてないからね。やっぱり、またカネがなくなってきて、泥棒に入った。前と同じでイケス泥棒さ。またすぐに捕まった。さすがに、親もあきれたらしくて、それで勘当されたよ。
 このときは、二〇歳になってたから刑務所に送られた。刑務所ってところも、ひどいところさ。懲罰の革手錠って知ってるかい? 片手を肩から、もう片方は腰から背中に回して、両手首を革手錠でしばるんだ。それをやられたときのつらさとくやしさといったらなかったね。 刑務官もひどかった。あれは人間じゃあないよ。刑務所のことは思い出したくもないし、これ以上いいたくもない。少年院と同じで、刑務所に入って、よくなる人間なんていないよ。
 刑務所を出たのが、二二歳のときだった。それからは、旅回りの仕事さ。日雇いの土工になって、飯場から飯場をわたり歩く生活。それを、ずっとやってきた。初めは、親から勘当されてたし、なるべく遠くと思って鹿児島に行った。その後、金沢だろ、高知、静岡、伊豆、千葉、いろんなところで働きながら、だんだんに東京に近づくようにして戻ってきたんだ。
 ちょうど、経済が成長する時代だったから、仕事はいくらでもあった。一つの現場が終わると、次の仕事が待っているような具合だった。でも、カネはたまらなかった。土工の日当は安いよ。八〇〇円くらいかな。今でも、一万二五〇〇円くらいだろ。そこから、部屋代と飯代を引かれたら、いくらも残らないもの。
 日当が安い割には、危険な仕事でね。神楽坂のビルの現場で、仲間のトビが足場から墜落して死んだのを見たよ。昔はほとんどの仕事を、人間の力仕事でやってただろう。危険も多かった。それが、今ではたいがいのことは機械がやるから、安全になった。一番変わったのが、この安全になったことだね。日当の安いのだけが、変わらないんだ。
 稼いだカネは、みんな酒で飲んじまった。仕事を終えると、毎晩飲み屋に通って一升五合からの酒を飲むんだから、カネなんてたまらないよ。結婚は考えたこともなかった。経済的にも、嫁さんを養っていく自信なんてなかったしね。刑務所を出てからは、ばくちとギャンブルだけは縁を切ったよ。これには、手を出さなくなったね。

■役所の世話になるのはごめんだ

 ホームレスになったのは、九〇年からだ。腰と背中が痛くて、土工の仕事ができなくなったんだ。若いころの力仕事の無理がたたったんだと思う。四〇代のころから痛み始めて、五〇を越えるともう痛くて、力仕事をできる体じゃなくなっていたね。
 福祉事務所?行かないよ。役所の世話になんか、なりたくないんだ。そのくらいなら、ホームレスをしていたほうがましだよ。ホームレスって生き方があることを知ってたから、何とかなると思った。だから、段ボールハウスに寝るのに抵抗はなかった。どうということもなかったね。
 最初は、都庁の玄関前で寝ていたんだけど、追い立てられて、新宿駅西口の地下通路に移った。そこも九六年の強制排除で追い立てられた。それで京王新線の地下通路に移ったら、そこもダメだっていう。次に東京都インフォメーションセンター前の広場に移った。そうしたら、九八年には火事だ。おれも手に軽いやけどを負った。 地下広場にも住めなくなって、今は昼間は公園のベンチで過ごして、夜はどこか適当なところで寝ている。決まった場所というのはないな。「なぎさ寮」にも行かないよ。役所の世話にはなりたくないし、これだけの荷物があるだろう。寮に入るには荷物を処分しなきゃならないんだ。これは、おれの全財産だからね。捨てられないよ。
 昼間、毎日街を四時間くらい歩いているんだ。自動販売機につり銭の取り忘れが残っていないか調べながら、代々木とか、中野のほうまで行ってるよ。多い日には八〇〇円くらいになることもある。ダメなときは、一〇円だけって日もあった。貴重な現金収入だね。
 エサ(食料)は、夜、そば屋とか、すし屋の残飯から、食えそうなものを拾ってきて食べるんだよ。ハンバーガーのときもある。
 若気のいたりというか、過ちというか、こういう生活になったのも、若いころのムチャが原因だったと思うね。どもり?いや、どもりがホームレスの原因にはなってないよ。それより酒だよ。立ち直るきっかけはあったんだが、どうしても酒におぼれちゃう。気持ちが弱かったんだね。自分がもっとしっかりしていれば、こうはなってなかったとも思うよ。
 これから先のこと?このまんまだろうね。役所の世話にはなりたくないから、このまんま変わらないよ。 (■了)

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ホームレス自らを語る/おれは巡回探職労働者・高橋茂(五〇歳)

■月刊「記録」1998年8月号掲載記事

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■結婚費用稼ぎにマグロ船に

 一八歳のときに、ある娘と家が近所同士で、子どものころから行き来があって、何となく結婚する雰囲気だった。親同士が相談したとか、田舎(青森県八戸市)の風習とか、そういうんじゃなくて、自然の成りゆきでそうなってたんだね。まあ、丈夫だけが取りえのような子だったよ。
  だから、その子とは結婚しなくちゃならないと思ってさ。結婚式の費用を稼ぐために、東京に出てきたんだ。二〇歳のときだよ。それで船員手帳を作って漁船員になって、三崎(神奈川県)のトロール船に乗り込んだ。それまでにも漁船に乗ったことはあったし、戸惑うこともなかった。仕事にもすぐに慣れた。
  おれが乗った船は近海漁が主で、マグロや、サケ、マスなんかをとっていた。漁場には四、五隻の船団で行って、競争でとり合うんだ。 「向こうは何万トンとったらしい」「こっちは何ケースとった」って具合。まあ、船主がもうけるために、そうやって競い合わせているんだけど。
  それだから、漁場では魚のいる限りとり続けるんだ。それこそ、根こそぎって感じで、これじゃあ魚がいなくなっちゃうって心配なくらいとりまくったよ。二四時間フル操業なんて当たり前。網を引いているときに仮眠して、網を巻き上げたら戦場のような忙しさだった。おれの仕事は冷凍係。とった魚を箱に氷づめにして、船倉に積み上げる仕事だよ。
 一回の航海で海の上にいるのは、だいたい三ヶ月。ただ、ずっと海の上にいるわけじゃない。船倉が一杯になると、魚の値動きを見ながら、船主と相談して、その近くで一番高い値をつけている魚市場に水揚げするんだ。終われば、また沖に戻って漁をする。その繰り返し。
  漁船員にとっては、この水揚げのときが一番の楽しみだったね。一晩、陸に上がって、みんなで飲み屋に繰り出し、思い切り酒を飲んで、女を買う。漁船員の給料は歩合制で、それに慰労金もついていたから、普通のサラリーマンなんか問題にならないくらいよかったよ。だから遊び方も豪快で派手だった。
  ただ、水揚げのために魚市場に向かっても、船がいっぱいだと岸に着けられないこともある。そんなときは、朝まで沖待ちになる。そうすると、船から海に飛び込んで、陸まで泳いで遊びに行くようなやつもいた。おれはそこまでして遊んだことはないけど、男が女とやりたいときのエネルギーだよね。「すごいなあ」と思ったよ。  それが二二歳のときにけがをしちゃってね。酔っ払って転んだ拍子に、左膝の皿を割っちゃったんだ。治療のために漁を一回休んだ。その次の航海にも誘われたけど、それも断った。揺れる船の中で、足を引きずりながら働いても、仲間に迷惑をかけるだけだろう。ハンデを負いながら働くのは、嫌だったんだ。
  漁船っていうのはチームで働いていて、一人一人の役割が、キッチリ決まっている。だから、一回ならともかく、二回も続けて休むと、代わりのメンバーが入っちゃう。チームから外されてたよ。今にして思えば、けがの治療中に遊びぐせがついちゃったのかもしれないよな。
■日雇いがうらやましくてね

 それからは、久里浜にあった水産物の冷凍倉庫の社員になって働くようになった。ああいうところは、社員のおれたちは監督をするだけで、実際の作業は日雇いの人がやるんだ。
  日雇いには毎日、日払いの賃金が支払われる。わたすのがおれの役目さ。連中を見ていると、もらったその場所で、日雇いの親方に、「競馬だ」「競輪だ」って賭け金をわたしている。親方がノミ屋をやってるんだよ。日銭が毎日もらえて、楽しそうで、うらやましかったよ。そうかと思うと、気が向かないと休んじゃう人もいるだろう。「気ままでいいな」とも思ったね。
  それでおれも社員を辞めて、その倉庫で日雇いで働くようになった。なってわかったんだけど、そのノミ屋の親方に毎日賭けていないと仕事を回してもらえないんだ。そういう仕組みだった。まあ、おれもギャンブルはきらいじゃないし、それでもよかったんだけどね。
  それより頭にきたのは、それまで同僚だった倉庫の社員たちさ。おれが日雇いになった途端に、掌を返したようにするんだからね。仕事がひまなときにタバコを吸っているだけで、どなられたりするんだから。それもおれの後輩の社員だったりしてさ。そんなところには、いつまでもいられないよね。
  倉庫の日雇いを辞めて、横浜に移った。寿町っていうドヤ(簡易宿泊所)街に住んで、港湾荷役の日雇いになったんだ。そのころは、仕事はいくらでもあった。だから、賃金を聞いて、安いと行かなかった。「三部通し」「四部通し」っていって、二四時間、三二時間を、ぶっ通しで働くようなこともさせられた。その分、賃金が倍づけ、三倍づけだったからね。
「タンククリーニング」なんて仕事もあった。原油タンカーのタンクの底に残ったスラッジ(汚泥)を片付ける仕事だよ。真っ暗な底を、はいずり回って、ペール缶にスコップでかき入れる。クソ暑い上に、油まみれになる仕事さ。
 作業は、タンクのガス抜きをして、残留ガスの検査をしてから始める。だけど、この「ガス検」がいいかげんというか、あんな大きなタンクだから全部は測りきれないんだ。どうかすると、ガスがよどんでたまっているところがある。運が悪いと、それを吸い込んでぶっ倒れる。暗いなかでの仕事だから、ペール缶をつり上げるウインチに巻き込まれて、片手吊りで持っていかれるやつとかもいた。「汚くて、危険で、きつい」3Kの代表みたいな職場だった。まあ、それだけに賃金はよかったんだけどね。
 こう話すと、まじめに一生懸命働いたように思うかもしれないけど、ホントは違うんだよ。働いてカネがたまると、それがなくなるまで遊んで暮らすんだ。それから白手帳(日雇い労働者の保険制度)を二冊も、三冊もつくって。そのころは、ドヤの判が居住証明になって、簡単に手帳がつくれたんだ。それであぶれ手当の二重取り、三重取り。そんな悪いこともしたよ。カネは、酒とギャンブルと女に消えちゃったね。

■おれはホームレスじゃない

 故郷に残してきた娘が、「ほかの男と結婚したらしい」ってうわさを耳にしたのは、二三歳のころだったかな。東京に出てきたばかりのころは、頻繁に電話で話もしたさ。けれども、だんだん連絡を取らなくなった。結婚のうわさを聞いたときには、「そうか、それもしょうがないな」と思ったよ。だって、日雇いでフラフラしているおれを、いつまでも待ってなんかくれないよね。それも仕方ないさ。
 それからは、ずっと日雇いでやってきたんだが、九〇年代前半ころから仕事がパタっとなくなった。一泊二五〇〇円のドヤ代さえ払えないんだからひどいね。不況だとか、コンテナ貿易が主流になったからだとか、外国人労働者が入ってきたからだとか、いろいろいわれるけど、おれにはよくわからないね。船が入らなくなって、仕事がなくなったことだけが事実なんだよ。
  新宿に移ってきたのは九五年のことだ。でも、新宿にきても、仕事がないのは同じだったね。あっても、港湾荷役のときより、全然日当が安いしさ。段ボールの上に寝るしかなかったわけよ。だけど、おれは今でも自分のことを、ホームレスだとは思っていないんだ。仕事さえあれば、働く意欲はあるからね。だから、自分のことを 「巡回探職労働者」って呼んでるよ。カッコいいだろう?
■クズでもクズなりに

九八年二月の火事のときも新宿にいたよ。南口に通じる地下通路を歩いていると、すごい煙のにおいをかいだ。急いで西口地下広場に行ってみると、煙がモウモウで、とても近づけなかった。助けようにも、助けられなかったね。噴水の水をくんで、バケツリレーをしたけど、消せるような状態じゃなかった。
  死んだ人には悪いんだけどさ。火事が出たのは、朝の五時すぎだろ?あの時間というは、ボランティアがおにぎりを配給した時間の、ちょっと後なんだよ。そんなころまで、腹も減らさないで、ぬくぬくと段ボールハウスに寝ていられるなんて、ホームレスでも恵まれたほうだったと思うよ。普通だったら、腹が減って四時すぎには目が覚めちゃうんだからさ。
  故郷に帰りたいとは思わないよ。八戸といえば、子どものころから災害の多い街だった。まず小学生のときに白銀大火(白銀は八戸の地区名)があった。放火だったらしいけど、家がボンボン燃えてね。米軍基地に燃え移って、ドラム缶が噴き上がるのが見えたよ。
  中学生のときが、チリ沖地震の津波。東京へ出てきた年には、十勝沖地震があった。このとき、おれはパチンコをしていたんだ。台がはじけ飛んで、パチンコ玉が飛び出してきたよ。表に飛び出すと、看板は降ってくる、薬局が火事で燃え上がるで、大混乱だった。そんな混乱のなかで、酒屋に人だかりがしているんだ。のぞいてみると、割れた酒びんの底に残っている酒を、みんなで争うようにして飲んでいた。群集心理ってやつだろうね。つい何年か前にも大きな地震があった。
  子どものころ、米軍基地でクリスマスの集まりがあって行ったことがあるよ。大きくて広いスケート場があった。生まれて初めて、ヘリコプターに乗せてもらった。ハンバーガーを食べたのも、そのときが初めてだった。本物のビーフがはさんであって、でかくて、「こんなにうまいものがあるのか」と思ったよ。今のおれの主食も、売れ残りのハンバーガーなんだよ。よほどハンバーガーがついて回る人生かと思っちゃうよね。
 こんな生活になったのも、覇気がない。逃げる人生。やる気がない。だらしない。ヤケクソの人生。自殺する勇気もない。ゴミだ。クズだ。大衆のじゃまだ・・・・。自分が弱くて、いじけていて、しっかりできないからなんだよ。
  でも、このままでは終わりたくないよ。「クズでも、クズなりに」って思うよね。 (■了)

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だいじょうぶよ・神山眞/第2回  ものすごいものの担当

■月刊「記録」1999年9月号掲載記事

*       *         *

 N学園のそれぞれの部屋には、聖書になにかしら関連した名称がつけられている。シロアム、カナン、ダビデ、シナイ……。築八〇年は経っていると思われる廊下は、ぼくが歩くたびにミシミシ鳴った。通りすがりに各部屋をのぞくと、昼食を終えたばかりの子ども達がどの部屋でものんびりくつろいでいる。
 テレビを見る子、マンガを読む子、ゲームをする子。彼らの姿は、一般家庭のそれとなんら変わらない。ただ、どの部屋からもトイレの臭い、汗の臭い、何のものだかわからない奇妙な臭いなど、独特の臭いが漂ってくる。

■新しいぼくの担当児童

  「シオン」に入ると、すでに四名の子どもがそれぞれ思い思いの格好で待機していた。周囲には、何故か興味津々といった面もちの保母が二名いる。
  「え~っ、紹介しますね? 左から児玉、小島、岡田。この三名は高校生です」
 主任のしゃべり方のトーンが先程とはうって変わって、わざとらしいユーモラスなものに変化した。案の定、高校生三人も「またかよ」といった顔つきで、主任を見上げて含み笑いをしている。冷めているのか、疲れているのか、高校生三人は、それ以外に反応らしい反応もせずに、挨拶を済ますとさっさと部屋を出ていった。
 主任は、残りの一名を指さした。
  「神山センセ、彼が実里と。ほ~ら、頭がよさそうでしょ?  実里は中学生です」
 けれど実里は挨拶をしなかった。いや、挨拶しないどころじゃなかった。口とズボンのチャックを半開きにしたままボーッとぼくの顔を見ている。心なしか異臭も放っているように思える。
 なんだ? 挨拶したくないのか? 挨拶を知らないのか? 知的障害者か? ダウン症児か? 精薄か? ぼくの頭の中をたくさんのクエスチョンマークがよぎった。ふと隣を見ると主任が大げさに困った顔をつくり、その表情をわかりやすく周りにアピールしていた。二名の保母は、実里に「挨拶しろ」という合図を盛んに送っている。だが、この少年にとっては周囲の人間も彼らの気持ちも関係がなさそうだった。間が抜けたように時間だけが流れる。そして、この瞬間こそが、ぼくと正利のファーストコンタクトだったのだ。
  「ほら、正利。挨拶しなさい。新しいパパよ」
 いつまでたっても挨拶しようとしない正利に業を煮やしたのか、主任は隣にいた一二〇キロはありそうな巨大な保母に助けを求めた。保母が冗談交じりに正利に挨拶を促すと、彼は全身をくねくねさせたあとにベコッと頭を下げた。頭を下げる瞬間、厚ぼったい半開きの唇がゆっくりと動き、同時にものすごい速さで右手が右斜め上空に伸びあがった。髪型といい、だぶだぶの服といい、全身の動作といい、体が左右対称ではないのではと思わせるほど、正利の動きはアンバランスなものなのだ。そして、そのアンバランスさをユーモアにつなぎ止めているのが、笑うとカモメみたいな形になる「つながり眉毛」だ。
  「とにかく、ものすごいものの担当になってしまった」
 これがぼくの正利に対する第一印象だった。
  挨拶を終えると、ぼくは主任に執務室という部屋に連れて行かれた。机とテレビ、それに大きなベッドが置かれている六畳ほどの部屋だ。本来は、職員が日誌をつけたり子ども面談をするための場所らしいが、なぜか三人の子どもがベッドの上に寝そべってテレビを観ていた。  「ほら、どきなさい。テレビは居間で見なさい」主任に注意されて、彼らはしぶしぶ立ち上がった。彼らはぼくをみつけるとニッコリ微笑みかけ、よろしくとか あとで部屋に遊びにおいでとか声をかけていく。なんだか先輩みたいだった。ここにもぼくが望んでいた暗く絶望的な子どもはいなかった。そういえばさっきから、まだ不幸な子どもに一人も出会っていなかった。ものすごいのには一人、出会ったけれど……。
  「どの子どもも親の事情でここに来ています。どんな事情だか、神山先生わかりますか?」主任からの簡単なレクチャーが始まった。
  「両親が死んでしまったんですね?」とぼく。
  「違います。昔はそういうパターンが非常に多かったんですけどね。それは、ず~っと昔の話です。ほら、震災孤児とかって聞いたことあるでしょ?」
  「はぁ」
  「今はほとんどの子どもには親がちゃんといるんです。いるのだけれども離婚、失踪、虐待、犯罪などの複雑な事情で親は子どもを手放してしまうんです」
   「はぁ」
 いままで見せられてきた、アットホームで学校の休み時間のようにも見える光景と、主任の話とがなかなか一致してこなかった。ここの子ども達は、学校にまともに行っていなかったので他の児童よりも学力が劣るらしいのだ。だから勉強をみてやってください。虐待に遭っていた子どもは発育が遅いことが多いので一緒に運動をしてください。そんな主任の話が実感のないまま耳に届く。
 レクチャーが終わって、ぼくはやっと解放された。少し気疲れしたぼくは、外の空気を吸いたいと思った。中庭へのドアに近づいたところで、舌足らずなのか舌が長すぎるのかわからないが、とにかく何を言っているのかさっぱり聞き取れない少年の声が聞こえてきた。
 ドアを明けると正利が叫んでいた。低学年の小学生ばかりを周りに集め、バスケットボールを手に何かを訴えているようだった。しかし、他のメンバーには全く理解されていないようで、しばらくすると、業を煮やしてついに正利は叫んだ。
  「よぉーし、おれについてこぉい!」
 その言葉を合図に、唐突にバスケットボールは開始された。小学校一、二年生を相手に、身長一七〇センチを越える中学二年生の正利が、次々とゴールにダンクシュートを決めている。
  「正利くーん、ダンクなしにしてよー」と、哀願する小学生達の声には耳を貸そうともしない。ただ、嬉々として自分のためだけにバスケットをしているのだ。その姿はまるで遅れ咲きのガキ大将がはしゃいでいるようにも見えた。そこには、不幸の形が不気味なユーモアにねじ曲げられて描かれた、ピカソ画のような子どもがいたのだ。
 とにもかくにも、僕の擁護施設における生活が、この日からスタートした。

■ついに事件が起こった…

 思春期の子どもが八〇人。しかも共同生活だ。寝坊、ケンカ、盗み、タバコ……なにかしらの問題が当然のように毎日起こっていく。しかし不思議とそれらのどれにも僕はびっくりしなかった。子ども達に対して情がわいてないせいもあったし、問題を起こしている子どもが僕の担当外だったせいもあった。
 そのことよりもついていけなかったのは、子ども達が問題を起こした時の保母の怒り方だった。あっちで「き~っ」、こっちで「き~っ」。あっちこっちで過剰反応を起こしている。まるで他人より大げさに怒ることが、本気で自分が子どもと向かい合ってる証明でもあるかのように。このヒステリックな勘違いには、いささかうんざりした。
 それでも「他人の不幸は密の味」とはよくいったもので、直接自分の身に降りかからない問題や事件に関しては、まだ、それらの光景も楽しめていたのである。しかし平和なんてものはいつの時代も長くは続かない。特にぼくの場合には……
 とうとうあいつが問題を起こしたのだ。ぼくはこの道二十年のベテラン保母である和枝先生に呼び出しをくらってしまった。
 「神山先生、正利はねぇ、動物と一緒なの。わかる?」と、和枝先生は、ぼくをにらみつけて言うのである。 (■つづく)

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保健室の片隅で・池内直美/第四回 “切れる”ナイフをポーチに忍ばせて

■月刊「記録」1998年4月号掲載記事

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■セロテープとホチキス

 九八年一月、栃木県黒磯市の中学校で一年生の男子生徒が英語担当の教師を刺殺するという事件があった。この事件に「サバイバルナイフ」が使われたことから、ナイフを持ち歩く子どもに焦点が当てられた。なぜナイフを。そういえば私もナイフを持ち歩いていた時期があったっけ……。
 中学一年生くらいの頃から読み始めたマンガのなかに、不良少女のイジメや売春、地域抗争、親や学校との関わり合いを描いたものがあった。イジメが原因で自殺未遂した主人公は、退院してから街のなかを毎日一人で歩き回り、いろいろな人と出会い、「はじめての経験」を積み重ねていく。
 そこで出会う人たちは不良と呼ばれるような人ばかりだったが、それぞれが一匹狼のように一人で強く生きている。その姿が印象的で、カッコよく、心の強さがうらやましく、自分でも不思議なくらいあこがれたことを覚えている。
 その主人公が出会った人々のなかに異母姉妹がいた。姉はいつもポーチを持ち歩いていて、ポーチの中には口紅と、ハッキリとは覚えていないが、セロテープとホチキスを入れていたと思う。よく覚えているのは、妹がケンカするときに、ホチキスを使っていたということだ。セロテープもホチキスも、小学生のときの私の「お道具箱」に入っていたものである。それをケンカに使うというのは、なんとも不思議だった。
 以前に「スケバン刑事」というテレビドラマがあり、その主人公はヨーヨーを武器にしていた。それを見てみんなが必死にヨーヨーを練習したように、私はセロテープやホチキスで自分の身を守ろうと練習した。何度も何度も自分で納得のいくまで、マンガと同じ方法で、マンガと同じようにできるまで練習した。
 それからポーチを買い、中に口紅とライター、そしてマンガをまねたセロテープとホチキス、小さな刃のにぶいナイフを入れて持ち歩いた。
 ポーチには自分流の飾りをつけた。みんながこれを見てこわがり、遠ざかってくれることを心のどこかで期待して・・・・。今、考えてみると、なんともいえない情けない話だが、当時はそれがカッコいいと思っていたのだ。
 しかし、しょせんはマンガにすぎなかった。セロテープとホチキスでは、いざというとき役に立たないことを、私はある「事件」で思い知らされた。
 男子生徒によって、私の髪の毛がナイフで切られてしまったのである。そのとき使われたナイフは、先に引いた黒磯市の事件で話題となったバタフライナイフだった。
 うまく回すことができるようになったのが自慢だったのか、彼は私の前でナイフをクルクルと回し、制服に切れ目を入れるフリをする。「切れないから」と彼は何度もそういったが、私はこわくてしょうがない。
 そして髪の毛にまで、何度もナイフを当ててくる。何度目かにジャリ、と切れる感覚が伝わって、一束の髪の毛が教室の床に舞い落ちた。私は驚いた。髪の毛とはいえ、体の一部を他人に切られた経験などはじめてだ。自分でも意外なほどショックを感じたことにも驚いた。切られたことよりも、ナイフを向けられて、ただドキドキしておびえていることしかできなかった自分にショックを受けたようにも思う。
 その後、そのナイフで誰かの制服が切り裂かれたといううわさも耳にした。
 切りにくいナイフは存在しても、絶対に切れないナイフは存在しない。だったら私は「切れやすいナイフ」を持ち歩こう。自分の身に何かが起きたとき、自分を守るのは自分しかいないのだから。
 切れるナイフを持ち歩き、それで誰かを傷つけたとしても、それは正当防衛だ。そう信じた私は、もっていた刃のにぶいナイフに、研石で鋭い刃を入れた。刃をといだことのない人間がつけた刃が、本当に鋭い光を放っていたかどうかはわからないが、このナイフならば、髪の毛などより深く相手を傷つけられるだろうと思った。
 こうして本当の凶器となった私のナイフは、その後もポーチに潜んでいた。誰にも見つけられなかったし、私がナイフを持ち歩いていることを誰も想像しなかっただろうが。

■あの頃、誰もが敵に見えた

 私が毎日保健室にいることは、学校中のほとんどの人が知っていたことだ。その保健室にいる私のところに、ある日、招かざる客がやってきた。髪の毛を切った彼と友人達である。その日は、たまたま保健室に私しかおらず、ヤバイと思ってもどうすることもできなかった。連中にされるがままに腕を取られ、カーテンで仕切られたベットまで連れていかれた。
 次の瞬間、何をされるのか考えるひまもなく、私は首を絞められていた。声にならない声で「やめて」と叫ぶ。けれど彼らはやめてくれない。逆に、もがく私を楽しんで、さらに強く首を絞めてくる。
 苦しくてバタバタもがいていると、誰かが「ヤバイじゃん」とつぶやき、急にノドに酸素が通るようになった。せきが止まらなくなり、苦しさも消えず、そのままトイレに駆け込み、胃の中のものを全部吐き出した。
 保健室に戻ったときにはもう誰もいなかった。他の人たちは何も知らずに、何事もなかったかのように、今頃、授業を受けているのだと思うと、悔しくて涙が出た。叫ぶことさえできない自分がくやしかった。私がここで、こんなことをされているということを知らない教師たちが許せなくて泣いた。
 私の身の上に「危険」という文字が浮かんだのは、これが二回目だった。「もし今度、何かあったときには、絶対このナイフで相手の顔を切りつけてやる!」と心に誓った。次は嫌でも正当防衛になるだろうから、たとえ間違えて殺してしまったとしても、殺人の罪には問われないだろうとさえ考えたほどだ。
 そのときから、私の周りは「敵」ばかりになった。
 自衛のためにナイフを持ち歩くことを考えたのは、自分の周りに味方が一人も見えなくなってしまった結果だった。周りに敵しかいないということは、自分の身に何か起きたときに、みんなが寄ってたかって便乗して、迫って来るような気がしたのだ。誰も助けてくれる人などいない気がした。今までのことを考えてみれば、それはまさに事実だったのだから。
 毎日、戦々恐々としていた私には、ことの善し悪しがわからなくなっていた。おびえたネズミは、猫にだってかみつく。あのときなら一つ間違えれば、私も犯罪者の一人になっていたかもしれない。誰でもいつでも犯罪者になる確率はあるけれど、あのときを振り返ると、本当に明日はわが身だったと感じる。

■戦々恐々とする弱い子ども達

 そして今、子どもたちは、あのときの私と同じ立場に立っている。ナイフを持ち歩くということは、確かに良いことではないけれど、彼らのなかにはカッコつけが目的ではなく、自衛用としてナイフを持ち歩いている者がいないとも限らない。
 自衛用にナイフを持っている子どもに、本当の友達がいるかどうかを尋ねてみればいい。カッコよさでナイフを持ち歩いている者がクラスにいることを誰もが容認し、何かが起こっても、きっと誰も止めようとはしないことが容易に想像できる世界に暮らしている子どものことを。
 教師さえも見て見ぬふりをする。そんな姿は、私が自分で誰よりも多く見てきた。教師は全く頼れないのだ。もちろん親だってそうだ。
 自分の子どもが傷害事件を起こしても、「子ども同士のケンカですから」と突っぱね、自分の子どもには何の責任もないと言い張る。教師が彼らを体で止めようと争えば、すぐに傷害事件として学校を訴える。
 子どもに理解を示すことと無干渉になるのとは違う。親は子どもに、ものごとへの責任の取り方を教えなければならない。親としての責任を果たさなければならない。そんなことさえできない親が増えている。だから見て見ぬふりをする教師も増えていく。
「自分で自分を守るしかないのだ」。そう、弱い子どもほど思ってしまう。そして戦々恐々として一触即発の毎日を暮らしていかなければならない……。

■我慢できない子どもが増えている

 人がいろんなものに興味をもつのは、生まれたときからもっている性というものなのだろうか。通信制高校に通い始めた頃の私にも強く興味をひかれるものがあった。それは手錠だ。手錠をかけられた瞬間の気持ちを感じてみたかったのだ。たぶん決して知ってはいけない気持ちだし、そのために犯罪を犯すほどではないが、「重い」のか「冷たい」のか、すごく興味を感じてしまったものだ。
 突然、警察署に行って「手錠をかけてください」と言ったら、きっと変な子だと思われるだろう。もっとも、手錠をかけられた気持ちを知りたいという時点で、もう十分、変なのだろうが。でも謎とは、いつまでも謎だからおもしろいのであって、そんなふうに無理なことをすれば、きっと迷惑をかけられる人が出るだろう。拳銃に触れてみたかったので、警官を襲ったという子どもがいたが、触れたいのなら、海外のそういう店に行けばいい。
 何かをしたいと思ったときに、即座に実行しないと気がすまない子どもが増えているという。まあ、今からあげるような、愛きょうのある行動なら、実行してみてもかまわないと思うが。
 車の免許を取ってから、まだ初心者運転期間中だというのに、三回も検問を通った。はじめてのときは緊張し、二回目のときはふつうに、三回目には検問の看板が見えたときから「よし、今日こそは敬礼してやるぞ!」と心に決め、警察官の横に車を止め、「スチャッ!」と敬礼した。免許証を見せ、警察官の質問に答える。「こんなに夜遅くに(午後一一時)若い女性が何してたんですか?」
 アルバイトで歯科助手をしていた私は、白衣のまま通勤していた。そのときも白衣を着ていたたのでコートを脱ぎ、警察官に白衣を見せた。それを見た警察官の目は点になり、私は吹き出しそうになるのを必死にこらえて言った。「仕事です。歯医者で働いているんです」「……ご苦労さまです。暗い夜道は危険ですから、気をつけてお帰りください」。警察官はバツの悪そうな顔で答えた。私は「ごくろうさまー」といって、また敬礼した。そして何事もなかったように車を走らせた。
 そこから家に着くまで笑いっぱなしだった。べつにお巡りさんをバカにしたわけではない。ただ単に、敬礼してみたかっただけなのだ。検問している警察官にだけでなく、道に立っている警察官にも私はきちんと敬礼している。でも、ときどき、ただの警備員だったりもするのだけれど。 (■つづく)

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鎌田慧の現代を斬る/官主主義日本とお先棒ジャーナリズム

■月刊「記録」1998年4月号掲載記事(表記は掲載当時のままです)

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■官に杭打つものなし

 日本は「民主主義国家」といわれているが、実態は「官主主義国家」というしかない。
 民主の主は、「王の頭に杭を打つ」という意味だったとも伝えられるが、いまは官の上に杭を打つものはいない。完全なる官僚独裁政治の時代である。
 デタラメ天下りとハレンチ遊興の限りを尽くしている実態がようやく明らかになった大蔵官僚だが、三月七日現在、逮捕されたのはノンキャリア官僚三人、キャリア官僚に至ってはたったの一人である。最初ノンキャリア二人を捕らえ、あとからキャリアとノンキャリアを一人ずつ逮捕したのには、キャリア官僚への検察の「気配り」が感じられてならない。その捕まったキャリアでさえ、大蔵省のヒエラルヒーのなかでは、まだ下っ端なのだ。世論を沈めるための人身御供的存在にもみえる。
 逮捕された榊原センセイは、東大法学部卒業後、二〇後半で岐阜県多治見で税務署長を務めて、らせん状に出世してきた典型的なキャリア官僚である。そんな彼が検察庁の手に掛かったのは、大蔵官僚の乱行があまりにもデタラメだったためにほかなならない。彼の逮捕は、大蔵官僚八万のなかのわずか一%しかいないキャリアの一滴でしかない。
 「(接待にかんして)自分は関係ない、ということのできる大蔵省の人間はいないと思う。だれもがある程度は見に覚えのあることだと思っている。自分もそう。その意味でも、全員がざんげするしかない」(朝日新聞・三月六日朝刊)という大蔵官僚の声が報道されれているほどだ。
 これまでキャリアは「官僚のなかの官僚」と祭り上げられ、自分が日本を支配をしているといった傲慢さを、大蔵官僚は身につけてしまった。企業からカネを貰ったり、接待を受けても当然だという意識を形成したのである。「官主主義」たるユエンである。
 しかしこのような退廃は、彼らだけで作れるはずもない。官僚汚職の構造で強力な力を発揮したのは、大企業であった。企業と官僚の相互協力によって、日本の腐敗を進めてきたのである。すでに多くの社会主義国家は、官僚の腐敗によって解体された。「官主主義」である日本もまた「国家解体」」前夜にある。

■東京三菱は我が世の春

 先述したキャリア組の逮捕と同時に行われたのは、東京三菱銀行など大銀行二一行にたいする二兆一〇〇〇億円もの公的資金援助である。これぞ大判振る舞い。

・日本勧業銀行  一〇〇〇億円
・日本長期信用金庫 二〇〇〇億円
・日本債券信用金庫 三〇〇〇億円弱
・第一勧業銀行  一〇〇〇億円
・さくら銀行  一〇〇〇億円
・富士銀行  一〇〇〇億円
・東京三菱銀行  一〇〇〇億円
・あさひ銀行  一〇〇〇億円
・三和銀行  一〇〇〇億円
・住友銀行  一〇〇〇億円
・大和銀行  一〇〇〇億円
・東海銀行  一〇〇〇億円
・三井信託銀行  一〇〇〇億円
・三菱信託銀行  五〇〇~一〇〇〇億円
・住友信託銀行  一〇〇〇億円
・安田信託銀行  一五〇〇億円
・東洋信託銀行  五〇〇億円
・中央信託銀行  六〇〇億円
・横浜銀行  二五〇億円
・足利銀行  一五〇億円
・北陸銀行  一〇〇億円

 東京三菱銀行など金融不安によって、預金者が逃げだした中小銀行の資金を集めまくり、我が世の春を楽しんでいる。それでも国の資金を受け取るという。銀行のなかで、資金を受け取らない銀行と受け取る銀行に分かれると、受け取った銀行の信用不安が発生する。それで横並びにカネを受け取る。相変わらずの護送船団方式である。はたして、これらのムダガネが貸し渋りの解消につながるのだろうか。
 この少し前に、東京郊外の国立のホテルで、三人の社長が同時に自殺するという事件が発生していたことを覚えているだろうか。不況のなかで社長が自殺をするほど追い詰められている企業は少なくない。しかも不況に追い打ちをかけているのが、銀行の「貸し渋り」である。 銀行が自分の身の安全を守るため顧客を締め上げている。バブル期、放漫経営によって土地や株を大量に買い込み、それが焦げついたのは銀行の自業自得である。にもかかわらず、一方では国の資金を使って経営の安定を図り、一方では貸し渋りによって中小・零細企業をいじめているのが、現在の銀行の姿だ。片手でカネを受け取り、片手で中小企業のクビを締めているのだから、まるで泥棒と人ごろしのセットである。
 官僚と銀行のこれだけの腐敗を前にして、国民がなんら運動を起こさないという状況もまた無惨といえる。社会主義の崩壊は「市民革命」ともいわれている。それはフハイした政府に国家にたいする市民の抵抗があってのことだった。ところがこの日本では、権力を批判する運動の先頭に立ってきた労働組合は労働貴族の連合化となり、野党は国会から姿を消した。
 大臣のポストをエサにし、政党助成金で買収することによって、どこにも反対派はいなくなったのだから、日本は自民党と財界にとって、世界でもっとも安泰な国だということになる。
 検察幹部は、「大蔵省自身が、きちんと調査すれば、局長級も含めて少なくとも一七、一八人のキャリアが辞職せざるを得ないのではないか」(朝日新聞・三月六日朝刊)と語っているという。だが大蔵省自身が内部変革をとげる可能性は、極めて低い。彼らに権力を与えすぎていたからである。
 たとえば、自主廃業した山一證券の八〇億円の債務隠しが、英国のペーパー会社を使って行われており、五年前の九三年に大蔵省はその事実を把握されていたことが判明している。
 また大蔵省の証券取引取引等監視委員会上席証券取引検査官が、今回逮捕されたが、山一證券の簿外債務について調べていた検査官幹部のワイロ・接待漬け生活も、今まで見過ごさせてきたのである。この二つ事例からも、大蔵省が簿外処理を指導していた可能性は極めて高い。
 このような行為は、多かれ少なかれ日本中の金融機関に蔓延していたはずだ。つまり日本の官主主義が解体されない限り、なんの解決にもみないことになる。
 これからの課題は、官僚機構を監視する野党がどういった形で形成されるかであり、さらには情報公開がどれだけ国民に広がるかにかかわっている。さらに東大法学部が官僚機構を全面的に支配している東大絶対体制を解体することだ。「泥棒」もそれを取り締まる検察も、どちらも東大法学部出身。これは日本社会のマンガ性をよくあらわしている。

■調書を鵜呑み?

 いまや検事が正義の味方のようになり、検事がんばれといった風潮が強まっている。しかし今度の文藝春秋の検事調書の流失という事態から、検事たちの秘密防衛も大したことがないとわかった。
  検事調書を誰が流したかについては、まだ明らかになっていないが、文春に掲載される前に各マスコミの送られていたこと判明している。新聞社はそれらの情報を使いながら、送られてきた検事調書をまた警察に手渡すという行為をしていたという。マスコミが情報操作にきわめて弱いという体質を、これらの事実は明らかにしている。
 また文春が「真実」だとしても、大々的に売り出した記事が、自分が取材した情報で作ったものでもなく、スクープでもなく、各社に流されていたものだというのも笑わせる。
 検事調書は警察調書とおなじように、「自供」によって作られたものである。その「自供」は警察官や検察官の誘導によって行われ、潤色されているというのは裁判に関心があるものの常識だ。そんな調書を鵜呑みにして発表するというのは、えん罪を増やすことにつながるだけで、なんら真実の解明につながらない。調書が誘導尋問によって作られ、のちの裁判で全面的に否認されるケースはこれまで無数にあった。自供を真実だと考えるジャーナリズムは、権力のお先棒ジャーナリズムというしかない。マスコミはそんなチェック機能さえ無くしていることが、神戸少年事件の調書に群がったマスコミの姿勢によって明らかになった。
 一方では、この事件をチャンスとして、少年法を無茶苦茶攻撃するマスコミが現れ、検事がマスコミの自主規制を主張するというとんでもない事態も起きている。いまマスコミの報道はバーゲンセールのような売らんかな主義に陥り、社会にたいしてどういう影響あたえ、社会をどう変えていくかという視点が欠如しているのである。
 さほど報道されている問題ではないが、権力と出版の関係について見過ごすことができない事件が発生しているので紹介しよう。

■警察が取引銀行に圧力

 最近、三一書房で発行された『警察が狙撃された日』という本を巡って、警察が動いていたという問題が発生している。これは警視庁本富士警察署長・石川末四郎の名前で、三一書房の複数の取引銀行にたいして、「捜査関係事項照会書」なる文書が届いた事件である。
 その内容は、「一、口座番号(当座・定期・普通)、設定年月日  二、名義人住所、氏名  三、取引状況写し  四、印鑑の写し 五、その他の参考事項」と、取引状況全般にわたっている。出版社の取引状況を明らかにすることが、なんのための捜査に必要なのか。これは捜査のためというのは口実だろう。貸し渋りが吹き荒れる状況で、銀行の融資を止めようという権力の行動が透けて見える。出版・報道・ジャーナリズムにたいするこれほど露骨な攻撃を見逃すことはできない。
 現在、日本政府は消費税の引き上げなどによって、庶民の消費を不活発にして不況を招き、その一方で中小企業にたいする銀行の貸し渋りを誘発し、そのうえ犯罪的な銀行にカネを与えている。これはかつて、アメリカの湾岸戦争を支持して、アメリカに1兆五千億円ものバカげたカネを無駄に使った時とおなじような愚政の繰り返しだ。2兆円ものカネを大銀行に渡すなら、銀行の貸し渋りで困っている企業の救済を考えるべきである。放漫経営で苦しんでいる一部の銀行の救済のために、大手銀行すべてにカネをばらまくべきではない。なにに使われるか、わかったものではない。
 これ以上、橋本内閣にバカを繰り返させないためにも、権力依存のマスコミ体質を改善する必要がある。 (■談)

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保健室の片隅で/第三回 保健室で見つけた希望

■月刊「記録」1998年3月号掲載記事

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■嫌らしい女だらけの教室

 高校に進学して、すぐにその高校が嫌になった。女だらけの教室。そこでは、みにくい女の争いも目に見えてしまう。嘘をつく人、かばう人。すぐ群れをなすグループだらけのなかでの生活は、苦痛以外の何ものでもなくて、苦しくて、悲しくて、そこにいる自分もひっくるめて嫌だった。
 仮面をかぶって教室に入ってはみるものの、やっぱり食事もろくに食べられなかった。もともと私は、人前で食事をとることが苦手なのだが、このときは一口もダメだった。食べる気にならないわけじゃなくて、ノドを通ってくれないのだ。
 けれども、どんなに苦しくても学校を休むことは許されず、同時に逃げる場所も与えられなかった。なぜならば高校では中学のときとは違って、保健室に行くのに担任の許可が必要だったからだ。
 ところで、私が人前で食事をとれなくなったことには理由があった。幼稚園でお世話になった先生から、久しぶりに手紙を頂いて、当時の話に母と花を咲かせていた。
 そのとき私が、「私、幼稚園のときから、お弁当食べられなかった?」と聞くと、母は、「あなた、具合が悪いときにお弁当を食べたら、皆の前でもどしちゃったんだって。それで、お弁当を食べたらまたもどすからこわいって、フタを開けることができなくなったんだって」と教えてくれた
 我がことながら驚いた。今まで生きてきたなかで、一番不思議に思っていたのが、この食事ができないことだったのだが、経過した月日は長く、幼い日の記憶は薄れていて、まったくといっていいほど覚えていなかった。
 結局のところ、私は当時から人前がこわかったことがわかった。見ていたみんなの目がこわくて、そんな小さな事件さえ、心の傷になったのだ。教室が、教室のなかにいる皆が敵で、こわくて、そのなかにいるときはいつもドキドキして、緊張していることしかできない子どもだった。そういえば逃げ場を探して、よく運動場の隅の土管のなかに入り込み、ボーッと過ごしていた。「このままでいられたら、きっと幸せだろう」と思ったことを思い出した。とうとう戻ってしまった!

■とうとう戻ってしまった

 
 高校生になっても、結局、私の逃げ場は変わらなかった。おなじみの保健室へ。ただ違うところは、それが自分の学校の保健室ではなくなったこと。朝はふつうに家を出て、一度は駅まで友達と行く。それでも学校に行けなくて、どうしようもなくなったとき、駅に背を向けてひたすら歩いた。
 誰にみつかっても、なんて思われても構わないから、帰ろうと思った。どうしてそこに帰りたかったのかわからないけど、そのとき涙目で見上げた中学校は、とてつもなく大きかったことを、今でもハッキリと覚えている。
 ドキドキしながら走って、思いっきりドアを開け、保健室のなかに飛び込んで、涙がかれるほど泣いた。
 保健の先生の胸で泣きわめく私を、他の先生たちは取り囲んだ。珍しそうに見る後輩。恥ずかしさなんか少しも感じなかった。心のなかで何回も、「帰ってきちゃった」とつぶやいた。行き場がなくて、逃げ場がなくて、かばってくれる人もいなくて、私はもう少しで「存在しない人間」になりそうだったのだ。
 高校なんて行くんじゃなかった!  心からそう思った。どうして止めてくれなかったのかと先生を責めた。もともと通信制の高校に行くといっていた私に、全日制の高校へ進学するように強く勧めたのは先生たちだったからだ。進学した先で、私が教室に行けるか行けないか、そんなこと、考えもしなかったのだろうといってなじった。
 中学生のときに、「中学校の先生っていうのは、生徒をいい高校に進学させるのが仕事なのよ。その後のことは、高校側の責任。二〇歳を過ぎて犯罪者になっても、先生たちには関係ないのよ」と聞いたことがあった。
 あれは本当だろうか。本当であれば、内申書には、きっといいことばかりが書かれてあったのだろう。協調性がなくても、出席日数が足りなくても、ふつうの生徒のようにごまかされていたのかもしれない。
 そう思えば思うほど、先生や学校が憎くなって、責任転嫁だとわかってはいたけど、どうすることもできない感情のほこ先を、私はぶつけるしかなかった。ただひたすら泣き、今まで起きたことのすべてをぶちまけて、泣きながら、自分の高校生活が夢であることを祈った。
 行き場も逃げ場もない苦しみが、みんなウソであってくれることを願った。あまりにも大きな孤独感で、それは、まるで地獄へ突き落とされたような毎日だったのだ。私は叱ってほしかった。

■私は叱って欲しかった

 でもあの日、中学に帰ってきてしまった私を、どうして先生たちは温かく迎え入れてくれたのだろう。もっと冷たく突き返されるかと思っていた。けれど先生たちは、授業を中断してまで私のところに来てくれた。あの中学の、ああいう雰囲気に、いつも私は救われていたのかもしれない。
 そして「もう、学校を辞めてしまいたい」と私がいうと、「今、辞めてどうするの。がんばるって自分で決めて行ったんでしょう!」と、先生に怒られた。このとき感じた。たぶん今の私に一番効く薬は、怒られることなのだ。それをわかっていて、先生達は、私を叱り、カツを入れてくれているのだ。
 思えば、私にとって保健室とは、メッセージをもらう場所だった。そこでは心臓が痛いといえば、いろいろなメッセージつきのシップ薬を貼ってくれた。そのうち心臓が痛かったのか、心が痛かったのか、本当のことはわからなくなって、痛みが引いたとき、心のなかにはメッセージが残っていた。人が放つ言葉は、心の奥にいつまでも残り続ける。私はきっとあのとき、メッセージが欲しくて、保健室へ戻ってしまったのだろう。
 通信制の高校に入り直してから、みんなの話を聞いてみると、通信制の高校へでさえ、進学することを拒む中学の教師が多いという。願書を書いてほしいと頼んでも、断られてしまうというのだ。当然のことながら、普通高校への進学などさせてはもらえない。なぜかといえば、自分の教え子が登校拒否児だったと知られるのが恥ずかしいからだという。
 事実、担任にそう言われてしまった友達を私は知っている。彼女は、当時の担任が他校へ異動になるまで、高校へは進学できなかった。それを知ったとき、どれほど自分の環境が恵まれていたかが、さすがの私にもわかった。私は今、進学や保健室登校を認めてくれていた中学に感謝している。もし、保健室がなかったら……

■もし、保健室がなかったら・・・

 保健室を追い出された生徒は、一体どこへ行けばいいのだろう――。
 保健室に行くのに担任の許可が必要だった高校で、結果的に私は行き場を失って、中学校の保健室に逆戻りしてしまった。けれどそこにも、何度も通うことは当然できず、今度は不登校をするようになった。
 中学生の不登校と高校生の不登校では、あきらかに違う。なぜなら高校は義務教育ではないからだ。私の頭のなかには、つねに留年という二文字が揺らぎはじめ、これがかえってプレッシャーとなって、ますます足が遠のいた。
 一度、休学してプレッシャーを取り払い、落ち着いてからもう一度やり直そうかとも考えたが、そこまでしても仕方がないとわかった。どうせなじめないのだから、高校など辞めて、もっと他のことをしたほうがましだと思い、そう両親に伝えた。
 高校を辞めるという私を、両親はあまり引きとめず、理解してくれた。退学届を出したあとで、中学にその報告をしにいくと、先生たちも、「わかった」という一言を添えて見送ってくれた。
 保健室に行くために行った中学校ではなく、辞めるつもりで行った高校ではないけれど、結果的にそうなってしまった。保健室に行っていた自分を、私はずっと恥ずかしくてみじめだと思っていたし、いくら強く勧められたからといって、行きたくもない高校への進学を決めたのは、少しは世間を気にしていたからかもしれない。
 でも、学校という組織を完全に抜け出してみたら、本当にすっきりして後悔はまったくなかった。
 まず、絶望の底にいた私が、夢をもとうという気持ちになれた。養護教諭を夢見て、当時は大学検定を受けて、大学へ進学することを夢見ていた。そして、学校という組織にどうしても同化できなかった私に、義務教育時代、もしも保健室がなかったらと思うと、考えただけでもゾッとする。
 いまこうして笑っていられるのは、保健室があったからに違いない。保健室は、私のような子供にとっての避難場所なのだから。 (■つづく)

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ホームレス自らを語る/暴走族から鑑別所、そして…・原田忠雄(四四歳)

月刊「記録」1999年3月号掲載記事

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■ナナハン乗って暴れ回った

「ブラックエンペラー」という名前の暴走族のチームがあってね。若いころ、そこのメンバーだったんだ。中学生から高校生にかけての、四年くらい入っていたよ。毎週土曜日になると、夜の一二時に渋谷に集まって、バイクで暴走を始めるんだ。
 走り始めのうちは、バイクの台数もそれほどじゃないんだけれども、「ニーヨンロク」(国道二四六号線)を下っていくうちに徐々に集まってきて、最後は二〇〇台くらいになるんだ。そりゃあ、すごい迫力だったね。
 おれも上から下まで黒づくめの格好をして、ホンダの 「カスタム」っていったかな、ナナハン(七五〇㏄)のバイクにまたがって……。まあ、目立ちたかったんだろうね。パトカーをしたがえて集団で走るのは、すごい快感だったよ。
 悪いこともした。何しろ、乗ってるバイクだって盗んだもんだからね。今の子どもたちと違って、バイクを買うカネなんて、とても持っていない時代だからな。みんな盗んできて、それを乗り回してたんだ。カツアゲ(恐喝)したり、電気屋の倉庫に忍び込んで、テレビとかを盗み出したこともあった。
 暴走族のチーム同士でケンカしたときなんか、相手側の女の子をカッさらってきて、みんなで「回す」なんてこともしていた。要するに輪姦だよね。ただ、おれたち下っ端は見張り役とか、見てるだけで手は出せなかったけどね。
 ケンカもよくしたよ。利根川の先のある町には「ブラックエンペラー」に対立するチームがあってね。よく遠征していってはケンカをしたんだ。おれも木刀を武器に暴れ回った。
 警察に逮捕されたこともあるよ。おれの場合、道路交通法違反に無免許、それにバイクの窃盗もあったから、少年院だか、鑑別所のようなところに半年間入れられたよ。まあ、それで暴走族をやめることになるんだけどね。
 結局、今の暴走族の連中もそうだけど、一人じゃ何もできないから群れてるんだよね。でも、若い時分に一度くらい羽目を外すのもいいことだとは思うよ。今ではビシっと偉くなってるのでも、元暴走族っていうのはいっぱいいるからね。暴走族からそのままヤクザになるのは、案外少ないんだよ。

■一八歳で娘ができた

 生まれは東京。おやじは大工だった。八人兄弟の末っ子なのだが、上の七人のうち三人は知らない。何でも栄養失調のようなもので、おれが小さいころに死んでしまったらしい。それくらい家は貧乏だった。
 飯もスイトンだとか、ラーメンだとか、そんなもんばっかりでね。おやつといったって、ジャガイモの蒸したものがあればいいほうだった。
 それでも、おれは末っ子だったし、高校までやってもらった。都内の私立高校の農業畜産科に進んだんだ。もっとも農業になんて興味はなかったよ。本当はおやじの跡を継いで、大工になりたかったんだ。
 だから本当は工業高校に行きたかったけれども、中学のころから暴走族に入ったりして、勉強のほうは全然ダメでね。中学校の担任が、おれの成績でも何とか入れた農業畜産科に無理やり押し込んだわけよ。
 そんなわけだから、高校にはほとんど通わなかった。そのうちに警察に捕まって、鑑別所に送られて、学校は退学になった。高校二年のときだよ。
 高校を退学になる前のことだけど、授業をサボって渋谷で遊んでいたら、かわいい女の子を見つけてね。思わずその子の後をつけて家をつきとめたんだ。今でいう「ストーカー」みたいな感じでね。
 それで強引に家に押しかけていったら、意外にも素直に部屋に入れてくれるじゃない。そのまま押し倒しちゃった。学校をサボって盛り場をフラついていた子にしては、スレてなくて処女だった。まあ、おれのほうも童貞だったけどね。その子の名前は、一応A子ってことにしておこうかね。
 A子は母子家庭だったんだ。だから母親が働きに出ている間は彼女しか家にいないので、訪ねていっては関係を続けたよ。ところが、おれが一八歳のときにA子は妊娠しちゃった。それで女の子が生まれた。ただ、A子の母親が許さなくてな。裁判になって、おれの娘としては認知できないことと、娘には会えないことになった。それからA子は水商売で働きながら、娘を育てあげたんだ。大学も出して、嫁にやったよ。
 何でそんなにくわしいのかって?実は、娘には会えなくなったけれども、おれとA子の関係はずっと続いているからなんだ。今でも週に一回くらいは会っているよ。今、A子は新宿のピンサロで働いているから、朝のうちに家に訪ねていけばいるからね。まあ、おれが野宿(ホームレス)していることは、内緒にしてあるけど……。
■四六歳までには何とかしたい

 暴走族をやめてからは、町工場で働いたり、自衛隊に入ったりと、いろいろな仕事をやってきた。きっと性格が飽きっぽいんだろうね。
 二二歳のときからは、建築現場のトビ職をやってきた。半月契約で飯場に入って、カネを稼いで、それがなくなるまで遊び暮らして、また飯場に入る。その繰り返しだった。それでも、羽振りのいいときもあったんだけどね。けれども、A子にプロポーズはできなかった。やっぱり、ちゃんとした会社に入っていない引け目だったんだろうね。
 野宿生活をするようになったのは九六年からだ。仕事が減ってきて、カネもないし、路上に寝るよりほかに選択がなかったんだ。仕事は減ったけれども、それでも野宿を始める二、三ヶ月くらい前までは少しはあったんだよ。この二、三ヶ月はホントになくなったね。だからまったく働いていないよ。
 まあ、おれもまだ四四歳だからね。四六歳までには「何とかしたい」っていう目標はあるんだ。ちゃんとした会社に入って、A子ともちゃんと結婚してって。今は年がいってから結婚するのがはやってるから、今から結婚してもおかしくはないよね。トビの腕だって、まだ大丈夫だし、何とかするよ。 (■了)

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ホームレス自らを語る/美人の妻に逃げられ暗転・丸山隆一(五二歳)

■月刊「記録」1999年4月号掲載記事

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■土木のほうが稼げるらしい

 生まれは北海道。帯広市の先にある本別という町です。おやじは営林署の職員でした。これが変わったおやじでね。「勉強をするくらいならば、家の手伝いをしろ」っていう育てられ方をしました。中学の修学旅行のときは、「子どもが旅行に行くなんてぜいたくだ」って費用を出してくれないんです。仕方がないので担任の先生に立て替えてもらっていきました。
 そんなふうだから、高校進学も当然ダメでした。そこで、これまた担任の先生が、帯広にある住み込みのクリーニング店の就職先を見つけてきて、そこから定時制の高校に通えるようにしてくれたんです。ホントに変わったおやじでした。
 結婚したのは二六歳のときで、相手は友人が紹介してくれた娘です。なかなかの美人でしたよ。翌年には女の子が生まれました。ただ、子どもができて家族が三人になると、クリーニング店の安い給料で養っていくのは大変でした。
 実はクリーニングの国家試験に合格した二一歳のときに、店の親方からは「独立するように」と勧められたことがあるのです。でも、当時は一人でやっていく自信がなかったのと、資金もなかったんで、店は出せませんでした。それ以来ずっと、クリーニング店に働き続けていたというわけです。
 悩んでいるところへ、「土工のほうが、もっと稼げるから」と、誘ってくれる友人がいて店を辞めました。それで帯広から西へいった山のなかにある日勝峠の道路工事の飯場に、何ヶ月間か入ったんです。
 ところが、工事がやっと終わって、帯広のアパートに帰ってみると、嫁さんがいないじゃないですか。調べてみると、どうも男を作って逃げたらしい。まあ、何ヶ月間も一人で放っておかれて寂しかったんでしょうね。
 それよりも何よりも困ったのは、まだ一歳にもならない子どもを残していったのと、僕の名前で一二〇万円もの借金がこしらえてあったことです。月給が四万円くらいの時代の一二〇万円ですから、途方に暮れるような金額でしたよ。
 仕方がないんで、幼い子どもを僕のおふくろに預けて、東京に出て稼ぐことにしました。上京してからは、それこそ遮二無二、昼も夜もなく働いたものです。宅地の造成とか、ガスの配管工事とか、土工の仕事でした。それで何とか借金は返したんです。三〇歳くらいまでかかりました。

■皇后陛下の控え室を作った

 それからは「町トビ」の組織っていうか、会社で働きました。町トビというのは、江戸火消の伝統を引き継いだもので、僕が入ったのは池袋にあった「七番組」でした。イベント会場の設営をしたり、大きなホールなどの内装をするのが仕事です。正月の消防の出初め式の会場を作ったりもしました。
 昭和天皇が病気になったときには、宮内庁病院の部屋を模様替えして皇后陛下の控え室にしたんですが、それも僕らの仕事でした。それから逝去のときに執り行われた大喪の礼の新宿御苑の会場も作りましたよ。
 皇室の仕事をするのは、手続きが大変でね。でも、普通の人では入れない皇居に入れたし、あれが町トビの仕事の一番の思い出です。
 町トビを辞めた後は、また土工の仕事に戻って、千葉県にある新日本製鉄の君津工場とか、富津の火力発電所の工事、さらにはゴルフ場の造成工事なんかで働きました。おおむね千葉方面での仕事が多かったですね。
 ところが九七年のことでした。やっぱり千葉県の木更津にある港の工事で働いていたとき、急に寒気がして立ってられないくらいになりましてね。その日は飯場で休ませてもらったんですけど、次の日になって右足が腫れてすごいことになってしまった。すぐに病院に担ぎ込まれたんですが、医者から「治療が後少し遅れていたら、右足切断だった」といわれましたよ。
 働いていた飯場は田んぼの上に建てられていて、ジクジクと湿っぽいところでした。風呂も田んぼの地下水をくみ上げた汚い水を使っていました。その水にバイ菌が含まれていたんですね。それが右足の擦り傷あたりから入ってきたんだろうと思います。結局、病院には四ヶ月も入っていました。
 九八年二月に病院を退院してからは、東京に戻ってきました。でも、仕事が見つからない。アパートを借りるカネもなくなってしまっては、ホームレスになるしかなかったんです。右足のほうは治って、完全によくなりました。ただ、一方で九四・九五年ころから、左脚に破傷風の発作が、毎年一回は出るようになっていたんです。秋から冬の季節の変わり目によく出ますね。突然、高熱に襲われて、けいれんを起こすんです。そのたびに救急車で運ばれて入院するんですが、どうしても治らないですね。
 仕事さえあれば、まだまだ働く意欲はあります。土木の仕事は誰にも負けないつもりですし、ガードマンの仕事だってあればやろうと思ってます。でも、仕事はないし、あっても長い期間続くのはありませんからね。

■北海道には帰りたいけど

 やっぱり、若いころに嫁さんに逃げられて、それから人生が狂ったような気がしますね。美人というだけで、家のことは何もしない嫁さんでした。それでも、いなくなってみると恋しいもんですね。
 ただ、結婚はそれで懲りました。その後、再婚を勧めてくれる人もあったけれども、結婚はしませんでした。子どもを預けていた親に、またまた迷惑がかかるようなことになってもいけないと思ったしね。
 北海道に残してきた娘は、九九年で二五歳になります。僕のおやじは今、寝たきりの状態で入院しているんですが、「その面倒をよくみてくれるんで助かる」って、おふくろがいっていました。時々ですが、電話を入れて話をするんです。もちろんホームレスをしていることは、内緒にしてありますがね。
 娘とも電話で話しますよ。「お父さんが北海道に帰ってくるのは、死んでお骨になってからよね」などと娘からはいわれてます。本当は娘にだけは会って、顔を見てみたいと思っているんですがね。
 しかし、北海道に帰ったところで、こっちよりも景気は悪いんでしょう。農業をするのもままならないっていうしね。帰りたい気持ちはあるけれども、帰ったところでどうなるというわけでもないのでね。まあ、景気がよくなることだけが願いです。景気がよくなって、仕事さえあれば、何とかなると思うんですよね。 (■了)

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鎌田慧の現代を斬る/大蔵スキャンダルは複合汚染の土壌に咲いた毒花の群生

■月刊「記録」1998年3月号掲載記事(表記は掲載当時のままです)

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■自省心のカケラもない大蔵官僚

 大蔵省のスキャンダルは、金融検査部・金融証券検査官室長・宮川宏一、同部管理課課長補佐・谷内敏美の逮捕後、おなじノンキャリア組の銀行局総務課・大月洋一氏の自殺へと展開した。このままノンキャリア組のスキャンダルだけで決着させるのか、さらには大蔵省がどういった形で分割されるのかが、今後の焦点となっている。
 この事件で大きな問題となったのは、銀行を監督するはずの検査官が、接待のみかえりとして検査日程を銀行側に伝えていたことだ。このような大蔵省の腐敗ぶりは、まさしく悪代官と悪徳商人の関係である。官と民との歪んだ構図が、ここにある。
 だが、これだけ根深い腐敗を摘発されても、大蔵官僚たちには罪の意識のかけらもない。それが証拠に、先日放映されたNHKのスタジオ番組では、西村吉正前銀行局長が驚くべき発言をしている。
「接待というから、なにか快楽的なイメージになるのであって、会食というべきです。銀行側との会食は必要でしょう」
 このようなことを白昼堂々テレビで語るほど、大蔵官僚は「会食漬け」になっている。彼らの会食とは芸者つきの高級料亭であり、風俗営業店での飲み食いである。しかもそのあとには、高給クラブや接待ゴルフが待っている。庶民のワリカンなどの会食ではない。会う用事があるなら、支払いを折半にしたらどうだ。
 高級官僚たちが、こぞって東大法学部出身というのも気持ち悪い。大蔵省に採用されているのは、国家公務員上級職試験を通過したエリートからさらに選ばれた、いわゆる超エリートである。しかしこの超エリートの実態は、たんに勉強ができた受験秀才、あるいはガリ勉クンにすぎない。子どもの頃からひたすら丸暗記と受験技術だけで優位を勝ち取ってきた連中には、そもそも人間性の形成されるような機会も、時間もなかったはずだ。それは現代の受験システムをみれば容易に想像がつく。
 この『もやし』のような促成栽培秀才たちが大蔵省に入り、二〇代そこそこで地方に派遣され、税務所長として君臨する。地方では地元の商工会や地方官僚が、彼が中央に帰る日に備えて腫れ物に触るように扱いチヤホヤする。お呼ばれの酒席でそっくり返り、お土産をもらい続ける生活に慣れ親しんできた連中なのである。
 つまり、入省直後から当然もてはやされる者として汚職の特訓を受けてきた人間ということになる。だから接待供応が人間として極めて恥ずかしい行為であることがわからない。業界から見返りを要求され応じていた事実は棚に上げて、「会食」などといい換えて口を拭おうとする。
 このような人物が大蔵省を埋め尽くしているのだから、大蔵省の腐食は根が深い。今回の事件だけが、特殊な例では決してないことは、つぎの例からも容易に想像がつく。
 大蔵省の腐敗の歴史をひもとくと、七九年には鉄建公団の「過剰接待」が問題になり、自粛を求める官房長通達が出されている。九五年には元東京協和信用組合から香港接待などを受けた田谷広明元東京税関長や、中島義雄元主計局次長などが辞職している。このときも官房長通達が出されていたが、カエルの面にションベン。「会食」をやめる気はもうとうないようだ。

■天下り禁止以外に解決法はない

 現在、公務員倫理法が作成されようとしているが、腐敗した土壌を変えることなく規則だけ厳しくしても弊害のほうが大きい。すでに公務員は、国家公務員法によっ職務上知り得た秘密を守る義務が課せられているのである。だいたい飲ませ食わせの見返りに、相手に便宜をはかるなど、犯罪以前のモラルに属する問題だ。守られることのない法律を作ってお茶を濁し、かたや泰山鳴動して鼠一匹という終わり方など絶対に認められない。
 そもそもこのような退廃を作りだした根源は、政治献金と天下りにある。複合腐食の構造をどう切開するか、どう根絶やしにするかが問題の核心である。今回の問題はこの複合土壌に咲いた毒花が、たまたまつまみ取られただけに過ぎない。
 銀行が自民党にたいして巨額な政治献金をしていたことは、今更いうまでもない。政治献金とは、政治家にたいする明らかな買収行為である。にもかかわらず抜け穴だらけの法律を作り、疑惑がささやかれれば陳謝するという態度を繰り返してきた政治家が、今度は、飲み食いだけを取り締まるという姑息なやり方を取ろうとしているわけだ。
 また、天下りの問題も根が深い。
 帝国データバンクの調査によれば、昨年三月時点で、大蔵省や日本銀行などから全国の銀行一四六行に天下りした役員は、二三一人にもたっした。二月五日の『朝日新聞』でも、大蔵省のエリートキャリア官僚の天下りについて、次のような数字を報道している。
 都市銀行と長期信用銀行一三行のうち九行に一三人、さらに地方銀行には五〇人。銀行では不況下でのリストラが進んでいるというのに、天下り数だけはまったく同様の数字で推移していく。省庁ではさんざん接待を受け、業界に情報を漏らしたあとで、その業界に大手を振って天下って行く。この国家的逆人身売買制度には、あきれるよりほかはない
 もちろん銀行側にも問題はある。
 今回問題になったMOF担(Ministry of Finance担当)は、大手銀行では行内の出世コースにあたるのはこれまで指摘されていた。都市銀行と長信銀一三行のうち、MOF担を経験している頭取と会長が、なんと三人もいるのだ。さらにMOF担の直属の上司にあたる企画部担当の部長職経験者は、副頭取以上の役職に一〇人もいるという。国の秘密を盗んだものが出世するのが、銀行のモラルだ。
 つまり接待の席で銀行に情報を流した連中と受けた輩が、のちのち一緒になって役員幹部に収まるのである。好待遇で天下るために国家の情報をどんどん垂れ流す大蔵官僚と、その情報を使いながらも不正を隠すMOF担。醜悪な者同士が助け合って権力を握るなど、許されることではない。
 さらに天下りした連中は、ことごとく現在の官僚の先輩にあたることも忘れてはならない。おなじ東大卒の先輩と後輩の間でポストを回している現状は、構造的腐敗そのものだ。天下りを禁止する以外に、解決する方法はない。

■抜け穴指導が官僚の仕事

 先輩がいる、自分の将来の天下り先である銀行に、大蔵官僚がどれほど甘かったかは、一九九五年秋に発生した大和銀行ニューヨーク支店の巨額損失事件をみても明らかだ。当時、大蔵省が巨額損失を知りながら長い間隠していたことは報じらていた。また破綻した東京共和と安全信用組合を救済するために、債権を処理する公的機関が作られたことなど、一般企業に比べて特別処遇が過ぎる。あとに続く大阪信用金庫の破綻でも、この機関は大活躍している。そして、そんな銀行への甘やかしによって生み出されたツケは、現在も確実に大きくなっているのである。
 さらに大蔵省が甘やかしているのは銀行だけではない。
 証券会社との癒着も有名になった。自主廃業に追い込まれた山一證券の副社長(当時)にたいして、大蔵省の松野允彦証券局長が損失の簿外処理の方法を指導したという疑惑は、いまだに解決されずくすぶっている。この指導によって山一證券が悪名高い『飛ばし』に堂々と踏み切るようになったことは、ほぼ間違いない。
 あまりに明らかな官と民との共同謀議・共同正犯である。だがこれもしょせん、氷山の一角に過ぎない。民間企業の利益のために、さまざまなな法の抜け穴を指導することが、大蔵省官僚の大事な仕事となってきたからである。
 ところで大蔵省の天下り先が、銀行や証券会社だけでないことは、今回の問題以降、知られるところとなった話だ。彼らの人生を比喩する「渡り鳥人生」とは、特殊法人を転々と渡って、その度に退職金を稼いでいる事実を指した言葉である。退職したあと、五回も天下ったという剛者もいるし、退官後の退職金を一億八千二〇〇万円もせしめたという悪徳官僚もいる。
 もちろん法人内で、さらに私腹を肥やす連中も多い。日本道路公団の外債発行をむぐる汚職事件で逮捕された、元大蔵省造幣局長・井坂武彦の例は記憶に新しい。
 このように日本の経済は、倫理もモラルもまったくなく、周りからチヤホヤされて育ってきたバカ殿様に指導を任せてきたのである。その結果が官僚のやりたい放題であり、庶民の生活を破綻させた金融危機・経済危機である。

■たとえば低金利政策だ

 バブルの時期、大蔵官僚の天下り先がことごとく無茶な経営をおこない巨額な負債を発生させた。それをカバーするためにおこなわれたのが低金利政策である。
 後先考えずにおこなわれた乱脈経営の尻拭いのために、預金者の金利を極端に下げることなど許されるはずもない。この政策は、まわりまわって市民の老後の生活をも破綻させているのだ。
 なぜなら、老後の不安を覚える老人が、預金額の目減りを減らすために、悪徳商法に手を出しやすくなっている。豊田商事をはじめとして、和牛商法やオレンジ共済組合などのインチキ商売が、明らかに胡散臭さを漂わせているにもかかわらず、これほど多くの人を惹きつけてやまないのは、低金利政策と無縁のことではない。庶民の生活を疲弊させ、不安感を煽り、その出口をインチキ商法へとむけさせた責任が、大蔵省にはある。
 さらに、このようなインチキ商法を許してきた監督官庁の責任も追及されてしかるべきなのだ。にもかかわらず、被害者による国への賠償請求は一切認められないという判決が出ている。
 庶民を踏みつけながらうまい汁を吸えるだけ吸い、罰せされることもなく、責任を取りもせずにいる。大蔵官僚の行動が「無期懲役」にも匹敵する重大な犯罪にもかかわらずだ。
 日本の財政(予算配分)・国税(税金の徴収)および銀行・証券会社への指導。この国にかかわるすべての金を握った権力者が大蔵省である。絶対権力者が、絶対的に腐敗する、とはよくいわれることではあるが、大蔵省も例外ではなかった。
 現在、日本国家の中枢は完全にいかれれている。たとえていえば暴風雨の中、船を操縦する船長や一等航海士が酒を飲み、女性と戯れているようなものだ。このような船員達に任せていたなら、日本は沈没して当然である。
 しかも銀行(企業)、政治家、官僚とを結ぶ三角形は、まさに腐海のトライアングルというべき構図を作りだしている。企業は政治家に献金してさまざまな便宜を計ってもらい、政治家は見返りに産業界にとって都合のいい法律を官僚に作らせる。官僚が政治家につくらせている貸しは、資料や国会答弁などになる。その官僚を飲ませ食わせして手なずけてしまうのが民間企業である。この三つ巴が魔のトライアングルとなって、国家の政治経済という土台を腐敗させているわけだ。
 今後、大蔵省は解体される方向にあるというが、どういう形で解体されるのか。この極度の権力をもった官庁が、市民の生活のためにどう変わるかを、主権者である私たちは監視する義務がある。監視義務を怠り、政治家や官僚に土下座する生活をつづけてきた「庶民」にも、この腐敗の責任があったことを知るべきである。(■談)

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首都高速道路500円通行の正義 第15回/もう愚痴はいうまい

■月刊『記録』95年10月号掲載記事

■激情家・内藤国夫

 地下の小さな小料理屋のカウンター。人肌の日本酒が心地よく喉を通り過ぎます。カボチャの煮っころがしとサトイモをつっつきながら残念会が始まりました。サシツササレツ、とにかくハゲ鼠のオッサンはくやしがった。「なぜだ、なぜボツになってしまったんだ。文藝春秋も全くアホなことをしたもんだ。これだけ大きなテーマに取り組んできたのに。このテーマが理解できないなんて、何が文藝春秋だッ」と怒る、怒る。ついに、感極まって涙腺が開いてしまった。大変な激情家の内藤さんです。
 そして、「本当に和合さんには申し訳ない。これを持っていてくれ」と、返送されたボツ原稿入りの封筒をポンと投げてよこしました。今でき得る、最大の好意のつもりだったのでしょう。
「しかし、なぜボツになったのだろう?会心の作だと思っていたのに、本当のところどう思う?」と、今だ腑に落ちない様子の内藤さんをどう慰めてよいやら。私は、「内藤さんの原稿が本当に掲載されるのかという一抹の不安がありました。500円しか払っていない和合がスーパーマンとして書かれているからです。和合・和合の連発で主人公が公団ではなく和合になってしまっているからです。2000人の大組織に立ち向かう三文芝居のスーパースターというわけです」と答えました。
 私の言葉で内藤さんは我に返ったようで、「やはり和合さんのいう通り、あまりにものめり込んだのが原因か。500円通行の経験があまりにも強烈だったということか。わかった、もう愚痴はいうまい。こうなったら、あらゆるチャンスにこのことを書き続ける。文芸春秋がその時になって、シマッタ、といっても遅い」と元気になりました。シメシメ。文芸春秋一発で終わるよりその方がよっぽどいい。彼ほどの人が、全てのチャンスに書いてくれたら、世の中に問うボリュームがどれほど大きくなるか。
 彼は約束を実行しました。あらゆるメディアに書きまくったのです。「今度はここに書くから」とその都度必ず連絡がありました。代表的な自動車雑誌『ベストカー』では8回の連載を完遂しましたが、そこで彼は500円通行体験をこう書いています。
       *          *
 だらしがない、と自分をふがいなく思い、旧料金通行への果敢なる挑戦者、和合秀典氏をつくづく凄いと再認識した。普通の神経なら100回も200回ものトラブルを重ねながら挑戦し続けられないだろう。自分のやっている事は正しい、社会改革に役に立つとの強烈な使命感に支えられない限り持続するのは不可能だと和合スピリットに惚れ直した。
 和合氏から旧料金通行のノウハウを伝授され(やってみないか)と誘われた際には(面白いな、やってみる)と気軽に応じた。だが首都高団幹部に(やっても無駄、不足料金は割増金も含め三倍分を請求する。払うまでトコトン追求するので結局は損)[裏の声=オバーカサン、損得でやるのではありませーんよ、これはロマンです、さあーいらっしゃい、100円のロマンです、これほど安いロマンはありません。ロマンの価格破壊です]と警告されすっかりやる気をなくした。約束は、しかし実行しなければならない。
 体験記を記事に書く必要がある。どんなトラブルに見舞われるか。それを体験する事に意味があるのではないか。怖じける自分を叱りつけて用賀料金所に向かった。
 恥ずかしながら胸はドキドキ。血はドックンドックン。Uターンして引き返すほうが無難では、と軽率な自分を後悔した。だが料金所通過は拍子抜けするほどたやすかった。ものの10秒とかからなかった。期待した(同時に恐れていたのだが)トラブルは何一つ起こらなかった。徴収員は五百円玉を受け取り(当たり前だが)領収書は切らず、早く車を発進させろと言わんばかりの態度を示した。この間わずか10秒たらずである。後続車の抗議と催促のクラクションがしきりと鳴る。あわてて急発進、急加速をさせて首都高の車群の流れに乗り入れた。
 首都公団はこれでもう私の旧料金通行を規制出来ない。不足料金の催促さえ出来ないのだ。徴収員は車のナンバーをメモしなかった。    

      *     *     *

 100円の料金不足は犯罪か、秩序を乱す不穏の輩か、世の中の実験か、ロマンなのか。その人その人の人生観によって考え方は違うだろうと思います。有名人の内藤さんは社会改革の強烈な蟻の一穴と考え、自分自身の料金不足体験を披露し、確信犯として、チャンスある限りペンで世に問うたのです。内藤さんの、執念に近いすさまじいエネルギーはとどまるはありません。あまりにも強烈な旧料金体験とボツ原稿から発した屈辱とプライドは、少々のことで燃焼するほど薄っぺらいものではなく、ついに1冊の単行本を生み出すに至ってしまうのです。
■クレームをつける大切さ

 ダイナミックセラーズという出版社の高田さんという実に爽やかな若者が、ほんのチョッピリ有名人となった私に本を書けというのです。そのリクエストにビックリ仰天しました。文章を書くなど、遠い昔の学生時代の作文しか経験がない当時の私としてはとても無理な話です。しかし、私には内藤さんと云う伝家の宝刀があるではないか。一計を案じ高田さんに提案しました。「どうだろう。私は本を書くなどとてもできないが、内藤国夫さんならよく知っている。私とは奇妙な仲間同士なのです。彼の持っている高速道路行政の知識は本格的なものです。お互いプロ同士、ギャラなどの難しい問題もあるでしょうが、紹介させて下さい」。
 すると高田さんは、「本当ですか、内藤先生を紹介して戴けるのですか。願ってもないことです。ゼヒお願いします」と大喜び。お見合いは見事に成功し、ブスブスと半煮え状態の内藤エネルギーは思いのたけを放出できる舞台を手に入れたのです。誰にも干渉されず、書きたいことを書けばいいのです。
「怒れドライバー」とのサブ付きで『高速道路は金のなる木か!?』という名の付いたその本が店頭に並んだのは、89年2月10日です。思いのたけを吐き出した内藤さんの独壇場であるのは当然!

「500円で通過したいのですが?」 「えッ?500円では通れないですよ、ここは」。4回に渡り同じ言葉が繰り返された。これだけのやり取りで後続車の列ができた。やむを得ず、用意した名刺を渡しながら最後通告を発した。「とにかく通りますから」。
 不運な巡り合わせで私に対応するおじさんは、驚いたことに名刺を受け取ろうとせずに、身を引き加減にしてつぶやきを繰り返した。「私が困るから、困るから」。意外な消極姿勢に呆気にとられる思いで、さらに念を押した。「いいですね、通りますよ」。徴収員は「ええ」とはっきりいった。名刺は受け取らずに500円玉だけをサッと受け取り、早く行ってくれといわんばかりの態度を示した。半身に逃げる姿勢を取り、トラブル車との関わり合いを避けているのだ。私はホッとする思いで名刺をポケットにしまい込んだ。無理に渡すこともなかろうと咄嗟に判断したのである。
 和合氏の提唱に従って名刺には捺印しこう書かれてあった。「料金不足通行を体験すべくあえて500円で通る者です。逃げ隠れは致しません。首都高速道路公団様」本来は公団本社の関係部局に回されるはずの名刺が、今も記念品として机の中に保存されている。     
 彼のほとばしるエネルギーは最終ページをこう締め括る。

 クレームをつける大切さ、意味・効果が世間大衆に知れ渡る状況になかなかならない。しかし、和合氏は意気軒高である。値上げ分不払い運動はすでに1年を越え、首都公団側は抵抗のポーズを示さなくなった。クレーム提起を事実上認めているのである。
 クレームのつけかたは人によってさまざまな形態があって当然である。なかでも和合氏流の少々荒っぽい抗議行動が意外と大きな効果を上げるかもしれない。建設省などの重い腰を上げさせるにはユーザーである私達が手荒な行動に決起するしかないとさえ思われる。騒動師、扇動師役の必要性を考え、その手助けになるのであればと願う次第である。
 これはもう完全な確信犯。500円通行をこれだけ高い評価をしてくれた内藤さんにはつくづく感謝しています。この運動は大変な数のマスコミが取り上げてくれました。土井たか子さんではないけれど、「山が動いた」一時期もあった。しかし、世論は動かない。問題の解決は手の届くところに見えているのだけれど、蜃気楼のように距離が縮まらないのです。(■つづく)

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首都高速道路500円通行の正義 第14回/内藤国夫さんのボツ原稿

■月刊『記録』95年9月号掲載記事

■和合さん、凄いッ、実に凄い

 取材を申し込んできた彼に私は「500円通行をしてきて下さい」と条件を出しました。やるのとやらないのとでは考え方が全く違ってくる。全く新しい方向で見られ、新しい世界が広がってきますから、と。
 待ち合わせ場所の池袋のとあるラウンジで待っていた私を見つけるなり、彼は自己紹介もソコソコにまるでこらえていた堰が爆発するように口角泡を飛ばして話し始めました。相手の顔すら知らない初対面同士が当然といった風に、やあ和合さんとくる。
「和合さん、凄いッ、実に凄い。やってきましたよ。500円通行ですよ。こんなに簡単にできるとは思わなかった、もちろん何も起こりませんでした。本当にどうなるかと思いました、今でも胸がドキドキしています。イヤー色々見えてきました。道路行政の節穴というか、裏側というか、そんな感じです・・・・」。
 やせぎすの年期の入った小柄なオッサンです。おデコが広くほぼハゲ上ってはいますが、ごく細い毛がハラハラとあり、不毛地帯の最後の生命体という感じ。これが、ジャーナリスト・内藤国雄さんとの出会いでした。
 私は、「そうでしょう、別にどうということはありません。NHKの不払いと同じで不法でも何でもないのです。それにしても、私の取材で500円通行をやって来た人は貴方が初めてです。有り難うございます。共通の経験から始まる今日の話しは楽しいものとなるはずです。宜しくお願いします」と挨拶しました。
 すると内藤さんは、「私の方こそよろしくお願いしますよ。本当にいい経験をさせていただきました。このハラハラドキドキを和合さんは100回もおやりになっているなんて信じられない。たいしたものです」。いやいや内藤さんこそたいしたものです。聞くところによるとなかなか高名な方だそうです。
 彼は文芸春秋の依頼で首都高問題の取材に来たのです。そしてのっけから500円通行を強いられてしまったのです。共通の経験を持つ2人は夜の更けるのも忘れておしゃべりを楽しみました。
 しかし、原稿はものの見事にボツ原稿となったのです。このボツ原稿物語が今回のお話です。
 内藤氏にとってこの体験がいかに強烈であったか、たった100円が醸し出す体験が彼の人生観が変わえてしまったのです。世の中に発表されるなかったボツ原稿には内藤氏のドキドキハラハラの500円通行はこう書かれている。本邦初公開です。暫くは迫力のあるプロの文章をお楽しみ下さい。なお誌面に限りがあるため、誠に僭越ながら私自身が要約した部分があります。

 その首都高で値上げ以前の旧料金500円で難なく料金所を通過するグループが話題と関心を集めている。正規料金を払わなければ通れないと信じこまれていたのに意外と簡単にパスできるらしい。「500円で実際に走り、どういうトラブルが生ずるのか体験して欲しい、その上で首都高の問題点摘出を」と本誌編集部から注文が寄せられ気軽に喜んで引き受けた。あり得ないことがなぜまかり通るのか、以前から注目していたし、首都高に不満をもっている点では人後に落ちないからである。
 盲点を衝き500円通行へと突出挑戦中の和合秀典氏に会うために横浜の自宅からマイカーで池袋へ向かった。首都高用賀料金所で料金不足通過を初体験しようというのである。だが、正直に告白すると、「気軽に喜んで」の気持ちが消えうせ、重苦しいものに変わっていた。たかが100円のトラブルどうということはないはず、それなのに恥ずかしながら胸がドキドキ音を立てる始末、緊張する自分が情けなかった。それ以前首都高団への取材で、浅井理事長や副理事長から、「500円通行はルール違反、馬鹿げた事は絶対にしないで欲しい」とくどいぐらいにお願いされた。

 内藤さんは公団理事長クラスとの面談を終えていました。私がどんな手を使っても会えなかった理事長に、簡単に会える内藤さんに嫉妬を感じたものです。ブランドとはこういうものか。

 おまけに電話で面会の約束を取り付けた際に和合氏からは、「タダ乗りが目的ではない、一方的値上げへの抗議行動です。その主旨を名刺に書いて500円と一緒に料金所のおじさんに渡してください」と注意を受けた。料金所を突破するゲームを楽しむ暴走族とは違うのだから、との説明であった。首都公団の牽制はすさまじいものだった。一部を再現しよう。
浅井理事長談=文芸春秋ともあろうところがそういう企画を試みることはどうかなと思いますよ。伏してお願いしますよ。もしもやると、納入通知書が届きます。最後は強制的に差し押さえます。
野村副理事長=それだけは困ります、編集部から話があったとしても是非やめて戴きたい。勘弁してください。もしも、やられたら、私どもは催促の電話をドンドンかけ職員が催促のためお宅へ行きます。
 渋滞を解消し値上げ時期を遅らせる、努力を怠る首都公団のシリを叩くには、料金不払い抗議行動が効果的。好きでやるわけではないのだけれど試みる価値はありそうだ、そう主張する当方に対して総務部長、広報課長が脅しをかけた。「料金が高いと値上げに反対するのは自由だが社会のルールは守ってください。料金不足通行は不法行為ですからね、警察だって黙ってはいませんよ。和合には一週間ごとに3倍の料金を請求しています」。驚くことに和合と呼び捨てにしている。「フリーウエイクラブの面々は和合に踊らされているのだ」・・・・。
 心臓の強さを自認する私ながら、これだけしつこく翻意を促されると当初に抱いた好奇心、ファイトが萎える。どうせ名刺を渡すのだ、料金所を無事に通り抜けられたとしても不足分をあとで請求される。差し押さえ無効を訴えて裁判で争うつもりはない。トラブルで後続車に迷惑をかけたくない気持ちもある。
 最初は勇み立ったのに引き受けた軽率さを悔やんだ。このままUターンして引き返したくなった。しかし重い気分でハンドルを握りながらも、首都高渋滞への不満はさらに強まった。時間的損失、エネルギー損失を年間合計した天文学的数字について指弾したい思いにかられる。旧料金と新料金と100円の差を突き、和合氏が最終的に裁判での決着を覚悟して首都公団に匕首を突きつける突出行動の重さ、パンチ力を改めて思った。私も逃げずにせめて一度くらいは挑戦するべきだ。ひるむ弱い自分をムチ打って用賀料金所へと車を乗り入れた。
 2月12日午後5時37分、6レーン6ブースあるがボックスの左側から2番目に入った。用意した録音カセットのスイッチを咄嗟にONする。これから始まるであろう料金徴収員とトラブルの会話を正確に記録しておきたかった。緊張のあまり、どんなやりとりになるのか予想できず、また記憶するのが不可能と思ったからである。以下録音されたものを圧縮再現する。

「500円で通過したいんです。そういう経験をしたいものですから」「えッ、何ですって?500円じゃあ通れないですよ、ここは600円」。4回にわたり同じ言葉が繰り返された。徴収のオジサンは始めのうち事態が把握できずに大声で600円を強調した。
「いや、そういう体験ができると聞いたので通らせてもらいます」 「えッ誰が?そんなことないですよ」
 これだけのやり取りで後続車の列ができ、抗議のクラクションが鳴り始める。やむえず用意した名刺を渡しながら最後通告をした。「とにかく一応体験してみますから」。不運な巡り合わせのおじさんは驚いたことに名刺を受け取ろうとせず、身を引き加減にしてつぶやきを繰り返した。「いやいや、私が困るから困るから」。
呆気にとられる思いでさらに念を押した。「いいですか、いいですね」。徴収員は「ええ」とはっきり言った。
 私の差し出した500円玉と名刺のうち500円だけをサッと受け取って、早く通り抜けてくれといわんばかりに半身に逃げる姿勢をとった。「あえて500円で通るものです。逃げ隠れは致しません。首都高速道路公団様」と添え書きした名刺をポケットにアクセルを踏んで急発信させた。「これで逃げ隠れしていることになるのかな、それにしても難なく通れるものだ。阻止しようとしたり、たしなめたり態度がかけらもなかったのはなぜだろう?」。思いつくまままに初体験感想を録音し始めた。情けないほど緊張しただけに物足りない感じがする。
 やりたくなかったけどやってよかった。これまでわからなかったことがわかってきた、いろんなことが見えてきたことをうれしく思うのだった。発見の喜びである。

 とまあこんな具合に延々と続く。さまざまなマスコミとの付き合いのなかで私はたくさんの賞賛と激励を受けてきましたが、ほとんどが川の向こう側から拍手を送ってくるばかりでした。確かに500円通行は危険ではないけれども、始めた当時としては特出した行動には違いない。マスコミの皆さんは向こう側の安全地帯にいて「頑張って下さい」などという人が大半です。最も分かり難いのが「陰ながら応援しています」。何じゃいこりゃあ。
 内藤さんの凄いところは、いかに私が提示したことであれ、有名人でありながら500円通行を自分で体験したことです。しかも、自分が500円通行をやったことを白状し、その調査結果の提出を要求しました。これには完璧に公団が詫びを入れてきた。内藤氏の500円通行を止めることはできないからです。彼は公団の上層部と話のできる自分の環境を最大限に生かしたわけです。 原稿創作中の数週間、私と内藤さんとは24時間ホットラインで、夜中の12時に連絡を取り合うことなどしょっちゅうでした。「あッ和合さん、このことはどう思う。フムフムなるほど、わかった、それじゃまた」てな具合に連日の打ち合せでした。

■あきらめて今夜は飲もう

 誠に残念ではあるけれど、この原稿がボツとなったのです。内藤さんはプライドもあるだろうに、心中いかに、と思うとかわいそうになった。内藤氏は力なく、「和合さん、文芸春秋ではここのところをこう直せば載せてくれるといっているのだけれど、どうだろうか?」と聞いてきます。私とて文芸春秋に載れば一躍世論に取り上げられ、一挙に問題提起にとなるのは間違いないと神にも祈る数週間だったのです。年の離れた親友となってしまった内藤さんにもこの思いは伝わっています。
 世の中うまくいかないものだなあ、とつくづく思います。それでも私は決断しました。「これを直したら意味が全くなくなります。あきらめましょう」。その時の内藤氏の驚いた顔は今でもハッキリ覚えています。「えッ?いやあ和合さんは勝負師だ、わかったあきらめよう、よし今夜は飲もう」となって、後は彼のオゴリで残念会が始まったのですが、泣く子も黙る内藤先生は実は泣き上戸だったのです。その先は次回で。
 とにかく内藤氏は100円で凄じく感激したのだ。人生観が変わるほど感激したのだ。読者諸君はどうでしょうか?ゼヒとも一度体験することをお薦めします。これはやった者でないと絶対に理解できない世界なのです。
 500円通行は、いわゆる常識と非常識の境界線にあります。しかし、この境界線は日々変化が激しい。本質的には変わりはないのでしょうが、外観の変化が激しいのです。価格破壊しかり、自社連合しかりです。つい最近までこんな政治の形は想像もできなかったのに、今は現実となっているではないですか。
 何が起きても不思議ではない歴史の大きな曲がり角である今、私は公団との勝負に本気で勝つつもりです。歴史は逸脱した道を本筋に戻すべく大きくカーブを切り始めているのだから。(■つづく)

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首都高速道路500円通行の正義 第12回/マスコミとの付き合いが始まった

■月刊『記録』95年8月号掲載記事

■週刊ポストに電話を突っ込む

「ふざけるな」の一念で始めた500円通行の先には、今まで知らなかった世の中の信じられないほど馬鹿げた仕組みがありました。何じゃこりゃと激怒し、なるほどこうなっていたのかと感嘆の声を上げながら新しい世界を歩き始めたのです。たった100円で未知の扉を開く事ができたのです。素晴らしく得をした気分です。しかし扉を開くには大変なエネルギーが必要でした。
 まず、当時の首都高速道路公団のしつこさといったらありませんでした。「100円払え」の大合唱のうるさいこと。当時は「勝手に値上げしておいてうるさい野郎だ」と本気で思っていました。時にはチームを5つも組んで何度でも会社に説明に来てくれるので、全く知らなかった有料道路の知識を洪水のように脳味噌へインプットできました。そんな時に電車の中で開いた『週刊ポスト』の「首都高公団の値上げに反対 道路建設の談合を暴く」といった見出しが目に飛び込んできました。同誌は値上げ反対のキャンペーンを張っていたのです。
 すぐさま、「モシモシ、私は和合といいます。値上げに反対して旧料金で通行しています。どうでしょう、公団の連中が来週100円払えと大挙して押し掛けてくるので取材に来ませんか?何で500円で通れるのかって?いや普通に通っているだけです。もう半年前からです」と編集部に電話で告げると絶句しているので、「モシモシ聞こえていますか?私は和合と申します。モシモシ取材に来ませんか?」と繰り返すと、やっとかぼそい声で、「申しわけありません。今、記者の皆さんも出払っています。よろしければ電話番号を教えて下さい。こちらから連絡をさせて戴きます」と気乗り薄な返事。そのまま忘れてしまいました。
 そしてある日、見るからにクラーイ感じのする眼鏡青年が訪ねてきました。将棋の飛車角みたいな顔に見事なエラが張り、眼鏡の裏側から猜疑心そのものといった細い薄目でこちらを見た後、飛車角は目よりさらに薄い唇から「コンニチワ」とか何とか声を発しました。「会社カラ取リアエズ行ッテコイト言ワレタノデ・・・・取材ニ来マシタ」とボソボソ話す彼こそがポストの「公団を暴く」の専任記者であるフリーライターの中川さんでした。
■記者を乗せての不払い実演

 彼を招き入れた私は、「30年で償却し、無料の約束をしておきながら首都高は絶対にその約束を守れない。その原因はプール料金制度という奇々怪々な仕組みにある」と例のごとく口角泡を飛ばしてまくしたてました。ところが今ひとつノリが悪く、ジッと私を見つめています。彼はワゴウという名の世にも不思議なしゃべる動物を観察していたのです。600円のところを500円しか払わず、正義は我にありと滔々と弁論しているワゴウを、シーラカンスでも見るように下から上から観察していたのです。なぜならば、彼は先に取材をした公団から、「和合は気違いだ。とてもふつうの神経の持ち主ではないよ。ポストさんも気をつけてほうがいいよ」などと貴重な忠告を戴いていたのです。
 ちなみに、以後多数の取材を受けましたが、公団取材の後から来た記者諸君は、「大丈夫かな。食いつかれないかな」などと遠くからコンニチワなどと言って様子を観察してから取材を進めます。逆に先に来た記者諸君は実にあっけらかんと、「和合さんの武勇伝は聞いています。ぜひお話を聞きたいのですが、どうでしょうか。私も首都高には頭にきています」と明るいものです。
 しかし、当時はこんな内幕は知らなかったので、「コリャかなわん」と戦術を変え、「百聞は一見にしかず、実践で500円で通るに限ります」と宣言し、いやがる中川さんを隣に乗せていつもの高島平から首都高へと入りました。料金所が近づいたころに隣を盗み見ると、何と彼はカメラを構えてシャッターチャンスはいかにと細い眼を輝かているではありませんか。つい先ほどのボンクラとは別人です。普段はウラメシヤーとでもいいたげな彼の眼が輝くと、その反動で人の倍も輝いて見えます。なるほど、こういうことかと彼を瞬時に好きになりました。
 熱しやすく冷めにくい私は、普段でも人より熱くなっているぐらいですから、ここ1番では全身全霊でサービスしてしまいます。彼のシャッターチャンスのために職員どもを蹴ちらして3度も首都高を往復しました。職員は、「また来たーっ」と大混乱です。
 中川さんも「これは凄い」と大ハシャギです。以後、ポストの特集には毎回私の写真が飾られました。フリーウエイクラブも中川さんとの密着取材の過程で仲間が増えて設立に至ったのです。毎回30人くらいが集まって気勢を上げました。

■フジテレビ出演拒否騒動

 朝6時からフジテレビのお早う目覚まし時計でニュースのまとめなどをしている軽部真一キャスターは、丁寧に区切りをつけて正確に話す誠実さが災いを引き起こしました。公団のデタラメを話してほしいとの依頼を受けた時のことです。
 その頃の私は、番組責任者と徹底的に話し合って、納得を得てから出演していました。見ようによっては無頼漢かトンデモイナイ野郎になるだけに、私の行動に反対の人の番組に出るわけにはいかず、結局3分の1はお断りしていました。
 打ち合わせ中、軽部氏は長時間丁寧に話を聞いてくれ、明朝6時に自宅まで車を回すとのディレクターの挨拶で打ち合わせが終了しました。しかし軽部氏は仕事が終わって気がゆるんだのか、あるいは忠告のつもりなのか、私にとってはとんでもないことを口走ってしまったのです。「なるほど大きな問題です。しかし、私は和合さんの行動に賛成できません。決まったことは決まったこととして守った上でものを言うのが民主主義の原点です」。
 軽部さんらしい真面目な意見ですが、そんなことは百も承知でやっているのです。ある公団幹部に「気持ちはよくわかりますが、決まったことは守るべきで、特出した行動を取るべきではない。他の方法を取るべきです」といわれたことを思い出しました。「他に方法があるならば教えてほしい」というと、「新聞に投書するとかいろいろあるでしょう」と笑止千万な返答でした。巨大官僚組織の横暴を新聞投稿で止められるでも思っているのだろうか。
 いずれにせよ、この一言で出演キャンセルを決断してディレクターに伝えると、驚いたディレクターは、「うかつでした。和合さんの思い入れを軽く考えていました。お許しください。ひとつ曲げてお願いできないでしょうか」といいました。軽部さんも深々と頭を下げてくれて気の毒でしたが、出演は目的のための手段であり、それがマイナスになるのであれば意味がありません。
 ディレクターは、軽部さんを外す形で出演の了解を求めてきました。軽部さんは大変なことになったとうつむいています。打ち合わせに同席していた5人ほどの仲間も、「これほどいうのですから出ましょう」いいますが、答えはNOです。機材を抱えて帰る彼らのさびしそうな後ろ姿を見ながら、「ゴメン。しかしこれは大きなテーマなのだ。道路行政の根幹に当たる大問題なのだ。テレビ出演云々の問題ではないのだ。軽部さんは今回のことを教訓として頑張って下さい」とつぶやきました。
 この話には後日談があります。6年の歳月が流れ、その後のフリーウエイクラブは度々マスコミを賑わしました。ある日私の移動電話になつかしい声が入ります。「もしもし軽部です。覚えていますか?」「いや、よく覚えているよ。毎朝拝見させていただいています」「ありがとうございます。今度うちの企画で首都高を取り上げます。ぜひ和合さんにインタビューをお願いしたいと、お叱りを覚悟で連絡させていただきました。あの時のことを考えると誠に恥ずかしい思いです。これほど大きな問題とは思っていませんでした。和合さんがこれほどのエネルギーで行動しているとは思ってもみませんでした。和合さんに面識があるということでこの役目を買って出ました。よろしくお願いします」。
 もちろん異存があろうはずはありません。こうして軽部さんと劇的な再会を遂げました。しかし、約2時間もかけて制作したインタビューが2分間しか放映されず、ますます磨きのかかってきた軽部さんのクソ真面目さにも腹が立ちます。しかし、これは彼のキャラクターであり生活の糧。もし文句をいえば、「和合さん、内部干渉もいい加減にして下さい」と逆襲必至です。
 ハイッ、すんません。(■つづく)

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首都高速道路500円通行の正義 第11回/ジャガイモ刑事の虚報逮捕

■月刊『記録』95年6月号掲載記事

■フリーウエイ・パレード

 さあ、出発です。山口さんの赤い軽自動車を先頭に、私の愛車プレーリーを頭にハーレーダビットソンやら種々雑多の20台ほどの車と総勢30人ほどのメンバーが続々と続きます。マスコミや警察の車を含めると40台以上の車の行列が出来上がり、道行く人々は何事かと驚いて足を止めます。
 メンバーの顔は輝いています。晴れ晴れと素敵な表情をしています。やがて打ち合わせ通り、最初の入口である阿波座ランプに到着しました。ここで信じられない最初の出来事に出会います。何と入口が閉鎖されているではないですか。しかも首都高と同じ格好で武装した物々しいカラス天狗達が立っています。
 阪神高速道路公団に問い合せると「混雑のために閉鎖した」との返事ですが、見たところ全く混雑はありません。わけのわからない出来事に苦笑しながら構わず入口に向いました。
 2回目の事件は10分ほど経過した頃に起こりました。けたたましいサイレンが鳴ったかと思うと私の前にパトカーが横づけされたのです。「しまったッ、どこかで一時停止でも怠ったか?おっとシートベルトをしていなかった」。あわてて着用して警官を待ちます。さて、パトカーがサイレンを鳴らし、私の車を停止させた理由は何でしょう?私は断言できるが、答えは麻原尊師にも絶対予言できまい。まずパトカーから出てきたのは制服警官ではなく私服の刑事でした。彼は窓越しに私の耳元でボソボソと、「和合さん、何も大阪まで来るこたあないだろう」と言いました。どうも停止理由は道交法違反などではないようです。

■大阪まで出しゃばるんじゃねえ

 まん丸顔にエラが張ったり頬骨が出ていたりでやけに凹凸の激しい顔立ちをギンギラの油ぎった表皮で包み込み、ニキビの噴火口が点在しているこの刑事を「ジャガイモ刑事」と私は名づけました。このイモは私に旧料金通行を止めさせようと脅している「つもり」なのです。可哀想にフリーウェイクラブの会長を知らないなら教えてあげようと、「何だお前は。刑事なら刑事らしく警察手帳でも見せたらどうだ。話はそれからだ。礼儀の知らねえ野郎だ」と挨拶すると、ジャガイモはハトが豆鉄砲を食らった上に激辛キムチを食べてしまったような顔をしています。普段は羊の群れのような一般市民によほど威張って日常を過ごしているようで、ガンといわれる免疫ができていないのです。
 さて会長も静かに下車します。パトカーを前にして対峙している刑事と私の周りの人達は何事かと固唾を飲んで見守っています。ジャガイモ刑事は、「東京だけでやっていればいいだろう。大阪まで出しゃばるんじゃねえよ。グジャグジャ言うとしょっ引くぞッ!」と放言、お行儀の悪さでは完璧に会長の上を行っています。大阪府は税金でヤクザを飼っているのかしら?当然のごとく会長の火山は、「ジャガイモ野郎!しょっ引けるものならやってみな」と大噴火します。完全に東西ヤクザ抗争の様子を呈してきました。マスコミもどうなるかとカメラを回すのも忘れています。
 ジャガイモはさらに恐ろしい事を耳元に囁きます。「調子に乗りやがって、てめえ何を言っているのかわかっているのか。東京まで追っかけてふんじばるぞ」。会長は道行く国民にガンガンと聞こえる大声で「税金で飯を食っている野郎が善良なる国民に何をいっているのだ!ふざけるな、頭が高いッ!帰れーッ」と怒鳴り返しました。ジャガイモ野郎はみるみる赤黒くなって(顔が黒いので赤くなることができない)すさまじい形相でパトカーで走り去りました。大阪は恐ろしい。東京では絶対にあり得ません。後日わかったことですが、阪神高速道路公団の理事長は代々大阪府警からの天下りです。

■不当どころか「虚報」逮捕

 入口を物色しながら最終打ち合せの港大橋ランプに着きます。「騒ぎは大きい方が意味がある」が持論の青木さんが公団に情報を流していたようで、現場はとにかくいるわいるわ、職員がウジャウジャ待機しています。パトカー5台と警察官もあふれ返っています。山口さんが料金所へ車を乗り入れ「一方的な値上げに抗議し、旧料金通行をします」という声明文を読み上げると、さすが大阪、「アホンダラッ、ちゃんと払わんかいッ!」と、途端に品の悪い怒号が浴びせられるとともに職員に囲まれニッチもサッチもいきません。やむなく「値上げハンターイ」とメンバー全員がシュプレヒコーで抗議するといった応酬が1時間ほど続きます。
 野上さんがソッと寄ってきて、「警察の動きがおかしい。気をつけたほうがいい」と忠告してくれたその時。あのジャガイモ野郎が勘高く一声、「山口逮捕!」と吠えました。「バカバカしい、理由は?」「傷害だ」「えッ、山口さんが何かしたかい?」やがて1人の警官に抱えられてきた職員がズボンをたくし上げ、山口さんの車が足にぶつかったと一心に説明しています。納得できない私は、「だってオッサン、何にもなってないじゃないか。それに山口さんの車は走っていないよ。止まっている車がオッサンの足に当たりようがないじゃないか。俺はガンガン走っていたから当てたとしたら俺しかないよ」と憤慨して一生懸命説明したものです。
 しかし彼らは原因や理由は何でもよかったのです。またもバカタレジャガイモが「山口逮捕!傷害現行犯だ」と叫びます。私も人混みで身動きできず、10人くらいの警官が山口さんを連行して行くのをどうしようもできません。しかし山口さんはアタフタとした様子はなく、実に堂々と警官を従えるように歩きます。「今に見ていろジャガイモ野郎。山口さん悪い」とわびます。信じられないことに、同日から12日間も拘留されたのです。
 さあどうする。取りあえず全員集合して対策を練りました。青木さんはマスコミを集め、篠塚さんが記者会見をします。大津卓滋顧問弁護士に頼んで同期の川下先生が駆けつけて下さり、早速港警察署で接見。山口さんは意気剛健で、「人生の良い経験をさせてもらっている」と話をしたそうです。
 たった1日、されど長い長い1日でした。色々な勉強をさせてもらいました。帰りの新幹線の座席に身を沈めると山口さんの顔が浮かびます。少し待って欲しい、そんなに時間はとらせないよ。

吉報です。
フリーウエイクラブ会員の田中健さんが東京都江戸川区議に当選しました。彼は先生になっても首都高通行は500円です。(■つづく)

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行動派宣言! /水俣病センター相思社

■月刊『記録』94年8月号掲載記事

■「水俣病を記録し伝える」考証館活動を展開/財団法人・水俣病センター相思社

■運動の目標

 財団法人の寄付行為には「この法人は水俣病患者ならびに関係者の生活全般の問題について相談、解決にあずかるとともに、水俣病に関する調査、研究活動を行なうことを目的とする」と記載されている。当初目指したことは、患者との共同作業所として、患者のこころの拠り所として集える場所、医療基地として、水俣病を記録すること、の4点があった。しかしそれらも実現の努力がなされ、試行錯誤はあったが、形としては最後の「水俣病の記録と伝達」が現在の活動の中心となっている。

■発足の経緯

 69年に提訴された水俣病第一次訴訟の運動と、同時平行的に展開していたチッソとの自主交渉派の運動が、結審後に東京交渉団として合同して、73年7月、水俣病補償協定書をかち取った。水俣病事件を後世に長く残していきたいという気持ちと、患者たちのこころの拠り所を、という気持ちが水俣病センター相思社を作るきっかけとなった。
 この構想はすでに72年頃から始まっており、同年のストックホルム環境国際会議でも提起された。石牟礼道子、宇井純、原田正純らが設立委員となって、数多くの賛同者を集め、また資金カンパも呼びかけた。

■運動の歴史

 相思社の歴史は大きくは、74~89年まで、90年~現在と分けられる。前期は未認定患者運動を全面的に支えた歴史であり、後期は「水俣病を記録し伝える」水俣病歴史考証館運動に集中している。
74 水俣病認定申請患者協議会設立
75 県議「ニセ患者発言」にたいする闘争
77 ヘドロ処理工事差止め請求/水俣の甘夏取扱開始/水俣実践学  校の開催(現在にいたる)
82 水俣生活学校開校(92年閉校)
86 アジア民衆会議
88 水俣病歴史考証館開館
89 いわゆる甘夏事件、理事相思社辞職
90 考証館移動展開始/機関誌「相思社だより」発行(現「ごんず  い」と改題)
93 埋立地での行政企画にユージンスミスの写真出品

■今後の抱負

 水俣病事件関係のことなら、どんな要求にも対応できる資料・記録のリファレンス機能を持ちたい。また、子供向けの水俣病事件を伝える書籍の出版を。
思い出深い出来事
 89年の甘夏事件。相思社の経済的支柱であった甘夏みかん販売を巡り、「不正がある」との指摘に対して、理事総辞職・職員の半数辞職という事態になった。この問題は甘夏みかんの販売にとどまるものではなく、水俣病患者運動の曲がり角、患者と支援者の関わり、産直運動の困難、などが集中的した結果に起きたことである。
 これによって相思社は患者運動を全面的に支えるという姿勢から、「水俣病を記録し伝える」考証館活動に転化していった。

■工夫している点やユニークな視点

 運動団体にありがちなコスト無視・時間おかまいなしではなく、いわば一般の会社のような規律で運営したい。勢いと数・気持ちだけで押し切る運動ではなく、10年・20年後までも思想的にも、企画としても残って意義ある団体ににしておきたい。

■運動の問題点

 テーマである「水俣病を記録し伝える」ことが、経済的基礎になっていないこと。カンパ・会費・物販が主要な収入である現状が、経済的不安定をもたらしている。企業・行政などからの寄付や、本来的な活動からの収入を軸にすることが問われている。
運動を継続するためのポイント
 水俣病事件の思想的意味や現代的意味を、誰にも分かる言葉にすること。(さとう)

■■■ことばメモ

【水俣病】
 熊本県水俣市にあるチッソ水俣工場のアセトアルデヒド製造工程で生じる有機水銀が汚染した、不知火海の魚介類を食べ続けた周辺住民に発症した。
 意識を失って死亡するほか、手足にしびれや痛み、運動障害や視野狭さく、難聴などが長期間続く。
 公式発見は、チッソ付属病院が1956年、保健所に報告したが、経済優先を掲げていた政府が公害認定したのは12年後。その間に被害は拡大し、多くの裁判が各地の裁判所で争われた。
 熊本地裁の1次訴訟は、73年に認定患者がチッソの企業責任を認めさせた。認定棄却患者らが救済を求めた2次訴訟も原告勝訴、行政責任を問う3次訴訟は、国・県の責任部分について各地裁判所で判断が分かれる。
 また、前述の熊本県の認定作業遅れを違法状態と確認したり、遅延賠償を求める訴訟や、認定棄却の取り消し訴訟、チッソ幹部の刑事責任を問う裁判などもある。
水俣病認定制度は60年に発足。環境庁によると(92年現在)、認定者数は2942人。

■現在の……「水俣病センター相思社」ウェブサイトhttp://www.soshisha.org/

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行動派宣言! /第9条の会

■月刊『記録』94年7月号掲載記事

■憲法9条を拡げるため米国人が設立/第9条の会

①運動の目標
日本国憲法第9条に表現されている戦争放棄の崇高な理念が、取り入れられるように改正が行われること。

②発足の経緯
 91年オーバービー氏が設立した動機は、湾岸戦争において米国政府がとった軍事優先の解決方法が、ばく大な人命の犠牲と、重大な環境破壊をもたらしたことを憂慮、あらゆる国際紛争は第9条の精神に従い、非暴力的手段によって解決すべきであると痛感したことによる。

③運動の歴史
 91年12月、会はオハイオ州政府によって、非営利・平和・教育団体の法人として公式に認可された。
 92年1月、オーバービー氏は東京で開催された国際シンポジウム「アジア太平洋の平和・軍縮・共生のために」に参加のため来日し、この機会に名古屋、広島、東京、仙台において「21世紀以降のモデルとしての第9条」と題する講演を行った。
 92年8月、米国ピッツバーグで開催された「退役軍人平和の会」年次大会において、オーバービー氏の提案により「第9条の会」の趣旨に同意し支持することが決議された。
 93年11月、オーバービー氏は再来日して1か月余り滞在し、北海道から沖縄まで全国約20ヶ所の都市で「第9条は世界への日本の贈り物―非暴力紛争解決による世界平和を目指して」と題する講演会、市民集会を開催した。
 93年11月、「第9条の会」と「平和憲法(前文・第九条)を世界に拡げる会」との共同声明を発表、オーバービー氏、豊田利幸氏(名古屋大学名誉教授)、樋口陽一氏(東京大学教授)による「憲法9条の普遍的心理」と題する対談が行われた。内容は「軍縮問題資料」94年2月号・3月号に掲載された。

④今後の抱負
 人類の歴史における重要な変革期にあたり、21世紀の各国にとって有望な規範と考えられる類いのない立派な日本の平和憲法を、全世界がこれを見ならうように訴えていく。国内、国外からの憲法改悪の圧力に屈することなく、「平和憲法を世界に拡げる会」など、同じ目標をもって活動する草の根市民団体と協力し連帯して運動を進める。

⑤思い出深い出来事
 各地で行われた講演会の準備にあたって、多くの平和運動団体の間に横のつながりができた。ほとんどの講演会場で予想以上の出席者があり、講演後の質疑応答も熱心に行われた。また思ったより若い世代の出席者が集まった。
 93年12月、オーバービー氏は衆議院議員・國弘正雄氏のお取り計らいで、衆議院議長・土井たか子氏、同副議長・鯨岡兵輔氏と懇談することができた。

⑥工夫している点やユニークな方法論
 現在機関誌は発行していない。庄幸司郎氏のご好意によって「告知板」の誌面の一部を提供していただいている。

⑧運動を継続するためのポイント
 関心をもって集まる人は、戦争体験の世代が圧倒的に多い。若い世代の人々に、この運動を継承してもらうことが今後の重要課題であろう。

■■■ことばメモ
【日本国憲法第9条】
 1947年に施行された日本国憲法は、第2章第9条で「1項/日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」「2項/前項の目的を達成するため、陸海空軍その他の戦力はこれを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」と定めている。
 また第9章第96条には憲法改正の規定がある。条文によると「各議院(参議院と衆議院)の総議員の三分の二以上の賛成」によって発議された後、「特別の国民投票」を行うか、もしくは「国会の定める選挙の際行われる投票」を通じて、全投票の過半数を得なければならない。
 政府は1954年12月21日、「自衛のために必要な限度において持つ自衛力は戦力にあたらない」とし、自衛隊合憲論を展開した。以後、自由民主党憲法調査会が1982年に「9条2項を削除して,〈2章の2 自衛隊〉という新しい章名のもとに9条の2を新設するなどとした改正試案を発表するといった動きなどがあったが、改正が具体化したことはない。

■現在の「9条の会」団体ウェブサイト・http://www.a9s.org/

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行動派宣言! /富士見産婦人科病院被害者同盟

■月刊『記録』94年7月号掲載記事

■あれから14年-民事裁判は続く/富士見産婦人科病院被害者同盟

①運動の目標

 事件発覚と同時に被害者の把握と救済、事実を明らかにすることを目的に開始。国や県、医師会、学会などに働きかけ、二度とこのような事件が起こらないよう関係者の責任を問い続けてきた。
 刑事裁判は無資格者による医療の管理責任を問うことに終わり、障害罪告訴は不起訴になったので、病院の組織ぐるみの犯罪、医師の障害行為は民事裁判で問いたいと、14年経ったいまも、東京地裁で闘っている。

②発足の経緯

「おなかの中がわかるいい機械がある」といって超音波診断装置を宣伝に使い、無資格者が診断、手術を勧め、医師たちは不必要な手術(子宮・卵巣摘出)をしていた。この事実を、一患者として入院した人はほとんどみな、見ぬけなかった。
 不信を抱いた患者たちが集まって初めて被害が確認できた時、医療への信頼は裏切られ、崩れた。この時の怒りが出発点であり、「許せない、忘れない、繰り返すまい」が合い言葉である。

③運動の歴史

 同盟結成直後から「アンケートによる実態調査」を行い、カルテ類の証拠保全をして、被害の事実確認。三次にわたって刑事告訴。同様に三次にわたる民事提訴。6か月の閉鎖命令を受けた病院の再開に反対、市民大集会を開き、署名活動、陳情もする。4年後に病院は競売に付され廃業になる。現在は院長が別の所で小さなクリニックを開いている。
 運動は全国の薬害・医療被害者と結び、厚生省や県衛生部へ改善を求める行動に広がり、厚生省交渉の場では患者側からの発言を続けてきた。また、「女のからだと医療を考える会」の発足にも参加。子宮筋腫手術や出産・更年期などに関わる医療を、女の立場で問い直す試みが始まった。
 会員連絡紙は、6年目から「所沢発・なんじゃかんじゃ通信」と題号を変え、現在に至る。「かんじゃ」側から日本の医療が抱える問題を考え合いたいと、医療をめぐる疑問・発言・情報、体の相談コーナーも設けている。ぜひ、お便りをお寄せ下さい。

④今後の抱負

 なんといっても、原告67人が医師6人と理事長、病院、県、国を相手に闘っている裁判に勝つこと。そして、富士見病院の医療は、金もうけのための手術だったことをはっきりさせ、事件が患者主体の医療を確立することに少しでも生かされたらと願う。

⑤思い出深い出来事

 事件報道が盛んだった当初、カメラに追いかけられると、自分が悪いことをしたかのように、顔を隠したり返答を避けたりしないではいられなかった。だが、被害をみつめるなかで、自分は患者としての当然の権利を侵害されたのだという自覚が育った。
 私たちは被害者から自立した患者へと変わった。同時に周囲の女性たちも、自分のからだについて大きな声で話すようになっていった。いまや、インフォームド・コンセントは当たり前というところまで患者の意識は高まってきた。この変化は運動を続けてきたなかで、本当に大きいものとして実感できる。

⑥工夫している点やユニークな方法論

 富士見病院へ行ったという一点だけで知り合った被害者たちは、年齢も環境も考え方もバラバラ。同盟は200人ほどだが、被害を保健所に訴え出た人は1000人を超えた。民事裁判原告を核にして、市民、弁護士、わずかな医者が周囲を支えてきた。
 運動論も何もなく、偶然の出会いから、やむにやまれず関わり合い、その時々の道を探ってきた。不思議なことに、困った時に、頼りになる新たな支援者が現れたり、情勢が転換したりした。
 出会い。寄り合い。去る人。来る人。そんな人の潮に自然に乗ってきたのかもしれない。これからも、怒りを共有してくれる仲間が増え、広く医療への感心を育て合うことができたら、うれしい。そんな機会を待ちたい。

⑦運動の問題点

 裁判が長期化すると息が切れてくる。障害罪告訴が不起訴になったのは医者の裁量権という壁に突き当たったからだが、医療裁判では公平な判断をどこに求めるべきか。やはり良心的な医者の多数の参加がほしい。

⑧運動を継続するためのポイント

 あまり気ばらずに、その時々で一番大事なことを見極め、集中することが大切。納得のいくまで同じ件をむし返したり、ペースの遅い人に合わせる辛抱強さも必要。「木を見て森を見ず」という落とし穴に注意を払い、大きな目的を確認し合っていきたい。

■■■ことばメモ
【富士見産婦人科事件】
 80年9月、埼玉県所沢市にあった富士見産婦人科病院の北野早苗理事長が、無資格で超音波断層診断装置を操作して診断行為をしたとして、医師法違反の疑いで逮捕されたのをきっかけに、手術の必要のない正常な子宮や卵巣を摘出されたという元患者からの訴えが相次ぎ、大きな社会問題になった。
 被害者同盟は、理事長と北野千賀子院長らを傷害罪で告訴、県警は11月、院長ら5人の医師らを医師法違反ほう助と保健婦助産婦看護婦法違反の疑いで書類送検、理事長と院長が起訴されたが、傷害罪は「手術は医師の裁量の範囲内で、治療目的でなかったとするには証拠不十分」として83年不起訴に。
 88年、浦和地裁川越支部は両被告に有罪判決を言い渡した。89年、東京高裁は控訴を棄却、次いで90年、最高裁が上告を棄却したため、早苗被告の懲役1年6月・執行猶予4年、千賀子被告の懲役8月・執行猶予3年の刑が確定した。民事裁判は係争中。

■現在のウェブサイト・http://higaishadoumei.com/

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行動派宣言! /全国じん肺患者同盟長崎県連合会

■月刊『記録』94年7月号掲載記事

■「継続は力なり」を理念として/全国じん肺患者同盟長崎県連合会

①運動の目標

 ①労災保険法、じん肺法・労基法等の改悪阻止の運動の継続②労災保険遺族保証並びに葬祭料の不支給事件に対する是正を求める運動の強化③じん肺症は「全身性疾病である」との法的認知を早急に実現を求める運動の強化④じん肺有所見者(潜在患者)の救済活動の継続強化⑤じん肺の根絶と全被災者の救済を目指す「じん肺訴訟」の支援継続の運動強化⑥会員・准会員・ご遺族との相互扶助と親睦交流の拡大と、物故者の慰霊に関する事業の継続強化⑦同盟本部・友誼団体との運動の研修・親睦交流強化。
 発足時から昭和50年頃までは、もっぱら組織拡大に活動の主体がおかれたが、53年のじん肺法改正、翌年の労災保険法改正等に伴い、療養と保証への危機感が強まり、運動の実践強化が全体の意識として確立してきたといえよう。

②発足の経緯
 若干の推測も加わるが、昭和30年7月けい肺特別保護法(外傷性背髄障害者と抱き合せ)の制定、臨時措置法が33年5月に発足した。また、東京石工・土連総連の運動の継続と合せ、よろけ病撲滅の運動をはじめた。足尾銅山被災者と労働組合の運動が奏功し、35年に「じん肺法」が制定施行されるという歴史の流れと、全ての患者の団結と連帯した運動の体制作りこそ、重要との呼びかけに呼応したといえよう。

③運動の歴史
 基本方針を毎年度開催する「全国代表者大会」において協議し、当面した最重要運動事項をまとめ、労働者を中心に「療養と補償と医療福祉」に関連した各省庁に対し陳情交渉を行ってきた。
 昭和55~56年頃から「中央委員会」を構成し、各地方から選出された中央委員と、同盟本部役員の合議によって「当面する運動課題」をまとめ、労働者(中央労働基準局)を中心に運動を継続。
 長崎県連合会では、個別毎に発生した諸問題は、直ちに関係する行政窓口と対応した問題処理を行っている。

④今後の抱負
 基本理念は「継続は力なり」。法律と施行規則等、法と規則の運用に、不合理と矛盾が残されている現実に対し国会への対応と労働者への個別的問題発生と機敏性のある対応など、過去の運動をしっかりと総括し反省して、体制の再構築が必要である。

⑤思い出深い出来事
 じん肺の根絶と全被災者の救済を究極の目的とした、いわゆる長崎北松じん肺訴訟。日本初の石炭鉱山労働者のじん肺被災者が、被告企業の責任を追及する提訴を、昭和54年11月1日に行ったが、準備体制作りに、52年秋から奔走し、実現させた。
 労災保険法による遺族補償並びに不支給事件に対する、遺族からの要請に応じた不服審査請求を百数十件実施し、原処分の取消しを6件成功させた。
 労災保険による遺族補償並びに葬祭料不支給事件に対する、約百件の再審査請求を民主的有力弁護士と協力し合って実施し、原処分の取消しを4件成功させた。
 かつての親しき仲間であった会員で死去された、物故者の慰霊事業を県連合会の発足と同時にはじめて21回を終えたが、ご遺族の感謝の念はますます高まり、「運動とは形ではない、心から燃え立つものに尽きる」ことを教訓として学んだ。

⑥工夫している点やユニークな方法論
 世話活動に当たるすべての人々が療養患者であるので、県連本部役員のみでは体制が弱く、また行動効果にも低さは免れぬため、大きな世帯会員数を保持する支部長級(5人)を、県連本部役員に準じて、県連本部役員会(年6回)にも出席して頂くと共に、行動についても「各個の体調、地域条件」に従って協調行動を行い、問題処理の遅滞を防ぎ、幅広い助け合いできびしい患者運動を維持するために苦心している。

⑦運動の問題点
 ①直接携わるすべての人々は、同時に療養中の認定患者であるから、その時点における体調によって、行動に大変制約を受ける。
 ②世話活動に当たる患者の高齢化と病気の悪化は必然の傾向であり、後継者の育成で大変苦境に立っている。

⑧運動を継続するためのポイント
 ①犠牲的奉仕精神の強い後継者育成に努力を怠らぬこと②法律(療養と補償と医療福祉)に対する研修は怠らず、問題点の整理をしっかりと行い、先見性に立った説得力のある理論によって、陳情交渉を行い、成果を引出す工夫が必要③療養と補償の関係は、その根本が法と制度の運用にあり、国会審議にゆだねる度合いにあるので、一人でも多くの超党派の国会議員の理解と協力を得るための努力をいっそう強めること。

■■■ことばメモ
【じん肺】
 職業病の一つで,長期間にわたって吸入された多量の粉塵が肺に沈着した結果、肺に広く繊維増殖性変化(肺繊維症)を起こす病気。肺胞への空気の出入りが悪くなり息切れが起こる。病気が進むと,呼吸困難などの自覚症状が起こる。
 長崎じん肺訴訟は、85年の長崎地裁判決で、患者20人分の請求を時効を理由に退け、43人分について一人当たりの慰謝料を2300万円から1000万円の3ランクに算定。89年の福岡高裁判決は、患者30人分の請求を時効とし、一人当たりの慰謝料を1200万円から300万円の四ランクに算定した。じん肺は、症状が重くなるにしたがって管理区分2から管理区分4まで大まかに三段階の行政認定を受ける。
94年2月の最高裁判決で、可部恒雄裁判長は、最大の争点になっていた時効の起算点について、「患者にとって最も重い行政認定を受けたときから時効が進む」と患者側に緩やかな判断を示して、二審で逆転敗訴になった10人の患者について「時効は成立していない」と認めるとともに、33人については、二審の慰謝料額の算定を「低きに失する」とし、合わせて患者四十三人分の審理を福岡高裁に差し戻した。残る患者22人分については、最高裁の判断でも時効が成立するとして、原告側の上告を棄却した。(■つづく)

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鎌田慧の現代を斬る/ヤラズボッタクリ介護法成立に怒る

■月刊「記録」1998年1月号掲載記事 (表記は掲載当時のままです)

*           *            *

■無能無策の労働組合

 不況のうちに新年を迎えた。残念ながら、社会状況はこれからますます厳しくなりそうである。山一証券に代表されるような大型倒産続出の影響は、じわじわと日本社会に浸透していきそうだ。これらは放漫経営によるツケが労働者にまわされたものだが、最大の問題は、労働組合が完全に御用化し、なんの機能も果たしていなかったことである。
 倒産の当日まで、労働組合の幹部がまったく情報をもっていないのは信じがたい。これは経営にたいするチェック機能をもつはずの労組が、なにもしていないことを如実に物語るものだ。企業にたいするYESマンだけで執行部を形成しているから、倒産にたいしてもなんの手も打てない。さらに社員の行く末についてなんの責任ももてない状態にある。銀行・証券の経営危機につづいて、これからはゼネコンの倒産が深刻化するといわれている。すでに闇の存在である外国人労働者の解雇は、急速に進んでいる。力の弱い企業からどんどん整理されていくであろう。そんな状況で労組がまったく役立たないのは、労働者にとっての悲劇といえる。
 また倒産の憂き目をみなくとも、かなりの数の社員がリストラによって会社の外に放りだされ、派遣社員やパートタイマーに代わろうとしている。日本百貨店協会の調べによれば、九二年をピークに社員数は減少している。たとえば、九六年度一〇%だったパート比率は、九九年度には倍の二〇%になると見込まれている。これらは本社員を中心とした労働組合が、組合最大の眼目である雇用さえ守れなくなったのをしめしている。組合費を払っている組合員を守れないのでは、なんのための組合費だかわからない。
 経営者のいうがままの労働組合に破綻が生じているのは、予想された事態である。同様に国を信じきっている国民もまた、ますますひどい目に遭うことが予想される。その典型的な例が、一二月九日に成立した「介護保険法」である。
 これは強権・自民党と腰巾着・社民党などによって強行された法律だが、一口でいえば「福祉」の名を借りたヤラズボッタクリ法である。大衆収奪の極端な例だ。訳のわからない評論家の一人である樋口恵子などは、「問題が多いが条件付き推進派」などといっているが、この法案の本質をわかっているのだろうか。たしかに福祉の問題は、彼女がいうように社会全体で考える段階に入っているが、なにもボッタクリ法案に賛成する道理などない。
 高齢化社会をまじかに控え、老後の介護をどうするかは国民的な課題である。まして社会福祉の遅れている日本は、その制度の充実が期待されている。その国民の不安と期待に乗るような形で同法案を成立させたのは、極めて罪が深い。
 まずこの法案は、実施時の状況がまったく考慮されていない。この法案は二〇〇〇年四月から運用されるが、このとき保険料が一人当たりどれぐらいになるのか、さらにその保険によってどのようなサービスを受け入れるのかが明らかになっていないのである。
 具体的にいうと、二〇〇〇年四月以降に四〇歳以上のものは、加入する医療保険に応じて数千円の掛け金を強制的に払わされる。しかしサービスを受ける権利をもつ六五歳以上のうち、どれだけの人間がサービスを受けられるのかが決まっていないのである。保険料を払っているのにサービスは受けられないという「国家的詐欺(自民党議員)」(朝日新聞・一二月一〇日号)という声まである始末だ。
 そもそもこの法案は、汚職官僚・岡光序治が始めた「新ゴールドプラン」に乗ったいい加減なものである。具体的な内容が決まらないうちに、国民の金を収奪する方法だけが国会を通過したのには、驚かざるを得ない。

■7つの問題点

 介護保険の問題点については、東京都の武蔵野市が簡明にしてわかり易いパンフレット作成し、各戸に配布している。タイトルは「介護保険について、もう一度考えてみましょう。まだ間に合います。保険者とされる武蔵野市からの提言」である。
 ここで述べられている項目は次のようなものである。「一・保険あって介護なし、二・コンピュータによる介護認定は正しいか、三・困った時にサービスが受けられるか、四・選択されてしまう被保険者、五・知られていない被保険者負担、六・厚生省がすべてを管理する中央集権の制度、七・二〇〇〇億円の無駄な事務費」。これらの提言は、法案の本質をみごとに突いている。保険者(実施者)としての自治体が、住民の福祉のために体を張ってこの法案を阻止しようとする姿勢はすばらしい。 まず「保険あって介護なし」という批判については、「介護保険は、はたして、医療保険とおなじように、『いつでも、どこでも、だれでも』必要な時に必要な介護を受けられるような制度となるのでしょうか」と設問している。現在、多くの地域では介護の基板が整っていないためにサービスを供給できない状況にある。この未整備な体制の上に介護保険が導入されれば、介護サービスを受けられない市民が大量に生まれ、地域社会が大いに混乱すると武蔵野市は分析している。
 これは労働災害保険の例からみても、正しい予想だ。 現在、過労死や過労による自殺などを労働災害として申請しても、ほとんど棄却される。保険の認定が官僚の判断によると、不服申し立て申請をしても、なかなかラチがあかないのである。これこそ日本社会における長年の悪弊である。
 それだけではない。労災保険によって徴収された資金は、労働省官僚の経費として使用されているのだ。労働省のさまざまな施設が厳しい審査もなく作られるが、肝心の被災労働者への支払いは極めて姑息に制御されている。介護保険が労災の二の舞になることは、間違いない。

■保険料を払っても介護されない?

 次に武蔵野市が指摘しているのは、「要介護」「要支援」のコンピュータによる判定である。というのも介護を認めないための言い訳として、この判定を使う懸念があるからだ。
 だいたい人間の諸症状が、コンピュータや一律の基準によって「要介護」「要支援」などと判定できるのだろうか。この法案に賛成している人は、医療保険とおなじように考えている。保険証があれば、全国どこでも、だれでも、病院で治療が受けられる制度と混同しているのである。だが実際の介護保険は、介護を要するかどうかを調査員の訪問調査ののち、コンピュータでの処理・判断をさせるという。介護の要請者にたいして、膨大な却下を発生させ、「コンピュータによる基準がありますので」と要請者を締め出す可能性は高い。さらに幸運にして厳しい医療介護認定をくぐり抜けても、一律のサービスが支給され、個人の状況に応じたきめ細かい対策にはなりそうもない。
 しかも四〇歳以上、六五歳未満の人はほとんど無条件に給付されないのである。たとえば交通事故で要介護になっても、対象とはならない。いったいどんな人を介護しようとしているか、さっぱり実態がみえてこない。
 さらに最大の問題が、この法案に隠されている。それは救うべき弱者を切り捨てるシステムが内蔵されていることだ。
 まず保険料の問題がある。保険料は所得別に五段階に分けられているのだが、最低で月額一二五〇円、最高で三七五〇円の定額保険料となっている。しかも導入後はアップが確実で、二〇一〇年には平均で三六〇〇円になると見込まれている。
 先ほども述べたように、これだけ保険料を払っても認定を受けなければ介護を受けられない。さらに介護を受けるために、利用者はサービスの一〇%を負担しなければならないのである。たとえば月三〇万円のサービスを受けたとしたら、その老人は月三万円を支払わなければならなくなる。たとえば年金で月四万円ほど貰っている老人は、保険料と負担料で年金のすべてが国家に巻き上げられてしまう。となれば食べるために、介護をあきらめることになろう。
 一〇%もの負担は低所得者にとって、極めて重い負担だ。これによって、タダ掛けポイ捨ての弱者が多数発生する。しかも介護には保険外負担もあるのだ。それを全額自己負担できる人が、日本にどれほどいるだろうか。今までか細い社会福祉制度でかろうじて支えられてきた人も、保険料・利用者負担・保険外負担によって、受給から排除されることになる。
 あたかも社会福祉を充実させるようなポーズを取りながら、生活最底辺層の経費に国家が手を突っ込み、収奪してポイする法案が許されて良いはずはない。
 もちろん自治体としての問題もある。この法案は、厚生省によって実施するため、市町村にはほとんど実質的な権限があたえられていない。結局、「機関委任事務」が新たにふえたことになる。地方主権が叫ばれているなか、時代に逆行した政策が大手を振って成立したのだ。 このように国民生活に重大な影響をおよぼす新たな制度が、討論のないままに国会を通過し、国民が衆知することなく実施される。しかも社会保険料から天引きされるという最悪のパターンが決定している。これは国民の基本的な人権を剥奪するファシズム的な政策そのものだ。

■国家的火事場泥棒の時代になった

 武蔵野市が先ほど述べたようなパンフレットを作成したのは、保険者(実施者)としての現実的な不安によるものである。土屋正忠市長は、保険料未納者には市がペナルティーを課さなければならなくなると語る。なぜなら未納者が増えると保険が成立しなくなり、市の一般財源をもち出さなければならなくなるからだ。さらに医療介護状態にたいする認定でも、市に不服申し立てが続出するという不安を表明している。コミュニティで支えていく福祉の実践に挑戦してきたからこその言葉には重みがある。
 武蔵野市は介護保険法案に代わる方法として、「高齢者の自立支援・介護は全国民の連帯で支えるため、消費税賦課方式より介護財源を確保する」ことを提唱している。これは消費税方式で徴収された税金が市町村に配分され、市町村が独自のサービスを加えて提供できるように求めたものだ。
 国家がすべての金を握っている中央集権制度とは、またちがった方式である。中央が画策したヤラズボッタクリの大衆収奪法を排除するのに必要なのは、地方自治と住民の連帯による新たな福祉制度の創設であろう。一律に中央がコントロールすべきものではない。さまざまな方法によって介護は行われるべきである。
 介護問題を解決するには、個人の生活を防御する社会福祉政策をどのように充実させていくのか、そのような本質から考えるべきである。高齢化社会における介護不安を呼び水に、不安解消のかけ声で惑わせ、一挙に成立した火事場泥棒的な決定は混乱を招くだけである。それぞれの地域で生きる人の思いを含んだ政策が望まれる。ここで強調したいのは、抵抗しなければ、なにをされるかわからない時代に入ったということだ。 (■談)

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鎌田慧の現代を斬る/大不況を生きる

■月刊「記録」1997年12月号掲載記事 (表記は掲載当時のままです)

        *           *              *

■貧乏人殺しの政府の犯罪

 最近、日本経済の先行きの困難さを、週刊・月刊誌が競うように特集記事にしている。政府はこれまで緩やかな景気回復にむかっていると言い続けてきたのだが、ついにどうしようもない破綻を引き出したのは国家である。すでに三、四年前から、不況は深刻化していたのである。にもかかわらず消費税の値上げなど、政府は逆手の経済政策をとり続けた。これによって余計に経済的な混乱を極めてきたのだから、政府の態度は人殺し的である。
 バブル景気に大盤振る舞いしていたゼネコンの倒産が相次いでいる。東海興業は七月に五一一〇億円の負債を抱えて倒産しているし、多田建設は一七一四億円、大都工業は一五九二億円という巨額の負債を記録した。まさに大型倒産のラッシュである。しかしゼネコンの倒産は、これから本番を迎えようとしているのが実状なのだ。 建設だけではない。銀行も統廃合の方向にあり、三洋証券も三七三六億円の負債を抱えて倒産した。さらに大規模な海外進出を図り、人々の目を引いていたヤオハンも倒産。ダイエーに資金を肩代わりしてもらう状態となっている。このような状況のなか、莫大な不良債権を抱えている銀行がさらに融資を引き締めようとしているのだから、今後、中小企業へも倒産が波及する。そもそもこの経済混乱は、バブル期の放漫経営が破綻したものだ。しかもそのバブルを煽ったのが政府だった。
 たとえば中曽根康弘首相は「舶来品を買え」と大号令をかけ、デパートで自らネクタイを買うデモンストレーションをしたことさえしていた。当時、日本企業の輸出攻勢によって貿易摩擦が激化。海外からの強い批判を輸入品の購買によってかわそうという姑息な手段で、無駄な買い物をしろと国民に強要したのだ。では企業はどうしていたかといえば、合理化を進めて現場の労働者を苦しめながら過大な超過利潤を獲得。一方で海外摩擦というツケを、勤労者の無駄な買い物によって解消させようとしていたのであった。
 バブル期の精神的な後遺症は、無駄遣いの増大と、ローン至上主義だった。これは土地や株が暴騰するという前提の上に立った価値観だ。銀行でローンを組み、不動産や株を買えば儲かるなど虚妄としかいいようがない。しかも土地の高騰は、税収入を増やし国庫を潤したのである。バカをみたのはなけなしのお金を不必要な不動産や株に投入した庶民であった。しかも地価の高騰にたいする期待が身分不相応な不動産を買う傾向につながり、いまなおローン地獄に苦しんでいるサラリーマンは、膨大な数にのぼる。バブル崩壊以降、自己破産の件数がうなぎ登りになっているのは、その証明である。
 むろん不動産業も、ゼネコンも、銀行も、生命保険も、膨大な不動産を取得したはいいが、塩漬けにしている。それが事業経営に大きな負担になってしまったのだからバカげた話だ。そして銀行は苦し紛れに、ゼネコンや証券会社への支援を打ち切らざるを得ない。輸血を止めるなら、死ぬしかない。ツケを先延ばしにして延命してきた企業に、遅ればせながら地獄が現れたのである。

■四八万人が一年以上失業

 これまでも不況はつねにあったわけだし、それに伴う解雇・首切り・リストラは続いてきた。しかし今回は、世界経済の不況も同時に起こっている(米国経済は、まだ堅調であるが)。香港の株式暴落やタイのバーツ暴落などにより、アジア各国に投資した膨大な資金を回収できるかどうか。それが今後非常に注目すべき問題となっている。
 またアジア各国の不況により、海外進出の伸びが止まった。たとえばタイのトヨタ工場は、操業中止に追い込まれた。いまにも各国で操業中止・撤退が始まろうとしている。こうなると内需拡大しか景気浮上の方法はない。しかし先ほど述べたように消費税の値上げは大きく、減税はうち切られ、医療費の値上げも実行された。そのうえ厚生年金への不透明さが将来への不安を煽り、消費へ手がまわらない。
 すでに消費税の値上げによりデパートやスーパーの消費が低落してきていたが、ついに一人勝ちを続けていたコンビニエンスストアの売り行きも落ちてきている。いま街には底冷えの気配が濃厚になってきている。
 これにともなって失業者の増大にたいする懸念も強くなってきている。いままでも大失業という見出しによって、バブル崩壊前後にも何度か不況が取り沙汰されてきた。しかし、これは大失業という脅かしにより、労働者の抵抗を抑えるという戦略的な誇大宣伝の色彩があった。しかし今回は少しちがう。
 総務庁が六月に発表した九七年の労働力特別調査によれば、完全失業者二三〇万人のうち、一年以上の長期に渡って失業している労働者は、四八万人と全体の二〇・九%を占めている。
 そもそも日本の失業率統計は、きわめて曖昧なものだ。調査期間の一週間に一日でも働いたものは、失業者に入れないという厳格な基準がある。つまりパートやアルバイトで一日でも働けば、立派な就労者として集計されるのである。さらに半失業状態の家内工業で働いているものも、就労人口のなかに組み入れられている。こういった数字の操作により日本の失業率は三%を保っているが、実態は五%強とも推測されている。こんなごまかしだらけの総務庁の統計でさえ、一年以上就労していないものが二〇・九%もあるというのは、これまでになかった非常に深刻な事態である。

■年収五〇〇万から一八〇万に

 都立労働研究所調査には、次のような事例が報告されている。
 この調査は、都内の職業安定所や専門学校へ通う四〇~六〇歳代の六五人に、研究員らが面談調査した。いくつかの実例をみてみよう。
 <2年前にレンガ製造会社を早期優遇退職した57歳の男性は、あっせんされた再就職先が倒産。自分で探した会社に移ったものの経営が不安定でこれも退職、友人と事業を起こした。が、採算はとれず、妻がパートに出始めた>
 <49歳の自営デザイナーは、得意先の倒産などで一時は500万円あった年収が180万円程度に。1995年春に廃業後、経験を生かせる再就職先はない。在学中の子供2人を抱え、妻のパート収入と預金の取り崩しでしのいでいる>
 <課長として働いていた機械設計会社が倒産した45歳の男性は、これで3度目の倒産・閉鎖。設計技術を生かそうとしても、募集は40歳まで。子供2人が在学中。妻はパートに>
 <52歳の男性は総務部長を務めていたホテルが閉鎖され、後始末のため最後まで残った。その過程で経営者と従業員の間のトラブルに巻き込まれた。人間関係への不信が始まり、1、2年で転職を繰り返すなど、定職に就けなくなった>
 <47歳の男性は印刷工場などを15年間経営していたが、バブル直前に街の再開発計画が浮上、協力するため事業をやめ、土地を売った。売却益で他の土地など資産を獲得、事業再開時の元手にしようとしたが、バブル崩壊で資産価値が低下、再開発計画も進まず、身動きが取れなくなった。やむを得ずハイヤー運転手になったが、会社が親会社に吸収され退職、無職に>
(読売新聞 九七年一月二一日)

 日本の失業者は欧米よりも深刻な問題を抱えている。なぜかといえば、雇用保険(かつての失業保険)がきわめて短いからだ。そのため若手・若年労働者は、低賃金なパートに出るしか方法がなく、中高年は行き場を失うはめになる。もちろんヨーロッパのように、失業していてもいくつかの社会保障によって生きていける福祉型社会には到達していない。
 また日本社会では、失業者が無能なものとして差別される傾向が強い。本人も昼間ぶらぶらしているのが格好悪いと感じ、仕事もないのに毎朝定時に出勤して世間体を保つという現象まで起きている。失業しても堂々と生きているヨーロッパなどと比べると、社会的な風習に大きなちがいがあるのがわかる。

■自分の権利は自分で守れ

 問題は労働組合である。
 自民党の陰謀によって、総評が解体され連合が成立した。そして多数の労働組合出身議員を抱えていた社会党が崩壊をみたのは、周知のとおりのである。これによって大企業の労働組合は、多くの機能を失ってしまった。 このたび連合会長になった鷲尾悦也のように、東大出身の官僚が労働官僚にスライドするという状況が生まれているのである。まったく労働運動の経験がなく、労働運動の精神などとは無縁の人物が労働界に君臨しているところに、大企業を中心とした労働組合の退廃が表れている。
 失業者とは、工場の塀の中から表に叩き出された労働者のことであり、労働組合とは塀の中から失業者を出さない歯止めとなるものである。しかしオイルショック以降の労働運動は、経営者の要請に合わせて労働者を組合が首にしてきた。これでは今回の不況にたいして労働組合がまったく機能しないのは当然である。そもそも労働組合の精神など、とっくに喪失しているからだ。
 一方で、中小の労働組合や地域ユニオン(コミュニティユニオン)、なんの組織もなく追い出された管理職を組織した管理職ユニオンは、依然として健闘している。これらは個人加盟の労働組合であったり、地域の労働組合が集まって組織をつくり、一人の首切りにたいしても他の労働者が駆けつけるという昔ながらの労働運動を展開している。
 大企業と大組織はすでに空洞化しているが、その周りにある中小の労働組合が、これからどれだけ失業にたいして連帯して闘争していくか、ここに可能性がある。そういった運動が、不況に名を借りた政策的なリストラにたいする歯止めとなるであろう。
 また労働者を簡単に首にはできないという信念を、個人ももつべきである。不当な解雇や嫌がらせにたいし、労働法や憲法の基本的な人権を中心とした共闘がさらに必要となってくる。この二〇数年間、日本の労働者はあまりにも安閑とし過ぎてきた。この不況にたいして無抵抗のまま、経営者の言うがままに解雇が進めば、それがさらに購買力を失わせ、不況の泥沼に落ち込んでいくであろう。
 日本およびアジアの経済の見通しは、米国経済に依拠するきわめて変則的な状態になっており、米国の株価の上下に一喜一憂する状況になっている。米国経済がどこまで好況を保ち続けるかは、保証の限りではない。こうして世界同時不況という恐怖に、いま全世界が落ち込んでいる。これらは工業生産や金融に特化し過ぎた経済行政の必然的な結末であった。本来は国際競争や企業間競争だけでなく、農業や各種産業をバランス良く発展させていくべきである。
 いずれにしても不況は深化しそうだが、いたずらに動揺すべきではない。自分たちの権利は自分たちで守るという抵抗を基にした自己防衛が必要となる。クビ切りを認めてはいけない。抵抗しても殺されるわけではない。人間のプライドをかけて、闘うべきだ。 (■談)

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だいじょうぶよ/第一回 殴り倒して気分は真っ暗

■月刊「記録」1999年7月号掲載記事

■神山 眞(かみやま まこと)・・・1967年東京都生まれ。1991年4月障害者プロレス団体「ドッグ・レッグス」に参加。1994年横浜にある養護施設の児童指導員となる。1998年養護施設を退職。同年6月、日焼けサロン「マチズモ」をオープン。

         *          *            *

 あれは九月の中頃、夕方から夜にかけての出来事だった。
  「てめぇ、店の金盗ったろ。ふざけんじゃねえぞ。しかも友達のせいにするとはいい度胸じゃねえか。ぶっ殺すぞ」
 ぼくはわれを忘れてあいつを殴った。薄暗い四畳半の部屋。あいつは壁まで吹っ飛び、床に崩れ落ちるように倒れた。脱ぎっぱなしの洋服。生ゴミが詰まったコンビニの袋。無造作に丸めただけの布団。それらがところどころ小さな山を形成している安普請の小汚い部屋。
 髪の毛、むだ毛、埃、食べかすで覆われたじゅうたんは、もはや元の色を判別することすらできない。そんな部屋の床にへたり込んだあいつの口は、まぬけに半分開かれたままだ。震えているわけでもなく、怯えているわけでもない。ぼくにはあいつの表情から何かを読み取ることはできなかった。
  ……お似合いだ。はじめの勢いを失ったぼくは、壁にもたれたあいつの顔を眺めながら自嘲気味にそう思った。汚く混乱した部屋でうだつのあがらぬ三〇過ぎの男が、IQ72のアホ面した男を殴る。落ちぶれた感じがしてとてもいいじゃないか。この日の夜は二人にとってまさにお似合いの夜だったのだ。

■「だいじょぶよ」が口癖

 あいつの名前は正利。頭ばかりが異様にでかく、極端ななで肩。機嫌がいいと眉毛がカモメような形になり、笑ったような表情になるが、機嫌が悪いと下唇が出っ張って悪人づらになる。IQは72。ちなみに、知的障害者として『愛の手帳』が発行される上限を示す数はIQ80だ。しかし実際の生活能力はもっと低く、他人とのコミュニケーションではいつもズレが起こる。うつろな目で鼻水を垂らして半開きの口でいう独り言が、あいつの数少ない意志表示の方法となる。
  「あっ、そうかぁ。はははは」これは誰かと話したい、いわゆる機嫌のいい時。
  「こまったなぁ。ちょっとむずかしいよなぁ」これは欲しい物があるのにお金が足りない時。お前なぁ、…わかりやす過ぎるよ。
 しかし、そんなあいつの仕草や表情を見て、「かわいい、かわいい」と騒ぐ女の子達もいる。彼女達には半開きの口やつながった眉毛さえも、あどけない無垢なものに映るようだ。
 とんでもない! ぼくにはあいつの表情もしぐさも、すべて計算されたむかつくものとしか思えない。基本的な生活習慣――あいつは一八歳になったというのに、洗濯する、掃除する、風呂に入る、顔を洗う、歯を磨く…等々、どれ一つできずに、ぼくが手取り足取り教えている――さえ欠如しているのだ。なのに、そんな仕草だけ計算できるとはどういうことだ!? おそらくは本能的にやっているのだろうが。
 いずれにせよ、ぼくがあいつと出会ってすでに五年が経とうとしている。そして、いつでもぼくはあいつを怒り過ぎてしまう。なぜ、ぼくはいつも怒りすぎてしまうのか。それはきっとあいつからの反応がないからだ。ぼくがどんなに腹を立てていようと、あいつは何も感じない。何も焦らないのだ。
 いつもそうだ。いつだってあいつはそうだ! いつも自分では何もしないし考えない。誰かが何とかしてくれると思ってる。どんな時も誰かが助けてくれると思ってる。
  「だいじょぶよ」
 あいつの口癖だ。いつでもどこでも誰にでもあいつはそう答える。だが、あいつの人生は、決して大丈夫ではなかったはずだ。あいつの親はあいつに熱湯はかけたけれど、ご飯は食べさせなかったじゃないか。あいつの親はあいつの頭に傷が残るほど暴力をふるったけれど、学校には通わせなかったじゃないか。再三にわたる虐待。 そんなろくでもない親から捨てられたのは、あいつが小学校三年生の時だった。養護施設に入ってなんとか学校に通い始めたのに、まもなくあいつには新たな問題が発生した。名前も満足に書けない状態だったのだ。まともな教育を受けていなかったせいもあるが、実は知的能力がいちじるしく劣っていた。

■お前のための店なのに

 IQ72。これは、あいつがはじめて知能テストを受けた時の数値である。小学校、中学校と普通学級で過ごしたが、授業内容はほとんど理解できなかった。オール一の成績では高校進学も叶わず、中学卒業と同時にあいつは社会の荒波に放り出された。それでまともに勤められるはずがない。現場仕事を転々とする毎日だ。結局あいつは逃げ出し、僕の経営する日焼けサロンにたどり着いたのだった。
 ぼくとあいつは日焼けサロンで共に働き、四畳半の倉庫で共に暮らした。今度こそ何もかもがうまくいきそうに思えた。まさに二人とも「だいじょぶよ状態」だったのである。そう、最初のうちは……。
  「おい、そこのゴミ捨てといて」「あとでやっとくよ」「買い物しといてくれた?」「あー、明日やっとくよ」「大丈夫なの?」「だいじょぶよ」「おい、店では敬語使えっていったろ?」「だいじょぶよ」「だからそれが敬語じゃねぇんだよ!」 住むところと職場、そして友達をゲットしたあいつは、次第に調子に乗り始め、僕の言うことを聞かなくなっていった。
 だいじょぶよ、だいじょぶよ。きっと今日もだいじょぶよ。寝坊したけどだいじょぶよ。店の金少し盗んじゃったけどだいじょぶよ。友達のせいにしとけばだいじょぶよ。だいじょぶ、だいじょぶ。いままでだってだいじょぶ。これからもきっとだいじょぶ。だいじょぶ、だいじょぶ、だいじょぶよ。
 そもそも日焼けサロンだって、あいつのために作ったようなものだった。どこの現場に入っても同僚にいいように騙され、金を巻き上げられ、ついには罪を被せられて追い出されてしまう。そんなあいつがずっと働き続けられる場所をこしらえるために、さんざん借金して作った店だった。なのにあいつは無反応。そしていつもマイペースだ。
  「正利、客来ねえなぁ」「だいじょぶよ」「正利、電話も鳴んねえぞ」「だいじょぶよ。ははははは」

■限界を越える日がやってきた

 慣れぬ仕事を終え、くたくたになって倉庫に戻る。そこからがまた大変だ。倉庫には店で使うタオルが何十枚と干してあり、乾かすための乾燥機が常にゴーゴーと音を立てていた。倉庫の湿度と温度は著しく上昇し蒸し風呂のようだ。この悪条件の中で大の大人が二人、じめっとした布団の上で大汗をかいて、明日に備えて眠らなければならない。
  「もうダメだ……」
 あいつを殴った夜、ぼくは心身ともに疲れがピークに達していた。こんなに疲れて頑張ってるのに、それなのに奴は店の金を盗みやがった。人の心配をよそにイビキかいて居眠りしてんじゃねえよ。ぼくは決めた。今日はあいつにとってはじめての「だいじょぶ」じゃない夜にしてやろう。だいじょぶなんかにするものか。ぼくがあいつにとって、はじめてのだいじょぶじゃない人間になってやる。
 やることはただ一つだ。壁に力なくもたれかかっているあいつを再び引きずり起こし、さらに殴り続けることだ。「正利、てめぇでていけ! 顔も見たくないんだよ。お姉ちゃんのところに電話しろ!」そう言うやいなやぼくはあいつに近づき、胸ぐらを力一杯つかんだ。
  「やだ」。いつも通り短く簡潔な返事だったが、心なしか声が震えているような気がした。驚いて顔を上げると、伸びきったダブダブのシャツに埋もれたあいつの顔に、少しだけ変化が表れていた。おびえているのか? そう思うとぼくの体中に喜びがあふれた。良くも悪くもあいつが反応を示している。怖いのか!? このぼくを! 怒りと嬉しさの渦が湧きあがってきた。倒錯の喜びのただなかで、ぼくはひたすらに殴り続けた……。

■倉庫に戻るとあいつは

 いったい何発殴ったろう。自分の拳に違和感を感じて、ぼくはわれに返った。血がついていた。ぼくは手を洗って表に出た。すっかり陽は暮れている。もうあいつが金を盗んだことも、友達のせいにしたこともどうでもよくなっていた。それよりも人を殴る快感のほうがはるかに強かったのだ。
 なんて気持ちがいいんだろう。抵抗しない人間を殴りたいだけ殴る。罪悪感も うしろめたさも哀れみも忘れて殴る。そして何より、いつもぼくにつきまとっていた不安が、たとえひとときでも一切消えたのだ。
 しかし、そんな異常な精神状態がいつまでも長く続くはずがなかった。ぼくはふとあいつのことを思った。「いったいどれだけ殴ってしまったのだろうか?」いずれにしても、あいつが何かを決心するのには、十分だったのに違いない。

――せんせい いろいろとありがと 
  おれ、いえとしごと をさがしにいくよ
  ここにいるとまたうそをついちゃいそうだから
  さよなら
                  まさとし――

 深夜二時。仕事を終え、倉庫に戻るとあいつの姿はなかった。あいつは出ていったのだ。一枚の書き置きを残して……。
 探さなければ。そうは思うものの、全身の力が抜けてしまってどうにもならない。もうあとの祭りだったが、「バカなことをした」とぼくは、ぼくのしたすべての行為を後悔した。
 つい殴り過ぎてしまったこと。いつも叱りつけてたこと。朝、いつまでたっても起きないあいつの頭に目覚まし時計を投げつけたこと。そういえばあいつは倉庫に扇風機が欲しいと言ってたっけ……。でも金がなくて買ってやれなかった。予想以上にかかる店の設備投資を優先するしかなかった。だから毎日汗をびっしょりかきながら二人で寝ていたんだ。食費も切りつめるだけ切りつめてきた。米だけ山ほど炊き、おかずは一日一品だけ。それでお腹をいっぱいにしたんだ。二人で今さえ切り抜ければ何とかなる。ぼくはそう思っていた。それなのにあいつは……。

■このたまらない喪失感

 ぼくは部屋中を這って、何か手がかりになりそうなものを探した。ぼくの菓子パンが二つとも消えていた。ぼくのシャンプーがなくなっていた。店の自転車もない。炊飯器の中はすっかり空になっている。トイレには流し忘れの大きなウンコ……。ぼくは仲直りのつもりで買ってきた二人分のコンビニの弁当が入った袋をぶら下げたままだった。コンビニの弁当は食生活を切りつめていたぼくらにとっては贅沢品だった。
 昼から何も食べていないことを思い出し、弁当に少し口をつけてみた。だが、どうしても喉を通らない。これからどうすればいいのか。とりあえず外に出て、自転車に乗った。
 公園、空き地、駅のホーム。手当たり次第に探し回った。出がけに降っていた霧雨が、新聞配達のバイクとすれ違うころには激しい雨に変わっていた。台風が近づいていた。
 あいつは三日経っても帰ってこなかった。一週間、一〇日、二週間……。それでもあいつは帰ってこなかった。その気持ちをなんと表現したらいいのだろう? 喪失感? 強いてあげれば父が亡くなった時の気持ちに似ているような気がする。とにかく寂しかった。四畳半の二人でいるとあんなに狭く感じた部屋が。
 ぼくらには布団を畳み、押し入れにしまうという習慣がなかった。朝起きたら、掛け布団も敷き布団も一緒くたに丸めて部屋の端に押しやっていた。それだって日焼けサロンで使うタオルを畳むためのスペースをつくるために無理矢理やっていたぐらいだ。いつもグルグル巻きの布団が二巻き並んでいた。それなのに今は一巻きしかない。たまらなくあいつに会いたかった。
            *
 今から五年前の春。ぼくは横浜にある養護施設、N学園で児童指導員として働きはじめた。仕事の内容は簡単にいうと、親の事情で入所した小学校一年から高校三年生までの子ども達の生活指導をすることだ。
 N学園の職員は指導員、保母合わせて一五名。それぞれが四から六名の子どもを担当している。どの子どもを担当するかは、年度末に行われる職員会議で職員同士のディスカッションによって決められることが多く、子どもが職員を選ぶことはできない。初年度であるぼくには、主任によって選ばれた四人の子どもが決められていたが、勤務初日の四月一日までは会うことはできなかった。

■ぼくの「家族」を作るのだ

 どんな子ども達だろう? 想像するだけで、月並みな表現ではあるが、期待と不安で胸が一杯になった。できれば思いっきり暗い顔をした不幸な奴がいい。そういう奴らとぼくが思うところの、理想の疑似家庭を育むのだ。人を信じない奴。家族とさえ打ち解けられなかった奴。友達を作れない奴。恋すらしたことがない奴。きっと養護施設はそんな奴らの宝庫に違いない。胸が震える。 ぼくは、養護施設に入る前には、叔父のタクシー会社に勤めていた。右を見ても左を見ても親戚だらけのいわゆる血族会社だ。業績は市内で二、三位を争う優良企業であった。
 社長である叔父は売上ばかりを気にする真面目一辺倒な性格。さらに血のつながりをやたらと大事にする人だった。実際、仕事上のつきあい以外に友達と呼べる人間が誰一人としていない彼にとって、家族、兄弟、親類、そしてそれらみんなで寄り添うように作った会社は何より大切なものだったろう。
 けれど叔父にとって大切なものは、ぼくにとっては何一つ大切ではなかった。むしろ疎ましいものであった。私生活はおろか先祖代々までわかり合った者同士が顔をつき合わせて働く職場。血と利害が絡み合うがんじがらめの毎日は、ぼくにとって窮屈以外の何ものでもなかった。そんなものに価値を見出して、しがみついている叔父の姿がたまらなかった。目にしたくもなかった。
 ぼくは、ここではない違うどこかで、血のつながっていない者だけで「家族」を作ってやろうと考えた。血など介さなくても、人間は信じ合うことはできるのだ。そして叔父の会社を辞め、養護施設を選んだのだった……。

■不幸な子ども達よ! ここへ来い

  「来るんじゃなかった」
 勤務初日だというのに、ぼくの頭の中はすでに消極的になっていた。桜の花が満開に咲き乱れる中庭。バレーボールに興じる男の子と女の子。彼らの姿は兄弟にも見えるし、友達同士にも見える。皆、暖かい陽射しを受けて、きゃーきゃーはしゃいでいる。彼らの姿から悩みや不幸を感じ取ることはほとんどできない。
 その楽しそうな顔を見ていると、ぼくは疎外感を感じた。そして「来るんじゃなかった」という思いばかりがますますふくれあがった。
 だが、もう手遅れだ。状況はすべて整ってしまった。造りはしっかりしているが、かなり古びた建物。その建物の入口から四十代の男がぼくに手招きしている。もう逃げることも隠れることもできないのだ。だってもうすぐ、ぼくのためのオリエンテーションが始まるのだから。
  「神山先生は初年度ですから、あんまり問題のある子どもを担当することはないですよ」と、全く抑揚のないしゃべり方で主任は言った。どこか事務的な感じがする。それでも話すことは好きなようで、ぼくが「問題のある子もいるのですか?」と話を向けると、やくざになった男の子や妊娠してしまった女の子の話を得意げに始めた。
 ぼくは改めて主任のいでたちを眺めた。すると全身が、いかにも養護施設で働いている人間っぽい。アディダスでもナイキでもない、どこにも属さないメーカーのジャージのパンツに古びたセーターの四十男。その着こなしに、ぼくは少し好感と親近感を抱いた。
 やはり養護施設なんだな…。先程までの「来るんじゃなかった」という気持ちが少し薄らいだ。
  「ちょっと、待ってくださいね」
 主任はおもむろに立ち上がると、マイクを手にして館内放送をかけた。四名の名前を呼んでいる。ぼくの担当児童である。さあ、いよいよだ。来い、来るんだ、不幸のどん底みたいな奴よ、ここに集まれ!
 そしてぼくは、主任に促されるままに「シオン」という部屋へ向かった。 (■つづく)

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保健室の片隅で/第二回 自殺未遂の果てに…

■月刊「記録」1998年2月号掲載記事

            *         *            *

■誰かに止めてもらいたかった

 生きていくことに、何の意義があるのかと疑問を持った瞬間、死にたくなった。
 生きていてもしょうがないって思い始めたのは、中学校にあがって、保健室にたびたび顔を出すようになった頃だ。やっぱり、保健室にいつも顔を出すっていうのは尋常じゃないから、先生はいろいろな質問を投げかけてくる。
「友達いないの?」
「教室嫌い?」
「好きな子いないの?」と。
 そんなこと聞かれたって、どれも答は一つだけ。「先生には関係ないじゃん」だ。特に私を気にかけてくれていた新米の先生にはコタえる返答だっただろう。
 けれども、聞かれる私もつらかった。友達がいなくても平気みたいな顔していたけど、本当は寂しかったから。行けるものなら教室にも行きたかったし、その頃はじめて経験した恋は、「このまま、あの人を好きでいるまま死んでいきたい・・・・・」などと、死に迷う私に追い討ちをかけていた。
 見た夢は数限りなく、やりたいことは人一倍多かった。だけど、その夢をかなえるための手段がわからなくて、越えなければならない難関も多くて、かなうアテのない夢への絶望が、私に大きくのしかかる。もう、お先は真っ暗状態、何もやる気になれない。できることなら、この世の果てまで逃げ出したかった。死んでしまいたかった。
「この前、一騒ぎ起こしたんだって?」
 中一の夏休み明け、学校を騒がせた私は、真っ先に向かった保健室で先生にいわれた。
 夏休み明けに私が起こした事件は二つあった。そのうち一つは家出だ。いつもこの家を出ていきたいと思っていたから、タイミングを見はからって遠い街まで遊びにいったのだ。「家を出るときには、すべてを置いて出ていけ」というのがわが家の鉄則だったから、ほとんど手ぶらで家を出た。
 何度もうしろを振り返っては、誰も見ていないか、追いかけてきたりしないか、半分の恐怖と、半分の期待で心臓は破裂寸前となった。バカなことをやっているのはわかっていた。だから、誰かに止めてもらいたかった。でも、止めてくれる誰かを探して振り返る先には、出勤や登校に急ぐ人の波が冷たく流れていた。この家出が、私が「逃げ道街道」を歩き始めるキッカケだった。
 家出といっても、泊まるあてがあるわけではなくて、知らない街で誰も知らない時間をすごし、お金が尽きたところで家に連絡をして迎えにきてもらった。
「先生たちも一生懸命、探し回ってくれたんだからね。みんな心配してるのよ」
 誰からとなく、何度も聞いたこのセリフ。そんな時間が、親や周りの人に迷惑をかけている時間が楽しかったといったら、精神的になんらかの異常があると思われるだろうか。今になって思えば、自分でもそうだったかもしれないと感じている。
 学校側が知っている私が起こした騒ぎはこれだけだったけれど、実はこの前日にもう一つ、事件を起こしていた。

■それは自殺未遂。

 正確にはそこまでいうほど大ゲサなものではなかったけれど、興味半分で、カミソリで手首に切り目を入れてみた。テレビドラマとは全然違っていて、にじみ出る程度の血と、ほとんど感じない痛み。そして心に残ったものは、愛する人を手首に封印したという自己満足感と、自分には見えてしまう、ミミズばれのような悲しい傷だった。
 何に対しても投げやりになっていた。感情というものが、私のなかから消え去っていたんじゃないだろうか。
 その後も、自殺未遂騒動を二回起こした。この二回は結構騒がれて、救急車と警察官まで出動させるほどになったりもした。クズと思われていたに違いない
 何で死にたいと思うのかと聞かれると、いつも生きている意味がないからと答える。死ぬ理由がないかわりに、生きる理由もない。だから生きていたくない。それだけのことで自殺未遂なんて、話を聞いている人達はあきれたに違いない。
 でも、たったそれだけの理由で死を選ぼうとするのは、実は私だけじゃなかった。そのときの私の周りには、何人も同じような子がいたから、何の不思議も感じなかった。ただ、実行に移していた子は、少なかったけれど。
 いつも質問ばかりされている私が「ねえ、何で私は生きていなけりゃいけないのかなあ?」と先生に質問を投げかけた。相手にしてくれる先生、してくれない先生、みんな答えはバラバラだったから、何人にでも、自分の納得のいく答が出てくるまで聞き回った。
「せっかくもらった命は、大切にしなきゃいけないのよ」。そんな答が多かったけれども、ひねくれ者の私には、「生んでくれと頼んだ覚えはないわ」としか思えなかった。そう私が口にすると、「生きていれば一度くらいは、そう感じることがあるのだ」といわれた。そういえば、「どこの家庭でも、同じようなことがあるんだよ」といわれたときには、迷子になった自分の心が一瞬、戻ってきたような気がした。
 思えば、どこにいるときでも、周りにいる誰もが心配してくれていたと思う。学校に行っても教室には行けない私を、担任の先生も部活動の顧問も保健の先生も、校長先生までもが心配してくれていたと思う。でも卒業間際のギリギリになるまで、私には気がつけなかった。
 先生達はみんな、私みたいな保健室に閉じこもりっきりの生徒はクズだと思っているに違いないと思い始め、それが止まらなくなって、もともと遠のいていた教室や学校がどんどん遠くなって、知らず知らずのうちに自分から敬遠してしまった。
 世の中はみんな鉄の塊。私のなかの学校は鉄の塊。
 鉄の制服を着て、鉄の教室に鉄のカバンを持って行き、鉄のように冷たい机に向かわなきゃいけないと思えば、気分は最悪。それが学校だけならまだしも、当時の私には、世間すべてが鉄の世の中にしか見えなくなっていた。
 今や高校くらいは卒業していて当たり前。ブランド企業に就職しようと思えば、ほとんどが大学を出なければならない。そんななかで中学も真面目に行っていないなんて、ろくな人間じゃないと思われてしまうのがふつうらしい。いわれてみれば、そうかもしれないけれど、そんなに私はろくでもないものかな。
 結局、高校を中退して通信制の高校に通ったけれど、世間には「通信教育は高校とはいえない」という考えをもつ人が多い。アルバイトの面接にいっても、履歴書の最終学歴欄に書くのは「高校中退」だ。初対面の友達に、自分の立場を説明したときにも「一応高校生」。いっそ中学卒業で通したほうが、楽なんじゃないかと思うことも少なくない。通信制の高校というものを説明するのが難しく、面倒くさいからだ。
 さらに面倒なのが、ご近所様の好奇心や興味に応えることだった。ご近所様のうわさは、すぐに立つ。うわさが立てば、真実を突き止めようとする人が必ず一人は現れる。そのときに質問の的になるのは、なぜかいつでも母なのだ。私のところに直接聞きにくる人は一人もいない。こういったことに関しては、どんな立場の人でも反応は同じらしい。
 学校の先生も私に関するうわさの確認には、おそるおそる遠回しに、母に聞いてきた。聞きたいことがあるのなら、知りたいことがあるのなら、ハッキリと私に聞きにくればいいのに、どうして母に聞きにいくのか、いつも不思議でならなかった。けれども、そんなうわさも話題も、みんな私のことなのだ。だから、遠回しにされればされるほど、わずらわしいけど気になってしまう。
 どうして私が学校に行けないか、母は知らない。学校に行った自分の子どもが、学校で何をやっているのか、ふつうの親にはわからないように、私の母にだってわからない。まさか私が毎日保健室に行っているなんて、思ってもみなかっただろう。そしてたとえ知っても、理由なんかわかりっこないのに。
 なのに家に閉じこもっていれば、ご近所様が「どうしたの?」と聞いてくる。結局、世間も私にとっては、鉄でできた空間になった。そして、ナゾ解きの的が母に向けられたときから、矢のように冷たい視線を母からそらすことだけを考えるようになった。母に危害が及ぶくらいなら、この町から消えてしまいたいと心から思った。

■「死」への逃避は自分への負け

 保健室登校児が生まれる発端には、こういう「周りの目」があるのではないか。ご近所様の目を気にするように、子供は親の目も気にする。また親に向けられた他人の目も気にしている。人の視線が痛いから、とりあえず学校には行くけれど、やっぱり教室には入っていけずに保健室に行く。そういう子どもが増えているのじゃないか。保健室登校児や自宅にこもりきりの子どもに、イジメとは無関係なケースが多いのは、実はこんな理由によると思う。
 保健室登校は、最近徐々に認められつつある。確かに保健室登校児は、ある意味で、自分の意思を貫いているようにも見えるからだろう。彼らの存在が認知されつつあるのは、そういう理由だ。
 だが、保健室登校を認めることで、逃げようとしている子どもの「逃げ」の部分を許すような世の中になってはほしくないと思う。たとえば、イジメられて自殺して、テレビで騒がれた子が、ヒーローのように祭り上げられたことがあった。自殺した彼は、自分の考えを全身で訴えていたようにみえて、私も一時は、そんな人間になりたいと思った。
 でも実は、それはヒーローでも何でもなくて、ただの負け犬だった。確かに逃げることは一つの手段だが、死を使って逃げてはいけない。いつだって私は「逃げ道街道」の真ん中を歩いてきたし、手首に切り目を入れたこと、睡眠薬を大量に飲んだことだってあるけれど、だからこそわかる。死に逃げるのは卑怯な負け犬だ。
 死を選ぶのはかっこいいことでも立派なことでもない。それはつまり、自分自身に負けるということ。今ではこの世で一番の恥だと思っている。 (■つづく)

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ホームレス自らを語る/最愛のおっかあは粉々に・角田浩一(五八歳)

■月刊「記録」97年10月号掲載記事

             *         *           *

■夢の土地はだまし取られた

 タンスの上に置いていたちり紙の束が、すごい音をたてて畳に落ちたんだ。普通ならば音をたてるはずもないのに、バサっという音が家中に鳴り響いた。その音で飛び起きたほどだ。その数分後、駐在のおまわりさんが飛び込んできた。
「おめえのおっかあ、電車に飛び込んだぞ」
 聞いたときはぼう然とした。何だかわけもわからぬまま、駐在さんに引きずられるようにして現場に行った。駅員さんや警察官が総出で、粉々になったおっかあを集めていた。おれも小さくなったおっかあを、一つずつ拾い集めていったよ。バケツに少しずつおっかあが集まっていく。それがつらかった。
 空にはおっかあの肉を狙っているカラスが飛び回り、ガーガーと鳴き続けていた。その声を聞きながら、おれは自分を責めていた。おっかあが自殺したのは、おれのせいだとね。
 一九三九年、埼玉県の久喜に生まれた。ヒロポン中毒の義父はおふくろを抱くためだけに結婚した。家計を支えていたのは、ホステスをしていたおふくろだ。そんな状況だったから、学費は自分で工面するしかない。新聞配りから牛乳配達まで何でもした。でも、どうにか稼いだカネさえ家に置いておけないんだよ。義父に盗まれてしまうから。仕方なく、他人の家にある柿の木の根元に穴を掘り、少しずつためていったんだ。
 そこまで頑張って高校に入学したが、やはりカネが続かなかった。仕方なく中退し、和食・すし・中華料理と日本中の料理屋で修行を始めた。厨房に立てば、給料のほかにチップが入る。一八歳から始めて二一歳のころには、七〇万円も貯金を持っていたよ。当時の初任給が一万円弱のころだったから、かなりの額だ。
 そんなとき、おっかあに出会ったんだ。おれより二つ上の二一歳。宮城県出身のホステスだったが、とにかく辛抱強くて、性格がよかった。すぐ結婚を決めたよ。貯金をはたいて権利金を払い、新居を構える代わりに貸店舗ながら埼玉県浦和市にすし屋を開店した。当時の売り上げが四万円、粗利が二万円ほどあったから、同い年のサラリーマンの倍以上は稼いでいた計算になる。
 そのうえおれは趣味の山登りと酒を飲むくらいにしかカネを使わなかったから、どんどんカネはたまっていった。おれが二六歳、店を始めて五年たったころには、埼玉県上尾市に七二坪の土地を買っていたほどだ。自分の土地で、自分の店を持つ。それはおれの、そしておっかあの夢だった。おれたち夫婦の幸福を約束してくれる土地。おれたちはそう考えていた。
 ところがこの土地に目をつけたのがおれの兄だ。おっかあをだまして、手に入れた権利書を売っちまった。彼女は身よりの少ない家庭で育ったから、何よりも身内を大切に思っていた。頼みを断れなかったんだろう。しかも兄に権利書を渡したと、おれにいえなかった。店の設計図面を持って上尾に行ったとき、土地が他人に渡ったことを初めておれは知った。

■七八〇万円が一週間で消えた

 店を出すには好条件の土地だったから、せめて土地を売っていなければな。落胆したよ。どうしておれに話してくれなかったのか、おっかあにも怒ったが、どうしようもない。もちろん、おっかあも絶望の淵にいた。自分のせいで土地がなくなったんだから。
 彼女が自殺をした日、体の調子が悪かったのに息子を幼稚園に送るといってきかなかったんだ。おれが送るというのも振り切って、「どうしても送りたい」と息子を連れていった。死ぬ気だったんだろうな。
 おっかあが残した保険金は、手元に残したくなかった。七八〇万円が一週間で消えた。使い切れなくて、一〇万円単位でホステスに配ったりもした。四歳の息子の腕を引いてバーに陣取り、浴びるように酒を飲み、カネをばらまいていたから異様な光景だったと思う。
 結局、おっかあとの思い出がつまっている店は閉めることにした。だいたいおっかあがいなければ、息子を置いて出前に行くわけにもいかないから、売り上げも激減していたんだ。
 それでも息子は育てなければならないし、おふくろも養わなくちゃいけない。だからおっかあを思い出さないように、がむしゃらに働いた。中華そば屋やキャバレーを出したこともある。どこもそれなりに繁盛していた。なかでも神奈川県の川崎市に出した中華そば屋は、客が入っていたよ。でも、この店も最後は手伝ってくれていた人にあげちゃった。店をやっていると、どっかでおっかあを思い出すからつらかったのかな。本当のところは自分でもわからねえな。でも、ほしいっていうからやったよ。
 そんな理由で、一時期包丁を置いて運送会社で働いたこともあったんだ。おふくろに息子を預けて、トラックを転がした。これはもうかった。その後、飲食関係の職場に戻ったりもしたけれども、ホームレスになる前の一五年間は、タクシーの運転手をしていた。
 どの仕事でも生活できるだけの給料は稼ぎ出していたし、働くのも好きだった。それにギャンブルや女に狂ってもいないから、カネに困るはずもなかった。ただ友人がつくった借金の保証人になったのが、運の尽きだよ。 一緒に山を登った仲間から「判をついてくれ」と頼まれて、五万円くらいの金額ならば断れない。軽い気持ちで引き受けた。ところがその後、友人はおれへの相談なしに借り入れ金を増やしていったんだ。友人が失踪したときには、七五〇万円もの借金を背負っていた。
 タクシー運転手をしていたころは、月二七万円の給料から二四万円を借金の返済にあてていた。生活が厳しくても、借金の返済をあきらめようと思ったことはなかった。
 ところが五〇歳も半ばをすぎたころになって、おやじ・おふくろ・弟・孫が立て続けに死んでいった。腹違いの弟は、まだ四二歳だったのに、頸動脈が破裂してあっけなく死んじまった。ふと気づけば、自分を頼りにしてくれる人は誰もいない。おっかあをなくしたとき心の支えだった息子とも仲違いしていた。
 心に穴の空いたおれを、さらに突き落としたのは弟の嫁だった。九六年七月、おれが墓を訪れたときのことだった。そこで見たのは二つの墓石。弟の名前が刻まれた墓石が、親族一同の墓石の横に立っていたんだよ。同じ墓の敷地に、二つも墓石があるのは変だろう。早死にした一族が安らかに眠れるようにと、おれが祈りを込めて買った墓に、血を分けた弟の墓石を別に立てたやつがいたのさ。
「お兄さんはいなくてもいいのよ」
 どうして弟だけ別に墓石を立てたのかと問いただしたおれに、義理の妹は吐き捨てるようにいったよ。弟夫婦は同じ墓に入りたくないほどおれが嫌いで、別に墓石を作ったらしい。残った親族すら相手にしてくれない自分が情けなかった。
 人の借金まで背負い込み、どうして働き続けているのか。この事件をきっかけに、疑問はだんだん大きくなっていったんだ。きっかけさえあれば暴走していく予感はあった。

■警官を殴っていた

 墓参りから一〇日ばかりたった夜、仕事途中になじみのウナギ屋で旧友に会ったんだ。結局、そんな小さな偶然がきっかけになった。
 おれは不自然にはしゃぎ、酒を流し込んだ。店先に何時間もタクシーを置いておけば、当然目立つ。チェックしていたんだろう。酔いの回ったおれが運転し始めると、すぐにパトカーがマイクで停止を指示してきた。目の前に赤信号。左に寄せて停止すれば、免停ですんだはずだ。でもおれはアクセルを踏んだ。追っかけるパトカーを振り切るために急停車と急発進を繰り返し、ぎりぎり通れる路地を疾走した。もちろん逃げられるはずもないけどな。
 やっと停車したおれの車の窓に首を突っ込んだ警官は、「酒に酔っているね」とつぶやいたんだ。その途端、おれは警官のあごを殴っていた。苦痛にゆがんだ警官の顔を見て、さらに二発目をたたきこんだ。結果は、罰金五万円と二〇日間の拘留、さらに三年間の免許停止。そして職を失った。
 拘留中の態度も悪かったから当然だろうな。何たって捕まってから三日間、飯を食わなかったんだから。やけになっていたんだよ。普通に考えれば、少しでも警官の心証をよくしておくべきだ。でも、おれは反抗した。どうにもならない自分の人生に、かみつきたかったのかもしれないな。
 警察から解放されると、次は借金取りが待っていた。それこそ二四時間襲ってきた。職もないんじゃ、カネを返せといわれてもどうしようもない。仕方がないから、家を捨てたんだ。

■ただただ涙だけが流れ続けた

 手持ちのお金二七万円を持って、まず鬼怒川温泉に行った。最後のぜいたくだと思ってね。六日間、いろいろな宿に泊まった。
 温泉を選んだ理由には「どこかでもう一度、旅館の板前になれないか」なんて思いも確かにあった。でも、出てくる料理を見て、やっぱり旅館には勤められないと感じた。器が違うんだ。有田焼なんかの大きな器に、料理が盛られている。おれが学んできた盛りつけとは、まったく違うんだ。皿の模様を生かす盛りつけだからな。料理人に戻るというはかない夢もあきらめて、おれは路上生活を選択した。親族への体面など、もはや気にする必要がなかったしな。
 そんなおれに次の不幸が襲ったのが、新宿に来て三日目だった。カネも服も靴も盗られちまったんだ。はだしで歩いている自分がみじめだったよ。そのとき、心から死にたいと思ったんだ。酒びんを抱えて、朝の五時からJR総武線のホームで飛び込む機会をうかがった。電車が近づくたびにホームの端まで迫ってみたが、どうしても死ねない。飲んでも飲んでも不思議と酔わない。ただただ涙だけが流れ続けた。電車に飛び込んだおっかあを思い出していたのかもしれないな。結局、終電まで粘ったが飛び込めなかった。
 おれは生き残った。でも、その日から心が死んでしまったんだ。生きるために必要な「心の張り」が消えたんだ。寝たまま目が覚めないことが、今の一番の願いだ。 (■了)

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ホームレス自らを語る/怠け続けた人生だった・遠藤良一(五九歳)

■月刊「記録」99年2月号掲載記事

           *         *          *

■兄弟全員父違い

 うちは男だけの三人兄弟でしたが、ちょっと複雑でしてね。三人とも父親が違うんですよ。
 私が長男で、一九四〇年に生まれました。生まれてすぐに、父親は陸軍に招集されて中国大陸へ送られたようです。どうせ下っ端の兵隊でしょうがね。それで牡丹江というところで、戦死したらしいです。父親については、それしか知りません。母親が教えてくれませんでしたからね。どんな父親で、どんな仕事をしていた人なのかも全然わからないんですよ。
 母親が再婚して、すぐ下の弟が生まれました。ただ、その再婚した相手の人は、韓国籍の人だったようなんです。戦争中だったこともあって、その人の名は戸籍には載っていません。だから、その弟は母親の私生児ってことになっています。
 そして母親は、その二番目の夫とも別れて、三人目の男と結婚するんです。どういう事情でそうなったのか、私は小さかったし、わかりません。結局、その男が、私の育ての親ってことになります。

■親にだまされて少年院送り

 これが、ひどい親でしてね。定職もなくて、職場を転々と変えてばかりでした。そのうちに、母親とその男の間に子どもができたんです。私にとっては、父親の違う二番目の弟になります。それからは、私達、上の二人の兄弟への、継子いじめが始まりました。いじめに、いじめられましたね。
 そんな義理の父親のいじめと、男を次々に変えるだらしない母親に育てられて、うまく子どもが育つはずありませんよね。小さいころから、親や教師の目を盗んで、怠けることばかり考えている子でした。
 中学を終えて、いったんは就職しましたが、すぐに辞めて、また就職して、すぐに辞める。そんなのを繰り返しているうちに、家でブラブラしていることが多くなって……。今でいう家庭内暴力が始まったんです。自分でも頭がおかしくなったんじゃないかというくらい、ひどい暴れ方でした。母親に殴りかかってけがを負わせる。ナイフで畳をズタズタに切り裂く。障子をメチャクチャにたたき壊す。とにかく、母親への憎悪がすごかったです。
 たまりかねた母親が、警察にでも相談した結果だと思うんですが、国分寺市(東京都)にあった関東医療少年院に入れられました。母親につき添われて入院したんですが、「てんかんを治療する」という口実でした。確かに私には小さいころからてんかんの持病があって、それを直すために、てっきり普通の病院に入院するんだと思っていました。ところが、行った先は少年院だったわけです。二年入ってました。
 少年院を出てからは、もう家には寄りつきません。山谷のドヤ(簡易宿泊所)に泊まって、日雇いで働いたり、ブラブラ遊んで暮らす生活になっていました。二三歳のときには、ドヤで知り合った仲間に誘われて、松戸市(千葉県)にある民家に押し入りました。要するに強盗を働いたのです。仲間四人で、手に手に出刃包丁を持って、深夜の寝込みを襲いました。こわかったです。何しろ初めてのことなんで、すごくこわかった。どうやって逃げ出すのか、そればかりを考えていましたね。
 家人が差し出したカネを仲間の一人がふんだくり、あとは夢中で逃げました。何とか逃げきって、盗み取ったカネを四人で分け合ったのですが、結局、一人当たりの取り分はいくらにもなりませんでした。
 それからは、身を隠すようにして、川崎市(神奈川県)や町田市(東京都)あたりにあった飯場を転々としました。でも、この逃亡生活のほうが、強盗したときよりもずっと苦しくてこわかったですね。飯場を変わるたびに、「自分の手配書が回っているんじゃないか。いつか突然、警察官が踏み込んで来るんじゃないか」と考えてしまうからです。それを心配し始めると夜もオチオチ寝てられないんです。
 とうとう耐えられなくなって、三ヶ月後には警察に自首して出ました。そのときの気持ちは「助かった」というか、「ホッとした」いうか、すごく気持ちが楽になったことを覚えています。裁判で懲役三年の実刑判決が下り、甲府市にある刑務所に入りました。

■弟への無心も手が尽きて

 刑務所を出てからは、ずっと日雇いの土工で働いてきましたが、子どものころからの悪い癖で、仕事は怠けるし、嫌になると黙って辞めちゃう。それの繰り返しでした。ただ、つい最近まではそんないいかげんな仕事ぶりでも、働き口はいくらでもあったんですね。高度経済成長とか、バブル景気とかがあって、私のようなものでも収入を得てやってこられたわけです。
 大阪に一〇年ほど行っていたこともあります。大阪で万博(日本万国博覧会)が開催されていたころで、当時は関西のほうが景気がよくて、日当も高かったんです。よく飛田新地に行って、女を買って遊んだりしました。 女は好きですよ。でも、結婚はしませんでした。手に職があるわけじゃないし、ドヤと飯場をわたり歩いている生活で、結婚なんてできませんよ。アパートだって、これまで一度も借りたことがないんですからね。
 しかし、バブル景気が崩壊するまではいくらでもあった仕事が、最近ではだんだんに減り始めてきました。それでも、九八年の五月までは細々ながらも何とかあったんですがね。例の悪い癖で、その月に黙って飯場を飛び出しちゃったんです。
 ところが、ここからがいつもと様子が違っていました。飛び出してからは仕事はサッパリ、まったくありません。すぐ下の弟に無心して、何とかかんとか食いつないでいましたが、それも尽きましてね。野宿をして暮らすようになりました。
 まだホームレスになりたてで、どうしたらいいのか、よくわからないんですよ。夜は地下広場に行って、みんなが寝ているところに割り込ませてもらっています。飯は、朝にボランティアの人が配ってくれるニギリ飯一個という日が多いです。仕事はないし、これからは寒くなるし、途方に暮れるばかりです。 (■了)

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ホームレス自らを語る/おれには孤独の菌が巣くう・遠藤四郎(六八歳)

■月刊「記録」97年11月号掲載記事

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■新婚はたった三日間

「おまえには孤独の菌が巣くっている」と、友人にいわれたことがある。おれの周りには、誰も居着かないんだ。死んだ人もいるし、去っていったやつもいる。たまに幸せになったかと思うと、すぐに孤独がやってくるんだ。
 最初に去っていったのはおやじだった。自殺によって……。
 太平洋戦争の前までのウチは金持ちだったよ。瓦職人だったおやじは常時一〇人以上を雇っていた。おれが小学校に入学したときには、新しい服を上から下まで用意してくれた上に、ランドセルまで買ってくれたんだ。ところが終戦のどさくさで、おやじは事業資金をだまし取られ、首をつった。
 次はおふくろだった。
 小学校を卒業し、東京・亀戸で旋盤工として働いていたおれに、いきなり「病気で死んだ」と知らせが入ったんだ。まだ戦争の爪跡が色濃く残っていたころだよ。しかもおふくろの死は、貧しかったおれからカネも奪っていった。治療費やら葬式代やらで、「必要だから」と一緒に住んでいた親族から催促があったんだ。断れないよ。酒代を減らし、身を切るようにしてためてきた一〇万円がそこで消えた。一九五〇年代初頭だから、ヒラの銀行員のン年分くらいはある大金だったよ。でも「使った分以外は返す」という約束は守られなかった。
 そして最初の女房との別れを、おれは経験する。たった三日間の新婚生活を思い出に、彼女は逝っちまったんだ。
 女房の知子と知り合ったのは、五三年、おれが二四歳のときだった。義理の姉さんが経営していた酒場で出会い、次の日からつきあいが始まった。夜勤の旋盤工として働くおれのために、毎日弁当を作って会社に届けてくれた。おとなしくて、優しい性格だった。なかなかの苦労人だったらしいよ。
 しかも美人なんだ。おれと知り合う前には、ダンサーとして有楽町で働いていたらしい。ハイヒールをはいて踊っていたというから、ラインダンスでも踊っていたんじゃないかな。もちろんスタイルは抜群。おれより一〇センチも身長が高かったからね。
 身持ちの堅い女で、毎晩会っているのにどこに住んでいるのか教えてくれない。一ヶ月ほどたって、ようやく彼女が住んでいる寮を訪ねることができた。真剣に愛していたから、すぐ結婚を約束したよ。数日後には籍を入れ、彼女の部屋で一緒に暮らすことになった。彼女の寮仲間が結婚を盛大に祝ってくれて、やっとおれにも幸福が舞い込んできたと思った。
 ところが暮らし始めて三日後、彼女が倒れた。知り合いの医者が世田谷区の東急二子玉川園駅近くにいたから、あわててタクシーで連れていったが、医者は彼女を診察するなり、「もって一週間でしょう」なんていう。思わず「どうにかしろ」とつめ寄ったけれども、いくら医者をどなっても、こればっかりはどうしようなかった。 実は彼女の肺は、このときにはほとんど動いていなかったんだ。彼女も自分の肺が悪いことは知ってはいたが、かわいそうにおれには言い出せなかったんだな。好きだから一緒になりたい。でも自分の命も長くない。そんな葛藤を抱えていたんだ。
 仕事の合間を縫ってできる限り病院を訪ねたよ。医者から「遠藤さんは本当によく来るね」なんていわれた。少しでも長く会いたかった。彼女も頑張って、入院してから一ヶ月も持ちこたえけれど、結局ダメだったね。会社に危篤の知らせが届き、病院に駆けつけたときにはもう意識がなかった。半狂乱で医者をどなりつけたが、死んじまったものは戻らない。

■新興宗教にのめり込む

 知子が死んで、おれの心にぽっかりと穴が空いた。寂しさを埋めるためにのめり込んだのが新興宗教だった。人の一生なんか、いつどうなるかわからないという思いが、おれを宗教に向かわせたんだと思う。だから一生懸命布教したよ。入信させた人数は、いつも地区でトップだったほどだ。
 人から悩みを相談されたときは、一緒になって悩んであげる。若い女性なんかは、それだけで入信するんだ。笑うかもしれないけれど、おれは命がけで布教していた。だから数千人を束ねる地区の班長にもなれたんじゃないかな。今から考えればうそみたいだけれども、当時は大勢の人の前で話すことも、全然苦痛じゃなかった。説得すれば、かなりの人が入信してくれる自信もあった。 でも、これだけ力を入れていた宗教団体からも、おれは追い出された。原因は布教方法だ。おれは布教のとき、わかりやすい言葉で教義を説くようにしていた。最初に理解するのは教義の一部分だけで十分で、入信してから少しずつ理解を深めてくればいいと思っていたからだ。でも幹部は、その方針に反対だった。
 おれも命をかけてやっている布教だったから、あいまいには引き下がれない。結局、幹部と論争になって、おれは放り出されたというわけさ。まあ、いまだにその教義だけは信じているけれども、この論争以降、教団の宗教行事には出席できなくなった。
 知子も死に、生きがいだった布教もできなくなり、人の多い東京で暮らすのが、おれにはつらくなった。だから信州・上田にわたって、製材工として働くことにしたんだ。
 木はいいよ。一本丸太から角材や板を切り出す作業は、知子やおふくろを忘れさせた。少しずつ「孤独の気」もなくなっていくようだった。
 でもいくつかの後遺症は残ったね。まず貯蓄をしなくなったこと。カネをためるのがばからしくなったんだ。どうせいつ死ぬかわからないという気がしてね。それと職を転々とするようになった。上田の製材所では、五人ほどの若い従業員のかしらだったから、それなりの給料をもらってはいたけれども、一ヶ所ににじっとしてはいられなかった。
 何でかな。丸太の渡し、解体屋、飲み屋の亭主、木こりと、ありとあらゆる仕事を転々としたが、いつでもしばらくすると、何か新しいことをやりたくなる。守りたいものがなくなったからかもしれない。

■淫乱の虫を飼った女

 結局は再び東京に出てきて、何度か結婚した。そのうちの一人が君子。だが、これがひどい女だった。とにかく尻が軽い。仕事から帰って九時くらいには一緒に布団に入るんだが、夜中になるとこっそり家を出ていってしまう。結婚当初からそうだった。でもおれは何もいわなかった。他人の事情を聞くのが嫌いなんだ。いや、単に真実を知るのがこわかったのかもしれない。結婚してすぐに息子も生まれたが、君子の生活は変わらなかった。 そのうち彼女の仕事仲間から、とんでもないうわさを耳にした。結婚後も彼女は新聞の配達員として働いていたが、仲間のほとんどが彼女と関係していたというんだ。解体の仕事が休みのときに、彼女の仕事を手伝いに行って聞かされたから驚いたよ。
 毎日毎日、男をとっかえひっかえするのは尋常じゃない。だから病院にも連れていったが、「この病気は治らない」と医者にいわれた。この女は、「淫乱の虫」を股に飼っているんだと、心底思ったよ。
 そのうちに入園したばかりの息子を残して、彼女は家を出ていってしまった。新聞屋の金持ちをたらし込んだらしい。それからはおれが、毎朝息子に弁当を作り、幼稚園まで送っていった。仕事が終われば真っ先に幼稚園に飛んでいき、息子の手を引いてアパートに帰る生活が二年は続いたかな。でも小学校入学を前に、出ていった君子に預けることにした。やっぱり息子には母親が必要だからな。
「お母さんをしっかり守ってやんなさい」と息子にいったら、うなずいていたよ。五歳じゃわからなかっただろうけれども……。それ以来、息子には会っていない。 八三年のことだ。高田馬場で昔の友人にばったり会ってしまったことがある。友人は二七歳になった息子におれに会ったことを連絡したらしい。息子はおれに会うために飛んできたようだが、おれは逃げたよ。息子は君子の下で働いていたと聞いていたから、おれに会えば無用な争いが起きる。「会ってはいけない」と思ったら逃げるしかなかった。

■新宿で得た平穏

 君子と正式に別れてから一年後くらいに三歳下の好恵と結婚した。新聞屋の売店で働いていたおれに、彼女はなぜか自分から寄ってきた。「おじちゃん、おじちゃん」なんていってね。
 おれも三四歳にもなっていたし、結婚なんかするものか、と思っていたが、なついてくる好恵はかわいい。仕事が終わってからラーメンを食べたり、映画をみたりしているうちに彼女のアパートで暮らすようになった。籍を入れてしばらくすると娘もできた。
 でも、娘の七五三を見ることはなかった。結婚して三年後には、妻が娘を連れて家を出ていったんだ。暮らしていたアパートに男を引きずり込んだ形跡があったから、その男のところかもしれない。女房からは何も聞かされていなかったけれどな。その後は、一切音信不通。娘の顔もそれ以来見ていないから、横を通ってもわからないだろう。
 それからも転職を繰り返し、五年ほど前に解体の仕事をクビになった。理由は年を取りすぎて危ないから。すぐにアパートを追い出され、放浪が始まったよ。池之端では「カネを盗んでこい」と、ホームレスの仲間からいわれたのが嫌で逃げ出した。江戸川では賽銭泥棒を強要されて離れた。悪さをしてまで生きていたくないんだ。おやじが生きているまでは金回りもよかったし、その後は自分で稼いできたから、人様のカネを盗むなんてしたことがない。仕事も好きだったし、今でも働きたいと思っているくらいだからな。
 新宿に来て、やっと平穏に暮らせるようになったよ。これだけのことがあっても、女房を殴りつけたことも、くわしく事情を問いただしたこともなかった。知子と死に別れて以来、深く人と関われずに孤独と隣り合わせで生きてきた。でも、この新宿では信頼できる仲間もできた。ときおり襲う寂しさには、「南無妙法蓮華経」を唱え、毛布をかぶるようにしている。 (■了)

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保健室の片隅で/第一回 イジメって?

■月刊「記録」98年1月号掲載記事

         *            *           *

■理由なんてない
 私は中学生のとき保健室登校生だった。
 べつに学力が人より劣ってるわけでなく、体に障害があるわけでもない。だけど教室には入っていけず、保健室に登校していたのだ。
 イジメと保健室登校、そして不登校にはつながりがあると思っている人が多いようだが、私が見ている限りではまったくなかった。事実、私も中学生のときにイジメられていないし、その気配すらなかった。といっても、イジメられるほど仲がいい友達もいなかったから、気にならなかったのかもしれない。
 じゃあ、何でそんな私が保健室登校をするようになったかと聞かれると、私自身「わからない」というのが正直なところだ。きっと、学校に行けない不登校の子どもたちも、自分がどうして教室に行けないのか、何で学校に行けないのか、はっきり理由がわかっている人はそう多くないと思う。
 中学を卒業し、通信制高校に通っていた頃にもらった手紙のなかに、「自分の子どもが不登校なのだが、どうして学校に行けないのか、本当の理由を聞き出してほしい」というのがあった。しかし、理由もなく教室に行けない人がいるのだということも知っておいてほしい。
 理由もなく教室に行けない人も、親や学校の先生、また社会の大人に、どうして学校に行けないのか、教室に行けないのかと聞かれると、「何か答えなければ」という衝動にかられてしまう。
 理由もないのに教室を拒否し続けると、サボリと思われるんじゃないか、逆に精神異常とみられて、病院に閉じ込められてしまうのではないかと不安になるのだ。そうしてこわくなって何かを答えてしまう。そして自分の答え自体に対して、また不安を抱くという悪循環をくり返す。
 たしかにこういった悪循環は、精神的に何らかの異常があるからかもしれないが、ものの考え方を一つ変えれば、病院に行くほどの異常とはいえないだろう。

■イジメとは一体何?

 人間、誰しも欠陥を持っている。
 人にできることができない人、できないことができてしまう人、それぞれにいいところと悪いところを持ち合わせていて、その出方が人と少しズレているのだと思えば、そんなに悩むほどではないのではないかと思う。私が教室に行けないことも、欠陥の一つ。人見知りするのも、慣れていない人の前で食事を取ることができないのも、病気ではなくて欠陥の一つでしかないのだ。
 では、イジメとは一体何なのか? 大きくわけて二つのパターンがあって、自分がイジメられていると思ったときに初めて成立するイジメと、「イジメてやろう!」と思って故意に行われるイジメがある。
 私が経験したのは今まで仲のよかった友達がだんだん遠ざかっていくという、精神面での孤立だった。
 名前を呼んでもらえなくなり、クラスの一員として認められているのかいないのかさえわからなくなり、自然と孤独になってしまった。どこのグループにも属さない人間は、いつしか誰にも相手にされなくなる。その子に近づく者も同様で、いずれクラス中から白い目を向けられるようになるのだ。
 こういった精神的なイジメは、そのうち消えるときが来る。いいかえれば時間が解決してくれるのだ。なぜかというと授業でグループを作る時などに、どうしても孤立が目につきやすいイジメだから、誰かが何らかの対処をすることができる。
 ただし、その時まで待つことができればの話だが。
 私には時が解決してくれるのを待つだけの力はなかった。子どものころから慣れていない人の前で食事を取るのが苦手で、教室が苦手で、協調性なんかなかったから、今さらどうやって人とつき合っていけばいいのか、どうやって接していけばいいのか、さっぱり見当もつかなかったのだ。
 教室のなかに一人ぼっちで、冷たい視線を気にしながら食べるお弁当がノドを通らなくなり、着ている制服も重たくて、何も入っていないカバンが重たくなった。学校が遠く感じられて、しかしそんな私に気づく人は誰もいなくて、受け止めてくれる人も逃げ場も何もなかった。
 今こうしている自分に「気づいてほしい」と思う反面、「親には心配をかけたくない」という思いもあった。 口にはもちろん態度にも表さないよう、初めのころは気をつけていた。親に心配をかけないように気をつけるのは、故意に行われているイジメでも同じだろう。

■またイジメちゃおうか

 故意に行われるイジメはどうしようもなく悪質だ。
 まわりの人間が気づいたときにはもう手遅れで、何か手を打とうとすればするほど裏目に出てしまうものだ。イジメられている本人はそのウズに翻弄されて、精神的にも肉体的にもいたぶられていく。
 私がこれまで一番ショックを受けたのは、この故意にイジメを行ったことのある人の話を聞いたときだった。「あいつのこと、またイジメちゃおうかなぁ」
 そんな何げない言葉から、過去にその人がイジメっ子だったと知った。どういうイジメを行っていたのかと聞くと、イタズラ電話や、「デブ」「チビ」など、その人がコンプレックスを抱いていることをあえて強調する言葉の暴力、トイレに連れ込んでは集団で殴るけるといった肉体的な暴力もあったという。
 何でそんなことをするのかと聞くと、特別にこれといった理由はない。ストレス発散だとか、ただ単にムカツクから、ということなのだ。
 イジメられている方にはまったく何も悪いところはない。どうしてその人をイジメの対象に選んだのかと質問すると、「顔が気にいらないから」と答えた。私からみれば、みんなと同じふつうの顔立ちなのに、誰か一人が気に入らないというと、皆の標的になってしまうらしい。
 そのくせ、イジメられている子が学校を休むとみんなで心配するんだから、不思議でならない。イジメが発覚するのがこわいのだろう。結局、イジメている方は臆病者なわけだ。そんなにビクビクしながらイジメるくらいならイジメなんてしなければいいのに、なくならないというのは、やっぱり社会現象だからだろうか?
 イジメられている方の気持ちをいえば、「人には気づかれたくないから、誰にも心配かけたくないから、今日一日だけは休むけど、明日からはがんばるよ」といった感じが多い。そこからすぐに不登校に発展したり、保健室登校をするようになるのは実際には珍しいことなのだ。
 基本的に、保健室登校や不登校をする人は、教室や学校を自分自身が気づかないところで徐々に拒絶し、知らない間に足がそちらに向かなくなってしまう。

■教室に近づけない

 人に劣るところはないのに、直接イジメられているわけではないのに、人と同じことができなくて、気づいたときにはもう私は教室に近づけなくなっていた。逃げ場を探して学校中をさまよい歩き、途方に暮れやっと見つけた保健室。もしその保健室にさえ拒否されてしまったら、もう行き場はなかった。
 私の場合は、保健の先生がそこを「逃げ場として使ってかまわない」といってくれたから、どうにかして学校にも行けた。もし、「もう来ないでほしい」といわれていたら、きっと学校に行くこともできなくなっていただろう。そして心の底から学校という社会を嫌いになっていたはずだ。
 保健室登校生が保健室に行き、いったい何をしているのかはあまり明らかにされていない。私がそこで何をしていたのかというと、みんなと変わらないふつうの学校生活を送っていた。
 休み時間は休み、授業時間は勉強をしてきちんと出席扱いになっていたし、テストだって受けていた。みんなと違うところといえば、クラスメートがいないことと教科担任がいないこと、ほとんどが道徳の授業だったということだけだ。
 どうして教室に行けないのかということには一切ふれずに、保健の先生はいろいろな話をしてくれた。
「心の言葉を文章に表しなさい。たくさん作文を書いて、先生に読ませて。詩でもいい。絵でもいい。自分の好きな表現で、心の中を表すの」
「別に、ずっとここにいてもいいのよ。逃げ場がなくなったら、つぶれてしまうのは誰だって同じなんだから。いつか自然にここから出ていけるようになるときまで、無理に追い出したりはしないから」
 後になって知ったことだが、私のような教室に行けない生徒を保健室でかばっていると、職員室のなかで冷たい目を向けられることもあるらしい。それでも先生は一生懸命、私の居場所を作ってくれた。私だけじゃなく、教室に行けないみんなに。

■カラーに染まる

 保健室にくる生徒には、どこか似たようなところがあった。友達がいないというわけではないけれど、人を信用できない。電話で話すのは好きだけど、自分からは絶対にかけない。お祭り騒ぎは好きだけど、心のどこかで、「何でこんなバカなことをしているんだろう?」って疑問を抱く。いったん疑問を持ったら止まらなくなり、すべてがバカらしく思えてしまう。
 どうしてみんなでトイレに行かなきゃいけないのか? 何でみんな同じような格好をしなきゃいけないのか? ルーズソックスに、ミニスカート、茶パツにカラオケ。持っているおカネさえも、みんな似たりよったり。財布の中身なんて、人それぞれ違っていて当たり前じゃない。それなのに統一したがるのは、みんなと同じじゃないと不安になるからなのか?
 みんなと同じじゃなかったら、少しずつみんなが遠ざかっていってしまうからなのか……?
 同じカラーを持っていない人間は、同じ形をしていない人間は、みんなに不思議そうな目で見られる。一緒にトイレに行かないだけで、夜遊びができないだけで、友達の家に泊まりにいったときに親があいさつの電話をするだけで、みんなと違うカラーだといわれてしまう。
 教室にあるグループとは、同じカラーを持つ者たちの集まりで、そのグループに「入りたい」と思えばその色に染まり、その形に自分を整えればいいだけだ。カンタンなことだと思う。
 でも、私があえてそのカンタンなことをしなかったのは、無理をしてまでみんなのなかにいようとは思わなかったからだ。
 一人に慣れてしまえば、一人でいることを苦に思わなくなり、誰にも何もわかってもらえなくても構わなくなる。わかってくれる人がいれば、それはそれでうれしいけれど、もう、そんなことはどうでもよくなっていた。 いつかきっと、自分と同じ考えを持っている人に出会える。そう信じて何もいわずにいたら、結果的に一人になっただけなのだ。
 これに関しては、私にも非があったろう。自分の気持ちを口に出さなかったら、誰も何も気づいてはくれないのだから。
 自分の周りに自分と同じ思いをしている人がいなければ、世の中の人間はみんな同じバカにしか見えなかっただろう。つい最近まで、ずっとそう思ってきた。くだらないことに笑い、くだらない遊びを本気で楽しんで、愛だの恋だのと騒いでいる生徒・学生たちがクソガキにしか見えなかったのだ。
 それは世の中の大人たちだって同じだった。外に出れば、バカの塊が動き回っているようにしか見えなかったのだ。 (■つづく)

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鎌田慧の現代を斬る/くたばれ! 政府容認サティアン原発施設

■月刊「記録」1999年11月号掲載記事(記載は掲載当時のままです)

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■中曽根親子で巡る因果

 ついに、日本の原発施設でも大事故が発生した。次第に頻度がふえてきた原発事故と規模の大きさからは、原発の縮小、代替えエネルギーへの移行そして運転中止の必要性がもとめられている。原発によるこれ以上の被曝をくい止めるために、政府は責任をとるべきだ。
 これまで政府は、「安全だ」、「安い」だけの理由で原発を推進してきた。「安全」と「低コスト」。この相対する概念を一緒にしてきた政府のいい加減さが長年まかり通ってきた。この矛盾を解決するには、建設予定地にカネを大量にばらまくだけである。
 そもそも日本が原発時代に突入したのは、一九五四年、中曽根康弘議員が原子力予算を提案したことにはじまる。国会をなんなく通過した予算総額は、二億三五〇〇万円。原発で使われるウラン二三五との語呂合わせで、予算の数字が決まったといわれる。
 当時、日本学術会議などは、日本の原子力利用に反対したが、「札束でほっぺたを叩いた」といわれるほど強引な方法で、中曽根はカネで強行した。それが「金力発電」の出発である。五九年には、彼は科学技術庁長官に出世して、キケン極まりない原発推進に力を注いだのである。
 この中曽根の強引さが、日本中に原発を生み、こんどは息子の中曽根弘文が科学技術庁長官として、この大事故の処理に追われている。これこそ「因果は巡る糸車」というもので、こんご中曽根親子の責任を追及する必要がある。
 原発は出発からして利権のキナ臭さがただよっている。だから、東海村で臨界事故が起きた当日の九月三〇日でさえ、通産省資源エネルギー庁の河野博文長官は、さっそく次のようなコメントを発表している。
  「環境問題との共生、エネルギーの安定供給のことを考えれば、今後も原子力発電の重要性は変わらない」
 この無責任、無知、無謀な発言など、負け戦を隠して「勝った、勝った」と騒ぎ立てた大本営発表とおなじである。あるいは「撃ちて死なん」の玉砕主義といってもよい。
 通産省は、二〇一〇年までに一六基から二〇基の原発を新設するという供給見通しを立てている。今回、これだけの大事故に見舞われてもなお、拡大政策を変えず、ひたすら推進しようとしている。まるで「原発無理心中」「大東亜原発戦争」といった状況である。

■労災が認められない被曝労働者

 また通産大臣である与謝野馨は、いまごろになって、「今後は原発だけでなく、燃料加工施設にも多重防護(フェイルセーフ)の考え方を取り入れる必要がある」などと発言している。与謝野晶子の「君死にたまふこと勿れ」の詩でもよく読んだほうがいい。危険な放射性物質を扱いながら、フェイルセーフの考え方のかけらもなかった。そうしたJCOの実態にたいする自己批判がまったくない通産大臣の発言には、驚くほかない。
 そもそもフェイルセーフのシステムどころか、核物質にかんする基本的な知識すら、この会社では従業員に教えていなかったのである。事故を引き起こして病院に運ばれたJCOの労働者は証言している。
  「二三年前に(会社に)入った直後に研修を一回受けただけで、意味がよくわかっていなかった」
 このように教育をあたえないで、最高の危険物を扱わせていた政府・通産省・化学技術庁は、犯罪者集団といっていい。
 さらにJCOの工場は、放射線漏れを防ぐような建築物でさえなく、臨界を止める装置もなかった。これまで原発は「トイレのないマンション」などと呼ばれてきたが、これではまるで「ブレーキのきかない自動車」というようなものだ。
 これだけ危険な暴走核工場が、日本のあっちこっちにあるのがおそろしい。だいたい安全対策など手の回らない中小工場に、危険な作業を押しつけ、日本の原発のコスト削減を実現するなど、弱者いじめにほかならない。結局、その後始末役は、もっとも立場の弱い労働者に回ってくるからだ。
 JCOの臨界事故をかろうじてくい止めたのは、突入させられたJCOの社員三三人の冷却水の抜き取りやホウ酸注入などの作業である。中性子線を防ぐ防護服もなく、被曝覚悟の特攻精神によって、この事故はくい止められたのだ。事故当日、千葉の病院に担ぎ込まれた三人の労働者や、そこで働いていた労働者、そしてこの特攻隊に駆りだされた労働者の被曝が、住民の被曝とともにこれから心配される。
 放射線被曝は、将来における白血病やガンなどのほかに、免疫性の低下による病気の多発という症状を引きだす。今後、どのような病状が労働者、住民の被曝者にあらわれるのか、とても心配だ。
 といっても日本における被曝は、けっしてこの事故がはじめてではない。これまでも原発の定期点検作業などによって、膨大な被曝者を発生させ、数多くの死亡者をだしてきた。ただ原発労働者の死亡は、因果関係が明らかではないという理由によって、これまで労災に認定されていなかった。つまり原発で被曝者がでていた事実そのものが、隠蔽されてきたわけである。「原発は安全だ」「死者は発生していない」というインチキな政府発表によって原発は押しすすめられてきた。かつては、「クリーン・エネルギー」などと宣伝されたのだから、欺瞞のエネルギーといえる。
 もっとも危険な原発関連施設では、安全に細心の注意を払わなければならない。ところがJCOは、その安全を二の次とした。そもそもこんどの事故は、労働者の作業ミスが原因ではない。会社のコスト削減要求が生みだした事故である。
 たとえ核物質を扱わなくても、安全第一がモノを作る工場の大原則のはずである。しかしJCOは、安全性よりもコスト削減を第一に掲げ、より手早く仕事を終わらせるために、バケツによるウラン溶液の加工をおこなった。工程短縮、手抜き生産である。これは原発側のコスト削減要求によっている。つまりは、ほかの労働現場でもけっして許されない手抜きの思想が、キケンきわまりない原発関連工場で最優先でとられていたということだ。このような思想を押しつけた政府と電力会社の責任はきわめて大きい。

■安全神話が危険を招く

 この核工場の事故であきらかになったのは、高速増殖実験炉「常陽」の燃料が、いまでも作られていたことだ。
 このところ、日本の原発は事故を多発している。九五年一二月には、高速増殖炉原型炉「もんじゅ」でナトリウム火災が発生。いまだにもんじゅは、運転再開の見通しすらたっていない。九七年三月には、東海村の再処理工場で爆発事故が発生し、作業員三七人が被曝している。ことしの七月には、敦賀原発二号機での冷却水漏れの事故が発生した。
 これらあわや大事故という一連の事故によって、高速増殖炉実用化の見通しは遠のき、高速増殖炉はすでに停止する事態になっていたはずだった。ところが常陽は、ひっそりと運転をつづけているのである。
 しかも原発各社は、高速増殖炉の代案として、プルトニウムを燃料として使うために、混合酸化物(MOX)燃料の使用を強行しようとしている。天然ウランまたは劣化ウランにプルトニウムを混ぜるMOXは、運搬や運転での危険性が指摘されている。にもかかわらずまだ計画を中止する気配はない。次から次へと危険な技術を導入し、なおかつ事故により信頼性を完全に失った方法まで強行している。この懲りない原子力産業界の体質は、膨大な住民を放射線にさらす危険を生みだしつづけている。
 原発の事故は、これまでの批判通りのものだった。「原発は安全だ」、やれ「原発は安い」などといって政府が強行してきたのだが、核工場が野放しになっていたいたとは、想像外のことだった。ただ儲けるためだけの競争が、今日の事故を発生させ、多数の被曝者をだすことになった。原発もおなじ構造である。
 これまで取材した原発地帯の首長たちは、「原発に不安はないのか」という私の質問にたいして、ほとんどが「政府が安全だといっているから」と答えていた。それが原発推進派の逃げ口上である。
 そのあまりにも楽観的な見通しが、逆にどれほど危険かを今回の事故はしめしている。いざ事故が起こってみれば避難もままならず、通報施設も完備していないことに気付かされる。モニタリングポストといったって、限られた場所に設置されたもので、すべての放射線を捕捉できるものではないこともハッキリした。
 このように安全をいいつのる限り、必ず起こる事故は防止できない。「安全神話」および「原発教」をばらまき、カネと安全とを取り引きした中曽根以下、歴代の大臣たちの罪はきわめて深い。

■原発は秘密・依存・ファシズムの三原則

 日本における原発推進の原則は、公開・自主・民主であるという。しかし、原発建設地帯の歴史と現状をみるかぎり、公開の代わりに秘密であり、自主の代わりに依存であり、民主の代わりにファシズムであった。これはいまも変わらない原発を推進する政府・自治体、電力会社の三原則である。
 だいたい原発の建設されている自治体に取材にでかけても、たいがいうさんくさい目で見られ、ろくに資料すら提供されない。国からタップリ補助金をもらっている地方自治体にとって、原発批判など許されないからだ。「自治体」が、完全に政府と電力会社に依存している状況で、どうして公開・自主・民主といえるだろうか。
 用地買収一つを例にとっても、公開・自主・民主がいかにみせかけかがわかる。六〇年代ならいざしらず、近年における原発の用地買収は、すべてウソと秘密によって塗り固められてきた。ごく最近の例では、石川県珠洲市の用地買収がある。九九年一〇月一一日『朝日新聞』の朝刊も、この問題を報じている。
  「関西電力(大阪市)が、石川県珠洲市に計画している珠洲原子力発電所の予定地付近で、反対派住民とみられていた地主の所有地の買収を清水建設などに依頼、これを受けて大手ゼネコンの関係会社数社がこの土地を取得していたことが、関係者の話で明らかになった。関電はこれまで、発電所の用地取得では地権者以外と交渉しない、と説明してきた。買い主側、地主とも、売買の表面化で反対運動を刺激することを恐れて、土地を担保にした金銭の貸借を装っていた。さらに国土利用計画法の届け出を免れるため、土地を九分割して譲渡、売買成立までに多数のブローカーらを介在させていた。買い主側は、仲介者への手数料を含め、関電が当初地主に提示した三倍以上の額を支払う結果になっていた」
 もちろん今回の事故でも、公開・自主・民主というお題目がいかに空疎だったかがわかる。たとえば事故直後、地元の茨城県や東海村の担当者が、「危険な施設とは思ってもみなかった」と発言していた。これは建設申請の段階で、危険物だということをなんら通告していなかったことを示していてる。これこそ秘密主義のサイたるものである。
 原発の安全性を信じこまされていた人たちも、ようやく眼を覚ましはじめた。原発反対は大きな世論になりつつある。たしかに時間がかかったが、まだ間にあう。これだけの事故が起きても、政府は原発をまた増設・拡大しようとしている。こうした玉砕主義をここでストップさせる必要がある。こういう連中と一緒に地獄へ行くのは、マッピラだ。 (■談)

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ホームレス自らを語る/離婚がすべてを狂わせた・井上宏(五一歳)

■月刊「記録」97年11月号掲載記事

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■頑固な妻に嫌気がさして

 結婚したのは二六歳のとき。そのころ、私は医療写真専門の現像所で働いていて、嫁さんもそこで一緒に働いていた。ただ、同僚たちには「あの女はサゲマンだから」と結婚を反対された。うちの家族にも反対された。嫁さんは小柄で体も弱かったからね。でも、ほれた弱みっていうか、私には魅力的な女だった。
 東京・赤羽にアパート借りて、最初は強引に同棲しちゃったんだよ。結局、二年後に子どもが生まれた。男の子だった。ところが、嫁さんの産後の肥立ちがよくなくて、「田舎に帰りたい」と言い出した。それで、写真の仕事は休職して、一家三人で嫁さんの田舎である徳島に帰った。もちろん、また東京に戻る約束でね。

 ところが、田舎で暮らすうちに嫁さんの体調はすっかりよくなったのに、「もう東京には戻りたくない」と言い出した。それからゴタゴタが始まった。もう毎日「戻る」「戻らない」の繰り返しだった。
 私としては戻るつもりで休職したわけだから譲れなかった。それに、徳島では郵便局の非常勤職員で働いていたが、日当は三〇〇〇円と、小遣いにも足りない額しか稼げず、一家三人なんてとても養っていけない。嫁さんの実家に入って、生活費の面倒はみてもらっていたが、初めのうちは歓迎してくれていた嫁さんの家族も、長くなるに連れていづらい雰囲気を漂わすようになってきた。
 もっとも、嫁さんの気持ちもわからなくもないんだ。生まれたところに帰って親兄弟に囲まれていれば、もう東京にUターンするのは嫌になる。誰だってそうだろう。徳島もいいところだよ。でも、それをいうならば、私には東京こそがふるさとだからね。
 私は、東京に戻るという約束がホゴにされるし、思うように稼げないから当然面白くない。嫁さんは嫁さんで「戻らない」と頑固一徹だから、夫婦ゲンカが日常茶飯事になってくる。いがみ合ってばかりいるうちに愛情なんてものもなくなっていった。もう、嫌気がさして、我慢も限界だった。ついに三二歳のときに別れることになった。

■区役所に住民票がなかった

 私は群馬県に生まれて、二つか三つのとき一家で東京に出てきた。小さいころのことだからよくわからないんだが、どうもおやじの重婚がバレて逃げるようにして出てきたようだ。
 上京してからのおやじは何度か事業を起こしては、そのたびに失敗をして、生計を立てられない生活力のない男だった。その分、母親が男勝りな人で池袋で飲み屋を始めて、それで家計をまかなっていた。ただ、そんなおやじでも子どもの私にはいい父親だった。一緒に遊んだり、スポーツの相手をしてくれた。今でも植木いじりが好きなのも、おやじに教えられた影響なんだよ。

 高校へ入学するとき、住民票を取りに区役所へ行ったら「ない」といわれた。群馬を逃げるようにして出てきたので、住所を移すことができなかったらしい。住民票が取れなくてはどうしようもないので、家庭裁判所で書類を作ってもらって、やっと入学できた。
 高校は都立の普通高校だったが、ちょっと変わっていて、午前部、午後部、それに交替部(夜間)の三部制の学校だった。生徒はその日の都合で、三部のうちのどれかに出席すればいい。定時制高校とは違って、自衛隊員とか、看護婦のような、不規則な仕事をしている人のための四年制高校といったところだね。
 その高校を卒業して、先に話した医療関係の写真を専門に現像する会社に入ったわけだ。もともと写真が好きで、高校生のころもよく夜行列車に乗って、信州に写真を撮りに行ったりしていた。仕事は現像をしたり、引きのばしたり、デュープ(複製)を作ったり、毎日が面白かった。

■子どもは一度も会いに来ない

 嫁さんと別れて、一人で東京に戻ってきたが、もう前の会社には戻れなかった。一応は休職ってことで徳島に行ったけれども、何しろ三年間も放っておいたし、徳島での生活費に困って退職金までもらってしまっていたからね。
 それからは、いろいろやったよ。一〇本の指ではおさまらないんじゃないかな。スーパーや一部上場の工場で働いたこともある。でも、一人だけだとどうしても気力も続かなくて、すぐに我慢できなくなっちゃうんだ。最後は、アスファルトの検査をする仕事だった。辞めたのは九四年かな。

 退職にともなって社員寮からも立ちのかねばならなかったので、母親のアパートの部屋に居候させてもらって、また住み込みで働ける仕事を探した。しかし、この不況でこの年だから、なかなかそんな仕事はない。たまに土木の仕事なんかがあるのだが、今まで経験したことがないのでしり込みしてしまうしね。
 そのうち、母親の部屋代とか面倒をみてくれていたのが腹違いの兄だったこともあって居候もしづらくなってきて、サウナや映画館のオールナイトで過ごすことが多くなった。そのうちに、中に衣類とか保険証なんかが全部入っていたバッグをコインロッカーに入れたまま、何日も放っておいたら処分されてしまった。それで、この新宿西口地下広場に寝泊まりするしかなくなったんだ。
 私は、今でもね、自分が生きていくためのカネは自分で稼ぐのが当然だと思っている。だから、炊き出しとか、ボランティアが配るおにぎりとか、一度ももらったことはない。仕事っていうのは、新聞ででも何でも自分で探すものだと思っている。
 今はね、主に使用済みのテレホンカードを集めて回っている。これが、一枚七円から八円で引き取ってもらえるんだ。ついでに雑誌があれば拾うし、信販カード、電車の定期券なんかでもカネにかえられるから拾っている。そうやって、五、六万円は月に稼いでいる。
 今では「こんな生活も、カネがないんだからしょうがない」というあきらめの境地にある。小屋の住み心地はよくない。ちゃんとした布団の上で生活するのが本当だろう。自分だって好き好んで、こういう暮らしをしているわけじゃない。
 こうなったきっかけは、結局は離婚だったかな。その挫折感のようなものが、何だか、続いているのかなって思うね。自分ではそうは思わないんだけど、みんなにサゲマンとかいわれたところをみると、やはりそうだったのかとも考えるよね。
 ただ、子どもがね。離婚したときには四歳のかわいい盛りで、私にもなついていて、別れるのは本当につらかったよ。考えてみれば私の親も重婚とか離婚をしているんで、これも血なのかなって思う。

 子どもは大切に思っているから、いつか修学旅行などで、子どもが東京に出てきたときには会いにくるかもしれないと思って、再婚はしなかった。子どもが二〇歳になるまでは、結婚しないって自分で決めたんだ。でも、一度も会いには来なかった。今、どうしているのか。うわさも聞かないね。
(九七年九月取材)

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ホームレス自らを語る/一生に三度の倒産・園部俊彦(五二歳)

■月刊「記録」98年4月号掲載記事

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■バイク・カメラ・ジャズが趣味
 休日はバイクに乗るのが好きだった。愛車はホンダのCB二五〇。使い慣れていたニコンのカメラを積み込み、西へと向かう。特に行く場所を決めてはいなかったけれども、奥多摩や相模湖・津久井湖・山中湖なんかによく足を運んだ。高速道路を使わないで走るのが好きだったから、バイク好きがコーナーを攻めることでも有名な大垂水峠にもよく通った。曲がりくねったカーブも面白いし、何よりおいしい空気と景色があった。
 疲れるとバイクを止めて写真撮影に向かう。カメラにはかなり凝っていたからリバーサルフィルムを使っていた。紙に現像するんじゃなくて、スライドにして保存しておくんだ。本当によく撮ったね。
 家に帰れば音楽が待っていた。ジャズやラテン音楽が好きだった。コンポでお気に入りのCDを聞くのは最高だった。ジャズは近年の激しいものより、八ビートをしっかり刻んでいる古い曲をよく聞いた。ジミー・スミスなんか、繰り返しかけていたっけね。
 結婚もしなかったからカネもあった。なかったのは時間だよ。時間ができたらカメラを担いでバイクで日本一周したいなんて、そのころは考えていた。今じゃ、ひまがあっても飯にさえ困るというのに。いつの間にか、実現できない夢になったな。

 生まれ故郷は茨城県だ。工業高校で電気を勉強して、卒業後に電気部品を扱うメーカーに就職した。数回、会社を変わるうちに、あらゆる電気部品にくわしくなった。強い電気が流れる配電盤や、弱い電気で動く家電まで、電気関係ならばおよそどんな仕事でもできる自信があったよ。
 今、思えば、あの自信がアダになったな。自分でやってみたくなったんだ。男だったら誰だって、自分で事業をやってみたいだろう。それに、会社が得意先に出す仕事の見積もりを見るたびに、安い給料で働くのが嫌になったんだ。一九八三年、三八歳で会社を興した。会社といっても、自分一人の会社だったけれどね。東京都稲城市のマンションを自宅兼事務所にして始めた。
 コンピュータ部品や医療用電化製品の組み立てが主な仕事だった。幸い、親会社が必要な機材を提供してくれたから、設備投資にカネをかける必要もなし。おかげで借金もしなくてすんだんだ。
 会社を興してしばらくは順調そのもので、サラリーマン時代の月給を上回る収入も得たし、何より自分のために働いているのがうれしかった。

 ところが従業員一人の会社なんて、つぶれるときはあっけないもんだった。八八年、僕が四三歳のときにいきなり倒産。営業センスと事務能力がなかったのが、致命的だったんだろう。僕は職人肌だからね。採算が合わないと思っても、ついつい時間をかけて仕事をしてしまう。それを止める人もいないから、自分が納得するまで頑張ってしまう。
 職人だけでは会社は持たないよ。営業と技術屋の両方がいないとな。あの本田宗一郎だって、彼の右腕になった営業マンがいたっていうじゃないか。僕は気がついたら、どうしようもない状態にまで追いつめられていた。もう、会社をたたむしかなかった。
 堅実な経営をしていたから負債は少なかったが、ショックは大きかったよ。しばらくは何もしたくなかったね。でもまあ、働かないわけにもいかないから、電気関係の仕事を探したんだ。ところがこれがない。預金で食いつないでいたけれど、三ヶ月たっても仕事が見つからなかった。当然、カネはどんどん減っていく。仕方がないから、知り合いの建築関係の会社で働くことにしたんだ。

■五〇歳に雇い口なんかない
 ビルの壁に不燃材を吹きつける仕事だった。僕が入社する数年前までは、ボロもうけだったらしい。でも、最初は建築現場で働くの嫌でね。好きだった電気の仕事から離れるのもつらかったし、こわい世界だと思っていたんだ。いかつくて、ガラの悪い男がどなりながら働いているイメージがあった。ところが働き出してみると居心地は悪くない。三人一組で現場に入るが、みんないい人ばかりだった。仕事が完了すると、現場が変わるのも気分転換になって意外によかった。

 仕事は鹿島、フジタ、大成建設なんかの大手から直接入っていたから、大きな物件がほとんどだったよ。短くても一週間、長ければ一ヶ月くらい同じ現場に通う。納期が迫ってくれば、週休二日というわけにはいかないが、仕事さえ終われば午前中で帰れる。いつの間にか、吹きつけの仕事が好きになっていたんだ。埼玉方面の現場が多かったので、住居も巣鴨に変えた。月六万円のアパート暮らしは快適だった。
 ところが、ちょうど僕が入社したころから、発がん性物質としてアスベストが問題になり始めたんだ。うちの会社はこれを扱っていたからね。だんだん行政や建築会社のチェックが厳しくなって、経営も傾いていった。
 僕はつくづく運が悪いと思うよ。一緒に働いていた先輩なんか、よくこぼしていたんだから。「昔はこの仕事で家が建ったのに」って。そして、とうとう九六年に、会社は解散してしまった。

 従業員三〇人ほどの会社だったが、独立する人や辞める人が一挙に重なった。数週間の間にどんどん人がいなくなっていった。仕事自体は山ほどあったけれど、仕事を受ける従業員がいなくなってしまったんだ。二、三人が見切りをつけ始めたことから、連鎖反応が起きたのかもしれない。会社に行っても仕事ができないから、ついには誰も来なくなってしまった。給料が払われるかどうかもわからなくなった。
 不景気でつぶれるなら、うわさが伝わってくるから事前に準備もできた。ところがずっと先まで仕事がつまっているのに、いきなり人間だけがいなくなったんだから驚いた。もっとも自分の生活については、まったく心配していなかったけれども。会社をつぶしたときに比べれば、のん気に構えていたね。また会社を変わればいいんだって。
 でも甘かったよ。当時、僕は五〇歳になっていた。どこを探したって雇い口なんかない。数百万円の預金で食いつないで、職探しをしたが見つからない。職安にも行ったけれども、態度がひどくてね。人をバカにしたように応対するんだ。だから結局、職員とは口をきかなくなって、求人票を見に行くだけだったよ。役に立たなかったね。

■最後の幸運もつかの間
 日に日に目減りしていく預金残高が恐怖だった。きちんと雇ってくれないならば、せめて日雇いでもと、高田馬場で手配師から声をかけられるのを待った。引っ越しの手伝いなんかによく出かけたが、日給六〇〇〇円では預金の持ち出しを止めるわけにはいかなかった。
 そんなとき高田馬場の公園で、「ハウスクリーニングの仕事をしないか」と声がかかったんだ。手配師ではなく、従業員が辞めて困っていた社長が、じかに声をかけてきた。幸運だったね。手配師のようにマージンを取らないから、一日一万一〇〇〇円になる。これで助かったと思ったよ。二〇日も働けば、どうにか生活していける。一生懸命働いた。だが、これが自分にとって最後の幸運だったんだ。数ヶ月後には、また会社がつぶれた。人生に三度も倒産にあうなんて、自分には疫病神がついているんじゃないかと思ったよ。もう、どうにでもなれという気持ちになっても仕方ないだろう?

 少しでも収入を上げようと高田馬場に通ったが、五〇歳をすぎた体では、なかなか仕事はもらえない。仕方なくバイクを売った。気に入っていたカメラも質屋に入れた。コンポも。そして自分の手元に取り戻すことは、とてもできなかった。
 いつの間にか、カネ目のものがすべてなくなっていた。預金も二~三〇〇〇円になった。家賃なんか逆立ちしても払えない。身の回りの衣服だけをバッグにつめて、そっとアパートを抜け出した。どこに行くあてがあったわけでもない。気がついたら新宿にいたんだ。

■住所だけでもほしいんだ
 新宿中央公園でホームレスが寝ているのを見て、ここにいようと思ったんだ。段ボールを敷いて寝た。何もする気が起きず、二、三日はただただ寝ていたよ。貯金がなくなっていくことで、かなり精神的に追いつめられていたから、家がなくなり、家賃や食費の心配がなくなって、かえってホッとしたくらいだ。それが九七年の夏。
 それからは飯場で泊まり込みの仕事を探すようにしている。飯場に入れば、少なくとも一五日間は食事にもありつけるし、雨露もしのげる。でも、最近はこの不況だからね。やはり仕事にあぶれてしまう。休みなく仕事を入れるには、手配師と顔なじみになっていかなければならないけれども、僕にはそういうことは苦手だし・・・・・。
 高田馬場に仕事を探しに行き、あぶれた日の夜には、新宿の西口地下で寝るのが習慣になっていた。ところがこの前の火災で、地下からも追い出されてしまった。「なぎさ寮」に入りたかったが、定員オーバーで受付もしてくれなかったよ。今は、夜も中央公園で眠るようになったよ。
 自分がなるまでは、ホームレスなんて、酒やばくちで身を持ち崩した人ばかりだと思っていた。ところが結構まじめに生きてきた人間もいるんだよ。僕だって、どうしてここにいるのかわからない。何が悪かったんだろう。いまだにホームレスをしているのが信じられない。
 住所不定じゃ、定職も見つけられない。手配師が扱う日雇いの仕事しかできないんだ。しかも年金をもらうには、まだ早い。だいたい住所もないのに、どうやってもらえばいいんだ。そのうえ不況が深刻になってからは、五二歳はすっかり年寄り扱いだ。仕事がほしいよ。国が仕事を斡旋してくれないなら、せめて住所だけでもほしいんだ。そうすれば職探しができるのに……。

 九五年に実家を訪ねたときには、「土地をやるから自分で家を建てろよ」なんて兄にいわれてね。「家を建てるカネがないよ」なんて笑ってたけれど、もらっておけばよかった。今は切実に家がほしいよ。でもここまで落ちぶれてしまうと、もう、親族なんかに連絡はできないんだ。自分でもどうしていいのかわからない。寒さに震えて眠るしかない。
(九八年三月取材)

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靖国を歩く/第40回 勝利祈願は靖国でOK?

■月刊「記録」06年4月号掲載記事

        *         *          *

 ここのところ、新聞やニュースで報道されるときの靖国神社は「A級戦犯が祀られているのに首相が参拝に行くのはいかがなものか、という中国(や韓国)からの批判があった」という内容がほとんどだ。そういう報道を繰り返し耳にしていて、かつ一度も行ったことがない人には、靖国という場所はどことなくタブーな、簡単に触れてはいけない場所というイメージを持たれているかもしれない。
 はじめて靖国神社をおとずれる人には、ぜひ神社に飾られている絵馬を見てほしい。鈴なりにぶら下げられた絵馬には脈絡なくあらゆる願い事が書き込まれている。これらを見れば、この神社が決して「こわいところ」ではなく、どんな人からも親しみやすいことが分かってもらえるのではないだろうか。
 安全祈願、昇進祈願、恋愛成就にはじまり、個人的な願い、たとえば「給料を上げてほしい」「今年こそVIPクオリティ!!」「氷室京介LOVE」、中には「明鏡止水」など祈願なのか何なのかよくわからないものもある。「先祖代々のお墓を直す為に何卒三億円の宝くじが当たりますように」という異常に率直な願い事もある。いったいどんな墓だ。
 いつもなら願い事の傾向など存在しなかったと記憶するが、注意して見ると、時期的な理由からか、受験合格を祈願したものが多いことに気付く。大学では立教、法政、明治、早稲田など、高校ではやはり靖国から近いからか九段高校合格を願うものが多かった。
 なるほど、たしかに靖国は戦死者を慰霊し顕彰する神社であると同時に、祀られている戦死者たちは国のために戦ったのだから、受験生たちは受験を戦争に見立てて靖国を「戦いの神が祀られている神社」として参拝に来るのかもしれない。
 ここでふと疑問に思ったのは、靖国は勝利祈願をする神社としてふさわしいか、ということだ。というのは、日本は日清・日露戦争では勝利しているが、太平洋戦争で惨敗しているということに思い当たったのだ。要するに、英霊とひとくくりにされてはいるが、中には勝ち戦の英霊と負け戦の英霊がいるわけである。そんな英霊たちがごちゃ混ぜに祀られているという事情を抱える靖国は、勝利祈願をする神社として果たしてふさわしいのだろうか。

■靖国は勝利祈願する場としてふさわしいか

 まず、靖国神社にたずねた。
「当神社は、国のために尊い生命を捧げられた方々を慰霊顕彰申し上げる神社です。ただ、参拝者がどのような目的で参拝されても、御祭神は大いなる威を発して御導き下さるものと信じます」。
 勝利祈願にふさわしいと直接いっているわけではないが、「どのような目的」でも「御導き下さるものと信じます」というのだから、靖国自身では勝利祈願にふさわしいと考えているのということだろう。「大いなる威」というのが何なのかよく分からないが、それで受験に合格できるのなら御祭神にどんどん発してもらっていい。 ただ、そうであっても、実際に祈願におとずれた受験生は勝利しているのか。気になったので、参拝に来る受験生と思われる学生に聞くことにした。
 男子高校生2人組。私大の受験を2つ控えている。
「合格祈願に来ました。…靖国神社が勝利祈願にふさわしいかどうか…については、考えたこともないです、すいません。ここに来た理由は、そんなに遠くなくて、有名だからです」
 なぜか謝られてしまった。しかし、これから受験する人に勝ったか負けたかを聞いてもしょうがない。聞きたいのは、あくまで祈願した結果がどうだったかなのだ。 女子高生2人組。
「受験生ではないです。弓道部のレギュラーに選ばれたくて祈願にきました。祈願にふさわしいかはよく分からないですけど、姉が2年前に彼氏と一緒に明治大学の合格祈願に来て、2人仲良く落ちてしまいました」。
 なぜ彼女の姉は合格祈願に靖国を選んだのだろうか。「やっぱり近いからじゃないですかね」。
 靖国に勝利祈願に来た理由は、ただ「近いから」「有名だから」という理由からが多かった。たしかに絵馬に「よりスタイリッシュに生きたい」というような願いが書かれているこのご時世、祈願に靖国を選ぶ理由に深いものなどないのかもしれない。サンプル数が少ないということもあるが、この時点では靖国神社は「まったく」勝利祈願にふさわしいとはいえない。

■トリノ勝利祈願はゼロ

 ただ、受験における勝利祈願といっても、それは個人的な問題だ。やはり、国をあげての祈願ということになれば事情はちがうのではないだろうか。「日本代表」の看板を背負う選手団を送り出したトリノオリンピックには国費も当然投入されている。ならば誰にとってもトリノはまったく他人事ではないはずだ。当然、各競技で日本の必勝を願った絵馬があってもいいところだろう。
 しかし! なんとなんと、絵馬はひとつも見つからなかった。自衛隊員が書いた「死んでもこの国を守ります」とやたら気合いの入ったものは見つけたが、「安藤美姫が金メダルをとりますように」と書かれたような絵馬はゼロだった。
 なぜだ。なぜ「トリノ必勝」絵馬がないのだろう? 「勝った英霊」と「負けた英霊」が混在しているため、純粋に「勝利祈願のための神社」とはいえない点はあるが、「お国のため」に戦った英霊たちが祀られている靖国に、国をあげて世界に挑むという大イベントであるオリンピックでの成功を願う絵馬がまったくないという事態は問題だといっていいのではないだろうか。
 絵馬を見ていた主婦風の女性にたずねてみた。いきなり、少し(大いに?)珍しい質問をぶつけられて戸惑った様子の女性だが、少し考えてから話してくれた。
「うーん…、やっぱり、今のオリンピックはCMなどで盛り上がってはいるんですけど、昔はもっと、選手たちには日の丸を背負って戦うんだという気概のようなものがあったと思うんです。今の選手は、自分のために戦う、と平然として言うようになりましたよね」。
 たしかに女性のいうことはよくわかる。しばしばいわれる「公共という概念の喪失」ではないけれど、国民としての一体感を感じることは生活していてほとんどない。私も、愛国心のようなものはほぼ持っていないし、愛校心もなかったから高校の校歌なんてまったく覚えていない。親の世代からはこの感覚が理解できないらしい。 考えられるのは、現在では受験などの個人的な戦いであればどんどん祈願するが、日本がひとつにまとまって戦うというような場合については、国民は総じて一体感のようなものを持たなくなったということだろう。念のためトリノの必勝祈願があったかどうかを靖国神社にたずねてみるが、「何を祈願されるかは個人の自由です」とかわされてしまう。しかし、多分絵馬がゼロなんだから、わざわざ祈願に来る人もいなかったのだろう。
 靖国とオリンピックは無縁であるから祈願には来ないということでもない。1932年のロサンゼルス大会、「バロン(男爵)西」こと西竹一騎兵中尉(当時)は馬術大障害で金メダルを獲得した後、硫黄島の戦いで戦死したので英霊として靖国に堂々と祀られている。果たしてどれくらいの人がこのことを知っているかという問題はあるが。
 あるいは、テレビでは大いに盛り上がっているように伝えられたトリノだったが、結局それはエンターテイメントとしての行事という位置づけだったのだろうか。エンターテイメントに国民の一体感を求めてもしょうがない。かといって、他に国民が一体になることができる行事はあるのだろうか。トリノの勝利祈願は靖国ではなく他の神社でする、という知られざる傾向があった可能性も否めない。英霊の多くは第二次世界大戦の戦死者であり、誰もが知るようにそれはボロ負けの戦争だった。アタマの片隅にそれがあり、なんとなく、足は明治神宮に向かっていた…という場合が少なからずあったりして。 ひょっとすると、英霊たちはトリノ必勝祈願にひとりでも来ることがあれば、「大いなる威」を発してなんとか選手を勝たせようとじっと待っていたのではないか。しかし、結果的にひとりも祈願に来ることはなかった。これに激怒した英霊の怒りが、トリノの日本選手たちに悪い流れを呼び込み、結果的に荒川静香の金一点を除けば他は惨敗という結果につながった。いささか超常現象的な考えだ。けれど、次回の北京オリンピックで挽回のメダルラッシュを狙うのであれば、万全を期してJOC(日本オリンピック委員会)から英霊に歩み寄ってみてはどうだろうか。…などと考えつつ、靖国の社務所に問い合わせてみると、「正月の縁起物として取り扱っているため、ただいま絵馬は品切れです」とのこと。
 …すいません、いろんな意味で。 (■つづく)

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阪神大震災現地ルポ 第14回/都市計画の非人間性

■月刊『記録』96年7月号掲載記事

■ 道路ばかりが広がる区画整理 

 新長田駅前の銭湯「波止湯」には、区画整理反対を訴えるいくつもの垂れ幕が、建物いっぱいに掲げられている。この一帯「新長田駅北地区」は、震災直後に「復興」の名目で土地区画整理事業の都市計画決定を受けている。事業区域の総面積は42.6ha。幹線道路や街区道路、防災公園の整備などが計画されている。
 波止湯を営む森重光さんら反対住民は「新長田駅北地区区画整理計画中止を請願するまちづくり協議会連合」を組織して、神戸市に対して意見書を提出するなどの活動を行ってきた。「計画の大前提として、住民参加と合意があるべきだが、全く実質が伴っていない」と森さんが憤る。この地区には1町(丁目)ごとに21のまちづくり協議会があるが「神戸市が派遣した都市計画コンサルタントが提案を出してきて、住民はまだ議論もしてないのに、いきなり賛否を問う。市はこれで住民参加・合意が出来ているとすりかえている」のが実情という。

 神戸市の計画では、公共用地が震災前の5.7haから12.2haに増加するのに対し、宅地は29haから23haに減少する。森さんは「宅地の利用増進をうたいながら、これで利用増進といえるのか」と、市の計画を批判している。詳細な事業計画や予算書まであるのに、神戸市は住民には決して開示しないという。 
 よく知られているように、区画整理は減歩(私有地の一部の無償提供)や換地で公共用地を確保する。この非人間的手法は、なにも「株式会社」神戸市だけに限らない。そもそも日本の都市計画は、住民無視で非人間的な制度なのだ。 

 なかでも区画整理は、日本でだけ異様な発展を遂げた都市計画の手法だ。戦後制定された土地区画整理法の前身は明治時代の耕地整理法で、もともとは農地に適用されていた。いびつな形の農地を整然と区割りして農道を広げるためのものだった。広い農道なら農機具を積んだ自動車を乗りつけることもできる。区画されていることで機械化の効果もあがる。減歩されて地積が減少しても、生産性の向上で収入が増えるから、利益になっていたのである。 
 土地それ自体が生産手段となっている場合は、これでもよかった。それを宅地に応用したことが間違いの始まりだった。区画整理をすれば減歩されても地価が上昇するから財産価値は高まる、というのが行政など推進する側の言い分だが、土地転がしでもするならともかく、住み続ける限り、地価が上がっても借金の担保価値が増すぐらいしかメリットはない。土地が小さくなって利用範囲が狭まるデメリットと、どちらが重要だろうか。むしろ固定資産税の負担が増すだけだともいえる。宅地造成の際に実施するならまだしも(それでも問題が起きている例もある)、既成市街地に適用することが、どだい無茶苦茶な話なのである。

■ 上からの計画押しつけ 

 にもかかわらず、行政が区画整理を好んで都市計画事業に適用するのは、減歩によって道路用地をタダで確保できるからに他ならない。この「道路偏重主義」は、産業基盤としてしか道路を位置づけてこなかったこなかった経済成長至上主義のあらわれである。幹線道路やその間をつないで町中を通る道路の整備には熱心だが、その道路に挟まれた空間―これこそが市民の居住空間なのだが―の整備には、とんと関心を払わない。 

 だから新長田駅北地区でこのまま事業化が進んだ場合、たとえ高層化されても、減歩で狭くなった土地にさらに住宅が密集するようなことも考えられる。現に長田区では、過去にも戦災復興や中央幹線道路のための区画整理が実施されており、その結果として住宅集地ができあがったとしている専門家もいる。それに区画整理で整備されるのはインフラだけだから、資金に余裕のない住民は、住宅の再建に割高な難燃素材をそんなには利用できないだろう。そうなると、防災機能を高めるためという区画整理の目的は、いったいどこまで実現できるのか。甚だ疑わしい。森さん達も反対理由に挙げているように、結局は過去の例と同じで、道路整備のための区画整理ではないのか。 
 こんなことがまかり通るのも、日本の都市計画がその理念において「上から押しつける」ことを最善の策としているからである。住民はエゴむき出しでまとまりっこないから、行政が作成した計画に黙って従え、というわけである。住民がその土地でどんな生活を営み、どんな歴史を持っているかなど全く意に介さない。まるで子供の「お絵かき遊び」のように、計画図を描いていく。 

 4月26日の神戸市計画審議会と、5月29日の兵庫県都市計画案が、それぞれ原案通り承認された。455人の署名を付した約100件もの森さん達の反対意見は、ことごとく退けられた。 
 震災前は4000人ほどだった地区の住民も、現在は2000人台という。16のまちづくり協議会が実質的に賛成に回っており、反対住民も現状では少数派だ。だが住民1人1人のレベルでは決して賛成ばかりではないという。今後は行政手続法による不服申し立てや、住民側の対案を作成して、神戸市に投げ返すことを検討している。「持久戦でいく」と、森さんが語った。 (■つづく)

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学歴は変えられるのか? 短大から大学への編入

■月刊『記録』97年11月号掲載記事

■年々進む短大離れ

 九〇年、二六九二人。九五年、七七八八人。五年で三倍近くも膨らんだ数字は、四年制大学(以下四大)に編入した短期大学(以下短大)生の数だ。九一年、文部省が大学設置基準を改正し、編入定員を別枠で設けることができるようになってから、編入は一つのブームとなった。
 このブームに輪をかけたのがバブル崩壊と男女雇用機会均等法だ。九三年頃から、女子学生の就職状況を意味する「氷河期」・「超氷河期」という言葉が新聞の見出しに踊るようになる。かつて一般職という名前で募集されていた事務系の女性は派遣会社の女性に代わり、短大から一般職そして結婚という一つの人生パターンは急速に崩れていった。短大の女子学生の方が就職しやすいという神話も、同時に崩壊した。
 日本短期大学協会の調べでは、昨年、入学試験で学生数が定員に満たない短大が一七・五パーセントもあった。これは前年の六・二パーセント増にもなる。特に深刻なのが英語・英文科で三四・六パーセントが定員割れを起こすという異常事態となった。確かに一八歳人口は、九一年をピークに年々下がってきている。しかし九五年から九六年にかけての人口減少は、わずか3パーセント弱に過ぎない。どれだけ短大離れが進んだのかがわかるだろう。
 また短大とは逆に、専門学校への進学率が上昇している点も見逃せない。昨年五月に文部省が調べた統計によれば、専門学校への進学率は短大を三・六パーセント上回り、短大より五万人ほど多い二六万人が入学したという。
 このような状況を前に、短大も変革を余儀なくされた。短大を廃止し、四大への改組を打ち出すところも増えてきている。短大の名門・学習院短期大学でさえも来年四月から四年制の学習院女子大に改組される。「学短」という名称で、並の四大以上に人気のあった学校だけに、他の短大に与えた心理的影響も大きいはずだ。

短大離れとともに沸き起こった編入ブーム。
 このように四大への編入は、たしかに就職対策としての学歴アップを狙った短大生により増加した。だが、じつは意外に知られていないことだが、編入は大学教育の活性化にも大いに役立っているのである。
 大月短期大学から東北大学の経済学部経済学科に編入した津久井紀子さんは、次のように語る。
「編入に向けての勉強は楽しかったですね。高校時代の受験勉強は、暗記中心の詰め込み式でしたが、編入試験に出題される経済学は、社会と密接に結びついていますから。それこそ新聞を毎日読むことが、勉強につながるという実感がありました。
 だから経済学は、試験のために勉強していたというより、勉強が楽しくて、やっているうちに夢中になっていった感じです。」
 また國學院大学の二部から一部に編入した新井由花さんは言う。
「二部の学生は真面目な人が多かったから、一部の雰囲気とは随分違いました。もし最初から一部に合格していたら、何も考えない自分のままだったと思います。社会人の学生や普通の学生と出会えたからこそ、今の私があります。編入の経験は貴重でした」
 大学が遊び場と化した現状では、学問の楽しさを知らない学生も多い。そんななかにあって、編入という目標に向かい自分の好きな学問を勉強してきた学生や、社会人とともに勉強してきた経験をもつ学生、大学卒業後に勉強をしたくなって自ら大学の門を叩く学生などは、勉強に対する意識も高く、大学からの評判も良い。そんな学生を取るために、大学も積極的に編入生を受け入れはじめている。
 今年の五月、国立大学の三二医学部が大学を卒業した人を、三年次ぎに編入制度の導入を決めた。総定員数を変えず、一般入試枠を削る形で編入する学生を入学するシステムをとる。この理由として、国立大学協会の医学教育特別委員会は「高校卒業者を主な対象とする現在では、必ずしも医学部志望者としての自覚や動機を備えた適任者が入学するとはいえない状況にある」としている。
 また高崎経済大学の「地域政策学部」でも、三年次編入の枠を二五人設けている。この大学では編入時の入学金は免除されており、主婦や高齢者などの編入を期待しているという。

■五〇名以上が編入する短大

 優秀な学生を獲得できる編入試験は、大学にとって願ってもいないチャンスとなるが、大学への編入を希望する学生を抱えている短大側は、編入についてどう思っているのだろう。
 九四年四五人、九五年五〇人、九六年五八人と、毎年編入希望の学生を大量に出している大月短期大学を訪ねた。この短大は、在校生二三〇人前後だが、学生の二〇%以上が毎年編入している。しかも国公立などに非常に強いのである。
「べつに編入用に特別な授業を組んでいるわけではないんですよ」と、同短大の進路相談室長・金丸典男室長は言う。だが、九六年の編入合格実績を見ると、東北大学・山形大学・福島大学・埼玉大学・中央大学・立命館大学など、そうそうたる大学名が並んでいるだけに、にわかには信じがたい話だ。
「他の短大に比べて、編入者が群を抜いて多いのも別に我々が意図した結果ではないのです。大学の授業を面白くしようという取り組みの一環として、すべての授業を少人数制にし、先生と学生との心の距離を近くした。授業中に分からない部分があれば、授業後すぐに質問ができる人間関係を目指した。その結果なのです。
 うちは経済の単科大学ですから学生の数も限られていますし、交流が深まってくれば、学生のニーズも、耳に入ってくる。それを着実に実行してきたら、いつの間にか編入学の合格者数が上がっていたんです」
 そもそも大月短大は、編入のための相談口を公に設けていたわけではなかった。進学情報部というサークルがスタートし、学生自らが過去の受験問題を集め、編入への対策を行っていた。ただ他の大学と違っていたのは、併設している付属高校の先生を含め、すべての先生が編入希望者の学生を快く指導していたことだ。先輩から後輩へ、編入試験のための情報は代々引き継がれ、少しずつノウハウを蓄積していったのである。大学が編入試験の情報を学生に代わって集めるようになったのは、つい最近のことだという。
「大学に編入しても単位がそのまま生かせる四単位の授業が多かったり、英語の授業にもかなり力を入れたりと、編入に有利な条件はそろっていました。また入学した四月中は自分の進路をどうするのか考える期間に指定し、自分なりの目標を持つように指導をしています。でも、それなども別に編入のために作ったシステムではないんです。より良い大学生活を送るために、作り出したものだったんです」と、前述の金丸氏は語る。

■編入生は成長する

 合格するための技術だけが求められる大学受験と、短大で充実した生活を送ることで合格できる編入試験。この違いは、かなり大きなものだ。大月短大から都留文化大学に合格した佐久間智子さんも、次のように述懐する。
「大月短大の二年間は、本当に充実していました。サークルにも所属し、アルバイトもし、短大の勉強も編入のための勉強もしました。私は初等教育を学びたかったので、編入のための専門の科目の勉強は独学でやるしかなかったのですが、仲間や先輩からさまざまな情報を入手できました。仲間同士で励まし合い、勉強しようという刺激にもなりましたから、他の短大とは違っていたと思います。
 またあの学校の素晴らしいところは、さまざまな学生と過ごせることです。就職する人も、編入する人も、さらには専門学校に通おうとする人もいる。そんな人との出会いは、私にとって大きな財産です。漫然と大学に入学した学生より、遙かに貴重な体験をしたと思っています」
 編入試験が受験テクニックとは違った勉強方法を必要とされるなら、転部・編入の予備校では何を教えているのだろうか。この業界の老舗として知られている宍戸ふじ江教務・転部課長にお話を伺った・
「就職も決まり、遊び回っている友達を尻目に勉強するのは辛いんですよ。それに編入試験は面接が重視されますから、自分が何を勉強したいのか、どうして大学に行きたいのかが重要になってきます。だから私達も学生に問いかけますし、学生も自分で答えを見つけようと自問自答します。答えの見つからない学生は、挫折していきますしね。
 当校では入学時点でアンケートを取りますが、学歴にこだわって転部を決意する人は三~四割ほどです。あとの六割は、何らかの勉強をしたいからというのが理由です。でも漠然と当校に通い始めた学生も、時間が経つにつれて変わっていきます。成長していくんですよ。
 自分なりの答えを見つけて編入しますから、大学に合格してからの身の入れ方も違います。大阪大学や広島大学・神戸大学などにも当校で勉強した学生が入学していますが、どの大学からも卒業生達がよく勉強をすると聞いています。
 本当にやりたいことを勉強するための受験を指導するのは、私にとってもやりがいのある仕事ですね」
 やはり編入試験の予備校では、受験テクニックを教えているわけはなかった。だからこそ、この予備校の卒業生達が、大学から高い評価を受けることになるのである。

■意識の違いだけではない

 しかし、一体どうして編入学で入学した学生だけが、それほど高く評価されるのだろうか。本当に意識の違いだけが理由なのだろうか。
 前述の津久井さんは語る。
「優秀な学生も多いし、ゼミも少人数なので楽しく勉強していますが、大教室での授業があると、短大との違いを感じます。大月短大の頃なら、授業後に質問しに行けたんですが、大教室だとそうもいかないですからね。少し寂しいですね」
 彼女の通う東北大学は、比較的真面目な学生の多い大学だといわれているが、なかには授業に出席しない学生や、試験をパスすることだけを考えている学生もいるという。まったく興味を持てない授業が毎日続けば、学問の面白さを見つけることもないまま卒業していくのも道理だろう。じつは編入する学生の質が良いという話は、そのまま大学の現在の授業内容の疑問へとつながっていく。自ら編入という形で望まないかぎり学生の興味をまったく引かない授業を続けている限りは、伸びる芽も伸びないのではなかろうか。

ひそかに広がる大学地方受験の実態

■ 甲子園の有名投手と同級生

 それは何気ない会話だった。
 最近、地方の小さな大学が、東京で受験会場を設けているが、「知名度が低い地方の私立大学が東京で受験機会を提供しても受験生が集まるわけがない。どうしてだろう」と編集部で話していたのだ。そこへやってきた編集長、話しを聞くやいなや「どうしてかわからなければ、なぜ取材してこないのだ」と一喝。その一言で、私の八年ぶりとなる大学受験が始まることになった。
 受験をするためには、まず受験校を選ばなければならない。取材目的に合致する大学は、レベルや校風などは関係なく、なるべく東京で名前が知られておらず、東京から遠くにある地方大学で、なおかつ東京で地方受験を行っている大学でなければならない。東京で知られている大学を、東京在住の学生が受験するのでは、何の不思議もないからだ。
 とりあえず東京から離れているという一点に絞り込み、西日本の大学を調べてみた。すると、あるある。軒並み東京での地方受験を行っている。その中でもダントツに心ひかれたのはK大学。なぜかというと、同校は甲子園を沸かせた有名投手が進学すると聞いていたからだ。どうせならば超高校級の投手と一瞬でも同窓生気分になりたい。しかもそれ以外で東京での知名度はゼロに近い。かつて受験生だった頃の私でさえ聞いたこともなかった。
 というわけで志望校は決定。さっそく大学に電話し、願書を入手した。ところがその時点で出願締め切りまで、なんと四日しかなかったのである。しかも消印有効ではなく、締め切り日までに大学必着のあわただしさだ。急がなければ企画が落ちてしまう。
 すぐに自分の出身高校に電話し、調査書の作成を依頼した。ところが通常なら一週間かかると、つれない返事が返ってくる。翌日までに調査書がなければ、受験はできない。「大学の出願日が迫っているから、どうしても明日までに調査書をください」と頼み込み続けた。一〇年以上も前に卒業したOBが電話口で泣き落としにかかるのだから、高校の事務職員もたまらなかっただろう。結局、私の熱意に負けたのか、翌日までに調査書作成を承諾してくれた。大学受験に必死になっている三〇歳を目前にひかえた私に、職員も同情してくれたのにちがいない。
 翌日に調査書を受け取ると、すぐに銀行で受験料二万八〇〇〇円を収め、願書も無事に郵送した。

■ 受験生を追う地方大学

 そして二月上旬、いよいよ入学試験の日を迎える。会場は、都区内にある学習塾の教室だった。私が志望した経済系の学科の受験生は私を含めて三人。同時に行われる第二部の試験には三人、工学系には一二人の受験生が集まっていた。この日、K大学では本校の構内はもとより、全国計一二ヵ所で一斉に試験が行われていることを考えれば、この人数は決して少なくはない。とはいえ三人はさびしい。
 緊張の中、試験が開始した。
 小誌三月号の特集「ピンク映画が危ない」の取材に追われていた当時の私は、試験前日までピンク映画の鑑賞に多くの時間を費やし、頭はほとんどピンク一色。もともと学力がないうえにこれでは、手の打ちようもない。
 一時限目の英語は文法問題が思い出せず、惨敗。二時限目の国語は、古典もどうにかわかり、喜びのうちに終了したものの、三時限目の世界史では、『アンクル・トムの小屋』の作者が誰かという問題以外、全て運を天に任すこととなった。
 ここまで試験の出来がひどければ、せめて取材ぐらいはきちんとしなければならない。昼休みと帰り際に、同じ学科を受験した学生を会場から出て捕まえた。
 K大学の地元に在住の現役女子学生は、第一志望が日本大学。志望校のほとんどが東京にあるため、受験期間は東京でホテル暮らしが続いているという。
 「地元の大学は行きたくないのですが、塾の先生の薦めもあって、この大学を受験することにしました。受験期間は東京にいるので、地元の大学も東京で受けることになったのです。同郷の友達の多くも、東京で地元の大学を受験していますよ」。なるほど、それで東京会場を設けている理由がわかった。
 もう一人の受験生は、東京在住の男子学生。彼は受験の動機について「父の仕事の関係で家族が転勤する先にある大学なので受験しました。もちろん東京で受験できるのも、志望校決定の理由です」と教えてくれた。
 学生の多くが地元在住の地方大学は、一八歳人口の減少への対策として、地元の受験生が東京に出てくるのを追って地方受験を行っていたのだ。東京で受験を行えば、取材した男子学生のような地方の受験生も捕まえることができて、二重にウマミがある。
 試験当日の大学職員は、確認できた範囲で二人。小さな会場と少ない職員で行える地方受験は、実施自体はさして大変ではない。これで二〇人弱の受験生を拾い上げられるなら、大学側としても悪くない話だろう。
 さて試験から一二日後、お楽しみの合格発表が電子郵便で自宅に届いた。ドキドキしながら封を切ると、みごと合格しているではないか。落ちている番号が少ないだけに、見間違えるはずもないのだが、何度見直しても自分の受験番号が合格者の欄に印刷されている。
 やった。自己採点ではおよそ一科目平均で四割弱の正解率を示し、編集部員および部を訪れる九割方が不合格を確信し、慰める者まで現れる始末だった。にもかかわらず、会心の勝利をもぎ取ったのであった。
 この後、合格自慢と祝宴の要求に全力を注いだため、知人・友人・同僚から嫌われまくったのはいうまでもない。

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靖国を歩く/第39回 英霊として祀られることは果たして幸福か

■月刊「記録」06年3月号掲載記事

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 靖国神社には、靖国的な言い方をすれば「日本のために、戦死という形で生命を捧げた」英霊たちが祀られている。その数246万柱余り。日本が生まれ変わる過程といえる戊辰戦争で多くの命が失われ、その戦死者たちを慰霊するためという明治天皇の意向を受けて前身の東京招魂社が明治2(1869)年に創建された……というのはよく知られているところ。
 ただ、戊辰戦争以後の戦死者であれば全員が祀られているのかどうかといった細かい部分についてはあまり知られていない。
 先にいってしまえば、戊辰戦争以後に戦死していても祀られていない場合はある。そして、戊辰戦争以前であっても祀られている場合もある。
 今回は、西郷隆盛や彰義隊といった、戦死時に反政府の立場にあった人たち、いわば天皇に刃向かった人たちは果たして英霊として祀られているのかどうか、そして大西瀧治郎や南雲忠一など、旧日本軍において「ムチャな」作戦を実行し、結果的に多くの日本兵を死に追いやった将校たちが祀られている事実について「この人たちは祀られていていいのか」という疑問を靖国神社に問うた。
 では、この人は英霊として祀られているのか? ということを疑問に思ったとき、それはどうやって確かめることができるのだろう。
 靖国神社の社務所に問い合わせてみると、英霊として祀られているかどうかを知りたい場合には、神社の調査室に頼めば調べてくれるということだ。
 それにしても、いつも思うのだが社務所の女の人は対応がいつもつっけんどんだ。そんなことも知らないんですか? という冷笑的な感じでものを言う。
「電話やファクスで問い合わせいただき、後にこちらからお返事をさせていただきます、あとは神社の図書館に行っていただき確かめるという方法もありますが」
「神社の図書館?」
「遊就館の隣の靖国会館にある図書館に」
 靖国会館1階にある「靖国偕行文庫」は靖国神社創建130年を記念して平成11年に開館、約9万点の図書と資料からなる閉架式の図書館だ。同館のホームページによると、「蔵書全体の内容を分類から見てみますと『國防・軍事』に関する図書が全体の約70%を占めており、次いで『歴史』に関するもの、『思想・宗教』に関するものが多く、この3分類で約90%を占めて」いるとのことだ。
 靖国会館を入って右手が偕行文庫、左手が休憩所になっているが、ソファの置いてある休憩所にはほとんど人がいなく、がらんとしている。
 図書館に入る。といっても、大きい机が4つほど置いてあるこぢんまりとしたスペースだ。
 カウンターにいるメガネの女性に、英霊として祀られているかどうかを調べたいのだがどうすればいいだろうかとたずねる。といっても自分の祖父などいわゆる一般人が祀られているかどうか知りたいという場合と、歴史の教科書に出てくるような人について調べるケースとがある。
 まずは一般人についての場合だが、調べたい人の親族、または戦友のような間柄であれば調査をお願いすることができる。誰彼かまわず個(故)人情報を教えるわけにはいかないということだろう。

■英霊かどうかの基準は「官か賊か」

 では、歴史上の有名人たちはどうか。
 たずねてみると、調べてほしい人のリストを受付の人に出せば、調査してくれるとのこと。ふと、歴史上の人物でも遺族はいるだろうし、有名人であるから一般人ではないということにはならないのではないかと思ったが、そんなことをここで言えば調べてもらえなくなるかもしれないから、だまっておいた。とにかく、この人は祀られているんでしょうか、と聞けば、有名人ならば教えてもらえる。
 現にこのとき、大西瀧治郎、南雲忠一、彰義隊、坂本竜馬、西郷隆盛の名前を書いたリストを出したが、その場で調べてもらえた。調べてもらった、というよりも、これくらいならもうジョーシキ、とばかりに受付の2人で「これはそうだね、これはちがうね」とやりとりされ、30秒くらいでカタがついてしまった。さすがだ。
 西郷隆盛と彰義隊に「×」がついている。英霊でない、ということだ。メガネの女性とやりとりしていた初老の男性に話をきく。
「西郷隆盛と彰義隊は祀られていないんですか?」
 いとも簡単にリストをより分けたので、なんとなく超基礎的な質問をしているとき特有の居心地の悪さがあるが、とりあえずきいてみた。
西郷と彰義隊にまつわる矛盾
 維新の英雄とされる西郷隆盛は明治天皇の厚い信頼を得ながらも、大久保利通の画策などあって中央から退くことを余儀なくされる。1877年に私学校の生徒を率いて西南戦争を起こし、城山で自決している。また、徳川将軍の護衛という名目で上野の寛永寺に集結していた彰義隊は抗戦したものの新政府軍に破れている。
 男性は丁寧に答えてくれた。
「ええ、西郷隆盛は祀られていません。祀られている御祭神は国家の命に従って戦死された方々ですので、そうでなかった方々は祀られておりません」
 官か賊か、ということなのだろう。いうまでもなく天皇の国家のために戦った官軍は政府軍であり、西南戦争を起こした西郷以下、そして幕府側だった彰義隊は賊軍だった。天皇に刃を向けたと見なされ、賊となった彼らは、その死後100年以上経った今でも祀られていない。しかし、ここで疑問なのは、靖国神社に雄々しく祀られている大村益次郎が叩いた彰義隊の旗が遊就館には飾られている。これは何を意味しているのだろうか。
 そして、西郷についても腑に落ちない点がある。
 西南戦争で自決した西郷だが、ずっと賊として冷遇されていたわけではない。1889年、大日本帝国憲法発布にあたり、西郷は大赦されさらに正三位を追贈されている。これには黒田清隆のはたらきかけがあったとされる。 ただ、やはりそこで問題になっているのは、政府から正三位を受けたにもかかわらず、西郷が英霊として祀られていない、ということだ。赦されているんだから祀られてもいいのにねえ、と思うがなぜかそうはなっていない。
 戊辰戦争以前でも祀られている場合がある、と先に書いたが、坂本竜馬がそのパターンだ。一般的には、靖国神社に祀られているのは戊辰戦争以後に戦死した人々、と認識されているが、坂本竜馬が京都で暗殺されたのは1867年。戊辰戦争の前年だし「戦死」でもない。
「戊辰以前であっても、国事により倒れた、ということから御祭神として祀られている場合があります。坂本命はそれにあたります。しかしどこまでも遡ってしまえば際限がなくなってしまいますから、安政の大獄までが範囲になっています。ですから、あまり知られていないところでは(安政の大獄で処刑された)吉田松陰命も御祭神として祀られているのです。」
 さて、ここからが問題だ。
「特攻の父」として知られる大西瀧治郎、ミッドウェー海戦で惨敗した南雲忠一。両者はもちろん英霊として祀られている。

■大西瀧治郎は何を思う

 大西はフィリピンのマバラカット基地で零戦に爆弾を乗せて敵艦に体当たりするという作戦を提案する。海軍の総意だったという説もあるが、悪名高い「特攻作戦」を発案し、結果的に悲惨な戦死者を多く生み出すことになった。大西が祀られているのはどうなのか。聞いたことはないが、「大西は祀るな」的な意見があってもまあおかしくはない。このことについて聞くと、それまで比較的に柔和な表情だった男性の表情が少し緊張を帯びたものになった。
「あなたは今、結果的に多くの人を死なせることになった、と言いましたが、結果論というものがその当時、果たして存在したでしょうか。司令部の命令に従って、割り当てられた任務を遂行した彼らにはそれほど非があったのでしょうか。」
 初老の男性はあくまで毅然とした態度でいる。
 男性の話を聞きながら、皮肉なものだな、と思った。というのは、たしかに大西は日本国のために戦い英霊として祀られてはいるが、その手で特攻隊の悲劇を生みだし、最後は特攻隊員を詫びるために介錯をつけずに長い間苦しんだ末の自決を果たしている。そして靖国には特攻隊員たちが祀られている。大西は、祀られていることを本望だと思っているだろうか?
 図書館を訪れたあと、別に出してあった質問書に対し、靖国神社広報から回答があった。
 先に述べたものと同じような質問を出し、同じようなことが回答として返ってきた。つまり、「大西瀧治郎命、南雲忠一、私共はこの方々を戦犯者とは思いませんし……」。そして、この回答書の冒頭にはこうあった。
「靖国神社は国のために尊い生命を捧げられた方々をお祀りする場所であり……」
 確かに最後には西郷や彰義隊は賊軍なったが、彼らは国のために戦ったのではない、のだろうか?
 祀られているからシロ、祀られていないからクロ、などという一元的な色分けはそこにはないはずだ。(■宮崎太郎)

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靖国を歩く/第38回 「九段の母」を探せ(宮崎太郎)

■月刊「記録」06年2月号掲載記事

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 毎年8月15日に日本武道館で行われる全国戦没者追悼式。2005年、この式典が1963年から行われるようになって以来初めて、戦没者の親の参列がゼロとなった。
 ただ、それ自体は大して驚きではない。戦没者の親の年齢を考えてみよう。親が子を20歳で産み、その子が敗戦の1945年に亡くなったとして、その時点で親は40歳。戦後60年が経った05年の時点で、戦没者の親は100歳に達していることになる。100歳以上の高齢者がこれまでと何ら変わりなく参列していたら……その方が驚きだろう。
 英霊の親、靖国神社といえば『九段の母』を思い浮かべる人は多いだろう。1939年にテイチクから発売されたレコードで、作詞は石松秋二、作曲が佐藤富房。当時の大ヒット曲だったという。

「上野駅から九段まで/勝手知らないじれったさ/杖を頼りに一日がかり/せがれ来たぞや会いにきた……」

 誌面の都合上、歌詞を掲載するのは1番のみにするが、歌は4番まで続く。2番の「こんな立派なおやしろに/神とまつられもったいなさよ/母は泣けますうれしさに」の部分に(いうまでもなく「おやしろ」は靖国神社)、当時の人々の靖国神社像があまりに率直に映し出されているようで、素通りするのをためらわせるものがある。
 もっとも05年の全国戦没者追悼式に英霊の親の姿はなかったとはいえ、「九段の母」世代は全国の至るところでまだ健在なはずだ。
 会いたい。会って、当時どんな心境で『九段の母』を歌っていたのかを聞きたい。そして今回の「九段の母」探しが始まった。
 はじめにあたったのは日本遺族会。英霊の母を探している旨を話すと、まず「戦死された方の母親ですよね、もう、相当なお年ですよね?」と驚かれた。
 対応してくれた方によると日本遺族会は各都道府県の遺族会の集合体のようなもので、全国の戦没者を一括して把握しているわけではないという。各都道府県の遺族会がそれぞれ名簿を管理しているということを聞き、次に東京都の遺族会である東京都遺族連合会にあたることにした。
 同連合会の男性によると、「母」に会うことは難しいだろうと言う。毎月15日に東京都戦没者霊園で同連合会が行う拝礼式にも、もう戦没者の親は姿を見せないという。「親を探すのは、相当大変だと思いますよ」と男性は言う。
 次に注目したのは靖国神社境内にある献木だった。到着殿の脇にひっそりと植えられた献木の立て札にはこうあった。
「元北支派遣独立混成第九旅団/独立歩兵第三十九大隊/戦友遺族一同/事務局連絡先…」
 植えられたのが1971年とかなり時間が経っていることはあるが、直に遺族に連絡を取ることができれば、九段の母にはぐっと近づく。献木は他にもあったが連絡先が書いてあるものは他になかった。
 電話に出たのは声からしてかなり年配の男性だった。「元北支派遣」の名を出すと、ああ、と何か思い出すような声を出した。話を聞くと、今も年に1度のペースで当時の隊員たちと集まりを開くものの、ここ数年で連絡をとれなくなった者が急に増えたという。もし隊員が集まれたとしても、その母親となると、生きている確率はほとんどないのではないか、と男性は言った。

■こうなったら現地で探せ

 九段の母に会いたい。ならば靖国神社に参拝に来る人にこそ手がかりがあるのではないか。母当人がその足で来ていなくとも、英霊の親族であれば、そのつながりで母を探し当てることができるかもしれない。
 そこで早朝6時の開門から夕方5時の閉門まで張り込んで「九段の母」が身近にいるという人を探した。
 朝6時の開門前。あと1週間で大寒を迎えようという九段は死ぬほど寒い。気温1度、靖国神社横のコンビニで何年ぶりかのホッカイロを買う。誰もいないことを予想していたが、40代くらいの男性がひとり、またひとりとやって来て意外に3人も神門の前で開門を待っている。互いに顔見知りらしく談笑するかと思えば「上を向いて歩こう」とひとり叫んで怪気炎を上げていたりする。高齢者だからというわけではないが、早朝に起きて靖国に出かけるというケースはありそうなものだ……、などということを考えていたがそれはなかった。
 8時頃、2人連れの夫婦に話を聞く。男性が小学校3年生の頃、海軍だった父親(当時39歳)は人間魚雷に乗ることになった。ただ、しばらくは男性には「父親は特殊船に乗りに行った」としか伝えられなかったという。「親孝行しろよ」という父親の言葉を覚えているが、当時男性がその言葉をどのように感じたかは覚えていない。英霊の母はもちろんもう亡くなっている。
 10時40分頃、第二鳥居の前にワゴンが停まり、中から車椅子のお婆さんと付き添いの女性が降りてくる。車椅子のおばあさんはかなりの高齢。これは!と思ったが、話を聞いてみると残念ながら「母」ではなかった。英霊として祀られているのは夫の弟。20歳で満州に出兵、そのまま帰って来ることはなかった。聞くと、付き添いの女性は親族ではなく、デイサービスのワーカーさんだという。「今日はお天気がいいから、久しぶりに靖国にお参りに来たくなって」とお婆さん。参拝にも様々なパターンがあるものだ。
 正午。お昼時だというのに食堂、みやげものを置く外苑休憩所には人の姿もまばらだ。ここでふと、みやげもの店で働いている人ならば「母」くらいの年代の高齢者が参拝にやってくることがあるか知っているのではないかと思い、話を聞くことにする。そしてここで重要な証言を聞く。
「去年までほとんど毎朝、それも早朝に来て、お参りしていくお婆さんがいたよ。その後はよく巣鴨のとげぬき地蔵に行くっていってたけど。年でいえば、100歳くらいでもおかしくないような感じだったね。私は7時半くらいにこの店に来て準備をするけど、まだ店が開いてないそれくらいの時間帯にそのお婆さんが来て『まだ店開いてないか』とよく言われたね。」
 その通りならば「母」である確率は極めて高い。なにしろ、ほぼ毎朝来るようなお婆さんなら身内で英霊となった人がいるだろうし、100歳という年齢だ。しかし、昨年の後半あたりから、もう姿を見せなくなってしまったそうだ。
 神社の境内を、中国人の団体観光客が歩いていく。それは珍しいことではない。靖国というとイデオロギーにまみれた場所であるイメージを持たれがちで、特に「中国」「靖国」といえば反日・抗日といった言葉と結びつけられそうだが、実際に靖国を訪れる中国の人たちからはそんな気負いを感じ取ることがない。カメラを構え、笑顔を浮かべ、呑気なものなのだ。……そんなことを考えていると、その観光客群の向こうからくたびれたえんじ色の帽子と同じ色の上着を着た小さいお婆さんがとぼとぼ歩いてくるのが見えた。
 とうとう来た。今度こそは……と思い早速話を聞いた。大正10年生まれの小野さんは現在85歳。英霊として祀られているのは兄だった。小野さんが挺身隊として旋盤を回しているとき、5つ年上の兄はニューギニアに出兵し戦死した。「ウチにいれば死ななくてすんだのになあ」と言う小野さんに『九段の母』について話をすると「ええ、私はずっと『九段の母』を歌って、踊ってましたよ」と驚くべきことを言う。
 聞くところによると、歌好き、踊り好きが高じて、踊りの先生に習いはじめ、いつしか高齢者施設などでお年寄りを前に歌い、踊っていた。「上野駅から九段まで…」ではじまる『九段の母』を振り付けつきで歌いだすと、聞いている人たちはみんな泣いてしまっていた、と言い、小野さんはその振り付けを披露してくれた。振り付けは簡単なもので、腰が曲がったお年寄りが杖をつきながら歩き、たまに体を起こして腰を反らせる、というようなものだった。歌いながら慣れた様子で振り付けをたどる小野さんの表情はどこか楽しそうに見える。
 85歳という高齢になった今では人前で踊ることはなくなったが、それでもわずか5、6年前まで踊っていたという。もう昔のものではないかと思っていた『九段の母』が、今でも歌にその思想を乗せて生き続けている。私が思うより、どうやら「戦争」は遠いものではなかったようだ。
 他にも何人かに英霊にまつわる話を聞いたが、「母」に続く直接の手がかりはとうとう得られなかった。身内に戦没者がいる高齢者でも、それは兄弟や親戚がほとんどだった。
 最後に、ある女性と話した内容を書こう。現在78歳のこの女性が10代のときに兄は出兵した。人間魚雷としてだ。「ほんの少し前まで一緒に遊んでいた兄がこう言ったんです。僕はカマボコになります。どういう意味か分かりますか? 魚の餌になって魚の肉になるということですよ。」
 この女性はこの日、初めて靖国神社を訪れた。これまで、つらくて来られなかったのだという。
「もしかして、ここに祀られている方のお母さんも、あんまりつらくて来られないのではないですか?」と女性は言った。
 九段の坂が急すぎるからか、高齢のせいか、それともつらすぎるからなのか。いずれにしろ、母たちにとって九段は遠い。 (■宮崎太郎)

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鎌田慧の現代を斬る/米国戦闘支援列島と化す日本

■月刊「記録」1997年11月号掲載記事  (表記は掲載当時のままです)

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■進む有事体制

 先月号でも指摘したが、政府は「有事体制」への整備を着々と進めている。危険に満ちたこのような政府姿勢を前にして、日本のジャーナリズムが本質的な問題追求をしないことに、私は強い不満を感じている。
 日本時間の九月二四日未明、日米両政府によって合意をみた「日米防衛協力のための指針」(新ガイドライン)は、日本が米国の戦争にさらに強く従属させられる方向性を決定した、危険きわまりない取り決めだった。ところがこのニュースでさえ、大々的に報道されたのは合意発表後だ。それまで神戸での少年殺人事件を追い回していたマスコミは、新ガイドラインの合意にむけ、日米両国がどのように動いているのかを明らかにしてこなかった。もちろん新ガイドラインと歩調を合わせるように、日本の有事体制化が進んでいるという視点もマスコミには欠けている。
 独禁法のなしくずし的な改悪はどうだ。公正取引委員会は、なんの規制も行っていない。三井石油化学工業と三井東圧化学、秩父小野田と日本セメントなど、ことしから公然と始まった大型合併は公取委の合併審査を素通りしている。「公取委が審査基準を緩和した」と業界から声があがるほどだ。これは経済の国際競争に即応したものだが、巨大企業の寡占状態は、潜在的な軍事生産力である。戦後の財閥解体はそのようなものだった。持ち株会社さえ復活した現状は、第二次世界大戦前夜の日本を思い出させるには十分である。
 労働問題もひどい。さきに人材派遣法が成立し、職業安定法の骨抜きが進められてきた。女子の深夜労働が認められるなど、労働条件の著しい改悪が進んでいる。農業も例外ではない。新農業基本法の制定が目論まれ、大企業による農地取得が進められる可能性も高くなってきた。これは戦後の農地改革に逆行している。金のあるものが農地を所有し、小作農として農民をコキ使うなど許されるはずもない。
 さらに規制緩和という形で、公営事業の規模が縮小されつつある。経済改革・財政改革・政治改革など、改革を旗印に進められてきた規制緩和だが、じつは企業の新分野進出と政治的な保守基盤の確立を満たすための戦後の民主化の一掃である。
 文化的・思想的には、自由主義史観という形で教科書攻撃が進められ、従軍慰安婦の問題がターゲットにされているが、このアジアに対する侵略と暴力を公然と否定する姿勢には、不気味な恐怖を感じざるを得ない。
 そして、治安対策の強化である。「組織的犯罪対策法」の立法が目論まれているのだ。市民運動団体から「盗聴法」と呼ばれているこの法律は、電話の盗聴を公然と始めようとするものだ。施行されれば、労働者や市民運動家を組織的暴力として監視の対象に入れようという動きが強まるにちがいない。この法律に、自民党政権がかねてより進めてきた国民総背番号制をリンクさせると、監視国家の確立となる。
 現在の日本は、戦後に構築された民主主義的な諸政策を投げ捨てつつある。今後、日本の将来に大きな影響をあたえるであろう新ガイドラインは、このような背景を隠して取り決められていることを見抜いてほしい。新ガイドラインが示す先に、日本の支配層の危険な舵取りが見えるはずだ。

■米軍へさらなる「思いやり」

 ソ連の脅威が崩壊したあとの軍備縮小の方向に逆行するようにして、新ガイドラインは作られた。世界の憲兵として君臨しつづけようとする米国に、日本列島が全面的に協力する。
 対外的には米軍の戦争に協力し、対内的には戦争体制を確立しようとしている政府は、抑圧的な社会状況を作り上げようともしている。小選挙区制でつくりだされた翼賛体制の政治状況のもとで一挙に行われようとしているのである。
 現在、在日米軍維持のために使われている金額は、六四七六億円(九七年度予算)。このうち米軍への「思いやり予算」は二七〇〇億円にものぼっている。不況にあえぐ日本が、これだけ多額のお金を米軍のために使っているわけだ。一方、韓国は二〇五億円、ドイツは六一億円、イギリスは四〇億円という数字である。米軍にたいして日本がいかに手厚い「思いやり」を行っているかが明らかだろう。にもかかわらず、新ガイドラインは米軍にさらに安上がりの戦争をさせることを約束した。敗戦の教訓によって作られた日本国憲法の前文の精神からは、著しく逸脱しているとしかいいようがない。
 この指針の目的は、「日本に対する武力攻撃および周辺事態に際してより効果的かつ信頼性のある日米協力を行うための、強固な基礎を構築することである」と書かれている。ここで重要なのは「周辺事態」である。これまで日米安保が想定していたのは、日本が攻められた場合の武力行使(これも憲法違反であるが)だった。ところが今回の指針は、米軍の極東戦を念頭に置いている。日本が攻められなくても、「周辺事態」の際に米軍は日本の基地を積極的に使い、自衛隊はその支援にむかうことになるのだ。
 そのうえ「周辺事態」の解釈も、曖昧で拡大解釈が可能ときている。「周辺事態は日本の平和と安全に重要な影響をあたえる事態である。周辺事態の概念は、地理的なものではなく、事態の性質に着目したものである」
 この文言からわかる通り、「周辺事態」とは地域的には規定されていない。「事態の性質」という意味不明な言葉でごまかしているが、結局、「事態」とは事変および戦争のことであり、「周辺事態」とは戦争状態にある地域の周辺なのだ。つまり地域に限定しないことにより、極東のみならず火薬庫とも呼ばれる中東で戦争が起こっても、日本は米軍の戦争を支援することになる。
 さらに周辺事態が予想される場合には、「日米両政府は……事態の拡大を抑制するため、外交上のものを含むあらゆる努力を払う」と新ガイドラインには書かれている。この「あらゆる努力」とは、武力的な活動も含まれているのは、疑う余地もない。それだけではない。新ガイドラインでは、形を変え、言葉を換えて、日米の軍事協力をうたっている。
「日米両政府は、事態の拡大を抑制ためのものを含む適切な措置をとる」
「必要に応じて相互支援を行う」
 非常にあいまいな言葉だが、戦争状態での自衛隊の活動に期待をしているということだけは確かなようである。逆に、自衛隊に軍隊として期待しているからこそ、あいまいな表現にならざるを得なかったのだ。

■米軍は勝手に予備訓練

 さらに細かく見てみよう。
 新ガイドラインの別表と呼ばれる資料には、周辺事態における協力検討項目の例が並んでいる。まず注目したいのが、「米軍の活動に対する日本の支援」という項目だ。ここには、「補給」・「輸送」・「整備」・「衛生」・「警備」・「通信」・「その他」の後方地域支援体制と、「施設に使用」について書かれている。なかでも「補給」の内容には、驚くばかりだ。
「自衛隊施設及び民間空港・港湾における米航空機・船舶に対する物資(武器・弾薬を除く)及び燃料・油脂・潤滑油の提供」 ここで米航空機・船舶とあるのは、戦闘機および戦艦であるのは間違いない。この条文を読んで思い出すのが、ことしの九月に相次いで行われた米海軍の民間港入港である。空母・インディペンデントが小樽へ入港したのに続き、佐世保にも空母が寄港。さらには駆逐艦が鹿児島に寄港したりもした。これらの入港は新ガイドラインに示された補給活動の予備訓練でだったのである。
 さらに「衛生」の欄に目を移すと、傷病者の治療・輸送が盛り込まれている。これは日本列島全体が戦闘支援列島となることを意味する。
 まだまだ問題はある。
「運用面における日米協力」という部分には、戦争の「情報交換」、「機雷掃海」という項目が目につく。これは平和時ではなくて、戦闘状態での機雷掃海であるから、日本も戦闘状態に突入する危険性をはらんでいる。 別表には載っていないが、「臨検」と呼ばれる船舶検査を自衛隊が担うのも大きな問題である。これは周辺海域を通る船舶に停船を命じ船内を検査するもので、相手が抵抗すれば武力行使に至る危険性がきわめて高い。

■反対運動封じ込め

 いったいこの新ガイドラインが、どうして日本国憲法の枠組みに収まるのか。「戦力の保持」と「武力行使」を否定している憲法を逸脱し、踏みにじっているとしかいいようがない。戦後五〇年、日本が軍事力を持って他国の人々を殺さずにすんだのは、この憲法のおかげである。ところが新ガイドラインは、既成事実によってその憲法を骨抜きにし、国民を人殺しに駆り立てようとしているのである。
 しかも国の命運を決するこの重大な決定は、国会の決議なく決まってしまった。国民が選出した議員によって国の方向性を決めるのが民主主義の大原則だ。ところが今回の決定は、防衛担当官僚だけで秘密的に行われたという。米国の戦略に日本が従う危険性について、国会でなんの議論もなく決定されるのは、民主主義の著しい逸脱であり、憲法の前文の精神を根こそぎ失わせようとするものだ。「前文」には、こう書かれている。
「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷属、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと務めている国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思う」
 戦争によってではない、平和のための行動による国際貢献の思想である。そのあとに、全世界の国民が「平和のうちに生存する権利」が謳われ、「自国のことのみに専念して他国を無視してはならない」とも書かれてある。
 ここで、強調されている考えかたは、相手の国を尊重し、信頼することである。
 かつて六〇年安保改訂にさいしては、日本が戦闘に巻き込まれるとして、国民的な反対運動が起こった。国会議事堂への大デモ行進は、国民の恐怖感に裏打ちされたものだった。しかし「周辺事態」というあいまいな規定によって、戦争に巻き込まれる危険性が強めた新ガイドラインは、まったく反対運動が起きていない。それは大紛争に発展しないように、秘密をもっぱらにして国会に持ち出さない方法を採ったからである。
 それどころか官僚が作りあげた規制事実をテコに、憲法改定に大きく踏み込もうとさえしている。すでに国会内では憲法調査会が設置され、憲法改悪への具体的な対策をはじめようとしている。
 新ガイドラインの問題を通して考えるべきことは、日本の平和だけではない。アジア全体、世界全体を見回し、日本は、平和を軸にした外交をどのような形で進めていくべきなのかに思いを巡らす必要がある。そのためには積極的な市民の運動が必要となってくる。新ガイドラインでは、朝鮮半島有事と台湾海峡有事の危険性をにおわし、北朝鮮をソ連に代わる仮想敵国に仕立て上げ、これから経済進出を拡大しようとしている中国さえ仮想敵国に含めてしまった。この方向へ対置する思想とは、アジアの民衆に日本人が与えた痛みを反省し、共感を基礎にした平和的な協力を進めるころである。アジア各国との民衆レベルの平和的なネットワークの拡大が、米国の軍事的介入を防ぐことになろう。このままではアジアの鬼っ子となった日本が、米国とともに世界と対立することにもなる。(■談)

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使い捨てられる外国人労働者

■月刊『記録』99年10月号掲載記事

*日系ブラジル人を含む外国人労働者が人口の12%を超える群馬県大泉市。不況が彼らにどのような影響を与えているのか。現状を知りたくて現地に赴いた。

■靴にキスしろ

  「友達が自殺したことかな」
 イラン人のハッサンさん(三一)は、一瞬考え、言葉を選ぶように言った。
  「日本で一年半、一番記憶に残ってるのは友達の自殺。ボク、ほとんど泣かない人だけど、友達が死んだの聞いて一日中泣いた。すごく悲しかったから。
 遺書がなかったから、なんで死んだのか本当のことわからない。でも、きっと日本で生きていくのイヤになったんだと思うよ」
 彼の旧友が亡くなったのは、一九九八年四月。ハッサンさんの話によれば、自殺の原因は日本人上司との言い争いだった。同じ職場のイラン人のために上司に抗議した彼は、その上司からにらまれてしまう。しかも味方であるはずのイラン人も、保身のためにすべて上司の側に回った。
  「日本人のボスとケンカした次の日、友達が会社に行くと、ボスやイラン人が彼を待ってた。その時、ボスから言われたのが『ひざまずいて靴にキスすれば許す。そうしないと(おまえは)会社に戻れない』って。
 日本語をペルシア語に通訳したの、一緒にいたイラン人。だからボスが本当にそう言ったかわからない。でも友達は、会社を辞めることにした。
 当時はずいぶん落ち込んでいたよ。しばらく連絡なくて、『茨城県の会社で働いてる』って電話あったのが、事件から一ヵ月後。やっと元気になったのかと思ったのに、いきなり死んじゃった。
 工場の高い屋根に登って、首にロープかけて死んだんだ。五年も日本で暮らしてたのに……」
 不況は、どのような影響を外国人労働者に与えているのか。現状を知りたくて、群馬県大泉町に赴いた。
 群馬県内にある七〇の市町村のなかでも、下から二番目に小さいこの町には、九九年八月一日現在、五一四八人の外国人登録者が住む。これは町の総人口の一二・一%にものぼる。大泉町を含む群馬県南部は自動車部品、電器製品、食料品などの工場が群生しており、深刻な人手不足を補うために、外国人労働者を続々と受け入れてきた土地だ。
 特に九〇年の「出入国管理および難民認定法」の改正は、町の様相を激変させたという。ラテンアメリカの日系二・三世が単純労働につくことが認められ、どんどん町に住み着いたからだ。なかでも日系ブラジル人は増え続け、現在でも外国人登録者の七割以上がブラジル国籍者であるという。田舎町のなんの変哲もない店舗の隣に、ポルトガル語の看板を掲げた店が並ぶ。大泉町では、そんな風景が珍しくない。

■会社の入口に立つな

 この町で、そんな日系ブラジル人の労働状況を取材していた私に、「日系ブラジル人よりも悲惨だ」と訴えてきたのが、先述のハッサンさんをはじめとする三人のイラン人だった。
  「不景気で仕事が減っているし、なによりボクらのほとんどがオーバーステイだから、仕事を探すのが大変だよ。イラン人のイメージ、日本では悪いし。イラン人だと、すぐに薬売ってるとカン違いされるし。
 この前、(職を求めて)ある会社に行ったら、『イラン人の方には仕事はありません。帰ってください』と言われて、『会社の入口に立たないでください』って怒られた。それに日系ブラジル人のための仕事の紹介所も、イラン人にはほとんど仕事は紹介してくれない」と、一週間ほど前にクビになったハッサンさんは言う。
 母親の入院費を稼ぐために日本に出稼ぎに来たファラードさん(二九)も、今年に入ってから二ヵ月半しか仕事をしていないと肩を落とした。またファラードさんの隣に座るアリーレザーさん(三四)は、「五人の妹のために日本に出稼ぎに来たのに、今年働けたのは二ヵ月と少しだけ」とうつむいた。
 法務省入国管理局の統計によれば、九九年一月一日現在、滞在期間を過ぎても日本にいる不法残留者総数は二七万一〇四八人にのぼる。この二七万人以上の人々が、食べるために、そして金を貯めるために、日本のどこかで働いている。もちろん日系ブラジル人など、合法的に滞在している外国人より、はるかに劣悪な労働条件なのはいうまでもない。
 群馬県の不法滞在者の支援を続けている群馬外国人労働者支援連絡会(フレンズ)の原田桃世さんは、彼らの状況を次のように語る。
  「不景気になって、残業代のカットや首切りが多くなってきました。三〇歳をすぎると、もう職を探すのが難しくなりますから。もちろん日本語を話せないに人も職がありません。あと他の国の人に比べると、イラン人も大変でしょう。まずイラン人に対するイメージが良くない。薬を扱っているという噂が流れましたから。しかも顔がアジア系と少し違うでしょ。顔のつくりも就職に影響するんです。
 オーバーステイの外国人と聞くと、なぜ祖国に帰らないのかと考える人もいます。しかし実際は、帰れない人も多いんです。スリランカ・パキスタン・バングラディシュ・イランなんかは、祖国が政情不安を抱えています。さらにミャンマーなんかは、パスポートを再発行するのに、『日本での滞在月数』×『一万円』が必要だといわれています。まあ、半分ぐらいまでは値切れるようですが……。でも、これじゃあ、帰れないですね」
 祖国には帰るに帰れないうえに、不況で仕事を奪われていく。オーバーステイの外国人は、労働者がつくるヒエラルキーの最底辺にいるだけに問題も深い。しかし日本で生活している以上、彼らの問題はまぎれもなく日本人と日本社会に関係する問題なのだ。

■四五歳が大きな境目

 イラン人などに比べれば、合法的に働くことができるはずの日系ブラジル人。では日系人は、整った労働条件の許で働くことができているのだろうか。
 いや、違う。その待遇は、単にオーバーステイの外国人と比べれば、多少良いという程度にすぎないようだ。
 日系ブラジル人が情報交換のために集まるショッピングセンター・ブラジリアンプラザで、カク・ヨシオさん(二四)は日系人が三つに色分けされていることを教えてくれた。
  「同じ日系人といっても、就職業況は大きく違うんです。
 まず、四五歳以上か未満かが大きな境目でしょう。不景気になってから、四〇代後半の日系人は仕事をすごく見つけづらいですから。さらに四五歳以下の日系人でも、日本語を話せる人と話せない人では、仕事の探しにくさが違います」
 バブル時代、タイムカードさえ押せれば老人であっても仕事があるといわれた大泉町だが、景気失速とともに募集条件はすっかり厳しさを増した。
 公園で会ったクラモト・サダオさん(四八)は、きれいな日本語を話す。しかし彼の年齢は大きなネックとなっていた。
  「ちょうど二年前に来日しました。ブラジルの派遣会社にうまいことを吹き込まれてね。社員になれるという言葉を信じて、飛行機代を含めた五〇万円もの借金をして、日本に来たんです。なぜか使える期間の短い復路の航空券まで買わされてね。
 ところが日本に来たら、社員になれるような仕事なんかない。日本の派遣会社は、ブラジルでの契約内容なんか知らないという。それでも日本の派遣会社を頼るしかありませんでした。紹介されたホテルに泊まって、その会社から仕事を紹介してもらうのを待っていたんです。
 やっと一週間後ぐらいに仕事を回されたけれど、雇用された期間は短かったですね。派遣会社が住むように指示してきたホテルの代金と、新しくアパートを借りるための資金で、働いた分のお金はほとんど消えていきました。それからは自力で職探しです。
 毎朝、二〇社以上の派遣会社を廻り、仕事を紹介してもらう。でも決まらないんですよ。日本に来て二年のうち、仕事のあったのは一年三ヵ月だけ。九ヵ月間は失業していました。もう、今年の末には、ブラジルに戻ろうと思っています」
 結局、クラモトさんが日本で手に入れたのは、五〇万円の借金だけだった。
 日本での生活はどうだったかという質問に、彼はボソッと答えてくれた。
  「勉強になったというかね……。若い人には日本の生活も楽しいかもしれない。でも僕らの世代は、考えることも多いから」
 視線を落としたままの深い沈黙が彼を包み、取材はこの言葉で終わりを告げた。

■外国人らしさが命

 ここ半年ばかり、日本人の失業者に関する記事が多く流れている。それだけに日本語を話せず、四〇代中盤にさしかかる外国人の解雇など、読者は驚かないかもしれない。しかし日本人と日系人を含む外国人では、そもそも労働条件の出発点が違う。
 日系ブラジル人のための日本語教室を開き、彼らのさまざまな相談にも応じている日伯センターの代表取締役・高野光雄さんは、その違いを説明してくれた。
  「日本人の失業者の多くは、本意でない仕事をさせられたり、仕事そのものに見切りをつけたりして、会社を辞めているでしょ。でも日系ブラジル人の多くは、最初から仕事の質なんて考えていないんですよ。日本人がやりたがらない仕事でもいい。なんでもいいから、一円でも賃金の高い仕事につきたい。そう思って仕事を探すわけです。
 だからある意味では、この不景気でも仕事はあるんです。例えばエアコンの組み立てなんかは、三、四ヵ月の季節工です。生産ラインを動かす時に雇い、つくられなくなればクビを切る。経営者側からみれば、いつでもクビにできる労働者のスプリング役として日系人は重宝がられているわけです。
 クビにしても労働問題にはならないし、日系人以外の外国人よりも日本人労働者との摩擦が少ない。こんな便利な存在はなかなかない。逆にいえば、外国人らしさを失ったら、つまり日本人と同じような労働条件を求め始めたら、日系人を雇う意味などなくなってしまうのです」
 高野さんが語る通り、この不況でも日系人の仕事はある。ただし労働条件は圧倒的に悪くなっている。社員の口はなくなり、短期のアルバイトが増大した。賃金のカットや突然の解雇もついて回る。景気の動向に企業側が細かく対処するために、日系人は「スプリング」としての役割をより求められるようになり、不満を言わない労働力として切り売りされているのだ。
 一七歳の日系三世、ダニエル・ルーゼンニさんも、現在の状況を憂える一人だ。
  「解雇された経験がない人なんかいないよ。仕事がなくなると、すぐに紹介所を廻ってアルバイトを探すんだ。職探しは大変だけれど、仕事しなくちゃ、遊ぶ金だってないからね。親父は六〇歳だから、まったく仕事がないし……」

■日本に来る理由が変化

 九〇年、日系ブラジル人の先頭を切ってブラジル料理店「ブラジル」を開いた日系二世の太田健仁さん(三一)は、この不況が日系ブラジル人に「先の見えない不安」をもたらしていると指摘する。
「社員が減り、アルバイトで食いつなぐ日系人が多くなりました。その不安定な職業形態が、先を見えなくしているし、収入も減少し、将来への不安を呼び起こしているのです」
 しかも日系人にとって、さらに不幸だったのは、日本での定住を日系人が模索し始めた時期と、不況の時期が一致していたことだ。
 太田さんによれば、入管法が改正されて九年で日系人の意識はかなり変わってきたという。
  「最近、日系人は二つのタイプに分かれるんです。一つは、時代の節目である二〇〇〇年をブラジルで迎えるために、従来同様、お金を貯めているグループ。そしてもう一方は、日本の生活になじみ、定住を考え始めたグループです。彼らはずいぶんと日本食を食べるようになりました。またギリギリまで生活費を切りつめてブラジルにカネを持ち帰ろうとするのではなく、日本での生活を楽しむために、多少お金を使うようになったのです。そうした定住を考え始めた日系人にとって、この不景気の影響は大きかったと思います」
 太田さんの言葉を裏づけるような資料もある。九八年九月に、日本労働研究機構研究所が発表した『日系ブラジル人の日本での就労に関するアンケート調査』だ。
 この報告書は、在ブラジルの日系人を対象に、出稼ぎの意欲や帰国後の状況などを調査したものだ。そのなかで特に注目すべき事柄は、出稼ぎの理由についての調査結果だろう。
 九三年の調査では、出かせぎの理由のトップは、全体の六一・二%を占めた「不動産を買うため」だった。ところが九八年の調査では、「日本を知るため」が四三・七%を占めてトップとなり、「不動産を買うため」は三五・〇%に半減している。
 さらにブラジルでの平均月収と出稼ぎによる月平均送金額についての調査も、面白い結果をはじき出している。九三年調査時は、ブラジルでの平均月収が六二三・〇ドル。一方、日本からの月平均送金額は、一六六三・七ドル。つまり一〇四〇・七ドルもの開きがあった。ところが九八年の結果を見ると、平均月収が一八〇六・一ドル。日本からの月平均送金額が、一八四七・六ドル。つまり日本に働きに来ても、ブラジルで働くのと比べてわずか四一・五ドルしか儲からない。ここ六年間で、日本は大きく稼げる場ではなくなっていたのである。

■入管法改正に商工会が要望

 九〇年六月、バブル景気の最中にあった日本で、入管法は改正された。当時の新聞をめくってみると、外国人の不法就労者締め出しのために規制が強化され、逮捕を恐れた外国人が一斉に帰国する様子が報じられている。
 一方、バブル景気を支えるために必要とされた外国人労働者を、企業は何らかの形でつなぎとめたいと考えていた。大阪商工会議所が単純労働に携わる外国人労働者の受け入れについて、首相はじめとする関係省庁に要望を出したのは、その典型的な例といえる。
 こうした企業側の要望を見越して、入管法改正に取り入れられたのが、ラテンアメリカからの日系二・三世の受け入れだった。定住資格を日系三世までにとどめたことで起こる日系四世の在留資格問題。日本人の血統主義ともいえる政策に対する近隣諸国からの不満。これらの問題を放り出し、労働力という観点だけで日系人を受け入れた。そして、このような経緯で行われた法改正の延長線上に、現在の日系ブラジル人の雇用情況がある。
 日系人が金のためだけと割り切り、ひたすら単純作業に従事する間は、問題はなかった。しかし定住を視野に入れた将来設計を立てようとすると、解決できない問題が目白押しとなる。人は文化をもち、感情をもって日本に来ることを、政府は忘れていたのではないだろうか。
 不法滞在者は表の世界から隠され、日系人は感情をもたない生産ロボットのように企業から扱われている。不況が深刻になればなるほど、日本社会が備える冷酷さはよりハッキリしてくるだろう。
 この不景気のなかで、日本人以上に声を上げられない労働者がいることを、私達は記憶しておく必要がある。 (編集部)

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阪神大震災現地ルポ 第13回/誰もが心労を重ねる

■月刊『記録』96年6月号掲載記事

■4月25日

  2ヶ月ぶりに神戸を訪ねた。1~2月と比べて、自宅を再建し入居を始めた人達の姿が目についた。今回は会えなかったが、東灘区に住む田中尚次・比早子さん、朝倉有子さん達も、家の建て替えが終わり、再入居を済ませていた。 

  長田区でまちづくり活動に携わっている、三谷真さんを訪ねてみると、高熱を出して寝込んでいた。「今までの疲れが一度に出たようだ」と夫人が語った。震災から1年あまり、三谷さんはさまざまな活動に精力的に関わってきた。本業との「二足のわらじ」でもあったから、相当に疲労が蓄積されていたようだ。 

  そういうわけで今回は詳しい話を聞くことはできなかったが、最近の三谷さんは「長田アジアタウン」構想に加わっている。以前から話を聞いているが、長期的には長田区を「多国籍アジア化」しようという試みで、さしあたっては新長田駅北区地区の土地区画整理事業区域内の一角に「アジア自由市場」を開設する。当初は4月27日にオープンすると聞いていたが、その後7月20日に延期されたという。 

  住民レベルの発案による復興プランであり、地域の特性に根ざした内容だといえよう。ただ1点、神戸市から区画整理事業区域内に用地の提供を受けるのが気になるところだ。べつに無闇やたらに行政と対決すべきだとも思わないが、この地域は、一方では区画整理の是非を巡って住民の反対運動も起きている(この問題については次回以降詳しく報告する)。住民の思惑が様々に交錯している状況下では、行政とのそうした連携は安易にすぎないだろうか。今後さらに取材していこうと思う。

■4月26日 

  兵庫区の本町公園テント村に、兵庫県被災者連絡会の河村宗治郎会長を訪ねた。「住民の再起の手だては住宅と仕事だが、この両方とも対策がなおざりにされてきた」と、行政の無策を批判する。河村さんは神戸市内で12万戸の被災者向け住宅が必要という。だが市の供給する災害復興住宅は8万2千戸。公営住宅は全体の6割で、残り4割は民間住宅をあてにいている安直な計画だ。 

  民間の賃貸住宅再建には、公的機関の融資制度や「阪神・淡路大震災復興基金」からの建設費補助と利子補給、家賃減額補助などがあるが、いずれも一定規模を有するものが優遇される。河村さんは「家賃補助は家賃の高騰を行政が追認する欠陥政策だ」として、融資枠や利子補給の充実・拡大を提唱している。いちがいに欠陥政策とばかりはいえないと思うが、量的には最も多いはずの中小規模賃貸住宅の再建に、大規模住宅ほどの支援措置がとられていないから、結局これらの補助に、家賃高騰を抑える実効性はほとんどない。 

  しかし、家賃高騰はここでは文字通りの「死活問題」だ。取材を続けるうちにわかってきたことだが、神戸での住宅・生活環境を首都圏と単純に比較しては実態を見誤る。河村さんが「本町公園周辺でいえば、家賃1万5~6千円のアパートはほとんど潰れた。月収が15~16万円しかなくても、これぐらいなら何とか払って暮らしていけた。そういう人達が大勢いるのが現実だった」と話すように、家賃の高騰は、「住めなくなる」以前の問題として「生活できなくなる」ことを意味している。 

  河村さん達はまた、災害救助法23条7項に定められている「生業に必要な資金、器具又は資料の給与又は賞与」が全く実施されないまま同法の適用が打ち切られたとして、これらの実施と「緊急生活援護金」の支給・貸与を、神戸市に対して要求している。そのうえで、被災者への公的支援を制度化する新規立法措置をと、被災地外の支援者達とともに訴えている。 

  不思議なことに、河村さん達を「ならず者」扱いし、一切の交渉を拒否してきた神戸市が、震災1周年の頃から話し合いに応じるようになっていた。執拗に避難所解消・住民追い出しを画策していたが、「どこに住むかは本人が決めること」といった表現で、事実上断念したらしい。この姿勢の変化は、被災住民の窮状をようやく認識したからだろうか。それとも単なるポーズにすぎないのだろうか。

■4月27日 

  今回の取材で会った人達には、健康を害している人が多かった。三谷さんは前述の通りだし、河村さんも会うたびに痩せていくのがわかる。ともに心労を重ねているからだろう。久しぶりに訪ねて行ったら、心労のあまり亡くなっている人もいた。 

  中央区の仮設住宅に住む中村いさ子さんも、耳に悪性の腫瘍ができ、2週間前に手術したばかりだった。近くをトラックやトレーラーが通ると、安普請の仮設住宅がドスンと縦に揺れる。「また地震かとそのたびに驚く。住民はだいたいこれで神経が参っている」と語った。ここにも心労を重ねる人達がいる。 

  誰もが心労を重ねている。力尽きて斃れる人達もいる。再建後に家賃が数倍に高騰した賃貸住宅には、とても戻って住むことはできない。持ち家を再建した人達も、10~20年後、多重ローンに耐えかねて家を手放していないとの保証はない。 

  こんな状況がつくられていくなかで、道路や建物ばかりが再整備されていく。そんなものが復興といえるのか。(つづく)

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阪神大震災現地ルポ 第12回/部落でも深刻化する住宅問題

■月刊『記録』96年5月号掲載記事

  生田川の人々に出会ったことで、「犬も歩けば棒に当たる」よろしく、震災と被差別部落の問題に行きあたった。取材をもっと深めようと思い、長田区の番町地区を訪ねた。神戸最大の被差別部落で、2500世帯、5000人以上が暮らしているという。 

  番町がいわゆる都市型部落の様相を呈するのは、明治も終わり近くなってから後のことだ。開港以前は神戸自体が寒村だったからでもある。しかし、それでは1871年の「解放令」はいったいなんだったのか。生田川(新川)は当時は部落すらなかった。発令後に部落が形成・拡大されたのは、解放令がいかなる内実も伴っていなかったことをよくあらわしている。 

  新川と番町は、市内の零細窮民が追いやられることで肥大化していった。長田区の番町とその周辺、中央区の生田川周辺に今も在日コリアンが多く住んでいるのは、この差別政策に起因している。前々回その消息を伝えた在日2世の清本吉伸さんも番町に住んでいる。「下町」としての長田は、震災後、広く知られるようになった。その下町の温かさが、差別の結果生まれたものだということも、忘れてはならないだろう。 

  番町地区の被災状況は、死者42人、全半壊1400戸、一部損壊1000戸にのぼる(部落解放同盟兵庫県連調べ)。被差別部落でありながら同和対策事業の対象とされなかった「未指定地区」の被害が大きかった。改良住宅は6棟・505戸分が被災したが、生田川同様、ここでも改良住宅の存在が、被害をある程度はくい止めたといえるようだ。高層の改良住宅は、部落の豊かなコミュニティを破壊する、新たな差別の象徴になるとの批判もあったというが、被災軽減がせめてもの救いだろうか。 

「皆が帰って来られるような状況を早くつくっていきたい」と、部落解放同盟番町支部の滝野雅裕書記長が語る。改良住宅505戸のうち303戸の建て替え用仮設住宅は確保できた。残り202戸(うち90戸の行先は部落解放同盟でも把握していないが)は親類宅や仮設住宅などに身を寄せているという。「番町は大きな部落なので、地区外の人との付き合いがなくても暮らしていけたから、一般の仮設住宅に入ったお年寄りには、かなりのプレッシャーになっているだろうと思う」と、滝野さんは心配していた。 

  改良住宅は既に再建工事が始まっているが、既存不適格の規制で、以前と同戸数を維持するためには、1戸あたりが小型化してしまう。それでいて家賃上昇も見込まれている。戻れない人も出てくるかもしれない。「改良住宅は第2種公営住宅といって、第1種の一般市営住宅とは歴史的経緯も異なる。収入面でも同和地区の人は低いので、同じ家賃というわけにはいかない」と、滝野さんが語った。解放同盟でもこの問題に取り組んでいるという。 

  民間住宅でも事情は同じだ。家主が高齢だと、倒壊した貸家や長屋の再建は困難になる。借地権を買い取った人も、建蔽率の規制で、例えば10坪の土地なら8坪程度の家しか建てられない。「これでは家にならない」と悩んでいるという。部落外の被災地で起きていることは、例外なく被差別部落でも深刻化している。

■ 部落差別で採用内定を取り消し 

「皆が助け合った震災直後の気持ちを大切に復興させていきたい。それが人権問題の根本だと思う」と滝野さんは話す。だが、一方では悪質な就職差別も起きていた。関西のある事業が社員を震災ボランティアに派遣、番町で活動していたが、ここが被差別部落だと知ると、自社の採用内定者に番町出身者がいないかを調べ、当該者の内定を取り消したのだという。いったいどうすれば、ボランティアに行く精神と、部落を差別する精神とが両立できるのだろうか。滝野さんも「何でそういうことをするのだろう。人事担当者は酸いも甘いも噛み分けた人ではないのか。人をいじめてそんなに楽しいのか」と憤る。滝野さんならずとも腹が立つ。 

  町を流れる新湊川も差別の結果だった。新開地開発のため、明治末に部落北側の高台めがけて付け替えられている。大雨のたび洪水が南の低地の部落へとあふれた。最大の被害は1938年の「阪神大水害」で、豪雨とともに土石流が阪神地方を襲い、死者・行方不明者557人、流出・倒壊家屋2万戸の被害を出した。「なかでも生田川・宇治川・都賀川・新湊川の川筋の被害が大きかった」(『神戸市史』)。つまり流域の被差別部落を直撃したのである。 

「川というのは自然とそこにあるものだと思っていた。部落が洪水になろうが、かまわずに付け替えられたものだと知った時、本当に腹が立った」と、滝野さんが語る。この国は、こうした差別の結果を基礎に繁栄を築いてきた。今日の私達の生活も、その上に成り立っている。「私は差別していない」「自分は差別とは無関係だ」と言ったところで、何の意味があるだろう。 

  滝野さんと電車に乗る機会があった。被差別部落出身者の外見に何ら違いのあるわけがないから、誰も気にとめない。車内の雰囲気も全く変わらない。それなのに部落出身というだけで、差別の標的にされる。これが部落差別の無意味さ、デタラメさだと思う。だいたい外見が異なろうが差別のあっていいわけがない。差別することは「くだらない」と、つくづく思う。(■つづく)

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O-157事件・カイワレ大根は無罪だ!/大阪府・南野農園激白

■月刊『記録』96年9月号掲載記事

(南野芳則……1969年7月号生まれ。大阪農業大学校を卒業後、南野農園を受け継ぐ。)

■騒動は96年7月24に始まった

「ウチ、ちゃうやんか」。
 8月7日の管直人厚生大臣の記者会見で指摘された農園の特徴は、うちとはまったく違っていた。ところが「大阪府内の特定の栽培業者が納入したカイワレ大根が原因である可能性が否定できない」と、管厚相が発言したことにより、うちは病原性大腸菌O-157の感染源にされた。
 騒動の発端は7月日だった。保健所職員に「老人ホームの給食のメニューに、おたくのカイワレ大根が入っているので、とりあえず検査させてください」と訪ねてきたのだ。その時は「堺市もえらいことになっているな」と、農園がおおごとになるなんて思ってもいなかった。その日、保健所は栽培中のカイワレ大根から種子、生育に使う井戸水、排水までを持ち帰り検査した。8月2日には、「O-157はまったく発見されなかった」と結果が出て、感染したみなさんには申し訳ない言い方になるが、ほっとひと安心した。そんな中で出されたのが、8月7日の原因究明調査の中間報告だった。

■どこに牛がおるんや

 記者会見の始まる分前には保健所から、「どうやら厚生省からO-157の感染源に対する発表をするようだが、動揺しないように」という電話があった。電話の直後から、テレビをかじりつくように観ていたが、どうしても南野農園のことを話しているようには感じられなかった。
 たとえば「カイワレ大根の水耕栽培に使用された水に、もともとO-157に汚染されている牛フンなどが流れ込んだとも考えられる」という発言だ。この発言のおかげで農園に押しかけたマスコミ関係者の第一声は、「どこに牛がおるんや」だった。ところが牛舎はうちから~離れたところにしかない。そのうえ牛の運搬車も、この辺りを通らない。いったいどこから牛フンが紛れ込むのだろう。
 そんな感想を抱いた会見だったが、騒動は一気に大きくなっていった。会見が終わり、最初に駆けつけたのはNHK。工場の消毒設備などを説明するために、テレビクルーを連れて農園をひとまわりして帰ると、今度は民放各局がカメラを構えていた。私はマスコミへ対応するとともに、検査結果が出るまでカイワレ大根の出荷を自粛することを、その日に決めた。さらに6日と7日に出荷した分の回収も始めた。

  夕方には、再度保健所から連絡が入った。「再調査をお願いしたい。伝染病予防法という『伝家の宝刀』を抜きたくないので、協力してくれないか」という問い合わせだった。私自身、農園の衛生には絶対の自信を持っていたので、早く真実を突きとめてもらいたい気持ちから快く承知した。
 8・9日と、保健所は立ち入り調査を行い、培養液や作業所に隣接する自宅の浄化槽の水まで、第1回目の調査の倍に当たる検体を採取した。もちろん私を含めた従業員の検便も行われた。しかし立ち入り検査は、これだけで終わらなかった。日には、南野農園近隣4市町を対象に4河川から採水、さらに周辺の水路からも水と汚泥を採取していった。
 菌が発見されないとわかると、再度の立ち入り検査というやり方は、私達を傷つけるだけではない。保健所の職員のプライドさえも傷つけている。厚生省に従わざるを得ない職員に同情さえした。

■従業員の姿を無断で放映

 これだけ誠実に対応していたにも関わらず、マスコミを通じて流される情報はめちゃくちゃだった。
 どうやって調べたのか、水利組合の用水路が氾濫したとの報道があった。生まれてこのかた年以上、この辺りの用水路が氾濫したことはない。というのも農園の周辺にある水路は、第1の堤防を超えても、第2の堤防が水を用水路戻す仕組みになっているからだ。いったいいつ、用水路が氾濫したのか教えてほしい。
 南野農園が有機肥料を使っていると言った政治家もいた。うちでは種類の化学肥料と消毒液を混ぜてスプリンクラーで散布している。肥料からO-157が入り込む余地はない。
 つい先日もNHKと産経新聞が、日本かいわれ協会の独自調査により、南野農園近くの河川からO-157が検出されたと報道した。驚いて協会に問い合わせてみると、「協会としては、報道機関にコメントした覚えはない。何でこんなことが紙面に出たのかわからない。協会も産経新聞を読んで初めて事態を知った」との答えをいただいた。(編集部注 後日、日本かいわれ協会はO-157を採取できなかった旨の報道が流れた)
 もちろん誤報だけが、私達を苦しめるわけではない。一番腹が立ったのは、農園にパートで働きに来ている従業員を映したことだ。経営者の私が写るなら問題はない。しかし従業員には小さい子どもを持つ人もいる。子どものいじめなど、どんな影響がでるかもわからないと思い、映さないようにとお願いしたのにも関わらずテレビで放映された。きちんとした配慮をしてほしいものだ。
 新聞報道では、私の味方になってくれた記者も多かった。人によっては、農園がスケープゴートになっていると断言してくれた人もいたほどだ。ところが紙面では、農園の主張は小さく扱われている。もっとも松本サリン事件の河野義行さんに比べれば、はるかにましだとは思うが……。

 厚生省の見解と全く食い違う事実も、私の元に届いている。
 カイワレ大根は少し辛いこともあり、子どもの好き嫌いが表れる野菜だ。O-157に感染した児童が多くでた学校でも、もちろん状況は変わらない。カイワレ大根を好きな児童が、嫌いな児童3人からカイワレ大根をもらっている。ところが発病したのはカイワレ大根を食べていない3人だった。4人前のカイワレ大根を食べた児童は、まったく感染していない。3人分のカイワレ大根を食べた児童の母親から、私はこの話を直接聞いた。彼女は、南野農園が疑われていることを知り、わざわざ農園に電話をかけてきてくれたのだ。
 これだけではない。肉料理だけを食べ、カイワレ大根を残した児童がO-157に感染した事実もつかんでいる。この児童は登校拒否児で、出席した日も限定される。取引先の子どもの話だ。おかしなことに事のしだいを保健所に報告した子どもの両親は、「この話は黙っとけ」と言われている。その後、この件の調査が進んでいるとは聞いていない。
 匿名でうちに送られてきた堺市役所の職員ニュースでも、カイワレ大根を感染源とする説に疑問が噴出していた。ところが市の職員が疑問に思っていても、表には出てこない。

■もう野菜は食べられない

 そして、私がもっとも疑問に思っているのは、潜伏期間の問題だ。O-157の通常の潜伏期間は4~9日程度と報道されていた。ところが小学生を中心に大量感染が発生したのは7月日。一方、疑われている給食は8日と9日の両日だ。カイワレ大根が騒がれる前に、しきりに話題になっていた潜伏期間はどこにいったのだろうか。
 さらに8・9日から、カイワレ大根が特定された経緯もあいまいだ。8日の問題のメニューは、「パン、牛乳、とり肉とレタスの甘酢あえ、はるさめのスープ」。9日は「パン、牛乳、冷やしうどん、ウインナーソテー」が問題になっている。この2日の共通食材で、加熱しておらず、単独の製造メーカーから納入されているのがカイワレ大根ということらしい。
 米国ではハンバーグでO-157の感染が起こった例もあるというのに、どうして非加熱の製品を狙い撃ちしたのか。加熱した食品は、完全に火が通っていたといえるのだろうか。おかしい。生のダメだというのなら、野菜は食べられなくなってしまう。

 そもそも中間発表で、うちだけが名指しされたのはどうしたわけだろう。管厚相は、特定の食品を保護しようとするミエミエの発言を繰り返しているようにみえる。私にはダークサイドの情報が入ってこないので、本当のところは知るよしもないが、スケープゴートとして名指しされた部分もあるのではないか。少ないともうちが名指しされたことで、堺市に対する批判が収まったと言えるかもしれない。
 カイワレ大根の業者として、南野農園は大きいと報道されている。しかしうちは、家族経営の域を出てはいない。私と妻、そして歳を超えた父と母。それに人ほどのパートで、この農園を切り盛りしている。自主的に製品を破棄したとはいえ、その損失だけで250万円を上回る。またカイワレ大根以外の作物も、同じように市場に流すのを止めている。こちらは計算はしていないが、かなりの損失になるだろう。さらには、今後に予想される消費者のカイワレ大根離れなどを考えると、先行きはあまりにも不透明だ。家族の元気もない。
 仕事ができないくやしさは、一言では言い表せない。怒りとも違う。唯一救いがあるとすれば、生産を促すような声が取引先から出ていることだ。うちが衛生面でしっかりしていることを、知っていることもあるだろう。

 カイワレ大根の根本は、収穫半日前に4ppmの次亜塩素酸ソーダで殺菌している。作業中に使う水についても、ポンプが井戸水と次亜塩素酸ソーダを吸い上げ2~4ppmの液を自動的に作り上げる。水道水の塩素濃度の倍以上になる計算だ。種まきの時に使う水や、収穫時に使う箱、施設内を洗浄する水、培養液のための水もこのポンプから出てくる。さらに収穫直後には、ppmの濃度の次亜塩素酸ソーダでカイワレ大根を殺菌する。このときに使い終わった資材も消毒液につけ込み、オゾン水で洗い流すようにしている。これだけ徹底した消毒で作られたカイワレ大根に、O157が混入することはありえない。万に一つあったにしても、繁殖するための栄養素がない。
 管厚相は、これらの疑問に答えられるだろうか。公的な存在には公平な発言をして頂きたい。そして彼の発言が、どれだけ大きな影響を与えるのか実感してもらいたい。省のトップたる者が、国民に不安を抱かせるだけの会見をしてどうする。少なくとも大臣の側近が農園を訪れて、どこからO-157が侵入したのかを明確に説明し、断罪してくれれば納得したはずだ。
 ところがうちを名指ししながら、感染源はまだ特定されていないとの答弁。こんな逃げ腰の会見は納得できない。極端な言い方をすれば、5時間後に殺人現場を通りかかった通行人を逮捕したようなものだ。凶器もねつ造して発表。冤罪事件そのものだ。
 行政は感染源がカイワレ大根でなくとも大きな傷を負わないが、うちの農園の信用回復は簡単ではない。長年取引している業者さんや店舗は、南野農園の品質をわかっているのでまだいい。しかし一般の消費者からの信用回復は長い年月がかかるだろう。
 いますぐに「南野農園がシロだ」と、行政からはっきり公表してほしい。国民の不安を取り除く努力をしてもらいたい。あやふやなままで、終わらせてほしくない。長年にわたって築き上げた取引先と消費者の信用を、いきなり崩された者の気持ちを厚生省はわかるだろうか。

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中央線自殺多発の真相・誰がどうして死んだのか

■自殺の状況に6つの特徴・自殺が映す現代の病理

 JR東日本のまとめによれば、列車に30分以上遅れが出たケースに限っても、95年4月~今年1月末までに31件の自殺が起こっている。94年度が14件、93年度が13件だから、10ヶ月間で2倍以上の自殺者が出たことになる。さらに今年度上半期に起きた数を他の路線と比べても、中央線の自殺者は17件と、山手線5件、総武線4件、常磐線6件と比較しても際立っている。昨年11月30日には、中央線沿線の駅長が集まり都内4ヶ所で安全祈願のお払いを受けたほどだ。
 原因も、「中央線の沿線の景観が他に比べて良い」「中央線が自殺の名所になってしまったから」など諸説入り乱れているものの決定打がない。JR東日本広報部も、「時間や場所に偏りはみられないので、たまたま起きたのではないでしょうか」と語り、中野警察署の担当も、「不思議だとしかいいようがない」と話す。だが、国立精神・衛生センター武蔵病院の医師であり自殺の研究者としても有名な吉川武彦氏に分析を依頼した結果、いくつかの特徴が見えてきた。

特徴① 同日・翌日に集中
 まず事件の日付が重なっている。7月17日に3件、9月14日に2件、10月11日に1件起こった後、翌12日に2件、10月24日に2件、11月13・14日に1件づつ起こっている。1年間の集計にしては偏り過ぎてはいないか。全32件の37%にあたる12件が同じ日か、次の日に起こっているのだ(表1参照)。
[吉川氏分析]
 このような現象は自殺では珍しくない。第1の自殺が次の自殺を誘発する。鉄道各社が人身事故の際に流す状況説明の社内放送も問題。自殺のあった駅のみならず、前線で何時間も放送されるため、自殺願望を持った人が誘発される可能性が高くなっている。

特徴② 高級イメージ
 他の路線と違って、高級住宅街で総体的に高学歴・高収入の住民が多く住んでいる「中央線沿線」のもつハイソサエティーなイメージに憧れての場所設定である可能性も高い。
[吉川氏分析]
 自殺をアピールの手段として使う「アピール自殺」のケースでは、場所の設定が重要な要素となる。「ここに住みたい。この場所で一生を終えたい」と思う場所を選ぶ場合は多い。

特徴③ 多くが沿線住民
 受験エリートである高学歴・高収入者の精神的な危機が感じ取られる。自殺者は社会現象に敏感に反応するもので、高学歴・高収入者が持つ閉塞感が、かなり広まっていることを示している。
 オウム真理教信者が次々と逮捕されるなかで、どうしてこれだけ高学歴の学生がだまされたのかと話題になったが、実は彼れのような立場の悩みは深い。高学歴を取得するために、受験戦争を、さらに就職活動を乗り切る。そのような人が自分の人生を振り替える年齢になった時、受験能力だけを身につけてきたのではないか、自分はからっぽではではないか、人生の選択は正しかったのかと悩む。本当の意味での知力が育っていないため自信が持てない。そんな空虚さが自殺やオウム真理教のような存在を必要とする。

特徴④ 「飛び込み」に集中
 中央線は三鷹より東側が高架になっており、11月までの自殺集計を参考にすれば、三鷹以東の自殺者の70%以上がホームから飛び込んでいる。
[吉川氏分析]
 忘れがちだが、列車への飛び込みが自殺の方法としてポピュラーである。表2でわかるように、駅構内と鉄道路線での自殺数を加えると年間1100件以上起こっている。思い悩んでいる人にとってたいした準備もなくいきなり死ねる鉄道は、格好の死に場所となってしまうのだ。

特徴⑤ 帰宅時のラッシュアワー
 帰宅時のラッシュと重なる時間に自殺者が多い

[吉川氏分析]
 自殺は夜と明け方に多いといわれているため、電車の動いている時間を考えると、夜が多いのは頷けるが、それ以外に家庭に帰りたくなくなった人が自殺したと考えられる。
 踏切や路線には行って死ぬ場合はともかく、駅から飛び込む人は決断に要する時間は短い。死にたいと思っている人が、駅の外で自殺を決断し、わざわざ切符を買って飛び込むとは思えない。
 とすれば通勤通学で中央線を使っている人、中央線を使って目的もなく移動していた人が、家に帰る緊張感に耐えかねて発作的に自殺した可能性は大いにある。高学歴・高収入のために働いてきた者が、自分の空虚さに気付いた時、家庭は自分にとって重荷になっていくのではないだろうか。

特徴⑥ 若年層の高比率
 自殺者のうち8人が20歳代の若者だ。比率でみると全体の25%にも及んでいる。1985年前後から全国で起こった30歳未満13%前後を推移している。この数字から比べると、25%は少し多い(グラフ1参照)。
[吉川氏分析]
 自殺は常にマイナスイメージだけでとらえられるが、実は自閉症気味の人より治療は簡単だ。それは自殺をする人が、自閉症ぎみの人より行動力を持っていることに起因する。自殺をするには、かなりの勇気と行動力が必要となる。だから自殺未遂者が立ち直り、行動力や勇気がプラスの方向に転化すれば大きく成長する。このように考えると中央線沿線の20歳代の若者は全国平均より多少骨のある若者といえるかもしれない。

■「メディア影響」は過大評価

 最近、「自殺に関する報道が自殺願望者を刺激する」とよくいわれるが、今回の中央線自殺の増加については、マスコミ報道は一切関係がない。最初に新聞に大きく取りあげられたのが、10月17日の読売新聞。ついで10月23日朝日新聞が掲載し、おはらいの話が記事になったのが12月1日だ。また1番早く掲載した週刊誌も11月5日であることを考えると、自殺が収束に向かっている段階でマスメディアをにぎわせていたことがわかる。(表1参照)
 JR東日本広報課は、「自殺を抑制するために、報道機関に記事を掲載してもらった」と語る。自殺者に共通する危機感を分析し、取り除く環境を作ることこそが重要だ。
[吉川氏分析]
 マスメディアの報道が直接自殺を誘発するわけではないということだろう。短期的には情報が自殺を誘発することはあるが長期的にみるとあまり影響はないと考えている。マスメディアに対して情報の自己規制を求める動きもあるが、マスメディアに対して情報の自己規制を求める動きもあるが、あおりたてるような興味本位のものはともかく、情報コントロールを行うことは、長い目で見ると危険だ。

■すでにピークは越えた

 実は7~11月の5ヶ月間で中央線自殺のピークは終わった。悪夢の再来はないのか。
[吉川氏分析]
 自殺の方法や場所が長期間はやり続けることはまずない。長くて半年、普通は3ヶ月ほどで流行は収束していく。単純に自殺に関する情報が増えたため、自殺が急増するものでもない。
 1986年、アイドル歌手の岡田有希子が所属プロダクションの入ったビルから飛び降り自殺をした時、確かに若年層の自殺が増加し、「ユッコシンドローム」として大きく騒がれたが、やはり3ヶ月~半年で後追い自殺も収まってしまった。有名な高島平団地の自殺も、新聞が100人目の自殺者の存在を報じたため、自殺者が高島平団地に集まったようだが、共用通路に柵を取り付け自殺ができないようになるとともに、他の場所でも高層マンションが増えるにつれて自殺はなくなっていった。

 病気は、本人・病原・環境の3者の相関によって拡大するし収束もする。病原になるものをたたきつぶすことや病気が広がりやすい環境をかえることも大切だが、病気にかかりにくい人を増やすことが重要である。いま、公衆衛生はそこを目標にしている。予防の観点から自殺を考えると、自殺は病気ではないが、その意味でも、本人の「こころの健康」こそ重視されなければならないし、抜本的解決にならない。

これでも自殺しますか 藪内繁樹(鉄道整備士)
肌色のミンチ
 事故を起こした車両は、事故後2~3日して整備所に送られてくる。初めて事故車両を見たときは、「こんなものかな」といった印象だった。血糊がべっとり付いているわけでもなく、車両のへこみも自動車事故ほどではない。人を1人はねたにしては、大きな痕跡が残っていない。ところが車輪の下に整備を始めて、事故の悲惨さを知った。
 車輪と車輪周辺部の機械に肌色をした小さな物体が無数に付いている。赤味はなく、まるでささみのミンチのようだ。最初人間の肉だとは思わなかった。その時は車両正面にぶつかってはね飛ばされた状況ではなく、線路に寝ている人を巻き込んでしまったため、肉片は4両目まで飛び散っていた。機械故障の原因となる肉片は丁寧に取り除かれる。しかしミンチ状の肉片を集めても、どの部分の肉なのかさえわからなかった。

■生首がゴロン

 事故そのものが近くで起こり、おもしろ半分に見に行ったこともある。線路の周りには警察や社員が、ゴミ袋を持って歩き回っている。人によっては線路から10mも離れた場所を動き回っているのだ。何をしているのかと思って近寄ると、隣の警察官のゴミ袋から生首が転げ落ちた。見に来たことを後悔したがもう遅い、目に焼き付いて生首が脳裏から離れなかった。それ以来、事故現場に足を運ぶ気持ちは起きなくなった。
 さらに気の毒なのは、自殺者をひいてしまった運転手だ。電車はたいてい目視してからでは止まれない。飛び込んできた自向かって、即座にブレーキをかけるが手の打ちようもなく、姿を確認しながらひいてしまう。さらに事故後は、警察に呼ばれ事故の様子を再確認しなければならない。私の知り合いの中には、自殺者をひいてノイローゼにかかった人もいる。
 駅が近づくとブレーキをつい踏んでしまう。いつ人が飛び出してくるのか不安で、踏まずにはいられないという。もちろん運転手としては致命傷だ。特急や急行の運転がまったくできなくなったのだから…。
 ひいてしまった遺族の方にも、賠償金がかせられるときく。遺体の状況もかなりむごいものだ。バラバラになった遺体を確認しなければならない親族の気持ちを考えると気が滅入る。
 自殺者自身、親族、整備士、運転手、すべての人を不幸にする鉄道自殺は、何としても思いとどまってほしい。

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障害者ドラマを徹底批判する!(下)

■■■「障害者ドラマ」徹底批判!(下)

■■■-介護者の立場から-

■知的障害者にも性欲がある

(成田真由美……1965年、東京生まれ。都内の私立大学を卒業後、福祉業界へ。2年間、地方の精神薄弱更正施設に勤め、夫の転勤により東京に戻る。現在は、都内の老人ホームで働いている)

■生理が女性職員を悩ませる

 高橋克典は『ピュア』で。「彼女(和久井映見)は抱くとか、寝るとかそんな次元にいないんだ」と語った。しかし精神障害者の更正施設の女性介護者が最もショックを受けるのは、障害者の生理と性である。
 私は地方の知的障害者施設の職員として、2年ほど働いていた。男性が30人、女性が20人、計50人の施設だったが、私が勤めている間に、多くの女性が職員として就職した。しかし決して定着率は高いとはいえなかった。3日で辞めていった人もいた。彼女達は施設で天使に会えると思っていたようだ。しかし、精神障害者は、もちろん天使ではない。
 女性職員が一番最初に悩むのが生理だ。生理の処理が物理的に大変というわけではない。ナプキンを当てるだけなので、重症者の下の世話よりははるかに楽だろう。しかし精神的にはきつい。現状では子供を育てることができない女性が、子供を産む機能を持つことへのやりきれなさ。障害者が女として、性交もできることを知った驚き。それは聖人だと思っていた障害者が、1人の女として立ち現れることへの驚きであり、障害者に対して無意識に抱いていた女性としての優越感が壊されたことへの苦しみだろう。この苦しみを乗り越えられない女性介護者の多くが、悩みを抱えたまま施設を辞めていった。

■オルガンを引きずってトイレに

 しかし生理以上に大きなショックを受けるのが、障害者における性の問題である。
 私が介護者として勤めだして間もない頃、自閉症傾向のある男性患者が講堂のオルガンの上でズボンを降ろし、自慰行為にふけっていたのを発見した。私はショックのあまり、「そんなことはトイレでやりなさい」と彼を叱りつけてしまった。しかし彼はオルガンに乗らなければ欲情できない青年だったため、大きなオルガンをトイレまで引きずっていき、自慰行為をした。彼に性欲があることをきちんと認めていたなら、叱りつけることはなかったろうし、オルガンをトイレまで運ばせることにもならなかっただろう。結局、私自身も「障害者は天使だ」との思い込みと、人前では性欲を見せない健常者のルールに縛られていたのだろう。
 性欲も一人で発散しているうちは、さほど深刻な問題にはならない。しかし相手がいる場合は介護者の悩みも深くなっていく。私は施設内で「障害者の性を考える会」を作り、意見を交換したが、必ずしも問題は解決しなかった。例えば、軽度の男性障害者が、重度の男性障害者を自慰行為に使っていた。性欲の吐き出し方は、妊娠などの可能性がなければ、基本的に個人の意志を尊重することになっていたが、重度障害者には自分の意志を明確にできない人もいる。連れていった軽度の障害者を叱って問題は解決するわけではない。軽度の障害者が脅して使っているようにも見えないからだ。性という極めて個人的な問題に、職員はどこまで立ち入るべきなのか、職員によっても意見が分かれた。
 さらに男女の問題になると一層複雑になる。軽度の男性が重度の女性を襲うこともあり、妊娠することもある。障害者が健常者に恋する場合は、ほとんど肉体的な関係には結びつかないが、だからといってドラマのようにうまくいくわけでもない。1人の女性職員に惚れた男性は、彼女に惚れるだけではなく、自分の恋人だと勘違いしてしまった。そのため女性職員を追いかけ回し、彼女自身がノイローゼ気味になってしまった。職員全体で問題の解決にあたったが、結局は彼女が施設を辞めるしか方法をみいだせなかった。また施設の女性が施設外の健常者に強姦される事件も何件か起こった。施設の女性だと知って行為に及んだケースがほとんどだ。ドラマのように障害者が理解ある人々に囲まれていたなら、どんなに楽だっただろう。
 施設を卒業した女性が、性風俗の店で働くことも度々あった。私が親しくしていた女性も、自分が勤めている風俗店から楽しげに電話をかけてきた。工場での単純作業が向かなかった彼女にとって、性風俗店は働きやすい場所だったのだろう。本当に彼女の意志なのか疑問にも感じた。しかし彼女を1人の人間として認め、彼女の意志を尊重する以上、性風俗であろうと反対する理由にはならないだろう。

■障害者は天使ではない

 彼らを「ピュア」だと感じるのは、世間ずれしていない部分だろう。例えばチョコレート1つプレゼントしただけで大喜びしてくれたり、100m先の駄菓子屋に行くことが最高の楽しみになっていたり。しかし、それはピュアなのではない。狭い施設に閉じこめられている環境が影響しているだけ。ではピュアではない彼らに魅力がないか。もちろん違う。付き合っているうちに彼らの障害は個性に見えてくる。問題と思われる行動も楽しめるようになってくる。職員にかまってほしかった男性は、職員が洗う湯飲みにワザと小便をするようになった。洗おうとした瞬間、さすがに腹が立ったが、怒ろうとすると嬉しそうに逃げる彼を見て、いつの間にか怒りも消え、私も楽しくなっていた。
 メディアが障害者を扱うと、障害者は天使のように描かれる。そして障害者の実体を知らない健常者は、障害者が天使のような存在だと思いこんでしまう。障害者のありのまま姿を受け入れられない人達が増えるのは、問題ではないだろうか。幻想を持って障害者に近づいて来た人は幻滅し、障害者を現実以上に汚い存在と感じてしまうだろう。ドラマに障害者が登場することは、プラスの面もあるのだろうが、安易な作り方には反発を感じている。

■■研究者の立場から/ドラマヒットに見る心理

(小田晋……1964年東京医科大学総合法医学施設(犯罪心理学研究所)助手、69年同施設助教授を経て77年より筑波大学社会医学系教授。著書に『文化と精神医学』『人はなぜ、気が狂うのか?』など)

■障害者ドラマが人気を博している秘密は4点ある。

①現に存在する限界状況を描く物語は人の心を打つ
主人公の環境が過酷であるほど視聴者は共感し感動する。日本人が伝統的に好むドラマツルギーは、継母いじめと貧困であり、戦後の一時期は戦争と貧困が頻繁にドラマの主題として登場していたが、戦後50年を経た経済大国日本では現実感を持たない。その点、障害者の主人公は現在もリアリティーを持つ。限界状況を現実的な問題として感じられることが重要だ。

②障害者に対する世の視線はやさしい
ドラマも障害者を肯定的に扱っている。弱者イジメで名を馳せたビートたけしでさえ、障害者を扱った映画に対する姿勢は優しい。誹謗中傷の対象にならない存在がドラマの主人公に適していることは、かつて同様な効果を狙って作られた子役を主人公にしたドラマをみれば明らかだろう。

③視聴者の知的好奇心をくすぐる
医療や福祉などの知識が映画にちりばめられる。視聴者はその知識を受け取ることに満足感を覚える。

④役者にとって最もやりがいのある役の1つが精神障害
映画でも名優が障害者を演じている例は多い。『カッコーの巣の上で』のジャック・ニコルソンや、『レナードの朝』のロバート・デ・ニーロ、『レインマン』のダスティン・ホフマンなど数え挙げたらきりがない。役者の変身願望を刺激する役柄なのだ。

■病名設定のない『ピュア』

 海外と比べて現在ヒット中のドラマの演技にはどこか不自然さが残る。それは俳優が、障害者そのものではなく、ドラマや本で作り上げられたイメージを孫引きしているに過ぎないからだ。『ピュア』に至っては主人公の明確な病名設定がないのだから、本来のリアリティの出しようがない。障害者に密着して取材し、直接情報を取ったデ・ニーロとは大きく異なる。
 さらに障害者ドラマの量産は、障害者に対する優しい視線を失わせる。障害者をやさしく見守ることに、視聴者がやがて飽きるからだ。このような状況が障害者をパロディ化させる危険をはらむ。悪しきパロディには前例がある。かつて子どもを主人公に据えた貧困をテーマにしたドラマは善意に満ちていたが、今ではかなり辛辣なものになっている。その分岐点が『じゃりんこチエ』であり、今では「強姦」「中絶」といった実際の生活にはまずあり得ない状況まで、ドラマでは「当然」となっている。障害者ドラマが同様の経緯をたどることは、社会的に決して許されない。十分注意すべきだ。

■■声 -父母の立場から- 山口明

 出産時のミスにより、最重度の脳性マヒになったわが子を持つ親ではあるが、『ピュア』は結構楽しく観ている。もちろん気になる点はある。例えば、和久井映見は可愛すぎる。もし「しこめ」だったらどうなったのかと思うし、演技もコケティッシュな部分を強調しすぎている。障害者の母親が、子供に関わる部分だけで描かれているのも残念に思う。実際の親は、生活するために仕事もしており、子供にかかりっきりではない。いわゆる普通の生活が営まれている。
 しかし、子供が親から自立していく課程を自然に描いている点は評価できるだろう。障害者が、テレビ画面を通して認識されていくのは、悲しむべきことではないと思う。

■■-ドキュメンタリーの立場から-

(伊勢真一……映画・『奈緒ちゃん』の監督。主人公の奈緒さんは、姪にあたる。演出家としてヒューマンドキュメンタリー
中心に活躍している。主な作品に『光に向かって走れ-盲人野球の記録』『新世界紀行-ガンジス大紀行-』などがある。)

■映画にノーマライゼーションを

■現象の入り口

 1983年1月にクランクインした『奈緒ちゃん』は、95年春に完成した。12年の歳月と、100時間以上のフィルムが費やされた作品だ。私が撮影を終え作品としてまとめたのは、てんかんと知的障害を持つ西村奈緒さんが成人を迎えたためで、現在の障害者ドラマのブームとは関係ない。
 テレビドラマの主人公に障害者が使われているのは、ハリウッド映画の『レインマン』や『フォレスト・ガンプ』の影響が大きいと思う。障害者を主人公に据えることは悪い話ではないし、批判も受けにくい。流行に左右されやすい日本のマスメディアが真似したことも理解できる。
 メディアは目先の変わるものを企画として次々と取り上げていく。昨年は戦後50年が取り上げられた。今年は福祉、来年は老人かもしれない。だからといって、障害者ドラマのブームを批判する気にはならない。現象の入り口とみれば、テレビドラマも評価すべきだ。
『奈緒ちゃん』とテレビドラマの制作期間の点から比べる場合もあるが、作品の質と制作期間は関わりはない。またドキュメンタリーが、テレビドラマと比べて清廉潔白と言われることもあるが、それも見当違いだ。ドラマもドキュメンタリーも作品の質によって評価すべきだ。

■劇的な場面ばかりを強調

 障害者を映像で扱うことを考えると、テレビドラマ同様に記録映画や社会派ドラマにも問題があるように思う。いたずらに劇的な場面ばかりを強調しすぎる傾向もあるのではないか。ビックリする映像で、眼を引こうというあざといテクニックだ。初めに撮影する姿が決まっている予定調和のドキュメンタリーも、かなり多く存在する。制作者が決めた筋書き通りに言葉を引き出していくことは、そんなに難しいことではない。
 私が『奈緒ちゃん』撮影する際に、発作の場面を一切撮らないと決めいていた。そして、いわゆる福祉だけを強調せず、奈緒さんと家族を中心に人間関係に重きを置いて作ったのも、記録映画・福祉映画の枠組みを『奈緒ちゃん』で壊したかったからだ。初めに撮りたい画像や概念があり、それに合わせてショッキングな映像を取り入れていくのは、映像に力が出る反面、特定の視聴者にだけ訴える映像になってしまう。
 障害者を扱ったドキュメンタリーが批判されないことも問題だ。障害者を扱うことで、作品は50点の下駄を履かせてもらったようなものだ。特に大新聞は批判しない。批評家は現代社会の問題点が描かれるだけで良しとする。問題点を絞らないために、社会の問題点だけが列挙される映画さえある。結局、仲間内だけ盛り上がることになる。

■美化とマイナス面と

 障害者を映像で表現するために必要なのは何か。1つは人間をしっかりと見ることだ。じっくりコミュニケーションをとることだろう。具体的にはナレーションやインタビューに頼り過ぎず、激しいアクションだけを狙わないことだ。テレビドラマだろうとドキュメンタリー映画だろうと違いはない。理屈や概念から作品を作れば、不自然で質の落ちた作品になってしまう。
 視聴者にプラスカードを引かせることも重要だと私は思う。目を背けたくなる現実だけではなく、共感できる部分を映像で見せることだろう。『奈緒ちゃん』を見終わった観客のアンケートに、「勇気づけられた」「悩みが解消した」との意見が多い。彼らの悩みは、決して奈緒さんとは同じではない。しかし共感が悩みを癒し、勇気を与えるのだろう。このような感想が、私自身を元気づけた。
 そして最も大事なのは、障害者を扱った作品を特別視しないことだ。作品が批判の対象にならなければ、良い作品は生まれない。映像のノーマライゼーションが必要だろう。
 テレビドラマのように障害者を多少美化した演出は、障害者の内情を知っている人にとって不満だろう。障害者を映像で扱うことは難しい。しかし、作品がしっかりと批評されれば、少しでもよい形が出来上がってくるだろう。(談)

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障害者ドラマを徹底批判する!(上)

■月刊『記録』97年3月号掲載記事

■■■「障害者ドラマ」徹底批判!(上)

■■■センセーショナリズムに突き動かされるドラマ

     *    *    *

(■稲増龍夫……1952年4月、東京生まれ。73年に東京大学大学院社会研究科・修士課程修了。著書に『アイドル工学』『フリッパーズ・テレビ-TV文化の近未来』などがある。)
 
■ドラマのタブーを破り続けた

 90年代前半からドラマブームが起こり、バブル期に合わせた恋愛ドラマが数多く作られた。しかしありきたりの男女によって描かれたドラマでは、視聴者が満足せず、視聴率も取れなくなってきたため、レイプやレズなどドラマのタブーを破り続けてきた。その延長線上に、現在の障害者ドラマブームがある。
 障害者ドラマブームの起源について、一般的には『星の金貨』と言われているようだが、私は『ひとつ屋根の下』だと思っている。いくつものタブーを破ってきた野島伸司は、このドラマで障害者を主人公として登場させた。その後、『星の金貨』『愛してると言ってくれ』と続いた聴覚障害者を主人公にしたドラマが手話ブームを巻き起こしたことは有名だ。この障害者ブームに拍車をかけたのが、ハリウッド映画『フォレスト・ガンプ』だった。現在、放送されている『ピュア』『オンリー・ユー 愛されて』が同じように知的障害者を主人公に据えたのも、『フォレスト・ガンプ』がヒットしたからだろう。
 ドラマは本質的にセンセーショナリズムを合わせ持っている。売らんがために、作り手は今までにない設定を考える。もちろん、現実に即したドラマ作りとはいえないが、そうしなければ視聴率は稼げないだろう。作り手に差別意識はないのだろうが、ある種の見せ物的要素がないとはいえないだろう。

■ポジティブなレトリック

 ドラマにおける障害者の扱いを、日本とアメリカで比べた時、作り手の姿勢の違いは更にはっきりする。88年のアカデミー主演男優賞を受賞した『レインマン』のダスティン・ホフマン、昨年のアカデミー主演男優賞を受賞した『フォレスト・ガンプ』のトム・ハンクスは、精神障害者の役をリアリティーを失わずに演じ切った。2人とも個性派俳優だからこそだろう。一方で、日本のテレビドラマの主人公は、『未成年』の香取慎吾、『ピュア』の和久井映見、『オンリー・ユー 愛されて』の大沢たかおなど、カッコイイから、そしてカワイイから許されるポジティブなレトリックが働いている。そのため、ますます現実から離れていってしまう。
 障害者がステレオタイプに描かれているのも、日本のドラマの特徴だ。一方がポジティブな面だけを持つ人格、一方はネガティブな面だけを持つ猟奇的な人格だ。この両極端の人格は、表裏一体だ。実情を知らない作り手と視聴者は、プラスイメージとマイナスイメージに障害者を拡大していった。今後も両極のイメージが強まっていくと危険だろう。障害者に対するイメージが1人歩きしかねない。
 さらに視聴者の立場から障害者の立場から障害者ドラマを分析すると、ある種の優越感とある種の負い目を視聴者が持っていると推測される。障害者に対する無意識の優越感を全く否定することはできない。しかし視聴者の心をより多く捕らえるのは、日常生活で障害者に差別的な態度をとってしまう現実に対する負い目だろう。そのため障害者と対等に接するドラマの登場人物に、視聴者は共感を持つ。しかし、障害者ブームにはプラス面も多い。手話ブームにより、手話を交わすことが以前ほど特別視されなくなったこともあるだろう。障害者がステレオタイプに描かれているとはいえ、視聴者に障害者の存在を知らせることには成功していることを考えると、ドラマは一定の役割を果たしてきたといえる。現在は、送り手も視聴者も障害者のドラマをどう扱っていいのかがわかっていない。その意味で、障害者ドラマは始まったばかりだ。今後は日常生活に密着した部分も、ドラマとして取り上げていくべきだろう。

■■■知的障害者の立場から/障害者への無関心を助長させるドラマ

(■北島行徳……1965年6月東京生まれ。91年4月に障害者プロレス団体「ドッグレッグス」を旗揚げ、代表をつとめる)

■ドラマは後退している

 たとえ障害者が題材でなくても、いま流行っているドラマにリアリティなんかない。だから、「あんなかわいい(カッコイイ)障害者がいるわけない」とか「障害者の置かれている現実はあんなもんじゃない」というのは限りなく不毛に近い。テレビの世界は視聴率が全て。どんな内容であれ1人でも多くの人に見てもらえれば勝ちなのだ。視聴者だってテレビドラマに期待なんかしていない。面白くなければ、すぐにチャンネルを変えればいい。結局、テレビドラマなんてその程度のものなのだ。
 そんなことは百も承知だが、それでも我慢ならないことがある。それは、障害者を題材にするなら、もっと他に作りようがあるだろうという不満だ。昨年から障害者が主人公のドラマがたて続けに放送されている。しかし、障害者は皆、健常者社会の中で普通に生きているように描かれ、主人公以外には障害者がまったく登場しない。そこに障害者を主人公にする必要が感じられない。ハンディを克服し、一生懸命に生きる障害者と周囲の温かい支えを描いた一昔前のテレビドラマも問題だったが、今の描き方その頃より進歩どころか後退しているように思える。

■取材をしない脚本作り

 いまだに多くの健常者は、できれば障害者と関係をもたずに生活したいと思っている。そんな中、自立した障害者が健常者と恋愛をするストーリーは、どんな効果を生み出すのか。私には障害者に対する無関心をさらに増長させるとしか思えない。テレビが視聴率を重視するように、私達ドッグレッグスも基本的には観客動員を重視している。興行に観客が集まらなければ、赤字という実害が出るからだ。しかし、それ以上に、私達はメッセージを観客に伝えたいという強い気持ちを持っている。それこそが、障害者を題材とする意味ではないか。メッセージもないまま、障害者を題材にする作り手は意識が低いと言わざるを得ない。
 聴覚障害者を主人公にしたテレビドラマ『愛していると言ってくれ』を書いた脚本家のインタビュー記事を読んだ。なんでも、この脚本家は自分の感覚を大事にするために、取材をしないで脚本を書くらしい。さらに、聴覚障害者のネタは、テレビで手話のニュースを見て、手の動きの美しさに閃いたのだという。あまりにも安直な発想とお手軽な創作姿勢に驚いてしまった。しかし、こんなミーハー感覚が若い女性層にウケて、結果的には高視聴率を記録。このドラマをきっかけに、ちょっとした手話ブームが起きた。手話の本がベストセラーのランキングに突如として顔を出し、手話講習会には定員の何倍もの参加者が押しかけた。私の周りにもそんな人達がいたが、なぜ手話を習うのかと聞くと大抵「手の動きがきれいだから」という答えが返ってきた。
 だが、発音がきれいだからと言う理由だけで、外国語を習う人はいないだろう。外国人と話すための外国語であるように、手話は聴覚障害者と話すための手段だというのに……。

■プラスだけを積み重ねるドラマ
 知的障害者を主人公にした『ピュア』も同様な制作姿勢だ。トンチンカンな受け答えで知的な遅れを演出しているが、これが『愛していると言ってくれ』の手話にあてはまる。障害者のイメージをある点にだけ集約し、後は外見も内面も健常者と同じ設定で、健常者同士の付き合いのように人間関係を描く。そのため、ドラマ中の困難や波乱は大抵が恋愛のトラブルだ。障害者と付き合うこと自体はマイナスではなくプラスだけを積み重ねていくことのようにドラマは進んでいく。
 しかし、ドッグレッグスの障害者レスラーであるサンボ慎太郎や欲獣マグナム浪貝との付き合いは私にとってマイナスの連続だった。どうでもいい用件で毎日かかってくる電話、悩みごとがあれば人の職場に愚痴をこぼしに現れ、酒を飲んでは暴れ、借金をつくっては貸した相手に私が謝らなければならない。自分の生活を滅茶苦茶にされて、何度、関係を断ち切ろうと思ったことか。しかし、あまりにもマイナスが積み重なってくると、突然これがプラスに変わってしまう。まさに、マイナスとマイナスをかけたらプラスになるように。私は彼等に日常を破壊されたお陰で、新しい価値観や生き方を教わった。障害者プロレスもそんな付き合いの中から生まれたものだし。今では彼らがいなくなったら、なんてつまらない人生になってしまうんだろうとさえ思っている。
 恋愛1つとっても、現実の方がドラマに及ばないほどドラマチックだ。浪貝は、伝言ダイヤルで知り合った心の病を持った
女の子を、その日のうちに母親に紹介し、結婚を迫った。浪貝は純愛を育もうとしたが、彼女は浪貝の体が目当てで、二人は肉欲に溺れていった。デビューしたばかりの障害者レスラー「愛人(ラ・マン)」は、自立ホームで生活していたときに職員だった健常者の女性を口説き、付き合うようになった。それがばれてしまい2人で施設を出て、同棲した。その女性が「愛人」と暮らすことを家族に告げると、父親は「どんな会社でも、どんな学校でもチビでもデブでもいいから健常者にしてくれ」と語った。現在、重度の障害者ある「愛人」の介助は彼女が行い、2人で生活している。
 こんな現実の中にいる私だから、今の障害者が主人公のドラマなんか少しも面白いと思えないのである。

■■■ろうあ者の立場から/TVドラマ発「手話ブーム」は現実を変えなかった

(■大槻芳子……1942年、新潟生まれ。60年に新潟県立新潟ろう学校を卒業。79年財団法人全日本ろうあ連盟評議員を経て、80年より10年間ろうあ者相談員として横浜市役所に勤務する。)

■ロケ地確認の電話殺到

 『星の金貨』(日本テレビ)と『愛してると言ってくれ』(フジテレビ)の2つのドラマで、手話ブームが到来したかのように新聞・雑誌で報じられましたが、実際に手話の本が売れたのは番組が放映された昨年の7~9月の3ヶ月間位で、市販ものは10月に入るとガクンと売り上げが落ちました。また今年に入って手話サークルに加入した人数を確かめてみても、昨年と大きな変化はありません。若干増えている程度ではないでしょうか。一過性の現象だったように思います。この事務所にドラマのロケ地に関する問い合わせが多数かかってくるほどドラマはヒットしたようですが、振り返ってみると現実には大きな変化はありませんでした。
 手話ブームについても、単にドラマの影響だけでなくプラスアルファの要素もあったと思います。第1に、阪神大震災が起こり若い人達のボランティアに対する関心が高まった事。第2に、コンピュータの普及などで間接的なコミュニケーションに埋没していた人々には、直接のコミュニケーション手段である手話が魅力的に見えた事。しかしブームも終わりを告げました。手話が広まるには広まったが、手話を覚えるために勉強するかしないかは本人次第といったところでしょう。

■ろうあ者にわからないストーリー

 実は『星の金貨』のディレクターは、シナリオを持ってこちらの事務所に意見を聞きに来ています。内容について問題はなかったわけではありませんが、放送1回目に耳の聞こえない人からの抗議がテレビ局に殺到したようです。画面に主人公の会話しか字幕がつかなかったことが原因でした。耳の聞こえない人を主人公にしているのに、肝心のろうあ者がドラマを観れないのです。ディレクターが、2回目から全てのせりふ字幕を入れるべく徹夜を続けて働きかけてくれたからよかったものの、、もし彼の努力がなければ2週目から完全な字幕が入ることはなかったでしょう。しかし確かなことは、番組制作者の頭に耳の聞こえない人の存在が入っていなかったことです。主人公に据えていながらです。

■伝わらない手話を番組で

『愛してると言ってくれ』にも、おかしな点がいくつかあります。まず、ろうあ者の周りにいる人が優しすぎました。ドラマだから当たり前なのでしょうが、あれだけよい人が多ければ苦労はないでしょう。
 さらに豊川悦司が一切口を開かないことは不自然です。普通、手話での会話は、音を発しなくとも口は動かします。手の動きだけではコミュニケーションが取れません。まして豊川悦司の設定は、10歳で耳が聞こえなくなったことになっています。私も6歳で耳が聞こえなくなりましたが、ゆっくり話せば発音にあまり問題はありません。演出上、口を動かさなかったのでしょう。それは最後に豊川悦司が一言話すのを強調しました。
 もう1つ気に掛かったのは、手の動きの少なさです。あんなに少ない手の動きでは、意志を伝えられません。手話はもっと生々しいコミュニケーション手段です。演出上、手の動きをわざと少なくしたのでしょうか?
 さらに手話ブームを追って取材をかけてきた新聞・雑誌にも驚かされました。「手話ブームをどう思うのか」「手話の本の売れ行きはどうなのか」といった質問を、手話サークルの人達にもしていました。手話サークルに通っている人は、耳の聞こえる人です。手話ブームについて本当に語れるのは、実際に耳の聞こえない人でしょう。取材する人も、ろうあ者についての知識を持たぬまま取材に来ています。これも問題ではないでしょうか。

■手話通訳士たった700人の現実

 私達が発行している『わたしたちの手話』は、初版が1969年です。厚生省へ手話通訳養成の働きかけを始めたのは、40年以上も前の話です。今から30年ほど前は、路上で手話を話すことも大変勇気のいることでしたが、耳の聞こえない人自身が、手話サークルを作り手話を広めていきました。全日本ろうあ連盟は、自治体に対する運動として各地で活動し、時々にイベントを開催し手話の普及活動に力を入れてきました。そのような積み重ねで、ここ10年は外で手話を交わすことも自然にできるようになったのです。
 しかし手話通訳士の人口はまだまだ足りません。4千人必要だと言われている手話通訳士が、現在700人。さらに手話通訳士に必要とされるのは、技術だけではありません。手話通訳士が音声に変換した言葉は、耳の聞こえない人にはチェックできないため、ろうあ者そのものについても学び、信頼関係を築かなければいけないのです。好奇心・やる気・熱意の3拍子揃わなければ、なかなか手話通訳士になれないのが実情です。
 最初はトヨエツさんに憧れて手話を始めてもいい。学び続ける熱意を持ってほしい。
 ブームが終わったからといって私達の活動が変わるわけではありません。問題は山積みしています。聾学校では現在でも手話がのぞかれ、声を出して話をし、唇を読んで会話をするように教育されています。文字放送も全国で受信できるわけではありません。私達全日本ろうあ連盟は、このような問題のあふれた現実の変革を求め、完全参加と平等の現実に努力しているのです。(■「下」につづく)

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鎌田慧の現代を斬る/「インディペンデンス」国家の不思議

■月刊「記録」1997年10月号掲載記事
 (表記は掲載当時のままです)

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■戦時体制そのものだ

 政府の動きをみると、まるで戦時体制を準備しているかのようだ。いやむしろ戦時体制そのものといえる。米海軍の航空母艦インディペンデンスの小樽寄港に三六万人も集まった風景はおぞましい、
 たとえば九月二日、米軍用地強制使用の手続きを基本的に国の執行事務とする第三次勧告を、地方分権推進委員会(諸井虔委員長)は橋本龍太郎首相に提出した。これはことしの四月におこなわれた沖縄特別法(駐留軍用地特別措置法)の改悪を、さらに改悪しようとするものである。地方分権推進委員会は、地方分権あるいは地方主権を進めるためのものなのに、このように中央集権を進めているのにはあいた口がふさがらない。
 現在、米軍用地強制使用にかんして知事・市町村長などが四件の事務を委任されている。その四件のうち三件を国の事務としたうえに、新たな用地の強制使用にかんして最終的な裁決権を首相にあたえるなど、今度の改悪は強権国会につながるものだ。自民党沖縄県連の会長でさえ、「国がそこまでやってはいけない」と朝日新聞紙上でコメントを発表しているほどだ。
 米軍用地のために地主の土地を取りあげる行為は、沖縄県においてのみおこなわれている。この行為自体、沖縄県民の主権を著しく踏みにじるものである。にもかかわらず、かろうじて残された知事の権限さえ剥奪しようとは、驚くべき答申案だ。しかも強制使用される土地は、県民の望まない軍事目的に供されるのである。
 沖縄県民は「小指の痛みを知らない」と政府を批判してきたが、今度の答申における政府の態度は「小指を潰しても知らない」といったものだ。これまでも太田昌秀知事は沖縄の声を国に伝え続けてきたが、現在にいたるまで国はいっさい聞く耳を持たなかった。「基地問題に抵抗する沖縄にとどめを刺す内容。特別立法と何が違うのか」(九月三日・朝日新聞朝刊)という県民の憤りに、本土の人間も耳を傾ける必要がある。
 危険なのはこれだけではない。戦後民主改革の根幹を破壊しようとする動きが、最近の政治に目立つ。
 たとえば独占禁止法の改悪だ。欧米の巨大企業と対抗できる複合企業型の体質への変化が、大競争時代を迎える日本企業にとっては有益だと、一部マスコミは書いている。しかし大企業に経済力が集中すれば、自ずから中小企業の競争力は衰える。「国益」とは、寡占状態をつくる大企業の論理、それが戦争をもたらしてきた。
 労働基準法の改悪も問題だ。六月一一日、女子保護規定が撤廃された。これによって女性の休日労働・深夜業は、男性と同様に認められることになる。一見、男女差別をなくしたかにみえるこの改訂。しかし総務庁が同月の七日発表した労働力特別調査によれば、ここ一年間で一二〇万人増えた雇用者のうち九割が非正社員で、その三分の二が女性であるという。不安定な雇用形態を容認しながら労働基準をゆるめれば、どうなるかは明らかだ。女性の深夜労働を解禁することにより低賃金の労働力を長時間確保し、経営を強化しようする企業の論理に従ったのが、今回の改悪なのである。
 農業の自由化促進も弱いものいじめだ。政府の都合のいいように振り回された米作り小農家は、自由化によって潰されようとしている。いったい今までの減反や転作の行政指導はなんだったのか。一貫性のない政府の都合だけで生活基盤をいじくり回される小農家の悲劇は、政策の転換という言葉では癒されない。

■行革は公務のコンビニ化

 そして、とどめが行政改革である。
 明治以来の大改革と呼ばれ、いかにも税金の無駄遣いをなくすということで宣伝されている行革。しかし人間にたいするサービスを安定させることに主眼が置かれるべき公的部門に、資本の論理を導入しようとしているのが、今回の行革におけるもうひとつの側面である。独立行政法人の設立や民営化の推進は、諸手を挙げて歓迎すべきことではない。
 資本の論理に徹すればどうなるのかは、コンビニエンスストアをみればわかるだろう。狭い店舗を最大限利用するために選ばれた商品群。売り上げが悪い商品を即座に見つけだすポス・システム。便利という名のもとで違和感を持たれない定価での販売。正社員を必要としない営業形態。無駄のはぶかれたコンビニは、たしかに利益を生み出している。しかし一方で近隣の商店街が疲弊と倒産をもたらした。大量生産・大量消費、画一化した商品を特徴とするコンビニは、けっして文化を豊かにしない。資本の論理が行き着く先は、大都会の荒涼たる風景である。
 さらに法務の分野でも、見過ごせない事態があいついでいる。
 神戸で一四歳の少年が引き起こしたを殺人事件を契機に、少年法の改悪が画策されている。犯罪を犯した少年を更生させる趣旨の少年法を、刑罰強化を押し出した報復主義的な法律に変えるのは強権政治の前ぶれだ。そのうえ神戸の事件のどさくさに紛れて、永山則夫被告および三人の死刑囚が一挙に処刑された。たしかに永山被告は犯行当時一九歳であり、一八歳までは死刑にしないという少年法にはひっかからない。しかし二十歳未満で、無期懲役に減刑される判決をえた者を、検察は無理やりみせしめ的に死刑台に送るべきものではなかった。

■侵略の発端は邦人救出

 軍事的にも大きな問題があった。
 邦人救出という名目で、なんの必然性もないのに自衛隊の軍用機を橋本首相はカンボジアに出発させたのだ。これは露払いというものである。とにかくいまのうちに既成事実をつくっておこうという火事場泥棒さながらのやり口である。「邦人救出」が戦争の発端となった事実は、日中戦争の歴史をみても明らかだ。過去の東南アジアへの侵略は、先に日本企業が進出し、そのあと軍隊が救援名目で駐留するいう形でおこなわれてきた。当時から「邦人救援」とは、外国における大企業の利権確保でしかなかったのである。
 ともするとカンボジアでの「救出」は、自衛隊によって観光客の命が守られるような錯覚をおこすが、軍隊が民間人を守ることは幻想でしかない。敗戦直後の満州における日本軍の行動をみるがいい。このとき関東軍は、軍隊の防波堤として開拓農民を配置した。さらに敗戦が近くなると開拓民をおいて一目散に逃げてきたのである。沖縄でもひどかった。スパイの名目で沖縄人を殺害したり、足手まといになる住民を集団自決に追いやった例は、枚挙にいとまがない。住民を守るのではなく、むしろ住民を犠牲にして延命を図るのが、軍隊の本質なのである。
 このような日本の軍事拡張路線に、米軍のやりたい放題の行動が加わる。新聞報道によれば、日本の三一にものぼる民間の港湾において、港の水深から周辺の飲食店街の様子まで軍事目的で米軍は調査していたという。これは米軍が、有事に民間施設を巻き込もうとしている証拠である。このような危険な事態を前にして、日本の政治家が国際関係をどのように考えているのかといえば、これまた目を覆いたくなるほどの惨状だ。梶山静六官房長官が「周辺有事には台湾海峡も含まれる」などと発言して、中国から反発かっているのも記憶に新しい。国際情勢に疎い日本の政治家にとっては、アメリカのいいなりしか選択肢はないようだ。
 最近の政治におけるどう猛さは、戦前への回帰と見える。しかし、このような動きに反対する声は非常に弱い。これはかつて野党第一党であった社会党が、完全に自民党に屈服し、延命を図ろうとしていることと無縁ではない。彼らの無思想・無節操ぶりをみるにつけ、かつて彼らを支持していた層をこれほど足蹴にして天罰が当たらないのかと不思議に思うほどだ。まあ、社会党の議員がどうなっても知ったことではないが、政府をチェックし規制できる勢力を持っていない大政翼賛会の現状には、国民の自業自得とはいえ不安である。
 さて、このような状況をおおい隠すかのように、マスコミを賑わしていたのがダイアナ事件である。ダイアナの死亡を契機にイギリスの王室の不備への批判が強まり、それは皇室へも波及しそうだ。しかしこの事件契機にイギリスでプライバシー法の導入が検討されているのは、さらに驚嘆すべきことである。イギリスといえば、いちおう日本よりは民主主義的にかなり成熟した国である。その国でマスコミを規制する動きがでるとは、予想もしなかった。今後、それでなくとも規制しがたり屋の日本政府に、なんらかの影響をあたえないか心配である。 神戸の事件後、『フォーカス』による容疑者の写真掲載が問題となったが、さらに問題だったのは法務省が再発防止の勧告を出したことだ。これは政府の過剰反応だった。たしかに日本の週刊誌やワイドショーは、プライバシー暴露の悪習慣があるが、かといってそれを法的に規制するなど認められるべきものではない。マスコミ内での自主的な判断によって、問題は解決すべきである。その基準は、なんのために記事を書くということである。カネのためならなんでも書くという姿勢は、ジャーナリズムの正道ではない。たとえスキャンダル・ジャーナリズムでも、一定の基準はあるはずである。
 フェデリコ・フェリーニ監督の『甘い生活』では、マルチェロ・マストロヤンニが扮する記者と、相棒のカメラマンであるパパラッチが、ローマの街をスクーターに乗って駆け回るのが印象的であった。しかし「甘い生活」という題名からもわかるとおり、この二人は極めて自己否定的な「甘い生活」をおくっている。それはラストシーンのマストロヤンニの困惑した表情に如実にあらわれていた。スキャンダル・ジャーナリストの記者にある内心の困惑が、映画を通して伝わってきたのである。おなじようなテーマは、ウィリアム・ワイラー監督の『ローマの休日』が取りあげている。この映画は、グレゴリーペック扮する新聞記者が某国の王妃に出会うおとぎ話だが、それでも王妃の写真を撮ることに対する記者のためらいは重要なテーマのひとつになっていた。現代のパパラッチたちにも、そういった報道にたいする苦悩がないはずはない。

■責任は新聞社にある

 今回の事故では、大破した車で苦しむダイアナを撮影していたカメラマンがなん人もおり、日本円にして一億以上で売りつけたという話も伝わってきている。これではパパラッチに対する批判が一斉に吹き出すのもいたしかたない。しかし問題の本質は、これまでダイアナのスキャンダルを数千万円で買ってきた新聞社にある。新聞社が金儲けのためだけにカメラマンを利用した結果なのである。カメラマンたちを使っている新聞経営者の責任が追及されることなく、哀れなフリーカメラマンに全責任を押しつけて済まそうとするのは、本末転倒だ。さらに、そのような情報を貪るように読んでいる読者も、数千万円スキャンダルを支えている共同の責任者なのである。カネのためだけに紙面を作る新聞・雑誌社、他人を不幸にしてまでもカネを稼ごうとする記者とカメラマン。今回の事件は、現在のマスコミの堕落を典型的に物語っている。
 マスコミに代表される人の事を斟酌しない現代の風潮は、資本主義が末期的な状態になってきたことを示している。職場や学校におけるいじめの続発は、このような風潮と関連している。「人間はどのように生きるべきか」を考えることなく生活している大人が現代の荒廃を招き、さらに次世代の足元を崩しているのである。(■談)

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鎌田慧の現代を斬る/いじめを支える学校と地域社会

■月刊「記録」1997年4月号掲載記事
 (表記は掲載当時のままです)

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■愚劣な学校

 続発するいじめ事件への学校側や教育委員会の対応は、ハンで押したように同じで、まったく変わっていない。これは驚くべきことである。それどころか、いじめ自殺が増えることにより、最近では学校側がさほどショックを感じていないようにもみえる。慣れが始まり、いじめ自殺についての対応がパターン化する異常が、日常となっているようだ。何ら解決に至っていないのである。このことに私は大きな危惧を感じている。
 最近では、長野県須坂市に住む中学1年生の前島優作君が自殺した。事件は、今年1月7日に起こり、当初は本人の名前が伏せられていた。しかし学校側の対応が悪いために、家族が息子の実名と遺書のメモを公開するにいたった。
 この事件も、過去の事件とまったく同じパターンである。中学校や小学校でいじめ自殺が明らかになると、学校側はたちどころに「いじめはなかった」と発表する。それに対し家族側は調査を依頼するのだが、学校側は常にいじめはなかったと発表し、自己防衛のみに奔走する。結局、このような学校側の対応に不満を抱いた遺族は、いじめられたことを示す遺書を公開することになる。こうなると学校側もいじめの事実そのものは認めざるを得なくなるが、今度はいじめには気づかなかったと、ひたすら責任を回避しようとするのである。
 私は『せめてあのとき一言でも』(草思社)で、いじめ自殺で子どもを亡くした遺族の聞き取りを行ったが、学校側と遺族の間で、嫌になるほど同じような対応が繰り返されている。
 この長野県須坂市の場合も、事故調査報告書を作ったのは事件後の10日も経ってからであり、対応は著しく遅れていた。この点だけ取り上げてみても、学校側が誠意ある対応をしたとは、とても思えない。
 遺族が学校側に、いじめの問題を調査してほしいと要請するのは、たんに学校側と争いたいためではない。わが子が死に至るまで、学校でどのような生活をしていたのか知りたい一心である。自分の子どもがどうして自殺しなければならなかったのか、親自身が知らなければ気持ちが落ち着かないからだ。
 そもそも、親にとって、子どもに先立たれるほど不幸なことはない。どんな親でも、子どもよりは先に死にたいと思っているはずである。その順番が逆になるだけでも不幸なのに、死が自殺ともなれば、親は自分の力が及ばなかった無力感を抱くことになる。それだけに親が子どもの最後の姿を知りたいと思うのは当然である。そういった親の願いに対し、学校や教育委員会がまったく人間的に対応していない事実は、学校や教育委員会が愚劣な行政機関となって、人間の心を失っていることをあらわしている。
 いまや学校および教育委員会は、完全なる行政機関になったというほかはない。学校はすでに「学ぶ場」というよりも「教えられる場」という形態になり、さまざまな強制力が子どもに向けられている。強制力を強めることによって、教師と生徒の関係も変わった。子どもたちが学びながら自分を高め、教師は子どもとのふれあいを通して人間としての仕事をまっとうするという両者の関係が剥奪されてしまったのだ。その一方で、国は教育のすべてを取り仕切るという強い意志をあらわしている。文部省や自民党などが強要する日の丸・君が代の実行は、そのサイたるものだ。

■いじめの地域的拡大

 問題はそれだけではない。『せめてあのとき一言でも』でもふれたことだが、いじめ自殺など学校内で事件が発生すると、奇妙なことに被害者の立場にある遺族が地域から孤立させられ、いじめられることが多い。最近では、都会の東久留米市(東京)という都会でも発生していた。
 この事件は、教師から体罰を受けた東京女子中学生が、東京都や市を訴えた事件である。昨年9月、被害者の家族は勝訴したが、一部の父母達が全校保護者会をひらき、なんと体罰で訴えられた教師を養護する署名運動を始めたものである。そればかりか、この遺族のもとには「バカ家族」「市民をなめるな」「おまえの娘は不良だ」などの匿名のいやがらせ電話が殺到したり、注文もしないのにすしや肉が届けられたという。
 また、96年1月23日にいじめを苦に自殺した福岡県の大沢秀猛君の場合も、初七日にPTA総会が開かれ、家族がまったく孤立化させられた。このときは、公然と教師の体罰をもとめる父母の声があった、という。
 このような地域ぐるみの嫌がらせは、いじめ自殺したほうが悪いと主張する価値観と、まったく同じである。学校を批判する者に対して攻撃なのだ。これらのことは、学校がいじめ自殺の加害者であることの証拠でもある。いじめ自殺の遺族が地域から孤立させられ、批判されるのは、弱い者や異端者を排除していくいじめの構造の地域的な拡大といえる。
 地域住民は、いじめ事件にかかわると受験勉強が遅れるというような、きわめて狭いエゴイズムに貫かれている。これは、いじめられて死んだ子どもなんかにかまっていられないという、どう猛な強者の論理が働いているのであり、弱い者は踏みつけ、強い者だけがのし上がっていこうとする現在の日本を象徴的にあらわしている。
■一人歩きするスローガン

 学校が決してホンネを語らないタテマエ社会であると、私はかねてから強く指摘してきた。たとえば福岡県筑紫郡珂川町の小学校で発生した事件などは、その典型だ。
 この事件は、普通学級に通う知的障害児が、同級生からトイレ掃除用のブラシなどをなめさせられていた、というものだ。いじめていた子ども達は、「先生は人間平等というが、障害児だけ特別扱いして自分だけしかる。同じにしてほしい」という不満を持っていたという。
 障害者を普通学級に入れる行為は現在の教育状況ではきわめて進んだ方法である。がしかし、教師の指導がまったくタテマエ的であったことがうかがえる。小学生たちに、ごく自然に障害者をささえるような教育がいきわたらず、教師が障害者をただ保護する姿勢に不満が表れたのだと思う。障害者の障害をきちんと説明し、それでなおかつ健常者と障害者がともに学んでいくことの意味を、教師や学校がどれだけ子ども達と話し合っていたかが問われている。ところが実際には、部落差別をなくそうと教える教師が、子どもと向かい合っている現場では、学歴社会に応じた差別的な教育をしていたりする。
 差別やいじめは、学校やクラスそのものの体質を変えていかなくては解決していかないのに、スローガンだけが先行している。
 たとえば、親や教師は子どもに対して「みんなと仲良くしろ」というのであるが、これはきわめて空疎なスローガンである。人間がみんなと仲良くできることなどありえない。みんなと仲良くしろという教えは、みんなと仲良くできないものにもストレスをあたえる。
 大人自身も、仲良くしている友人はごく少数でしかないのだ。しかし、子どもには「みんなと仲良くしろ」と強制する。やはり「ちがう人の意見を聞きなさい」とか、「友達は少数でもよいが仲間をいじめるな」というように、ごく自然の人間関係を教えるべきであろう。
 いじめにかんしても同じことがいえる。学校でいじめはあってはならないというスローガンがまかり通っているために、いじめの発生を見たがらない傾向を生み出している。いじめがあってはならないということは、いじめがあっても、いじめとして認めないという行為につながる。しかし、現実にいじめはどこにでもあるのだから、それを認めて、少しでも早く発見し、解決するように発想を転換すべきである。
 本来、人間の心とかかわりあうはずの教育は、ドグマ化した「教育的スローガン」によって崩壊してしまった。教育が人間社会とかけ離れた怪物となって一人歩きしている。このような事態をつくりだしてきた責任は文部省に大きいが、それに迎合してきた現場の責任者(教育長、校長など)にもある。

■いじめをつくる教育方針

 学校は「みんな」というのが多すぎる社会である。みんなとおなじ、という教えが強いために、少しでもそこから外れたものがいじめられる。
 たとえば、「一致団結」や「みんなと仲良く」というスローガン、さらに同じ制服・頭髪・登校用のヘルメットなど、子どもたちの世界を一色に塗りつぶしてきたのは、学校や教育委員会の責任である。ちがいを排除し、管理や権力に迎合することを強制してきた。
 いじめとは強い者が弱い者に向ける排除であり、弱い者が強い者にみせる迎合である。それは価値観を同じにするという教育方針が、土俵となっている。
 いじめられた家族が、地域でいかに孤立していたについては、先にもふれた福岡県に住む大沢秀猛君の父親・大沢秀明さんが、裁判所の意見陳述でこう述べている。 「私のところは、秀猛の3人の兄も含めて従業員25人の自営業でした。原因究明をしない学校の態度が悔しくて、私が学校にかかりきりになり、ほとんど工場に行かないので、早く工場に来てくれと悲鳴をあげていました。秀猛のことを思うと仕事が手につかない日が何ヶ月も続きました。そのため、秀猛が自殺して6ヶ月後に会社は倒産しました。
 地域では、事件直後から『生徒を警察に売るな』との声が教育関係者を中心に根強くありました。その背景には、発覚ずみの加害生徒は速やかに警察に渡し、他の生徒を無関係とすることで、本件『いじめ』を加審生徒と私共との家庭問題にすり替えて、学校の立場を保つというという考えがあります。その結果、今、城島中学校の地区では、家庭の問題で死んだのに、学校の責任にすり替えているという噂がまかり通っています。
 私は、秀猛がどんな学校生活を送っていたのか、何が死へと追いつめたのか、真実を知りたくてこの裁判を起こしました。学校に、臭いモノにフタ式の秘密主義を改め、秀猛がどんないじめを受けていたのか、すべてを明らかにして欲しいと思います。そして、そうすることが、学校からいじめをなくす第一歩だと思うのです」。
 大沢さんが言うように、学校は「臭いものにはフタ式の秘密主義」におちいっている、かねてから「教室の密室化」は指摘されていたが、状況はさらに悪化している。「学校は神聖なものである」というイメージに縛られ、一般社会とのちがいが極度に強調されてきた。それでいながら、企業社会の価値観に合わせられてきたのは大きな矛盾である。
 いま必要なのは「学校はなんでもない」という価値観だ。価値観の転換により、学校でのできごとがすべてあきらかにされ、学校側が保護者とともに率直に語り合い、学校は子どもたちのためにある、ということを確認してこそ、学校本来の道が開けてくる。
 そのためには、学校教育のどん底でうめいている大沢さんのような人たちの悲痛な訴えに耳を傾け、それに寄り添うかたちで学校を再生するしかない。
 いじめの暴力にたいして、学校の壁はますます厚くなり、むしろ父母にむかって敵対するようなかたちとなっている。本当に子どものための教育を目指すのなら、その壁をどう開いていくのかが、いま問われている。 (■談)

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鎌田慧の現代を斬る/政官業総腐敗の先にあるもの

■月刊「記録」1997年3月号掲載記事
 (表記は掲載当時のままです)

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■日本システム崩壊

 日本は、末期的な症状を呈してきた。
 ロシアのタンカーが座礁し、日本海沿岸が重油漬けになったのにもかかわらず、政府が無策だったのは、軍備しかアタマになかったからだ。漁民やボランティアなど個々人の努力によってどうにか後始末は進んでいるものの、船腹は依然として海底に眠り、問題はこれからである。
 タンカーの事故は外からの影響によるものだが、日本の内側でも混乱は続いている。たとえば日本的生産システムとして喧伝されていたトヨタ生産方式(かんばん方式)が破綻するという事件が発生した。かんばん方式とは、米国から入ってきたジャスト・イン・タイムを日本的に徹底させたもので、下請けを支配し、下請けに生産を依存するものだ。欲しいものを、欲しい時間に、欲しい量だけ親会社に納入させるシステムで、下請けに犠牲を押しつけていたこの方法は、2月上旬のアイシン精機刈谷工場の火災によって、親会社のトヨタの工場を3日間の生産停止に追い込んだ。行きすぎた管理主義のツケである。
 さらにクレジット業界の信用情報会社「シー・アイ・シー」の個人情報が流失していたという事件が最近発覚した。これは集中化した個人情報が外部に流出するというプライバシー保護上での大問題である。これまでにも小さい規模の事件はおなじ産業で頻発していたが、この事件は1億4千万件もの個人情報を握っている会社の不祥事であり、情報の集中管理の恐怖を新たにしめした事件であった。
 環境問題・生産システム・情報の集中管理などの破綻があいつぐなか、日本の経済基盤の弱さも円安の深化によって露呈した。
 いままで「日本は優秀だ」などという慢心の中心的存在だった日本式システムが、いっきょに瓦解している。さらに農村の疲弊と、食料の外部依存、空洞化と失業の増大いう状況を加えると、日本の混乱は極みにたっしたと思える。

■4億5千万でお釣り

 政治家および官庁への強い不信感もまた、傲慢な日本的方式の破局をあらわしている。たとえば新進党の友部達夫議員のスキャンダルは、日本の政治構造を極端にマンガ的に表現した。カネで議席を買うという傾向については、べつに友部に始まったことではない。ただし友部の場合は、選挙民から直接選ばれたのではなく比例区で当選している。これまでの政治家と違うところは、この点だ。この欄でも前に批判した歪んだ選挙制度が、友部のようなピエロを浮かび上がらせた。
 なぜ得体の知れない友部が、新進党の比例代表区の13番目になったのかは、まだ解明されていないが、カネによって議席を買ったことはほぼ間違いない。友部がオレンジ共済で集めた資金は93億円にものぼり、6億円を政治工作資金として使ったこともあきらかになっている。このカネによって比例代表区13位の地位を買ったのは否めない事実である。
 当時、日本新党枠の責任者であった細川護煕は、友部について「私達とは住む世界が違う人と思った」と記者団に語っている。さらには「政治家として務まるかと思っていた」とも語っているのだ。にもかかわらず昨年の9月下旬に、彼は友部の次男にあたる共済組合専務理事・友部百男と、ステーキハウスで食事し、1本数十万円のロマネコンティをガブガブ飲んでいたという。
 住む世界が違う人間であり、政治家として務まらないと細川が思った人間を、新進党の最高責任者である小沢一郎などが政治家にした。これほど無責任な話はない。新進党の候補決定のプロセスについては、これからの捜査を待つしかないが、細川の側近であった初村健一郎元代議士が、94年夏に友部と出会い、95年の参議院選挙前には新進党の選対の幹部に友部を引き合わせていたことは、あきらかになっている。そのときにオレンジ共済から、1億円が手渡されたともいわれている。そのうえ、初村は細川に3000万円を渡したと報じられている。 カネで買った議席で、友部がもとを取ろうとしないわけはない。彼が集めた93億円にものぼる巨大な金額のうち、63億円は当選後に集められている。つまり議員バッチが集金の道具になったのだ。4億5千万円の政界工作費を使ったにしても十分にお釣りがくる買収だったことがよくわかる。
 このように議員バッチによって集められたカネは、都内の高級マンション、フェラーリやベンツなどの10台もの高級外車、さらには小鳥を放し飼いにするためのマンションの改造費や高級熱帯魚の購入費、そして妻のリムジンの代金やアイルトン・セナが実際に乗ったF1カーの買収など、これでもかこれでもかというほど浪費された。これほどの浪費が許されたことも、いままで日本社会で議員バッチがどれほどの効力を発揮してきたかの証明にもなる。
 友部はこれまで何度も選挙に立候補し、泡沫候補として落選してきた人間であって、なんら政治的な見識もない人間だった。それがどうして当選間違いなしの比例代表13位になったかが解明されなければ、本当の政界の浄化はありえない。友部のケースは、あまりにもやり方がズサンで失敗したからこそ、いま批判対象となっている。しかし、巧妙なやり方で議席の買収に成功すれば、けっして詐欺師といわれることはない。詐欺師は失敗したからこそ詐欺師であって、成功すれば立派な実業家であり、立派な政治家になれるということを、友部のケースは逆説的に証明した。

■危険を知っていた政府

 友部への疑惑は、これだけにとどまらない。95年春ごろ、彼は「21世紀青少年育英事業団」の設立をもくろんでいた。この財団では、日本留学を希望する東南アジアの青少年に奨学金を与えるための事業が行われる計画だったという。その趣意書には、鳩山邦夫元文相、小沢辰男元厚相の名前が使われていた。もちろん問題の初村も名前を連ねている。鳩山や小沢は勝手に名前を使われていたといっているが、オレンジ共済幹部からは「了承は得たはず。勝手に名前を使ったわけではない」といったコメントが出されている。
 まだ無断で名前を使われた人達が告訴したというニュースに接していない。勝手に名前を使われたというかたちで、事件がうやむやになる危険性を含んでいる。はたして友部が勝手に使ったのかは、これからどうしても究明する必要がある。
 また、この事件に付随して、95年夏ごろ初村から小沢へ現金100万円が渡ったということも事実も報じられている。初村はこの現金について、「財団設立のさいにお世話になったから」と語っているが、このカネが初村個人のものと考えるのは難しい。しかも、この事業団の設立にからんで、95年4月に初村から政治団体関係者に3500万円の政界工作資金が渡ったと、いわれているのだ。21世紀青少年育英事業団は、岡光元厚生事務次官が老人をくいものにしたように、東南アジアの留学生をくいものしようとしたシステムそのものといえる。「老人」や「留学生」など、弱いものを喰いものにするのは、許せない。
 さらに問題なのは、財団法人の設立にさいして行われた「スーパー定期記念セール」について、文部省は出資法違反の疑いがあると判断し、申請手続きを凍結していた事実である。これは一昨年のことであったから、政府機関が当時からオレンジ共済組合に疑問をていしていたことの証明である。
 出資法違反の疑いのある人間が、新進党の候補に公認され、公認ばかりか自動的に当選する順位に上げられたというのだから、友部ばかりを詐欺師呼ばわりするわけにはいかない。小沢や細川など新進党の幹部も、国民を愚弄するのに一役買っていた。カネで議席を買うのは、保守党の常套手段だった。

■庶民の金が政治家に吸い上げられる

 おなじ詐欺師でも、山本一郎は経済革命倶楽部(KKC)などというふざけた名前でカネを集めていた。この団体の会長である山本は詐欺容疑ですでに逮捕されたが、これまた日本政府の怠惰を象徴する事件だ。
 この事件は会員1万2千人から352億円ものカネを集め、無駄に投資して破綻したというものだが、忘れられないのは一般市民が高配当につられたことだ。銀行や郵便貯金の利率は、銀行の救済のため低金利に抑制されいる。年金生活者や退職金で暮らしている人達が、老後の不安を取り去るために高金利に飛びついたのもうなずける。この事件は、こういう詐欺師を横行させた政治の貧困を物語っているのだ。現代の日本は、友部や山本や彩福祉グループの小山のような詐欺師が、政治家や官僚を利用して市民の金を吸い上げ、そのカネがまた政治家や官僚にバックされるというおぞましい構造になっている。結局泣くのは、庶民なのだ。
 オレンジ共済組合と同じように重要な問題を含んでいるのは、三井・三菱などの財閥を巻き込んだ泉井純一の所得税法違反事件である。泉井は、三菱石油などから手数料の名目で60億円以上もの裏金を集め、それを政界官界に配ったとされている。泉井は自民党副総裁や外相を務めた渡辺美智雄と親しかったうえに、三塚博、加藤紘一、小泉純一郎といった自民党幹部の名前が彼との関係を取り上げられている。
 最近収賄の疑いで逮捕された元運輸事務次官の服部経治(関西国際空港前社長)は、泉井から現金や高額商品を受け取っていた。もちろん官界の実力者・服部が、政界とかかわりがないはずはない。彼が運輸省の政務次官に就任するにあたって、同じ岡山県出身の橋本龍太郎が運輸大臣のときに強く後押ししたと伝えられている。橋本は厚生族であって岡光との関係も深かったが、空港を取り仕切る運輸大臣としても、しっかり利権を確保したのだ。今後、泉井の捜査が進むなかで橋本の問題もとうぜん解明すべきである。
 与党の自民党が泉井問題を抱え、新進党はオレンジ共済問題を抱え、所詮はおなじ穴のムジナだ。二大政党論とか保保連合などといっても、汚職連合、汚職二大政党には間違いなく、これらの腐敗した政治家が、日本の未来を語っているほどバカらしいものはない。

■忍び寄る危険

 このような混乱に、国民は呆れ、そして危機感を抱いている。しかし、その危機感をちゃっかり利用しようとする手合いもいるから要注意だ。最近、国家の強化や英雄主義、愛国心を訴えるグループのキャンペーンが強まっている。右翼の宣伝カーは「国に誇りを持て」と声高に叫び、国を批判する者は非国民あつかいにされかねない。権力者の混乱が浄化につながるのではなく、それを利用して国家主義を広めようとしていることに強い危機感をもたなければいけない。
 従軍慰安婦問題を突破口にして、右派および右翼の言論グループが従軍慰安婦の事実の否定ばかりか、かつての日本軍部を批判する者への攻撃を強めている。
 この混乱期を反動のほうに追いやるか、あるいは転形期ととらえて前に進むようにするのかは、ひとえに世論の形成のしかたにあり、世論の形成は個人の無関心からの脱却と行動にかかっている。(■談)

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鎌田慧の現代を斬る/ペルー人質事件で報道の自由を憂う

■月刊「記録」1997年2月号掲載記事(表記は掲載当時のままです)

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■報道規制は正しいか?

 ペルーの日本大使公邸占領事件は本稿執筆段階(1月17日)でまだ解決していないので、発言は難しい。けれども報道をめぐる問題については、重要なので考えてみたい。
 今回、共同通信記者とテレビ朝日系の記者がゲリラが占拠していて、政府が「立ち入り禁止」にしていた日本大使館公邸内に入った問題についてまず感じたことは、この事件にたいする対応によって、日本のジャーナリズムが、ますます報道規制を受け入れやすくなるのではないかという不安だ。というのも、新聞社やテレビ局の記者は「企業内記者」であり、記者本人の判断ではなく社員として命令系統にたいする服務義務が彼らの重要な柱になっている。読者の知る権利よりも、上層部の意向、それが強まらないかどうか疑問だ。
 この事件に対するさまざまな反応をみていると、現場にいる個人の記者が独自に判断しにくくなるような傾向が現れていた。取材はあくまでも取材者の判断と責任においてなされるはずだが、会社側の決定によって、政府に謝罪したり、チェックされたりすることが、これから増えるのではないかと心配している。
 たとえば、朝日新聞(1月11日夕刊)には、つぎのような記事が掲載されている。

 -ペルーのパンドルフィ首相は10日夕(日本時間11日朝)、リマの大統領府で内外報道陣と会見し、日本大使公邸に入って国家警察テロ対策本部に拘束されたテレビ朝日系・広島ホームテレビの人見剛史記者(26)とペルー人通訳の行動について、テレビ朝日側が「残念で不適切な行動だった」として事実上の謝罪をしたことを明らかにした。2人の身柄は「数時間以内に釈放されるだろう」と述べた。
 テレビ朝日側と話し合った結果、テレビ朝日側は(1)自主的に記者を交代させる(2)取材陣に不適切な行動をとらないよう注意する、という2点で合意。没収した取材テープ2本について、パンドルフィ首相は「政府に没収する権利がある」としながらも、テレビ朝日側や内外の報道機関からの要請もあって、「特例」として東京の本社に直接返還する、と述べた。-

 その前日には、三塚博蔵相(首相臨時代理)が、「記者を帰国したら事情を聴く」などとバカげた発言をしている。どんな権利があるというのだ。越権行為そのものである。
 この問題の背景には、ペルーの政治情勢が絡んでいる。当然のことながらゲリラの発生には、フジモリ政権が行ったゲリラへの強圧政策にたいする反発がある。このようなことはあまり報道されておらず、ただゲリラ側の行為を伝えるのが人質の生命にかかわるというようなパターン化した言い方で報道規制が行われているだけである。問題なのは、ゲリラを発生させているペルーの政治であり、突入を防げなかった政府の無能であり、メンツだけで解決を長びかせているフジモリ政権の態度である。報道はいつでも自由であらねばならず、報道の責任とは、その結果である。本当に報道によって、人質の生命が危険になったかどうか。冷静に考えるべきだ。
 共同通信の場合も、朝日系の記者の場合も、記者本人の判断によって取材したにもかかわらず、共同がさほど問題視されることなく、テレ朝だけが謝罪をともなうことになっているのも妥当ではない。政府が強制しやすい媒体なのだ。
 報道の自由の権利とはそれ以上でもそれ以下でもない。誘拐事件の時に誘拐された人間の生命にかかわるという理由で、報道を規制したり、プライバシーにかかわる問題を自己規制するのは、あくまでも例外なのである。いつの時代でも、報道は報道する者の自由と責任においてなされなければならないという原則は貫かれるべきである。
 ペルー政府は一貫して報道規制をしてきたが、報道規制をすることがゲリラとの交渉に有利だというのなら、報道がなぜ人質の生命にマイナスになるのかを明らかにしなければいけない。それなしに人質の生命を損なうとの理由で報道を抑えるのは、権力側の戦略的な報道コントロールである疑いがきわめて濃厚である。
 私たちには、1990年の湾岸戦争の時、報道が完全に米軍にコントロールされたという苦い経験がある。権力側は常に報道をコントロールしたがるものだ。実はそのような権力の報道規制を破っていくのが報道するものの任務なのである。
 大使館公邸の中がどうなっているのかを報道することは、積極的な意味があるはずだ。それをたんなる政権の交渉技術に矮小化してはいけない。人質の状況をあるていど客観的に報道することは、むしろゲリラのやっている行為を判断する基準になるはずだし、報道がゲリラの一方的な声をひろめるという批判は、それを受け取る側の判断や知りたいという権利を奪うものである。

■ペルー政府情報の垂れ流し

 今回の場合は、まだトゥパク・アマル革命運動の実態が明かにされておらず、一方ではテロリスト、一方ではゲリラ、また一方では犯罪者集団との酷評もある。しかし彼らの要求が、これまで政治犯として逮捕された仲間の釈放であることを考えれば、政治犯として扱うべきだろう。
 政治犯の要求をすべて遮断してしまうことは、政治犯を弾圧している権力の側に加担することである。わたしはテロリズムには反対であるが、報道の自由というのは政治犯の声も明確に伝えていく義務もふくんでいる。トゥパク・アマルがどのような集団なのかは、事件が解決してみないとはっきりしたことがわからないが、とにかくいまの判断基準は、ペルー政府が垂れ流す情報に支配されている。
 繰り返すが、このような時にゲリラ側の主張を聞き、人質の状況を報道するのは、報道者に与えられた任務であり、抜け駆けだとか、人質の安全を阻害するとかと批判すべきものではない。安全を阻害するというのなら、どのような形で報道が人質の生命を脅かすのかをはっきり公表して批判すべきだし、すきあらば強行突入しようと構えている政府の硬直した姿勢こそ問題だ。
 これで思い出すのが、68年に静岡県の寸又峡の温泉旅館に在日朝鮮人が銃をもって立てこもった、「金嬉老事件」である。この場合も、在日朝鮮人の圧迫された民族の意見を公表する場として、金嬉老は報道陣と交渉して記者会見を開いた。これも普段の状況では、彼ら在日朝鮮人の声が反映しないという金嬉老の焦りから起こった事件であったが、この時に報道各社は、それなりに金嬉老の声を伝えていた。
 とはいえ最終的には、報道陣の中に混じっていた私服刑事が、記者会見の場で逮捕するというマスコミ史上の大きな汚点を残している。つまり、新聞記者は、私服刑事が報道陣を装って一緒に入っていたのにもかかわらず、むしろその状況を黙認することによって逮捕に協力したわけだ。警察と報道を一体化して、報道よりも逮捕を優先させた報道上の恥部だった。
 今回の場合も報道陣に私服警官が紛れていたという情報があり、赤十字が厳重に抗議したと伝えられるが、この抗議はまっとうな行為である。報道者は警察の片棒担ぎであってはならない。
 権力は報道を規制してでも権力を行使したがるものだから、報道者は規制を打ち破って、権力の暴走を防がなくてはいけない。過去の歴史に目を転ずれば、宣戦に至るまでの権力側に不都合な情報を報道規制によって遮断した結果、何も知らない国民が戦争に駆りだされた歴史ともいえる。常に権力をチェックするのが報道の役割だと、改めて肝に命じる必要があるだろう。

■報道の自由への挑戦行為

 報道が規制されている場合、報道者の側からも報道規制を打ち破る行為が必要である。ところが、残念なことに、それは批判されがちだ。日本の場合は、記者クラブ制度が強固なため、「抜け駆け」はとかくヤリ玉に上げられやすい。たとえば、私が雲仙普賢岳の噴火に関する取材で島原の立ち入り禁止区域に入って報道した時に、「地域住民の(鎌田の取材に)感情を逆なでにした」という報道があったが、まったくデタラメだった。住民は自分たちが住んでいた地域の状況を知りたがっていたし、報道されたことによって、初めて情報を得られた、とそのあと感謝されたほどである。
 今回の事件でも、人質がどういう状況にあるかを報道することは、人質および人質の家族にとっては重要だ。それを規制することは、人質の人権を軽視し、強権によって事件を暴力的に解決しようとする政府の姿勢を支持することにつながる。
 なぜならば人質としてとらわれている人たちは、すこしでも自分に関する情報を家族に与えたいと思うし、交渉の道をひらかせて、平和的に解決することを心から願っているはずだからである。
 報道はつねに、「国益の妨げになる」「政府に不利益」「企業のためにならない」などを口実に規制されようとしているし、「国家機密」や「企業秘密」の壁にさまたげられている。こんどの場合の批判は、「人質の生命」という金看板だ。これは嘘っぱちだ。わたしも島原で「人命」と「住民の反対」を理由に書類送検された(不起訴)。トヨタ自動車の内部のことを書いた(『自動車絶望工場』)ときにも、「取材方法がフェアではない」「記録性がない」などと、企業寄りの評論家たちから罵倒されたのに対して、反論した。「北方四島」の立ち入り取材では、「国家的利益」の見地から、再三にわたって外務省から呼び出され、拒否している。報道する者が、自己規制するようになることこそ、暴力的な支配を生み出すことにつながる。たとえば、ベトナム戦争での報道が、アメリカ軍の撤退をはやめた故事を思いだしてほしい。

■報道こそ人権を救う

 今回の事件では、これまでの結果をみる限り報道者とゲリラがオープンに会話をしている間は、人質の生命に危害を与えないことが保障されている。いっさい情報を遮断した状況では、軍隊の突入の恐怖がゲリラにも人質にも強まると思う。このような判断があって、共同通信の記者やテレビ朝日系の記者は自分の責任と判断において突入したのだ、と思う。
 それに対してペルー政府が、取材したビデオを政府側が押収し、ゲリラ側の発言を削除する、という。これは報道の自由に対する挑戦行為であって、フジモリ政権がいかに民主主義的感覚に薄く、報道の自由と敵対しているかを示している。
 だいたい現在のような報道規制が起こること自体が、フジモリ政権の体質を表しているわけであり、私は別にゲリラを支持するわけではないが、ゲリラを悪とすることによって、政府への批判を封じ、国際的に政府への支持を強めようとしているようだが、このように問題解決がこじれていることこそ、恥じるべきである。
 まして取材者を国家が逮捕し、長期間拘留し、取材した内容を検閲するような行為には、ペルー政府に対して報道者は抗議するべきだと思う。繰り返しになるが、ゲリラの発言を報道することは、ゲリラを有利にするともいわれているが、ゲリラの言い分が正しいか、正しくないかを判断するのは、読者や視聴者である。もしゲリラ側に耳を傾けるべき発言があったなら、それを土台に民主主義的な改善がなされるべきである。
 いま懸念されのは、ゲリラ側の疲労を待って政府が強行突入し、人質の生命を危うくすることである。そのような悲惨な結末を迎えないためにも、ゲリラと人質の状況を報道し、彼らの訴えにも耳を傾け、交渉に向けて誘導する正当な報道こそが、ゲリラを追いつめず、平和的な解決を道をつくる。(■談)

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鎌田慧の現代を斬る/日本陥没シンドロームを視る

■月刊「記録」1997年1月号掲載記事(表記は掲載当時のままです)

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■腐蝕のトライアングル

 前回、私は日本の政治を「どじょう鍋政治」とよんだが、このどじょう鍋もいよいよ煮詰まってきたようだ。今回の厚生省の岡光序治・前厚生事務次官のスキャンダルは、これから充実拡大させなければならない老人福祉を。先喰いしてしまった。もっとも悪質で貪欲な「ピラニア鍋」というものであった。
 ピラニアなど喰えるかと思う人もいるだろうが、これはスープやからあげなどにすると毒気が抜かれ、さっぱりして意外にうまい。アマゾン流域では、ピラニアの首だけでつくった首飾りを売っている。これから日本でも汚職官僚達の生首を飾った首飾りがはやるかもしれない。
 それはともかく、岡光の犯罪は次官になってからではなく、4~5年前からすでに始まっていたのである。小山博史とは十数年来の関係があったというから、いわばフンケイの友人であり、両方が利用し合っていたわけだ。このような人物が、厚生省あるいは日本の官庁機構の中心のいたるところで居座っていたことが問題である。 つまり彼が時間に推薦されたということは、その省全体で、彼の只食い、只飲み、タカリ行為を是認していたことになるし、官僚の体質そのものをも表している。
 ここで登場するのが東大だ。高級官僚はほとんど東大出身者に独占されている。独占禁止法違反で訴えてもよいほどだ。
 岡光の子分の茶谷滋は、岡光のミニチュア版だった。業界(小山)から政治資金をもらい、自民党の推薦を受けて立候補して挫折した。もし彼が当選していれば、さらに福祉の予算を増やし、それを喰らうという構造になり、政官財の関係のもっと矮小なサンプルが示されるところであった。高級官僚を業界と時の政権(橋本政権)がアベックで押し上げていくという構造がここに明確に現れている。
 茶谷は小山を引き連れて、埼玉から栃木への彩福祉グループの展開の露払いに徹していたわけだが、このような関係は別に今に始まったことではない。国際興業の小佐野賢治とロッキード事件、江副浩正とリクルート事件のように政官財の関係は続いてきた。
 岡光の金儲けの方法も過去の事件の焼き直しだ。国の金庫にねずみ穴を開け、そこから膨大な資金を関連企業に引いてくるという方法は、明治時代の三菱創業者の岩崎弥太郎、近年では北炭の萩原吉太郎、あるいは田中角栄や金丸信などの政治家が介在していた方法であって、別に珍しい方法ではない。
 ただ今回、小山が頭をひねったのは、そのようにもうけた利益を共同募金会に寄付して税金をのがれたことだ。共同募金に寄付したカネを今度は自分が作った福祉法人にそっくり受けるという方法である。これは今はなき笹川良一日本船舶振興会会長がさまざまな団体の会長を兼任し、自分が支払った資金を自分で受け取った方法とそっくりだ。小山は今までの汚職のあらゆる方法や、先人の経験をうまく駆使したわけで、これからも大小山や小小山が各業界に潜伏していくとは想像に難くない。
 厚生省のスキャンダルは、日本の政界・官界・産業界の腐蝕のトライアングルそのものである。今回明らかになったことは、小山がつくった医療福祉研究グループは、岡光を筆頭に厚生省の幹部ほとんどが頭を突っ込んでいたどじょう鍋グループであり、「詐欺師」小山の私設機関となっていたことである。
 テレビを見ていて、今さらながらあきれたのは岡光の表情が全く変わらず、まるでカエルの面にションベンといった態度だったことだ。おそらく彼には、「俺ばかりではない」という気持ちあったのだろう。彼の行為が犯罪であるならば、医療福祉グループに入っている厚生省幹部はすべて犯罪者だ。ところが犯罪という意識が彼らにないため、捜査が厚生省幹部にまで上りつめることができたのである。
 しかし、官僚たちが、これほどまでにカネに弱いというのは驚くべきことである。それは岡光個人ではなくて、権力を握っている官僚たちの「どじょう」(土壌)問題ともいえる。
 もうひとつの問題は、岡光に親分がいたことだ。それは東大の先輩であり、どうじに同郷、広島県出身で厚生事務次官を努めた吉村仁である。高級官僚はほとんど東大によって独占されている現状で、東大閥の中に地方閥があるのは、きわめて日本的なエリートシステムといえる。

■悪の供給源

 岡光の行動は親分吉村の直伝であったから、厚生省の官僚にとっては、さして驚くにあたいしない事実であろう。東大法学部出身者は20代で税務署長になるなど、若いガキの時分からふんぞりかえった生活をしている。それに地方の官僚が土下座しているのだから、19世紀ロシアの官僚制度を風刺したゴーゴリの『検察官』そっくりである。これは中央の役人と称するさぎ師に、地方の警察署長などがぺこぺこする姿を描いている作品だ。
 20代のエリートがらせん状にぐるぐる回って次官を目指す。それによって日本の陥没シンドロームは作られている。これらの官僚は、一方では地方に出て県知事や市長になり、一方では関連業界をバックにして政治家になり、一方では関連業界に天下って社長や会長になっている。
 このような官庁を中心とした産業界、政界の腐蝕のトライアングルにたいするチェック機能は、オール与党体勢の現在、まったく期待できない。
 中央官庁を中心にした「悪の供給」ともいえる天下りについてもうすこし補足すれば、たとえば通産官僚は許認可と行政指導によって、常に大企業の連中からゴルフや料亭などの接待を受けている。功労が甚だしければ、そのまま専務クラスから天下りして社長、会長になる。鉄鋼、造船、重機などの重工業の幹部に通産官僚出身者が多いのはそのためだ。これは地方でも同じである。地方通産局の官僚も地元の中小企業に天下っていく。
 すでに明らかになったように、大蔵省官僚は銀行に天下って、膨大なこげつきを発生させ、銀行倒産まで生み出した。運輸官僚が、船舶振興会やかつての笹川財団の手代になっていたことは記憶に新しい。建設省の官僚は土建業界に入り込み、それと同じような方法で厚生省の官僚はエイズの拡大にまで手を貸していた。
 「岡光現象」とは、業界が政治家に頼むよりも高級官僚に頼んだ方が手っ取り早いということを示したことにある。これでは政治家たちの利権がなくなり、彼らが憤慨するのは当然である。
 政治家から出るのもウミばかりだ。現在、首相の座についている橋本龍太郎は、もともと厚生族であって、水俣病患者に対して冷酷無惨なふるまいを繰り返してきた。厚生省はこれまでも公害病患者には冷たくしてきたわけで、橋本の態度は厚生省そのもといえる。一方では、漢方薬メーカーのツムラ前社長とツーカーの仲で、後援会への多額の献金が発覚している。カネの出所には甘い顔をするところまで厚生省とそっくりだ。
 自民党といえば幹事長の加藤紘一も、カエルの面にションベンのくちで鉄鋼加工メーカーの共和とのスキャンダルがあってなお健在そのものである。なまいきな小泉純一郎は、これもどうしようもない厚生族のはしくれで、退職金の大盤振る舞いにもつながる岡光の依願退職を許した。いまや政界の時限爆弾となっている泉井石油商会との関係もうわさされている。なおついでにいえば、新進党の友部などもオレンジ共済組合疑惑にまみれている。そもそも新進党が友部を参議院比例区名簿の当選ラインに置いて議員にしてやったこと自体が疑惑である。 このように政界・官界・産業界の腐蝕のトライアングルは、ロッキードやリクルートで大きな問題となりながら、なんら改革されなかった。業界は監督官庁から補助金や許認可をもらい、そのバックマージンを岡光のような高級官僚に支払っている。産業界は政治献金をつづけて、政治家を通して官僚を動かしている。官僚は業界からのカネと票をもらって政界への道を歩む。官僚が政界に人を派遣し、政治家は産業界の意をうけて官僚に法律をつくらせる。この悪の循環はとどまるところがない。 政官財癒着の日本システムが安泰をきわめてきたなかで、産業界は空洞化が進み、官庁は赤字の巣窟となり、政界は保身のどじょう鍋となった。それだけならまだしも、教育をみるだけでも、いじめ自殺が示すように子どもの世界を崩壊させ、中年は過労死、最後の砦である老人の世界も、政官財に喰いつくされようとしている。これが欧米に追いつき追い越せと走りつづけた日本の結末である。

■資金を握る東大悪官僚

 さて、橋本政権は「行政改革で火ダルマになる」などといっているが、すでに日本は国債の赤字まみれで火ダルマだ。行政改革で無駄をなくすといっているが、米軍に膨大なカネをめぐんでやったり、銀行の不始末にカネをつぎこんだり、この大盤振る舞いは尋常のさたではない。集団自殺行為ともいえる。
 行政改革などと「改革」を使っているが、これは中曽根流の「民活」と同じだ。たとえば橋本が会長をしている「行政改革会議」のメンバーを見ても、三菱重工の飯田庸太郎や、経団連会長の豊田章一郎、日経連副会長の諸井虔、芦田甚之助御用組合(連合)会長など、産業界を中心に編成されている。行政改革委員会も飯田庸太郎を筆頭に、宮崎勇大和証券特別顧問や、御用評論家などで構成されていて、公共部門の財産をどんどん大資本に配ろうとする意図が明らかだ。このような野党なき談合政治が「地方分権の時代」という趨勢を妨げないかどうか疑問である。
 中央官庁の腐敗とは、ぼう大な資金を少数の東大出身権力者の手に任せることによって生じている。この解決方法は地方への資金と権限の分譲にある。もちろんその前に、その地方の知事や市長など権力者が中央官僚の出張者や天下りであってはならないのは当然で、地方の市民運動の活性化をすることによって監視しなければいけない。
 もう1つはオブズマン方式などによる監視機関の充実である。上級官庁が下級官庁を監督するというのは、岡光が茶谷を監督しているようなもので、お笑い以外の何ものでもない。どんづまりにきたシンドローム状況が、どう解決されていくかは、国民1人1人の権利意識と民主主義的な意識によるものであって、それにはジャーナリズムの力が十分に発揮されなくてはいけない。
 「行政改革」など本気でいうのなら、まず、天下りと政治献金をせめてからにしたらどうだ。 (■談)

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鎌田慧の現代を斬る/政党談合政治を断ち切る

■月刊「記録」1996年12月号掲載記事(表記は掲載当時のままです)

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■ドジョウ鍋政治

 兵庫県の参院補欠選挙の投票率は21%だった。自由民主党、新進党、民主党、社会民主党、さきがけ、民主改革連合がタバになっておした前副知事が、共産党候補に2万7千票の小差でかろうじて当選した。これで県民の信任をえたというのは、でたらめでしかない。先月の衆院議員選挙の投票率の全国平均は、60%を割っていた。 最近は恥も外聞もないオール与党体制では、もはや選挙民に投票の自由はないといえる。政治家どもの頭の中を占めているのは、自分の議席の確保だけであって、もはや思想や主義はおろか、自分の主張さえもなくなっている。
 これを「ドジョウ鍋政治」という。断末魔のドジョウが苦しまぎれに、豆腐のなかに争うように頭をつっこむ。哀れである。彼らが煮て食われようと焼いて食われようと、そんなことどうでもいいのだが、よく考えてみれば国民もまた「全体主義」という怪物に食われてしまいそうだ。
 第2次橋本龍太郎内閣が発足し、また自由民主党単独政権にもどった。社民党や民主党は与党でありながら閣外協力ということだが、これまた妙なことである。与党になるなら、いままでどおり大臣の椅子を分けてもらえばいいのに、そこに世論の批判に対するためらいがあらわれている。
 社民党は選挙のときに、「市民との絆」と大きく打ち出していたが、与党でありながら市民とつながるなど、大政翼賛会の押しつけでしかない。土井たか子委員長も市民との絆を標榜するなら、村山富市や久保亘など「戦犯」とスッキリ手を切って、それこそゼロからの出発をすべきではないか。
 選挙制度の改悪と同時に、少数政党いじめのきわみである「政党助成金制度」が導入された。この制度は国会議員を5人以上有する政党か、選挙で2%以上の得票率を得た政党に、国民1人あたり250円の助成が行われる悪法だ。
 この悪法が、今度の選挙で大きく力を発揮していた。新聞などの政党宣伝は華々しく、テレビでは大政党の広告が連日にわたって流された。それぞれ広告代理店がつくったであろうコマーシャルフィルムであった。
 これには膨大な資金がかかっている。その資金は、国民からの税金だ。つまり国民の血税を使って、政党は大宣伝をおこない、広告代理店とテレビ各局と新聞社がもうかるという構造だ。
 この制度では議員を持たない政党が、きわめて不利な体勢になる。国会議員を5人以上もたない政党は、実質的には選挙公報も満足にできない。きわめて不平等な制度なのだ。
 共産党を除いた全政党は、社会党も含めて率先して政党助成金に賛成した。彼らはもはや市民の方はまったくむいておらず、ただ自分自身の保身だけを考えていることをあきらかにした。市民運動とか、少数の労働運動などを切り捨てて、自分だけが議席を獲得しようとしてるのは犯罪てきだ。もはや政権党と同じ体質だ。
 かつて私は「いまや社会党は自民党の看護婦になった」(『生きること、書くこと』―日本エディタースクール刊)と書いたことがあった。しかし現在の社民党は看護婦ですらない。使い捨てのホウタイだ。

■封建制度の復活

 比例ブロックに候補者をたてる場合、新制度では定数の2割以上を立候補させなければいけない。それだけの供託金は膨大であり、当選者がでなければ供託金は国庫に没収される。またテレビでの広告費も1回あたり3千万円かかるといわれ、これも政党助成金をもらっている大政党でなければできない。
 政党助成金制度は、国民からカネを吸い上げて、国民を縛るという制度であり、それに賛成した社会党の罪は万死にあたいする。
 いまや日本の政治は政党の独善にみちあふれ、談合政治になりはてた。与党政治家の多くは、ただ父親の地盤を受けついだだけであるから、彼らが住民運動、市民運動、労働運動の動きを気にすることない。
 親の七光りか、大政党のカネと組織票のバックアップがなければ当選は難しい。いまや市民運動などから国会議員を選出する道は完全に閉ざされてしまった。これは封建制度の復活ともいえる。これからは、みんな政権にスリ寄って推薦をもらうことに腐心するようになる。

■町内会レベルで国政

 小選挙区制は、選挙をきわめて矮小化した。小選挙区制で落選し、比例区で復活当選した山花貞夫議員自身が、「選挙区が狭くなって、運動がきめ細かくなった。200人の演説会より、10人、20人の座談会のほうが効果がある。どぶ板といえばどぶ板なんだが」といっているように、国会議員はきわめて狭い地域の利権を代表するというようになった。つまり国政を担当する政治家が、地域の利害で選出されるだけだ。
 国税と時間とのバックアップで生まれた国会議員が、町内会レベルの政治活動を余儀なくされるのが新選挙制度だ。選挙制度の改革とはいいながら、いっぽうでは企業献金はそのまま野放しにされている。大企業が政治家と政権党を支配する構造は変わっていない。まして小選挙区制は大政党に有利のため、そのすきまを狙う政党との談合で、ますます無党派の新人が国会にでる道は閉ざされる。
 このように大企業と官僚と七光り議員で国会が形成されて、かつて崩壊したはずの自民党の金権政治を復活させることにつながっていく。
 今回の衆院選挙の投票率が60%を切った背景には、いまや政治が政党同士の談合となれあいでしかなく、どこに投票しても同じ政党であるという翼賛体制に嫌気がさした選挙民が、投票を自主的に回避した絶望がある。

■ヒトラーばりのデマ政治

 いままで社会党を支持していたのは、自分でなんら運動を起こすことなく、社会党にだけ投票しておけば、日本の民主主義が守られるという幻想があったわけだが、いまはっきりと現実が露呈した。これから自分自身はどのように政治に参加していくのか、どういう市民運動をしていくのかが問われている。
 小選挙区制は、「政権交代を可能にする」というデマによって導入された消費税の導入もそうだが、日本の政治はヒトラーばりのデマ政治になってきた。
 比例区の導入は死票を復活させるという名目だったが、そのためならブロック制ではなく、全国区の比例代表制度で、小政党への票をすくう道をつくるべきだ。
 まして選挙制度の改革をするならば、たとえば日本で仕事をし、税金を払っている在日朝鮮・韓国人と外国人の選挙権をどうするかという問題が残っている。税金だけをとっておきながら、参政権をあたえないというのはおかしい。たとえば10年以上永住している者には選挙権や被選挙権をあたえるなど視野のひろい議論が必要だ。 とにかくこのまま大政党どうし談合が続けば、テロルかファシズムを呼びこむのはまちがいない。(■談)

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鎌田慧の現代を斬る/被災者見殺しは犯罪だ

■月刊「記録」1996年11月号掲載記事(記載は掲載当時のままです)

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■100人を超える孤独死

 阪神大震災から1年8ヶ月が過ぎ、この間の仮設住宅での孤独死は103人を超えた。死因は病死が90%を超えている。年齢別では60歳代がもっとも多い。
 最近では月に7~8人の被災者が死亡している。これは異常なことだ。大震災による6300人もの大量の死者は天災によるものではない。押しつぶされた家の奥に残っていた人達が、何の救いもなく悲惨にも死んでいったのは、人災によるものだ。
 地震列島にもかかわらず、人命救助が優先されない街づくりをしていた結果だろう。さらに日常生活の中で、100人以上の死者が発生したことは明らかに政治問題だ。住民の安全に責任のある行政が、死者の発生をいっこうにくい止められない事態は責任問題だ。
 9月29日に神戸市の人口島ポートアイランドの第6仮設住宅で亡くなった山下政夫さん(38)は、11月末に死亡していた。10ヶ月も経ってから遺体が発見されたということは、死んだ後10ヶ月ばかりか、生前から住居に誰も訪問していなかったということだ。38歳という年令に注目してほしい。
 仮設住宅は市街地からの交通の不便な場所に設置したこともあり、いったん入居したものの不便なために引っ越していく例も多い。そのため仮設住宅は櫛の歯が抜けたようになっている。これは仮設住宅を設置した思想が、人々にとっての生活の便利さを考えなかったことを示している。
 さらに問題なのは、かつて住んでいた地域をバラバラにして仮設住宅に配分したため、地域のつながりが断ち切られ人々のつながりを薄いものにしてしまったことだ。このような事態は、島原や奥尻の被災者などには見られなかった。ここにも神戸市などが進めてきた開発姿勢、つまり建物だけ作ればそれでいいというような思想が如実に現れている。人は人間的つながりを断ち切られては生きていけない。にもかかわらず行政の都市計画は、震災前から人のつながりを、まったく考慮に入れていなかった。
 家族や友人を失い、ひとり取り残されて生活する住民のストレスに対して行政は無関心だった。ストレスをやわらげるための人間的な手立てが、まったくなかった。このように人間の生活を考えない発想が、多くの被災者を見殺しにしているといっても過言ではない。
 島原、奥尻の場合は、同じ町内会の人達がおなじ場所に建てられた仮設住宅で暮らしていた。人のつながりは今まで通りのため、誰がどのような状態なのか、精神状態や健康などたがいに情報が交換できた。
 神戸の「103人目」の死者のように10ヶ月以上も放置されてた孤独死が報じられると、行政も反省しているかのようなコメントを発表するが、放置された遺体が発見されたのは、これが初めてではない。2、3ヶ月という例は、数件あった。まったく反省していない証拠である。なんら将来の希望を与えていなかったのだから、孤独死がなくなるはずもない。

■「仮設」のあとが決まっていない

 このような状況が報じられる一方で、阪神高速道路が開通し、いかにも復興が進んでいるように喧伝されている。たしかに神戸の町を歩いていると、焼け跡や瓦礫の山は片づけられ、空き地や駐車所になっていたりする。悲惨な体験は、外からでは見えにくくなっているのだ。神戸祭りや花火大会も開催され、地下街や繁華街の明かりも、震災前と同じようにまばゆいばかりだ。まちを歩く人たちも、あの時期の悲惨な表情は見られないように感じられる。
 もちろんいつまでも悲惨な状況に打ちひしがれているわけにもいかない。街に明るさが戻り、「復興」が進んでいることは喜ぶべきことだが、この「復興」だけがおおてをふって歩いているのは問題だ。死者や生き残った被災者の苦悩を受けとめないままの「復興」が進められている。神戸市行政は被害を拡大してたにもかかわらず、震災に対する反省がほとんどない。
 たとえば、笹山幸俊神戸市長は、瀬戸内海を潰して神戸空港を造る計画をいまだに変えていない。「交通のアクセスの多様化が必要で、防災面でも空港の重要性はました」と市長は発言しているが、ここにも建築物さえ造れば復興はことたりるといった発想がある。
 今年9月に行われた調査によれば、神戸市民向けの仮設住宅の入居戸数は27575戸で、57786人が仮設住宅での生活を余儀なくされていることがわかった。また今年の8月の調査では、神戸市内の旧避難所に260人(117世帯)、待機所には96人(62世帯)が暮らしていることが判明した。神戸市だけでもこれだけの人が不自由な環境で生活している。さらに公園などで生活している人も相当数いるのだ。この人達の落ち着き先はいまだに決まっていない。
 このような住居の不安に加え、失業の不安が被災者にダブルパンチを与えている。人間だれしも職業を奪われるだけで強い不安に襲われるものだが、それに加えて安心できる住宅を奪われ、家族さえ奪われている。そんなひとり暮らしの人達の不安の解消のために、政府と自治体が手を打つべきなのに、仮設住宅の使用期間は2年(3年に延びる場合もある)となっている。
 仮設住宅を出た被災者が、仮設住宅よりも安く住宅を借りられることはない。しかも低家賃住宅の建設は圧倒的に少ない。せまい空間に押し込められ、将来のあてもなく生活の不安がつきまとう状況では、病気、精神障害、自殺、アルコール依存症などをわずらうのは当然といえる。毎月、7~8人の死者を出して平然としている自治体の責任を、声を大にして追及すべきだ。

■人命よりも再開発

 被災者を追いつめているのは、地方行政だけではない。95年に村山富市首相が復興の特別立法には私権制限を服務処置を含むと発言して以来、政府はなんら軌道修正をしていない。死亡者ばかりか、不安に苛まれている被災者をも見捨てている。日本国家の方針は、どんな大きな災害が起こっても、被災者の私有財産に国が介入すべきではないと、言うきりだ。島原、奥尻でも公的補助は見おくられてきた。住民は特別立法を強く要求したが認められていない。神戸市民も公的補助を受けるために、市民立法のための運動を始めている。
 政府はいつまで個人補償を認めないつもりなのか。島原、奥尻は、それでもまだ被災者の数が少なく、義援金で息をつけた。ところが神戸のような大規模な災害になれば、国民の善意ではもはや解決できない。こういうときこそ国民の生活を擁護するのが国家の義務だ。
 住専問題のように企業と資本家を救うためには、さっさと血税を支払うのにもかかわらず、生き死にの苦しみをあじわっている人民を助けないとは、まるで戦争の論理だ。強い者が残り、弱い者が死んでいくしか仕方がないというのは淘汰の論理であって、人権や民主主義とは敵対する考え方といえる。
 再開発問題でも同じようなことが起こっている。災害に強い街をつくるという名目で、地方自治体は「減歩」という方式で市民の財産を、無料で没収しようとしているのだ。混乱とどさくさに紛れて公共事業を推進するのが、都市の再開発と呼ばれる代物だ。被災住民は救済するのが大前提だ。ところが震災以前に計画していた事業を強行するというのは、人命よりも事業という意識のあらわれである。
 そんな行政の姿勢に対し、いまなお根強い住民の反対がある。都市の再開発は被災者の住宅を中心にすえ、住み良い街につくり替えるべきだ。ところが大規模再開発によって、住民が土地を離れなければならないのでは本末転倒だ。残念ながら住民の立場に立ってまちづくりをしようとする政党はない。神戸市の「再開発」に諸手を挙げて賛成している。これはかつての労組の主張でもある。
 作家の小田実さんや市民運動家は、市民を中心とした再開発を行う「生活再建援助法案」を発表している。私もこのプランには全面的に賛成である。政府、官庁、政党に問題解決を陳情するこれまでの政治のあり方を根本的に変え、運動によって実態を変えていこうとするのは、自分たちの運命は自分たちで決めるという住民運動の姿勢である。
 最近はじまった第三次支給受付では、総所得が690万円以下の世帯に10万円の支給するものだったが、約15万世帯が殺到したという。被災者がいかに生活に困り、政府がいかに無策なのかを示している事例だ。
 地震国である日本では、さまざまな地域で大災害が見込まれている。政府と自治体による住民の見殺しを許さないことが重要だ。神戸住民の問題は、火山列島に住むわれわれすべての問題である。 (■談)

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もう一度バブルに踊ろう/最終回 クリスマスプレゼント狂想曲とその後遺症 

■月刊「記録」05年1月号掲載記事 

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 さて、問題はティファニーに敵対心を持っているかどうかである。
 クリスマスシーズンともなれば嫌でも視界に入ってしまう水色の袋を憎んでいることが、友人としての条件であろう。
 毎年、恋人もなく寂しいクリスマスを過ごし、「TIFFANY&Co.」と書かれた袋を下げたカップルに腹を立て続けているならベスト。恋人こそいるものの高額なプレゼント要求にホトホト嫌気がさし、ティファニーを嫌いになった男性もよろしい。しかし女性にも金にも苦労しないというなら、そやつはティファニー以上の敵である。 じつはクリスマスプレゼント高額化の歴史は、バブル以降のティファニー人気と密接なかかわりをもっている。このアメリカの老舗ブランドが日本で伝説を作ったのは1989年だった。バブル経済真っ盛り、日経平均株価が市場最高値を付けた年である。この年のクリスマス、ティファニーの銀座三越店は「売り切れ証明書」を発行したと話題を呼んだ。品切れで買えなかった男性客が恋人に釈明するため発行したという。経営陣が証明書発行を否定しているため真偽のほどは定かではない。ただこの噂によってティファニー人気は不動のものとなり、同時にプレゼント高額化の「戦犯」として記憶された。
 このころからクリスマス・プレゼントの人気投票で、ティファニーはダントツの1位を獲得するようになる。その一方で、91年1月7日の『朝日新聞』は「ホテル・ルームのゴミ箱からはティファニーの袋が山のように出てくる」と、プレゼント・宿泊費・食事代で数十万円もかかるイベントの象徴であるティファニーを揶揄した。

■家族から恋人にターゲットが移行

 では、どうしてバブル期のクリスマス・プレンゼントにティファニーが選ばれ、なぜプレゼント代は高額化したのだろうか?
 この疑問を解消するためには、80年代に起こった「クリスマス」の変容を理解する必要がある。しばしば指摘されることだが、もともと欧米のクリスマス・イヴは恋人と過ごす日ではなく、家族が集まる日だ。70年代までの日本も、そうした伝統に従っていた。80年代初頭ですらクリスマスのプレゼントといえば親から子へ贈るものであり、女性誌がクリスマス・プレゼントの特集を組むことなどなかった。その手の企画はバレンタインデーに集中していたのである。
 しかし1980年松任谷由実が発表したアルバム『サーフ&スノー』に、「恋人がサンタクロース」が収録された辺りから状況が変わってくる。家族に訪れていたサンタクロースが、対象をカップルへと移していったのだ。83年には、現在もクリスマスソングの定番とされる山下達郎の「クリスマス・イブ」がリリース。「一人きりのクリスマス・イヴ」を悲しむ風潮が一気に世に広まっていく。また同年12月24、25日には松任谷由実の「新さくら丸 クリスマス・コンサート」がスタート。横浜の夜景とユーミンと「恋人はサンタクロース」という必殺の組み合わせは、まさに恋人のためのイベントとして評判となった。
 こうした風潮を受け林真理子は『an・an』(1983年12月23日号)に「クリスマス・イヴなんか嫌いだ!」というエッセイを発表している。「来年こそ二人で――。毎年そう思いながら、寂しいイヴを迎えているわ。」という見出しから始まる文章は、独りで迎えるイブへの呪詛に満ちている。ただタイトル横に「イヴには、プレゼントどっさり。パーティーいっぱい。るんるん気分」、文中にも「イヴの日に何人もの男と会う約束をしてる女の子がいるじゃない」と書かれているところをみると、「本命の恋人とベッタリ朝まで過ごすのがイヴ」というバブル時代のクリスマスとは趣が異なるようだ。まだクリスマスパーティーにも、多くの若者が魅力を感じていたのだろう。
 そして84年にはワム!が「ラストクリスマス」を発表。数年後には街中で流れるクリスマスソングが、家族中心のクリスマスを象徴するビング・クロスビーの「ホワイトクリスマス」からラブソングの同曲へと変わっていく。
 こうした状況下で86年末からバブル景気が始まる。そしてティファニーの売り込み戦略がバブルとしっかりかみ合っていたのだ。87年10月にはティファニー社の会長が来日し、「カネ余りで高級化志向を強めている日本の消費者には、ティファニーの商品がぴったり」(『読売新聞』87年10月6日)と売り込みをかけている。当時の日本におけるシェアはわずか0.4%だったが、三越日本橋本店1階の店舗をティファニー社専属デザイナーの設計に基づいて大幅改装。ニューヨーク本店と同じイメージに仕立て上げている。
 こうした戦略に女性誌も反応し始める。88年9月15日号の『Hanako』は巻頭で「ティファニーのすべて」と題した特集を組んだ。翌年にはティファニーとカルティエを並べたてた記事がいくつもの雑誌で見られるようになる。
 しかも同年は13誌も女性誌が創刊された女性誌ブームだった。翌89年も11誌が新しく売り出されている。こうした創刊ブームの裏にあったのが、高級ブランドの広告増大だったといわれる。つまり広告とタイアップで女性誌が読者の購買意欲をそそるだけそそったわけだ。
 その上88年には皇太子が花嫁の条件を聞かれ「ティファニーであれやこれや買うようでは困ります」と発言した。これでブランドとしての知名度はさらに高まった。実際この年のティファニーは、三越の総売り上げの8.7%にあたる62億円を売りきっている。
 そして伝説が作られた89年のクリスマス直前、ティファニーの独占販売権を持つ三越は同社の株を買い増して筆頭株主となる。当時、人気商品の品切れに悩まされていた三越は、ティファニー社に強気で挑める万全の状態でクリスマスを迎えたのである。
 女性誌と皇太子(?)の後押しを受け、トップブランドに躍り出たティファニー。しかしカルティエなどライバルブランドを蹴散らし、クリスマス商戦でトップに立ったのはブランドイメージが確立したからだけではない。意外に思えるかもしれないが、当時、男性から選ばれた最大の理由は、その安い価格にあった。
 1897年のティファニーの国内売れ行きベスト30(『Hanako』88年9月13日)をみると、1~12位まではすべて2万円以下なのだ。トップのシルバーオープンハートが9000円、2位のビーンライターも9000円である。数十万のブランド品をプレゼントしたとされるバブル期のクリスマスの筆頭ブランドとは思えない値段だ。
 だがティファニーの戦略のうまさは、その価格帯の広さにある。当時大人気だったオープンハートでも、シルバーのminiなら5500円、Sなら9000円、Mなら1万7000円、18金のSなら5万6000円となる。だからこそみんなが買えたのであり、女性が求める金額も少しずつ上がっていったのである。
 バブル当時のクリスマスについて話を聞いた女性(36歳)は、「私はティファニーのゴールドしかもらわなかったよ。やっぱりねー」と話してくれた。ミスコン入賞者でもあり、それなりにモテた彼女にとってシルバーのティファニーは納得できない代物だったようだ。同じブランドでありながら一目瞭然にランク付けされる構造に、彼女を含めた多くの女性が踊ったのである。
 手を出しやすい価格を備え付けたティファニーに群がったカップルは少しずつ高額商品にも慣れしたしんでいき、年とともに他の高額ブランドまで買うようになってしまったのだ。もし、80年代後半にティファニーが販売攻勢をかけていなければ、多くの男性はブランド品のプレゼントを贈らなかったはずだ。バブル期とはいえブランド品を買う人が少なければ、「高いから」と断ることもできる。もちろん女性もおねだりしにくい。
  「大丈夫、そんなに高くないから」→「でも大きい方がほしいなー」→「やっぱゴールドでしょ」→「もうティファニーは卒業かな」。などと出世魚のごとく女性の金銭感覚を「成長」させることもなかった。
 あー、なんと罪深きティファニー。

■バブルの癖はなおらない!?

 しかもバブル期を過ごした女性のプレゼント癖はいまだに抜けていないという。
  『読売新聞』(03年12月18日)によれば、バブル期に20代で会社勤めをしていた37~43歳と20代の女性に今年一番もらいたい贈り物を調査したところ、両者とも3万円未満が最多だったが、37~43歳では10万円以上が36.6%もおり、20代の1.5倍もいたという。
 さらに恐ろしいことに、女性がプレゼントに希望する額は経済とは密接な関わりがない。プランタン銀座が95年から毎年行っているアンケート調査によれば、もっともプレゼントの希望金額の高かったのは、2002年の5万442円だった。ところがこの年の12月25日の日経平均株価は、95年から現在までのクリスマスで過去最低となる8501円。株価が実態経済を先取りしていると考えても、1年で17%も株価が下落しているなか、倍以上に希望値段が上がる理由など経済からは説明がつなかい。
 バブル期に女性の購買を引っ張った『Hanako』は、94年12月1日号で「速攻買いのクリスマス、これが私の欲しいもの」という巻頭特集を組み。エルメスやグッチ、ルイ・ヴィトンなどの高級ブランドの商品を紹介した。そのときに使われたリード文は次のようなものだ。
  「一昨年、昨年とがまんしてきたクリスマス。一番狙いは諦めて、セカンドチョイスでお茶を濁してきた。でも、がまんは体と心によくない。旬のおしゃれをいち早く楽しんで気分は上昇気流へ、今年は欲しいものが欲しい!」
 ちなみに「セカンドチョイス」でお茶を濁した92、93年のクリスマスの日経平均は1万7557円と1万7141年である。そして94年の日計平均は1万9633円。たしかに回復しているが、それでもバブルだった89年のおよそ半値でしかない。エルメスやグッチ、ルイ・ヴィトンなどの高級ブランドを買うほどの株価とも思えない。
 しかし、これがバブルを体験した証なのだ。変化した金銭感覚が簡単に戻ることはない。バブル期にブイブイ言わせてきた女性と付き合うなら、クリスマスの出費は覚悟しておくしかない。恨むならティファニーだな。
(■つづく)

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もう一度バブルに踊ろう/第6回 今からでも間に合う!? イヴのホテル!

■月刊「記録」04年8月号掲載記事

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 梅雨が明け、陽射しが肌を焼く。そんな夏への気配を感じたら、そう、クリスマスの予約である。
 うだるような暑さのおかげで、汗をかいたオヤジどころか恋人や猫にも近寄ってほしくないと感じる今日このごろだが、バブル時代の7月といえば恋人と過ごすクリスマスのホテルへの電話が恒例行事だった。予約受付が9月から始まるセンチュリーハイアットや東京ヒルトン、全日空ホテルなどを別にして、夏までに予約をしないと高級シティーホテルでのクリスマスイブは手に入らなかったのである。
 バブル時代を存分に楽しんだという37歳の知人の女性も、「バブルの時、ホテルの予約は夏までなんて言ってた、言ってた」と笑いながら当時を思い返してくれた。
 しかし夏までに動けば、すべてのホテルが予約できたわけでもない。
 91年11月4日『週刊読売』によれば、「当時の若者に一番人気の東京ベイエリア(千葉・浦安)のホテル群」は、「早いところは1月に、遅いところでも6月中には全室予約で一杯になったという。予約開始から1時間半で満室になったところもあるほどだ」と書いてある。
 げにおそるべきはバブル時代!
 最低でも3万5千円ほどする部屋が、半年以上前から埋まっていたことになる。さらに主要ホテルのイブを予約しておき、1万円ほどの手数料を上乗せして宿泊の権利を売り渡していた学生もいたというから驚きだ。
 今考えると、この熱狂がスゴイ!
  「キリスト教徒でもないから12月24日なんざ、ただの年末」なんて「言い訳」は通じない。彼女を保持するためには、シティーホテルぐらい当たり前という雰囲気があったのだ。
 好景気というものは、ここまで人を元気にさせるものだろうろうか? 
  「あの熱気よ、いま何処」ということで、新旧の人気ホテルにイブの予約状況を確かめてみた。 

■前日・当日の予約可能なニューオータニ

 まずは、あまりのドタキャンの多さに腹を立て、90年からクリスマス期間の予約客に、1泊分の前金を徴収して話題となったホテルオークラから。いわずと知れた日本を代表する高級ホテルのオークラなら、少しは予約も入っているかなと期待したのが、「最近は、クリスマスの前日・当日にご予約されるお客様もいらっしゃいます。1ヶ月ぐらい前のご予約ならお部屋を取ることは、まず大丈夫だと思います」とのこと。
 それならと、同じく名門のホテルニューオータニに電話をかけてみると、「クリスマスプランは、だいたい2ヶ月前ぐらいの発表となります。24日が平日の場合は、例年ですと当日や前日でもご予約ができる状況です」との答え。お得なクリスマス専用プランを企画しても、全室埋まるわけではないらしい。
 ならばバブル経済期、不動産などで大金を稼いだ「バブル紳士」に人気のあった赤坂プリンスホテル、通称「赤プリ」はどうだろう。
  「いつごろ予約が埋まってしまうのかは確実なことが言えないのですが、今の時点ではまず空いております」 9月の予約開始日には電話がかかりにくくなるという伝説を持つ西新宿のヒルトン東京も、「最近は事前の予約で部屋が埋まるということがないですね」と寂しげに語る。
 それでも品川プリンスホテルよりは、いくぶんマシかもしれない。
  「ダブルのお部屋は旅行会社に出しておりますので、お日にちが近づきますとお取りできないこともあろうかと思います。なるべく早めに確保という形でご予約をお願いいたします」
 名門・品プリにして、イブの夜が団体客で埋まる可能性があるらしい。
 ちなみに豪華な内装で最近、ジワジワと人気の上がってきている芝公園のセレスティンホテルは、「団体が入ると埋まってしまいます」とハッキリ言われた。イブの夜は、すでに個人の客をあてにする時代でもないということか……。
 今年のイブは金曜日。彼女と宿泊するならまたとない日程だと思うのだが、老舗ホテルの敷居はあまりにも低かった。
 そこで昨年11月、『TOKYO1週間』に掲載された読者男女500人が選んだ「憧れホテル 読者人気BEST5」に電話を。バブル時代の人気ホテルがそっぽを向かれていても、クリスマス前の情報誌で特集されたホテルなら話は違うはず。
 さっそく第1位に輝いたお台場のホテルグランパシフィック メリディアンに電話だ。
「10月ぐらいまでは、(埋まっていないので予約も)ぜんぜん大丈夫です」とのこと。現在人気のホテルさえ、2ヶ月前ぐらいからの予約で十分らしい。
 第2位の東京ドームホテルも、クリスマスプランができあがるのが10月ぐらいらしく、それほど早い予約も必要ないとのこと。
 第3位は先述した品川プリンスホテルで、第4位も先ほど書いた「予約で埋まらない」ヒルトン東京。第5位、汐留にできたばかりのパークホテル東京は、クリスマスプランの発表が夏過ぎてからのため、夏前から予約する必要なし、と。
 それにしてもイブのホテルを巡る状況は一変した。それにともなってホテル側の要求も変わった。バブル期、客の入れ食い状態だったホテル側にとって、心配の種はドタキャンだった。夏に張り切って予約したものの彼女と別れた男たち、あるいはいくつものホテルをとりあえず予約しておいて使わないホテルをドタキャンする人なども多かった。ホテルによっては、一晩で30室もの無断キャンセルが発生したというから深刻だ。
 こうした事態を防ごうと前金制にしたり、直前に確認書を送ったりするホテルが少なくなかったという。ところが今回の電話では、「とりあえず予約だけいかがですか」と、いくつものホテルから予約を勧められた。
 渋谷の駅ビルに入る渋谷エクセルホテル東急にいたっては、「個人様のご予約でしたら、前日・当日のキャンセル以外キャンセル料は発生いたしませんので、ぜひご予約を」と勧誘された。
 イブであっても、ホテルの状況は楽ではないのだ……。

■5つの勝ち組ホテルを支える、その施設

 イカン! バブルの熱気を取り戻すつもりが、すっかり不景気風に当たってしまった。
 さて、それでは満室のホテルは、まったくないのだろうか? いや、それがあったのだ。
 都内・横浜・千葉の人気ホテルに電話かけまくり、「満室」のという単語を耳にしたのは、わずか6回。まず、バブル期を再現したかのような人気を示したのが、ディズニーアンバサダーホテルと東京ディズニーシー・ホテルミラコスタの2店。そう、両方ディズニーリゾート内にあるホテルだ。
 この2つのホテルの予約は、宿泊の6ヶ月前と決められているが、なんと予約開始初日の朝のうちに12月24日の全室が埋まったという。7月21日現在、プレ・イブの23日にアンバサダーホテル5万3100円の部屋なら予約可能とのこと。
 上記2つのホテルとまではいかないものの、人気沸騰が続いているのが東京ベイホテル東急。4万円以上するダブル、5万円以上もするデラックスルームなども含めて満室。
 さらにサンルートプラザ東京とシェラトン・グランデ・トーキョーベイ・ホテルは、24日のダブルルームが満室。ツインルームに若干の空きがあるとのこと。
 しかし、よく見れば5つのホテルはすべてが舞浜なのだ。ディズニーランドやディズニーシーでクリスマスを楽しむカップルが、いっせいに予約しているだけ。ホテルが人気というより、クリスマスのディズニーランドが人気なのだ。
 都内および東京近郊のクリスマスホテル商戦は、ディズニーリゾート関連の独り勝ちといえる。業界2位も3位も総崩れ、1位だけが利益を上げ続ける構図は、最近の日本経済そのまま。せっかくはやっているホテルを見つけたのに、暗澹たる思いにとらわれた。
 そして、もう1つ「満室」という言葉を聞いたのが、新宿にあるパーク・ハイアット東京。名監督フランシス・コッポラの娘ソフィア・コッポラが監督した話題作『ロスト・イン・トランスレーション』にも登場する超高級ホテルだ。
  「12月24日のご予約状況ですが今はまだ空いてございますが、昨年は10月と11月に、いったん満室となっておりますので、お早めのご予約をお願いいたします」
 夏に予約がいっぱいになるまではいかないが、10月の段階で満室になるという話は、ディズニーリゾート近辺のホテル以外では聞けなかった代物だ。
 しかし1室5万円以上する高級ホテルが、2~3万円代のホテルより人気が高いのは、「持つ者と持たざる者」の格差が広まった証拠ではあるまいか……。
 あー、思い返してみれば、バブル時代はくだらないバカ騒ぎ連続だったが、今より経済格差は少なかった。好景気に支えられたサラリーマンも、アルバイト探しに困ることのなかった学生も、最高のクリスマスイベントに参加できたのである。
 2001年12月26日号の『SPA!』に掲載されたアンケートによれば、「今年のクリスマスに恋人と一緒に行きたい場所は?」という問いに、20代女性の半分近くが「高級シティーホテル」と答えている。少なくともこのアンケート調査では、「美味しいイタリアン」や「温泉」などを抑えて、20代女性の希望のトップである。しかし、そんな無駄遣いを多くの人がしなくなった。
 では、なぜしなくなったのか、それは次回のクリスマスプレゼント編で解説したい。(■つづく)

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もう一度バブルに踊ろう/第5回 マハラジャで見る盆踊りの夢

■月刊「記録」04年6月号掲載記事

         *        *         *

 どうやら巷では、80年代&ディスコがブームのようだ。
 昨年夏にはオリコンのアルバムヒットチャートのトップ50に、ディスコの名曲を集めたアルバムが3作品も入ったという。1979~80年の1年余り開業していた伝説のディスコ・キサナドゥが02年4月から青山で再オープンし、84~97年まで営業していたマハラジャ東京も昨年8月から再び店を開けた。ついでに、この連載が始まったのも今年1月である(いつも通りのこじつけですね、はい)。
 『記録』にしては珍しく流行を捕まえたか!?
 せっかくである。偶然とはいえブームに乗ったのだから降りるわけにもいくまい。で、見てきましたともマハラジャ東京。
 80年代後半、一世を風靡したマハラジャは入場が難しいことで知られていた。ジーンズなどの軽装はもちろん、入り口に立つ店員の「黒服」にダサイと判断されたら入れてもらえず、男だけのグループもダメ。女性グループを入り口付近でナンパして入場しようとする輩まで現れたのだ。当時もダサかった私は、入り口を眺めただけで満足したものである。
 そのうえ私は、15年たってもマハラジャ向きではない。毎日ジーンズで出勤しているため、スーツなんぞほとんど持っておらず、ダサイのも相変わらず。少し変わったのは、腹に脂肪が付いたことぐらいだ。それでもスーツは、取材用があるからよい。困ったのは同伴の女性だ。編集部の若いアルバイトに命令して付いてきてもらっても、客層が30~40代だから連れが店内で浮いてしまう。仕方ない。大学時代からの旧友にお願いしました。ご飯をご馳走する約束まで付けて……。
 と、ここまで気合い入れて六本木へとでかけたのに、マハラジャの敷居の低いこと、低いこと。店のあるビルには居酒屋やカラオケボックスが営業しており、肝心の入り口もほとんどフリーパス。しかも客がほとんどいない。私たちを含めて、わずか7人である。
「いやー、月曜日、火曜日は特にお客様が少ないんです。週末は2回転ぐらいするほど混むんですが」と黒服は言った。たしかに週の頭から遊ぶ元気など、30~40代にはありません!
 黒と金を基調にした内装は全盛期の面影を残し、お約束のマハラジャの象徴「金色の象」も置かれ、ミラーボールも回っている。しかし人のいない金ぴかディスコは、空いている遊園地と同じ。寂しさが漂ってしまう。フロアでは20代中盤とおぼしき2人の女性がパラパラを踊っていたが、とても一緒に踊る気にはなれない。
 仕方なく、私たちの隣の席でどんよりとした眼でフロアを眺めていた3人組女性の1人に声を掛けてみた。
  「私たちは7時半から来ているんですよ。入ったのは、一番で。しばらく踊っていたんですけど疲れちゃって」
 なるほど30代中盤、ほぼ同年代と思われる女性の顔には、色濃い疲労が見て取れる。
  「店が復活してから来たのは初めてです。若いときも、そんなに頻繁に来ていたわけじゃありませんよ。でも、昔はカッコイイ男の人もいたし、入り口で一緒に入っていただけませんか? なんて声を掛けられたりして楽しかったですよね。黒服の人も素敵だったし。まさか女の子5人しかいないなんて……」
 そりゃ、暗くもなるってもんです。このときすでに午後9時半。2時間いて入ってきた男は、私1人なのだから。
 ――失礼ですがおいくつですか?――とたずねると、彼女はブンブン手を振り、笑いながら「マハラジャの全盛期を知っている世代ですよ」とだけ答えてくれた。
 しかし改めて店内を見回すと、どうしてバブル当時、あそこまでマハラジャが流行ったのかと不思議に思えてくる。金ぴかで悪趣味な内装。オスカルの衣装かと見まがうような、赤の生地に金ボタンのたくさんついた「黒服」の制服。話もできないほどうるさい音楽。
 キャンペーン中だったため無料で入場したという3人組の1人も、「もう来ないかも」と呟いていた。3500円も支払った私などは、「もう絶対に足を踏み入れまい」と誓ってしまった。

■黒服が「特別意識」をくすぐる

 人が少なかったのを差し引いても、当時の熱狂はまさにバブルマジックである。ただし男がディスコに夢中になった理由は説明の必要さえない。女だ。
 89~90年にかけてディスコで遊んでいた川久保良幸さん(37)は、「ディスコの目的は出逢いでしょう」と単刀直入に語ってくれた。
  「うまく(女性を)つかまえられるときもあれば、ダメなときもあったよ。でも、女の子も期待してたんじゃない。今よりガードは堅いかもしれないけれど、とりあえず話は聞いてくれたからね」
 ところが女性に当時の話を聞くと、様相は若干変わってくる。やはりバブル期にディスコでよく遊んでいたという山口美由紀さん(39)は、「男は風景の一部だった」と、当時を思い出してくれた。
  「かわいい女の子とつるむために、ディスコに行ってたような気がする。ナンパもされたけれど、ついて行くこともなかったし。でも、ディスコの男の子って、キラキラしてみえたのよね。よく見るとブサイクだったりするんだけど(笑) ディズニーランドと似ているかな。ドレスアップして、別世界にいるのが楽しかったんだ」
 84年頃、高校3年のとき友達に誘われて六本木のディスコに通ったという好川あずささん(38)の思いも、山口さんと近い。
  「どうして、こんなところに誘うんだろうと思っていたけれど、行くこと自体が『あー大人じゃん』って感じてた。大人への通過点ですかね」
 2人の女性のディスコに来る目的は、踊りでも、男でもない。ドレスアップしないと来られない、あるいは大人じゃないと楽しめない、少し背伸びできる空間だった。
 じつはディスコ経営者の狙いも、こうしたところにある。マハラジャをつくった会社の社長である菅野諒氏は、『ザ・ビッグマン』という雑誌で次のように語っている。
  「日本人はみんな新貴族階級になりたいと思っているんです。その特別意識をくすぐるのがマハラジャ・コンセプトです」
 日常生活で遭遇することのない豪華な内装デザインも、入り口での服装チェックも、「特別意識」を育てるための仕掛けらしい。また、この戦略はバブル経済によって自分を中心に世界が回っていると感じている人々に共感を持って迎えられた。一方で、そうしたコンセプトは、しだいに客を遠のかせる要因ともなっていく。
  『ジュリアナのお約束』(パラス出版)という本では、マハラジャやエリア、シパンゴなどバブル期に栄えたディスコの末期症状を、次のように書いている。
「バブル時代の絶頂期、アブク銭をつかんだバブルオヤジが金で買えないものはないって感じで黒服とつるみ始めた。金のない黒服にチップをはずみまくって、VIPを取っては、黒服に女の子を連れて来てもらっていた」
  「特別意識をくすぐるため」に使われた黒服は、入り口でのチェックやVIPの認定などの仕事によって、自らが特権階級となり、その構造をバブル成金が利用しちゃったというわけだ。
 こうした状況だったから、バブルの終焉が近づくととともにディスコは減少した。85年に59店あったディスコは、88年には69店、さらに90年には88店舗と年々増え続けた。しかし91年81店と一気に減少に転じている。92年には、カラオケボックスやレストランにくら替えする店も多くなり、元気なディスコはお立ち台で有名になったジュリアナ東京だけという状況にまで落ち込んだ。
 では、どうして同じディスコのジュリアナ東京が、それだけ人気を誇っていたのだろうか? その理由の先述の『ジュリアナのお約束』では、「ゴールド(※筆者注:90年芝浦にできたディスコ)では日常の中の非日常を演習しようとしているが、ジュリアナはあくまで日常の遊び場を追及」と説明している。
 黒服が特権を持つことも、客に特別意識を持たせることもなくなった。その結果、客層は若くなり、露出もナンパもよりオープンになっていったのである。
 では、この「特別意識」くすぐりだけが、バブル期のディスコを盛り上げたのだろうか? いやいや、それはちょっと違うようだ。
 じつはバブル期とその前後のディスコと比べると、面白いことがわかってくる。
 現在39歳で高校1年から六本木のキサナドゥなど、いわゆるサーファー系と呼ばれるディスコに週2~3回通っていた柏原知恵さんは言う。
「憧れのすべてがディスコにあったんですよ。ファッションも音楽も人も。ディスコには、慶應や聖心女子大の学生、広告代理店や商社のサラリーマンが来ていましたね。当時のスーツが格好よくなかったので、サラリーマンは私服でした。みんな素敵な人たちでした。常連同士がみんな知り合いで、今でも連絡を取っている友達もいます。ディスコを出て、朝までキャンティーで飲んでたりするのも楽しかったな。
 バブルになってからのディスコは、ドレスコード(服装チェック基準)がどんどん高くなっていったんですよ。私の好きなファッションでもなくなって、付き合いで行くことはあっても、なんか違うと思ってました」
 一方、現在35歳でバブル期に、ディスコではなくクラブのはしりに通っていた飯田久子さんは、ディスコとクラブの違いを次のように説明してくれた。
  「クラブの方が服装も自由だし、何より音楽の種類が違うの。踊ることより、音楽にこだわっているというか。ディスコは、『みんなで同じ格好して、同じ振りで踊りましょう』って感じでしょ。あー、国民的な盛り上がりだなと思ったもん。もちろんイベントとかでディスコに行くときは、私もボディコン着たけどね」
 バブル前の六本木のディスコは、たしかに服装チェックはなかったかもしれない。しかし逆にファッションや会話も含めて、ある種の基準に達しなければ遊べない場でもあった。イタリア料理の名店として名高いキャンティーで朝まで飲むなど、それなりに遊んでない人には居心地が悪いに違いない。
 つまり服装チェックを設けることによって、マハラジャは「特権」を庶民に開放したのである。服さえ着れば仲間になれるなら、同じ服を買えばいいのだから。
 そうした雰囲気を、飯田さんは「国民的」と感じたのだろう。ディスコ崩壊後、音楽の趣向によって細分化されたクラブが全盛となり、ファッションや振り付けが決まっていたディスコは衰退していく。一方で、経済も横並びの年功序列が崩壊した。つまりバブル期は、集団が一緒に同じ夢を見られた最後の時期だったといえる。企業を村社会に、ディスコを盆踊りに例えると、当時の雰囲気がよく伝わるかもしれない。そして上京した元ディスコキングやクィーンは、村の盆踊りのために里帰りするのである。  (■つづく)

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もう一度バブルに踊ろう/第4回 バブル入社組への呪詛が聞こえる

■月刊「記録」04年4月号掲載記事

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 「拘束旅行」「オセロ」「4S」。さて、この3つの言葉に関係するのは、何でしょう? 
 言葉の意味を覚えている人など、ほとんどいないだろうが、正解は就職活動である。もっと厳密にいえば、バブル期の就職活動だ。
 今ではウソのような話だが、当時の企業はとにかく人手が足りなかった。1989年には、大学卒業予定の男子学生の3人に2人が上場企業に就職でき、平均で1人3.2件もの求人があったのだ。そうなると企業と学生の力関係は一変する。何がなんでも新卒の人材を確保したい企業は、なりふり構わぬ学生の囲い込みを始めた。
 そうした状況で生まれたのが、冒頭の3つの言葉だ。  「拘束旅行」は、内定を取り消して他社にいかないよう会社訪問が正式に解禁となる8月20日前後に、学生を旅行に連れ出すこと。
  「オセロ」は、学生が内定を取り消すこと。
  「4S」とは、OBが学生確保のために後輩を接待する場を指す。サウナ、すし、ステーキ、ソープランドの略だという。
 いやはや好景気はスゴイ! 現在、数千人単位でリストラを断行している企業が、わずか15年ほど前には学生にオンナをあてがって自社への就職を説得し、他社へと逃げないよう旅行にまで連れ出していたのだから……。 にわかには信じがたい話だが、こうしたリクルート活動は、当時の新聞や雑誌を幾度も報じられている。
 銀行や証券の間ではやったのは、「電話内定」だという。資料請求のハガキを投函すると、何度か電話がかかってきて、その後、指定された日に会社に行けば内定をもらえる仕組みだ。国公立大学や有名私大の学生なら、会わなくても採用というのだから尋常ではない。
 頭数だけ揃えるなんて、徴兵した軍隊じゃないんだから。それとも突撃するためだけに集められた「捨て駒」だったのか? そう考えると、現在、バブル入社組が大量リストラの危機にさらされている理由もわかる。
 90年8月20日の『朝日新聞』は、内定者を東北の温泉に連れ行く商社や、東京ディズニーランドに連れて行く金融会社があったと報じた。
 また、コンピュータ会社から6月に内々定をもらった学生のコメントも掲載している。
  「内々定をもらった時に、9月上旬に工場見学を兼ねて、米国西海岸に連れて行く、といわれました。早い人は、7月ごろにもう行っています」
 なんと海外。
 しかし上には上がいる。某外資系企業は、学生を香港に1ヶ月連れて行ったという。
 こんなの一部の企業だけだと思う読者もいるだろうが、それは大間違い。88年夏に日本経団連内に設けられた就職協定協議会の「拘束110番」には、400件を超える電話が殺到した。そのなかでももっとも多かった相談事が「国内、外の宿泊研修旅行の強制」だ。その数、なんと223件。
 こんなことが悩みだったのかという気もするが、仕方がない、それこそがバブルだったのだ。目の前の人手不足に加え、90年代後半からは若年労働者が減っていく。こうした現状を前にして、企業はどうしても頭数をそろえておきたかったらしい。
 90年に経済企画庁(現・内閣府)の発表した調査結果によれば、70.7%の企業が人手の「不足感」を持っていることが明らかにされ、その結果として48.5%の企業は、残業が増えたと答えている。つまり人手を確保できなきゃ、その分の仕事は寝る間を惜しんで社員が片づけなくちゃいけないわけだ。
 そうしたプレッシャーをかけられた就職担当の社員も、気の毒であった。
  「100人採るには、300人の内定をださなきゃだめだ。そのためには、3000人以上の学生とあわなくてはならない」(『AERA』89年7月18日)
 証券会社に入社した慶應大学OBの発言である。この人たちが、現在、採用したバブル組入社組のクビを切りまくっているかもしれないと考えると、巡る因果に思いを馳せざるを得ない。
 当時、高飛車な学生に苦労させられた人は、彼らのリストラに同情する気さえ起きないだろう。いやはや、調子に乗りすぎるとツケは後からやってくる。調子に乗れる環境にいたことすらない私が、肝に銘じてもせんないことではありますが。

■「固50~60万円」は不動産ならあり?

 こんなお祭りのような就職活動なら、フジテレビジョン製作で就職活動がトレンディードラマ(死語ですね)として映画化されたのもうなずける。
 1991年に公開された織田裕二主演、『就職戦線異状なし』。早稲田大学社会科学部に在籍する主人公が、テレビ局の入社試験を通して成長していく青春ドラマだ。
 いや、内容が軽い軽い。バーで就職担当者を殴ってしまった主人公が、テレビ局に受かってしまうのだから。  「『徳島への転勤は大丈夫ですよね』とか聞かれて、『全国、どこへでも行きます』と即答できいないと、次回の面接はもうありません」
 そう教えてくれたのは、昨年、就職活動を経験した早稲田大学の卒業生である。担当者を殴るどころか、転勤にひるむ姿すら現在の就職活動では致命傷なのだ。
 彼女によれば、説明会など就職活動に動き始める時期は大学3年の12月。1日3社もの企業を回って3ヶ月、やっと希望に合う中堅企業に内定したという。
「20人ほどのゼミの仲間でも、就職に失敗して留学に切り替えた人が3~4人。同じく就職が決まらなくて、大学院に逃げた人が5~6人ですね。
 だから就職できた人は半分ぐらいでしょうか。誰もが知っている有名企業に現役で入った人は、1~2人。出版社に入りたくて、風俗系の求人誌に就職した人もいましたよ」とのこと。
 天下の早稲田が、である。バブル期なら何もしなくても、電話で内定のもらえた早稲田がである。バブル入社組に対する呪詛の声は、下の世代からも響いているようだ。
 ちなみに早稲田の文系は、大学ごとに説明会を開く企業のランクでは第3グループだという。理系有名大学、国公立の下と。大手コンビニの説明会などでは、こうした順列通り3回目の説明会に呼ばれるとか。
 今、就職活動をテーマに映画を撮ったら、お涙ちょうだいモノになってしまう。少なくともフジテレビは製作しない。 
 今回、資料を読み込むうちに、何だか切なくなってしまった。子役で一世を風靡した人の没落を見ているような。バブル入社組の悲惨を耳にしてくいるからだろうか。あー、書いても書いてもバブルに踊りたくならないのが悲しい。 (■つづく)

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もう一度バブルに踊ろう/第3回 いたたまれない恥ずかしさの秘密

■月刊「記録」04年3月号掲載記事

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 イタタタタッ、イタイ! 
 突然だが、幕張はイタイ街である。
 学生時代の女友達から電話で自宅に誘われ、頑張ってオシャレをして出向いたら、ネットワークビジネスの勧誘だったとか。昔の日記を読み返してみたら、「モテるためにはブレイクダンスを練習しなくちゃダメだ!」と本気で書いてあったとか。そんないたたまれない気まずさを、そこほこに隠し持っている街なのだ。
 例えば、幕張の高層オフィスビル「ワールドビジネスガーデン」の一階吹き抜けには、椰子の実に見立ててランプが取り付けられた金色の椰子の木が10本近く並んでいる。電柱より高い金ぴかの椰子型街灯をイメージしてもらえればよい。見た途端、私は叫んでしまった。「あー、やっちまった」と……。ちなみに、このワールドビジネスガーデンは、マリブウエストタワーとマリブイーストタワーの2つの高層ビルを持っている。このネーミングもイタイ。
 計画面積437.7ヘクタール、居住人口約2.6万人、就業人口約10万人になるはずだった幕張新都心。キャッチフレーズは、「21世紀を展望したわが国最大級の未来型都市」だ。東京湾を埋め立てたまっさらな土地に、業務研究・商業・文教・住宅の4つの要素を計画的に配置して、情報ハイテク産業の中心地に仕立て上げる予定だったという。しかし計画推進中にバブルが崩壊。研究所や支社を造る予定だった企業、進出予定だった百貨店などが軒並みに計画を撤回した。
 おかげで先ほどのワールドビジネスガーデンや、ツインタワーが目印の幕張テクノガーデンなどのビジネス用の賃貸ビルも、陽が落ちると明かりの灯らない階が歯脱けの状態で浮かび上がる。商業地区の分譲にこだわっていた千葉県も、1999年から土地の貸し付けを解禁し、20年の契約でフランスのスーパー「カルフール」やアウトレットモールなどを誘致したという。体裁など構っていられない窮余の策である。

■ちょっとだけ「エエカッコしい」

 「典型的なバブル計画の失敗ですね」と総括したいところである。しかし幕張を歩いて感じた違和感は、どうもバブルの熱狂だけでは片付けにくい。
 バブル時代の計画はバカらしいほど楽観的で、振り返れば「無茶やってたぜ、俺たち」と呟きたくなる。ともすれば青春映画のような甘酸っぱさを感じるものだ。一方の幕張には、「若さ」では括れない恥ずかしい勘違いが含まれている。
 この勘違いの秘密を読み解くためには、幕張新都心の歴史を少し紐解く必要があろう。
 幕張の埋め立てが完了したのは、1980年。当初、この土地は学園都市になる予定だった。しかし誘致の目玉だった早稲田大学にそっぽを向かれ、研究開発機構と学術教育機能を担う未来都市へと計画を変えたのである。
 そう、ここで重要なのが学園都市から引き継がれた「教育」という柱だ。清く正しい場にしたい。そんな意思が、幕張の都市計画のバックボーンに働いている。つまり、ちょっとだけ「エエカッコしい」なのであった。
 例えば、幕張新都心の中心的な存在である幕張メッセについて、建設プロジェクトに深く掛かった通産省顧問の福川伸次氏は、『幕張メッセを創った男たち』(現代日本社)で次のように語っている。
「展示場でただ、モノをみせたり、ちょっと実演したりするだけではなくて、多くの人が集まるなら、それだけ人と人の知的交流の場にしていかなければならない。交流することで、互いの知的蓄積を高めていくようにできたら素晴らしい」
 また、見本市や展示会などのコンベンション産業が、日本文化に向いている理由も、次のように解説している。
「日本人はたいへん祭好き。自分たちの持てる技術や文化的な素養はすべて祭りに集約させてきた。さまざまなイベントも、その中に溶け込んできた。つまり、日本人は文化と産業を融和させる伝統を持っている」
 幕張メッセのドル箱企画が、コンパニオン目当てで男が集まるモーターショーと、オタクの集まるゲームショーであるという現状さえ考えなければ、実に説得力に富んだ話である。
 いや、日本の村祭りは夜が深まるにつれて乱交に変わっていったという歴史的事実や、オタクの「知的蓄積」は並みではないという現実を考えれば、完全にメッセの未来を見通していたとも言えるが……。
 さらにエエカッコしいの方向を強化したのが、80年代に起こった情報化社会への過度な期待であった。
 例えば、86年11月から8ヶ月間にわたって定期的に開かれた「情報化未来都市構想検討委員会」では、情報化未来都市に働く国際ビジネスエリートを、中間報告書で次のように想定している。
・国際的な業務に従事しており、活動の場が国際的である
・広域な人的ネットワークを有し、人的交流機会が多い
・海外出張をはじめとして、国内外での移動の機会が多い
 この定義には、大手企業が大量に雇う情報系派遣社員など入っていない。まして研究と仕事に忙しい理系エリートが、「人的ネットワーク」の乏しさから結婚さえできないという現実は、予想すらしてなかったようだ。
 ただし「持続的な緊張感による精神的ストレスの発生」などは予期しており、「心身のリフレッシュ、リラックスによる活力回復」のためにも「職・住・遊の融合によるアメニティの高い複合的な街づくりが必要」だと結論づけている。
 さて、そのアミューズメントだが、「ウィークエンドや夜も人の集まる場として、国際的レストラン、24時間対応のショッピングゾーン、各種ショーやコンベンションを行う施設が必要」らしい。
 さらに「海洋性プレジャー、ハイテック・ハイタッチなマシーン、空間による擬似体験、コンベンション、アスレ・ヘルス、ショッピング、グルメ」がアーバンリゾートには必要だとも書いている。
 もうカタカナが多すぎて訳がわからんが、とりあえず赤ちょうちんで一杯なんてのは、どこにも入っていないようである。

■「房総はカリフォルニアになる」

 こうした分析に使われたアンケート調査などからして間違っているので、結果のお粗末は仕方ないのかもしれない。例えば資料として添付してある「日常余暇の実態と希望」というアンケート調査では、「最近の週末にしたこと」で最も多いのが「テレビを見る」で46%。それが「休暇が増えたらしたいこと」では4.6%に減少し、代わりに「一泊以上の国内旅行」が45.6%でトップになっている。
 断言してもよい。このアンケートに答えた人のほとんどは、休暇が多くなっても旅行には行かない。「あーあ、テレビ見てダラダラ過ごしちゃったよ」という後悔が、アンケート結果に表れたに過ぎないからだ。
 このような未来都市住民への勝手な思い込みは、幕張の都市計画において中心的役割を果たした人物の暴走によって、さらに発展していく。
「房総の温暖な気候からすれば、太陽と海とカリフォルニアのライフスタイルの実現はそう難しいことではない。(中略)房総はカリフォルニアになるのである。もはや千葉を千葉としてとらえることがまちがっている。だから、幕張は“千葉的でないものを”という発想からとり組んだのである」(『幕張メッセの全貌』ダイヤモンド社)
 いかん、遠いところに行ってしまった……。
 いや、誰が悪いわけでもない、たぶん。ただ知識人と一般庶民の感覚が違っただけだ。
 故・ナンシー関氏は、「日本のほとんどはファンシーとヤンキーで出来ている」と喝破した。キティーちゃんが大人からも好かれ、『成りあがり』を書いた矢沢永吉が武道館を満員する国。それが日本なのである。ハイソの趣味など合わないのである。
 サービス残業のオンパレードでコンピュータに向かい続け、休日は眠るしかない。それが情報産業の労働者なのである。
「会社から飲みに行くときは、大概、会社のビル内にある居酒屋です。面倒くさくないですし。ただ、ここは街に人間味がないですよね。テレビで見る平壌のようです」と、幕張の大手企業で働く情報系技術者は答えてくれた。
 「海洋性プレジャー」や「ハイテック・ハイタッチなマシーン」などより必要なものが、この町にはあるようだ。 (■つづく)

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もう一度バブルに踊ろう/第2回 海辺に巨大プールを造り、テーマパークで別荘を売る

■月刊「記録」04年2月号掲載記事

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 バブルといえば、そう、リゾートである。
 今や「リゾート」なんて言葉自体とんと見かけなくなったが、バブル真っ盛りのころは、猫も杓子もリゾートに踊っていたものだ。
 1988年5月28日号の『週刊東洋経済』は、「ニューサービス――明日の生長産業」という特集で「リゾート、レジャーランド」を取りあげている。「千億円単位の大計画が続出」というタイトルが、今読むとちょっと悲しい。
  「一億総余暇時代」なんてノーテンキな言葉まであった。誰もが暇と金を持て余すようになると、なぜか多くの人が思い込んでいたのだ。だからリゾートが必要とも。
 あー、素晴らしき楽観主義!
 サービス残業当たり前で、起きてから寝るまで働くしかない。余暇があるのはリストラされたとき。そんな近未来を想像することさえできなかったのだ。
 “バブルマジック”恐るべし。
 もちろんお気軽ムードを盛り上げる政策を、きちんと政府も用意した。総合保養地域整備法、通称「リゾート法」である。「ゆとりある国民生活の実現と地域の振興を図ること」を目的として作られたリゾート法は、都道府県が構想を練り、国が承認するシステムを取る。見事、国から計画が認められれば、課税は優遇されるし、融資の支援だって受けられる。
 経済基盤が弱く、地域活性化の核を探していた地域ほど、このリゾート法に飛びついてしまった。ドカーンとリゾート施設を造って、ドカッと観光客を呼び集めよう。そういう思いとバブルの楽観主義が、採算を無視した巨大施設を作りあげたのである。
 まあ、気分はわからないでもない。
 さて、そうしたバブリーなリゾート施設のなかでも、もっともお気楽さを感じさせるのが、宮崎県のシーガイアである。88年にリゾート法の指定第1号を受けたが、その規模がすごい。
 総事業費が、なんと2000億円。高層ホテルやコンベンションセンター、ゴルフ場など、バブルリゾート「三種の神器」ともいえるハコモノを配し、さらに世界最大の室内プールまで作ってしまったのである。その名もオーシャンドーム。
 全長300メートル、幅100メートルのドームは、屋根が開閉式。夏ともなれば、屋根が開かれ野外プールに早変わり。熱い陽ざし浴びながら、波の出るプールでゆっくりくつろぎ、夜は隣接する豪華ホテルに宿泊できるという算段だった。
 ただし立地は、海の隣なんですけどね。
 海水浴は夏しかできない。しかもベストシーズンが台風の到来と重なりがちとなる。そんな事情を一気に解決するっていっても、海に隣接した波のプールに数千円を支払うのは、どこか納得のいかないもんでしょう。やっぱり。
 自慢ではないが、このバブルリゾートに私は行ったことがある。
 シーガイアを運営する第三セクターが、計3261億円の負債を抱えて会社更生法適用した01年2月の直前だったためか、とんでもなく宿泊費が安かったのだ。オーシャンビューの部屋は、セミスイートかと思うほど広く、朝には人生で一番とも思える朝食をいただき、1人1万数千円。
 シーズンオフの冬だったが、常夏のオーシャンドームは快適そのものだった。ただプールで滑り台を滑ったり、子ども騙しのアトラクションに乗ったり、波に揺られたりする以外、何にもすることがなかったのだが……。 会社更生法の申請手続きに踏み切ったとき、佐藤棟良前会長は「長期滞在型施設は、日本人の生活になじまなかった。リゾートの意味が分からずに、遊ぶ施設を造れば人が来るという安易な考えがあった」(『AERA』2001年10月29日号)と涙ながらに語ったようだが、確かに典型的な日本の私には、長期滞在どころか半日でも時間を持て余してしまった。じっとしていることの苦手な貧乏ライターなど、施設のターゲットにもなっていなかったのだろうが……。

■テーマパークでの定住を提案

 リゾートを取りあげるなら、長崎県のハウステンボスに触れないわけにもいくまい。92年3月開業以来、経常赤字のまま03年2月に会社更生法を適用。すっかり勢いを無くしてしまったテーマパークだが、その志はなかなかのものである。
 「エコロジー(生態系や環境の保全)とエコノミー(経済)の共存」をコンセプトに作られ、2200億円初期投資のうち600億円を環境対策に使ったという。法律に定められた基準より4倍厳しい廃水処理するなど、その徹底ぶりは驚くばかりだ。
 しかしオランダ人が見ても納得するほど精巧なオランダの街を作りあげ、定住できるアミューズメント・パークとして運営するのは、やはり無理があったのだろう。 定住型リゾート実現のため、1戸平均1億5000万円の別荘や平均6300万円もするコンドミニアムも発売されてもいた。バブル期は予約が殺到したと伝えられたが、バブル終焉とともにキャンセルが続出。大幅値下げをしたものの、現在でもほとんどが売れ残っているという。
 よくよく考えてみれば、金を持っているなら「日本のオランダ」に別荘を持つ必要などない。オランダでホテルに泊まればいいわけだし。どんなに建物を似せても、外は日本。しょせんテーマパークでしかないのだから。 私事になるが、まだ若かりし頃「東京ディズニーランドみたーい」と誉められながら(?)、女性に振られたことがある。当時はよく意味がわからなかったが、今なら理解できる。一緒に数時間いるのは楽しいが、浮世離れして落ちつかない人とは付き合えない。そんな意味だったのだろう。
 つまりテーマパークなんかに定住するヤツはいないってことだ!
 高級志向のホテルも、経営の足を引っぱった。
 ハウステンボスを作りあげた人々の活躍を描いた『ハウステンボス物語』(プレジデント社)で、ホテル群の経営責任を担っていた窪山哲雄・NHVホテルズインターナショナル社長の次のような言葉を紹介している。
「集客戦略面からはHanako族も修学旅行の生徒も大切です。しかし、全体の雰囲気をリードし、社会を動かしていくのはデシジョンメーカーの人たちです。(中略)だからぼくは、ハウステンボスのホテル群はホテルヨーロッパを中心にデシジョンメーカーの人たちを対象としたものである、という明確なコンセプトを作り、ハード、ソフト、ヒューマンウエアにわたって、そういう層のお客を想定したホテルづくり、運営計画を進めている」
 まず初めに言葉がわからないので、調べさせていただきました。「デシジョンメーカー」とは、意思決定者のことらしい。つまり企業などの要職にあり、ホテルにいろんなお客さんを引っぱってこれる人という意味ですね。
 平たく言えば、金持ち用に施設である、と。Hanako族の口コミより、デシジョンメーカーが決定するコンベンションや会議、研修のほうが客を連れてくると踏んだのだろう。
 しかしデシジョンメーカーでさえ無駄な金を使えない時代は、このとき目前に迫っていたのである。
  『ハウステンボス物語』では、ハウステンボス宮殿の復元において、レンガとレンガの間が本物より2ミリ広いことが発覚し、4000万円かけて200平方メートルのレンガを張り直したエピソードが紹介されている。この措置によってオランダ政府から強い信頼を得たというある種の成功秘話だが、現在では更正法適用を暗示させる話にもとれる。
  「当初総事業費千億円余りで開始したが、工事費が膨張、最終的に約2200億円に拡大。初めから過大な有利子負債を抱える一方で、入場者数は景気の失速で計画を下回った」(『読売新聞』03年2月28日)という更正法の申し立て理由を知ればなおさらである。
 しかしシーガイアとハウステンボスは、テーマパークとしてはまだまだ優良な部類に入る。帝国データバンクの調べによれば、少なくとも99年度の売上高ランキングでは、396億円のハウステンボスが2位、186億円のシーガイアが3位だったのだから。

■「協調と平和の惑星構想」のテーマパーク

 2000年8月に解散した熊本県荒尾市の三セク「アジアパーク」ともなると、もう何がコンセプトかすらわからない。
 発端となったのは、九州を一大観光地域にする87年の「九州アジアランド構想」だったらしい。このプロジェクトに乗り、荒尾市が「コンコルディア・プラネット(協調と平和の惑星)構想」をぶちあげ、93年7月にアジアパークが開園したという。
 すでに競走馬みたいな構想名からして理解できない。協調と平和はまだしも、惑星? それがアジア??
 このテーマパークの売りは、アジアの遺跡や建築物のミニチュアをボートで見学するアトラクション(?)だった。ところが水路の長さは、わずか460メートル。
 人の背丈ほどのタージ・マハールをボートから見て、何が楽しいというのだろう。『週刊朝日』の取材が訪れた際、このアジアパークの元社長は、「荒れた姿を見せるのは、アジアの人たちに申し訳ない」と撮影を拒んだとのことだが、テーマパークの存在自体が申し訳なかったといえなくもない。
 隣にある三井グリーンランドというアトラクション中心のテーマパークから流れる客をあてにしていたという報道もあり、開園当初から先は見えていたのだろう。
 そもそもテーマパークは、リピーターを獲得していかなければ立ちゆかない。そのため客寄せとなる新規のアトラクションが、毎年必要になってくるのだ。テーマパークの筆頭勝ち組といわれる東京ディズニーランドでさえ、新規のアトラクションを作り続けているのだから。 それにしてもバブル期の事業は規模がでかい。そんな心意気を見習いたいと思いつつ、カレーチェーン店の特売日をメモってしまった。反省……。 (■つづく)

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ユダヤ教は世界征服を狙っているのか?/日本ユダヤ教団 アーネスト・サラモン理事長と宇野正美氏に聞く

■月刊『記録』95年8月号掲載記事

■ユダヤ世界征服は冒険活劇/日本ユダヤ教団 アーネスト・サラモン理事長に聞く

■他の民族と同じ
------ユダヤ人の陰謀説が書かれている本がずいぶんと出版されているようですね。

 日本で出回っているユダヤ人陰謀説の本は、まるで冒険ものだ。ものによっては、侵略に来た火星人がユダヤ人に化けている話まで載っている。全くお話にならない。オウム心理教も、ユダヤ人が世界を支配しているかのような言動で終末思想を煽っていたようだが、これもセンセーショナルな話題を狙ったものだろう。

------ユダヤ人に対する迫害としての危機感はありますか?

 ユダヤ人陰謀説の本が売れているといっても、日本国民の1%も読んでいない。まして内容を信じる人は、読者の1%未満だろう。陰謀説が一人歩きする心配はしていないし、危機感もない。読む側も冒険ものとして読んでいるのだろう。

------ユダヤ陰謀説は、ユダヤ人が一枚岩のように書かれていますか。
 確かにユダヤ人は世界各国に散らばっており、宗教的には国を越えたつき合いがある。例えば、私達は旅行で訪ねた地方のユダヤ教徒と共に祈り、共に宗教的儀式をとり行うことができる。しかし、ユダヤ教を信仰しているといっても、生活している場所によって言葉は違う。ユダヤ人が世界を支配するために密接に連絡を取り合っているような誤解もあるようだが、言語の壁がある。またビジネスにおいては、ユダヤ人なのかそうでないのか分からない。それは、カトリックでもプロテスタントでも同じだろう。例えば、米国の銀行にもユダヤ人はいる。しかし、互いに同じ民族だということで協力することはない。銀行同士が張り合っており、銀行マンも競争をしている。取材もせずにでたらめを書かれる。

------日本でユダヤ人陰謀説が広がり始めたのはいつ頃ですか?

 そもそも、ユダヤ人と日本人は、第二次世界大戦中でも敵対関係になかった。あらぬ噂が広がり始めたのは、およそ10年ほど前に、宇野正美氏が興味本位にユダヤ人のことを書き始めたことに始まる。日本ユダヤ教団は、宇野氏に取材を受けたことはない。
 さらに日本語をきちんと話せるユダヤ人を教団で用意したにも関わらず、宇野氏から、「会う時間もなく、興味もない」といわれた。当事者に取材をしないでどこからネタを仕入れているのか疑問だ。宇野氏と同様に、陰謀説を扱った本の著者からの取材申し込みは全くない。もちろんオウム真理教が取材に来たこともない。

------このような状況を、増長させたものは何ですか?

 日本では出版社の大小に限らず、金儲けのためなら本の内容の善し悪しを抜きにして出版する傾向がある。米国の大きな出版社は、会社の権威を落とさないために、悪い内容の本を発行しない。そのため、書店に行って出版物を見れば、内容がどれだけ信用に足るものかが分かる。日本との大きな違いだろう。
 出版社だけでなく宇野氏をはじめとした著者も、金目当てで出版しているのは間違いないだろう。宇野氏などは、著作で儲けた金をイスラエルにせっせと寄付している。よく分からない行動だ。一方で、阪神大震災はイスラエルからのミサイル攻撃によるものだと講演会で話している。そのためかどうかは知らないが、講演後は商工会議所の使用を断られている。450人ほどの観客がいたそうだが、さすがに信じた人はいないだろう。

------オウム真理教事件でも、ユダヤ人の名前がささやかれましたね。

 サリンが騒がれた時、サリン製造の裏にユダヤ人がいると言った人もいたようだ。何か事件があるたびに、あるぬ噂を立てられる。ユダヤ人をスーパーマンだと考えている人がいるようだ。もっとも、私達は世界を制服したくもないし、スーパーマンになりたくもない。第一、たった2000万人未満のユダヤ人がどうやって世界を支配できるのか?

インタビュー中、宇野正美氏の名が登場したため、公正を期すべく氏の言い分を要約して併記する。

■日本ユダヤ教団への取材について
 
 取材をしていないことは事実だが、米国にいるさまざまな立場のユダヤ人の友人らから限りなく取材できる。
  
日本語をきちんと話せるユダヤ人を教団で用意したにも関わらず、取材を拒否したことについて
 
 そのような連絡を受けたことは一度もない。『週刊文春』で日本語のできるユダヤ人であるデーブ・スペクター氏と対談し、掲載されたことはある。すべて裏付けのあることだ。

■イスラエルへの寄付について

 私が『ユダヤが解ると世界が見えてくる』などを執筆した当時は限りなく親ユダヤであり、苦境にもめげずに頑張るユダヤ人の心を書き続け、日本人もそこに学ぶべしとした。ところが、全く日本語を知らない『ニューヨーク・タイムズ』のへーバーマン記者が誰かから聞いた部分訳だけを頼りに私を反ユダヤと騒ぎ立てた。ベギン元イスラエル首相らと親しく、イスラエルに30回以上も訪問していた私が反ユダヤであるはずはなく、イスラエルにいる多くのユダヤ人の友人達に寄付し続けたことは何等矛盾しない。

阪神大震災はイスラエルからのミサイル攻撃によるものだと講演したことについて
 
 全くそのような事実はない。私の講演はすべて記録と録音が証拠として残っている。※この件についてアーネスト・サロモン氏は、「日本ユダヤ協会と親しい2人の日本人が宇野氏の講演会に出席して、イスラエルの、ミサイルが阪神大震災を引き起こしたとの説明を聴いている。1人は講演中テープを回していたが、宇野氏の関係者に力づくで奪われた上、2人とも強制的に会場から追い出された。以後、宇野氏の講演への入場を断られている。宇野氏に何も隠すことがないなら、なぜ入場を拒否するのだろうか」としている。

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クソの役にも立たないコンビニエンスストア

■月刊『記録』97年4月号掲載記事

■ひたすら回った五一件

 コンビニエンスストアでトイレを借りるのは勇気がいる。特に女性は恥を忍んで頼んでいるものだ。ところが店によっては、その必死な申し入れを簡単に断ってくる。「我慢しろ」と言われても我慢できないのが便意。近くに公衆便所がないからお願いしているのに、いったいどうすればいいんだ。
 というわけで調べてきました。特に「貸してくれない」という恨みの声が満ちあふれる都心を対象に、暑さ和らぐ夜中にスクーターを走らせて五一件。ひたすらトイレを貸してくれるようにお願いした。元来弱気のため、トイレを借りたら商品を買わなければいけない強迫観念にさいなまれ、取材が終わったころにはスクーターの籠がガムやジュースで一杯という有様だったが、臭いトイレでしっかりとメモだけは取ってきた。
 コンビニエンスストアごとのトイレ貸し出し成績は表1の通りだが、注目すべきはローソンだろう。なんと一件も断らない。ローソンの広報部は、「今年の一月一日からステッカーなどを張り、お客様がトイレをご利用しやすいようにキャンペーンを張っております。現在、ほぼ全店でおトイレをお貸しできるようになっています。
 他のコンビニエンスストアでは、トイレは使えるのか使えないのかわからないうえに、使用を断られるケースもありますから、他者との差別化をはかるのが狙いです」と語っている。確かに便所の入り口には「トイレ美化宣言」と書かれたステッカーが目立つように張られている。これならばトイレも借りやすい。「お客様からも好評です」という広報部のコメントもうなずける。
 一方、ローソンのような差別化など必要ないと語ったのは、セブン-イレブン・ジャパン広報だった。
「当社の店舗は、以前から従業員の控え室や倉庫になっているバックルームを通らなくとも、売り場から直接トイレに行ける設計になっております。ですから他のチェーン店のようにトイレが借りられると明言しなくとも、従業員に一言お断りしていただければいつでもお貸しできます」
 しかし実際には35・7%も断られた。そのうえ「すみません。いま便所がないんです」と訳のわからない断られ方をされた店や、近くの公衆便所を教えられたものの便所がみつからなかったケースもありと、結果はそれほど誇れるものではない。
 この実状に関しては、日本一の企業と評判の高いセブン-イレブン・ジャパンも「どうしたんでしょうかね…。店舗によって色々な事情があるのかもしれませんね」と困惑顔。どんなに設計に気を付けても、トイレを貸さない店主もいるということだ。ただの広報の対応も含めて、今後の改善が期待できる雰囲気ではある。さすがは最大手。

■本部はトイレ使用を推奨

 あまり知られていないことだが、先述したセブン-イレブンやローソンのみならず、ほとんどの大手コンビニエンスストアはトイレの貸し出しを推奨している。
「古い店舗は商品倉庫や従業員室とつながっているために、お貸しできない場合も多かったのですが、新店舗は店内から直接お手洗いに行けるように工夫し、なるべくお客様のご要望にお応えするようにしています」(サンクス)
「基本的にはお貸ししています。店員に声をかけてください。ただ店舗設計の都合上、どうしてもお貸しできない場合もあるんですよ」(ファミリーマート)
「本部として、積極的にトイレをお貸しするように、オーナーさんにお話ししています。防犯上の問題がある場合は別ですが」(ミニストップ)
 今回調べたなかで唯一トイレの貸し出しに積極的になっていないエーエム・ピーエムでさえ、「都内などは店のつくりも小さく、構造上お貸しできない店舗もありますから店の自由に任せています」と語り、断るケースとして、店舗設計など解消できない問題を念頭に置いていることを明言した。
 つまりコンビニエンスストアのトイレは、基本的に借りられるのである。ところが三一・四%の店舗では断られている。本当に防犯上の問題なのだろうか。
 ミニストップ大島一丁目店は、便所に向かう通路の壁にビール缶の入った段ボール箱が積み上がっている。くすねようと思えば簡単のできる環境だ。さらに便所では、店の床を洗う大型のクリーナーとビール瓶のケースが陣取っていた。いたずらをする品物には事欠かないといった状況なのだ。商品の盗難が可能な物置と化したトイレ。店にとっては最悪の条件だろうが、この店舗は気持ちよくトイレを貸してくれた。
 九段三丁目にあるエーエム・ピーエムは、トイレの壁面には、商品と思われるビニールガサが三〇本以上に並んでいる。雨の日しか店頭に並べないため狭い店舗には置けないのだろう。かなり異様な光景であり、この店でカサだけは買いたくないと感じたが、この状況でもトイレを貸してくれる店自体には好感をもった。
 このように今回トイレを貸してくれた店舗のなかには、トイレ周辺に商品が積み上がっていたところもあった。店主の度量次第では、どこでもトイレは貸せるのである。

■小便以外はお断り

 新宿区原町三丁目にあるミニストップは、五一店舗のなかで最も度量が狭い店であった。「おトイレを貸してください」という申し出に、「便所だけ?それならウチは公衆便所じゃないから、断るんだけどね」と、こちらを一べつ。品物を買う旨を伝えるとトイレのドアを指した。やれやれと思ってトイレに入ろうとして、さらに驚かされた。「御利用する方は、従業員までお申し出下さい。但し、小用以外のご使用をお断りいたします」と書かれているではないか。しかも「小用」が赤字になっている。このトイレでは、絶対に大便はさせないぞという店主の強い意志が、手書きの文字からしっかりと伝わってくるようだ。もちろん便所内も徹底している。トイレットペーパーが置いていない。これでは大便はもちろん、女性の使用も断っているようなものである。
 そもそも店内に食べる場所が確保されているのが、ミニストップのウリとなっている。店内で食事ができて、トイレだけは使えないというのか。野暮な例えは承知でいわせてもらおう。カネ払って入れるのは歓迎、ただで出すのはお断りってことか。
 このような状況に対して本部の広報は、「いったいどうして、大便だけがダメなんでしょうかね。それが不思議です。たしか私が訪ねた一年半前には、『ご使用の際は従業員にお断りください』という張り紙だけがあって、お客さんの自由に使ってもらいましょうなんて、オーナーさんと話したのですがね。オーナーもいい人なんですよ。それなりの理由があるとは思いますが……」と店を弁護していた。では本社のいうことを聞かない「関東軍独走」なのか。どうして大便だけができないのか、改めて店長に取材してみた。
「昔は、すべての人に貸していたんですよ。ところが店が公衆便所のようになってしまったんです。朝、サラリーマンが便所だけを使い、何も買わずに出勤していく。しかもマナーが悪い。床に大便を転がしていくんですよ。アルバイトと私がいくら掃除をしても間に合いません。
 もちろん防犯上の問題もありました。暴走族が溜まり、便所でたばこを吸ったりするのです。そうなると若いアルバイトでは手に負えませんから、私が一日中詰めて対応していたものです。
 そんなこんなで、現在は大便での使用はお断りしています。特にウチのお店のトイレが頻繁に使われるような立地条件でもありませんので、お客さんの質の問題なんでしょうけれども寝ね」
 ところが、このミニストップから八〇〇メートルほど離れたローソンの見解は全く違う。
「ここらへんは子供さんのいない地域ですから、暴走族はいませんし、そんな怖いと思ったこともありません。また、あまりにも挙動不審な人には、トイレの貸し出しもお断りしています。本当に危なければすぐに一一〇番通報するよう、アルバイトの子にも指導していますしね。特にマナーの悪い人もみかけません」
 この証言のどちらも正しいとすれば、この地域の客はローソンで見せた紳士の仮面をミニストップで脱ぎ捨てて悪党になるということらしい。むろんそんなはずはない。第一、そんなに客が信じられないのだったら撤退すればよかろう。取材を通して断言できるのだが、ミニストップの問題は客の質ではなく店員の質にあるのだ。便所の張り紙や、店主のイヤミだけではない。カップラーメンだけを食べる客にはテーブルとイスを貸さないと宣言した張り紙さえある。
 「いらっしゃいませ。金だけ払ってさっさと出ていってください。この悪党ども」という底意地が透けて見えれば、おとなしい客だって「バカにするな」とマナーの一つも悪くなろう。
 だいたい、床に転がった大便を喜んで掃除するのが商売のイロハではないか。私事で恐縮だが、『記録』編集部には朝に夜に読者と称するさまざまな人からわけのわからない電話がかかってくる。酔った勢いで何をいっているかわからん人もいる。それでも編集部は読者である証拠もない相手に付き合う。別に威張っているつもりはない。世間に何らかの提案をした企業の大半は同様に、当然負うべき責務と考えていることである。ましてミニストップは「食べさせている」のである。「便所だけを使うサラリーマン」の裏には「食べて便意を催したが我慢して去っていった客」がいるという当たり前の想像力すら働かないのか。飲食店が当然提供するべきサービスを断るミニストップは反社会的存在といっても過言ではない。

■使用者の責任できれいに

 じつはこの店に限らず、高圧的な張り紙でトイレの使用を制限している店舗は少なくない。
 内神田にあるファミリーマートには、「当店では警察の指導により、トイレの御利用をお断りしております」と印刷されたプレートが、トイレの入り口に掲げられている。近所のコンビニエンスストアは警察からの指導もないらしく、トイレも貸してもらえたが、やはりこの店だけ治安が悪いのだろうか。
 神田淡路町のエーエム・ピーエムの張り紙も変わっている。トイレに通じる扉には「立入禁止 従業員専用の更衣室です」と書かれた紙が張られ、トイレには「無断使用の場合、身体検査をさせてもらうこともありますので、ご了承ください」と書かれている。実はトイレなんか貸したくないんだよという店主のぼやきが聞こえてきそうである。
「お客様のトイレ使用は禁止しています。やむを得ず使用する場合は、必ず従業員に申し出ください。また、汚した場合は、使用者の責任できれいにし、使用後は必ず消灯してください」
 これはミニストップ扇橋店のトイレに張られていたものだ。「使用者の責任できれいにし」とより大きな文字で書いてあるのが泣かせる。とにかく便所を汚されるのはイヤなのだ。
 トイレの使用を断る本当の理由は、やはりこんなところにあるのではなかろうか。使うほうが汚すからと言われればそれまでだが、やはり必死に便所を探す者の思いを、「トイレはない」の一言で断るのは接客業としては問題があるまいか。トイレも貸してくれないほど度量の狭い店など、お客様相手の店舗である資格はない。(本誌編集部)

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内部告発・豊島区は税金泥棒/最終回 区議会議員選挙立候補

■月刊「記録」99年6月号掲載記事

         *            *            *

 三月一九日の月曜日、国会議員の中村敦夫さんとともに巣鴨地蔵通り商店街を私は歩いていた。区議会議員選挙の運動のためにである。一軒ずつ商店を廻り、商店主や通行人に挨拶を繰り返した。
 私が立候補を決意したのは、半年以上も前のことになる。六ヵ月の停職処分の裁判における役所の対応が、その大きな原因である。
 当時、カラ超勤を証明する決定的な証拠を、私は裁判所に提出していた。その証拠とは、端的にいえばカラ超勤のためのマニュアルとも呼べるものだ。ある職員が作成したその書類には、カラと見えないようにするためにはどうするべきなのか、具体的な方法論が書かれていた。

■そんなばかな話があるか

 この証拠を前に、区役所の代理人はぬけぬけと言い放った。
  「これは一職員が作った個人文書に過ぎません。つまり公文書ではないのです」
 公文書ではないから、カラ超勤の証拠にはならないという主張である。だがマル秘と書いてある文書が、どうしたら個人の文書となるのだろうか。
 もし役所側が語る通りなら、文書を作った一職員の行動は奇怪極まりない。ありもしないカラ超勤を想定して、どうすればバレないかを想定。その方法論をワープロで打ち込んだうえに、ごていねいにマル秘の印まで押して保管してきたことになるからだ。それも職員としての仕事と関係なく。
 役所の代理人の浮き世離れした説明を聞いて、役所の自浄能力のなさに、私は改めて暗たんたる気持ちになった。裁判に勝ったとしても、これでは役所のカラ超勤体質の改善は進まない。
 ――もう区議会しかないかな。
 それが私の結論だった。区議会でこの問題を取り上げ、事実を指摘していけば、役所が変わる可能性だって出てくる。
 そして私は立候補を心に決めた。
 立候補するにあたって、まず最初の問題となったのは、私が役所の職員だったことである。
 というのも行政職員は、選挙に立候補することで、自然退職させられてしまうからだ。たまたま私は現業職員という立場だったので、この規約には触れない。だが現業職員でも、行政事務を担当している職員は自然退職しなければならないという規約があることがわかったから大変だ。
 公文書を作るのも行政事務の一部には違いない。選挙に落ちた途端、いきなり区役所を辞めさせられたのでは堪らない。
 そこでまず職員課に問い合わせると「選挙に立候補しても、現業職員は自然退職にはならない」という。だが役所相手に口約束など信じられるはずもない。文書を出すように私は要求した。
 さすがにいつも私ともめ続けている職員課だ。ほどなく文章が作られ、私の手元に送られてきた。
 だがその文書には、区長の印もなければ、担当課長の印すらなかった。それどころか文書を制作した担当者の名前さえない。マル秘文書を公文書ではないと言い張る役所が相手なのに、こんな文書を信じるわけにはいかない。選挙が終わったところで、そんな文章は職員が個人で作ったものだと言われ、自然退職の手続きが取られても抵抗のしようがない。
 そこで、さっそく職員課に電話をし、文書の不備をただすと、「区長の印など簡単にもらえるはずがない。こちらを信用してもらうしかない」などという。一体どうすればこれだけ嘘をつかれた役所を信じられるというのだろう。仕方なく、区長に内容証明の郵便を送りつけることを伝えて電話を切った。
 やはり内容証明の郵便には、効力がある。
 時間はかかったものの、私は区長から自然退職にならないお墨つきをもらい、選挙運動へ突入することができた。

■一日三〇ヵ所で演説の日も

 区民への私からの働きかけの第一歩は、「豊島区行革一一〇番」のビラを一軒ずつ区民のポストに配ることだった。選挙のために私を売り込むというのではない。区民が知っている区政の悪事、区に対する区民の不満などを集めるネットワークを作りたかったのだ。
 三月のはじめ頃だった。私は五時一五分に職場を出ると、まっすぐに家に帰り、食事を済ませ、ビラを持って出かけた。まだまだ春というには早い季節。ジャンバーを着込み、さらにその上に膝丈のナイロンのオーバーを着てひたすら豊島区を歩き回った。
 翌日は、もちろん仕事が待っている。それだけに無理はできない。七~一〇時までの三時間が、ビラ配りに使える時間の限界だった。
 もちろん体力的にも、決して楽ではない。
 歩き回った翌日は、ふくらはぎが張り、脚全体に疲れが残る。だが休むわけにはいかない。必死に歩き回っても、一晩で配れるビラは五〇〇~七〇〇枚にしかならないからだ。
 結局私は、三週間にわたって配り歩き、一万枚近くのビラを投函し終えた。
 職員や町会長に配った時には、ほとんど効果を感じなかったビラだが、さすがに区政に不満を持っている区民からは反応があった。職場から帰ってくると、「ビラを見ました。がんばってください」というメッセージが留守電に吹き込まれていたことも少なくなかったからだ。
 役所の職員として働いている限りは、カラ超勤やカラ出張など当たり前のことだと思ってしまう。だが一般企業に勤めたり、自分で商売をしている人にとっては、役所の常識などは通じない。ビラの反応を見て、改めてそう感じた。
 区議選の選挙運動期間は、わずか一週間しかない。その間に、区内三〇五ヵ所の掲示板に自分のポスターを貼りつけ、そのうえで街頭演説なども行わなければいけない。
 五日間の有給休暇を取り、すべての労力を選挙に向けて集中したが、その忙しさは半端ではなかった。晴れている日には、ボランティアの人達と区内を回った。一日に三〇ヵ所を回って、街頭演説したこともある。小さなスピーカーをボランティアに持ってもらい、およそ三分間、自分が立候補した理由を述べ、豊島区行政の浄化を訴えた。
 雨の日と夜はビラ貼り。
 人出の少ない雨の日に演説をするよりは、少しでもビラを貼ったほうが効果があると思えたからだ。
 選挙期間中の雨はひどかった。掲示板に叩きつけられた雨が、滝のように流れ落ちる。タオルで自分のポスターを貼る場所の水気を拭き取り、急いで貼らなければならない。私は雨合羽を着て貼り続けた。
 選挙管理委員会から提供された掲示板が記入してある地図は、ポスターを貼りに行くたびにボロボロになった。家に帰ると広げて乾かしていたが、最後には渡された三枚の地図が読みとれないほどまでになった。
 三〇五ヵ所の掲示板のうち、私が自力で貼ったのは、八〇ヵ所。二〇〇ヵ所は三名のボランティアの人達が貼ってくれた。残り二五ヵ所近くの掲示板は、私のポスターを貼ることなく選挙日を迎えてしまった。
 五七八票。
 それが私が得た得票のすべてだった。今回の当選者で最低の得票数は、一三〇二票。つまり七二四票 届かなかったわけだ。だが選挙を通じて、私は応援者を獲得した。

■闘いの果てに手にしたものは

 二〇年近く前、私はたった一人で役所と闘っていた。誰も応援してくれる人もなく、いじめられ、病気とも闘いながら、不正を訴え続けてきた。そんな私が五七八人もの支援者を持った。ギリギリだけれども、法定得票数にも達した。
 それが私には幸せだ。
 気がつけば、人生の約半分を区役所との闘いに費やしていた。好きで始めたわけでもない。攻撃されたから、自分の身を守るため、そして最低限のモラルを守って働きたいと始めたことだった。私は役所との闘いに楽しみを感じたことなどない。だが自分の人生を後悔してもいない。
 確かに闘い続けてきたことで、親孝行も充分にはできなかった。しかし自分が信じたことを、行い続けてきた自負が私にはある。それが私の誇りとなっている。
 私が闘い始めた頃とは、社会も大きく変わった。情報公開条例もできたし、行政訴訟で市民が勝てるようにもなってきた。私の裁判も、近いうちにされほど悪くない結果を生むと思う。
 連載は今回で終わりだが、裁判結果はいつかご報告したいと思っている。読者の皆様には、長期にわたりご声援をいただきありがとうございました。(■了)

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内部告発・豊島区は税金泥棒/第19回

■月刊「記録」99年5月号掲載記事

      *           *           *

 平成九年四月から出勤することになった新しい職場は、総合体育場といい、区の外郭団体である「コミュニティ振興公社」に統合されている一部署であり、体育施設の維持管理が主な業務である。先月紹介した通り、「コミュニティ振興公社」の上層部には私の仇敵ともいえる人々が勢揃いしていた。そんな職場が働きやすいはずはない。小さないじめが、日常の業務のところどころに顔を出した。

■レッテルを貼って送り出す

 私だけに業務連絡が届かない。担当の仕事を任されることもなく、脈絡のない仕事ばかりをさせられる。チクリチクリと針で刺されるかのように、私の神経を逆なでする出来事が続いた。
 なかでもショックだったのは、「どーうしようもない職員が来る」という噂が、配属前から職場中に広められていたことだった。噂の出所はまもなくわかった。それは所長であった。配属後のある時、私は当時の所長に「なぜ私には、行き当たりばったりの仕事を与えるのか、なぜ、まとまった仕事を与えようとはしないのか」と質問したことがある。すると所長は即座に「貴方は余分な職員だからだ」と正面から答えた。私はどちらかといえば鈍感な性格である。しかし、そこまで正面から言われたのでは「はぁ、そうですか」と終わりにするわけにはいかなかった。
 カチンときたので「なぜ、私は余分な職員なのか説明してほしい」と突っ込んだ。以下所長の返答である。
  「貴方の当体育場への異動は、こちらで望んで来てもらったわけではない。職員課の人事担当から『五十嵐という、箸にも棒にもかからない、どうしようもない職員がいる。彼を異動させたいのだが、どの部署でも願い下げだと言って彼を受け入れるところがない。何とか面倒を見てやってくれないか』ということだからやむを得ず受け入れたまでだ」ということであった。
 私は、これを聞いて、またまた望月治夫職員課長の辣腕に感服せざるを得なかった。停職中に私の戻るべき専従宿直業務を廃止に追い込み、復職後は、有無をいわさず自転車対策係に異動させ、二ヵ月にもならないうちに、さらに職務命令をもって一方的に外郭団体に派遣する。派遣先には、「どうしようもない職員」というレッテルを貼って送り出す。
 総合体育場は外郭団体であるから、出先機関の出先にあたる。当然、私と役所間の長い確執など知るよしもない職場である。役所の眼には、おそらく総合体育場が、私を厄介者として押し込めておくには、最適の場所として映ったのだろう。まさに職員課長は(それが誰に対してかは言わないが)、忠犬ハチ公そこのけの忠臣ぶりを発揮したわけである。 
 こうして、私はただの厄介者として、新しい職場で働き続けることになった。

■第二月曜日に出頭命令

  「どうしようもない職員」とのレッテルが貼られているのであれば、なおさら私は、細心の注意を払って働かなければならないはずであった。しかし異動してきてすぐ、私は同僚にひどい迷惑をかけてしまったのだ。
 毎月、職場が猛烈な忙しさに見舞われる日がある。それは第二月曜日だ。この日は、野球場・テニスコート利用日の抽選日となっている。この日に、私は二回続けて休むことになってしまった。同僚から「この日だけは休まないでくれ」と言われていた日であった。
 実は役所側の弁護士が、その第二月曜日を裁判日に指定してきたのである。弁護士を頼まず、本人訴訟で行っていたため、裁判には私が出席しないわけにはいかなかった。それでも、続けて二度までは愛嬌で我慢もしよう。しかし三度続いた時には、さすがに腹が立った。
 三回目に指定された時、私はさすがに頭にきて、第二月曜日だけは指定しないようにと裁判長に願い出た。そのかいあってか、以降、第二月曜日は指定されてはいない。しかし裁判を抱えていることなど知らなかった同僚達は、私の二回の有給休暇に、かなり怒っていたという。
 ほぼ月一回のペースで、裁判は開かれている。その一日を、三回連続で第二月曜日に指定してきたのだから呆れてしまう。事情をよく知る役所側が狙ってやったことだろう。私の職場での立場が悪くなればなるほど、役所側にとっては好都合なのだ。セコイといえばセコすぎる嫌がらせだが、こうした小さな積み重ねが職場の人間関係には大きく影響してくる。そしてこの二年間も、私には細かい攻撃が繰り返され続けた。

■カラ領収書のオンパレード

 しかし遂に、私と役所との形勢が逆転する日がやってきた。役所にとっては残念なことに違いないが、先日、裁判は、ついに私に身方した。
 私の提訴から逃れるために、九七八万八五二七円もの食糧費支出を、加藤一敏区長が豊島区に返還したのだ。 今から二年ほど前に起こしたこの裁判は、情報公開制度を利用して、豊島区職員が支払った食糧費の明細を引き出すことから始まった。予想された通りだったというべきか、公開された領収書は偽造のオンパレードだった。
 まず領主書に記されている通し番号が日付通りに並ばない。店からカラの領主書をもらい、適当に日にちを記入したものだから、通し番号まで合わせることができなかったのだ。
 また、店が作ったはずの領収書に、なぜか豊島区の公文書で使用されるゴム印が使われたりもする。領収書を作った区の職員が、何の気なしに押したのだろう。このゴム印など、領主書を偽造している決定的な証拠だと思うのだが、役所側は例によって認めようともしない。区役所で使っているゴム印を、店の店員がどこから手に入れ押したというのだろう。偶然で済まされるはずはないのである。
 さらによく利用する店の場合には、区役所は口座振替で代金を支払うのが通常であるのに、怪しい領収書に示された金額は必ず現金払いにされている。なぜ口座振替にならなかったのかは説明するまでもないだろう。金融機関に証拠を残すことなく、お金を動かしたかったからだ。
 もっと決定的な証拠もある。
 平成九年五月七日、フジテレビの報道番組で豊島区の食糧費疑惑が報じられた際、領収書を切ったはずの店の主人が、「白紙領収書に役所の職員が記入したものだ。うちの店はこんなに高くない」と発言しているのである。
 これだけ証拠が出そろっていても、区役所側は「支出は適切」などと裁判で主張し続けていたのだから救いはない。だが、ここでカラ領収書の存在を認めれば、私が指摘し続けてきたカラ超勤も説得力を持ってくる。役所には、それが怖かったのだ。
 最初、私はこの裁判に勝てるかどうか不安だった。
 いくら証拠がそろってはいても、裁判所が認めてくれなければ勝つことはできない。それまでの裁判経験から公的機関を追い込むのがどれほど難しいかわかっていただけに、私が入手した証拠がどれほど意味を持つものなのか、今ひとつ自信が持ずにいたのだ。
 しかもこの裁判は、弁護士を雇わない本人訴訟である。
 いくらこれまで裁判を何度か経験しているとはいえ、弁護士が行っていた仕事を自分で行うのは並大抵のことではなかった。まず裁判に必要な手続きの詳細がよくわからない。さらにどのように裁判を方向づけていけばいいのか、審理の進め方がわからない。そんなところでマゴマゴしている私をうまく導いてくれたのは、いつでも裁判官だった。役所と私の争点をしっかり見据えて、公平に裁判指揮をしてくれたのだ。

■様相を変えつつある私の闘い

 裁判所からは、まず領主書を発行した飲食店に送付嘱託命令が出される。つまり店側に、本来保管してあるべき領主書の原本を提出するように、裁判所からお願いをするのだ。この命令には強制力がないため、「どこにあるのかわからない」などという理由で、店側は証拠の提出を拒んできた。しかし、この時の店側のショックは、想像以上に大きかったはずだ。
 カラの領収書をくれとお得意さんに言われ、何の気なしに領収書を渡したがために、ある日、裁判所から命令書が届くのだ。もとよりカラの領主書なのだから、原本を店が保管しているはずもない。きっと区の担当職員には、店から苦情が入ったことだろう。
 そして次に、強制力を持つ命令書、証拠提出命令が裁判所より発行された。原本などもとから持っていない店側と、証拠などないとは言わせられない役所側は、さぞやあわてたことだろう。さらに四月から、区長が変わることも決定し、自分の悪事を新区長に引き継ぐわけにもいかないお役所事情にも迫られたことだろう。
 こうしたにっちもさっちもいかない状況を前に、加藤氏が選択したのが、請求された食糧費の全額返還だった。返還すれば、私には訴えの利益がなくなり裁判が終わる。そうすれば店への提出命令も撤回される。そう思ったのだろう。
  「相手側の主張を認めたのではないが、区長を退くにあたって跡を濁したままにしたくない」(『東京新聞』三月二三日付)。これが全額を返還した加藤氏のコメントだ。人を喰った言い分には、ほとほと恐れ入る。
 だが彼の予測は外れた。裁判は結審とならなかった。なぜ全額を返還したのか、その理由をハッキリしろと、裁判所は役所側に言い渡したのである。
 私の言い分を認めていないのに、言われた通り金は払う。この矛盾した言いぐさを、どうやって論理的に説明するのかは、今後の注目点になるだろう。
 食糧費返還のニュースは、朝日・読売・東京各紙の社会面で報じられた。それなりの大きさで扱われ、私自身が驚いたほどだ。ただただ孤独だった私と役所の闘いも、少しずつ様相を変えつつある。少なくとも、武器もなく、展望もないゲリラ戦からは脱却しつつある。
 この食糧費の裁判の行方は、私の停職処分に対する裁判にも少なからず影響を与えるだろう。二七年間にも及ぶ役所との闘いは、何らかの幕引きに向けて動き出している。 (■つづく)

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内部告発・豊島区は税金泥棒/第18回 異動に次ぐ異動

■月刊「記録」99年4月号掲載記事

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■停職明けは日曜日

 六ヵ月の停職処分が空けた日は、なぜか日曜日だった。指定された日が、そうなのだから仕方ない。職務命令違反になるのも嫌だったので、バカ正直に出勤した。
 案の定、日曜日の八時半なんて誰もいない。とりあえず宿直室に出向いたが、宿直の当番に当たっていた昼間の職員は、けげんそうな顔をして私を出迎えただけだった。
 それならばと庁舎の三階に総務課を訪ねてみた。だが、ここにもいたのは庁舎係長だけ。彼に出社の旨を伝えると、「そんな話は聞いていない」と言う。それならばと総務課の係長の実家に電話をすると、「今日じゃない。明日だ」と素っ気なく言われてしまった。
 当たり前だ。日曜日に停職が明けるわけもない。それでもついつい疑ってしまう。勝手に命令に逆らえば処罰の対象になるからである。疑り深くなってしまった自分に苦笑しながら、その日は自宅に帰ることとなった。
 翌日、ついに本当の出勤日を迎えた。ゼロからのスタートという気持ちだった。
 次に処分をくらえば、間違いなくクビ。ここまで追い詰められはしたものの、停職中に反撃ののろしをやっとあげることができた。情報公開で得た書類は、私の裁判を大きく変えていくに違いないと確信させるに充分だった。役所側に攻撃の糸口をつかませないよう、自分の言動には細心の注意を払わなければならないが、当時の私と役所の立場は五分と五分。本当の勝負は、ここから始まる。そう感じていたからこそ、ゼロからだと感じたのだろう。
 役所の三階、いつもの総務課を訪ねると、予想外の言葉に驚かされることになった。なんと「どこの所属になるか決まっていないので、決定するまで宿直室で待っていてくれ」と鈴木敏万総務部長が言う。停職中に所属している部署がなくなることも珍しいが、職場復帰した時に、所属が決まっていないのは尋常ではない。
 仕方なく、宿直室でボーっと、配属が決まるのを待っていることとなった。ところがいつまでたっても辞令が来ない。やっと呼び出されたのは、午後三時過ぎだった。ところが「今日は決定しなかったので、明日、また来てくれ」と、言われたのだ。
 果たして役所は、本当に私を働かせる気があったのだろうか。働かせる気がなかったから、所属を決めていなかったのではないか。当時、私の頭の中では、ある疑惑が頭をもたげ始めていた。
 実は、職場復帰の数日前、近藤勝弁護士の事務所に「五十嵐が処分を受けないように気をつけろ」という不気味な匿名電話が入ったのである。私の弁護士事務所に電話をかけていることから考えて、役所と私の闘いに関与している人物に間違いはない。そのような人物が、わざわざ電話をかけてきたのだから、役所になにかしらの動きがあったのだろう。しかも出勤当日になっても、所属が決まっていないという。勘ぐりたくもなる話だ。
 ただ私にとって幸運だったのは、初出勤の二日前から、豊島区のカラ超勤の問題を『東京新聞』が、二日連続で大々的に報じたことだ。マスコミが区の不正に注目しているとあれば、その不正と闘っている私を簡単には処分できない。マスコミの視線を感じた区当局が、私に対する処分計画を見直したのではないか。確証はない。だが、それならばすべてのつじつまが合う。不気味な符号を感じた。

■楽しい職場は許されない

 翌日、通常通り八時半に出勤すると、まだ所属が決まっていないという。結局、この日も半日に待機状態の後、所属異動の辞令を交付された。
 役所のお偉方、七~八人に囲まれて言い渡された配属先は、土木部交通対策課自転車対策係だ。何のことはない。放置自転車の撤去作業を行う係である。
 辞令の交付時に、助役に私は質問を申し出た。次の二点をどうしても問いただしたかったからだ。
 一つは、役所側が一方的に専従宿直制度を廃止しておきながら、私の所属する組合にも、影響を直接受ける本人にも廃止の合理的な説明をしていないのはなぜかということ。もう一つは、宿直勤務の職員の中で、どうして私だけ希望の配属先を聞かれなかったのかということだ。
 だが助役はたった一言、「質問は認めない」と切って捨てるように答えただけ。処分の口実を与えるわけにはいかない私は、こんな命令さえ忠実に守らなければならなかった。
 辞令をもらうと、すぐに所属の部署に向かうこととなった。土木部長の部屋に入り、まず部長に挨拶。この時、私はちょっと驚かされた。土木部長がごくごく自然に対応してくれたのだ。これは前の総務課では考えられなかったことだった。もちろん課長も二〇代の二人の同僚も、部長と同様に普通の態度で接してくれた。
 確かに仕事自体は、それほど楽ではない。出勤後すぐに車に乗り込み、外部業者と共に駅に向かう。放置自転車に警告を知らせる小さな紙を貼り付け、警告に従わなかった自転車を所定の場所に撤去する。
 トラックの荷台に上げ下ろしする自転車の台数は、一日で一人約一〇〇~二〇〇台ほど。昼休みの時間を除いて、一三、四時までの外部作業である。
 ところが私には、この職場が全く苦にならなかった。勤務時間が短く感じられるほど、外での作業も楽しかった。何よりありがたかったのは、誰もが普通に接してくれたことだ。職務命令違反を念頭に置いて、気を張りつめている必要もなかった。正直、これは良い部署に異動になったと感じていた。
 だが、楽しそうに仕事をしていれば、役所は許すはずがない。平成九年二月に配属されたのに、もう同年三月下旬に異動の命令が届いたのである。これには私も驚いたが、もっと驚いたのは同じ課の職員だったようだ。
 ようやく仕事にも慣れ、さあこれからだ! と思っていた矢先である。もうしばらくこの部署で勤務させてほしいと、私は課長に頼み込んでもみた。それに対して彼も、「よしきた。職員課に働きかけてみるよ」と、快く承知してくれた。だが、ここでも望月氏が私の前に現れた。「職務命令だから」。その一言で、私の異動は一方的に確定されたのである。

■上司の名前に驚愕

 豊島区コミュニティ振興公社の第二事業課の総合体育場。それが四月一日からの職場の名前だ。室内の弓道場、卓球場そして人工芝の野球グラウンドの維持・管理・使用料の窓口徴収が仕事である。役所はついに私を庁舎内から外へ押し出したわけである。
 しかも初出勤の挨拶で、居並ぶ公社の幹部職員の顔を見た時、私は「あっ、なるほど」と合点がいった。自転車対策係に異動させてまだ二ヵ月にも満たない私を役所側が、なぜ再度異動させたかの具体的な意図が理解できたからである。
 まず、公社の理事長が近藤秀夫助役なのだ。ご存じの通り、私の一五日、三〇日、六ヵ月の処分に積極的に関与した人物である。
 第一事業課長には、中島康博。
 総務課の課長時代に、私の停職三〇日の処分に同意した上司こそ彼であり、退職後、この公社に天下りしていたのだ。しかも当時、彼と私はカラ宴会費用の返還訴訟をめぐって法廷で対峙していた。もちろん被告と原告の関係である。被告には区長、他二名となっていたが、その他二名の一人こそ中島第一営業課長であった。最も多くのカラ宴会を主催していた人物として訴えた相手が上司とは、驚くばかりだ。
 それだけではない。
 近藤理事長と中島第一営業課長の二人は、公社職員の懲戒処分を審理し、決定できた機関の構成員として名前を連ねてもいたのである。
 これが私の新しい職場だった。(■つづく)

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内部告発・豊島区は税金泥棒・第17回 逆襲

■月刊「記録」99年3月号掲載記事

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■54万円の請求書

 役所の攻撃は、一通の手紙から始まった。差出人は望月治男職員課長。先月も触れた通り、上層部の指示に忠実に従い私を追いつめるために、あらゆる努力をした人物である。彼の名前が書かれた封筒が、ろくな話を運んでくるわけがない。案の定、中から現れたのは月々の天引き分として、9万円を毎月支払えという、合計額54万円もの請求書だった。
 決まった月給をもらい続けていると気にしないものだが、共済掛金が2種類、福利関係が6種類、会費が2種類の計10点が給料から天引きされている。
 この天引きに役所は目をつけたのである。
 停職処分によって給料が支払われていなければ、当然、天引き分もなくなり、直接私に請求することができるからである。
 手紙が届いたのは、停職処分が始まって14日後の8月22日である。貯金を切り崩す不安な生活に、なんとか算段を付けた頃を見計らっての攻撃。こうなると怒るというより呆れてしまう。もちろん私には、54万円もの現金を一括して払うことはきわめて難しいうえに、9万円を毎月支払う余裕もなかった。困ったときの頼みの綱と考えていた共済組合は、停職中の職員は借用資格者の規定から除外されている。
 しかし9万円を払わなければ、今までの天引き分の効果は中断してしまう。そのなかで気になったのは1年掛け捨ての両用給付保険、団体傷害保険、グループ保険である。これらは事故・病気・障害にあって入院あるいは通院した場合に、一定額の支払保証を受けられるシステムである。もし事故に遭ったら、病気になったらどうしようとも考えたが、ないものは仕方がない。なにか起きたらその時はその時だと腹を括った。幸い停職期間中に病気はしなかったものの、一歩間違えればかなり悲惨な状況になっていただろう。
 前述の保険などは、支払わなければ私に不利益が降りかかって終わりだが、なかには請求を無視するだけでは済まないものもある。税金だ。住民税などは、前年度の収入によって支払う料金が決まる。もちろん現在の収入が減っても、支払は変わらない代物だ。

■差し押さえ予告は赤文字で

 望月職員課長から追い打ちをかけるように、住民税の支払い要請書が送りつけられたのは8月23日だった。つまり前述の一通目の手紙を受け取った翌日である。どうせ出すならまとめて発信すればよいのに、あえて発信日を1日ずらして送付してくるというやり方、気のつき方にはホトホト感心した。このような考え方のできる職員こそが職員課長に最適な人物と、加藤区長は判断しているのかもしれないなと、ふと思ったりもした。
 以下参考としてその全文を掲載しよう。
「平成8年度分住民税の納付について
 無給期間中は特別徴収(毎月の給料から差し引いて納める方法)ができません。このため平成8年9月分からは普通徴収となり、ご本人が直接納めていただくことになりますのでご了承下さい。なお納税方法については、普通徴収として改めて住所地の税務課より通知書が送付されますのでよろしくおねがいします」
 カラ出張カラ転勤の存在は全職員が知っている。当然職員課長も知っているはずだ。同課長も一職員であった時には受領しているはずである。ところが彼は、カラは過去にも現在にも存在していないと組合交渉の席上で断言し、私の処分に同意し、涼しい態度で停職中の私にこのような文書を送りつけてくる。私としては彼を見事な処世術の達人として讃えるしか言葉がない。
 その後も、総務部税務課から停職中に白色の普通の納付請求書(11万3000円)が二度送られてきた。一回目は普通の請求書、二回目は督促状。そして復職後に三回目と四回目の請求を受けている。
 最後となる四回目の請求は、10年12月7日だった。黄色の用紙に赤文字で、差押事前通告書と書かれていた。金額は22万5000円、延滞金が6万4400円、催告期限は12月17日。警告文が赤文字で「もし期限までに納付がない場合は、法の定めにより財産の差押処分をすることになりますので、差押の実施に先立ち予告いたします」とある。
 11年2月現在、私は上記の住民税を支払っていないし、差押の執行は未だ行われていない。
 納税は住民の義務であり同時に権利であるから住民税は支払う。しかし今は支払うつもりはない。なぜならこれらの送付書は、区政中枢の圧力手段以外のなにものでもないと、私は判断しているからである。常識で考えれば、こんなことが公然と許されてよいわけがない。私が住民税を払うのは、停職処分取り消し訴訟の帰趨が最終的に確定したときだ。その際、延滞金については加藤区長にきっちり支払っていただくつもりでいる。
 次に私の所属する労働組合の組合長と副組合長の奇妙な動きにも触れよう。6ヶ月間の停職処分への提訴直前、この裁判を担当する近藤勝弁護士の事務所を、この二人が訪ねたのだ。6ヶ月の停職処分に対する訴訟を起こさないほうがいい。また組合は訴訟を支援できないと言ってきた。その理由は、カラ出張カラ転勤の証拠を示さないからと、訴訟を起こせば、私がひどい目に遭うからだという。ひどい目に遭うとは区長による停職6ヶ月より進んだ処分、つまり免職処分を意味するのだろう。アポイントを取って近藤弁護士を訪ねることに異論はない。しかし当事者の私も連れていかず、訴訟支援拒否を担当弁護士に言いに行くとは何事だろう。しかも私が所属している労組のトップがである。本来なら私を役所側から守る立場にある組合が、役所側の利益にしかならない訴訟支援拒否をするなど信じ難い。むしろ断固応援するから五十嵐のために提訴してやってくれというのは組合の取るべき筋道のはずである。だが、これが私を取り巻く現実なのである。

■復帰の職場がなくなった

 穏やかな攻撃のあとには、必ず激しい攻撃が待っているものだ。もちろん豊島区役所も例外ではなかった。
 停職が5ヶ月ほど経過した12月末、またも望月氏から電話連絡が入ったのである。嫌な予感は外れない。宿直の廃止が決定したという。停職によって私が職場にいないのをいいことに、密かに進められていた、懸案の専従宿直職員制度の廃止を役所は脱兎のごとくに決定したのである。
 95年の9月末、15日間の停職処分に対する裁判を終結させる際に取り交わした合意書(宿直勤務において私が不利益を被らないようにすると役所側が約束した文書)を、彼らは捨て去ったのだ。彼らにとって都合のよい判決は尊重するが、不都合な判決は一顧だにせず無視をする。残念だが、これが今日の豊島区役所中枢の偽らざる真の姿なのである。
 今までの宿直職員の仕事は、今後昼間の職員がシフトを組んで代行するという。だが宿直業務の始まりは、昼間の職員による事務代行が、サービスの質を低下させるという理由だった。それをいきなり元の制度に戻すなど、納得できるはずがない。
「宿直の廃止は、組合と合意を得たのか」
 真っ先に望月氏に私が確認したのは、この点だった。望月氏は「同意を得た」と即答した。一体どうなってるんだと思い、この点を組合長に確認した。彼は「そんなことは言っていない。彼らは組合の反対を無視して一方的に専従宿直職員制度を廃止したんだ」と言う。どちらの意見が正しいのかは、結局わからない。しかし決定してしまえば、組合が騒いでも覆される可能性は低い。決まってしまえば、職員は従うほかないのである。
 またあとからわかったことであるが、役所は、かつて10余年にわたり宿直の架空勤務を繰り返していた同僚には、宿直業務廃止に伴う異動先の希望を聞いていたという。もちろん私にそんな話は一切なかった。
 結局、この年の暮れ、私は役所によって合意書を簡単に反故にされ、復帰するはずであった職場を一方的に廃止されたことになる。(■つづく)

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阪神大震災現地ルポ 第11回/部落差別問題は避けられない

■月刊『記録』96年4月号掲載記事 

  昨年の震災直後、神戸市の生田川公園(中央区)のテント村で避難生活を送っていた中山いさ子(仮名、60)さん達は、近くの市営新生田川住宅13号棟の住民だった。築23年の13号棟は、12階建の4階の一部が押し潰される「層崩壊」で全壊した。ここでは市営住宅が2棟全壊し、3人が死亡した。 

  取材した当初は全く知らなかったが、この住宅は同和対策事業で建設された「改良住宅」で、この地域は生田川地区と呼ばれる被差別部落だった。被災住民に仮設住宅が専用的に確保されていたのは、一般の市営住宅とは異なり、部落の生活環境改善のために建てられたという経緯があるからだった。 

  当時、生田川公園を取材したのは、三宮周辺では数少ないテント村で、周囲と比較すると被害甚大という印象を受けたからだった。須磨区の西村栄泰さんを最初から在日韓国人と知って取材したわけではなかったのと同じで、最近まで被差別部落と知らずに取材を続けていた。震災取材を続けるうえで、部落差別の問題を避けて通ることはできないと以前から思っていたが、そう思いながら、自分でも知らぬまま被差別部落の人々から既に取材していたのである。 

  意識して訪ね歩いたわけではなく、出会った被災者が在日であり、そこが被差別部落だった。それは、やはりこれらの人々に被災が集中していることを意味しているのだと思う。震災の社会的格差を、ここでも痛感させられた。しかも生田川地区は、改良住宅の建設が完了していたため、被災地の部落のなかでこれでも軽微な被災だったという。以前の様子を知る中山さんも「改良住宅ができていなかったら、生田川も長田のように燃えていただろうと語っている。 

  生田川地区は、神戸開港後に形成された部落で、昔は「新川」の名で呼ばれていた。戦前から戦後にかけて活動した社会事業家の賀川豊彦が、一時期ここで暮らしキリスト教の布教を行っていたことがある。もっとも、賀川はその活動とは裏腹に部落への差別意識が強く、当時から水平社の強い非難を浴びていたが。開港前の神戸は辺鄙な場所だったというから、部落・一般を問わず、多くの人々が他の都市から神戸に流入して、都市が誕生した。神戸の差別史研究書『ミナト神戸コレラ・ペスト・スラム』(安保則夫箸)によれば、神戸市内に点在していたスラムを被差別部落の周縁部に押しつける「差別政策の結果」、新川がスラムとして肥大化していったという。差別政策は当時の市域の東西両端で実施された。東端が新川で、西端が長田区の番町地区だった。

■ 常に差別のプレッシャー 

   新生田川住宅が被差別部落と知った時、正直いって驚いた。そして考えさせられた。生田川公園テント村には、自衛隊以外に行政からの救援が皆無だったが、それは差別とは関係なかったのだろうか。テント村の被災者はほとんど全員が13号棟の住民だった。中山さんは「学校よりテントの方が気が楽だったから」と言うが、公の避難所の小野柄小学校ではなく、隣の公園に住民がまとまっていたことに「見えない壁」を感じるのは、うがちすぎだろうか。「13号棟は日頃から団結していたから助かった」と被災住民の女性が語っていたが、その日常的な団結も、被差別体験から否応なしに培われたものではなかったのだろうか。 

  中山さんは、新川のスラムで生まれ育った。生田川は各地から人が集まってつくられた被差別部落だが「両親は神戸出身ではないし、私も地区の外で育ったから、差別された経験はない」と言う。それでも、彼女の子ども達がまだ幼い頃、「地区のこと遊ぶようになってから、うちの子が悪くなった」と、人から露骨に言われたことがある。子ども達の躾に厳しかった理由を、「あんな親だから子どもも、と言われたくなかった。まして同和地区だから、と言われるんだから」と述懐しているように、常に差別のプレッシャーを意識させられてきたことも、また事実なのだった。 

   2年後には改良住宅が再建される。就職・結婚などでいまだ差別の根強く残る状況を考慮して、これまでは一般の市営住宅よりも低廉な家賃に設定されていたが、建設コストの増加などから、再建後は数倍に値上がりしそうな見込みだという。経済的な負担が増すことは避けられそうもない。中山さんもこう語るのだった。「神戸市は、一般の地区も同和地区ももう同じだという。でも山手と生田川と、芦屋と番町と、誰が同じようにみてくれるのか。決して同じには見てくれない」。 

  改良住宅以前はバラックに住んでいたという中山さんは、小学校は戦争のため満足に学べず、新制中学は貧困から途中で通学していない。働きながら、同僚達が書くのを真似て字を覚えた。夫が健康保険や年金の手続きを怠ったまま他界、彼女はそれを長い間知らずにいたため、結局、無年金状態である。65歳を過ぎないと息子さんの扶養家族には入れないから、健康保険も割高になっている。本人も「苦労のし通しだった」と今日までを振り返る。これらの苦労が本人の言葉通り部落差別とは無関係だとしても(本当は差別によるものだとしたら尚更だが)、理不尽との思いが募る。 

「長いこと生きていれば、それはいろいろなことがあるよ」と、中山さんは明るく乗り超えてきた。その明るさに魅かれて、このところ神戸に取材に行くたび、彼女のもとを訪ねている。 (■つづく)

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サッチー報道についてのそれぞれの言い分

■月刊『記録』99年9月号掲載記事

■■■メディアは「当事者」になってはいけない サンデー毎日編集部

■過熱する「サッチー報道について」

 まさに「過熱」ということが問題だ。火をつけ、あおったのはテレビのワイドショーだが、当初のように、「約束の時間に遅れた」「醜いと言われた」だのの次元にとどまっていれば、芸能界のゴシップとして許される範囲であったと思う。また、この時点で、野村沙知代さんがテレビに登場して反論していれば、あるいはここまで長続きすることもなかっただろう。しかし、野村さんが黙っていても、視聴率が稼げるものだから次第にヒートアップしてゆく。もとより視聴率は時代、あるいは社会の反映であるから、重要視することを否定はしない。が、遺産相続訴訟の相手方の実弟を登場させて「姉は米兵相手の商売女」としゃべらせたり、コメンテーターに「刑事事件になればいい」と言わせるのは明らかに行き過ぎであり、テレビが論争の一方の当事者になったといっていいだろう。線引きが難しいことは承知しているが、メディアは「当事者」になってはいけない。
「野村沙知代」が表すもの

 野村沙知代さんは、言ってみれば「最後の闇」を利用して一人で生きていく術を身につけた女性である。かつて、こういう女性はうしろ指をさされるだけだった。が、テレビを中心とするメディアに登場して目立ち出すと(チヤホヤしたのはあくまでもメディアの側であるが)、カンにさわり始める。しかも、その取り上げられ方が、どうやら新しい生き方としてクローズアップされる「自己実現」というものを体現している女性としてである。
 これは、旧来の価値観に基づいてじっと我慢を重ねてきた人達、それが美徳だと思ってきた人達にとって心穏やかではない。今、日本は、自分達の築いてきた戦後というものの意味を問われ、グローバルスタンダードという名のアメリカンスタンダードの波に洗われている。そうした不安感が実は「野村沙知代」という形で表れているのではないか。その意味で非常に今日的な問題であると思う。

テレビは「清濁あわせ飲む」メディア フジテレビジョン広報部

■「サッチー報道」の扱いについて

 野村沙知代さんの報道に対する当局の基本的なスタンスは、節度をもって扱うということです。当初、この事件は、二~三日で報道が終わるものだと思っていました。もちろん、その小さな事件に広がりを持たせたのが、テレビ・ラジオ・週刊誌・新聞などのメディアだという問題はありますが、現在も私どもは大きな事件だと考えておりません。
 だから野村沙知代さんに対する報道を、他局ほど流していないのです。例えば記録的な大雨となった六月末、当局のワイドショー番組は、野村さんの問題を一切取り上げていません。他局は違ったようですが。
 ただそうはいっても、この問題に対する視聴者の関心は高い。それは事実です。あの年代のタレントが正面きって文句をいうことは今までなかったので、話題性もあります。テレビ局として、全く無視するわけにはいきません。
 そこで一方的な報道にならないよう、常に注意を払って番組を作っています。

■報道の姿勢が大事

 例えば野村さんを批判した本が出版された時、当局は本が出版されたことは報じましたが、本の内容まで言及しませんでした。内容に立ち入れば、当然、一方的な報道になりますので。また、野村さんが借りたまま返さないと一部で報道された花瓶についても、野村さんのコメントも取り、双方の言い分を放送するようにしました。もちろん新事実がないのに、ワイドショー的な手法で話を引っ張り、報道を続けるようなこともしていません。
 視聴者が面白いものをテレビで見たいと考える。それは批判できないと思います。そもそもテレビというのは、全ての要素が入っているものです。「清濁あわせ飲む」メディアですから。日常をそのまま含んだメディアといえるかもしれません。
 もちろん野村さんへの報道も、そういった側面があります。そのため視聴者からテレビ局に寄せられる声も、「もっとやれ」というものから、報道批判まで、一八〇度にわたる違った意見が同時に寄せられるわけです。
 だからメディア論として、どうして野村さんを取り上げるのか、あえて理屈をつけることに大きな意味があるとは思えません。むしろプライバシーに注意して、慎重に報道する姿勢が大切ではないでしょうか。
(談)

■社会現象として扱い報道 TBS報道

報道に際する注意点

  「サッチー問題」については、他局と比べるとあまり報道していないのが実情です。ただし全く取り上げないわけにもいきませんでした。
 私どもは、ある段階からこの問題が、いわゆる芸能情報を越えた一種の社会現象へと変わってきたと感じ、情報番組などでもそのような社会現象としての扱いで報道をしてきました。その際、個人バッシングにならないように注意するのはもちろん、人権にも配慮した報道を心がけてきたつもりです。

■「サッチー報道」現象について

 サッチー報道全般についてどう思うかという質問にはお答えできませんが、前述のようなスタンスを持って当社が報道してきたことを、ご理解していただければと思います。

■■■マスコミの公人として扱う テレビ朝日 情報番組センター長・栗原直汎

■「サッチー」を取り上げる理由

 野村沙知代さんを当局が報道するのは、第一に衆議院議員として繰り上げ当選の権利を持つ準公人であり、公職選挙法に違反している可能性が高いからです。
 選挙当時の名刺の一部やパンフレットには、「コロンビア大学に留学」という文字が入っています。この言葉は、選挙戦の「装飾品」とされました。
 学歴詐称で参議院議員に当選した新間正次氏が禁固六ヵ月、執行猶予四年の判決を受けたことからも、彼女の疑惑がどれほど大きな問題かわかるでしょう。浅香光代さんらが訴えていたのも、まさにその点だったと思います。
 彼女を報道する二つ目の理由は、準公人としてあまりにも品位に欠けるからです。地元の酒屋に届けさせたビールをあまったから換金させたとか、花瓶を返さないなど今までに報道された疑惑は二〇あまりにもなります。
 ただし彼女の品位を問う報道については、視聴者も多くを知るところとなりましたので、新事実が出ない限りは、もうこれ以上取り上げるつもりはありません。ただ公選法違反については、いましばらく経過をみて、状況を追ってはっきりさせたいと思ってます。
 浅香さんが野村さんを批判し始めた当時、私は、これは二週間で終わるネタだと思っていました。実際、野村さんが記者会見を開くなど、通常の対応をしていれば、その程度で終わるものであったと思います。
 それが、ここまで長引いた理由の一つには、しばらく一切の釈明を拒否しておきながら、報道が下火になった頃に、野村さんが痛烈な反撃をしてきたからです。講演会もそうですし、フジテレビ系の番組や「おしゃれ関係」への出演、『サンデー毎日』での反論など、どれも都合の悪い質問を受け付けない、一方的な内容でした。だから、関係者から反撃が巻き起こったのです。「サッチー報道」の第一幕を落としたのは浅香さんでしたが、二幕、三幕目を作り出したのは、他でもない野村さんご自身です。
 マスコミ界に限っていえば、彼女は準公人ではなく、公人です。テレビ番組にも出演していましたし、本も出版して相当額の収入を得てきた方です。だからこそマスコミの報道に、彼女からきちんとした回答をいただきたいと思うのです。

■「サッチー」の報道にあたっては

 確かにマスコミの報道全体をみれば、一部に行き過ぎた面はありましょう。例えば、三〇年以上前の彼女のプライバシーを暴くなどは、すべきではなかったと思います。あれは人間の品位を傷つける報道でした。当局でも、かなり昔の話が一度だけ報道されましたが、すぐにそのような報道は行わないように徹底いたしました。
 現在、「論点をハッキリさせて、粛々と報道せよ」と、番組制作のスタッフに私は言い続けています。ズルズルと視聴率を稼ぐように話題をひっぱる報道は、すべきではないと考えているからです。
 一時期、視聴者からもヒステリックな反響がありました。まあ、七割が「もうやめろ」という声でしたが……。しかし現在、そうした状況を越えて、公選法違反という本題に論点も戻ってきています。その点では、現在の報道状況は適正なものであると思っています。

■■■公益性・公共性が判断基準 週刊読売 記者・臼井理浩

「サッチー報道」は報道か?

■そもそも「サッチー報道」は「報道」と呼べるのか。
 今さらいうまでもないが、報道の自由は憲法上の保障を与えられている(二一条)。ただし、それは国民が国政に関与するための判断材料を提供するためだ。そして、憲法は同時に、個人の尊厳に根ざした名誉、信用、プライバシーなどの権利も保障している(十三条)。シェイクスピアだって、「私の名前を盗む者は私の財産を盗む者である」と言っている。
 どちらが優先されるかは、公人であるか、私人であるか、公益性・公共性の重要度によって、あるいは具体的な事象の具体的な表現によっても、変わってくる。個人を侮辱し、罵倒するような表現があれば、それ自体で公益性がないと判断される。したがって、公益性・公共性がほとんどなければ、それは興味本位、のぞき見趣味と呼ばれ、報道の自由の埒外にある。「報道」でもなければ「報道人」でもない。
 そうした自分の会社の報道倫理綱領はおろか、憲法や民法の条文を読んだことのない人達が、短絡的に「視聴者や読者が望むから」と番組をつくり、文章を書けば、当然、今のようなファッショ的事態になるだろう。単純な数字至上主義の果てには、法廷での弁護士とのやりとり、謝罪文と損害賠償命令の書類が待ち構えているのをお忘れなく。
 ところで、人権派弁護士は何をしているのか。 ※このコメントは、『週刊読売』編集部としてのものではなく、臼井記者のものとしていただきました。

■各メディア、それぞれの言い分 『記録』編集部

  「サッチー問題」について、各種メディアにコメントを求めた。コメントを求めたなかで、意外な反応を示したのは日本テレビだった。最初の取材申し込みに対しては、「貴誌とつき合いがないので、今回見送らせていただきたい」と広報局から断りの電話。ただ、小誌はかつて日本テレビ・プロデューサーを取材したことがあり、「つき合い」はあった。しかも他ならぬ広報局を通しての取材だ。
 そこで該当する記事を郵送し、再度申し込んだところ、「検討中です」と言われた。だが、日を改めてもう一度コメントをお願いすると「あ~、その件はお断りします」という答えだ。仕方なく取材に応じない理由を尋ねると、「お断りする理由なんてありません。理由を言わなければならないんですか」と、逆に詰問された。日本テレビは、サッチー報道にはきわめて積極的だった局ゆえに、おおいに「言い分」を語ってくれると想像し、期待したので驚いた。あの報道ぶりをみれば誰だってそう思うはずだ。
 その他、サッチー問題を比較的大きく報じてきた各メディアの「言い分」を簡単に列挙しておこう。
 『女性自身』編集部からは、「編集部では、記事がすべてと考えております。本誌のそれぞれの記事・企画でご判断いただければと思います」と、ていねいな答えが返ってきた。また『週刊女性』編集部からは、デスクから直々に電話があり、「問題は継続中でもあり、今はコメントを差し控えさせていただきます」という回答だ。過激な記事で知られる『週刊アサヒ芸能』も、「うちはあまり報道しておりませんし、まだ騒ぎの最中でもありますので、現在はコメントを差し控えさせていただきます。経過を見てから、考えたいと思います」と話している。どのメディアもコメントを出さないまでも、出さない理由ぐらいは語るものだ。
 さほどサッチー問題を報じていない『週刊ポスト』からも、「個々の事件について報道しているだけなので、サッチー問題全体については、コメントは出しにくいですね」との電話を受けた。
 少なくとも「検討」の結果、「理由」もなく「お断り」するようなメディアは、一つしかなかったわけなのである。

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鎌田慧の現代を斬る/基地縮小の声をつぶすな

■月刊「記録」1996年10月号掲載記事(表記は掲載当時のままです)

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■最高裁判決への憤り
 沖縄問題は、政府と沖縄の関係だけではない。アメリカ政府と日本政府の関係の問題である。日本政府が、アメリカとの軍事同盟を解消すれば米軍基地はいらなくなる。この問題が解決しないのは、政府がアメリカとの対等の立場で交渉しないからである。
 9月8日、沖縄の住民投票は、沖縄の米軍基地縮小整備と日米地域協定の再編に賛否を問うための投票だった。結果は、米軍基地縮小と地域協定見直しに賛成482538票、反対46232票となった。投票率は59.53%だったが、これは8月4日に行った巻原発建設に対する住民投票の投票率より少なかった。しかし人口3万人の小さな巻町と127万人が生活する沖縄とでは、規模がまったく違う。この状況で89%もの賛成票が集められたことは、沖縄県民がいかに米軍基地問題で苦しんでいるかを明らかにものがたっている。
 投票の方法も「基地反対」が×印といったものではなく、基地縮小整備に賛成という非常にわかりにくい方式だった。無効票が12856票あったのかも気になる。 この投票は8月28日に下された最高裁判決に対する憤りも強く反映していると思う。私も判決を聞きに大法廷に出向いたが、沖縄の人達の想いを汲まない最高裁の態度に腹がたった。新聞などでも報道されているように、開廷したあと三好達裁判長は「主文、本件上告を棄却する」と言っただけで、15人の最高裁判事は全員逃げるようにして退席した。
 この時の沖縄の人達の深い失望は、その後の法廷を包んだ怒号にも表れていた。もちろん沖縄の島々で判決を知った人の失望も大きかったはずだ。傍聴に来ている人は1時間半近く法廷に座ったまま、「裁判長を出せ、どういうことだ」と声をあげ、不当な判決を追求しようとさえしていた。沖縄の戦後50年にわたる苦難の歴史をわずか数秒の判決で片付たのだ。彼らの強い怒りは当然のことだ。
 証人尋問で弁護団側が申請した23人の証人が却下された段階で、沖縄に住む人のナマの声を聞く姿勢が裁判所に全くないことは判明していた。しかし最高裁判事がここまでひどい態度で臨むとは、沖縄の人達も考えていなかったのではないか。15人の最高裁判事のうち実際に沖縄に行った人がどれだけいたのだろうか、沖縄の基地の存在による生活の不安や苦しさを、彼らはどれだけ感じることができたのか。結局、判決も杓子定規的な法律解釈に終始し、沖縄の想いは踏みにじられた。
 判決は「今回の土地使用認定に、無効となるような瑕疵(落ち度)は認められない」と断じ、地方自治に対する署名代行の申請にも違法はなく「知事の署名代行事務の執行の懈怠(怠慢)を放置することで、著しく公益が害されることは明らか」との「意見」を示した。これは大田昌秀知事を訴えた国の論理とまったく同じであって、最高裁の独自性はほとんどみられない。

■三権分立の放棄

「上告人(大田知事)の署名代行事務執行の懈怠を放置するときは、被上告人(橋本竜太郎首相)が本件各土地を駐留軍の用に供することが適正かつ合理的であると判断して使用認定をしているにもかかわらず、那覇防衛施設局長は、収容委員会に対する裁判申請をすることができないことになり、その結果、日米安全保障条約、日米地域協定に基づく我が国の国家としての義務の履行にも支障を生ずることになることが明らかであるから、上告人の署名等代行事務執行の懈怠を放置することで、著しく公益が害されることが明らかであるといわざるを得ない」。
 この判決に強調されているのは、日米安保、日米地域協定に基づく沖縄米軍基地の存続が国家としての義務だということだ。代理署名しないことが「著しく公益を害する」のであれば、公益とは何かと尋ねたくなる。
 公益を国益とする政府の見解に対して、沖縄の人達が訴えてきたのは、戦後50年にわたる米軍の占領状態や、米軍基地のおかげで個人の土地が強制収容されていることや、先祖代々の土地で米兵が度重なる人権侵害を起こしてきたことに対する切実な想いだ。さらには公益という大義名分のもとに、アメリカ本国の戦争に協力させられた悔しさだ。もうこれ以上戦争に協力したくないのに、強制的に協力させられてしまう不幸。アメリカ本国の国際戦略に沿って、沖縄が戦争に巻き込まれる現実。朝鮮戦争、ベトナム戦争、湾岸戦争などの国際紛争では、紛争地に向かう最前線基地として何度となく沖縄が使われたのだ。
 このような状況が公益に合致するのかどうかという議論を放棄して、最高裁の判決は下された。沖縄人民の利益と国の利益はまっこうから対立しているにもかかわらず、司法は両者の利益を判断しようともしなかった。そして最高裁判決は、「土地を駐留軍の用に供すること」を「公益」としたのだ。この判決は司法機関が3権分立を放棄し、国家機関として政府の方針に迎合する姿勢を明らかにするものだ。
 7人の裁判官から補足意見も提出されているが、これも国家と人権問題、土地の強制収容問題などを自分の頭で考えようとする熱意はない。「司法裁判所の審査に適しない性質の問題が介在している」(園部逸夫裁判官)、「司法による審査の限界を超えるもの」(大野正男裁判官など6人)。この補足意見を読んでみてもわかるだろう。彼らは自己で判断する機会を完全に放棄したのだ。
 日々発生する問題が適法で有るか否かを判断する責任を司法は持っている。にもかかわらず「外交上、行政上考慮すべき問題を比較検討すべきであるから、裁判所が一義的に判断するのに適切な事項とはいえない」と判決を下しているのだ。戦後50年経ってなお対米従属の姿勢は変わらず、変えようともしない。このような状況のどこに三権分立があるのだろう。

■住民いじめの「基地ころがし」

 行政に対する従属だけを考えた司法は、沖縄の人達の窮状については、いっさい耳を傾けなかった。
 沖縄において米軍基地に対する反対運動が起きたのは、少女暴行事件が発端だった。しかし運動が盛り上がったからといって、米軍による人権侵害がなくなったわけではない。米兵による暴行や交通事故が継続して発生し、報道されていた。
 沖縄では、戦後にもかかわらず準戦争状態が続いている。つねに戦争の危険にさらされているのが沖縄の人達だ。それは県道104号越えに実弾演習が行われていることからも明らかだろう。こういった状態を政府は放置し続け、本土に住んでいる日本人も目を向けることはなかった。自分達の生活の繁栄だけを目指して生活してきた。沖縄県民の窮状に対する無痛覚は、同じ日本人として恥ずかしい行為だ。
 少女暴行事件が報道されてから、政府は米軍基地を縮小整理する方向で話を進めている。しかしそれさえも抜本的な改革をしようとしているのではない。「基地転がし」によって、表面的な現象だけを押さえようとしている。
 臼井日出男防衛庁長官による静岡県の東富士演習場や山梨県の北富士演習場などの、実弾演習場移転候補地を抱える知事との話し合いは、まるで移転へのアリバイ作りだ。各県知事からの猛烈な反発は当然だ。日本の領土で不当に演習する米軍の駐留地を、沖縄以外の県で探そうという発想自体が間違っている。沖縄の人達が訴えてきたのは、日本全体の米軍基地そのものを具体的に整理縮小していく道筋であって、自分達の苦難を他人に引き受けてもらおうと訴えているわけではない。
 政府は国民の私有財産を守るべき責任があるのに、米国軍による「不法占拠」に向かい合おうとさえしていない。強い米国に立ち向かえない腹いせに、弱い地方住民の横面をはり倒すように「基地ころがし」をするのは、きわめて卑劣な行為だ。

■第2の琉球処分

 沖縄は太平洋戦争時に、日本で唯一日米の地上戦が行なわれ場所だ。本土決戦にそなえる時間稼ぎのために、多くの沖縄の人が死んでいった。この時行なわれた日本兵による沖縄住民の虐殺や集団自決の強制、波照間への集団移住によるマラリア患者の大量発生など、極めて悲惨な歴史を沖縄県民は忘れてはいない。被害を押しつけた本土の人間の身勝手を忘れていない。しかも戦後50年経ってなお、沖縄をくいものにする構図は変わっていないのだ。
 戦後日本の発展は、軍備を必要以上に増強せず米軍を駐留させ経済発展だけに力をつぎ込む「安保タダ乗り」によって得たものだ。もっと厳密に言えば、沖縄に米軍基地の75%を押しつけて本土の人間が繁栄をむさぼってきたのだ。日米安保の条約通り米軍を駐留させるのは国家として当然のことだといった理論を認めることはできないし、沖縄の人達に対する視点の欠落はどのように説明されても納得できない。
 国際紛争時には最前線基地となり、米兵による犯罪は多発する。そんな沖縄の状況にも、日本人(内地人)は平然と繁栄の享楽にひたっていた。日本人の沖縄問題に対する無関心は、アジアの人に対する戦後補償問題への無関心と同じだ。
 そもそも日米安保条約は、実質的な「日米戦争同盟」にほかならない。つまり日本は米国の国際紛争に参加しているのだ。このような同盟関係が、現状に即しているのかどうかを考える必要がある。
 8日に行なわれた住民投票は、基地を押しつけて知らん顔をしていた内地人に、沖縄の人達がはっきり基地縮小整理と地域協定の改善を訴えた。橋本首相も大田知事との会談で50億円の特別調整費計上を発表した。もちろん沖縄の経済振興は必要であるが、米軍基地返還の要請は先延ばしするわけにはいかない。いつまで、「琉球処分」を続けるのか。(■談)

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鎌田慧の現代を斬る/住民投票と原発

■月刊「記録」1996年9月号掲載記事(表記は掲載当時のままです)

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■投票率82・9%

 反対12478票、賛成7904票。
 8月4日、新潟県巻町で行われた原子力発電所建設計画に対する住民投票は、予想された通りの結果に終わった。嫌なものは嫌だという極めて明快な結論が出たわけだ。
 82・9%という投票率の高さからも、とにかく自分達の想いを投票に表わしたいという住民の意思が伝わってくる。一方で賛成票が8千票近くまで及んだことは、予想より少し多かったかもしれない。反対運動の盛り上がりに、政府と東北原発側はなりふり構わぬ巻き返しを展開した。原発の視察と称しての観光ツアーなどは買収行為そのものだ。
  もし政府と電力会社がてこ入れしなければ、賛成票はもっと少なかっただろう。このような状況の中で、明らかな反対の意思が表れたことは、非常に大きな成果だと思っている。
 しかし問題は解決していない。住民投票の結果を受けてさえ、塚原俊平通産相は、「結果は、まだ十分な理解が得られていないことを示していると認識しております」と発言し、八島俊章東北電力社長も「(投票結果が)絶対のもという認識はない。さらに理解活動をするしかない」と発言している。
 国や電力会社は、原発に対する地元の理解が足りないため、住民投票で負けたと考えているようだ。
 実はその認識こそが大きく間違っている。理解が足りないのではなく、住民が自分で理解し判断したからこそ、こういう結果になったのだ。賛成に投じた7904人こそが、原発の実体を理解していない人なのだ。

■札束で頬をたたく「理解」

 今までは原発に対する正当な判断が下されないまま、建設が進められてきた。たとえば巻町での賛成派のスローガンは、「原子力発電で町の活性化を!!」だ。原発によってもたらされるカネだけが焦点になっている。
 原発自体を好きな住民はいない。交付金が増えるとか、地方議員にそれなりのメリットがあるとか、地元の土建会社の仕事が増えるとか、カネに換算した賛成票が国と電力会社によって作られた。これは原発に対するYES・NOの問題でない。
 電気事業連合会の荒木浩会長は、電源3法交付金が公民館などの箱モノ造りだけにしか使えないことを取り上げ、「カネの使い方を変えなければ、もう地域の理解を得られない」と発言している。
 ばかでかい公民館や体育館を造り続けていたことに対する反省のようだが、交付金の使い方を変えても、金で買収していく発想はまったく変わっていない。しかし札束で頬をひっぱたくのは「理解」ではない。
 一方、巻町のNOの声は、自分達の運命は自分達で決めるという意思が明確になったものだ。過去の原発建設は、国と電力会社が地方自治体の長や議会だけを洗脳して進められた。しかし巻町の住民は、原発の賛否を住民に直接問いかけなければ承知しないという一歩進んだ見解を示した。
 住民の「理解」とは、どういうふうに生活していくのかを考えることから始まる。生き方に対する問いだ。国や電力会社が考えるようなカネの使い方が問題なのではない。カネやモノでは原発建設を説得できない時代に入ったのだ。
 もちろんチェルノブイリや、スリーマイル、もんじゅなど原発事故によって住民が危険性を感じた影響はある。しかしそれ以上に、地方自治体を買収していくということに対する反発の強さを、国や電力会社が理解しなければいけない。
 成田空港建設反対運動でさえも、政府のやり方がまずかったと運輸省が住民に謝っている。時代は変わってきているのだ。国益になるからだとか、カッコつきの地元のためなどで、政策を押しつけるのは民主主義ではない。
 今度の巻原発の問題ではっきりしたのは、強権的に意見を押しつけることは、国であっても許されないということだ。このような当然の事実が、巻町だけに適用されるわけがない。そのような意味で他の地域に与える影響が大きい。

■戦争時の論理だ

 住民が原発をいらないと言っているわけだから、いやなモノを押しつけてるのは、住民自治に対する挑戦だ。「計画の凍結を考えていない」と談話を発表する江崎格通産省・資源エネルギー庁長官などは、地方自治の精神をまったく理解していない。
 たとえば何らかの開発で、100%良いとものがあったとしても、住民が嫌だと言ったら開発は進められない。住民の判断を無視して意見を押しつけるのは、そこに住んでいる個人個人に対する冒とくだ。原発政策が初めにあり、方針通りに建設して原発の発電量を高めていくのというのでは、国の方針自体が間違っているとしか言いようがない。
 さらに国にとって重要な政策を、たかだか地方の住民に任せられるかどうかといった意見も出ている。これは本末転倒だ。国家権力が国益を理由に、嫌がる市民を駆り立てるのは戦争時に使われる論理だ。市民が嫌うことを押しつける権利は、国にはない。
 憲法でも地方自治がうたわれている。地方自治とは住民の意志を尊重するものだが、投票結果が出た後の政治家や役人のコメントを読んでみると、その辺の意識がまったくない。このような状況下で国の押しつけに対して、嫌だと意志を明らかにしたことは歴史的な意味を持っている。

■中間派が反対派に

 住民投票で原発反対派が勝利した要因は、反対運動の柔軟性にある。反対運動していた人達が、町民にわかるような言葉で説得をし、運動家と町民が同じ視点で活動してきた。たとえば原発反対の意志を千羽鶴を折って伝える。ポールを立ててロープを張り、自分の気持ちを書いたハンカチをクリスマスツリーのように結びつける。自分達ができるささやかなことを、こまめにやってきたことだことで、反対派の声は町全体の声になった。だからこそ中間派といわれる人達が、中間派を踏み出し、市民として勇気をふるって反対派になった。
 国策があり、電力会社の膨大な金があり、極めて強権的にやってくる原発計画に対して、ささやかすぎるようにも感じられる運動が、町民の気持ちを捕らえていったのだ。
 さらに決定的に他の運動と違うのは、原発建設は住民投票で決めろと提起したことだ。住民投票条例の制定は、芦浜(三重県)、窪川(高知県)、串間(宮崎県)などでも行われた。しかしこれらの地域は、まだ原発用地の買収が進んでいない状況だった。それに対して巻町では、建設のための準備はほとんど整っていた。いうならば9回裏だ。そこまで追いつめられていたのに、住民投票で決めようという雰囲気を作っていった姿勢はすごい。

■1万人が自主住民投票に

 選挙はどこでも膨大な金をばらまいて行われている。地縁や血縁、買収などさまざまな要素で成り立っている選挙は、原発だけを判断したわけではなかった。ここに住民投票を行う理由がある。住民投票による政治判断は、議会制民主主義を否定するものだという意見もあるようだが、議会制民主主義の機能を真に発揮させる手段として、住民投票もあるのだと思う。住民の直接参加による決定は、間接民主制の強化につながる。
 巻町でも最初は住民投票の意義が認められずに、自主住民投票が行われた。これも驚くべき発想だ。住民投票といえば、町が主催しないとできないと思ってしまう。そのときに町がやらないなら自分達でやろうというのは、強い自治意識の表れだろう。
 自主住民投票にかかるお金も自分達で工面したほどの熱意とエネルギー。賛成・反対を超えて、結果を住民の意識に任せようとする住民への信頼感。この2つが、巻町に新しい流れを生んだ。
 当時の自主住民投票では、賛成・反対含めて10328票が集まった。小さい町で、町長が反対している住民投票へ行くことは、町の体制に反対することだ。自主住民投票行くこと自体が、なかなか大変なことだったのだ。それを吹っ切って、夜行ったり、見つからないように投票に来た人が1万人を超えた。
 さらに、反対だが投票に行けなかった人を掘り起こすために、住民投票条例を押し進める議員を町議員選挙で擁立した。住民投票をしようという選挙運動は、原発についてまだ結論出ていない人や、無意識的に賛成だった人に、もう1度考える機会を与えた。そんな選挙活動にともなって、原発に反対する人が増えてきのも事実だ。
■住民不在の賛成派

 今回の住民投票に向けて、反対派は小さな集会を開き、個別訪問で意見を聞いて回った。賛成派は通産省の役人や、電力会社の幹部が応援にかけつけた。カネと人を導入し、原発がなくなるとエネルギーがなくなると脅かしさえしたのだ。巻町の住民をどうにか説得しようと、外から応援を呼んだ賛成派と、自分達のことは自分達で決めるからと、外からの応援を入れなかった反対派。投票前に、どちらがどのような姿勢で運動にのぞんでいるのかがはっきりと表れていた。
 じつはこのような反対運動を支えてきた基盤が巻町にはある。それは町有地と反対派の共有地だ。原発建設の歴史の中で、建設予定地に反対派が土地を買ったことはなかった。巻町の場合は、敷地内に共有地があったため、建設前の検査を行う安全審査委員会を通過できなかったのだ。
 原発建設予定地に町有地が残っていることも前代未聞だ。もちろん町有地、国有地は、どこの原発予定地でもあるが、先に地方議員が買収されるので議会は売却を決定してしまう。ところがこの共有地が裁判で係争していた土地だったことが幸いした。ようやく町有地だと落ち着いた時には、原発に対する批判も高まっていたのだ。 原則的には、町有地は町長の先決権で、勝手に売ることができる。しかし住民達が納得しないうちに決定すれば、次の選挙が危なくなる。そんな力関係が働いて売却ができなかった。

■メーカーの陰謀にも負けない

 自民党内では、これからの原発立地ができないなど、不安感が広がっている。エネルギーが足りなくなるなら、また住民を説得しようと考えているようだ。しかし本当に必要なのは、これからのエネルギー政策をどうするのかを考えることだ。
 原発では1時間当たり130万キロワットを発電し、広いエリアをカバーしようとしていた。そのような政策を見直し、地域ごとの小さな発電所で補っていけばよい。風力、地熱、太陽などの発電方法もある。また原発ができることで要りもしない電気製品がさらに売れるともくろむ電機メーカーの陰謀に負けないことも重要だ。膨大な欲望をすべて電力でなかなう生活から、電気を少しでも使わない生活に変える時期がきている。
 巻町の住民投票を契機に、これから日本のエネルギー転換や、新しい生活の仕方の模索を始める必要がある。 (■談)

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鎌田慧の現代を斬る/JR偽装倒産

■月刊「記録」1996年8月号掲載記事(表記は掲載当時のままです)

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■JRは2重の不法だ

 国鉄分割から10年目を迎えるというので、さいきんでは、テレビ・新聞などのマスコミでもこの問題をあつかうようになってきた。
 問題は大きく分けると2つある。
 1つは、分割に反対していた国鉄労働組合の組合員を中心に、解雇された1047人の問題が解決していないということだ。
 もう1つは、国鉄清算事業団に残された旧国鉄債務の問題だ。債務は今年3月までで27兆6千億円にもなり、年間の日払いは1兆3千億円に達している。さらに、国鉄が分割された時点から比べて、長期債務は2兆1千億円も増えている。しかも、これらの債務はそのまま国民に押しつけられようとしているのだ。
 そもそも分割民営化は中曽根康弘首相(当時)が行なった政策だが、彼は、「1人の首切りも出さない」と国会で豪語していた。ところが実際は、分割政策に反対した労働者を大量に解雇したうえ、9年経ってもこの問題は解決されようとしていない。

新幹線の運転士を売店に回すなどの不当な配置転換で、国鉄は彼らをいじめ抜いた。さらには「人材活用センター」という場所に、国労の活動家たちを集めて、いっさい仕事を与えないでいた。
 僕は「留置場に送られた政治犯だ」と表現した。仕事から外して島に流したようなものだ。国鉄がJRになったあと、彼らを採用せず、結局クビにしてしまった。このような処置は、地方労働委員会でことごとく不当労働行為だと認められ、中労委でもほぼ同様の見解が示された。また現在係争中ではあるが、最高裁判所でも労働者側の主張が認められた判決もある。
 労働裁判所というべき公の労働委員会で、不当労働行為だと認定して、法律にもとづきJRは謝罪文を掲載したにもかかわらず、まだ採用していないのはどういうことか。不当労働行為というのは、労働法違反であり、その行為を認定されてなおかつ採用しないということは二重に不法だ。法治国家である日本で労働委員会の決定を守らないのは異例の事態だ。
 理由のない解雇を国が押し進めたため、景気が悪くなったら、簡単に弱者をリストラする風潮ができてしまった。また当時、国鉄民営化に反対ならクビにしろと動労が主張したことにより、自分に対立する組合はどうなってもいいというような風潮もつくられた。日本の労働運動に非常に悪い影響を与えたことは間違いない。

■国民の金を大資本が略奪

 東日本・西日本・東海のJR3社は黒字で、営業努力のたまものと言っているが、黒字は初めから予想されたことだ。もうかる部分をそのまま引き継げば、黒字になるのは当たり前。誰が経営してももうかる。ローカル線など儲からない路線を切り捨てて、売店などで運転士たちを働かせ、もうけをあげてきたが、これはすべての地域の住民や労働者に犠牲を押しつけて上げた利益だ。
 これらJR3社に対して、経営が厳しいのは北海道・四国・九州のJR3島とJR貨物だ。利益をあげるのが難しいのは、分割当時からわかっていたにもかかわらず、見切り発車してしまった。
 国鉄民営化は偽装倒産の方法そのものだ。会社を潰して、労働者をいったんクビにして、言うことをきく労働者だけを再雇用し、もうかる部分だけで再建していく偽装倒産は、悪徳経営者がよくやる手法だ。このようなきわめて前近代的な方法を、国家レベルで実施したのが、一般に国鉄改革といわれる代物だ。
 さて、27兆6千億円まで膨れ上がった債務だが、当初、赤字は国鉄用地とJRの株を売って埋め合わせることになっていた。この計画は、バブル経済まっさかりの時期のものだった。
 当時、東京や大阪などでの都心に広い土地が全くなくて大きなビルが建設できず、建設業界や不動産業界が困っていた。当時は中央・千代田・港の3区を中心にして、ものすごい土地買い占めが行なわれ、土地を売らない商店にはトラックが突っ込むなど、地上げ屋が起こした悪質な事件が連日報道されていたのを覚えている人も多いだろう。零細商店なども金で頬をひっぱたかれて追い出された。当時の土地は膨大な需要見通しがあったが、供給量は不足している事態だった。ウォーターフロントの建設計画なども、このような状況を改善するため、東京湾を埋め立ててビルディング街を造ろうとする計画だった。
 さらに都心の土地を少しでも供給するため、国有地を民間に払い下げていこうする方針を国がつくった。国鉄用地売却もこの方針に沿って立てられたものだ。実は国鉄の土地売買の前にも、都心の公務員住宅が政府の方針にもとづいて販売された。当時、これらの土地は暴騰して買い手が殺到したのだ。
 結局、土地を売った金で国鉄の赤字を一気に埋めようとする、バブル経済をあてこんだ大プランはバブルとともに沈んだ。日本で一番強かった労働組合を潰して、労働運動を静かにさせてしまおうとした試みは、一応成功したのだろう。国労のバッチを付けているだけでも処分し、言うことをきかないとJRに採用しないなど脅しをかけ、国労は分裂させられた。当時、40万ぐらいいた組合員も、現在では3万人ぐらいに減っている。しかし後に残された問題はかなり大きい。
 分割民営化は、国民が税金で支えた国鉄の財産の収奪と、労働運動を潰すという2つの目的があった。当時は民活という言葉が流行したが、要するに大資本を活性化するプランだった。
 株式上場も、国民の金を株主が略奪していく構造そのものだ。国民の土地と国民の金を、大資本が喰っていくのだ。当時、NTTの株は高騰し、国鉄本社だった丸の内の土地も、1坪8千万~1億円といった声があった。土地を買って、ビルを造ってもうけていくという思惑が外れて、こんどはそのツケを国民に回すということを政治家と大資本が一体になってやったのだ。
 今後も分割から10年ということで、御用学者を中心にさまざまな宣伝が出てくると思うが、彼らがいくらJRは頑張ったと言っても、前述のようにそれは当たり前の結果に過ぎず、むしろ思惑がはずれて増えた借金をどうするのかといった問題が重要だ。
 国鉄処分のやり方が悪質であったのは、国鉄つぶしの3羽ガラス(3悪人)とされた井出・葛西・松田の3人が、もうかるJR3社の社長にスンナリ納まっていることからもわかる。自分達で会社を分割して、社長に納まる下克上だ。

■時代に逆行の廃線

 分割以前から合理化の名の下に、収益の上がらない路線は、どんどん切り捨てられた。鉄道は公共事業だから国民の足を確保しなければいけないのに、もうからないという理由だけで切り捨ててしまい、周辺の過疎を促進させてしまった。北海道では使われなくなった駅を中心に、周りの集落が壊滅状態のところがいくつもある。当初、廃線の代わりに代替バスを走らす計画を立てていたが、鉄道とともに生きてきた町は結局壊滅してしまった。
 例えば松江から中国山地を抜けて山陽本線に通じる島根県の木次線は、今でもかろうじて走っているが、JR西日本が上場されると廃線になるのではと地元の人は不安に感じている。株式会社は、合理化によって利益を追求する。公共性とか住民の便利さは考えなくなるだろう。住民が便利になるとか、生活が豊かになるとかいう方向で国鉄の改革が進んでいない証拠だ。
 鉄道には「我田引鉄」という言葉もあるほどで、政治家が地元への土産にするとの批判もあるが、少なくとも住民の要望は存在する。政治家が利権にからんで引っ張ってきたという問題はあるにせよ、多くの地域に鉄道が走るのは悪いことではない。公害は生まないし、資源を喰うこともなく、より安全だ。最近はそういった観点から、鉄道が見直されてきている。ところが時代に逆行して鉄道を切っていくという政策を取っているのがJRなのだ。

■土建屋行政のなごり

 さらに新幹線の問題がある。国鉄の赤字が増えたのは、新幹線建設の赤字を引き延ばし、解決しないうちに利子が雪だるま式に膨れ上がったのが原因だ。何しろ新幹線が登場するまで国鉄は黒字だったのだ。
 新幹線は政治的な利権の対象で、田中角栄の利権も大きくからんでいる。今まで政治家の利権の道具として使われきたから、分割民営化以後は政治家との関係を切れると国鉄経営陣は公言してきたが、現在、新聞を賑わしている整備新幹線問題では、旧態依然として、政治家主導である。
 民間企業としてのJR各社が、リスクを背負って新幹線を走らせるのなら問題はないが、JRは新幹線の建設費をカバーできず、自治体の負担を求めている。これは旧国鉄と全く同じ構造だ。あれほど政治に利用されないといっておきながら、また国の資金を使って整備新幹線をつくれといっているわけだから、公共性の強い交通を民営化するという試みは失敗したというべきだ。
 地方行政も新幹線と引き替えに、多くのものをひきうけてきた。青森県の核燃料サイクル施設の建設などもそうだ。長崎県の場合は、原子力船「むつ」の入港の条件と、長崎新幹線が利用された。新幹線は中央政府にとっても、政治的利用の大きな手段となっていた。
 整備新幹線に関して、96年7月16日の朝日新聞は、「7月16日には都内で国会議員140人を含む500人が参加して建設促進総決起大会も開かれる」と報道している。しかし、新幹線の建設経費は上がる一方だ。東北新幹線の建設では、8800億円の予算が組まれたが、実際には2兆6600億円もかかっている。なんと計画の3倍だ。上越新幹線にしても、4800億円の予定が1兆6300億円もかかってしまっている。
 新幹線ができると便利になると思い込んでいるが、新幹線の開通にともなって在来線が切られるので、国民は高い運賃を払わなければならなくなる。出張旅費が浮くので大企業にとっては便利かもしれないが、これから造ろうとしているところは、国民生活にそれほど多くの利益をもたらすとは思えない。もちろん、あったほうがいいのだろうが、なくて困るといった問題でもない。空路も発達してきている。それでも政治家が造りたがっているのは、土建屋行政のなごりだ。

■カード破産の日本国家

 現在日本は、放漫経営が破綻して公債発行高で220兆円にのぼっている。それがこれからの若い連中に押しつけられ、一方では、湾岸戦争や米軍への思いやり予算など無駄に金を使っている。なんと96年度の米軍駐留経費の総額は、約6400億円にもなる。今の繁栄のためにだけに、後の世代にツケを回している。日本はところかまわず金を使ってカード破産の一歩手前のような状態なのだ。
 その金を貸しているのは銀行だが、銀行は国鉄の場合でも金利はちゃんと回収している。だから年間1兆3千億円の金利は銀行に払っているのだ。日本の経済も行き詰まり、政治改革も議論されているが、10年前の大盤振舞の政治、経済構造は、今でも変わっていない。さらに責任を取る人もいない。大臣も高級官僚もすぐ変わってしまう。
 大資本と結託した政治が変わらない限り、日本は後世に大きなツケを残し続けることになる。(■談)

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鎌田慧の現代を斬る/空の女工哀史

■月刊「記録」1996年7月号掲載記事 (表記は掲載当時のままです)

■鎌田慧(かまたさとし)・・・ルポライター。新聞記者を経てフリーになる。著書に『痛憤の時代を書く』『コイズミという時代』『自動車絶望工場』『家族が自殺に追い込まれるとき』『壊滅日本』『ドキュメント屠場』など多数。 

        *         *         *

ガルーダインドネシア航空の事故で、スチュワーデスの問題が問われている。緊急時に意志疎通できるスチュワーデスがいなかったのは、安全管理上の問題である。スチュワーデスは安全要員だのだ。
 最近、少し頼りなげなスチュワーデスが国内線にふえている。1年ほど前から、アルバイトスチュワーデスの採用が本格化したからだ。日本航空・全日本空輸・日本エアシステム・日本アジア航空・エアーニッポン・日本エアーコミューター・ジャパン=エア=チャーターの航空7社では、現在2000人のアルバイトスチュワーデスが乗務しているといわれ、96年度上半期にはさらに1000人以上もの採用が見込まれている。

 全日本空輸の普勝清治社長は6月4日の会見で、アルバイトスチュワーデスからの正社員採用について、今秋の100人枠に加え、来年度も100人以上を採用すると発表した。
 1996年6月、運輸省の航空審議会答申において、人件費削減の中心として発表。8月には亀井静香運輸大臣(当時)が、「安全性に問題がある」と発言して導入が再検討されたものの、94年9月には採用が決定した。 当時のマスコミ各社の論調は、「アルバイトの導入に反対をとなえる亀井発言は、スチュワーデスになりたい女性の夢を壊すものだ」といったものだった。しかしこのような論理は、問題の本質を握りつぶしている。この問題は、労働運動史において重大な意味をもっているのだ。
 航空会社は人件費の削減を盛んに唱っているが、バブル期には海外の土地を買いあさり、ホテルなどを建設していた。しかも円高で燃料の輸入費が大幅に下がり、かなりもうけている。バブル経済に乗って浮かれていたツケを、スチュワーデスの雇用に回すのは、あきらかにおかしい。経営者の責任が問われるべきだ。
 航空企業は公共性が高い。それは何よりも安全性を重視しなければいけないからだ。スチュワーデスは、ただのお茶くみではない。出発に際してはエンジン音を聞き、運航中も窓から外部の状況を確かめ、コックピットから見えない部分を補強して、安全に航空機が運行できるようにしている。
 もちろんシートベルトの確認など、乗客の安全を確保するのも大きな仕事だ。安全業務に携わるスチュワーデスの人件費を削ることは、安全より利潤を重視した企業の体質の現れだ。

■俗情を利用する航空会社

 スチュワーデスやパイロットの高給は安全保障の面から社会的に認知されてきた。つまり高い賃金は既得権として保証されてきたのだ。航空各社は、この既得権をはく奪しようとしている。
「社員の賃金をいじるわけではない」と会社側はいうが、労働条件が重大な改変に瀕しているのは明らかだ。アルバイトスチュワーデスの賃金は、地上勤務が1100円、乗務が1800円となっている。この時給を年収換算すれば約250万円となり、社員の半額以下になってしまう。スチュワーデスの人気にかこつけてアルバイト制度を押しつけるのは、やり方がきたない。
 またスチュワーデスやパイロットは華やかな職業のため、やっかみをうけやすい。本来、他人の労働条件を劣化させる必要などないのに、やっかみを利用して世間の俗情を喚起し、高賃金を押しつぶそうとする会社側の策略に、新聞社は乗ってしまった。
 華やかで高給な職業を切り崩せば、それを突破口に他の労働者の賃金もカットできる。今後、整備士などの航空会社全体の賃金にも影響をおよぼすだろう。一方で会社側は、スチュワーデスの華やかなイメージを売りにして宣伝を作り、安全業務に携わる専門職という実体を隠している。安全面から考えれば、スチュワーデスはベテランの方がよいのに、排除しようとする動きも問題となっている。これは一種のセクシャルハラスメントだろう。

■臨時工制度の復活

 今後は職場の退廃も大きな問題となるはずだ。
 同じ職種の中で賃金階層を意識的につくり、アルバイトから何人かを正社員に採用するシステムでは、アルバイトと正社員の間に大きな溝ができる。正社員への窓口を狭くすればするほど、アルバイト内で競争が起き、経営者の好きな条件で働かせることができる。1年ごとの契約更新で3年契約という厳しい労働条件のなかで、労働者は言いたいことも言えず、上司への点数稼ぎを余儀なくされる。このような前近代的な労働条件は、臨時工制度と全く変わらない。アルバイトスチュワーデス問題は、アルバイトに名を借りた臨時工制度の復活だ。
 臨時工とは、雇用期間があらかじめ決められている労働者をさす。52年の朝鮮戦争停戦以後、臨時工は急速に増加し大きな社会問題となった。しかし高度経済成長の過程で、労働組合が臨時工の本工化闘争に力を注いだこともあり、本工に登用される臨時工も増え、臨時工制度は撤廃されていった。
 本工になりたいと願う臨時工の希望を悪用することで、臨時工は会社や上司に従属させられた。また自分の下に差別集団があることで、本工は安心していた。このような職場環境は社会そのものを悪くしていく。さらに不況ともなれば、臨時工は本工を守るために、まっ先にクビを切られた。
 差別は職場内だけに止まらない。宿舎も本工がきちんとした寮なのに対して、臨時工はボロ長屋を与えられただけだった。本工化闘争で、「臨時工は本工の防波堤ではない」「臨時工も人間だ」といったスローガンが掲げられたのは、このような理由がある。

■プライドが状況を混乱

 近年、サービス産業においてアルバイターが増えてきている。いつでもクビにでき、身分保障もなく、賃金が安く、社会補償費のかからないアルバイターは、固定費をどれだけ安く抑えるかに悩む企業にとって、うってつけの存在だ。ところがアルバイター自身は、そのように考えていない。
 アルバイトスチュワーデス問題でも、安全性に影響が出ると論じると、アルバイターをバカにしていると反論される。同じ能力を持った者が、同じ仕事をしながら賃金や身分において差別されているの現状を考えれば、どちらがアルバイターをバカにしているかわかるだろう。

■経団連の方針のさきがけ

 こうしている間にも、問題は深刻さを増してきているのだ。航空労組連絡会の会議では、アルバイトスチュワーデスが発言できない事態も出てきている。平均給与が13~14万円といわれるアルバイトスチュワーデスは、働かなければお金をもらえない。有給休暇もない。病気でも会社を休めない。国際労働機関(ILO)でも、パート労働条約が採択され、フルタイム労働者との差別は国際的に認められていないにもかかわらずだ。
 またアルバイトスチュワーデスは国内線を中心に勤務するため、今まで国内線勤務だった正社員は国際線に乗務しなければいけなくなった。そのため家庭を持っているスチュワーデスは、家庭での生活を犠牲にしなければならない。
 アルバイト制度発足当初は、ジャンボ1機あたり新人乗務員は3人以下と決められていた。ところが現在では、アルバイト10人に対して社員が3人といった飛行機も出てきている。新人ばかりの飛行機で、何か事故があればどうなるのか不安だ。このような状況に乗客は無関心だが、命に関わる問題とわかっているのか。
 多くの問題をはらむアルバイトスチュワーデスは、すぐにでも正社員にして、問題を解決すべきだ。ところが、このような前近代的な雇用体系を経団連は推奨している。
 エリートである社員と使い捨ての柔軟雇用グループにわけて雇用する方針を経団連は打ち出した。アルバイトスチュワーデスは、実質的に経団連の方針のさきがけとなっている。
 アメリカでは三菱自動車でのセクシャルハラスメントが大きな問題となった。日本国内でさえ近代的な職場を作れない日本企業が進出先で批判を招くのは当然だろう。このことは何年も前から私も指摘してきた。問題として表面化しにくいアジアでも同様の問題が起こり、いずれは逆襲されるだろう。もう一度、企業のあり方を見直すべき時期にきている。(■談)

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もう1度バブルに踊ろう/第1回 500階のビルが建ち、50メートル地下に飛行機が飛ぶ

■月刊「記録」04年1月号掲載記事

■大畑太郎(おおはたたろう)…1969年東京都生まれ。大学卒業後、サラリーマンをへて、アストラに入社。共著に『ホームレス自らを語る』(アストラ刊)などがある。

         *        *         *

 暗い! 恐ろしく暗い話ばかりである。
 まず景気のいい話を聞かない。雑誌やマンガまで売れない出版業界はもちろんのこと、業績の悪くない一部のメーカーの社員からも、浮いた話は聞こえてこない。
 給料が下がったの、大リストラが行われているの、仕事がきつくなったの、もうグチのオンパレード。
 多くの人が自信を失っているようだ。その落ち込んだ気持ちを支えるためなのか、景気が悪くなるにつれて偏狭なナショナリズムも活発になってきている。
 これは、イカン!
 思い出してもらいたい。わずか15年ほど前、日本はバブル期のまっただ中にあった。誰もが明るい未来を信じていた。株価は軽く4万円を超え、地価は青天井で上がっていくと確信していた。1989年12月29日に記録した3万8915円の株価最高値以後しばらくも、多くの人が株価が再上昇すると思っていたのだ。今考えれば酔狂な話だが、経済の専門家から素人まで、なぜか本気で信じていたのである。
 しかし「信じる者は救われる」との言葉もある。あの熱狂が実体経済を反映してなかったとしても、当時のむやみな自信と異常なほどのファイティングスピリットは、今こそ必要なのではないか!
 さあ、あのバブルの熱狂をもう一度感じるべく、当時の仰天世相を一気に紹介しよう。気分だけでもバブルに踊っていただきたい。
 ただ、現実離れした話が多くて、ついて行けないかもしれないけど……。
千代田区に匹敵する床面積
  『昭和63年(1988年)版国土土地利用白書』は、東京近郊の地価上昇の原因の1つとして、「東京への機能集中による商業地の受給逼迫」をあげていた。つまり東京への一極集中にともなって、オフィスなどの商業地が足りなくなったと言いたいわけだ。
 このどんどん高まる土地重要を見込んで、今や壊滅状態のゼネコンも大規模な建設計画を発表した。
 例えば、1989年に発表された大林組の「エアロポリス2001」。まず東京湾の浦安沖10キロに、直径740メートルの人工島を建造し、そこに高さ2001メートル、500階建てのビルを建設するというものだ。
 もう、テンションが違う。
 高いビル建てるために、人工島を造っちゃおうというんだから。まあ、仕方ない。東京の商業地は、今後どんどん足りなくなる「予定」だったのだ。
 延べ床面積もすごいぞ。1100万平方メートル、なんと千代田区に匹敵するほどの大きさだという。このビルには30万人が就業し、14万人が居住する計画になっていた。総工費予算は、なんと46兆6300万円。もはや国家予算なみである。
 そして超高層ビルにつきものの免震対策には、かつてないほどのユニークな方式を採用している。ビルの傾きと反対方向に向かって、ジャンボジェット機以上のパワーを持つ水が噴射されるんだと……。素人考えなんですが、ビルは折れないでしょうか?
 もちろん未来への提案という形でまとめられた構想であり、実現には多くの壁があったと思う。しかし少なくとも完成予想のパースを描き、大枠の見積もりまで計算している。その程度の手間をかけるぐらいは、本気だったということだ。今なら「こんな計画で?」と思うかもしれないが、それこそ“バブル・マジック”である。
 この計画を作った大林組も現在のゼネコン勝ち組に入っているわけで、夢を持つのはいいことだってことにしておきたい。
穴の中を飛行機が飛んでいく!
 しかし、こんな計画ごときで驚いてはいけない。ゼネコンの提案力(というか空想力かもしれん……)を、まざまざと見せつけてくれるのが、91年にフジタが発表した「ジオプレイン構想」である。
 一言で言えば、地中で飛行機を飛ばす計画だ。札幌・東京・大阪・福岡などの大都市の50メートル以上深い地下―大深度地下―に、直径50~56メートルほどのトンネルを掘り、その中で時速600キロの飛行機を24時間飛ばすという。80年代、多くの少年が夢中になった松本零時のアニメに登場する乗り物、空中にあるパイプの中を飛ぶ飛行機の地中版といったところか。リニアモーターカーに次ぐ、次世代の交通として提案したらしい。
 いや、このように書くと、あまりにバカらしく感じるかもしれないが、それなりの利点はあるらしいのだ。
 何より外を飛ばないから天候に左右されることがない。飛行機が欠航しても、ジオプレインは止まらないってことだな。大深度地下を飛行場とするため、近隣住民の騒音被害を気にすることなく、24時間の運行が可能となる。横風を受けないため、燃料効率も極めてよい。東京・大阪間ならジャンボジェットの4分の1の燃料で済む計算になるらしい。
 地球に優しいと低燃費の車として話題のトヨタ・プリウスでも、従来の車の4倍も走るかは微妙なところ。そう考えるとジオプレインのすごさがわかるのではないか(?)
 一番の問題は29兆円もの建設費をどうするのかということかもしれないが……。
 しかし、この計画を発表したフジタは、2002年10月に会社を分割し、不採算部門を別会社とした。1999年に取引銀行から1200億円の債権放棄を受けていながら不良債権の処理が進まず、苦肉の策として会社分割を選択したらしい。
 1989年には「ジオプレート構想」なども発表し、バブル当時は地下土木のパイオニアという印象もあったが、まさか十数年後に自社の経営状態が「地下」に潜るとは予想だにしなかったであろう。
 とはいえ91年は、すでに景気後退期に突入していた。そのさなかに発表されたのが「ジオプレイン構想」だと考えると、不安な兆しは見えていたのかもしれない。
 湾岸地域の開発を進めるウォータフロントの次に、大きな建設ラッシュをもたらすのがジオフロントだとの予測から、地中工事の技術をアピールするゼネコンは、フジタのほかにもあった。
 円筒状の掘削機を地中に入れて前方に掘り進むシールド工法で高い評価を得ていた熊谷組である。山手線や環七道路の地下化などの事業が大まじめに論じられたのが懐かしい。ただし熊谷組も2003年10月に会社分割を行い、フジタと同じく会社が「地下」に潜ってしまった。これらの企業が「トンネル」に強いのかと思うと、不思議な納得の仕方をしてしまう。
 いや、いかん。ゼネコンの行く末まで書いたら、すっかり気分が暗くなった。やはり私自身、不景気が身にしているからだろうか……。
「社会還元しろ」の声に従い過ぎた?
 せっかくフジタの話題が出たので、ぜひバブル期に行ったフジタの社会貢献についても書いておきたい。
 皆さんは「フジタヴァンテ」を知っているだろうか?
 ヴァンテはフランスで風を意味するらしく、訳せば「フジタ風」ということになるだろう。この施設は、フジタ本社ビルに造られた遊園地である。コンセプトは、「頭で遊ぶ、体で遊ぶ」だったらしい。「そりゃ、遊びすぎでしょう、フジタさん」とついつい思ってしまうが、それはさておき、フジタヴァンテそのものは素晴らしい施設だった。
 バブル期には大手企業がこぞって体験型のショールームを造ったが、フジタヴァンテだけは、ショールームの概念を完全に超えていた。15個ある遊具は、自社商品と関わりがわからない。(おそらくないだろう)
 その中で最もみんなを夢中にさせたのが、4分間の宇宙体験をシミュレートできる「コンセプター」だった。画面に合わせて動くシミュレートは、迫力十分。これがフジタと何の関わりがあるんだーといった思いも、乗り込めば一気に吹っ飛んでしまう。この施設の利用が、すべて無料だというから太っ腹じゃないか!
 フジタヴァンテについて雑誌の取材を受けたフジタの広報担当は、「企業利益の社会還元です。一時期よくいわれた“企業は儲けすぎる。もっと社会に利益を還元せよ”という言葉に従ったわけです」(『DIME』91年9月19日)と語っている。
 この後、銀行がフジタの債権を放棄し、そうした銀行の不良債権処理に血税が使われているのかと思うと実に腹立だしい発言だが、社会に利益を還元しようという態度はそのものは素晴らしい。最高利益をあげても、賃下げしようという企業もある今の世だし……。
 ちなみに雨後のたけのこのように造られたショールームは、フジタヴァンテを別にして残っているケースが多い。池袋にあるトヨタのアムラックス東京、松下電工のナイスプラザ新宿やNAISショウルーム汐留などなど。バブル期の遊び場というイメージからは遠のいたが、商品展示施設としては充実している。企業で進む激しいリストラの陰で「バブルの生き残り」がいるというのが、社員には気に入らないかもしれないけれど。
 振り返れば、とんでもない企画のオンパレードである。あらぬ妄想で突っ走ったとしか思えない。しかし、だからこそ熱気があった。短足を強調するあのダブルのソフトスーツだけは2度と着たくないが、バブルの勢いだけは少し分けてもらたい。
 みなさんも、そう思いませんか?  (■つづく)

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靖国を歩く/第37回 緊急現地ルポ緊迫!? 小泉参拝後の香港(奥津裕美)

■月刊「記録」05年12月号掲載記事

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 10月17日小泉首相が靖国に参拝した。8月15日に「いつでも来い!小泉」と鼻息荒く待っていた私の思いは届かず(届くわけないか)、彼は行ってしまった。
 しかも、そのニュースを知ったのは日本時間午後2時(香港では午後1時)くらい、NHKワールドプレミアムのニュースでだ。
 しかもそのニュースでは、香港の日本総領事館に向かって靖国参拝に関する抗議も行われたとも伝えていた。なんで領事館に向かってなのだろう、と不思議に思ったが、どうやら香港総領事館があるのは中環(セントラル)の交易廣場の46階らしい。
 そこには領事館以外の施設もあるので、靖国に抗議するのもいいが、同じ民族にも迷惑をかけているのは本末転倒ではないのか。
 靖国という単語が出ると必ずついて回るのが、中国や韓国から言われる「国民感情が傷ついた」である。傷つくのかもしれないが、それらを理由に会談などをドタキャンするのもどうかと思う。
 靖国は戦没者を祀っていて、慰霊・顕彰しているので戦争の象徴と見なされても仕方がないし、参拝されることで本当に感情が傷つけられている人もいるだろう。そこに弁明の余地はない。
 しかし、いつまでも靖国に参拝したから許せないといったり、抗議されるから行くのを止めたほうがいいという論議はなんの進歩にも解決にも繋がらないと思うのは私だけだろうか。
 それはさておき、本題であるこの約1ヶ月の香港の様子はというと、結論からいえば何もなかったの一言だ。
 靖国参拝の抗議には必ず、「国民感情を傷つけられた」という一文が入るが、傷つけられているとは到底思えない日々。
 ビックリするくらい何もない。中国といえば、4月17日に起こった大規模な反日デモを思い出すが、香港でも行われてはいた。香港から近いシンセンでは、日系スーパーのジャスコが襲撃されたり、上海では日本料理屋が攻撃されていたのは記憶に新しい。
 とはいえ、4月当時でもそういった激しい反日デモを直接見たわけではなく、テレビを通じて目にしただけ。私が実際に目にしたのは、いつもと変わらない香港での生活の中で、街中を練り歩く平和的なデモ行進だけだ。
 なぜ平和的かというと、近所でデモ行進が行われていたので見に行ったのだが、大人数でただ練り歩いているだけ、という雰囲気だったからだ。
 さらに言うならば、歩いている香港人の中には、日系スーパーの袋を持って歩いているという適当な人も何人かいたし、コース内にあるそごうや三越も襲撃されることはなく、シンセンでは襲撃されていたジャスコも無事で、ついでに満員御礼。買い物カートが一台もなくなる状況だったからだ。
 中国本土では日本人だというだけで襲われたと聞いたので、「お前は日本人か」と絡まれたときは、タイ人だのシンガポーリアンだのと答えておけばいいか、と考えていたが、そんな必要もなかった。
 靖国参拝後の香港の様子に戻そう。
 香港には日本のもの、店などがあふれているので、靖国参拝以降の日本に関連するところをウォッチしてみた。参拝直後の10月22、23日にビクトリアパーク(香港で一番大きい公園)で、「日本の祭」というイベントが開催されていたので行ってみた。
 会場は日本の観光地案内、イベント(エイサーの公演やアイドルグループのミニライブなど)、屋台で構成されていて、入場料に20ドル(約300円くらい)かかったが結構な人出だった。2日間とも行ったが、日本人以外に香港人も多かった。日本の食べ物屋台の行列に香港人も並ぶ。
 さらに会場内にはアニメのコスプレをした人や、白いフリルやレースのついた黒いスカートが特徴のゴスロリと呼ばれる格好をしている香港人などもいて、そういうのも海を越えて愛好者がいるんだな……と感心したりもした。
 祭の和やかな雰囲気が会場内には流れ、反日感情どこへやらという感じだった。
 さて、在住日本人にとって心休まる味と言えばもちろん日本食だが、香港にも回転寿司やラーメン店、居酒屋などなじみのものから、日本式(日式)のレストラン(日本風創作料理という趣)などいろいろある。
 日本人のみならず香港人にも人気のようで、特に回転寿司店の前には毎晩人だかりができている。
 私もよく行くが、週末は入るのに1時間くらいかかったりして人気ぶりが伺える。
 私の普段の食生活が露呈してしまうのでお恥ずかしいが、ほぼ毎日行っている某牛丼チェーン店も、ティーセットの時間帯に行くと、牛丼(並)と飲み物がついて約300円と安いせいかそこも香港人が多い。
 茶餐店というファミレスと喫茶店をミックスしたような店には「出前一丁」という即席麺がメニューに並んでいたりと、香港人の食生活の中に日本の食が入り込んでいることがうかがえる。食での日中友好はうまくいってるようだ。
 その他に、街中には雑誌や新聞を売っているスタンドがいくつもある。よく見ると新聞、雑誌、風水、アダルト雑誌に紛れて日本の女性向けファッション雑誌の日本語版や中国語版が置かれていたり、日本の人気漫画(『NANA』『電車男』など)の中国語版が売られていたりする。
 日本語の雑誌なんて読めるのか? と思うが、写真をみて楽しんだり真似したりするらしい。さらに、香港にも漫画喫茶があり、そこには中国語で書かれた漫画が多数置かれていたり、アイドルグッズやフィギュア、食玩(ミニチュア付きのお菓子)、キャラクターグッズなどを売っているビルがあったり、地元人が多い市場では、日本のアニメキャラクターのおもちゃなども売られている。
 映画は、邦画がコンスタントに公開されていて、今は女性の間で大人気の『NANA』が公開されている。
 ちょっと前は、純愛ブーム?を巻き起こした『いま、会いにいきます』『世界の中心で愛をさけぶ』『電車男』(「キタ━━━━━━(゜∀゜)━━━━━━ !!」とか画面に出るかわからないけど、香港人は意味わかるのか?などと考えてしまった……)なども公開されていた。
 日本の漫画『イニシャルD』など合作映画が作られたりと、エンターテインメントでの日中友好関係もうまくいっているようだ。
 経済や娯楽、一般生活の中では、なんら影響があるとはとうてい考えられない状況だ。
 上海や北京に暮らす日本人の間では、反日感情が高まった時、なるべく日本語をしゃべらない、企業の看板に布をかけるなどの防衛策をとっていたが、香港ではほとんど必要がないという感じだった。
 日系の塾に勤める友人からは、「バスに貼ってある紙の日本人という文字を隠す処置はした」ということを聞いたが、「特に敏感に反応する必要はなかった」とも言っていた。
 香港でよく見かけるのは、反日よりも中国の反共(反共産党)の文字を見かけることのが多い。さらに香港はデモが多いようで、12月も2回行われるらしい。どちらも日本には関係ないデモであるが。
 反日デモ以降、日本に住んでいる人から、「香港は大丈夫なのか」ということを言われることが増えた。
 デモが行われた時の日本のニュースには、連日日本料理屋を襲撃しているところや、領事館へ向かってペットボトルを投げているところばかり流れていた。
 そこだけ毎日流れていれば不安になるのは当然だが、同時にテレビの映像は偏りすぎているのではないかという印象を感じた。
 マスコミは反中国の思想を植え付けたいのだろうか、と思わせる構成が多い。マスコミは良くも悪くも視聴者に対して大きな影響を与える。最近は、その姿勢が顕著に表れているように感じるが、それでは中国の共産党体制と同じである。
 香港ではあるが同じ中国国内にいる私も、ここ以外の様子がよくわからないため、大丈夫なのかと心配になったりもした。私自身がそんなだから、日本にいる人が余計に不安になってしまうのは仕方がない。
 テレビから流れる映像と、実際の様子のギャップを肌で感じた今回の取材だった。
 100%安全・安心というわけではないが、香港だけに限って言えば、形だけの反日感情というように感じられた。活動家などは本気なのかもしれないが、一般市民に関していえば果たして本気なのだろうか、と疑問に思ったからだ。
 デモはお祭り。デモという名のパレード(日本でもたまにやっているが)といったところ。
 これは私の主観なので、本音はどうかは分からないが、仮に反日感情を本当に持っているのであれば、反日デモ以前、以後に限らず、寿司屋の前に人だかりはできないだろうし、日系スーパーやデパートへ来る客も少ないはずだ。
 しかし、現実は、今日も寿司屋の前に人だかりができ、日系デパートやスーパーへ足を運んでいるのだ。 (■つづく)

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靖国を歩く/第36回 トホホ……英霊めぐり in Singapore(奥津裕美)

■月刊「記録」05年11月号掲載記事

       *        *        *

 シンガポールのガイドブックを読んでいると、戦争に関する建物などが多いことに気づいた。直接靖国とは関連はしないが、やはり靖国ライターとしては行かねばなるまい! ということでそのレポートをお届けする。
 まず一番目。
 MRT(地下鉄)シティホール駅周辺をぷらぷらと歩いていると、突然現れる白い大きな4本の柱。
 その柱は高さ約70メートルで戦争記念公園(公園というより広場)内にある。ちなみにこの4本の柱はそれぞれ中国人、インド人、マレー人、ユーラシア人を意味しているそうだ。
 1967年に、シンガポール・日本の両政府の協力で建てられたこの塔の名称は「日本占領時期死難人民記念碑」といい、シンガポール占領中に虐殺された人の霊を鎮め、さらにこのような悲劇を繰り返さないように、という戒めの意味で作られたらしい。
 ガイドブックには、「戦争の悲惨さについて考えさせられる」と書いてあったので、どんなところなんだろうと少しわくわくしながら行ったのがいけなかったのか、圧倒的な存在感というより突然現れた白いトーテムポールという感じだった。
 街並みにとけ込みすぎていることに加え、シティーホールには国会議事堂や歴史博物館、マーライオンなどの見所がたくさんあるので影が薄くなってしまっているのはたしかである。それはそれでいいのだが、ガイドブックに書いてある肝心の「戦争の悲惨さ」は伝わってこなかった。
 このガイドブックを書いた人は、これを見て戦争について何かを考えさせられたのだろうか。
 では次。
 島すべてが一大アミューズメントパークになっているセントーサ島にあるイメージ・オブ・シンガポールという蝋人形館だ。
 セントーサはもう一つシロソ砦というところもある。日本軍に抵抗するためにイギリス軍が立てこもった場所らしい。中には入っていないが、セントーサをまわっているモノレールに乗ると一部であるが見ることができる。
 さてその蝋人形館だが、人形一つひとつがしっかりと作られていて、どれもがとっても本物っぽい。そのリアルな作りと少し暗い照明のおかげで不気味さまでもが際立っている。
 怖がりの私には迷惑なところだが、シンガポールの歴史、伝統、風俗を人形を使って説明しているので、わかりやすく知ることができるおすすめスポットである。
 靖国的目玉はシンガポールの歴史ではなく、1942年に日本軍がイギリス軍に降伏を迫るシーンと、1945年にイギリス軍から降伏を迫られる日本軍シーンの蝋人形の展示なのだが……これを見るために行ったにもかかわらず、その展示室は閉まっていた。
「なぜだ! なぜ閉まっている」と叫びたくなったもののこればかりは仕方ないので諦めることにした。
 それをカットして先に進むと、侵攻後のシンガポールの写真や占領下の資料が展示が。
 それ以前の展示では、中国語と英語のみの説明だったのが、日本語の説明が加えられている。これは「きちんと見なさいよ」という日本人に対するメッセージなのだろうか。
 丁寧に日本語の説明を付けてくれるのはいいのだが、日本語がめちゃくちゃで意味がわからない。日本語を話せるようになってきた外国人の話し言葉をそのまま書いている感じだった。
 笑っちゃいけないけど、真面目な文章の中に散りばめられるおもしろ日本語(たとえば、この蝋人形館の名前「イメージ・オブ・シンガポール」が「イメーヅ・オブ・シソガボール」となっていたりするところ)は、下手なお笑いよりもセンスがある。
 自分の語学力を考えると笑ってもいられないのだが、重要任務である旧日本軍の展示が見れなかったため、日を改めてくることにして、3つ目は日本人墓地。
 ここは第二次世界大戦以前にシンガポールで亡くなった人が埋葬されているらしいが、当時の南方総司令官も埋葬されているらしいので、とりあえず行ってみることにした。
 墓地は家から遠かったので、とりあえずタクシーに乗り「日本人墓地へ行きたい」と告げたところ、連れて行かれたのは日本人会。
「違う違う、日本人墓地、墓地に行きたいの~」と地図を見せ(持って行った地図は日本語表記だった)た。日本人墓地だから「Japanese cemetary」、セラングーンというところにあるので、とりあえず英語できちんと伝えたのだが、通じなかった?それとも運転手のおじさんが知らなかった?のか途中でタクシーを止め、携帯で「日本人墓地ってどこだ?」とどこかに電話。
 とりあえず場所がわかったのか、ローカルマップを手にして走ること約20分。ついた先は住宅地。
それも簡素な住宅地。その中にひっそりと佇む墓石。
「本当にここは日本人墓地なのか?」という疑問が。とりあえずその疑問をはらさなければ仕事は進まない。おじさんに待っててもらい墓地へと進む。
 日本人墓地というから、よくある日本の墓石みたいな感じなのかと思っていたのだが、実際はアメリカ映画で見るような墓石が並び、草がボーボーと生え、手入れもされていないところだった。
 日本人会があるんだから手入れくらいしたらどうなんだ? とはつっこまずに、写真をパシャパシャと撮る。
 そういえばガイドブックに「訪れる人はほとんどなく、住宅地の片隅でひっそりと静まりかえっている」と書いてあったような気が……。
 さらに「1895年にできた墓地で東南アジア最大の日本人墓地」とあるが、本当にそうなのか?と思わせる佇まい。手入れがされていないだけではなく、お参りしようにも入り口には棒が横たわっていて入るのを躊躇してしまう。
 なんというか、そこだけ時間が止まったままひっそりと存在している。そんな雰囲気だった。
 切ない気分になりながらタクシーに戻ったら足にチクッとした痛みがはしった。なんだと思って見たら蟻にかまれていた。
 せっかくセンチメンタルな気分に浸っていたのに、蟻のおかげで一気に冷めてしまった。
 タクシーのおじさんに飴をもらい気を取り直して、最後に向かうはクランジ戦没者祈念碑。ここは第二次世界大戦時にシンガポール防衛で死んでいったイギリス兵を祀った慰霊碑があるらしい。
 日本人墓地前でおじさんと「クランジ競馬場の近くにある」と地図を見ながら確認したので、問題はないだろうと思っていたが、また道を間違えてしまった。
 「このあたりなんだけど」とおじさんは言うものの、目の前に見えるのは、シンガポールの美しい街並みとは遠くかけ離れたスラムのような怪しい風景。
 とりあえず先へ進んでも何もないのでUターンしたら「モニュメント」という看板が!
 いやー、とりあえず着いてよかった。「曲がる?」と聞かれたのに「任せるよ!」と愚かなことを言ってしまったけど、着いてよかった。
 ここもひっそりと佇んでいたけれど、シティーホールの戦没者記念碑と違うのは、モニュメントの周りに墓石がたくさん並んでいたところ。墓地に祈念碑が建っていると思っていただければよいのだろうか。
 観光地というわけでもないし、行きにくいところにあるにもかかわらず、人がちらほら。たぶん地元民。
 周りは緑に囲まれ、墓碑も規則正しく並んでいる。きれいな青空、なだらかな芝生、爽やかな風、白い祈念碑と墓碑。なんという開放感。墓地なのに爽やかすぎる。 いいなぁ。お寺の横にひっそりと佇む墓地より、こういう開放感と爽やかさに満ちた墓地ならば埋葬されたいものだ。とはいえ、生きているからこういうところがいいと思うのであって、死んだあとは爽やかな風なんて感じられないからどこに埋葬されてもかわらない。
 墓地なのに墓地という気がしないここは、涼しい日に行くと気持ちいいのでおすすめ。      少し慌ただしい英霊巡りツアーだったが、なかなか楽しかった。楽しかったというのも変だが、いつもは日本で靖国へ行くくらいしか英霊とのつながりがなかったのに、日本以外の国にいる英霊を訪ねまわるというのは珍しいことだったからだ。
 シンガポール以外にも英霊が眠るところ、英霊にまつわるところははたくさんある。機会があれば他の国へ行って、日本以外で刻まれている戦争の爪あとを見て回りたいと、そんな気持ちを抱かせる旅だった。
 そういえば、イメージ・オブ・シンガポールの例の展示だが、別の日に改めて行ったところ、なんとその施設自体がクローズしていた。たぶん、改装でもしているのだろう。
 結局、シンガポール滞在最終日まで歴史的な蝋人形と出会うことができなかった。とほほ。またシンガポールへ行くかはわからないが、行く機会があれば今度こそはみたいものだ。 (■つづく)

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靖国を歩く/第35回 つのだ☆ひろで奉納だー!―みたままつり2005年―(奥津裕美)

■月刊「記録」05年10月号掲載記事

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 もう秋ですが、記録の靖国神社は夏まつりモードでお送りします。
 いつもは1人で「なんで1人なんだよ、クソッ!」などと思いながら取材していたが、今年は新人編集部員とバイトを引き連れみたままつりへ行ってきた。小泉効果で注目を浴びている最近の靖国はイベントがない日でも賑わっているが、特に混むのは、みたままつり(御霊が帰ってくる)、初詣(福引きもある)、8月15日(敗戦記念日――英霊の日?)だ。
 どれも暑さまっただ中か寒さまっただ中のイベントなので、本当は行きたくない。とくにみたままつりは最悪だ。祭はおもしろいし好きだけれど、暑い!  浴衣なんて着てしまうとさらに暑さ倍増。下り坂でさらにアクセルを踏み込むくらいの勢いで暑さが加速する。
 いつもは閑散としている参道に露店が並び、浴衣を着た若い子や、グループ、カップルが歩いている。夏の暑さと人の熱気、露店の鉄板などからわき上がる湯気が合わさってなんともいえない不快感。
 不快指数85(筆者が感じた指数)の参道を人を押しのけ進む。店から漂うおいしそうな匂いの誘惑にも負けず、私が向かったのは能楽堂。

■叩いて歌うつのだ☆ひろを発見

 靖国には様々な施設があるが、とりわけ能楽堂は影が薄い。私ですらその存在を忘れてしまう。能楽堂は、神門を入り遊就館へ向かう途中にある。テレビでしか能を見る機会がないが、当然テレビでよく見る舞台と同じ。
 みたままつり期間中の能楽堂では、朝から晩まで古武道、バレエ、マジック、日本舞踊、戦記漫談、津軽三味線など様々な奉納芸能が行われている。盆踊りや露店だけがまつりの見所ではない!  と訴えているようなスケジュール。しかもタダ。
 かつて私がよく足を運んだ神社の祭では、カラオケ大会が大きな目玉だったが、はっきりいって内輪受けでおもしろくなかった。
 以前、みたままつりは地元のお祭りだと書いたが、やはり社格の高い神社となると、やることもスケールが大きくなるのだろうか。相撲はともかくプロレスの奉納をしている神社なんてほとんどないし、歌手が歌を奉納するのも珍しい。
 ただの地元のお祭りではないという面と、他とはひと味違う神社だということをアピールしているのではないかと今回のテーマである、つのだ☆ひろのライブをみて感じた。
 7月14日夜7時から1時間も、つのだ☆ひろのジャズライブが堪能できるのだ。しかも無料。靖国が太っ腹なのか、つのだ☆ひろが太っ腹なのかよくわからないが、とにかくお得なのはたしか。
 つのだ☆ひろのプロフィールを簡単に書くと、中学時代からドラムを始め高校時代にプロデビュー、その後の活躍は書くまでもない。
 私は『夜もヒッパレ』という日本テレビの歌番組で『メリージェーン』を熱唱(出演者たちがチークダンスを踊っていた)している姿の印象深いが、実はすごい人だったんだね。食べ物の誘惑に負けずに会場へ着くとドラムの音やギターの音。そして英語でシャウトする声。そして会場を覆う人、人、人の山。その人数は、椅子席や立ち見客を合わせたらザッと200人はいただろう。
 若い人や中年客が目立つ。さらに舞台近にでは、ノリまくる30代くらいの女性や男性もいたりと、一瞬ここはどこなんだろうと頭を抱えてしまった。
 会場が能楽堂だというところが靖国だと気づかせてくれるが、それでもやはり靖国で行われているとは思えない雰囲気が会場を包む。
 お目当ての、つのだ☆ひろを探すが見つからない。歌声は聞こえるのだが、本人はいずこ……。
 目をこらして舞台をみると、いた!  ドラムを叩きながら熱唱するつのだ☆ひろが!
 ギターを弾きながら歌う歌手はいるが、ドラムを叩きながら歌うのは、石原裕次郎かカレン・カーペンターか、C-C-B(『Romanticが止まらない』)の人しか知らないが、ギターと違いドラムは叩くところが多い。一番疲れそうなポジションなのに、さらに歌う。頭の中が混乱しないのだろうか。
 そんなことを考えていたら違う曲になっていた。しかしジャズ中心で本当に神社の催しか?と思ってしまった。

■靖国神社の「裏の顔」に驚く

 靖国って一体なんなのだろうか?
 古い体質と威圧的なところもあるが、モダンなアプローチもする神社。
 首相が参拝すると中国から批判がわき起こり外交問題の原因のひとつになったり、戦争で国民の士気をあおることに使われたりと政治的な面ではあまりよくないイメージがある。
 その反面、競馬や相撲の会場になったりと、血なまぐささを感じさせない爽やかさを兼ね備えている。
 神社といえば、鳥居、賽銭箱、手水舎があって、お参りをしてお守りを買い、ついでにおみくじを引いて帰る、というのが一般的ではないだろうか。
 ジャズライブなんてないし、年に1回奉納相撲が行われるところだって滅多にない。こんなイベントが盛りだくさんなのはおもしろい。また祭神が英霊のため、戦争にでもなれば神様が無制限に増えていくことにも不思議さを感じる。一筋縄でいかないのが靖国神社だ。
 さて、ライブはというとジャズナンバーのメドレーを熱唱後、1度舞台を去り、アンコールのため舞台へ戻って来てオリジナル曲の『ありがとう』と童謡『ふるさと』を歌った。
 ジャズの激しいナンバーから一転、ゆったりとした曲調の『ありがとう』と、少しアレンジされた『ふるさと』で、火照った体を一気にクールダウン。
 バラードも聴かせるつのだ☆ひろ。芸の広さと引き出しの多さに感心。さすがはプロだ。
 感想を一緒に行ったアルバイトの女の子(19)に聞いたところ「靖国といえば国際問題で騒がれていて、厳格で近寄りがたく思っていました。しかしみたままつりはスポットライトに盆踊り、つのだ☆ひろが英国調の服でライブするといった場所だったことに驚きました」と言っていた。
 この数年間、靖国に何度も足を運び、書籍を読み、書き始めた頃よりも知識が身に付いてきた。しかし、イベント時に訪れる靖国は、私のいろんなイメージをいい意味で裏切ってくれる。
 イデオロギーとかけ離れたときの靖国は、ものすごく興味深い場所になる。なにか特定の思想や思惑が絡むと、靖国に限らずすべてのものは単調になり、退屈になる。イデオロギーで靖国を論じてしまうと、戦争のアイコンとしての靖国のイメージが底上げされるが、庶民のための靖国というイメージは薄くなる。
 ここ数ヶ月靖国がマスコミに何度も取り上げられたが、ほとんどがA級戦犯や参拝問題のことばかりだった。それは仕方ないのだが、もうすこし庶民のための靖国という面もクローズアップしてもよいのではないかと思う。正と負、光と陰、表と裏があるからこそ、個性も際立ち深みも増すのだ。
 つのだ☆ひろのライブだけでなく、みたままつりに行くだけで、これまで靖国に抱いていたイメージがある人は覆されるかもしれないし、知らなかった人やイメージが特になかった人には新鮮に映るかもしれない。盆踊りとつのだ☆ひろの歌でイデオロギーを学ぶとも思えない。
 たかがまつりではあるが、されどまつりでもある。
 はっちゃけた、そしてさばけた靖国を体感するのもそれはそれでオツなことなのではないだろうか。 (■つづく)

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靖国を歩く/第34回 戦後60年8月15日靖国神社24時(奥津裕美)

■月刊「記録」05年9月号掲載記事

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■小誌以外メディアはゼロの未明

 2005年8月15日。去る8日に衆議院が事実上小泉純一郎首相によって解散されており終戦記念日に靖国神社に参拝する危険性?大との判断から24時間張り込みの愚挙を編集長の命令で決行した。社の総力を挙げて(といっても4人)の愚挙である。
 午前12時00分。さあ始まった。小泉よ。来るなら来てみろ。目に物をみせてやる……って別に何もみせるものはないか。駐車場に大型バスが4~5台止まっていた。もう参拝客かと思ったら、バスのフロントガラスには、「巨人VS阪神観戦ツアー」なる文字が。運転手に「大型車はここの駐車場を使うんですか?」と聞くと、「そうですね」と解答。
 午前12時22分。ベンチにはホームレスの男性2人と、携帯電話で電話をしているガードマンが一人。報道関係者は誰一人としていない。どうやら『記録』編集部が一番乗りである。パンを食べながらあたりを見回すと、夜中にもかかわらず靖国を訪れる人が結構多いことがわかった。夏休みのせいもあるだろうが、中高生あたりのグループがやってくるのである。次いでカップルも訪れては去っていくのだ。
 午前12時46分。違う若者グループがまた訪れ、神門前でウロウロしている。さらに、私たちのベンチ付近には猫が3匹集まり集会を開く。猫の姿に癒される私。
 午前1時30分。若い男の子2人組がジュースを買い、ベンチで喋りはじめる。さらにカップルも現れジュースを買いベンチで飲んでいる。
 午前2時10分。売店からおいしそうなにおいが漂ってくる。なんのにおいだろうと考えながら癒されていると、売店横の道路に赤いランプを回したままのパトカーが止まった。駐車場にも別のパトカーが止まっていたし、護送車も止まっていた。準備万端いつでも来い! というような体制である。夜中から騒ぎがはじまると思って警備しているのだろうか。どの日よりも8月15日は靖国にとっても重大な日なのだろう。
 午前3時39分。一度去ったパトカーが売店脇の道路に再び駐車する。小誌以外のメディアはいまだゼロ。これまでに首相が来てくれていたら大スクープを世界中に放てたのに。小泉なんて大嫌いだ。
 午前4時10分。神門前でカメラマンが三脚をセット。小誌取材陣に次ぐ、2番手メディアの登場だ。Tシャツ姿の小太りの男性に近づくと、背中に「チャンネル桜」の文字が!「日本の伝統文化の復興と保持を目指し、日本人本来の『心』を取り戻すべく創立された」と標榜する衛星報道だけに、意気込みが違う。つまり靖国への「愛」が他社とは違うと。もっとも我々よりは4時間ほど「愛」が足りないが……。
 午前4時35分。「駐車場はどこにあるの?」とパトカーの警官にたずねる色い車が登場。「静岡から来たんだ」と大声で警官に説明していた。地方からの参拝客を本日初めて確認。
 午前4時48分。濃紺の背広姿の男性が到着し、神門前で参拝を行う。正装の参拝者は本日初。神妙な面持ちで頭を下げた後、静かに靖国神社を去る。
 午前4時50分。白い街宣車到着。パトカーの後に停車し、警官と話し合いをしている模様。数分停車ののち、九段下方面に靖国通りを下っていった。本日初の街宣車は、5時前の到着であった!
 午前4時51分。黒塗りのハイヤー到着。地味であか抜けない服装は、いかにも新聞記者のいでたち。映像系メディア以外としては、我が取材陣の次に到着したことになる。
 午前5時01分。青山からタクシーに乗って参拝に来たという老女(81)に、「いつ開くのかしら?」と声をかけられ、そのあと世間話をする。
 午前5時31分。「労農党」のはちまきを締めた老人が、巨大な日本国旗をささげ持ち神門前に現れる。横幅2メートルはあるかと思われる国旗を、3メートル以上ある国旗棒で支える。地面に付けないよう両腕で支える姿に「大丈夫かな、あのおじいさん」という声がマスコミ陣から上がっていた。数分後には仲間と思われる男性が海軍旗を持って登場する。2人で旗を掲げる姿にカメラマンが動く。今日初めての人気被写体は旗を掲げた参拝者だった。
 午前5時35分。カメラ8台が神門前に集結し、開門を待つ。主要テレビ局は全てそろっていた。
 午前5時41分。神社側よりアナウンスが入る。午前6時開門であること、境内の参拝者には取材しないこと、など放送する。靖国が少しずつ話題になり始めたころから取材規制の看板を出すなど、このところの靖国は取材に対してピリピリしているのだ。
 午前5時51分。チャンネル桜が神門前の参拝客にうちわを配り始める。表に日本国旗、裏には「草莽崛起」「日本文化チャンネル桜」の文字が。この「草莽崛起」とは、吉田松陰が唱えた変革の組織論のことだそうだ。

■開門!韓国KBSから親切右翼まで

 午前6時00分。ついに開門。参拝者が中に入っていく様子を一斉に撮影し始めるが、その後、取材陣は中門鳥居まで進み撮影。各社のカメラが参道を埋めたため「お参りではないじゃないか」と参拝者から怒られるカメラクルーもいた。
 午前6時12分。神社正面から見て右側の遊就館前にある到着殿の向かって左側の砂利に、各社のカメラマンがはしごを置き始める。代議士が車をここに付けて、この入り口から中に入って参拝するためなのだろう。
 午前6時30分。参道の取材をしていた記者およびテレビクルーが到着殿へ集まり始める。その数は約20人。
 午前7時35分。参道で国立追悼施設建設反対の署名を行っていたので、とりあえず署名をする。朝7時だというのに、途切れることのない人の波。ヤクザや右翼も多く、みんな早起きだ、と感心してしまった。
 午前8時46分。遊就館が開館した模様で、大勢の人が入場していた。到着殿へ向かう報道関係者がひっきりなしに訪れる。
 午前9時05分。「靖国神社に参拝する地方議員の会」メンバーが旗を持ち、拍手を浴びながら中へ入っていく。
 午前9時41分。神門前で高齢者が転ぶ。警備員とともに駆け付けたのは、つなぎをきた右翼の数人。「大丈夫か」と声をかけ、警備員とともに参道脇まで運ぶ姿は善人そのもの。これがいつもマイクで怒鳴っている人物と同じ人たちなのかと感動する。さすが右翼、靖国の神門に掲げられた菊の御紋の前では神妙そのもの。
 午前9時43分。韓国KBSニュースのキャスターが、神門内側で撮影を始める。深刻そうな顔での中継が印象的であった。
 午前9時50分。靖国神社が設けている取材申し込み受付で、記者2名の取材を申し込む。「終戦六十年国民の集い」の取材者には緑のリボンを、境内用には首にかける取材許可書、境内内の取材には緑色のリボンを菊型に織ったものが渡され、プレス気分に浸ってしまった。

■緊張感と不快感がジリジリ高まる

 午前9時52分。本日、初めての政治家到着。ダラダラとしていたカメラマンの顔つきが変わり、政治家の顔を撮影しようといきなり脚立をのぼり始める。新聞記者は『国会便覧』で人物の確認を始める。「誰だ、誰だー、あれ」の声が報道関係者からわき起こる。「橋本派の佐藤だ、佐藤!」という声が上がり、顔見知りの記者同士で情報の確認を始め、佐藤信二元衆議院議員と判明。
 午前9時59分。参道の段差で中年の男性が転ぶ。普段は気にならない段差も、参道が狭くなると凶器に変わるのだと実感する。
 午前10時00分。「車が通ります~」の声が頻繁に聞こえるようになり、そのたびに各社に緊張が走る。ただしほとんどが議員ではない。降りてきた人を見て「なんだー」、「不発だよー」の声が記者席に満ち、ため息が漏れるようになる。いつ議員が来るのかわからないため、報道陣はとにかくロープの前を死守する。気温は上昇し、不快指数は最高潮に達する。さらにヘリコプターも飛び始める。
 午前10時11分。道路に出る記者が多くなってきたので、警備員がさらに長いロープを使って規制を始める。いよいよ本命議員到着か、と緊張感が高まっていく。
 午前10時18分。民主党の 西村真悟衆議院議員が「日本真悟の会」約800人を引き連れて参拝。到着殿より手前にある参集所入り口に多数ののぼりが立つ。とりあえず絵を押さえようと、各社が西村氏に突撃。大勢の人で道路を完全にふさいだことから、氏の車は遊就館側を回ることになった。
「まさか議員呑んでないだろうな、いっぱいぐらいならいいけれど、ベロベロだったらニュースだぜ」という声で、数人の記者が笑った。
 午前10時30分。「終戦60年国民の集い」が始まる。国家をものすごい大音量で2回も斉唱。なんともいえないすごさに、軽くカルチャーショックを受けていたら、20代の男性が奇声を上げながら連行されていた。
 午前10時32分。平沼赳夫前経済産業大臣が靖国会館に入る。亀井静香氏とともに反対派の中心人物だったこともあり、各社がマーク。姿を確認した途端、新聞記者が一斉に携帯電話を取り出し、「官邸番記者の○○です。今、平沼議員が靖国会館に入りました」と電話をする。
 午前10時40分。靖国参拝の急先鋒、安倍晋三自民党幹事長代理が到着殿に姿を現す。首相を除けば最大のスター登場に本日、最高の盛り上がりを見せ、姿をカメラに捉えようと各社殺到。英霊の前でほとんど肉弾戦の様相を呈す。
 午前10時50分。参拝を終え出てきた安倍議員に記者が殺到。ついにロープを飛び越えて取材する者が現れ、「ルール通りにね、ルール通りにー!」と叫ぶ神社関係者の声もむなしく、到着殿前は大混乱となる。スター安倍はさすがにスターだった。記者のために脚をとめ、数分の取材に答え、手を上げて車に乗り込んでいった。さすが。目立つ位置、そぶりを考えている。これもスター安倍の才能かと感心する。今日は感心することが多い。
 午前11時00分。「みんなで靖国神社に参拝する国会議員の会」が古賀誠元自民党幹事長を先頭に靖国会館から到着殿へと歩いてくる。「よくぞ参拝してくれたー」との声と拍手がわき起こる。自民党と民主党の47人が集団参拝した。
 午前11時32分。爆弾三勇士のレリーフがはめ込まれている大灯籠の裏で日本兵の軍服を着た高齢者が、同じく軍服を着た若者に日本刀の使い方を教えていた。役者と軍人の刀の使い方の違いを教えた後、何度かだめ出しをする。「口で言ってもダメだから、体で覚えること。家で何度も練習すれば、そのうちうまくできるようになるから。以上」と高齢者は最後に大声をあげた。
 午前11時37分。大仁田厚参議院議員登場するが、何の騒動も起こらず。私は、しんぶん「赤旗」のアグレッシブな取材姿勢と、かっこいいルックスにみとれていた。
 午後12時31分。もう1人の靖国スターである石原慎太郎都知事が来る。「うれしーよー」の声が上がる。
 午後12時49分。都知事の出待ちをしている最中、突然「朝日(新聞)は帰れー。産経(新聞)はがんばれ。週刊金曜日も帰れー」という声が上がる。なぜうちも呼んでくれないんだー!と古参編集部員と少し憤慨する。
 午後12時54分。石原コールがわき、車が去っていく時に国旗が振られる。車が出た直後、一般客同士で「(コールを上げていた)俺の写真を撮った撮らない」というケンカが始まる。
 午後13時24分。尾辻秀久厚生労働大臣が参拝に来るものの、「誰だっけ?」の声が記者側からあがる。
 午後14時00分。神社内はどこも人が多く、中でも行列が絶えないのが参拝と遊就館。能楽堂前あたりでは、お年寄りの話に熱心に耳を傾ける若者がところどころに見られる。
 午後14時15分。都知事が帰ったあと散らばっていた報道陣が、また到着殿脇に集まりはじめる。
 午後15時14分。神戸ナンバーの濃紺のシーマが来る。車から現れたのは小池百合子環境大臣兼刺客。この日最後の大物政治家の登場。
 午後15時30分。参拝を終え出てくる。やはり美人でビックリした。5分ほどの取材を終え去っていく。記者同士でコメントのすりあわせをしていたが、こういうことをするんだな、と感心してしまった。
 午後16時00分。「集い」の最後に、午後15時の段階で、8月15日の参拝者が15万人を超えたと報告される。

■「彼」を見ぬまま日付は変わった

 午後19時00分。神門が閉まる。閉まる少し前から、会社帰りに参拝に来た人などが駆け込むように中に入っていく。門が閉まると同時に、小さい机のような賽銭箱が門の前に置かれる。閉まった後も、会社帰りらしいスーツを着た人達が次々と来て、門の前で参拝していく。しばらく参拝者はとぎれなかった。
 午後19時33分。売店横のベンチは、小さな宴会場となる。(編集部注:午後19時46分。小泉首相が事実上参拝しないと表明したニュースが流れる)。
 午後21時36分。雷鳴がとどろき、雨が大降りになった。勘弁してくれよ。さすがに参拝客の足が途絶える。
 午後22時13分。雨がやみ雨宿りしていた人が帰りはじめる。
 午後23時33分。特に変わったことはなく、売店内のベンチでは、深夜にもかかわらず熱く語り合っていたり、待ち合わせなのか女の子が1人座っている。
 8月16日午前0時00分。無意味としか思えないが編集長が日付が変わるまで小泉首相を待てというから待った。もう昼間の騒がしさとはうって変わり、あたりは静けさが漂い、約1日前と同じ状況になっている。ベケットの戯曲と同じ。不条理劇の主人公はゴドーだろうが小泉だろうが来る来るといって来ないのであった。 (■つづく)

編集部注:15日の時点で衆議院は解散されているので、本文中の「衆院議員」とはすべて正確には「前衆議院議員」である。

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靖国を歩く/第33回 遊就館の“?”な展示物

■月刊「記録」05年7月号掲載記事

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 世の中わからないことだらけだが、ほとんどのことはわからなくて当然のことだから、わからないことだらけに思えるのだろう。
 私は靖国の原稿を担当することになってから、何回わからないわからないと書いてきただろうか。たまに頭が悪いからなのではないかと苦悩するときもあった。そして今回も私の身にわからない問題が降りかかってきたのだ。それは……。
 なんで遊就館に「古代から近世の展示物」があるのか。
 今、それのどこがわからないことなのか、って思いましたか。そうですか。
 今までたいした問題ではないというか、あまり気にとめていなかった。なぜ今回そのことを取り上げたかというと、「靖国には戊辰戦争以降の英霊しか祀られていないのに、どうして古代や中世の展示物を置く必要があるのか」という編集部からの疑問の声があがったからだ。
 いわれてみれば不思議である。博物館七不思議というのがあったら入れて欲しいぐらいだ。
 遊就館には「英霊の顕彰」と「近代史の真実を明らかにする」という2つの目的があるのだが、英霊を顕彰するのならば、彼らにまつわる品を展示するのがベストだ。
 もっとも英霊の功績をたたえても本人には伝わらないので、どちらかというと遺族に対しての慰めのように感じるが、それは死んだ人に対して「あいつはいいヤツだったよ」と生きている人が生きている人に対してそう言って慰める行為のようなものか。
 国のために戦って死んだ人を祀っている神社なのだから、そういった展示をすることは必要なことだろう。それに対しては異論をはさむ余地はない。
 さて、私の疑問に絡んでくるのがもう一つの「近代史の真実を明らかにする」だろう。
 どうやら遊就館には「英霊が歩まれた近代史の真実を明らかにする」という使命があるらしい。どういうことかよく分からないが、たぶん英霊となった人たちがどうして戦わなければならなかったのか、ということを明らかにすることで近代史の真実までもが見えてくるということだろうか。
 それはわかった。そういうことならば近代からの展示は必要だ。それがたとえ戦争を正当化する内容であってもそうでないとしても、「どうして」という疑問を解くためには説明が必要だ。「1+1はどうして2になるの」ということをリンゴやミカンを使って説明するのと同じというわけか。
  「近代史の真実を明かす」と標榜しているだけに、展示物はかなり豊富で見応えがある。じっくり見て回ると近代史に少しだけ強くなったような気になるし、800円の元もとれる。遊就館は軍事博物館(武器の展示もあるから)と近代史博物館(それらの展示物が豊富)の2つの側面があるかなりお得な博物館というのは間違いなしだ。
 しかし「近代」を見せるのに古代からの「日本の武の歴史」が必要な理由はわからないままであるから、とりあえず見に行くことにした。

■英霊の朝敵まで紹介

 梅雨の中休みの晴れの日は結構暑い。アスファルトの照り返しがさらに暑さを増加させる。平日の昼過ぎだというのに、若者が多い。日本は祝日ではないはずだ。なんだなんだと思いつつ遊就館へと向かう。
 券売機で券を購入し辺りを見回すと、やっぱりいつもより人が多い。学生服を着た人やカップルも多い。靖国をデートコースに組み込むことがトレンドなのか。
 それはさておき、入場券を機械に通しエスカレーターに乗る。仕事の前にとりあえずトイレに寄ったところ、きれいだった。掃除が行き届いていて入り心地のよいトイレだった。
 トイレを出たところに映写室があるのだが、そこで日露戦争の映画がやっていたので観に行き、結局最後まで観てしまった。やる気あるのかお前は、と一人突っ込みを入れつつお待ちかねの「日本の武の歴史」の展示室へと向かった。
 こじんまりとしたスペースには、鎧やら刀やら出土品やらが展示されているが、なかには複製品もちらほら。複製品を飾るなとは言わないが、どうせやるならホンモノを飾るべきではないか。中途半端というか、力が入ってないというか、それはそれで先人に失礼じゃないか。
 しかも靖国の神は英霊である。日本武尊とか織田信長といった明治以前の人物も祀られているなら鎧などが飾ってあっても不自然ではないが、祀ってあるはずはないので不自然だ。
 古いスタイルから新しいスタイルへの移行をわかりやすくするために、古代・中世・近世の展示をしたからといって、それが近代史の真実を明らかにする道にはならない。
 だいたい、カラーが違いすぎるし、この展示室の展示品と、第二次世界大戦の展示室にある血なまぐさい展示品には温度差がありすぎる。
 ひそかに江戸時代の展示もあるが、徳川は最終的に朝廷に征討されたのではなかったか。幕府についた人たちは戊辰戦争の、つまり英霊の朝敵じゃないか。何がやりたい遊就館。
 つまり昔はそんなこともあったけれど、それは過去の話ということか。日本人の美徳「過去のことは水に流す」を体現している博物館である。心が広いのかポリシーがないのかよくわからない。
 鎧や刀は歴史博物館に行けば見られるし、出土品は遺跡跡に行けば見れるのでいらないといえばいらない。というよりも英霊の歩んできた近代史を語る場と自分たちで言っているのだからあえて持ってくる必要はない。
 他の見物者は私のような疑問を感じているのだろうかと思い周りを見渡すと、10人程度いた皆はかなり真剣に見入っていた。
 彼らはこの展示に疑問を抱かないのだろうか。何も思わないんだろうな。それを当然のように自然に見ているのだろう。

■「出島」を飾る複製3セット

 ホールにはゼロ戦がおいてあって、映写室では『明治天皇と日露大戦争』というものすごいテンションの映画がやっているし、進めば進むほど血なまぐさい展示品満載なのにこの展示室だけローテンション。
 それもそのはず、第一展示室の「武人のこころ」に入ると二手に分かれるようになっており、第三展示室の「明治維新」へ進むと次の展示室へとつながっているのに対し、第二展示室の「日本の武の歴史」に行くと行き止まりでそこで完結しているのである。
 だいたい博物館というと、第一、第二と順番に見ていくのが定石だろう。第二だけ出島のような感じなのだ。江戸時代の鎖国政策を模倣したのだろうか。だとしたらかなりしゃれがきいてて感心してしまうぞ。といっても、必要性はやはり感じられないのだが。
 展示室は入って右手の古代から左回りに進んでいくのだが、出島状態などとあなどってはいけなかった。最初から期待を裏切ることなくかぶとと太刀の複製3セットが展示されている。せっかく出土品を飾っているのだから、複製品よりボロボロでもいいから出土品のかぶとを展示してほしい。
 お次は中世。2着展示してあるよろいのうちひとつは本物なのにもうひとつは複製品。胴丸や腹巻の説明書きがあるが近代戦争では甲冑は使っていないだろう。親切な説明だが、近代史の真実となんの関わりがあるのだろうか。
 本物あり複製ありと和気あいあいとした展示室だが、私の心を奪った展示品があった。室町時代の太刀備前長船盛光という刀だ。それのどこにひかれたかというと、寄贈者がポールというイギリス人だったからだ。別にポールという名に引っかかったわけではない(本当は少し気になった)。ポールさんはこの刀をどこで手に入れたのだろうか。
 わからない。必要性が感じられない。1882年に開館した遊就館は当初、武器などを展示していた軍事博物館だった。それから関東大震災や閉館の危機などを乗り越え今日にいたっているが、その間に軍事博物館として変わらずあり続けていたのならばそういった武器の展示があってもおかしくはない。
 ただ現在、遊就館が「英霊顕彰」と「近代史の真実を明らかにする」ということを掲げている以上、そこに主旨違いの展示を置くのはいささか不自然さを感じる。
 なんか変なのー、という思いだけを残し、他の展示室をまわったが、見物者が多かった。
 それにしても若い人が多い。このところ靖国がニュースとして取り上げられる機会も多いからとりあえず行ってみようか、ということなのだろうか。私も彼氏と来たいよまったく。
 そんなことを思いつつも、先へ進めば進むほど第一展示室の不思議さに拍車がかかっていったのだった。 (■つづく)

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靖国を歩く/第32回 靖国のひろみしゅらん(奥津裕美)

■月刊「記録」05年4月号掲載記事

     *         *          *

■独断と偏見で評価するのだ

 全国の記録『靖国神社』ファンの皆さまご無沙汰しております。久しぶりの靖国です。久しぶりなので、新米編集部員を連れて取材へ行って来ました。
 世間にはレストランに行って批評したり格をつけたりする本やテレビ番組が多く存在する。2003年にはフランスのミシュラン社が出している格付け本が原因で自殺した料理人がいるそうで、たかだか星くらいで死ぬなよ……といいたいところだが、料理人にしてみれば「客足が途絶える=店が潰れる」ってくらいの脅威なのだろうから仕方ないのか。
 といっても食べるのは人間だ。嗜好もさまざまあるわけだから、この人にはおいしくてもあの人にはまずいとなるはず。だから格付けする意味がどれだけあるのかと思うのは私だけだろうか。日本版もあるザガット・サーベイとか、OL(なぜか丸の内あたりが多い)の口コミももてはやされてもいるけれども、同じ理由で信頼できるとは限らない。
 それでも格付けしたくなるのは人間の性なのか、いろいろと格付けやランク付けしたものが、食べ物に関わらずいろいろあるのはたしか。ランキングを売りにした店まである。
 私はランクやら格といった権威傾向のあるものは好まないのでどうでもいいし、ついでに食べ物にも執着ないというか、どちらかというと食べること自体どうでもいい部類に入るので、今回の企画じたい自分のポリシーに反する。にもかかわらずやってしまった食べ物企画。それもうまいのかまずいのかは編集部の独断と偏見のみ!

■居酒屋チェーンが作る海軍カレー

 さて、新米編集部員を連れて行ったのは、遊就館内にある軽食屋と、参道の売店。取材前恒例の参拝を終わらせ、まず行ったのが、遊就館内にある「茶寮 結」。
 茶寮と名づけているだけあってデザート類、飲み物類は豊富だった。
 茶寮なんだから飯もうまいだろうな! と鼻息荒く店内に入ったところ清潔感漂う店内。ホワイト&ウッディーで統一され、ガラス張りの店内には陽の光が入っていて清潔度5割増! 
 冠に「茶寮」とついているが、見たところ博物館のレストランをもっとさわやかにした感じだけの店内。日本の博物館のレストランは暗いし、やってるのかやってないのかわからない感じのところが多いが、さすが遊就館! 喫茶店まできれいだよ。金をかけただけあるなと思いながら、カウンターへ行く。
 ちなみにここは、カウンターで料理を注文してから席に座って料理を待つシステム。そして驚くべきは、すべての商品がテイクアウトOKというありがたいのかありがたくないのかわからないサービスがある点だ(゜⊿゜)。
 せっかく靖国なんだからレトルトでもおなじみ海軍カレー(680円)を注文したいところだが、私は子どもが大好きなメニュートップ10に必ず食い込むラーメンとカレーが苦手なので連れにカレーを食べさせ、自分は稲庭うどん(500円)を頼み、飲み物は麦茶(250円)。それと前から気になっていた古代米のちまき(250円)と意味のわからない名前の横須賀ドッグ(300円)を持ち帰りにしてもらった。
 カレーは、昔風と現代風の2種類。昔風よりせっかくカレーなんだから海軍風とインド風くらいにしてくれないとインパクトに欠ける。現代風のカレーはカレーショップに行けばいくらでも、現代風どころか変わり種まで食べられる。
 日本海軍は日本海海戦快勝以外にも、実は料理でも有名なのだ。何せテーブルマナーまでもが海軍軍人としてのたしなみとして行われていたくらいなのだから。
 さて、そのカレーだが、レトルト温めただけだろう……と思ってしまうほどのしょぼさ。具は、人参、じゃがいも、玉ねぎ、牛肉、付け合わせにしば漬け。
 食べた本人談は、「見た目は学校の給食並みですね。味は、カレーというよりシチューっぽい」。
 それではカレーじゃないじゃん! という突っ込みをしつつ、カレーを売るのならば、遊就館の中にある食事処であることを考え合わせても、料理にもっと気合いを入れていただきたい。それくらいしないと海軍の英霊も、そして一緒に軍艦に乗っていた牛の霊も浮かばれない……と思っていたところ、カレーに説明書きの紙がついていた。
「海軍カレーについて 当店の海軍カレーは、明治四一年九月に発刊された海軍割烹術参考書のレセピーに基づいて、その時代の味を忠実に再現しております。思い出の味を、または心の歴史の旅をどうぞお楽しみくださいませ」と書いてある。
 なるほど、この説明書きと目の前のカレーを合わせて考えてみると、当時のカレーは今でいうスープカレー、ルーの量より水の量のが多いカレーだったということだろうかと、自分を無理やり納得させる。
 この店をプロデュースしているのは、居酒屋チェーンでおなじみの大庄グループというところである。うーむ、居酒屋グループがやっているのだから、メニューやレシピに基づいてカレーを作ったとしても居酒屋臭さが残ってしまうのは仕方ないと考えるべきか、靖国という場所柄にも関わらず、居酒屋グループに店を任せてレトルトを温めただけのようなカレーの提供を許可すること自体いかがなものなのか、と考えたほうがいいのか頭を悩ませつつ、外の売店へと向かった。
 なお稲庭うどんと麦茶は可も不可もないので割愛。

■店員の殺し文句で採点は激アマ

 参道の売店では、おでん(550円)、甘酒(250円)、ソフトクリーム(200円)を購入。
 おでんの具は、卵、こんにゃく、こんぶ、大根、ちくわ、ゴボウ巻きである。おでんを食した編集部員のコメントは、「おでんおいしい。大根、昆布、卵が特においしい」だった。
 ここのおでんは以前も食べたことがあるが、とにかくうまいのは確かだ。新橋のガード下でオヤジが熱かん片手に食べていてもおかしくないほど(この表現だとうまいのかどうかわからないが)のいかにも屋台然とした正統派のおでんの味とクオリティーである。 
 なぜここまで手放しにほめちぎるかというと、おいしいのは確かだが、「お姉ちゃんかわいいからおまけね」と言われたからである。かわいいの一言でここまでほめちぎるか! と料理評論をしている人から何か言われそうだが、いい食材を使って、最高の料理人が調理すれば美味しいのは当然。しかし、おでんはあり合わせのものを突っ込んで出汁で煮込んでしまえばできあがりのチープな、昔からある日本特有のジャンクフードでもある。
 だが、このおでんも出汁がまずければ、ただのまずい野菜のごったに煮になってしまうという諸刃の刃をもった食べ物でもあるのだ。食べ物は安いからまずいわけでも、高いからうまいというわけではない。食べ物のおいしさは、料理人の情熱、パッションが重要なのだ! と、ただ「かわいい」と言われただけなのにすごい熱弁をしてしまった。これでは、普段かわいいと言われていないと誤解されてしまう。それは困る。
 熱くなった私を冷やすのはソフトクリームしかないと、寒空の下の中、甘酒を片手に食べる。何ともおかしな食べ合わせだが、お構いなしに食べる。ソフトクリームというと、濃厚さを売りにしたものが多いが、靖国のソフトは意外にもあっさり淡泊。子どものころスーパーの売店で食べたことがあるような薄味が大好きな私は気に入った。
 売店の店員は全員おじさんだったが、ソフトを絞るオジサンは、いかにも慣れた手つきで器用に巻いていく。毎日やっていれば上手になる。何事も継続が大切なのだ。継続は力なりということで、この連載も続けていけばやがて本になるだろう……頑張っていこう! という力を売店のオヤジからもらった(だからどうした)。

■英霊もビックリの横須賀ドック

 もらったのはいいが、いい加減外は寒いということで編集部に帰り、テイクアウトした古代米のちまきと横須賀ドックを食べる。
 古代米のちまきだが、古代米って黒いのね。そして、もち米のようにモチモチしてるのね。知らなかった。白米よりもち米が好きな私は、この口触りが気に入ったが、編集部内で論議になったのが、味である。
 古参編集部員のコメント「独特な味付けは古代米だね。でもこれニンニクか何かはいってない?」
 デザイナーのコメント「古代米と豚肉のミスマッチが意外といける」。
 豚肉も入っていたせいもあるが、豚臭い。中華風といえばそこまでで、ちまき自体も中国が発祥の地(飲茶のメニューにもあります)なので納得はいくが、それにしても豚臭いし、脂っぽい。もう少しあっさりしていれば、また食べようと思うのだが。編集部内では意外と好評だった。
 さて、名称が意味不明な横須賀ドッグだが、正体はただのアメリカンドックだった。
 あまりにも普通すぎてコメントは特にないが、ソーセージが安っぽくないところはいい。ペッパーがきいていて、なかなか。
 だが、ここで問題が浮上。靖国で、アメリカンドックを売るのはどうなんだ?
 アメリカンドックじゃまずいから横須賀にしたのか? でも、横須賀とついても見た目はアメリカンドックだぞ。今は仲が良くても、昔は鬼畜米英といって敵対していた国の名称を使った食べ物を売るというのは、本末転倒というか、あまりにも適当すぎやしないか。
 英霊はどう思っているんだ。と思わず吠えてしまったが、戦後60年たち、戦争体験の語り部たちも減っていき、というか21世紀に入ってあまりたっていないというのに、世界各地で戦争が起き続けているという、「歴史は繰り返す」という言葉通りの世界情勢だが、結局は何事も新世紀になればすべてはご破算になり、ゼロからの再構築をはじめても問題は何もないということなのだろうか。
 歴史から何も学ばず繰り返される歴史。当時の日本と違うのは、鬼畜から友好、憧れの国アメリカとなっただけで、本質的な日本の体質はなにも変わっていないのだということを、この横須賀ドッグが証明したといってもおかしくはなし、敵国として対し、散っていった靖国に眠る英霊の誇りを一気に台無しにしてもいる。
 まぁ、そうはいっても筆者はアメリカンドックが好きなんですがね。あの甘い衣としょっぱいソーセージのハーモニーがたまらなく私の胃を刺激する。
 珍しく刺激されたせいか、その夜は原因不明の消化不良を起こし、深夜に吐いてしまいましたとさ(/o\)  (■つづく)

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靖国を歩く/第31回 ザ・みたままつり(奥津裕美)

■月刊「記録」04年9月号掲載記事

      *          *           *

 今年も行って参りましたみたままつり。
 昨年も一人だったけれど、今年も一人祭り会場へ。しかし、今年は少し違う。いろいろと取材をしてきたおかげで、かえって開き直り精神がでてしまい、気にならなくなってしまったのだ。
  「なんで一人で祭りなんかに行かなきゃならないんだー!」という心の叫びなんてどこへやら、「今日見逃したら明日はやらないかもしれません」という甘い誘い文句にのせられて見せ物小屋へふらふら入ってしまった。
 最大の目玉が体に針金を通す演目なのだが、前もって針金を通す部位に穴を開け、そこにチューブを設置しておき、そこに観客が針金を通すというものである。
 以前に、ドカン型ピアスを開け、向こう側が見える状態の耳だった私にはちょっとつまらなかった。針金を通すことくらいできる。
 参道にはあいかわらず出店も多いし、カップルも多い。祭ってこんなものなのか。お腹はすくが、お金はない。
 隣に彼氏でもいれば、「あれ食べたいー」と言えば、お腹くらいは満たせるんだけどな……と思いながら歩いていると、まさに私がやりたがっていることを代行してくれているありがたいカップルがわんさかいた。舌打ちをしつつ、それを横目に目的地へ急ぐ。
 さて、今回見にいったのは大提灯とかけぼんぼりである。参道の途中から黄色の大きな提灯がぶら下がっており、それが神門手前までかかっているのである。
 それには奉納した人の名前や企業名が書かれていている。その総数は約2万5千個以上。とにかくものすごい量なのだ。
 手前から遺族、神門に向かって靖国にまつわる組織や企業、国会議員と続く。
 遺族や縁故者は個人であるから省くとして、組織やら国会議員の提灯を見ることにした。
 国会議員枠の一番上は、「みんなで靖国神社に参拝する国会議員の会」という提灯、その下にそのメンバー名の書かれた提灯がぶらさがっている。
 それにしても、この会の名前は抜群のセンスだ。「みんな」というところに、日本人特有の感覚を匂わせているし、日本を動かしている偉い人たちが「みんな」と使っているところがとてもキュートである。
 奉納している議員をちょっと挙げると、小沢一郎、青木幹雄、中川昭一とよく聞く名前のなかにひっそりと、鈴木宗男の名前もあった。
 さらにみていくと驚くべき(そこまで驚きじゃないけど)名前があった。毎年、参拝に行っては物議をかもし、意味不明な言動を繰り返す首相、小泉純一郎と書かれた提灯があるのだ。
 公式参拝に反対する人は、参拝だけを批判するのではなく、この提灯を奉納していることにも目を向けるべきなのではないか。奉納しているということは、参拝しているのと同じようなものだし。
 この提灯の中で、注目されていたのは、小泉純一郎提灯と、鈴木宗男提灯の二つだけだった。政界のドンと呼ばれる人たちの提灯があったとしても、若者たちは一切関心を示していなかった。
 企業系の枠をみると、「おやじ」という提灯があった。……おやじ。なぜか、山本譲二が北島三郎のことを呼んでいる姿を思い出してしまった。
 提灯に書かれている名前を復唱しながら歩いていたのだが、「……グアム、シベリア、トラック諸島……」となんか聞いたことある名前だな、と不思議に思ってその提灯一帯を見回すと、硫黄島、ガダルカナル、フィリピンと日本がかつて占領した国や島ばかり並んでいることに気づいた。 

 さりげなく飾られていたから気づかなかったが、その多くが激戦地だったことを考え合わせると「これもいいのかなぁ?」という感じである。大提灯の奉納って何でもありなのだろうか。靖国といえば、世界の紛争や戦争で亡くなった人たちを慰めるために作った鎮霊社があるが、リベラルっぽく見えて、何かをごまかしているようにも見える。
 なにが良くて、なにが良くないことなのか、世間一般で言われている戦争についての事柄を靖国に当てはめようとするのは、実は非常にナンセンスなことなのではないかと思う。靖国には、擁護派・反対派・中立派を超越した独自の思想があるのではないか。
 そんなことを思いながら眺めていたのだが、ふと、島の名前が書かれた提灯が、バカンスにもってこいのリゾート地の宣伝を見せられているような感じがして、なんだか滑稽に思えてしょうがなかった。そう、かつての激戦地は今やリゾート地なのである。
 場所を移して、神社内には著名人が書いたかけ提灯が飾ってある。昨年のみたまでも少し触れたが今年もなかなか楽しいものがあった。
 特に私の心に響いた二つを紹介すると、横綱朝青龍のかけ提灯。提灯は半紙のような紙にメッセージや絵を描いてサインをするというのがほとんどなのだが、朝青龍は違う。
 ど真ん中に名前が書いてあり、その右横に「国,」と書いてある。その下の点はなんなのだろうかとその字をよく見ると、くにがまえの中が玉ではなく王になっている。ここで謎が解けた。きっとその点は、玉のてんで、外に出すことによって遊び心を出したに違いない。お茶目さ爆発でいいのではないか。

 さて、もう一つ。プロレスラー橋本真也のかけ提灯だ。筆で力強く「破壊 創造 誕生」。サインは、「破壊王橋本真也」である。創造、誕生はいいけど、破壊はどうかと。
 でもまだ破壊だけなら、そのあとにつづく文とマッチするが、破壊王は……。靖国には撃墜王は眠っているが、破壊王は眠っていないし、ちょっとまずいのではないか?!
 大提灯やかけ提灯をみて、改めて靖国の懐の広さを思い知った。やっぱりこの神社は、いい意味、悪い意味を
含めて他とは違う神社なのだ。私が惹かれるのはきっとそういうところにあるのかもしれない。

■独特な神社靖国

 それにしても祭りは平和な行事だ。浴衣を着て、焼きそばを食べ、盆踊りを踊る。そういった楽しいことを楽しいこととして享受できるのは、平和という土台が成り立っているからである。
 「平和、平和」と念仏のように唱えている割には、平和にあぐらをかいているように感じるし、本当に平和が欲しいのか?  というような行動が目立つ。
 この矛盾加減がよくわからない。この連載でよく、「意味がわからない」「よくわからない」と書いているが、そのわからなさは靖国という深みにはまればはまるほど増していくのだ。
 毎月、靖国の原稿を書き、靖国に参拝し、靖国に関する本を読み、靖国とはこういう神社だという固定されたイメージではなく、なんとなくこういうイメージというのはある。
 世の中には、靖国を好む人、嫌う人がいるし、靖国にまつわる出来事に明るい話題はほとんどない。外交問題が絡むこともしばしば。社格が高いとか、祀られているのは神ではなく人間だということは置いておくとしても、やはり特殊な神社であることには違いない。
 ただそれは政治、外交、歴史などマクロの視点で靖国をみるから、話も大きくなるし、面倒なこともたくさん起こってしまうのであって、個人レベルで靖国を考えると、ただの神社であり、それ以上でもそれ以下でもなくなる。参拝する、祭りに訪れる人がどのようにとらえるかで変わってくる。
 日本に忠義を尽くし散っていった英霊たちに感謝をしろ、というのも悪いとは思わないが、「みたまとか、お盆てよくわかんないけど、祭りって楽しくない?!」というスタンスでも十分よいと思う。
 祭りはすごく楽しいものだが、それと同時にいろいろなことを考えさせてくれたり、気づかせてくれたりする大切な行事なのだろう。
 魂が帰ってくるというのは、こういうことなのだろうか。 (■つづく)

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靖国を歩く/第30回 零戦と特別攻撃(奥津裕美)

■月刊「記録」04年8月号掲載記事

       *         *          *

 遊就館の入り口付近に戦車や軍機の模型が展示してある。私は地面を行く戦車よりも、空を自在に飛び回る戦闘機の方が好きだ。
 軍用機で一番有名なものといえば、零戦だろう。名前に零が入っているところが無敵そうな印象だ。0にどんな数字をかけても0になるという最強の数字が名前に入っているのだ。
 しかし、すべてを失敗してしまうと0になってしまうから最悪な数字ともいえる。そんなどちらの意味もある零がついた零戦とはどういうものだったのだろうか。
  『武器・兵器でわかる太平洋戦争』(日本文芸社)によると、正式名称は、「零式艦上戦闘機」。皇紀2600(1940)年に正式に採用され、零式の零は2600の後ろをとってつけられた。
 艦上と書いてあるのだから、海の上から飛び立ったのかと思ったら、中国の陸上から飛び立ったのが初めての仕事だったそうだ。
 中国が日本に占領された南京から重慶へ政府を移転させたことによって、そこへの爆撃を爆撃機によって繰り返していたそうだが、護衛に当たるべき戦闘機は当時漢口にあった日本の陸上基地から重慶まで(片道900キロ)を往復するほどの力を持ったものがなかったのだ。
 爆撃機は空を飛ぶ乗り物だけれど、飛び続ける力がなければ、特攻兵器と同じようなものだ。ましてや戦闘機の護衛なしだったそうだから、とりあえず爆撃しにいって、帰れなかったらその時はごめん、そんな感じだ。
 だからこそ長時間飛んでいられる飛行機が望まれたのだろうが、だったら最初からそこにポイントをおいて作ればいいのに、と思ってしまう。
 1940年にデビューした零戦だが、陸上から飛んだことに続いてまた一風変わった話が続く。
 味方機の被害が大きいからという理由で、とにかく早く航続力の長い戦闘機を待ち望まれた海軍は、試作機の段階で前線に送り込んだのである。すごいよな。
 そうとう焦って出したとしか思えないが、日本の戦闘機技術がすごいというイメージがあるのは、長時間の飛行にもびくともせず、空中戦で敵機27機をすべて撃墜させ、さらに味方機の損傷がなかったというところにあるのだろう。
 そんな零戦もデビューから4年あまり経つと、栄光も過去のものとなって、特攻機へと墜ちていった。
 せっかく素晴らしい戦闘機として華々しいデビューを飾ったにもかかわらず、戦局が悪くなるにつれてだんだんと突っ込むだけのの悪あがきの道具としか扱われなくなってしまった。切なさを感じるが「仕方ない」だけで片づけてよいのだろうか。

■防御を省いた設計思想

 零戦が「よりよいもの」を目指して作られたのは間違いない。ちなみに製作したのはあの三菱である。
 製作の思想は次の通りだ。
 まず「より速く、強く、遠く」を追求する。これはどんな軍用機も共通しているが「速く、遠く」の実現のために重くなる装備は省かれ、それだけではまだ甘いということで、「肉落とし」と呼ばれる作業を延々と繰り返し、さらに安全率の基準も見直し、主翼部分に超々ジュラルミンという名の新素材を導入などかなりこだわって作られた。
 戦闘機というより、「こだわりの逸品」という印象だ。ただし豪華な盛りつけではなく無駄のなさが第一である。材料に使う素材はすべて一流だが重量のかかるものは除かれ、調理も一流の料理人が丹精込めて作ったには違いないが、あくまでも無駄を省いた「こだわり」である。
 そこまで執拗にこだわった結果として、試作機段階で前線に送り込まれてもびくともせず、見事な初仕事をやってのけることができたのだから、これは技術者の努力のたまものということだろう。
 この技術者の姿勢からとれるのは、当時の日本の技術力や技術者の腕というのは世界でトップクラスなのではないかということだ。
 だがここで重要な問題が浮上する。「強く」が実現できない点だ。料理で例えればダイエットには最適だが満腹にならない。とくに防御が「無駄」の概念に入っているのが重要だ。いくら「速く、遠く」ても弾がかすっただけで墜落するようでは戦闘機の役には立たない。
 この問題は「防御はパイロットの腕でカバー」で解決しようとしたのがもう一つの設計思想だ。日本の熟練パイロットの技術は極めて高く、体が欧米人よりも小さいことも幸いした。アバウトな発想ではあるが、デビュー戦で味方機がやられてないということだから、当初は通用したのだろう。
 相手国の油断も幸いした。真似っこしかできなかった日本が零戦のような戦闘機を作るなんてことは、アメリカもイギリスも考えていなかったらしく、「日本の飛行機技術がすごい進歩している」という話は、うそっぱちか誇張として受け取られていたそうだ。ずっと模倣を続けていればそう思われても仕方あるまい。
 だから真珠湾攻撃で日本の航空力を見せつけられたときはそうとう焦っただろう。「Oh! My god!」なんて言っても遅い。

■成功から何も学べなかった日本

 機体は「速く、遠く」を追求し、「強く」はパイロットの腕次第というテクノロジーと人力を組み合わせた奇妙な戦闘機である零戦の弱点は結局はこの奇妙さに内包されていた。熟練のパイロットだからこそ、防御機能が整っていない零戦を乗りこなせて、さらに敵機を全滅できたのであって、未熟なパイロットでは零戦を乗りこなすこと自体不可能だからだ。
 航空機による攻撃は軍艦同士がぶつかり合う「艦隊決戦」を上回るという教訓は日本自身が真珠湾以来の作戦で証明してきた。勝ったのは航空機であって戦艦ではないのだ。このことを気付かされた米英は以後優秀な軍用機製作に力を入れていくことになる。
 ところが戦艦が強いというのは昔の話だと教えた側の日本は相変わらず日露戦争での日本海海戦で戦艦で勝っちゃった成功体験を引きずり、艦隊決戦を主軸から外すことはなかったから不可解である。人は失敗から学ぶことはできるが、成功からは学ぶことができないのだろうか。なぜ緒戦の勝利で軍用機のさらなる開発と人材育成を手がけず戦艦大和を作って喜んでいたのか。航空兵力の成功から学ぶ代わりに「あくまでも緒戦は緒戦。いよいよ本番がくれば日本海海戦並みの艦隊決戦だ」と思いこみがさらに増したと分析したほうがよさそうだ。
 そうでもなければ転換点となった42年のミッドウェー海戦で海の空港である航空母艦を丸裸同然で先導させたりしなかったはずだ。同海戦では日本が誇る本格空母6隻のうち4隻を失った。空母が消えればパイロットも帰る先がない。かくして一挙に熟練パイロットを失った日本は「強く」の要件を欠くこととなった。

■名機と人命を無駄にした特攻

 機械は流れ作業で作れても人が技術を習熟するのは時間がかかる。かくして大戦後半の零戦は未熟なパイロットが乗り込むしかなくなった。
 私は合理的なことが好きなので、合理的とは思えない特別攻撃のことを見るたび疑問符がついて回る。戦闘機は戦闘するための飛行機だし、兵隊もまた戦うための力であって、どちらも突っ込んで一緒に死ぬためにあるのではない。しかも命を捨てても戦果はあがらない。日本軍の状況と思想を考えれば、自爆テロ・特別攻撃をやりたくもなるだろうが、しょせんは不合理かつ意味のわからない行動であり、それをやるくらいならさっさと白旗をあげればよい。結果的に負けてしまうのは明白だというのがわかっているのであれば、なぜそんな悪あがきとしか思えないことをしたのだろうか……。
 作り手だって、そのようなことを望んで作ったわけではないだろうし、零戦だってそうだろう。機械だから「いやだー」とはいえないが、もし感情があったらそう思っているかもしれない。
 零戦は名機である。だがいくらいい機械でも、パイロットの腕が追いついていかなかったら、せっかく全勢力を傾けてつくった作品もただの宝の持ち腐れになってしまう。
 ただ前述の零戦の製作思想をたどってみると次のような仮説が成り立たないだろうか。
 まず「強さ」はパイロット次第という点は変わらないし変えようもない。かつては熟練で補ったが未熟な者では技術で強さを証明することは無理だ。
 じゃあどうするか。戦争の終盤には材料も底をつき始め鍋まで出させるような状況になってしまったので新しい飛行機など作れない。そこで熟練でなくても人の目で最後まで敵に接近して自爆すれば、つまり未熟者でも自爆によって人も一緒になって突っ込めば熟練に近い仕事ができるかもしれない。そう思ったのではないか。「お国のためなら命を捧げることもいとわない」という思想ががまかり通っていた時代だから、特別攻撃をやるということが起こってもなんら不思議なことではない。
 また「精神には物理的な力がある」という日本特有の発想が後押ししたともいえる。自ら神風(神の風だよ)と名乗ったのは象徴的だ。きっとすごい説得力があったのだろう。だから神風とつけたり、志願者が出てきたりということが起こったのかもしれない。
 しかし、これは思考停止だ。にらみつけてもタバコ1箱さえ動かせないし、ましてや台風(神風)など人力で起こせるはずもない。何でそんなことがわからなかったのか。
 その思いこみによって、特別攻撃に限らず沖縄戦での犠牲者、長崎・広島の原爆犠牲者が多数でることにつながったといっても過言ではないだろう。靖国の英霊も少なくすんだよ。二百四十六万余柱って想像つかないよ。
 勝ち戦を信じて戦いを始めた日本軍だから、負けが込むにつれて焦ってきたこともあろう。だが材料がつきてきたのは精神力が足りないのではなくて単に無駄なものを作りまくって、どこに重点を置くかを考えていなかったからだろうし、腕のいいパイロットが少なくなったのは、パイロットをないがしろにしたからだ。
 結局戦争とは私でも普通に思いつく単純な合理性さえ失わせる営みだというしかないし、何も生み出さない戦争をすることもわからない。世の中わからないことだらけ。唯一わかることは、犠牲者がたくさん出るということと、疑問符がたくさん出てくるということだ。
 兵士と兵器を無駄遣いする特別攻撃というのは、はたから見ればイラク戦争と同じようにどこに大義があるのかも、非常に理解しにくい攻撃方法なのだ。 ((■つづく)

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靖国を歩く/第29回 靖国にバリアフリーは必要か?(奥津裕美)

■月刊「記録」04年7月号掲載記事

         *        *        *

 九段下駅1番出口を出て、九段坂を上っていくと田安門前という交差点にたどり着く。そこの横断歩道を渡ると、社標やら狛犬やら石灯籠が立っている坂がある。その坂を上った先にどっしりと構えた大鳥居があり、それをくぐると参道につながる。それが靖国への道だ。
 靖国へ行くと高齢者の参拝客が多い。靖国に限った話ではないが、多い。緩やかとはいえ、あの坂を上るのは結構きつかったりするのではないか。毎日パソコンにかじりついている慢性的な運動不足の私は、坂を上るたびに「きついー、疲れたー」と一人ブツブツ、はぁはぁ言いっている。
 若い私がそうなのだから、体力が若者よりも落ちている高齢者はもっときついのではないだろうか。もし「きつい」という声が多ければ、なにか策を練る必要がある。
 そこで今回は、靖国へ向かうあの坂は高齢者にとってきついのか。そしてきつかったとしたらどうすればいいのかを考えてみることにした。
 そもそも、なぜ坂の上に靖国を建ててしまったのだろうか。九段に建立しようと提案したのが毎度おなじみ大村益次郎であるが、彼はなぜそこがいいと言ったか。
 坪内祐三氏が書いた『靖国』(新潮社)によると、九段以外に上野も候補地としてあがっていたのだが、益次郎は九段下がいい!と主張。方位学でみても最高!の場所だったらしいが、上野は「亡魂の地」だったため候補地から外されたという点も大きかったようである。
 新たに魂を祀るのに、その地に違う魂がうようよとさまよっている場所は適所ではないだろうし、第一、上野のさまよえる魂といえば、益次郎が壊滅させた彰義隊たちのものだ。
 そして九段坂や三宅坂に付近には陸軍省、参謀本部、憲兵本部などの軍部中枢機関が集中し始めており、靖国建立の目的とも非常にマッチする。
 戦争殉難者を祀るための施設という大義のある神社だが、その後の利用のされ方を見ていると、政府というより軍部の威厳を誇示するアイテムとしての靖国神社と変化しているので、軍として近くに置いておくことは非常に都合が良く、利用しやすいということを見越して、九段という地を唱えたのではないだろうか。
 また、東京は山の手と下町というまったく趣の違う地に分けられる。その二分のされ方はわかりやすく、東京の西北の台地に武家屋敷が並び(山の手)、東南の低地に町人が住んでいた(下町)そうだ。
 そしてさらに興味深いことに、靖国神社は山の手と下町を分断する境の山の手側の高台にあり、そこから下町を見下ろしているとい図なのである。
 山の手は薩摩と長州からなる明治政府高官が住む新興住宅地であり、帝都・東京を「支配する側の視線から」眺め、再構築しようとするもくろみの象徴的空間として据えさせたというのである。
 靖国神社はやはり普通の神社ではない。
 今は緩やかな九段坂だが、『ようこそ靖國神社へ』によると、「大変な急勾配で、むしろ絶壁に近かった」そうである。緩やかになったのは関東大震災後の改修工事後のことらしい。
 現在は道路が整備されているから高台と低地に差があっても、そこまで不便でもなければ気にならない。しかし江戸から明治に変わったころは区画整備なんてされていないし、これから着手といったところであろう。
 絶壁に近かったといわれてもそれはそうだろうな、と妙に納得してしまった。
 高台から見下ろす、境にあるといいつつも山の手側と庶民寄りどころか政府寄り。テーマパーク化しようとしたり、靖国においでとポップなCMをキャッチーな曲に乗せて年末年始にCM流したりと庶民派をアピールしている靖国だが、元をただせば国の都合のいいようにして建てられた神社なのだ。
 靖国に祀られている英霊がどかんと増えたのは、第二次世界大戦後である。戦後60年近くたっている。
 靖国に夫、恋人、息子が眠っている方々は高齢者が多数である。くしくも現代は高齢化社会からさらに進化し高齢社会なのである。駅にはエスカレーター、エレベーターの設置はもちろん、ノンステップバスなるバスが走っていたり、バリアフリー住宅も増えている。日本はどんどん「高齢者に優しい国」と変化しているのである。にもかかわらず立地条件が良くない靖国。庶民派ではあるが、高齢者にはあまり優しくない靖国。
 しかしそれとは対局の場所がある。
 巣鴨の地蔵通り商店街だ。
 商店街にもさまざまなタイプがある。私の知っているところだと、横浜市保土ヶ谷区にある「どんどん商店街」というのは非常に道が狭いし、坂になっている。地元の商店街も坂はあるし車は走るしと、不便。
 だが、やはり「おばあちゃんの原宿」だけあって入り口からずっと平らでまっすぐの道が続いているのだ。
 道を歩いていても、車いすを押している人、杖を持って歩いている人、それにベビーカーを押しているお母さんたちが多かった。
 商店街入り口からお目当てのとげ抜き地蔵までの道のりは結構長い。もしその通りが坂道だったりでこぼこ道だったとしたら、そこを歩くおばあちゃんたちはとてもじゃないが大変だろう。
 それに商店街ということで店が多い。坂だったらゆっくり買い物もできない。毎月4のつく日は縁日が行われるが出店どころではない。食事もできないではないか。 靖国にもみたま祭りという立派な祭りがあるが、靖国の参道は道が長いだけでまっすぐの道が続いている。大村益次郎を囲んで盆踊りができるんだぞ。
 お年寄りが集まるところはお年寄りに優しい街だからこそ集ってくるのである。
 靖国の話に戻して、靖国がある千代田区に九段坂のバリアフリー化について聞いてみた。
 区道全体のバリアフリー化は「あまり進んでいない」そうで、九段坂をバリアフリー化するとしたらどのようにするかと聞くと、「具体的にどうかといわれると……そうですねぇ……」と困りながらも考えてくれた。
 九段坂に限らず坂のバリアフリー化をしようという声はあるそうだが、具体的な策がないということは坂をバリアフリー化すること自体が容易ではないからということだろうか。
 平地ならば道路をなめらかにしたり、道路と歩道の段差を低くすることは可能だ。現に巣鴨の商店街は段差が低くなっていた。
 しかし坂道はやりようがない。やるといってもでこぼこの道を舗装し直したり、九段坂に限っていえば、地下鉄から出て坂をあがる道の真ん中にある木を別の位置にずらすといったことくらいしかできないだろう。
 よくよく考えてみると坂をバリアフリー化するのは結構難しいが、日本には坂がたくさんある。坂天国日本。 今後ますます進んでいく高齢社会に向けて坂道のバリアフリーをどうしていくか考えていく必要があるはず。 さて、紙面で九段坂のバリアフリー化が必要だ!と勝手に叫び書いてきたものの、本当に必要なのかという疑問をはらすには、高齢者の声を実際に聞かなくてはならない。

■タフな高齢者は平気だと……

 そういうわけでさっそく取材へ向かった。社標がある坂の中腹で待っていたところ、杖をついた男性が坂を下ってきたので聞いてみたところ、「いやー、気にせずに来ちゃったよー。あまりきつい感じはしないね」とのことだった。さらに「これからまた、裏に回ってまた上るよ」とはっはっはっ、と笑いながら答えてくれた。
 その前に取材した男性は「きついねー」と言っていたので、そういう答えを期待していたが、肩すかしを食らってしまった感じだ。
 さらに女性が上ってきたので聞いてみたところ、「いつも上ってるからもう慣れちゃったわ」とさっぱりと答えてから、さっそうとその女性は上っていった。
 ちょっと足を引きずるように歩いてきた男性に話を聞いてみたところ、「1年に1回しか来ないけど、運動になっていいよ」という感想。ちなみにこの男性は86歳なのだそうだが、日々身体を動かしているのだろうか、とても若くはつらつとしていた。
 大鳥居で休んでいた杖を所持している男性にも話を聞いてみたところ「平地よりもこれくらいの坂があったほうがいいよ」とこれまた元気に答えられてしまった。
 事前の予想では「きつい」という答えが多く返ってくると踏んでいたのだが、いざふたを開けると逆の答えのが多かった。
 しかしとても気になることがある。いつも来ていれば坂に慣れてきつさは感じなくなるかもしれないが、一年に一回や初めて来た人は九段坂に慣れていないはずだ。 彼らの「きつくない」は本音なのだろうか。1939年に発表された『九段の母』という曲に「上野駅から 九段まで~杖をたよりに 一日がかり」という歌詞がある。 そのころは地下鉄などない時代だから、上野から一日かけて歩いてきてもおかしくない。しかしそんな距離を歩いたら「疲れたわ」という言葉がぽろり出るはずだが、この曲にはそんなフレーズなは一切出てこず、それどころか「孝行息子をもって幸せだ」一色なのである。
 もし「靖国へ行くことを大変とか辛いとか思ってはいけない」という無意識の精神が今も働いているとしたら、そのような回答が続いても不思議ではないという考え方もできる。
 とはいえ、「疲れた~」が口癖と言っても過言ではない若者に比べれば、発言の真意がどうであれ「きつくない」ときっぱり言う高齢者のが元気なのである。
 高齢者が多く来るからバリアフリーが必要なのではないのかというのは、かなり余計なお世話であり、さらに間違った認識であったということにも気づかされた。
 取材の帰りに田安門前の交差点で信号待ちをしていたところ、靖国の入り口に一台のタクシーが止まり、中から高齢者の家族連れが降りてきた。
 そうなのだ。靖国へ参拝しに行くのに坂を上らなくてもよい方法があるのだ。タクシーを使えばいいのである。お金がかかるというデメリットはあるものの、タクシーを使えば、第一鳥居まえどころか神門近くまで乗っていけば歩く必要などなくなるのである。
 今回の企画では、元気でタフな高齢者がたくさんいたことに驚かされた。あれくらいの坂で「きつい」と言っている私は情けない。ワイルド&タフなおじいちゃん、おばあちゃんを見習って、私も明日からシャキシャキと、九段坂に限らず歩いていこうと心に誓った。

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靖国を歩く/第27回 奉納相撲とおすもうさん(奥津裕美)

■月刊「記録」04年5月号掲載記事

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 年に1回、靖国境内が力士であふれかえる。春季例大祭の一行事として、毎年行われる奉納相撲大会の日だ。 奉納相撲は、靖国以外に伊勢神宮、明治神宮の3社しかない。靖国で初めて行われたのは、その前身である東京招魂社が創立された1869(明治2)年。当時は3日間奉納されたようである。今は1日興行。100年以上続いていることになる。
 もっとも創立から数年後の明治10年代にはいると、野蛮な競技として排斥された。ちょうど欧化主義を広めようという風潮のまっただ中で「鹿鳴館時代」と呼ばれた時代だ。制度や思想などをヨーロッパ風にしようと必死なのに、まげを結った裸の巨漢力士達がぶつかり合うスポーツなどあってはならぬということか。
 相撲場の場所は神門を入り遊就館方向へ行ったさらに奥にある。本当に端にあるのだ。近くにお茶室があり、コイが泳いでいる池もある。ちなみに餌付けもOK!

■まわしと下がりに目が集中

 相撲場はちょっと狭いグラウンドのようなところにあり、奉納相撲の入場を6000人としているだけあって、かなり広め。国技館の土俵ほどではないがしっかり作られている。この相撲場は1917(大正6)年に、両国国技館が消失したときはその翌年から2年間、計4場所の大相撲興業も開催された。
 初めて生で相撲観戦をしてのありきたりな感想だが、やっぱりテレビで見るのとは迫力が違う。頭と頭、体と体がぶつかり合う音、取り組み前の力士の表情がみられる。それが生の醍醐味なのだろう。
  「相撲を見るなら枡席がいいわ!でも高い……」という方には、年に1回それも朝9時からだが、奉納相撲はおすすめ。何といっても「無料」というのがこたえられない。ただ地面の上にビニールシートが敷かれているだけなので、長時間座っているとお尻が痛くなる。常連と思われる見物客は、座布団や膝掛け、シートなどのグッズを持参していた。
 開催日の4月9日は平日にもかかわらず、若者が多かった。相撲人気は低迷気味と言われているが、会場を見る限りそれを鵜呑みにするのは早計かもしれない。
 前夜から九段下にある会社に泊まり込んでいたが、近いことをいいことに8時過ぎに出発。いつものように九段坂をあがって大鳥居をくぐり、売店へ立ち寄ったところ、いつもはサラリーマンや観光客でいっぱいの店内は、力士で埋め尽くされていた。なんだか圧巻。
 恒例の参拝をしたあと、相撲場へ向かう。入り口前に50人程度の見物客が並んでおり、外国人客も多かった。開場し、予定より5分早めに土俵祭が始まった。行司、審判(親方衆)、靖国の宮司が土俵の周りに座る。時間はだいたい30分ほど。土俵祭りは本場所では前日に行われるそうで、地鎮祭のようなものだ。
 終了後、練習。序二段、三段目、幕下の順で行われ、ウォーミングアップはしっかりやっておきたいという心意気なのだろうか、ひとり終わるごとに「次はオレとやるんだー!」という感じで、手を挙げ「ハイ、ハイ」とアピールしていた。
 奉納相撲では残念ながら、序ノ口の取組はなく、午前10時15分、序二段から取組開始。本場所では9時半から行われている。テレビで放映していないので、明日の関取を目指して頑張る姿を見れるのも生でみる楽しみだろう。
 相撲の楽しみといえば、ひいきの力士を作ること。いればますます楽しくなるらしい。有名力士でもいいし、まだ無名の新人力士でもよい。
 ちなみに私は特にいないが、強いてあげるとするならば、旭天鵬関と琴光喜関だろうか。思いっきり幕内力士じゃないかという突っ込みはなしで願いたい。
 地位が低いと、行司も若い。行司は格好も生地も簡素で裸足だ。力士のまわしも学生が締めていそうな素材。白ではなくオリーブ色だが、下がりはピンク、山吹、青、緑などの原色系。同系色の緑あたりならばさほど違和感はないが、ピンクや紫などの反対色だと、パンチがありすぎる。どうしても下がりにばかり目がいってしまった。
 取組になれていないのか、おどおどしている力士もいたが、中には熱戦を繰り広げる一幕もあり、地位が低いからといって、侮ってはいけないと感じた。
 三段目の終了後に第一アトラクションとして初切が行われた。力士と行司が相撲の禁じ手などの技を、おもしろおかしく見せるショートコントのようなもので、地方巡業や花相撲などで行われている。花相撲とは、勝敗が番付に影響されない興行のことで、奉納相撲もこの1つである。
 禁じ手は、①こぶしで殴る②頭髪をつかむ③目やみぞおちなどの急所を突く④両耳を同時に両手で張る⑤前ミツ(まわしの前の部分)をつかんだり、横から指を入れて引く⑥のどをつかむ⑦胸、腹をつかむ⑧一指、二指を折り返す、の計8つ。
 それ以外に、相手に塩を投げつけたり、行司が試合放棄して水を飲んだり、柄杓でチャンバラごっこのようなことなど、禁じ手以外にしてはいけないこともやっていて、白熱した戦いとはうって変わって、ドッと笑いと歓声があちこちからあがっていた。
 昼近くだったので、相撲場内の売店で弁当を買う。もちろん、幕の内弁当。弁当の値段は850円。幕の内弁当というと、いろいろなおかずが入っているが、靖国で売られていた弁当の中身は、鮭、エビフライ、唐揚げ、ちくわ天ぷら、卵焼きなど。コンビニエンスストアで売られている弁当よりはおいしかった。売れ行きも好調。
 むしゃむしゃほお張っていたら幕下の取組が始まった。その中でひときわ大きな歓声が上がっている力士がいた。彼の名は琴欧州関。ブルガリア出身、2メートルの長身力士で、現在20歳。
 このところ外国人力士が増えている。一番多い国は、横綱朝青龍関や私の好きな旭天鵬関の出身地モンゴル。他にも韓国、中国、ロシアなど計10ヶ国から来ている。 スポーツ雑誌「Number」(文藝春秋)593号の黒海関の記事でこのようなことが書かれていた。
  「強くなろう、頑張ろうという意志は誰にも負けない、と師匠の追手風親方も太鼓判を押す。一方で、この一生懸命さが最近の日本人力士に欠けていると嘆く親方衆は多い」
 彼らがめきめき力をつけ上がっていくのは、運動能力の差というよりも、強くなりたい、上にあがりたいという気迫の違いなのではないだろうか。
 相撲は、伝統や力士達のたくましい体躯、技を見せるものではなかろうか。日本の国技なのだから、日本人力士が彼ら以上の気迫、意地、技を見せなければ、いつまでたっても親方衆のその声はなくならないだろうし、人気復活の兆しはみえてこないのではなかろうか。

■取り組み後の力士も間近で見れる

 幕下が終わったあと、第二アトラクションの相撲甚句、第三アトラクションの櫓太鼓打分が行われた。両方とも初切と同じく花相撲でしか行われない催しだ。
 相撲甚句は、化粧まわしをした力士達が、力士の哀歓や各地の名所を「アー ドスコイ、ドスコイ」という掛け声と共に円になって唄う。
 唄ったメンバーは、安美錦関、玉乃島関、旭鷲山関他8人。練習しているのもあるだろうが、そろいも揃っていい声で上手い。
 櫓太鼓は、寄せ太鼓(親方衆を集めて話し合いを行うときに叩く)、一番太鼓(若者集の練習の合図)、跳太鼓(さよなら、また今度という意味で叩かれる。見事なばち叩きが冴える)を実演。
 相撲は国技としてのスポーツだけでなく、こういった娯楽的要素も入ったエンターテイメントなのだろう。
 それから幕内土俵入り、横綱土俵入りと続き、幕内以降の取組。
 ロボコップの愛称でおなじみの高見盛関が出てくると、ものすごい歓声と拍手の嵐。思わず携帯電話のカメラで動画を撮ってしまった。残念ながら貴ノ浪関が勝ったが、土俵から下がっても拍手が鳴りやまなかった。彼の人気ぶりがうかがえる。
 結びの一番は、横綱朝青龍対大関千代大海。途中場外の様子を見ようと入り口へ向かったところ、付近のアナウンス席に朝青龍関がいたのだが、愛嬌ある笑顔を振りまき、勝負前の鋭い眼光とは対を成していたのが印象深かった。
 彼の強さはやはり本物で、開始直後ヒヤッとする場面はあったものの、安定した力で千代大海を破った。
 私はまだ国技館で相撲を見たことがないからわからないが、取組後のリラックスした力士の姿やうろちょろ歩いている姿が見られるのも奉納相撲、花相撲ならではでないだろうか。
 今回観て、相撲にはまってしまいそうな予感のする春の一日だった。ごっつぁんです。
(■つづく)

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靖国を歩く/第26回 ドラマティックな遺書たち(奥津裕美)

■月刊「記録」04年4月号掲載記事

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 人は死ぬとき何かを残したがることが多い。家族、恋人または子供へであったりとさまざまだ。残すものもまたさまざま。とくに遺産に関しては問題となることも多いが、幸か不幸か私には遺書かダイイングメッセージくらいしかなさそうだ。あぁ、縁起でもない。
 靖国神社には毎月、英霊達の遺書が掲示板で公開されている。公式ホームページによると、祖国を愛しつつも散っていった英霊たちの心に触れてもらうということが目的のようで、遺書自体もアップされているのがなんとも親切である。ちなみにバックナンバーも過去5年分ある。
 この中で最も気になった社頭掲示をピックアップしてみよう。
 1月に掲示された「大好きな餅が食べたい」だ。正月にちなんだ選別なのだろうか。内容はあっけらかんとしていて、悲壮感が全くない。神雷部隊に所属する予科練習生が書いたもので、18歳で戦死している。若い。
 父親宛に書かれたその文面には、とにかく餅を食べたい、最後に餅を食べて死にたいということを訴えている。
「大好きな餅食って、敵をたたきのめしてやるあっはっはー」、というようなくだりがあるのだが、なんか国のために死ぬぞ!と屈託なく言い切ってしまっているところが純粋すぎて怖い。
 そもそも予科練生は、自ら入隊を希望し選出され、海軍航空隊へ入隊した若者達の集まりである。招集されたわけではないので、国に対して、ことのほか天皇に対して忠義を尽くして死ぬこともいとわない若者たちの集まりでもあるのだ。
 だから歯切れがよすぎるほど、あっけらかんとした、手紙が書かれたのだろう。
 『靖國のこえに耳を澄ませて』(明成社)という本には、学徒出陣した17人の若者の手紙と、彼らにまつわるエピソードが掲載されている。
 この本に出てくる多くの人物は、みんな高学歴で才能溢れた人たちばかりだ。あえてそうした人を選んでいるのだろうが。
 東京帝国大学、慶應義塾大学、早稲田大学、中央大学など、そうそうたる大学が並んでいる。
 なぜ希望ある若者達がどんどん戦地へ行くのか。戦力になるということはわかる。しかし優秀で才能のある人間なんてやたらと量産できるわけではない。死を考えることよりもまず、生を考える方がさきなのではないか。

■読み手の深読みか?

  「必ず命中疑ひなし。燃ゆる燃ゆる殉忠の血潮、熱血、撃滅の闘志、必中の確信、大和男の子にしての誰にも劣らざる気魄がある。誰よりもある」(西田高光)
 このように書かれた遺書を見ると、言い回しや、言葉遣いは優秀なだけあって完璧。
 手紙などの場合、今の若者の多くは話し言葉をそのまま書き、感情もそのままのせる。「昨日、彼氏とディズニーランド行ったんだけど、マジおもしろかった!ミッキーとかチョ~かわいいし!でも帰りにケンカしちゃって、すげぇ最悪。まだ仲直りしてない、てかもう別れる(-_-♯)」。こんな感じで。
 しかし、彼らの遺書には、感情がのることも、話し言葉も皆無なのだ。マニュアルでもあるのではないかというほど、書かれている内容はだいたい同じ、あまりにも真面目に書かれすぎていて、なんのおもしろみもない。
 あの三島由紀夫が涙したという逸話が残っている手紙のエピソードがある。古谷眞二さん(当時、海軍第十三期飛行科予備学生)の書いたもので、三島は彼の遺書を読んだあとこういって泣いたそうである。
「すごい名文だなあ。命がかかっているんだからかなわん。おれは命をかけて書いていない」
「命をかけて書いていない」と言って泣くくらいならば、泣く前に命をかけて書いたらどうだろうか。
 それよりも、これを読んでいて、命をかけて書いた手紙というより、決意表明と両親への感謝文と感じた。命はもちろんかかっているだろう。
 しかし、突然指名されてその一時間後に行くというわけではなく、訓練を積み、まして彼は残留指揮官として後輩の指導までしているのだ。命をかけているのだとしたら、あまりにも出撃までの時間が長すぎやしないか。
 手紙自体は「流れるような名文だ」と彼が語るほど、すらすらと読めてしまうよいテンポの手紙なのだが、どうにも古文の教科書を読んでいるようにしか思えず、どの部分に命がかかっているのかがわからなかった。
 断っておくが、私は彼らや彼らの書いた手紙をけなしている訳ではない。読んでいて、エピソードに深い違和感を感じたからだ。
 この本に出ているのは、遺書だ。それは死んでいるから。しかし彼らが生きていたとしたらどうだろう。そうするとただの手紙である。
 死んでいるからその手紙は遺書となりドラマチックなものになるが、生きていたら、あんなこと書いていたのに生きてるじゃないか、と言われておしまいである。
 ここで私が言いたいのは、遺書だからといって深読みしすぎているのではないかということである。
 この手紙には何か深い意味でもあるのではないかと考えてしまうのは、それは読み手である私たちが、「彼らは戦死している」ということを前提に読んでいるから
だ。内容はなんのことはない、「日本男児として国のために死にます。お父さんお母さんありがとう」というようなことが書かれているのだ。
 時代も文化も当時と今ではかなり変わっていて彼らと私たちの表面的なメンタリティーは変わっているとはおもうが、根本的なところは変わってはいないはずである。
 小難しい言葉で書かれていようとも、結局は10代20代の若者が書いたものである。人生を達観するには早すぎる。
 もし彼らの遺書から何かを得て、評価付けをしようとするのであれば、自分たちはそんなに薄っぺらい人生を送ってきたのか?と逆に問いたくなってしまう。
 本来死とは、死んだという事実のみで、意味や評価などないのではないか。それに対して無理矢理意味づけるから、高尚なものになるが、結局それは死者が自分に対して与えた評価ではなく、生者が生者のために与えた評価だ。そんなものは私は鵜呑みにはできない。

■エリートであったのが原因

 前回のカレンダーの時も少し触れたが、だいたいが私と同じ年齢の青年達ばかり。
 いくらメンタリティーはさほど変わってはいないとはいえ、私にはわからないことがある。それはなぜそんなに国のために死にたがるのか。
 あたかも国のために死ぬことが、結果的に日本や、国民、そして子孫のためによいと言っているが、それはただの幻想にしかすぎないのではないか。
 死ぬことがなんのプラスになるのか。明日の日本のためになることとは、死ぬことではなく、戦争をさっさとやめることではないのか。
 そもそも日本が本当に勝っていたら、まず特攻隊というものは存在していたのか。勝っているということは、少なくとも兵力にまだ余裕があるということだから、わざわざ自爆テロのような突っ込んでやっつけるという方法はとる必要はないはずである。
 死んだら終わりだよ。敵をいくらやっつけたって、死んだら、敵を何機やっつけたという事実だけで終わってしまう。その先は何もない。
 しかし彼らは、なにも疑うことなく、ただ勝つということだけを信じて死んでいる。それは彼らがエリートだというところに原因があるのではないか。
 右を向けと言えば逆らわず右を向く。そしてやめろと言われるまで、向き続ける。そういう世界の人たちなのだ。だから絶対に勝つという思いこみも、国のために死ぬことがよいと信じることも、至極当然のことかもしれない。
 私は当然ながらエリートではない。ただこれだけは言える。挫折を知らないエリートたちは、頭の回転は早いが、柔軟ではない。そしてそれは今も昔も変わってはいない。
 でも結局意識はわかっても、その精神はいつまでたってもわからない。これからも模索し続けるのだろう。

■サマワの自衛官の心情も知りたい

 そういえば自衛隊がイラクのサマワへ派遣されたが、彼らはどういった心境なのだろうか。安全だとは言われているが、安全に100パーセントなんてない。なんだかんだいって、死と隣り合わせでもある。
 彼らも、少しはこの17人や他の英霊達と同じような気持ちはあるのだろうか。戦争をしにいったのではなく、支援しにいったのだから、遺書は書いてはいないだろうが、戦地に赴いたのである。戦後50年以上たち、これといった活動を海外でしていない彼らの心情をぜひ知りたいものである。
 またイラク戦争のときにパレスチナホテルに滞在していた記者達もまた英霊達のメンタリティに近いのかもしれない。現に攻撃され、亡くなった記者もいる。
 この本や社頭掲示をみていると、そろいもそろって「国のために死ぬ」ことをいとわないとしている人ばかりである。
 そりゃ、仕方ないよな……と納得はできるものの、中には本望ではない人もいるだろう。ぜひとも後学のために、そういった英霊達の遺書も公開してもらいたい。  (■つづく)

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靖国を歩く/第25回 靖国マニアックカレンダー(奥津裕美)

■月刊「記録」04年3月号掲載記事

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 一家に一つは確実にあるであろうカレンダー。日にち、曜日、時間に気をとられていた(今もそのはずなのだが)学生時代は必ず購入していたのだが、現在の私は月刊誌の進行が根底にあるせいか、カレンダーに対してのこだわりや必要性が、以前より低くなっている。そのお陰で、締め切り日の近い2月11日が祝日だということをその日の夕方に知った。
 ちまたではカレンダーは、だいたい10月か11月ころから売り出しが始まる。カレンダーに情熱を注いでいたころは、一度下見をしてから買いに行っていた。テレビの情報番組やランキング番組のチェックはもちろん、書店や画材店なども行く。画材店は、おしゃれなものやデザイン性のあるものが多く、書店はアイドルやスターのものが多い。書店に置いてある売れ残りのポスターを見ると切なくなるのはなぜだろう。
 靖国には『英霊にこたえる会』という会があるのだが、そこが出しているカレンダーがたまたま手に入った。調べたところによると、1本500円(送料270円)するらしい。どのような因果かわからないが、私の手元へやってきたのだからこれを取り上げないわけにはいかない。
 カレンダーの解説に入る前に、このカレンダーを製作した「英霊にこたえる会」とはどのような会なのだろうか。簡潔にいうと、8月15日に靖国へ、総理大臣はじめ三権のトップ、さらに天皇の参拝をできるようにすることを目標にしているそうだ。それが英霊にこたえる道なのだそうである。
 会の定例行事には、毎年8月15日に「全国戦没者慰霊大祭」「戦没者追悼中央国民集会」、4月の第一土曜日に、「靖国神社の桜の花の下で“同期の桜”を歌う会」を行っているそうだ。けっこう精力的に活動しているようだ。

■「集合場所は、靖国神社の桜の下」

 さて、このカレンダーなのだが、かなり大きい。タテ62センチ、ヨコ39センチ。表紙の色は銀。金文字で『靖國』と菊と桜をあしらった社章が中央にあり、上部には明治天皇の御製が書かれている。何と書かれているかは読めません。御製というのは、天皇がつくった詩や歌のことである。だいぶ前の特集で取りあげたおみくじの回でも触れたが、明治神宮のおみくじにはこの御製が書かれている。
 次々とめくっていこう。このカレンダーは1ページにつき、2ヶ月分が載っている。1月と2月は『雲上の富士』という、びっしりと広がった雲の上(たぶん撮影した日の地上は曇りと思われる)に頂上だけが出ている富士山の写真、その下には明治、大正、昭和の天皇に加え、「今上」と書かれている現天皇など、歴代天皇の御製が書かれている。表紙にも明治天皇の御製が書かれているが、それとは別のものが載っている。
 短歌を見ているといつも思うのだが、どうしたらこういう詩が詠めるようになるのだろうか。資料などを見ていても、天皇に限らず軍人も詠んでいたりする。直接なにかを伝えたりするのではなく、短歌や俳句に託して何かを伝える文化がまだこの頃までは根強く残っていたのだろうか。
 日付の欄を見ると、祝日は赤の文字に日の丸が二つ並んで書かれている。ちょっと左上部を目をずらすと、元旦や成人の日に紛れて、毎月靖国で行われる行事が書かれていて、しかも一目でわかる親切な作りである。例大祭がいつ行われるか、みたま祭りがいつ行われるかもこれがあれば、一目瞭然。
 3月、4月は、春ということで『靖国の桜と新装なった遊就館』という写真が載っている。靖国の桜は、開花宣言に使われる木や、歌にもよく出てくるほど有名であり、木の数もすごい。その下には、戦死した軍人の写真とともに、彼にまつわるエピソードが記されている。写真の男性の年齢を見ると21歳とある。私と一歳しか変わらない。
 読んでみるとどうやら、遊就館といっしょに写っている桜ではないが、桜がキーワードの文章が載っている。どうやら桜にはなにやら特別な意味があるらしい。これによると、「俺達が死んでからの集合場所は、靖國神社の審問を入って右側の二本目の桜の下。誰が先に行っても必ず待ち、全員が揃ったところで一緒に神社に入る」ということを、出撃前に言ったそうだ。
 さらに、奥さんと落ち合う場所もその桜の木の下と決めていたようである。よくラブストーリーなどで、「10年後にあの木の下でまた会おう」というようなセリフがあるが、それと同じようなノリである。ただ戦時中ということがそのことをよりドラマティックにしている。
 桜は、待ち合わせるときのシンボルとして多用されたのであろう。今でいう新宿アルタ前とか、三越ライオン前、渋谷ハチ公前といった、当時の待ち合わせスポットというところだろうか。
 5月、6月は、「戦艦大和慰霊碑(鹿児島県徳之島)」の写真だ。夕日にむかってそびえ立つ慰霊碑が荘厳な写真だ。
 その下には、前月に続き写真とエピソードが載っている。神風特別攻撃隊員だった彼は、22歳で戦死している。私と同じ年ではないか。複雑である。
 どうやら彼には恋人がいたそうだが、大分の基地から出撃基地のある鹿児島へ行くことになった日、家族とは会えたものの、恋人とは会えなかったそうである。その日の日記には、「皆何と感じられたか知りませんが心から私が愛した、たった一人の可愛い女性です。純な人です」、出撃の日の日記には「心爽やか大空の如し。こうしているのもあと暫くです」と書かれている。同じ年でこうも違うものかと痛感した。時代が時代だからこそ、精神年齢が私たちよりも高そうに見えるのだろう。

■「今の若者も兵学校に」

 7月、8月は、みたま祭りの写真である。靖国のはっぴを着た若者達が、御輿を担いでいるところだ。ちなみにはっぴは赤い記事に黒文字で「靖國」と書かれている。といっても、かなりのくずし文字だが。
 躍動感あふれる写真の下には、新遊就館自由記述ノートからの抜粋ということで、遊就館に置かれているノートに書かれた、拝観者が書いた感想文を載せている。
 なかに、「今の若者も精神をきたえる為に兵学校に一年訓練するとよい」と書かれているのだが、たった一年の訓練で、根っこから染みついた甘ったれた精神がよくなるのだろうか。
 8月といえば、終戦記念日というのがあるが、行事予定をみると終戦記念日ではなく、「戦没者を追悼し平和を祈念する日(英霊の日)」というふうになっている。見逃してはいけない。「英霊の日」とは、戦没者を追悼して平和を祈るとの意味なのだろうか。どうやら、靖国では終戦記念日ではなく英霊の日となるらしい。英霊を祀っている神社だからそうか。
 10月、11月の写真は、「トラック諸島の夕暮れ(ミクロネシア連邦)」だ。空が青紫! 海はアクアマリンの色。超キレイ! ポストカードがあったら欲しい。沖縄の海もキレイで大好きなのだが、海外の孤島の景色はそれ以上に好きだ。しかし、海底に何十、何百という霊が沈んでいるということを考えると、ちょっとゾッとしてしまう。
 その下にはいつものように、写真とエピソードである。どうやら人間魚雷回天に乗っていたようである。いつも思うのだが、魚雷の中に人が入る意味はあるのだろうか。いくら国のために散るといっても、さっぱりわからない。人が入っていようがいまいが命中率は本当に上がるのか。どうやらこの少尉は、国のために血を流し、人のために涙を流し、自分のために汗を流すということがモットーだったようで、非常に真面目な正義感の強い青年だったと思われる。

■私の部屋には飾れません

 11月、12月は、「雪の靖国」という写真で、雪が降り積もった参道が写っている。雪が織りなす清らかな光景を神社のイメージに重ねるのは適切だが、積もった量によっては坂道で雪が溶けて凍ったつるつるした道となり、歩くときの恐怖は計り知れないものがある。靖国の大鳥居へ向かう坂道は結構きつい。雪が溶けかかってる頃には行きたくはないかも。
 最後を飾るのは、陸軍少尉の話である。こうも同年齢のひとの話を持ってこられると、胸が痛くなる。戦争をしたからこそ今の私たちがいるという論もあるが、逆に戦争がなければ彼らは死ぬこともなかっただろうし、国が生き残るために犠牲になるという事もなかったはずだ。
 遊就館へわざわざ行かなくとも、戦争とは、平和とは、歴史とは、と考えさせることができるテキストとして、このカレンダーは役立つに違いない。たかがカレンダー、されどカレンダーである。
 しかし、私の部屋にはすでにカレンダーが飾ってあるのでこれは飾れません。念のため。 (■つづく)

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靖国を歩く/第24回 靖国「青空骨董市」紀行(奥津裕美)

■月刊「記録」04年02月号掲載記事

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 靖国では、毎月第二、三日曜日に「青空骨董市」という催しが行われている。骨董市というと、なぜかフリーマーケットやバザーを思い出してしまう。骨董という単語を国語辞典(三省堂)で調べてみると、『1.雑種雑多の(高価な)古道具や古美術品。2.古いだけで、値打ちのないもの』という意味なんだそうだ。
 フリーマーケットやバザーには、古道具や古美術品が並んでいるかもしれないが一般に売価は高くない。たしかに使ったものだから多少古いし、デザインも古いものが多いが、どちらかというといらなくなった服や食器、結婚式の引き出物のように使うあてのないものを売っているからだ。古くても値打ちがない=高価ではないので辞書の前者の意味での「骨董」には当てはまらない。
 とはいえ、「高価」かどうかは主観で決まるので買う側にとっては相当な価値がある可能性もある。売価が明らかに安くても実は掘り出し物という場合は言葉のイメージ通りの「骨董」といえ、非常に複雑な言葉といえよう。

■紫水晶が100万円!?

 先日、その「青空骨董市」に行ってみた。午後3時ころについたのだが、出店数は約20店舗ほどで、主に壺や掛け軸(桐箱つき)、置物といった古美術を売っているところが多かった。ある店舗では、金髪の若いお兄ちゃん2人が店を構えていた。
 置物といっても、素人目でも価値がありそうだと思われるものから、さすがにこれはうちにもあるよ、といった観光地の土産、例えば鮭をくわえた木彫りの熊やタヌキのようなものまで売られている。意外と多かったのが、皿などの食器類とボタン。シャネルのボタンが売っていたのだが、どうみてもスーツに付いていたものを外しただけにみえて、さらに価格がすごく高かった。このような驚きをリアルに感じられるのも、骨董市の面白さということにしておこう。
 食器類はかなり充実している。100円ショップで買えそうなものから、高級そうな食器や洋食器、漆器もあった。おそらく銀製と思われるナイフやフォークなどもあり、しかもだいたいの品が500円くらいとお手ごろ価格。古美術よりも買いやすく、本物だ偽物だという不安もない。私みたいに骨董市初心者には手をつけやすい分野であろう。
 他にも西洋アンティークと呼ばれている海外ものの骨董や着物、端切れなども売っていた。靖国の「青空骨董市」に限らず、骨董市には必ず端切れを売る店が存在する。たまにかわいい柄のものがあるのだが、購入には至らない。
 変わり種として、ビデオが売られていた。それもゆうに50本は超えている。すごい品揃えである。
 なぜかはわからないが、このようなところで売られているビデオというと、アダルトものを目にするのだが(下世話ですみません)、この店では洋画・邦画を問わず映画ばかりが売られていた。健全だ。
 その隣では、天然石がたくさん売られていて、足を止めて買おうかどうか悩んでいる客に「じゃーもう、1万円にしとくよ!」という声をかけていた。店先にはとても大きな紫水晶の原石(研磨される前の鍾乳洞みたいな状態のもの)が売られていた。ちなみに値段は100万円。紫水晶は恋愛に効くらしいので、これを部屋に飾っておけば運勢アップ間違いなしといった感じである。
 これにはこの値段だけの価値があるのだろうか?という疑問が、降って湧いてくるような品がたくさんあるのも骨董市の醍醐味なのだろう。
 靖国の骨董市は1998年から開催されているそうだ。参道脇で所狭しと出店している店には、冬だからなのか客が少なかった。開催時間も日の出から日没までととてもアバウトである。別の取材で午後4時頃に訪れた時は、ほとんどの店の片づけが終わっていた。ちょうど日が暮れそうな時間でもあったから、今の時期はだいたいその時間には終わるのだろう。
 店の構え方はおおかた2種類で、ビニールシートに雑多に並べているところと、きちんとテーブルの上に商品を置いているところがほとんどである。
 テーブルに置いてディスプレイされていると、きちんとした感じにみえるし、わざわざ座って見るという行為をしなくてもいいという点でよい。テーブルを使っている店のディスプレイは、手前から小物→大物と順々に並べてあって見やすくしている。ただ一つ気がかりなのは、テーブルの店だと商品が近すぎて、一度手に取ると待ってましたとばかりに店員が寄ってくるのでは…という恐怖感が湧いてくる。臆病者の私には怖い店構えでもある。
 逆にビニールシートは立ったまま上から見ることができるので、結構適当に並んでいたりする。とはいえ、手前から小物→大物というのは同じである。デメリットは風に飛ばされるところだ。中には四方に壷などを置き、飛ばされないようにと工夫している店もあった。並べ方一つで店主の個性がにじみ出るのもシート型店舗の特徴だろう。
 屋外での楽しみというのは、外ならではのディスプレイの仕方にあるのではないだろうか。天気に左右されない屋内でゆっくり見て回るのもいいが、外という点を生かした面白さを発見できるのも青空市ならではのものなのだろう。

■日本全国「骨董市の歩き方」

 さて、骨董市は日本全国のいたるところで行われているのだが、インターネットで関東だけを検索してみると出てくる出てくる。開催時間を見るとやはり朝は6時、7時くらいから夕方は15時から16時くらいまで、それこそ日の出から日没までというのが多い。フリーマーケットというより、ほとんど市場のようである。
 つい最近、東京有明のビッグサイトという展示場で「骨董ジャンボリー」という大規模な骨董市が行われたのだが、入場料が必要らしく、しかもちょっと高い。いつも見ているワイドショーに、お買い物クイーンを探す企画があるのだが、たまたまこの会場がその日の取材地となっていた。どうやらある芸能人も出店していたらしい。すごいね。買い物に行くのに入場料を払うのは納得がいかないが、雨天中止ということもなく、屋外独特の気候による問題などもないのだから仕方ないのだろうか。
 都内で靖国以外の神社で行われている骨董市は、新宿区にある花園神社、練馬区にある氷川神社、豊島区にある鬼子母神など他にもあるが、いろいろなところで行われている。どこも参道が長かったり、敷地が広いからできるのだろう。他はショッピングモールやビル、イベントホールなどである。規模に関わらず、スペースさえあれば骨董市は行われているのだ。
 市で売られているものに限らず、売られている大多数の骨董はどこから流れてくるのか。セリ市場のようなものがあるはずである。
 調べてみると業者専用の市(業者市)があった。日本全国津々浦々、いたるところで行われている。東京都内に限定すると、4ヶ所で行われている。関東のみでみると、埼玉県が多くて7ヶ所、次が群馬、栃木である。
 『骨董ファン』(集出版)という雑誌があるのだが、トピックをみると盗品についての記事があった。「この顔を見たら110番」みたいなものである。買ったら盗品だった、ということもあるはずだから、店主から客の手に渡る前にきちんと調べてほしいものである。高い値段で買って、偽物でした!なんてのは冗談ではすまない。骨董を売るのも大変である。
 改めて「青空骨董市」に話を戻そう。気に入ったものがあってもなかなか食指を動かさない私だが、今回珍しく気になるものがあった。カラフルなミニキューピー人形である。肌色が当たり前のなかで赤、茶など5色5種類がそろっていたからだ。
 最初に引いた辞書の意味では「古くて価値がない」という点では確かにキューピー人形は当てはまる。この骨董市がフリーマーケットのように感じてしまうのは、骨董というよりがらくたに近いものが古美術品などに紛れて売られているからなのだろう。だがカラフルキューピーは値は安くても欲しい人には堪らない品であるかもしれない。文字通り高価な骨董品、どうしたってがらくたというなかに、このような商品としてどう定義していいかわからない品や、前述のような掘り出し物が混じっている可能性がある幅広くて謎めいたマーケットだから人は足を運んでしまうのだろう。そんな客の気持ちが分かるような気がして、私もまた骨董市へと誘われるのである。  (■つづく)

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靖国を歩く/第23回 遊就館は靖国のテーマパーク(奥津裕美)

■月刊「記録」04年01月号掲載記事

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 日本国内にはたくさんのテーマパークがある。東の横綱・東京ディズニーランド、西の横綱・ユニバーサル・スタジオ・ジャパン(USJ)。その他にも長崎のハウステンボス、宮崎のシーガイア、福岡のスペースワールド、東京・浅草の花やしきなど挙げたらきりがない。インターネットの検索サイトでテーマパークを調べてみるとその数に感心してしまうほどだ。テーマパーク大好きの私は、USJに行きたいのだが当分無理なので諦めている。
 さて、靖国神社内にもテーマパークがあることをご存じだろうか。その名も「遊就館」。入場料800円の価値を十分に上回る見応えありの施設は文句なしの充実度である。
 現在の遊就館は新しく建てられたもので、初代遊就館は1882年(明治15年)に作られた。それから数回生まれ変わり、2002年7月にリニューアルオープンしている。130年以上の歴史がある。
 遊就館で配っているパンフレットによると、日本で最初の軍事博物館だそうで、改装・増改築を繰り返しながらも、「殉国の英霊を顕彰する」ことと、「近代史の真実を明らかにする」という目的は一貫して貫かれているそうである。
 さらに名前の由来は、中国の儒者・荀況の著書『荀子』勤学編にでている文から「遊」と「就」を選んでつけたそうである。「高潔な人物に就いて交わり学ぶ」という意味である。ここで「近代史(の真実)を学べよ!」という意味が込められているのだ。

■終了時間は驚くほど早い

 遊就館の基本データとして、拝観料大人800円、大学生と高校生は500円である。昨年のクリスマスイブの特集の際もふれたが、やはりこのご時世に800円は高いと感じるが、「テーマパークの入園料」と考えれば格安だ。博物館や美術館もこれくらいはするから、妥当といえば妥当である。テーマパークの料金にデフレの波はやってこないのか。
 冬は午前9時から午後5時までと、終わる時間がテーマパークの常識では考えられないほど早いので行かれるときは注意が必要である。
 靖国へ入ってから白鳩がいる砂利道を右折し数メートル歩くと、白い建物がみえる。それが遊就館である。
 ガラス張りの入口から入り、チケットを買う。さらに左手には、あの省エネ効果を狙っていると思われる、近づくと動き出すエスカレーターがある。ここは2階から見ていくので、エスカレーターに乗るのだ。
 乗りながら「ハイテクな施設だ」と思いをはせるのもいいが、乗る必要があるのかわからないほど短いので考える必要はなかったりもする。
 ところで先ほどから「テーマパーク」として遊就館を紹介しているが、中は博物館に近い。ただそれがすごく豪華な施設として君臨しているのであえて「テーマパーク」と称している。
 1階と2階にわたって展示室が散らばっている。細かく説明していくと、2階は展示室1から10までに特別展示室と映像ホール、1階は展示室11から20までと大展示室、企画展示室がある。
 館内で配っているパンフレットの表記にしたがうと、展示室1、2が「武人のこころと日本の武の歴史」で、3、4が「明治維新、西南戦争」、6から10までが「日清・日露戦争、第一次世界大戦、満州事変・支那事変」、11から15までが「大東亜戦争」、16から18までは「遺書・遺品」が展示してある。ここは、遺族から提供されたと思われる遺影が飾ってある。ざっと見ただけでも100はありそうだったので、もしかしたら親戚がいるかも!と思って探したが、名前を知らないので見つけられなかった。
 なかには私と同じくらいの年齢の方もいて、自分は戦後の今に生まれて、好きな人がどうのとか、好きなことを仕事にしたりと平和をおう歌して生きているが、彼らはそんなことを味あわずに戦場で散っていった。遺書などを見るたびに、これらの戦争の大義や必要性を改めて考えてしまう。
 軍事博物館なので当たり前のことだが、明治時代以降起こった戦争についての展示物ばかりだ。ただその展示数には驚かされる。「どこから集めたんだ」というほど豊富にある。デートは博物館と決めている私にはこの資料の豊富さにはただた感心させられるのみで、「靖国神社の遊就館という軍事博物館」というものを抜きにして、純粋にすごいと思ってしまう。
 しかし、解説に偏りが見られるのは靖国の性質上仕方のないことなので割愛。
 この連載をしていると、毎月靖国に関する資料を読みあさる。『かく戦えり。近代日本』(靖國神社遊就館)には真珠湾攻撃の際に打たれた、「トラ・トラ・トラ」という暗号電報が載っているのだが、遊就館で実際に見たときに「ホンモンだよ!」と思った。
 しかし、この冊子には『「ワレ奇襲成功セリ」と打電した』と説明が書かれているのだが、この電報には「ワレ」という字は一切書かれていない。さらに、暗号は伝えたいことを知られては困るから、別の言葉にしているのに意味を書いてしまったら意味がないだろうと思うのだが。
 これを見たときに、MAXという女性歌手グループの大ヒット曲『トラ.トラ.トラ』という曲を思い出し、この歌はこんな意味が秘められていたのかも・・・・と、一人納得してしまった。

■『おぼっちゃまくん』は置いてない

 忘れてはならないのが、ミュージアムショップだ。博物館や美術館へ行ったら必ず立ち寄るのだが、ここは充実している。そして、ショップ自体がオープンで明るい。併設されているショップはひっそりと佇んでいて、隅に追いやられていて入りにくいのだが、展示室の一つのような感じで見事に溶け込んでいるので入りやすい。
 グッズはもちろん充実している。靖国や神道、戦争に関する書籍が豊富に取りそろえられているのはプラスポイントだ。小林よしのりの『戦争論』が置いてあったのだが、人気を博した彼の漫画『おぼっちゃまくん』は置いていない。
 軍歌のカセットテープとCDも置いてあり、やっぱり軍事博物館だわ、とひそかに感心した。
 外国人観光客がいたのだが、「闘魂」「努力」とかかれた、よく受験生がつけているはちまきに関心を持っている様子だった。
 数多くのグッズが売られているのだが、昨年のイブに行ったときには、靖國神社の名がはいった鉛筆(50円)しか置いていなかったのだが、先日行ったときは新商品として名入りボールペン(75円)が売っていた。
 なにげに商品開発をしているのである。といっても、いたって普通のボールペンに名前が書かれているだけなのだが。
 さらにうろうろしていたら、また新商品を発見してしまった。コインチョコレートである。桜と菊をあしらった模様と、大鳥居からみた靖国の参道の模様がデザインされた金と銀の紙にくるまれたものである。チョコ一つの大きさは直径6センチ。金文字で「靖國神社参拝記念」と書かれた赤いビロードの入れ物に入っている。箱は小豆色と豪華仕様。
 箱を開けたらプーンとチョコの匂いが漂って来たので、裏の表示を見たところ、原材料の中に香料と書かれていた。この匂いのもとは香料だったのか。
 ちなみにこの一箱のお値段1000円。高い。買ったはいいものの、チョコが苦手な私は食べていないので味はわからない。
 クリスマスは間近だが、あっというまにバレンタインデーがやってくる。他の人と差をつけたいと思ったときは、このコインチョコレートをあげるというのもよいのではないでしょうか。印象に残ること間違いなし!
 他にも、靖国ならではのものから、よくある東京ならではのものまで幅広く置いてあるので、エスカレーターに乗ってから、ミュージアムショップを出るまで来館者を飽きさせない。ぜひ、一度行ってみてください。

 遊就館の入口横に零戦の模型が飾ってあるのだが、それを見るたびに「超かっこいい~!」と、子どもが新幹線などを見て「すげぇ」と騒ぎ出すような、子どもじみた思いに駆られる。そして大展示室に飾られている模型を見ると、もう分別ある大人なのだが、暴れ出したくなる。たぶん、過去に一度でもプラモデルにはまった人ならば、私と同じ思いに駆られるに違いない。
 屈託なくそう思えてしまうのは、やはり戦争を知らずに生きてきたからだろうと、心の片隅でそう思ってしまう自分もいた。 (■つづく)

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靖国を歩く/第22回 決定版!お守りガイド(奥津裕美)

■月刊「記録」03年12月号掲載記事

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 皆さんはお守りを買いますか? 年に1回初詣に行ったついでに買う人もいれば、小さい頃からずっと持っているお守りを身につけている人もいるかもしれない。
 皆さんが持っているお守りと、靖国神社で売られているお守りにはなにか違いはあるのだろうか。今回は靖国神社お守りガイドをお届けする。
 
 さて「お守り」は意外にも日本独特のものではない。形は違えど、世界にもさまざまなお守りがある。インディアン(ネイティブアメリカン)のあいだでは、ドリームキャッチャーと呼ばれる、悪夢を消し去ってくれるお守り(バクが夢を食べるという伝説に近い)があるし、トルコでは、ねたみや恨みの視線を受けて幸せが飛んで行かないように、青いガラスでできた目玉の形のお守りをつけるという。ペルーには、日本人にもなじみの深い亀やフクロウを幸運のシンボルとしている。他にも世界各地にお守り(チャーム)は存在する。
 もちろん、日本でもお守りと呼ばれているものがあるが、それは神社で売っている布の袋に入ったものだけではなく、おまじないをするときに作る護符もそうなるし、一時期流行ったパワーストーン(守護石)もお守りの仲間である。自分を守ってくれるものや、願いをかなえてくれるものはすべてお守りといっても過言ではない。

■ストラップタイプのお守りも

 今では携帯電話の世界にも進出している。誰もが必ず持っているといってもいいほど普及した携帯電話にはストラップをつける方がほとんどだと思われるが、それにも幸運を呼ぶお守り(チャーム)をつけたものがたくさん出回っている。現に私も干支(えと)の形に彫られた翡翠(ひすい)のストラップをつけている。
 なんと靖国神社にもストラップタイプのものがあったのだ。その名も『開運 さくらまもり』。タテ約4センチ、ヨコ2.5センチでお守りにはサクラのアップリケが施されている。赤いのを買ったのだが、これがまたミニサイズだとかわいいのである。大きいと派手だし、使用する赤の色でもだいぶ趣が違ってしてしまう。キュートなストラップをお探しの方がいたら、これをおすすめしたい。
 その他にも靖国にはオーソドックスなお守りが多数ある。学業成就お守りは、紫の布に『学業御守』という字と菊と桜の刺しゅうが入っている。どのお守りよりも渋い。高校受験のさい、学業成就のお守りを身につけ会場へ向かったが、推薦で落ちてしまったことがある(その後一般入試で受かった)ので、それ以来その類のものはすべて遠ざけていたが、このお守りの効き目はいかなるものなのだろうか。しかし私はもう学生ではないので確かめる術はない。
 もちろん靖国にも縁結びのお守りがあって、これは淡いピンク色の布に、サクラと菊が刺しゅうされていて、大きさもタテ約6センチ・ヨコ3センチとミニサイズ。見ているだけで、恋の願いがかないそうである。ピンクは恋愛に効果がある色だし、なんてったって靖国の縁結びお守りだ。英霊がなにがなんでも引き寄せてくれそうである。
 厄除けのお守りは他のお守りと趣が異なっており、オレンジの布に金の文字にオレンジの縁取りで「厄除御守」とかかれている。裏面には、靖国の鳥居の絵が刺繍されている。この鳥居を鬼門に見立てて、ここからさまざまな厄が出ていきますように……という意味が込められているのだろうか。それともその鳥居から厄が入りその中に閉じこめるという意味なのだろうか。明らかに判明していることは、このお守りが代わりに厄を引き受けてくれるということである。
 お守りと呼ばれるオールマイティーなものは、大小2つのサイズがあり、今回は小さいほうを購入。これに使われている赤は一番はっきりした発色で、表に菊、裏に桜が刺繍されている。
 一つだけ大きさが違うお守りがあった。「病気平癒御守」である。タテ9センチ・ヨコ約6センチ。パステルグリーンの布に黄緑の桜が刺しゅうされている。やはり病気には、風邪からガンなどの大病まであるから大きめに作っているのだろうか。あまりの存在感なので、目に見えないウィルスでも振りかざせばどうにかなりそうな気になってしまう。
 おまもりがたくさん並んでいる神札授与所でまず目についたものがあった。それは『こどもおまもり』だ。クリーム色の布に男の子と女の子の刺繍が施されているお守りである。これは、子どもに持たせるお守りなのだろうか。それとも子宝祈願のお守りなのだろうか。靖国に問い合わせたところ「子どもに持たせるお守りです」との返答があった。ネーミングセンス抜群のお守りだ。
 靖国神社といえばたくさんの白鳩が思い出されるが、もちろんお守りの中にもいる。『白鳩おまもり』と呼ばれるそれは、金属でできており、折り紙で作ったハトに銀メッキ加工を施したようさまである。しかし実際にそんな加工では崩れ去ってしまうので、違うが。
 このお守りの説明書きを読むと、『靖国の白鳩にちなみ願いを込めながら折った折鳩を基に奉製されております。みなさまの願い事が、この折鳩に織り込まれ、かなえられますようにお祈りされているおまもりです』と書かれている。これをストラップにつけて毎日身につけようかな。
 白鳩のお守り以外には必ず菊と桜を合体させたマークがついている。これは社紋なのだそうで、この社紋をかたどったお守りもある。説明書きにはこう記されている。「この御守護は、菊花御紋章に桜花をかさねた靖國神社の社紋をかたどりました。御神徳を仰ぐお守りとして財布などの小物につけて大切におもちください」。
 これは金と銀の二種類あるので、「おそろいー!」とか言いながら持つことも可能である。

■中身は意外にシンプル

 本来であれば取り出してはいけないお守りの中身をみてみたいと思う。学業成就お守りの中には、靖国神社と書かれたタテ5センチ・ヨコ2センチの折りたたまれた白い和紙が入っていた。あらかじめ中を見られることを想定した作りのような作りで、1枚1枚丹念に折りたたまれている。病気平癒お守りの中には、「病気平癒御守」と書かれた和紙が入っていた。意外とシンプルである。厄除お守りの中には、タテ3.5センチ・ヨコ2センチの折りたたまれた和紙が入っていた。一番オーソドックスなお守りの中にも、厄除けの中身と同じものが入っていた。
 縁結びのお守りは、開けたくなかったのであけなかった。個人的にも持っているから開けてもいいのだが、開けてしまうと縁が結ばれなくなってしまうような気がしたのでやめました。
 どうやらこの紙製の札はお守りの作られる過程によって、神社で作っていたりそうでなかったりするそうである。
 このお守りだがどのようにして神札授与所に並ぶかというと、お守りの製作業者に注文してできてきたものを神前に供え、祈りを捧げて神様の力を注入するそうである。神様といえども、力を発揮できるものには限りがあるだろうから、神札授与所にたくさん並んでいるからといって、手当たり次第買うよりも、その神社の特徴にあったお守りを買えば、抜群の効果を発揮するに違いない。
 日本でのお守りの発祥は遠く平安時代にまでさかのぼる。このところのブームで聞き慣れているであろう陰陽師や僧侶が配っていた護符が起源であるそうだ。それを神社がならって作り始めたお守りが今にまで伝わっているということだそうである。

■買った直後に別れがきた縁結び

 さて皆さんは買ったお守りを最終的にどのように保管・処分をしているだろうか。保管方法は人それぞれだが、処分をするさいはぜひ、神社へ持っていくことをおすすめする。買った神社へわざわざ持って行かなくとも、近くの神社の神札授与所などに持っていけば処分してくれるそうだ。たかがお守り、されどお守り。皆さんもお守りを大切に扱ってあげてください。
 個人的なお守りのエピソードなのだが、以前、靖国で買った縁結びのお守りがあるのだが、なぜか買った直後に縁が切れた。納得はいかないのだが、とりあえず「縁結び」というのは結ばれていない縁と縁を結びつけることだから、今まであった縁を絶ちきり新しい縁を見つけなさい、という英霊(お守り)のアドバイスなのだと考えることにした。
 やはりお守りは自分の目的にそったものを買うことが一番なのだ。 (■つづく)

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靖国を歩く/第21回 靖国神社の鳥居(奥津裕美)

■月刊「記録」03年11月号掲載記事

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 靖国神社には鳥居が4つもある。4つあるにもかかわらず、その材質はすべて違う。たくさんあるとどれか1つくらい同じでもいいだろう……と思ってしまうが、靖国は手を抜いていない。ぬかりない。しかし、近くの俎橋(まないたばし)付近から地下鉄九段下駅に歩いていく時に見えるライトアップされた第一鳥居(大鳥居)は正直怖い。満月のときに見る真オレンジ色の月を見たときと同じような怖さがある。
 神社といえば鳥居!鳥居といえば神社!というように、切っても切れない関係にある靖国の鳥居の概要を説明しよう。

 まず九段坂を上ってきて見えてくる大きな鳥居、その名も大鳥居で前述のように第一鳥居ともいう。1974年に完成し、高さ25メートルの巨大さは、25メートルプールが立っているのを想像していただければ、参拝したことがない方でも容易にイメージできよう。笠木という、鳥居のてっぺんに横たわっている棒があるのだが、その長さも約34メートルと、とにかく長い。重さは100トンと、もう想像ができないくらいの重さである。
 1トントラックや2トントラックなど、「何トン」までならば容易に想像がつくが、100までくると何だかもう分からなくなってしまう。震度7の自信にも耐えられるほどの頑丈さというのも納得の日本最大級の大きさを誇る。
 次に、参道中央にそびえ立つ大村益次郎像を左折すると見えてくるのが石の鳥居だ。1933年に奉納されたそうである。約70年ものあいだ立っているにもかかわらず、いまだ現役である。どうやら石製としては、京都の八坂神社と並ぶ最大級の代物なのだそうである。

 3つ目が参道に戻り神門手前にあるのが青銅大鳥居。これは古く、1894年にできたそうである。しかもそれだけではなく、明治時代の最先端技術を用いて製作されたのだ。
 神門をくぐりぬけると最後に中門鳥居がある。どうやら鳥居になる前は扉がついていて門として使用されていたそうである。台湾産のヒノキでできたそれは、1975年に世田谷の材木商が明治神宮の「二の鳥居」とともに献納。明治神宮には鳥居を奉納しているのに、靖国神社には門を奉納するというのもおかしな話である。もしかしたら、この鳥居も門がついた扉だったのかもしれない。
 さて、先ほど神門が出てきたが、少し神門の解説を。1924年にできたこの門は、高さ6メートルという大きさで、扉中央には菊の紋章がついている。
 ちなみにこの菊は16弁で、皇室で使われている菊の紋章と同じである。直径1.5メートルという存在感は、近くで見ればもちろんのことだが、青銅大鳥居付近からみてもわかるくらいである。日本の巡洋艦や航空母艦・戦艦につけられた倍の大きさだそうだが、さすがにあの大きさのものをつけていたら重いだろうし、そんなに見せつけなくても……という気になってしまう。
 話がちょっと脱線してしまったが、元に戻そう。ざっと靖国の鳥居の説明をしてきたが、普段あまり意識してくぐる機会が少ないせいか、知らないことが多い。しかし鳥居は、神社にはなくてはならない存在でもある。
 以前、羽田空港の新社屋ができる前、旧空港駐車場に鳥居があった。行くたびになぜこんなものがあるのやら?と思っていた。新しく空港を建設することになって、その鳥居を壊そうとしたところ、怪事件が続々と起こったそうである。今は無事に撤去され、新居地に移動して静かに暮らしている(?)そうだ。
 鳥居といっても建造物のひとつにすぎないのだが、このような話があるのだから“ただ”の建造物ではなく、“神秘的”な何かがある建造物といえる。鳥居の語源・起源は定かではなく、語源は「鳥が居やすい」からとか、「通り居る」からだとか曖昧だし、起源も日本古来のものという説と、他国からきたという説がある。この鳥居がない神社もあるそうで、対比は五分五分というところである。
『神社の見方』(小学館)によると、神明鳥居系と明神鳥居系に分類される。神明鳥居系の鳥居は、笠木と呼ばれるものが直線的で反り返っておらず、額束と呼ばれるものがない。そして装飾品を一切省いたシンプルな造り。靖国の鳥居がまさにこの神明鳥居系である。明神鳥居系の鳥居はその反対で、転びと呼ばれる柱と笠木に傾斜があり、曲線的な鳥居である。直線的で日本最大級の靖国第一鳥居を見ると、どことなく冷たさを感じる。そして、ライトアップされた第一鳥居は存在感を増し荘厳さが漂うが、どことなく威圧されているように感じてしまう。
 

 靖国の鳥居に話を戻して、『靖國神社大鳥居再建之記録』によると、現在の第一鳥居は再建されたものだ。先代の大鳥居は戦時中の1943年に取り壊され、陸海軍に献納された。国民から「空をつくよな大鳥居」と呼ばれ親しまれていたことから、かなり大きい鳥居だったことが想像される。軍部は助かっただろうな。
 解体され、その間代用されたのが木製(最高級のヒノキ製)の鳥居だそうである。43年から74年までの約30年間使われた。その30年の間には晴れの日もあれば、雨の日もある。雷や雪の日もあるのだから、新しい大鳥居ができあがるころには、見るも無惨な姿になっていたに違いない。「お疲れさま」と声をかけてあげたかったが、私はまだ生まれていなかった。
 その中にとても興味深いことが書かれていた。再建するにあたって、全国近衛歩兵第一連隊会(全国近歩一会)から提案された意見のなかで事前承諾したもののなかに、「再建大鳥居は新しい素材を使用してよい」というものがあった。
 どうやら、北海道神宮の大鳥居に使用されている耐候性鋼板を使用すると建設費は2000万円程度ですむらしい。だが、旧来の銅を使用すると3億円かかるそうだ。額面通りみれば、靖国は新しいことにチャレンジする旺盛な神社に見えるが、実際は3億出すのは痛いからそのようにしたとしか思えないのだが……。
 神明鳥居系の鳥居は日本全国約20の神社に設置されている。また日本だけでなく、海外にある神社約16社にも設置されている。けっこうな数があるということがわかる。どれも靖国鳥居という別名がついているが、鳥居のデザインのひとつとして名付けられたのだろう。国内にあるということは、数ある鳥居の種類からそれを選んだということで、疑問に思うことはないが、海外にある神社にまで靖国鳥居が使われていることに関しては、日本の植民地だったということが連想され、いまだその爪あとが残っているように思える。
 現在の靖国鳥居になる前は、御陵鳥居というものが使われており、御陵とは、天皇・皇后・皇太后・太皇太后の墓のことである。つまり墓が鳥居になっているということだ。靖国が建立された目的が、日本の国のために尽くした人々の御霊を祀るということなので、墓ではないが、御霊を慰めるためにできたところから御陵鳥居というものが使われても自然なことであるが、時が経つにつれ、靖国の立場が変わっていくとともに、鳥居も変わっていったということだろう。
 御陵鳥居と靖国鳥居の違いを簡単に説明すると、御陵鳥居は皮を剥いだ白い丸太を使っており、靖国鳥居は貫の部分に角材を使用して結合させやすくしたものである。
 ざっとではあるが鳥居について書いてきたが、日本国内には様々な鳥居がある。たまにはおみくじを引いて参拝するだけではなく、鳥居を眺めてみるのもよいのではないだろうか。

 靖国の4つの鳥居はどれも個性的だが、やはり第一鳥居が断然いい。どっしりと構えた姿と、日本一の大きさが醸しだしている威圧感にとてつもなく惹かれてしまう。とくに青空のもとで見る鳥居は格別だ。しかし、冒頭に記したように昼と夜とでは、東京タワー並みの印象の違いがあるので、ぜひ両方を見比べていただきたい。 (■つづく)

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靖国を歩く/第20回 実録・20代意識調査-靖国神社を考える-(奥津裕美)

■月刊「記録」03年10月号掲載記事

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 この連載をはじめて、1年がたつ。最初は靖国神社がどんな神社なのかも知らなかったし、どんな歴史的背景があるのかもよくわからなかった。それは単純に、関心がなかったからだ。しかし1年間の連載を通し、徐々にではあるが靖国神社を理解し始めている。
 連載を引き継いだ当初の私の個人的な印象は、「毎年、終戦記念日になるといつも騒いでいる神社」である。子供でも考えそうなレベルだ。身近な存在でなかったので仕方がないと言い訳をしつつも稚拙だと思う。
 だからだろうか? この連載をはじめてから今日に至るまで、どうしても気になっていた疑問があった。私と同年代(20代)の人たちは靖国神社についてどう思っているのか、である。謎を解くべく調査してみた。

  「小泉首相で話題になるまで、戦争で亡くなった人の神社とは知らなかった」(25歳・女)との意見があったので、まず靖国神社がどのような経緯でできたかということを説明しよう。
 明治2(1869)年に、日本のために尽くした人々を国が永久に祀る、という明治天皇の言葉をもとに造られた。第二次大戦後には、GHQから「神道指令」が出され、国の管理から離れた一宗教法人となる。「国家神道に対する政府の保証、支援、保全、監督並びに公布の廃止」を謳ったこの指令は、軍国主義の精神的支柱となっていた神道を、国家から引き離すことを目的としたものだった。しかし政治家の参拝問題など、靖国神社と政治の完全な切り離しは、現在に至るまで実現していない。
  「靖国神社っていったら赤い鳥居!」(25歳・女)という意見もあったが、計4つの鳥居に赤はない。
 九段下駅で下車。九段坂をあがったところ武道館の向かいにあるのが、世界最大の第一鳥居である。色は濃い茶色。そのまま参道を歩いていくと、左側に見えてくるのが、石の大鳥居。色は灰色だ。さらに参道を進むと青銅製の第二鳥居に突き当たる。こちらの色は、言うまでなく青緑。この鳥居から徒歩1分の神門をくぐると、檜で作られた中門鳥居が目の前に。こちらは雨露にさらされ黒ずんでいる。
 鳥居は赤に近い色すらない。まあ、他の神社の鳥居と間違えたのだろう。まさか靖国を「アカ」と勘違いしたわけでもあるまい……。
 ちなみに神門の先には、靖国のシンボル・白い鳩が大量に戯れている。日本全国のマジシャンが白鳩を出すたび、ここに飛んでくるのではと疑ってしまうほどの数である。なぜかアンケートでは、誰も触れてない。

■報道効果!? 最多登場は「小泉首相」

 さて今回の調査で最も多く見かけた項目は、「小泉首相」と「参拝問題」であった。
  「私は靖國神社ってあんまりよくわからないけど……。小泉総理が参拝がどうとか前にニュースでやってたところかな? もしそこだったら連想するのは小泉さん」(25歳・女)、「靖国と聞いて思い出すものね……。それは小泉総理大臣かな」(22歳・女)、「靖國神社ときいてか、あんまり考えたことないな。戦争がどーのこーのって……。あと小泉首相が参拝して問題になった事ぐらいしか」(22歳・女)、「小泉首相で話題になるまで、戦争で亡くなった人の神社とは知らなかった。印象としては、他の神社も何かの意味があって建てられているんだから、特別視する必要はないと思う」(25歳・女)
 あまり関心がなくても毎年マスメディアで流れていると、脳にインプットされるようだ。首相による靖国参拝は、日本以外のアジア諸各国から批判が集まり、それなりのタブーとなっていた。しかし小泉首相は首相就任前から8月15の参拝を大宣伝。就任後は、いつ参拝がするかが、メディアの注目するところとなる。
 ちなみに今年の首相参拝は、1月14日だった。小泉首相は、「その日に思い立った」とコメントしている。実際、靖国の広報からによれば、今年は本当にアポなしで来たそうだ。数々の問題を引き起こしたテレビ番組「電波少年」でもあるまいに……。ただし、この首相の参拝により、韓国の金大中大統領が川口順子外務大臣との会談はキャンセルとなった。
 過去の巨大な歴史を背負った靖国神社は、位置づけが他の神社とは違う。もちろん国家を代表する首相が参拝するのと、一般市民が参拝するのでも意味が違う。靖国問題をよく知らない20代でも、さすがに違うことぐらいは強く感じている。
  「よく知らない、というのがホントのところだけど。他の神社とは、かなり扱いやイメージが異なるよね。やはり日の丸とか政治色を感じさせると思う」(24歳・男)
 そうした違いに疑問を持つ声も出てくる。
  「靖國神社のことはよくわからないんだけど、いいじゃん参拝したって」(21歳・女)
 さらにもう少し突っ込んだ意見も話してくれた人もいた。
  「確かにいろいろな問題はあるけど、総理の参拝に関して、戦争を忘れないように必要なことだと思う。亡くなった人を偲ぶのに他からとやかく言われる筋合いはないんじゃないかな」(23歳・男)
  「靖国と聞いてまず考えるのは、まず首相の参拝を他国が干渉することです。私は愛国心が強くて、教科書問題もそうですが、日本のやり方に口を出されるのが不愉快です。戦争はもちろん否定派だし、今後日本が戦争状態になるのは絶対反対だけれど、過去は過去で、死者は死者なのだから、これから日本が侵略行為に出なければ参拝するのに問題はない!と思っています」(23歳・女)
  「私は積極的に行こうとは思わないけど、近くを通ったら参拝しようかとは思うよ、日本人として。過去にこだわったとこで、大切な人が生き返るわけじゃないしさ。再び戦争を起こさないようにするにはどうすればいいのかを考えた方が、戦没者のためにも自分自身のためにもいいんじゃないかと思う」(22歳・女)
 公式・私的という問題を抜きに、首相参拝を支持する声が多かった事には驚かされた。
 首相の参拝は、中曽根康弘元総理大臣が1985年8月15日から1996年7月29日の橋本龍太郎元総理大臣までの約11年間行われなかった。タカ派と呼ばれた政治家でさえ参拝しなかった11年間と、20代の男女の多くが参拝賛成を口にする時代の温度差に驚く読者も多いだろう。

■問題解決のための提案も

 なぜ首相参拝で問題が起きるのか、どう解決すべきなのかを考えた意見もある。
  「A級戦犯とかを祀らないことにして靖国を残すか、あるいはA級戦犯抜きの無名戦士の墓とか作ればいいんじゃない? 要するに露骨な軍国主義の象徴が残っているのが問題なわけだから、それを取り除いて純粋な戦没者追悼の施設にすればいいとおもいまーす」(21歳・男)
 そういえば以前、国立追悼墓地を造るということが話題になったが、結局どうなってしまったのだろうか? 
  「『神社』っていうのは神様を祀るところだと思います。戦争でなくなった人たちを慰めるんなら、神社は違うと思うけどね。『戦犯』と呼ばれる人たちも神社ではない場所で供養したらいいと思います。神社に祀るから近隣諸国から反感を買うんでしょ」(24歳・女)
 たしかに国家神道と関係ない場所での供養なら、近隣諸国の反発も収まるかもしれない。
 ちなみに一般的に神社に祀られているのは、素戔嗚命(すさのおのみこと)、大己貴命(おおなむちのみこと)、大和武尊(やまとたける)、大国主大神(おおくにぬしのおおかみ)など、日本古来からの神とされている祭神である。
 その他に、A級戦犯についての意見もあった。
  「A級戦犯を祀ったとこ。普通の被害者も祀ってたよね?って祀ってるのは神様か。あとはおじいちゃんが喜んでいくところ。個人的には行った事もないし、場所も知らない」(24歳・女)
 「陸軍の過激派(東條・小磯)とかも祀られてるんだから、軍国主義の象徴って感じはするし、右翼が過激に運動して全般的に下品に見えるからさぁ。日本人の俺でもそう思うんだから、実際に虐げられた人たちからしたらもっと露骨でしょう」(21歳・男)。ちなみに、いわゆるA級戦犯(東条英機、板垣征四郎など)が祀られたのは、1978年の10月。そのことが判明したのが約半年後の4月だった。おいおい、なんで隠していたのだ!
 韓国の若者と日本の若者の考え方の相違についての意見もあった。
  「韓国人の若者は、慰安婦問題などについてもよく知っているし、戦争についても自分の意見を持っている人が多いと思う。韓国人の知り合いは、『戦争は嫌いだが、もし戦争が起きたら国のために闘う』と言っていた。韓国人全てがそんな考えを持ってるとは思わないが、『戦争は嫌だし、死ぬのはごめんだ。誰かが何とかしてくれる』というような日本人とは意識が違う。
 日本の首相が靖国を参拝すると、韓国では、日本の植民地支配の犠牲になって亡くなった人に対する謝罪要求デモが起こる。日本人はこのデモの意味を、どのくらいのレベルで考えているのだろうか? 日本人も戦争についてもっと深く考えるべきだ、と私は考える。韓国だけじゃなく、アメリカとイラクの問題も含めて」(29歳・女)
 戦後50年以上がたった。その間、憲法第九条は日本の平和を守ってきた。いつの間にか平和は守るものではなく、当たり前にあるものに変わり、戦争について切実に考える姿勢を失ったのかもしれない。自国の軍隊を持ち戦争に備えることが、戦争について考えることだとは思わない。ただ切実さのない戦争論議が、靖国の首相参拝への賛成者を増やしていることも事実だろう。
 最後にとても興味深かった意見をひとつ。
  「現代人に神は存在しなくて、信仰だけが静かに存在する。その形が京都とか他のお寺とは違い、政治と結びつき、夏ごとに喧噪を引き起こす。それが『靖国』らしさだと思う。
 その独特な空気が『野火』などの戦争小説のようなノスタルジックな物語をつくりだす。そして『ウザったい右翼少年』は、夏にしか出てこない蝉のように、うるさく鳴く。そんなイメージです」(22歳・♀)。
 調査を始める前は、「戦争で軍人が祀られてる場所ですよね。戦争責任者も祀られているんですよね」(28歳・男)という、靖国の初歩的な解説が寄せられるのでは危惧していたが、見事にその予想が裏切られ、正直ホッとしている私でした(-_-)。 (■つづく「)

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靖国を歩く/第19回 みたままつりと浴衣ギャル(奥津裕美)

■月刊「記録」03年9月号掲載記事

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 夏ですね。もう9月だが、梅雨明けが遅かった今年はまだまだ夏のはず。夏といえばビールと枝豆と花火大会だが、靖国で風物詩といえばみたままつりだろう! 
   7月13日から16日まで行われたみたままつりだが、恥ずかしながら、私はこの祭りを知らなかった。家庭教師をしている友人が、靖国神社への最寄り駅付近に住む生徒の話を伝えてくれたのだ。「みたままつりは、普通の祭りらしいよ。地域密着のね」と。 
   へ? 靖国で祭りがあって、そのうえ地元の盆踊りとかと一緒なの?? こりゃ、確かめなくてはいかん! 
   さっそく靖国神社ホームページをのぞくと、祭りの行事が書いてあった。奉納芸能の一貫として、御輿、相撲大会、マジック、詩吟、バレエ、琉球舞踊、日本舞踊など様々なイベントが行われていた。なかでも目玉は、14日に行われた「つのだ☆ひろの特別公演」だろう。靖国とつのだ☆ひろ、渋いな。当日は、境内でかの名曲『メリージェーン』を歌ったのだろうか。なんかミスマッチだ。 
   みたままつりで何を取材するのか、古参社員に相談したところ、「みたままつりに来ている浴衣ギャルがいい」とあっけなく決まってしまった。「おいおい、個人の趣味にはしるなよ」とも思ったが、祭りの熱気に巻き込まれ取材中にナンパされるかもーと、あらぬ期待をしてしまう、同じムジナの私であった……。 
   さて、みたままつり最終日の16日、いつものジーンズにTシャツという出勤着ではなく、セクシー(余計)なキャミソールなんぞを着込んでみた。一生懸命化粧をし、少しはましな顔に整え、気合いを入れ出発。 
   それにしても暑かった。 
   しかし靖国神社に近づくにつれ、心が冷え冷え。クリスマスイブの取材よりも寒くないし楽でしょ、と思うかもしれないが違う。なんでって、イブでは少なかったカップルが、数えるのがバカバカしくなるほどいるのだ。楽しそうに靖国に向かって歩いていく。 
   なんで楽しい夏祭りを1人で過ごさなければならないんだ! 因果な商売である。そんなことを考えても仕事は終わらんので、気分を入れ替え大鳥居をくぐった。

■ 天国にトンボをアピールしたら 

   午後5時、まだ明るい参道は、それほど混雑しているわけではない。 
   これはちょうどよいと思い、参道を歩く。露店は軽く30軒はあっただろうか。顔ぶれは正月のときとはあまり変わらなかったが、ラムネやかき氷などの夏限定の露店も軒を連ねていた。 
   参道の入口から出口まで一通り歩き、早速取材を開始。ところが、まったく取材できない。じつは私、人見知りが激しく人に声を掛ける事ができない「Too SHY 女(すごく恥ずかしがりや)」なのである。靖国に着いて30分。何とか勇気を出し、女の子2人組に声を掛けることに成功。 
   うちわとトンボ柄が描かれたピンクの浴衣の女の子と、白と黒のストライプ生地にトンボ柄の浴衣を着た女の子だった。ピンクの女の子は高校生。フリーターをしている白黒の女の子に誘われて来たとのこと。この白黒の女の子は毎年来ており、「祭りでは友達にも会えるの」と笑顔を弾ませる。 
   そのうえ戦没者が祭られている神社でもあることも知っていた! 「わかんなーい」なんて答えを期待していたのだが、意外である。耳は直径5ミリの穴ほどが耳を貫通。通称「ドカン」のピアスをしているのに。いやいや、見かけで判断していてはいけません。  
   せっかく靖国の浴衣である。おそらくは頭上で駆けめぐっているであろう何百万柱という英霊へのアピールポイントをたずねてみた。「やっぱトンボしかないよねー」と黒白の子。「うちわトンボかなー(笑)」とピンクの子が答えてくれた。 
   う~ん、天国にトンボをアピールしたら、「極楽とんぼ」になってしまう。怒らないか英霊? あっ、「極楽」は仏教だから関係ないですね。 
   続けざまに小学生3人組に声をかけてみたところ、みたままつりの情報は友達から入手したと答えてくれた。しかし、急いでいたらしくそそくさと立ち去られてしまった。一体なにに急いでるんですか? 夏祭りでしょ、小学生でしょ。社会人の私より忙しいなんて……。 
   ところが、それから浴衣ギャル達がとぎれてしまったのである。仕方ないので、大村益次郎像のふもとに腰掛け、待つこと30分。意気消沈した私の腰は、さらに重くなる。ところが隣に座ったサラリーマン(20代)がチラチラこちらを見てきているではないか。もしかして声かけてくるとかなどと期待したが、やはり仕事の最中なのが頭に引っかかり、誘い水をかけることなくそそくさと立ち去った。この手の話は、「徹底解説! 靖国ナンパのデートコース」という企画を社内で通してからのることにする。

■ おしゃれなローティーンも祭りに 

   さて、午後6時をすぎると人が増えてきた。そして、いきなり太鼓の音が! 盆踊りでも始まるのかと思いきや、太鼓ソロだった。太鼓の音を背にして、神社内へと歩いていく。 
   神門をくぐると、絵や文字の描かれた和紙が裏から白色灯で照らされている。みたまつり名物の「懸けぼんぼり」である。近づいて見てみると、私でも知っている各界の著名人の名前が。平成の名横綱貴乃花、一人で土俵を守り続けた武蔵丸、お騒がせ朝青龍、他にも奉納相撲に出場したであろう力士達のぼんぼりがズラリ。芸能・文化人では、小林よしのり氏、窪塚洋介氏、つのだ☆ひろ氏、藤岡弘氏などなどが目に留まった。 
   参拝も終え、また参道を歩く。一角に札屋の露店が出ていたので、そこで豆札ストラップ(1000円~)を作ってもらうことにした。木の板かプラスチックの板に文字を焼き入れるものだ。人気があるのか、客が並んでいた。店自体は浅草にあるとのこと。店長と思われる人物は下町の匂い漂うみこしの似合いそうな人だ。 
   みやげも買ったことだし、取材を再開しようかと思ったら、人が増えすぎて話が聞けない状態に! 浴衣ギャルも増えてきたのに、靖国ライター絶体絶命のピンチである。古参社員に電話してアドバイスを求めると、「適当に話しながら、参道の脇に連れて行けー」と絶叫している。浴衣と聞いて興奮したらしい。「いや、自分のペースで歩けないほど混んでいて、立ち止まって話なんかできない」との説明が終わる前に電話は切れた……。いつもながらアバウトなアドバイスである。 
   人混みが少なくなったところを狙い、小学生の女の子6人グループに声をかける。浴衣も数がそろうといいもんですね。全体的にピンクの浴衣が多かったのは、今年の流行なのだろうか。着こなし方も、個性が出ている。帯を少し折って裏地を見せたり、かんざしをつけたり。最近のローティーンはおしゃれなのだ。 
  「贅沢は敵だ」というスローガンが当たり前だった時代の英霊は、どう感じているのか知りたかったが、本日は霊媒師を連れてない。 
   さて、もちろん靖国神社の成り立ちについても質問してみたが、みな首をひねるばかり。小学生ならそうだろう。簡単に由来を説明し、「浴衣ギャルとして、頭上に飛んでいる英霊に送る言葉はない?」と質問すると、リーダー格と思われるショートカットの女の子が「世の中幸せになってます」と、真面目かつ少し笑いながら答えてくれた。1人寂しい夏祭り取材だが、戦争中よりは幸せなのは間違いない。改めて平和について思いを巡らした。 
   7時近くになってきたのであと一組くらい取材しようと思い、女子高生4人組に声をかけた。ここでもピンクの浴衣が多い。その中の1人は「浴衣手作りなんです」と話してくれた。ピアスと浴衣の色を合わせている子などもいて、女性の私からみてもカワイイ! さっそく靖国神社の由来について質問しようとしたら、皆の口には、ふかしジャガイモが! 食べるのに忙しく、取材断念とあいなった。 
   取材の最中、益次郎像をかこんで盆踊りが始まった。ところが盆踊りの輪と露店との差がほんの数メートルしかなく、人が増えると踊りの輪がとまってしまう。踊るのも大変そうだ。輪の中には飛び入り参加と思われる人がちらほらいた。 
   全く関係ないが、「なんでだろ~」というギャグで知られている、テツandトモというお笑い芸人が『なんでだろう音頭』を出したと宣伝していたので、靖国ではかかるのだろうかと少し期待してしまった。当たり前だが流れなかった。靖国のカラーには合わないのだろうか。私としては、靖国とお笑いの新たな融合(ミスマッチ?)を楽しみたかったのだが。来年に期待しよう。 
   何も食べずに2時間ウロウロしていたらおなかがすいてしまったので、行列をなしていた揚げ餅の屋台で揚げ餅を買う。屋台の中に、『靖国名物』と書かれた短冊が何枚も貼ってある。いつから揚げ餅が靖国名物になったのだろうか。私の愛読書『ようこそ靖國神社へ』(近代出版社)には載っていなかったので、もしかしたら知る人ぞ知る裏メニューなのかもしれない。 
   できたては、膨らんでいておいしそうだったのに、会社に帰ってふたを開けるとしぼんでただの餅に。はかない揚げ餅。まるで今回の企画のよう……。 
   浴衣ギャルにとっては、みたままつりも普通の夏祭りなのだ。事前情報通りであった。だからどうしたと言われると困る。「懸けぼんぼり」以外は同じ。浴衣ギャルはかわいい。以上である! (■つづく)

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靖国を歩く/第18回 靖国神社に参道にそびえ立つ大村益次郎像(奥津裕美)

■月刊「記録」03年8月号掲載記事

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   九段坂を上がっていくと「靖國神社」と書かれた大きな社標が見えてくる。その入口の先には大鳥居がある。そして、その鳥居を抜けると白い参道が広がり脇には桜の木が並んでいる。その中心に大きな銅像が立っている。大村益次郎の像である。 
   資料によると、台座5.4メートル、鉄の台4.2メートル、像3メートルの計12.7メートルという大きさ。やや離れたところからだとよく見えるが、近くから見ると大き過ぎて見えない。それにあまり長時間見上げていると首が疲れて痛くなってしまう。この銅像は日本で最初の洋式銅像だといわれているが、作るにあたって制作者である大熊氏広はイタリアやフランスに渡り制作技術を学んだそうである。 
   1882(明治15)年に銅像建設が発案され、1893(明治26)年2月に完成した。11年という長い歳月がかかったが、日本最初の石膏を原形にした洋式銅像の制作は日本の美術史の中でもかなり重要なポイントであるに違いない。 
   益次郎は西洋から学問を学んだにも関わらず、大の異人、異文化嫌いで、洋服も着たことがなかったという。『11月5日大村益次郎暗殺さる』(ビッグフォー出版)によると、「写真についても、あれはいいものだといいながら自分は1枚も撮らさなかった」とある。にもかかわらず、後に「西洋かぶれ」というレッテルを貼られ「国賊」だということで暗殺されてしまう。 
   西洋文化になじまなかったにも関わらず、西洋かぶれといわれ暗殺され、死後作られた銅像は西洋の文化を取り入れた造りで、さらに西洋式銅像の第一号となるのはなんとも皮肉なことである。
  「靖国神社の銅像の基になった肖像画は、生前の益次郎の顔を思い出したり益次郎の選者の顔を参考にしたりして書いたもの」とも書かれているが、さすがに自分の死後、銅像を造られるとは思ってもみなかっただろうが、坂本龍馬のように一枚くらいきちんとした写真を撮っておけば、関係者は困らなかっただろうに……と余計だが思ってしまった。ちなみに『ようこそ靖国神社へ』(近代出版社)によると、銅像の大村益次郎は袴を身につけ、左手に双眼鏡を持ち、「上野の彰義隊を攻める折に、江戸城富士見櫓から北東を凝視している姿をモデルにした」とある。1933(昭和18)年まで、弓矢をモチーフにした鉄柵と大砲八門が配置されていたそうだが、撤去され陸軍省に献納されたそうである。 
   靖国神社の前身の東京招魂社の建立を決定した大村益次郎とはどのような人物だったのだろうか。

■ 開業医としてはイマイチの評判
 
   1825(文政8)年、現在の山口県にあたる周防の鋳銭司に生まれた。父親は医師。幼名は宗太郎といった。その後、村田亮安と改名し、さらに村田蔵六となる。 
   蔵六は、1846(弘化3)年に適塾に入門する。ここで適塾を少し説明する。江戸末期に活躍した医学者でもあり蘭学者でもあった緒方洪庵が1838(天保9)年、大坂(現在の大阪)船場に「適々斎塾」をひらいた。適々とはどうのような意味が込められているのだろうか。快適・最適という事なのだろうかと考えてしまった。適塾にはたくさんの才能あふれる弟子達が入門した。蔵六のほかにも、福沢諭吉、橋本佐内、大島圭介、長与専斎などその後の日本に多大に貢献した人材ばかりである。洪庵は、江戸で蘭学を学び長崎でオランダ人の医者ニーマンに医学を学んでいる。1862(文久2)年に適塾は閉鎖されるが、塾生の顔ぶれを見る限り適塾の功績は大きい。 
   適塾出身で後に慶應義塾を創設し、『学問のススメ』を著した福沢諭吉は蔵六の後輩にあたる。彼の自伝『福翁自伝』(岩波文庫)に、蔵六と洪庵の葬儀で会った時の話が書かれているが、諭吉の話によると、蘭学を学んだ蔵六が攘夷論者になっていて驚いた。諭吉は最後まで、蔵六が攘夷論者になった理由がわからなかったそうである。 
   適塾で蘭学・医学を学んだ蔵六は、さらに長崎へ赴き蘭学を学んだ後、適塾に戻り塾長を務める。1850(嘉永3)年、故郷に戻り開業医となるが、評判はいまいちだったという。 
   1853(嘉永6)年に、宇和島藩主伊達宗城に招かれ宇和島藩士となる。3年後には藩主の参勤交代に帯同し江戸へ出てきている。そして江戸にて蘭学塾の鳩居堂を開く。その後さまざまな塾で学問を教えたのち、桂小五郎(木戸孝允)に推されて長州藩に入る。 
   桂は蔵六の才能を知っていて、さらに認めていたのか、仕官させるためにずいぶんと努力したそうである。その努力も政治力があったからこそなしえたのだろう。本来ならば彼がやるべき重要な任務を蔵六に任せ、ものすごい速度で出世させている。医師上がりの蔵六には当然、もともと武士階級の者たちの「医者上がりに何ができる」といったやっかみがついてまわったが、そうした彼らとの溝を埋めていったのも桂小五郎である。結果、蔵六に対する否定的な考えが少なくなり、逆に肯定する考えが広まっていった。私の身近にもそんな人物がいたら心強いだろう。 
   そのようにして地位を確立していった蔵六だが、ある時、桂小五郎から名前を変えないかと打診された。ちょうどそのころ、桂小五郎から木戸孝允と名前を改めており、蔵六が高杉晋作に頼まれて上海へ武器を調達しに行ったことが幕府に嗅ぎつけられていることも知った蔵六は名前を改めることにしたそうである。しかしその前にも、藩庁の役人からも打診があったそうだが、そのときは必要がないと一蹴したそうだ。
  『大村益次郎軍事の天才といわれた男』(PHP出版)によると、大村益次郎の「大村」は故郷の鋳銭司大村から取り、益次郎の「益」は父の孝益から取ったと書かれている。そして村田蔵六は大村益次郎になったのである。 
   それでは、軍略家としての益次郎はどうだったのだろうか。その手がかりとして、第二次長州征伐の石州口の戦いと、上野での彰義隊討伐の2つの戦いにスポットをあててみることにする。 
   石州口の戦いでは参謀として参加している。戦いとはいえ、ただ戦えばよいというわけではなく、頭の切れるブレーンが戦略を練り進めていくということが必要である。やみくもに敵をやっつけるわけにはいかないのだ。そんな事をしていたらかえって負け戦になってしまいかねない。この戦いでは、時に農民を金を使って信用させ利用し、また時には見方をも罠にはめ勝利を収めた。しかしこれは軍略家というより、策略家(いい意味でずる賢い)という感じである。戦いに関する知識があることもそうだが、やはりそれだけの知識を活かせるだけの頭脳があったからこそうまくことが進んだのではないだろうか。 
   次に彰義隊討伐である。彰義隊は、勝海舟の談判と英国公使パークスの示唆による「江戸城明け渡し」と前将軍徳川慶喜の恭順という非常に穏便な解決に反抗し、徹底抗戦(「戦うんじゃ-!」)を叫んだうちの一つである。 
   討幕軍の指導者であった西郷は、江戸城の受け取り任務を海江田信義に任せていた。海江田と大村は彰義隊討伐の際に対立してしまう。当時、海江田は江戸で軍事の実権を握っており、そこへ突然、朝廷から委任されやってきた益次郎のことが気に入らなかったのだろう。最後には論争がエスカレートしけんかになってしまったそうである(大人気ない)。その一件から、海江田は益次郎のことを憎みだしたそうである。後に起こる益次郎暗殺襲撃事件では、黒幕はこいつなのでは…という説も飛び交った。真相は藪の中である。 
   作戦会議では、薩摩と肥後の兵を黒門口に配置し、長州は団子坂に配置するといったが、長州は上野の地理がわからなかったり、鉄砲の使い方で手間取ったりと失敗したらしい。資料を見た限りでは、どうも大村益次郎はそんなにすごい人物だとは思えない。彰義隊を自らの案で1日で壊滅させたが、本当のヤリ手ではない気がする。 
   彰義隊討伐では実戦の指揮をしているが、戊辰戦争では後ろに下がり兵站指導者として活躍し勝利に導いたそうである。 
   明治に入り兵部大輔になった益次郎は近代兵制樹立を目指しフランス式の軍制を採用した。それ以前にも軍服に洋服を取り入れたり、天皇に対する立って挨拶をする案を発案したりと近代的なアイデアを出している。政府に参加するより、せっかくだからその知識を塾生に教えたりしたら、もっとたくさんの優秀な人材が生まれたかもしれない。時代がそうさせてはくれなかったのだろう。

■ 不潔な風呂水が命取り

   それと時を同じくして、益次郎の身に事件が起こる。休暇を取り京都へ来ていた益次郎は、友人と好物の豆腐を食べながら酒を飲んでいたところ、刺客に襲われたのである。その時は難を逃れ怪我をしただけですんだが、その時身を潜めていた風呂の湯が不潔だったのか、それが原因で足を切断する事になったが、すでに手遅れでその2日後に亡くなった。(享年45歳)
   『11月5日大村益次郎暗殺さる』(ビッグフォー出版)によると、死因は敗血症だったとかかれている。敗血症とは、細菌が体の中に入り増殖し、血液の中に入って身体全体に細菌がまわってしまう状態のことである。 
   医者でもあった益次郎が、自分の傷の状態を見極められなかったのは運が悪かったの一言に尽きる。もしかしたら、それも彼の運命だったのかもしれない。 
   それでは益次郎はなぜ襲われたのか。先ほどの資料によると、版籍奉還、廃刀令、旧武士階級(士族)が独占していた軍事を国民皆兵にしようという案を益次郎が出していたかららしい。士族にしてみれば、今までしてきた事が水の泡となり、さらに農民と同じに扱われる。プライドもあっただろう。それによって、一部にあった積年の恨みが爆発し、そのような事件が起こってしまったのかもしれない。政府高官の中にも国民皆兵を反対していた者もおり、益次郎が暗殺された事を喜んでいた人もいたそうである。江戸時代から昭和にかけて暗殺はたびたび起こったが、今の時代で起こったとしたら、誰が襲われてしまうのだろうか…想像するのが恐ろしい。 
   45歳で亡くなった益次郎だが、故郷の鋳銭司に大村神社というのがあるそうだ。そこには益次郎が祀られている。そうだとすると、ここのご利益は学業に関する事だろう。主に医学部あたりに効果を発揮すると思われる。湯島や北野天満宮もいいが、この大村神社も新しいご利益スポットとしていいかもしれない。 
   もし今の時代に大村益次郎が生きていたとしたら、彼は政治の世界にいるのだろうか。それとも学問の世界にいるのだろうか。  (■つづく)

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靖国を歩く/第17回 靖国と馬(奥津裕美)

■月刊「記録」03年7月号掲載記事

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 ウィンズ(場外馬券売場のこと)や東京競馬場は、小さな子供からご年配の方まで幅広い層で埋めつくされている。一応、未成年や学生が馬券を買うことは禁止されているが、親子3代、家族総出で競馬新聞を片手に持ち、熱心に勝ち馬を予想している姿を見ると、競馬浸透率というのはすごく高いのだと実感させられる。
 日本で初めて競馬が行われたのはいつなのだろうか。JRA(日本中央競馬会)の資料によると、文久2年(1862)、当時横浜に住んでいた外国人によって行われたのが最初だそうである。それが世代を越え人々を魅了し続ける競馬の礎となったのだ。
 そして明治になり、1906年に日本人による初めての馬券販売を用いた競馬が開催されたが、それは2年という短期間に終わった。しかしその翌年には、施設の維持管理や賞金等に対して政府から補助金が出され、馬券を用いない競馬として復活。どの馬が勝つかを当てることが醍醐味の競馬にもかかわらず、馬券を売らない競馬は14年も続いたそうである。
 靖国神社はこの競馬、正確には競馬も含めたスポーツ全般と縁の深い関係にあるのだ。1870年、前出の横浜で行われた競馬を真似した競技が日本人の手により行われたが、その場所が靖国神社だったのだ。例大祭で奉納を目的として行われたそうである。ギャンブルのイメージが色濃い競馬だが、大正天皇もしばしば観覧された由緒正しいスポーツのようである。
 ところで靖国神社には馬も祀られていることをご存知だろうか。第14回全国戦没馬慰霊祭実施報告書によると、名簿に書かれている馬の名前は3073頭と書かれている。実際は、靖国神社監修のオフィシャルガイドブック『ようこそ靖国神社へ』(近代出版社)によると、「大東亜戦争だけで20万頭が犠牲」になっており、こんなにもたくさんの馬が戦地に行き死んでいったのかと思うと、賭けの対象にはなってこそいるが、今生きている競走馬は幸せな馬人生を歩んでいるのかもしれない。きっと現代に産まれていれば、名馬と呼ばれる馬がたくさんいたはずだ。

■日本馬改良政策は異例のスピード

 明治以降、日本の軍隊も西洋化されたが、馬はまだ戦略的に重きを置かれていた。しかし、日清・日露戦争で日本馬が劣っていることが白日の下にさらされたのである。日清戦争(1904~05年)では、5万8千頭の馬が戦地に送り込まれたが、その6割の3万5千頭が無去勢だったそうである。去勢をすると性格などの荒々しさがとれておとなしく従順になるため、競走馬でも手なずけることが難しい荒い馬の場合は去勢されるのだが、それをしていなかったのだ。さらに牝馬も含まれていたというから、戦いが長引けば盛りの時期(発情期)と重なってしまうこともある。いずれにせよ戦闘に集中できる環境とはいいがたい。
 かくして北清事変(1900年)の際には、「日本軍馬は猛獣の如し」と列国から酷評されたそうである。それがよほど悔しかったのか、馬の飼育法の重要性を思い知らされたのかは定かではないが、1906年に馬政局が官制化され、30年計画で北海道を拠点として日本馬を改良するという大号令が発生された。北海道の牧場は本州とは違い、ミヤコザサが密生していた。ミヤコザサは冬でも枯れない強靱な植物で、雪の下に生えている笹を食べて生きることができるので冬季の放牧も可能だった。その後、優秀な軍馬がたくさん生産されたそうだが、クマが多く出没したため厳重に警戒されたそうである。大切な馬が襲われたり、食べられたりするわけにはいかないもんな。
 軍馬の供給、育成などを円滑に行うために、1908年に軍馬補充部令が定められたが、十勝に置かれた補充部には、1932年のロサンゼルス五輪大会の馬術で金メダルをとった「バロン西」こと西竹一が勤務したこともあったそうだ。
 戦地に供給するために幼駒の購買もしていたが、軍部は良馬の育成には良馬が必要ということで、当時世界的に名を馳せていた種牡馬を買い、内国産の牝馬と交配して良馬生産にいそしんでいたそうである。この政策は、明治後半から馬産振興に大きく貢献したそうである。この30年計画において、日本の馬に対する情熱は相当のものだっただろう。わずか30年で日本馬改良政策を発展させたのはすごい。日本人の勤勉さがプラスに動いたよい例ともいえるかもしれない。
 手塩にかけて育てた軍馬の仕事とはどのようなものだったのだろうか。戦地では、野砲を引いたり、装備一式をそろえた兵士や食糧、蹄鉄、武器などを乗せていた。重そうだ。そして食べ物がなくなったとき食糧として食べられたそうである。そんな馬も戦地では大切に扱われ、獣医も同行した。今でこそポピュラーな獣医だが、日本での獣医史は軍用馬とともに始まったという。私は、「獣医=ペットのお医者さん」という固定観念があったせいか、代表的なペットである犬あたりが獣医の始まりだと思っていたので、軍馬がきっかけだったということに驚いてしまった。
 1935年に30年計画は無事成功し、日本人による改良の速度はまれにみるスピードということでよい評価を与えられた。これによって俄然やる気になったのか、その翌年また新たな30年計画を掲げたのだ。第二段階ではさらにレベルアップし、生産方針の確立と種類の固定など現在の馬産の基礎となっている方針を打ち出している。
 この馬政局も終戦と共に終わりを告げることになったが、60年間でめざましい進歩を遂げた馬産業には脱帽だ。

■伝説の英雄「バロン西」

 靖国と馬でもう一つ忘れてならないのが、先述のバロン西こと西竹一の存在だろう。彼は私と同じ7月12日生まれである。さらに言うならば、私の母の旧姓は西である。なにかの運命をビビッと感じてしまったのは言うまでもないが、『オリンポスの使途』(文藝春秋)は、西の最期は本当に俗説の通りなのかということを、西の近くにいた仲間からの証言を用いて考察している。
 今では伝説として語られているが、硫黄島でアメリカ軍が「バロン西、オリンピックの英雄バロン西、出てきなさい」と呼び掛けられたが、それには応じず総攻撃の後に戦死したという説である。しかし著者は「仮に呼びかけがあったとしても『バロン西』という呼びかけ方は、いかにも不自然である。日本語で呼びかけるのだから、『西中佐』あるいは『西連隊長』と呼ぶのが普通だろう」と書いている。そういわれると確かにその通りである。敵を投降させるのに、わざわざ『バロン西』と気取って言うのも変だし。
 もう一つの説に、「宮城に頭を向けるように部下に命じてピストルで自決した」というものがある。これも私からすると不思議でしょうがない。もし、本当に宮城に頭を向ける行為をした部下がいれば、その部下は相当冷静だったはず。追いつめられた状況の中でそんな演出ができるのだろうか。少なくとも私にはとてもできない。読み進めていくと、この自決説は証言者の作り話だということが書かれていた。
 真実は一つだが、戦争中のごたごたした中で彼の最期はどのようなものだったのかということを掘り下げていくのは不可能なことである。混乱の中にあれば人の記憶というのはばらばらになってしまう。伝説は伝説として生き続けることがよかったりするのかもしれない。
 西竹一が硫黄島で亡くなってから、15年後の秋。靖国神社でサイ・バートレットというアメリカの映画プロデューサーが西竹一の慰霊祭が行い、永代祭祀料を奉納したそうである。彼は、西がロサンゼルス五輪の際に馬術練習をしていたクラブでかわいがられていたそうである。再会を心待ちにしていたであろう彼は、西のその後を知りさぞかし落胆したであろう。靖国では外国人が祭りを主催することが初めてのことだったらしく、ものすごく気合いが入っていたらしい。
 『ようこそ靖国神社へ』によると、「スポーツと縁の深い靖國神社」と称して2ページにわたり書かれている。それによると、オリンピック代表選手に選ばれた英霊が30余柱いるそうである。戦争とは残酷なものである。もし、彼らの血が脈々と受け継がれていたら日本のプロスポーツは今とは少し違っていただろう。
 馬の話に戻して、西竹一の愛馬ウラヌス号は彼の戦死後、獣医学校の厩舎で西のあとを追うようにして死んでいったそうだ。しかし、ウラヌスの遺体は獣医学校に埋められたが、空襲によってこっぱ微塵に吹き飛ばされてしまったそうである。
 あとを追うように…と出てきたが、私の祖父が亡くなった時、世話をしていた金魚が2、3日後に死んでしまったということがあった。ウラヌス号も金魚も主人が死んだことがわかったのだろうか。どちらも老衰で死んだのだが、よく聞く話でもあって単なる偶然にしは思えない。やはり動物でも「主人を一人にはしておけない」とか「そばにいたい」と考えるのだろうか、はたまた本当に偶然だったのか。
 最後に私の個人的な馬の思い出をひとつ。幼少の頃、熊本県にあるクマ牧場というクマがたくさんいる牧場にいった。そこの一角にある草原で食事をしていたら、お弁当目当てに馬が一頭近寄ってきた。あげたくないので放っておいたら、その馬に糞をされた。今は私も大人になり、競馬も少し嗜むようになって馬への愛着もわくようになったが、あの時ばかりは「この馬野郎!」と心で叫んだものだ。正しくは「馬鹿野郎」なのだが、鹿はいなかったので「馬野郎!」。きっと馬や鹿は「バカ」に似た気持ちを人に一度は感じさせる動物だから、「馬鹿」という言葉ができたのだ(編集長訂正:ただの当て字です)。
 いずれにせよ、競争馬も軍馬も人を泣かせたり喜ばせたりする存在で、靖国には英霊とともに彼らの歴史と霊が眠っているのだ。 (■つづく)

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靖国を歩く/第16回 ゴールデンウィークの靖国は人気があるのか(奥津裕美)

■月刊「記録」03年6月号掲載記事

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 今年のゴールデンウィークは最大10日間。10日あれば、海外でリフレッシュ! 思いっきり羽をのばすことができる。しかし、新型肺炎(SARS)の影響で海外旅行者が約14万人と激減。SARSが猛威をふるっている中国は米国同時多発テロ後も観光は好調だったが、今では海外安全ホームページで「渡航の是非を検討してください」と呼びかけられている。それでも行きたいのが人の心だが、「自分だけは大丈夫」ということは決してないので、不要不急以外で行かれる方は十分に気を付けてください。 
   反対に、国内行楽地の人出は警察庁の調べによると約6600万人と、前年度より429万人増えている。特に人出が多かった行楽地は、長野県の善光寺で、7年に一度のご開帳の真っ最中で211万人と堂々のトップワン。すごく混んでいたんだろうな。で、同じ宗教施設の靖国も盛り上がるのではないかとと考えたわけだ。 
   ゴールデンウィーク最終日の5月5日のこどもの日に靖国神社へ行ってきた。こいのぼりはそよそよ泳いでなかったが、その雄姿がさらに際だちそうな晴天で、SARSはともかく紫外線が肌に大敵だ。Tシャツを着込み、帽子をかぶり、さらにUVケアもして九段下へと向かった。暑さが和らぐ午後2時に靖国に着く。ふだんの取材は平日が多く、午後2時を過ぎると参拝者はまばらで、帰宅途中の学生やサラリーマン、OLの人とすれ違うことが多いのだが、いつものように九段坂をあがり、大鳥居をくぐるといつもより人が多い。 
   休日の正月ほどではないが、クリスマスイブよりははるかに多い。昨年のイブの取材は平日で寒く、しかも曇りだった。それに比べ、こどもの日は休日に加え、天気にも恵まれていた。 
   いつものようにアホみたいな顔をしながら大村益次郎像を見上げつつ、直進せずに左へ曲がり、駐車場から拝殿へ向かうことにした。当たり前のことだが、駐車場には車が多数あった。像に近い入り口から入っていくと、乗用車が並んでいる。それから奥へ進んでいくと観光バスが4台。群馬バス、新潟国土観光バス、日東交通が並んでいる。どのようなツアーなのかを見てみると、新潟国土観光バスには「白根市柔道連盟」の貼り紙、群馬バスには、「東京ドームツアー」の貼り紙があるではないか。 
   東京ドームツアーと靖国?確かにその日はプロ野球巨人対広島戦がドームで行われていたが、試合開始前に英霊に祈りを捧げるためだろうか。「10対2で巨人が勝ちますように」や、「今年は虎が優勝だ」などと願いを込めるためなのだろうか。もっとも靖国はスポーツとの縁も深く、プロスポーツ選手の英霊も祀られているそうなので妥当ではある。 
   気になった私はさっそく群馬バスに話を聞く事にした。電話に出た男性はさわやかな声で、「連休中の東京ドームツアーは昨年よりも20~30%増えましたね。このツアーに限らず、連休中は増えますね」と教えてくれた。東京ドームツアーで靖国神社を参拝するのはまれにあるそうだが、ツアーではなく一般の団体客の参拝のほうが多いらしい。遊就館を知らない方も多いそうで、遊就館見物は目玉だそうだ。しかし、ちょっと高いですよね(入場料800円)…と漏らしていた。 
   そして「たまにですが、靖国神社さんの駐車場をお借りすることもあります」とも教えてくれた。東京ドームの駐車場は、東京ドームホテルができてから駐車場が減ってしまい、予約制ではなく早い者勝ちなのだそうだ。群馬バスでは、2時から3時までに東京ドームへ向かうそうだが、なかには、「12時頃に、駐車場に入っているところもありますよ」という。東京ドームの駐車場をめぐる争いはし烈である。 
   そんな群馬バスを横目に駐車場奥にある売店へ入る。入り口の右手には春季限定のお菓子が並ぶ。まんじゅうやゴーフレット(洋菓子の一種)など、靖国の桜にちなんだお菓子である。それから中へ入っていくと、店内はいたって普通の土産屋だ。しかし、浅草や京都などとは違いゴチャゴチャと物であふれかえっておらず、非常にすっきりとしている。 
   何も買わずに店を出るのも何なので、観光者気分を味わうためにも何か買おう!と決意した私は、店内を物色することにした。パーキングエリアなどで見かけるクッキーやまんじゅうなどを見ては、「これはさすがになぁ……」などとつぶやき、漬け物を見ては、「これはいい! でもスーパーで買えるし…」とつぶやく。修学旅行生のように店内を物色すること約2周。このままだと日が暮れて店じまいしてしまうので「これだーっ!」と購入するものを決める。「桜うらら 銘菓――花ゴーフレット(春季限定)10枚入り」と「靖國銘茶 静岡産やぶきた品種200グラム入り」を購入。計1430円。なかなかのお値段である。 
   会計のついでに店のオジサンに、ゴールデンウィーク中の靖国の状況を聞く。
  「今日はもう参拝者はまばらだけど、1日、2日から増えてきて、昨日ぐらいが一番多かったよ」 
   昨年より多いかの問いには、「そうですね。今年は、外国へ行く人が少なかったからね」と答えてくれた。 
   後日お菓子を食べた。よく口にするゴーフレットというと、もっと表面がざらついているが、靖国のものは表面がつるつるで、しかも桜の絵や「さいた さいた さくらが さいた」とい字が印刷されていて粋である。味の方はというと、においも味も普通だった。軽い触感で、パリッとしていて甘さも控えめなので贈答用にピッタリだ! パッケージの裏を見ると、遺伝子組み換えではないコーンスターチが使われていることがわかった。一部、原材料に大豆が使われているそうだが、これは遺伝子組み換えの大豆ではないのかな……。その他に、なんと桜の葉の粉末まで入っているではないか! これはすごい! 
   参拝前に土産を買ってしまうのは英霊に対して失礼だが、買ってしまったので仕方ない。許してください。いつものように賽銭を投げ参拝をする。その後、休憩所へ行ったら、外にあるベンチにはたくさんの人が座っていた。それにしても暑い。靖国の参道はコンクリートで、さらに白いので照り返しがすごい。いつも思うのだが、靖国神社の参道は白い。神社というと、鎮守の杜があるところが多く、独特な空気が漂うイメージが強いが、靖国はそのようなイメージがわかない。初めて訪れたときも、桜を見に行ったときも私の中でのイメージが崩れることはなかった。鎮守の杜にある独特な雰囲気とはまた違う雰囲気が私の体を包むのだ。 
   靖国を出て会社に戻ろうかと思ったが、今日は休みだし、せっかく来たので武道館の方へ足をのばしてみようと思い向かうことにした。北の丸公園へ向かう坂道を上ると立派な門が見えた。その門にたどり着くまで何組のカップルとすれ違っただろうか。なぜ私は一人で散策しているのだ。それも、片手に土産の入った袋を持って。たまにカップルの女性が一人なの?とでも言いたそうな目で私のことを見るのですが、寂しくなんかありませんよーだ。 
   京都の二条城のような入り口を入り、歩いていくと憧れの武道館が現れた。その日は空手選手権が行われていたらしく、制服を着た学生が入り口から出てきていた。周辺では、ジャージや空手着を着た選手がランニングやストレッチをしていて、陸上競技の大会で訪れた三ツ沢グラウンドを思い出してしまった。 
   とにかく暑くてバテてしまいそうだったので売店に入る。ソフトクリームの貼り紙に惹かれて、早速バニラと抹茶のミックスソフトクリーム(200円)を購入。さすがに、一人で食べるのは恥ずかしい…なーんてことは言ってられないので食べました。おいしかったです。やはりソフトクリーム購買率が高く、食べている人が多かった。暑い日はソフトクリームに限る。 
   食べ終わり少し休憩をして売店を出る。そしてさらに奥へ進むと、子供と遊んでいる父親の姿や談笑するカップルの姿がたくさんあった。平和だな。 
   九段坂を下り、いつも気になっていた昭和館に行ってみる。ひときわ異彩を放つこのビルには窓が見あたらない。このビルは昭和館のマークにもなっている、ひし形というか、アニメ『アンパンマン』に出てくるカレーパンマンのような形をしているのである。意を決して中へはいると、一階の受付横にチケット販売機がある。値段は大人300円。遊就館より500円安い。チケットを買い、どこが展示室の入り口なのかと探していると、受付のお姉さんがやってきて、「展示室の受付は7階ですので、そちらにあるエレベーターで7階まで上がってください」と教えてくれた。7階?遠い…。と思いつつエレベーターで7階へ行くと受付があった。チケットを握りしめ入り口へ向かうと、なんと受付のお姉さんが立っている横にチケット販売機があるではないか!なんてこった。それなら、『チケット売り場は7階です』というようにしてほしい。 
   気を取り直して展示室へ入っていく。思ったよりこざっぱりとしていて博物館にしては寂しい感じがした。遊就館を見てしまっているだけに、展示数が少ないように思えた。展示室は7階、6階になっており、7階は戦中、6階は戦後の暮らしを数々の実物資料で伝えている。見物者が少なかったので、ゆっくりじっくり見ることができてよかったといえばよかったが、実物資料を募集している背景もあり物足りなさは否めなかった。これから実物資料が充実していく事を期待しよう。 
   昭和館のパンフレットによると、映像資料は、静止画約17,000枚、動画約2,000タイトル、音響資料が約35,000枚収蔵されているそうだ。そのような資料が充実しているので、遊就館で幕末から太平洋戦争までの歴史を学び、昭和館で戦中・戦後の庶民の暮らしを学べば、これであなたも近現代日本の歴史マスターに!…オイオイ、なれるのか? 
   海外旅行へ行かなかったというより、そもそも行く予定はなかった私の今年のゴールデンウィークの思い出は、靖国のほかにはリニューアルした東京競馬場で春の天皇賞を見たことか。しかし、天皇賞は京都競馬場の第9レースだったことを忘れて、東京の第9レースを買ってしまいトホホ…な一日を送ったのだった。  (■つづく)

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靖国を歩く/第15回 靖国の桜と気象庁(2)(奥津裕美)

■月刊『記録』03年5月号掲載記事
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■ トンボやセミまで気象庁で観測

   東京では4月1日に桜の満開宣言が出された。毎年、お弁当を持って新宿御苑へ桜を見に行っていたが、今年は結局行かなかった。通称裏原と呼ばれている裏原宿へ買い物に行ったときに道に咲いていた桜を見ていただけだ。 
   春になると花粉症に悩まされるが、桜を見ると日本人でよかったといつも思う。風が吹いて桜が散る風景なんて見てしまうと、青春だぁ!と感じてしまう。まさに桜吹雪。この言葉を作った人は素晴らしい。ただ綺麗な花びらと共に、スギ花粉を持ってきてくれるのはちょっと厄介ではある。 
   しかし、今回は桜の情緒や美しさを伝えることが真の目的ではない。毎年、寒が和らぎ春が訪れる頃になると必ず流れるのが桜の開花予想。東京で予想のために使われている木(標準木)は、靖国神社にある桜である。観測は、気象庁の東京管区気象台が行っている。 
   気象庁といえば、天気を教えてくれる。電話で天気予報が聞けたり、テレビを付けるとニュースの締めに天気情報が流れる。流される情報に変わりはないが、どこのテレビ局も趣向をこらしている。……ように見えるが、実はやってることに大して変わりはなかったりする。 
   気象庁では生物の観測もしている。植物では、梅、椿、タンポポ、桜、ヤマツツジ、ノダフジ、ヤマハギ、アジサイ、サルスベリ、ススキ、イチョウ、カエデ。動物は、ヒバリ、ウグイス、ツバメ、モンシロチョウ、キアゲハ、トノサマガエル、シオカラトンボ、アブラゼミ、ヒグラシ、モズ。すごいなぁ。昨年5月号にも桜を特集したが、そこには、「ウグイスの初鳴きやシオカラトンボを初めて見つけた日なども記録に付けているといる」と紹介した。誰が聞いたり見たものを記録に付けるのだろう。謎だ。 
   さて、桜の開花は南から順に北上していくのだが、開花予想に使われる桜は2種類。ソメイヨシノ(染井吉野)とヒカンザクラ(緋寒桜)だ。ソメイヨシノは各地に広く分布し、とても有名な桜。「花は葉の出ぬ先に開き、つぼみは初め淡紅色で、次第に白色に変る。成長は早いが木の寿命は短い」(広辞苑)らしい。淡いピンクのつぼみから白い花に変わってゆくのは非常にかわいらしい。ただ短命なのがちょっと淋しい。人も桜も美しいものは短命なのだ。私もソメイヨシノのように儚くも美しくありたいものだ…。ソメイヨシノという名の由来は、「東京染井の植木屋から売り出されたという」(広辞苑)ことらしい。 
   ヒカンザクラは、沖縄など南部に分布。「2月頃、葉に先立って濃紅色鐘形の花を下垂する」(広辞苑)。東京に桜が咲き始めるのは3月下旬から4月初めなので、咲き始めるのが早い。標準木としてヒカンザクラを使用しているところは、名瀬、与那国島、石垣島、宮古島、久米島、那覇、南大東島の7ヵ所。それ以外の場所では、ソメイヨシノが使われている。

■ 若い木もダメ、土が踏み固められてもダメ
 
   桜はどこでも咲いていたりする。それにも関わらず、なぜ靖国の桜を標準木にしたのかを気象庁へ尋ねた。
  「桜があっても毎日入れるところや観測しやすい場所などを考えて靖国神社の桜が標準木としてふさわしいと判断したからです」 
   他の桜では駄目なのだろうか。
  「例えば、上野の桜とかですと、人がたくさんいて土が踏み固められてしまい、きちんと観測できなくなってしまうんですよ」。そうなんだー。しかし、まだ納得できない(実際は、担当の人が早口で書き取れなかった)私は後日改めて電話取材を敢行した。
  「標本木として靖国神社の桜がふさわしいと判断したからです」と同じ担当者から聞く。いつから標準木にしているのかという質問は、どうやら東京管区気象台の管轄のようで、そちらに回してもらった。
   「観測の記録は1927年からあって、当時の気象庁の構内で観測していたのですが、昭和39年(1964)に現在の場所に移転した時くらいから、靖国神社さんにお願いして観測しています」と答えた。やはり、具体的な資料は66年からしかないらしい。資料がないというのは、どういうことなのか? 
   気象庁が移転する前までは、構内の桜を使って予想をしていたのだが、現在の気象庁に桜はないのだろうか。
  「一応、神田川沿いに参考程度に見ている木があるんですが。しかしまだ若い木で、まわりより早く咲いたり、遅く咲いたりすることがあるようです」 
   とりあえず見ているものはあるらしい。若い木ならばそのような気まぐれが起こるかもしれない。ある程度年数がたった木を使うそうだ。 
   標準木はどのようにして選ばれたのだろうか。数ある桜から選ばれた、いわばエリートである。
  「数ある木の中でこの木とこの木を一応標準木として、気象台のほうで勝手に決めさせていただいて、靖国神社に協力を頂いてやっています」 
   担当者はそう答えた。指定されてきめるのではなく、気象台で決めているのか! 気象庁では特に公表していないらしいが、靖国神社の観光案内で標準木だということを公表しているようだ。木に白い紐が巻かれているものがそうだということを写真で見た。 
   最初の電話取材では、以前、公表したところいたずらされた、ということを言っていた。心ない人がいるものだ。

■ ソメイヨシノのようには……
 
   満開になるとサラリーマンや学生が花見をするのは今や当たり前の光景になっているが、靖国の桜というと、『同期の桜』の「死んでも靖国の桜となって会おう」や、『東京だヨおっ母さん』の「桜の下でさぞかし待つだろ」(この曲には直接、靖国という名称は出てこないが、神社のある「九段坂」と出ている)と、靖国の桜=戦争というイメージがついてまわることがしばしばある。しかし、不思議なもので、そのようなイメージがあったとしてもても満開の桜を見てしまうと、そのイメージが払拭されてしまう。普段は裸の木で淋しい参道も、桜が満開の参道をみるとパッと華やかになるのだ。 
   先日、靖国神社へ様子を見に行った。雨がやんだばかりだったので、桜の花は少し散っていて淋しい風情となっていたが、満開だと綺麗なのだろうなと改めて想像した。近くにある武道館の桜はそれほど散ってなく、入学式でやってきた新入生たちをお祝いしているみたい!なんて感じながら坂を下っていたら、濡れたマンホールで滑って転んでしまった。トホホ……。これでは、ソメイヨシノのような美しく、凛とした女性にはなれないわ…。  (■つづく)

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靖国を歩く/第14回 全世界平和を祈れる社が靖国に(奥津裕美)

■月刊『記録』03年4月号掲載記事
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 巷では、新幹線や韓国での電車の事件、北朝鮮問題、株価の下落など、暗いニュースが多い。最近では、帷子川在住で、私と同じ浜っこのタマちゃん捕獲作戦(タマちゃんがいたいところにいさせればいいのにね)などもあった。 
   しかし、なんといっても忘れてならないニュースといえば、アメリカによるイラク攻撃だろう! 私が生まれてからまだ、20年余だが、その間に戦争や紛争などたくさんあった。しかし、これまでそれほど戦争というものを身近に感じることはなかった。 
   今はまだ空爆への秒読み段階だが、この号がでる時点では、空爆が始まっていることだろう。そんなわけで食事をしているとき、化粧をしているとき、挙げ句の果てはテレビでドラゴンボールZの再放送を見ているときでさえも、平和とはなんぞや? と考えてしまう今日この頃。平和ボケだからとか、遠い国のことだから関係ないよ、なんて言っている場合ではないのだ。士気を煽りたいわけではなく、きちんといろいろなことを考える時期がきているのではないかと思う。 
   話が堅くなってしまったが、さて皆さんは、靖国神社の本殿に祀られていない方々や、世界中のあらゆる戦死者が祀られている神社が靖国内にあるのを、ご存じだろうか。 
   名前は、鎮霊社。 
   初めて聞いたときビックリした。靖国神社の中に、そのような施設があることにビックリしたという以前に、原則として日本兵として亡くなった方を祀っている神社に、外国籍の人々を祀っているという事実に驚いた。靖国神社は神道だ。死んだら祭神として祀られる。祭神とは、その神社に祀られている神。その理論でいくと、たとえ日本人ではなくても神道で祀れば神。しかし、いうまでもなく外国人の大半(たぶん全員)は神道を信仰していない。別に信じる宗教があったり、無宗教だったりするだろうから、それに従って祀られているはずだ。何の許可も取らずにキリストやブッダを信仰している人を神道の神として祀るとは豪快というか、適当というか。いや、そもそも不特定多数を神として祭るなんてことは、神道ですら異例らしいが……。 
   靖国神社には神道を信仰していない戦死者がたくさん祀られており、それでさえ物議がかもされているのに、いくらなんでもことによっては日本という国さえ知らない外国人をワールドワイドに祀っている。調べねばなるまい。
■ A級戦犯のいない社
   『やすくにの祈り』(靖国神社編・産経新聞ニュースサービス刊)には、鎮霊社は軍のために亡くなった人以外の(合祀の基準に当てはまらない)人を祀っていると書いてはいるものの、何で創ったのかはよくわからない。 
   靖国神社に電話して何で作ったのかを聞いてみると、「いろいろな説があるんですが、(戦争中には)いろいろな思いを持って亡くなった方がおり、日本国籍以外の方もいらっしゃいます。そういう方をお祀りするためにつくりました」とのこと。 
   ちなみに歴史学者の秦郁彦氏は、『文藝春秋』(2001年11月号)で「A級戦犯の『怨霊』の落ち着き先として作ったのではないか」と推測している。つまり靖国神社の見解とは違うわけだ。もっとも秦氏の質問を靖国神社側は否定しているので、真相は藪の中ということだろう。 
   ただし秦氏の論文は、重要なことを教えてくれた。
   「結果的に彼ら(宮司)が昭和40年から53年10月の靖国神社合祀までここに祀られていたことは認めた」というのである。つまり13年余にわたって鎮霊社に祀られていたA級戦犯は、昭和53年からは、鎮霊社から本殿へと移ったという解釈もできるということだ。
   『やすくにの祈り』によると鎮霊社は「1853年以降、戦争・事変に関係した世界各国のすべての戦没者」が祀られているうえ、A級戦犯は抜きと解釈できる。 
   だとしたら平和のために祈る場所として、理想的な環境ではないか! 宗教に関係なくすべての御霊を祀っているのだから、大々的に宣伝すればいいのである。それで靖国参拝の問題を解決できるかもしれない。 
   例えば小泉首相が、首相就任以来3度目の参拝を今年1月4日に行い、中国や韓国の猛抗議を受けたが、A級戦犯も祀る本殿の参拝がダメだというのならば、いっそ鎮霊社に参拝し、その後の会見で「私は鎮霊社に参りにきました。ここは、宗教や歴史云々に関わらず、たくさんの神が祀られているところです」といえばいいのだ。だって、韓国や中国の英雄だって(勝手にではあるが)祀られているのだから。しかも本殿の回廊と鎮魂社の距離はたったの10メートルもない。小泉首相は靖国に断固として行くという公約なので、物議をかもさず、靖国にも参拝できる絶好の方法である。在任中に是非、実行してもらいたい。官邸よ、聞いているか。 
   その存在自体が神道の心の広さ(神は平等ということ)を十分に伝えることだって可能だ。 
   ところが、こんなにすごい施設が、様々な文献で語られる事が少なく、知名度も低い。それどころか本殿の横にありながら、一般の人は参拝できない。どういうことだ。鎮霊社が脚光を浴びると、靖国神社本体の威厳を保つ上で、かえってマイナスになりかねないからだろうか。
■ 靖国・千鳥ヶ淵問題の解決も
   鎮霊社のことを散々書いてきたが、忘れてならないのが千鳥ヶ淵墓苑。ここは、無名戦士が眠るお墓である。なぜここが出てきたかというと、『検証・靖国問題』(PHP研究所・編)という書籍の中に、とても興味深い文が出てきたからだ。この連載を始めるまで、靖国神社自体に関心がなかったというか、時事問題にはさほど興味・関心がなかったので国立慰霊施設をつくる案があったことを知らなかった。聞いていたかもしれないが、すーっと耳を通り抜けて忘れ去っていたと思う。今回この本を読んで、考え方は人それぞれだということを改めて感じた。 
   この中に「国立墓地構想」という章がある。その章には、アーリントン墓地と、靖国神社について書かれている。同じ追悼施設だが、アーリントンは墓地で、靖国は神社である。さすがに、比較するのはおかしい。しかし、戦争に関連する施設という点では同じなのであえて触れることにする。 
   アーリントンで眠る人は「国家の英雄」と呼ばれているらしい。たしかに国のために戦い、犠牲になった人は英雄である。しかし、それは戦勝国アメリカだからそのようにポジティブにとらえられるのであって、日本は敗戦国である。文中には、「苦い過去のシンボルになってしまっている」と書かれているが、仕方のないことなのではないか。そもそも靖国は、坪内祐三氏が『靖国』(新潮社)で昔は娯楽施設の面も持っていたと書いていたように、もともと楽しい娯楽スポットだったのだ。それを国家神道という精神を植え付けさせるために神社を使い、戦争に走り、死ななくてもよい人までが犠牲になってしまった。 
   戦死者を祀るという行為を神社として行うことに異議はないが、後に戦犯と呼ばれる戦争遂行者が祀られ、それを隠していたことが、靖国神社にさらなる負のイメージがついてしまった原因なのではないだろうか。アーリントンのように未来志向型に取れるようになれば、そこでようやく日本が過去の歴史の呪縛から解かれ、靖国が神社として新しい一歩を踏み出せる日がやってくるだろう。 
   さらに読み進めていくと、「国立施設における慰霊の対象として、日本が起因となった戦争により命を失った、海外国籍の方々も併せて慰霊する」案が出ていると書かれている。それは結構なことだ。それで許されるとか、文句は言われないだろうと思うことはナンセンスだが、本気で日本のせいで犠牲にしてしまったことを悔やみ、申し訳ないと思うことを形にする意味で作るのであれば、賛成しよう。 
   とはいえ、それができるとなると国立の慰霊施設である千鳥ヶ淵はどうなるのか? 二つも国立の追悼施設は必要なのだろうか。そこと合併させるというのはだめなのか。そもそも靖国神社の立場はどうなる。今まで散々いいように使ってきたにもかかわらず、靖国に参拝することは国際社会の摩擦の原因になるからイカン!ということで他の施設に乗り換えるのに抵抗のある人が多いことは広く知られているとおりだ。 
   そこで鎮霊社である。本殿に祀られていない人おろか、世界各国の戦争殉難者が祀られている場所が靖国に存在しているのだ。もともと作られた意味は国立追悼施設を作る案の目論見とは違うと思うが、一般に公開されていないという点を除けば、「色づけ」もされておらず、社の目的は合致する。少なくとも靖国神社のなかでは、限りなく透明に近い。もちろんA級戦犯を祀るためにつくったかもしれないという歴史は、プラスには働くまい。しかし、前述の経緯から今はA級戦犯を祀っていないともいえる。 
   驚いたことに『やすくにの祈り』には、コソボの紛争や湾岸戦争で犠牲になった方も祀ったと書いてある。当たり前だが、アップトゥーデートである。ちなみに当初は賊軍とみなされた西郷隆盛や白虎隊も、この鎮霊社には祀られている。世界中の戦死者を集めるのだから、敵も味方もごちゃ混ぜである。ここまで範囲を広げれば、アーリントン墓地の上をいくといえなくもない。 
   あまり知られていないが、毎年7月13日には鎮霊社祭が行われている。せっかくグローバルな神社の祭りなのだから、もっと大々的に宣伝すべきだろう。 
   一般の参拝者も訪れることができず、お祭りを宣伝しないとなれば、A級戦犯とからんだ、うがった見方も出てこよう。本気で世界中の戦没者を慰める気なら、御霊祭り以上の祭りを催すべきである。となれば毎年「鹿嶋砂利」を鎮霊社に奉納している鹿嶋市遺族会も、大いに喜んでくれるに違いない。 
   それでどうする? という向きもあるのだが……。  (■つづく)

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靖国を歩く/第13回 一年に一回、本当の運だめし-福引き in 靖国(奥津裕美)

■月刊『記録』03年3月号掲載記事

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 神社での運だめしというとおみくじだけだと思っていたが、実は違ったみたいだ。さらにスッゴイものがあったのだ。 
   12月某日、企画を考えながら靖国神社のホームページを見ていたら、なんと! 福引きをやると書いてあるではないか。しかも福引き券のページをプリントアウトすれば一回引けるという。なんだこりゃー。これは早速、行かなければ。 
   1月3日。雪の降るものすごく寒い日にもかかわらず、やって来ました靖国神社。やはり「初詣は靖国へ」と、テレビCMを流していただけはあった。第一鳥居を入り坂をあがった途端、目の前には出店・出店・出店。まさに出店ランドなのだ。クリスマスの頃とは大違い!
   先月号を読んだ方ならおわかりかと思うが、イブはBSE(狂牛病)騒動の頃の焼き肉店のような寂しさだったのに、一週間後には、リニューアルオープン時の丸ビルのような盛況さになっていた。 
   初詣には毎年行っているが、祭りのような盛り上がりをみせる神社には行ったことがなかったので、正直おどろいた。私のこれまでの経験では、あるといったら甘酒を配っているテントぐらい。ところが靖国神社は、軽く20~30は店を出している。 
   焼きそば、お好み焼き、たこ焼き、綿菓子、くじ引きなどオーソドックスな出店はもちろんのこと、最近は串に刺した肉やクレープなどが参入。それどころか松阪牛まである。原価はいくらなのかわからないが、フランクフルトよりはお得感がありそうだ。テキ屋もなかなかのものである。食べ物屋の中には、奥に食べるスペースがあるところもあった。なんて親切な。 
   そんななかでも、ひときわ目を引く出店があった。コンピュータを使った占いだ。参道で占い。「占い」なのに「売らない」。この取り合わせが意外とおかしい。現代の技術を駆使した占いか! それとも本殿まで行っておみくじか! どちらが当たるのか……新年占い対決の結末はいかに! などと考えながら通り過ぎたが、寒さのためか、それともおみくじで満足している人が多いためか、お客さんはいなかった。大雪が降る中の営業はさぞかし大変だろうなとか思いつつ、先へ進んでいった。 
   まだ数分しか外を歩いていない私でさえ寒い。ブーツの中の足が冷え切って感覚が失われてきている。早く福引きを引かないと。 
   凍りそうだったので手水は割愛。手水舎で清める以外にも、葉で雪をこするというやり方もあるのだが、あいにく雪が積もっていなかったのでそれも割愛。まず、賽銭箱にお賽銭を投げる。「今年こそミリオンセラーがでますように」と、まだ本すら書いてなのにお願いし、二礼二拍手一礼で参る。チラッと横を見ると、その方法で参ってる方がいるではありませんか。ただ手を合わせている人が多いなか、公式の参拝方式は目立っていた。年に一回は正式な方法で参るのもよいのではないでしょうか。

■よりどりみどりの豪華賞品

   案内図をみて、福引き会場へと足を運ぶ。力の入った会場設営なのかと思っていたら、普通のテントでハッピを着た若者がやっていた。福引きというと、ガラガラと回すものを思い浮かべる方も多いかと思うが、靖国の福引きは三角くじだった。くじ引きじゃん! と思わず突っ込みをいれてしまいそうになったが、商品がもらえるおみくじだと思う事にした。盛況かと思いきや、昇殿参拝をしないと福引き券をもらえないシステムだったので、ホームページを見たであろう人など見あたらない境内では、福引きを引いている人はそれほど多くはない。 
   しかし驚くなかれ、商品はものすごく豪華なのである! 
   1等・14型カラーテレビ、おとそセット、FMVノート型パソコン。2等・DVDプレイヤー、デジタルカメラ、ハローキティぬいぐるみ(大)、にゃんまげぬいぐるみ(大)、焼き肉プレート、ハウスクリーニングサービス券、食事券、図書券。3等・鉢植え。4等・靴下。5等・カード入れ、チャルメラ、メモ帳、ボールペン、マスク。6等・消しゴム。 
   私は、5等のメモ帳をもらったが、ピンクのグラデーションが可愛い・ もったいないので、約2ヶ月たった今でも未開封で保存している。一緒に行った友人は、消しゴムをもらっていた。見てみると、野菜の形をしていて、パッケージには、『帰ってきたウルトラ米ャンペーン』と書かれており、裏側には、「食べ物ではありません。『消しゴム』です。小さなお子様にご注意ください」と書かれている。とはいえ、キャベツの消しゴムなどは、どう見ても緑の塊にしか見えないのだが……。 
   一般的に福引きといえば、スーパーやデパート、駅ビルなどでやっている。賞品は、特賞が海外旅行、一等は商品券か温泉旅行、5等はお菓子、ハズレがティッシュ。そんなところだろう。 
   それに比べてさすがは靖国。1~6等まで気を緩めていない。靖国神社でパソコンやテレビがもらえるなんて想像したことがあるだろうか。福引きの企画を立てたとき、古参編集部員と共に「真珠湾攻撃の跡地を巡るハワイツアーだったらどうする?」「遊就館入場無料券とかだったら」など色々な想像を膨らませていた。安直というか、ふざけているというか、考えが幼稚すぎて靖国に申し訳なかった。怒らないでね・ 
   豪華な賞品の中にも、かなり渋い商品が含まれているのが面白い。 
   まずは、なんといってもチャルメラ。協賛企業に日清が入っていたので納得だが。看板商品カップヌードルではなく、チャルメラというところがよい。これが、チャルメラではなく、チキンラーメンが賞品だったら、メモ帳では迷わずそっちを選んでいた(ただ、好きなだけなんですけどね)。 
   さらに渋いのが、マスク。通常の福引きでは、なかなかお目にかかれない賞品だが、今年は例年以上にインフルエンザが大流行し、死者も多数でた。もしかしたら英霊がそれを前もって予測していた!?、というのは考えすぎか。 
   4等にあえて、靴下を持ってきているのはなかなか真似できないセンスである。これも協賛企業が多彩だったからだろう。企業からも人気の神社ということか?

■1等でも名前は張り出しなし

   買い物で貰った補助券10枚ほど、あるいは3000円で1回なんていう商店街の福引きよりも、靖国で福引きを引いた方がいいのではないか。外れに近い5、6等でも、実用的な商品の並ぶ靖国の方が、お得感が大きい。 
   私たちが、メモ帳、消しゴムをもらっている横で、チリンチリンと、大当たりのベルが鳴らされた。どうやら当たったらしい。 
   スーパーなどでは、特賞に当たった人の名前が書かれているボードなどがあるが、靖国にはないようだ。 
   そうしたボードは、あと何本特賞が残っているかがわかるので便利だが、自分が運良く当たってしまった場合はイマイチである。それも鈴木、山田、渡辺などありきたりな名字ではなく、堂珍とか御法川とか御手洗などといった珍しい名字だった場合は、当たったことが近所の人にバレしまう。奥津だって、ちょっと危険だ。「そういえば、特賞当たったらしいわね。いつハワイに行くの?」なんて聞かれた日には、近所中にお土産を買って帰るハメに……。 
   その点、靖国神社は良心的というものだ。 
   いろいろな所から参拝者が来るから書かれてもわからないなんていうのは甘い。世間はとても狭いのだから。もしかしたらクラスメイトや同僚、ご近所さんが初詣に来ているかもしれない。ボードを見た時点では気付かないかもしれないが、「初詣で靖国に行って、福引き引いたよ~」と言った時にバレてしまう可能性も十分あり得る(だからなんだ?)。

■「気持ちをお返しする」福引き!?

   どうして靖国神社で福引きをやっているのか。そんな根本的な疑問を抱いて、靖国神社の広報に電話してみた。 
   すると、「協賛企業から頂いた物や気持ちを、(靖国神社がかわって)一般の多くの人に気持ちをお返しする」のだという。 
   ナイスな心意気だ。神社としてとてもよい事をしているのではないか。もらった物を独り占めにするのではなく、みんなにわける。それならそれでHPをもっとわかりやすくし、昇殿参拝しない人にもやらせてあげたい。福引きなんて他の神社ではやっていないのだから、もっとアピールしてもよい。ただ、あれだけ参拝者の集まる神社で、福引きの宣伝をしたら、いくつ協賛企業があっても足りないかもしれないけれど。 
   これまでの福引き人生を思い返してみると、私はくじ運がないのかティッシュばかりもらっていた気がする。花粉症と鼻炎持ちなのでティッシュはとても重宝するけれど、なんか寂しい。小学生の頃、ポットが当たったが、結局使わないまま実家を出てしまった。その前には、後頭部に護送車が当たって「大当たり」ということがあったぐらいか。私には男運があっても、くじ運はないらしい。来年こそは、ノートパソコンを当ててやるぞー! と思いながら帰っていったのでした。  (■つづく)

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靖国を歩く/第12回 きっと君は来ない……靖国のクリスマスイブを調査(奥津裕美)

■月刊『記録』03年1月号掲載記事

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 2003年を迎えてはやひと月。この号が出ている頃の恋人たちはバレンタインデーの話題で持ち切りだろうが、一足遅れて、靖国神社のクリスマスイブを特集。 
   2002年12月24日、北風が吹く中、私と古参編集部員2人は靖国神社へと向かった。この企画の当初から心に引っかかっていた疑問がある。「果たしてイブに靖国へ来る人はいるのだろうか」。これは、彼も同じ心境に違いない。いや、同じ心境だ。 
   改めて書くのもバカバカしいが、クリスマスとはイエス・キリストの誕生日であり、イブはその前日を祝う日だ。だから神道の靖国には何の関係もない。でも一方でイブは今や日本最大のイベントの1つであり、靖国もその影響や余波ぐらいは受けているかもしれない。そうであれば21世紀の靖国の素顔として面白いルポができるのではないか、というのが編集部の意図なのだが……。 
   靖国へ向かう坂を上りながら雑談を交わす。クリスマスの予定や、前の年のクリスマスの話で盛り上がってきたところで、靖国の第一鳥居が見えてきた。あれ? なんかいつもと違う。『初詣は靖国神社』という看板が目についたのだ。すでにクリスマスを通り越して正月モードになっている。やはり神道だからキリストの誕生日を祝うわけもない。完全に無視である。 
   午後12時の時点で人はまばらで先が思いやられる。休憩所のベンチに座りカップルの登場を待つ。 
   それにしても寒い。気温の問題ではない。世の中のカップルは、2人で熱々なクリスマスを過ごしているんだろう。イルミネーション見ようね! なんて言いながらおいしいものを食べ、プレゼントを贈りあい、夜景を見てその後は……なんて、考えただけでもはらわたが煮えくりかえる。何で私のイブだけが靖国なのだ。この聖なる日に寒さと戦わなければならないのだ! 身も心も寒い。

■サンタクロース登場!?

   お茶を飲みながら待っていると、参拝を終えた女の子2人組を見つけた。これは逃すまいと早速、取材をお願いすると、快く応じてくれた。彼女たちは、箱根駅伝の必勝祈願で訪れたらしい。部では、明治神宮へ行ったらしいが、なぜ、靖国へ来たのかと訪ねると、「政治関係で色々言われていたから、ちょっと行ってみようかな、という感じで」と答えた。 
   彼女たちは24日は部活も学校も休みだった。イブに靖国を訪れた不自然さを聞くと、イブだからこそ周りと違ったことをして反発しようと思ったとからという。参拝後は「ブラブラしようかな」と言っていた。大学を尋ねたところ國學院大學に通っているらしい。靖国と國學院は切っても切れない関係である。「それは妥当でしょう」と古参編集部員。なるほど! 
   幸先のいいスタートを切ることができて、ひょっとしたらいけるかもと気を持ち直し、はやめにもらったクリスマスプレゼントを見せびらかしながら待つこと数分、大村益次郎像の所に赤い服を着た人が見えた。
   「あれは、サンタじゃないですか?」
   「サンタだよー、あれー」 
   思わぬところでサンタに出くわしてしまった。好きな人のことを考えていたら、その人から電話が掛かってくるほどのミラクルだ。迷わずサンタに声をかける。 
   サンタになっている理由について、サンタのコスプレにサングラスをかけた好青年は、「禁煙できなかった罰ゲームで。彼女はあまり乗り気ではないみたいで」と答えた。着てみた感想は、個人的には気に入っているという。念のため一緒にいた彼女に聞くと「愉快だな……と思います」とちょっと引き気味。罰ゲームは一日中続き、どうやら靖国はこの日のデートコースの線上にあったようだ。 
   周囲の反応を聞くと、女子高生が指を指してきたり、キワモノ扱いにすると嘆いていた。サンタがイブにいてキワモノもないだろうに。 
   その後、彼らは手水舎へ……。なんて礼儀正しいサンタカップル! しかし、靖国とサンタ。英霊とサンタ。正反対な組み合わせだが、若者が参拝しに来たのだ、大目に見てください。

■売店は大掃除

   それからパッタリと人通りが絶えたので、おでんを食べることになった。たまご入り500円。お店のオジサンに今日の予定を聞くと、「今日は掃除だな」と一言。どうやら、クリスマスイブは大掃除の日らしい。おでん鍋の中をのぞくと、具が数える程度しか入っていなかった。古参編集部員とおでんをつつく12時58分。 
   寒い日はおでんがうまい、と思いながら昆布を食べていると、若い女の子二人組が神社から出てきたので声をかけたところ、「たいした参拝してません」と、逃げられてしまった。たいした参拝って何だよ、何も逃げることはないじゃない。 
   次にベンチのそばでたばこを吸っていた女性に声をかける。黒いキャスケット帽に黒マニキュア、白いコートのおしゃれな彼女はクールに答えてくれた。 
   彼女は参拝そのものは、なんてこともなかったが、遊就館でゼロ戦が見たかったけど、800円は高かった。300円くらいだといいと切実に語った。靖国に来たのは近くに会社があったからだそうで、夜はバッチリ「予定があります」とのことだ。やっぱり、予定があるのか。 
   後ろでは、掃除をする音が聞こえる。ホントに掃除をするんだ。イブなのに。 
   さらに待つこと1時間、本日、2組目のカップルが登場。30代とおぼしきカップルは、クリスマスなんぞに浮かれない靖国神社にピッタリである。 
   取材の申し入れに、上から下まで黒で固めた彼女は戸惑いを隠せない様子だったが(まあ、当たり前か。靖国のクリスマスだし)、彼氏は気持ちよく答えてくれた。
   「いや、時間があったので、ちょっと寄ってみました。僕も初めて来たのですが、歴史の重みを感じますね。日本人なら1回は来るべき場所でしょう」と、弁舌もさわやかであった。カタカナ文化なんて何するものぞ、という勢いでもあった。しかし、「夜は別の予定が?」との質問には、迷わず「ハイ」。 
   やはり、文字通り「靖国神社でクリスマスイブを過ごす」という人はなかなかいない。

■米国人には謝られ……

   ではクリスマスの本場の人はどうなのか。米国人男性1人と女性2人、日本人女性1人の4人組が、参拝から帰ってきたところをつかまえた。 
   イブの靖国神社はどうですかとの質問を唯一の日本人女性に通訳してもらうと、3人が声を揃えて「(ここでは)祈ってないよ!」と笑い出した。そうでしょうとも。
   「観光です。ちょうど靖国神社が通り道だったので寄ってみました。有名な神社ですし。これから夜には、丸の内のイルミネーションを見に行く予定です」と、日本人女性は続けた。 
   当たり前だが、米国人の3人も、イブを靖国で楽しもうとは思っていなかったようだ。取材の終わりに米国人男性から日本語で、「ごめんなさい。観光、観光」と言われた。私達を、クリスマスを許さないタイプの日本人だと思ったのだろうか。決してそうではありません。
   そうこうしているうちに靖国神社と不釣り合いなカップルが参道を歩いてきた。男性は黒のハーフコートがおしゃれである。しかも美男美女。右の耳に5つのピアスをぶら下げた彼氏は、「なるべくクリスマスっぽくなく過ごしてみようと思いまして」と照れたように答えた。

   「それで楽しかったですか」と少し意地悪な質問には、大きな瞳の彼女が、「それなりに楽しかったかな、うん(笑)」とはにかみながら答えてくれた。これからはプラネタリウムに行く予定で、その後は家に帰りますとのことだ。照れたような笑顔がかわいい 
   わかったことが2つある。1つは何らかの理由でクリスマス気分を味わいたくないなら、それで面白いかどうかは別問題としても、靖国神社に来るのは大正解だということ。もう1つは、にもかかわらずカップルの話を聞いてる限り、2人なら靖国でもどこでも楽しいということだ。

■遊就館もクリスマスの熱はなく

   取材を終わらせ、遊就館へ向かう。総ガラス張りの建物は新築のせいか美しく見えた。中へ入ると、受付には黄色い制服を着た受付嬢が2人。靖国に勤めている女性に若い人が多いのはなぜだろう。 
   券売機でチケットを買う。800円が高いかどうかは館内を見物してから決めることにして、入り口の2階に上ろうとしたらさっきまで動いていたエスカレーターが止まっているではないか。「私を靖国ライターと知っての振る舞いか!」と思うわけもなく、「なんでー?」と動揺してしまった。 
   しかし、近づくとエスカレーターが動いたではないか! なんだこの先端を行く仕掛けは。どうやら省エネ効果も狙って、人が近づいたときだけ動くようにできているらしい。靖国はハイテクなのだ。この点は次回以降でリポートしよう。 
   なかでは、1人で熱心に見物する人や、グループ、カップルなどがいたが、やはりイブ云々が関係なさそうな年配の客が多かった。それにしても模型が多い。資料館というより博物館に近い印象だ。800円を出しても惜しくないくらいのボリュームで、博物館好きの私はかなり興奮した。しかし設備だけを見ると、一般客から800円徴収しなければ元が取れないように思えた。それだけ豪華なのだ、遊就館は。 
   前日は天皇誕生日であり、巣鴨プリズンで東條英機元首相の死刑が執行された日でもあった。そのため戦争の資料館である遊蹴館の出口に置かれたルーズリーフには、山ほどの感想が書き込まれていた。しかし一夜明けたイブは、書き込みも少ない。15時の段階で、わずかに5つだ。 
   そのうちの1つ。若い女性のものと思われる筆跡で、次のような感想が書かれていた。
   「こんなに何も知らない私には、何を思えばよいのか分からない。ただ1つだけ思うことは、もっと戦争について、日本の歴史について知ろうということ。そして、もっと考えることができる人になろうということ」 
   イブでも真剣な人はいるのだ。かたやクリスマスという熱に浮かれている人もいれば、真面目に考える人もいるのだということを遊就館は教えてくれた。 
   家に帰り、深夜番組を見ていたら靖国神社のCMが流れた。正月カラー満載、靖国の印象を打ち破るようなポップさに驚くとともに、靖国のクリスマスイブの企画に改めて虚しさと寂しさを覚えた。靖国は1週間後の正月に勝負を賭けている。 (■つづく)

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靖国を歩く/第11回 究極の謎に挑戦靖国に「英霊」はいるのか(『記録』編集部)

■月刊『記録』03年1月号掲載記事

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 それはふとした、しかし非常に根源的な疑問だった。「もし靖国神社に英霊がいなかったらどうなるのか」だ。何しろ目に見えない存在なのだから、いない可能性もあるわけだ。 
   いなかったら大変だ。靖国神社護持派は、その根拠を失ってしまう。もっと深刻なのは批判派だ。そこが大きな鳥居があるだけの空間だとしたら、国家護持や要人の参拝を批判する根拠がなくなる。政教分離以前に、英霊なき靖国は宗教法人なのかという問題だって出てくるだろう。 
   とくにA級戦犯の英霊が眠っているのかどうかは大問題だ。1986年8月14日に「公式参拝」を見送ると発表した後藤田正晴官房長官は、「昨年夏の公式参拝は、A級戦犯への礼拝ではないかとの批判を近隣諸国に生んだので」と語っている。ならばA級戦犯が実際にいるのかどうかはどうしても確かめねばなるまい。 
   問題は、それを科学的に実証する方法がないことだ。なぜならば霊という存在があることを前提にした議論自体が超常的だからだ。超常現象はそれがわかるとする人に調べてもらうしかない。そこでメディアでも活躍中の霊能者のA先生にお願いした。 
   誤解されると嫌なのであらかじめはっきりさせておくが、編集部は大まじめである。霊能者に依頼する以外の方法はどう考えてもなかったからである。A先生も決死の覚悟だ。霊能者にとって「靖国に英霊がいるか否か」というテーマは途方もなく重いそうである。

■編集部による公式参拝

   年の瀬も押し迫った12月某日、無理を言ってお願いしたA先生と編集部メンバー3人は、北風吹きすさぶ中、靖国神社へと出発したのだった。
   「参拝する時は、真ん中を歩いてはいけません。端を歩きましょう」 
   靖国の大鳥居に向かう歩道橋の上、先生はおごそかにつぶやいた。どうやら神社参拝の作法らしい。不思議に思ってたずねてみると、先生は霊視のみならず、神社関係にもかなり詳しい方だったのである。しかも先生の叔父様に当たる方が靖国神社に合祀されており、今回、本殿での参拝まで行い、英霊とのコンタクトを取っていただけるという。 
   小誌実働部隊のほぼ全員が正式に参拝するとなれば、これぞ『記録』の“公式参拝”ではないか。唯一の30代である古参編集部員にその旨をたずねると、「玉串料は先生がお支払いするので、編集部としての公式参拝ではない。私的参拝である」と、笑いもなく答えるではないか。 
   私的・公的はともかく、正式な作法に則った参拝をすべく、私たちは行動を開始した。「参拝は鳥居から始まるんじゃない、歩道橋から始まるんだ」と、踊る大捜査線風に言ってみたが、そう、歩道橋から参拝は始まっていたのだ。先生の注意に従って、私たちがミミズのように一列になって歩いたのは言うまでもない。 
   鳥居をくぐるときは、一礼して入る。大村益次郎像を越え、休憩所を横目に見ながら第二鳥居へ差し掛かったとき「ここからは無駄話をやめましょう」と先生からお言葉が。穏やかな先生の表情が、徐々に引き締まってくるのがわかる。 
   それなのに古参編集部員は、取材ノートをブラブラさせ、「ノートはしまってくださいね」と先生から優しく注意されていた。 
   第二鳥居を潜り、すぐ左手にある大手水舎で手と口を清める。もちろん作法もバッチリ教わった。
   「柄杓に水を汲み、左掌に水を掛け、次に右掌に水を掛ける。口を漱ぐときは、柄杓に口をつけてはいけません。左掌で水を受けてから口をゆすぎます。最後に、柄杓を立てて柄を洗います」 
   知らなかった! 神社へはよく行くが、正しい手水のやり方なんて聞いたことさえない。口の漱ぎ方まであったとは。手を拭き、神門の前でまた一礼。更に奥へ進むと中門鳥居があり、また一礼。そこを抜けると拝殿だ。 
   何はともあれ、拝殿でまず参拝。ここでも作法がある。まずコートやマフラーを外し、賽銭箱に賽銭を入れる。先生によれば、「賽銭は2枚、4枚と2で割れる数がいいと言いますが、気持ちで結構です。賽銭は願いを託すものなので、5円玉一枚というのはちょっと……」とのこと。私も奮発。10円玉2枚を賽銭箱を投げ入れる。拝礼は、二拝二拍手一拝。見よう見まねで礼儀を尽くした。

■英霊は常駐していない!?

   さて、いよいよ昇殿参拝のために祭儀所へ。美しい巫女さんに迎えられ座敷に通された。所定の用紙を先生が書き込み、しばらくすると宮司が登場。改めて手と口を清め、祓所でお祓いをしてもらい、いざ本殿へ。 
   中央には、大きな鏡とカブやリンゴなどの神饌が置かれている。その鏡の前に正座をすると、外から小鳥のさえずりが聞こえてきた。そして神主による祝詞の奏上が始まる。深く息を吐いた先生がゆっくりと頭を垂れ、お辞儀をしていた。 
   祝詞が終わり玉串を納めた後、二礼二拍手一礼して黙祷し、その後に廊下で神酒をいただいた。飲む際には、本殿に向かって「頂くゼ」という感じで挨拶した後に飲んでみる。もともと神と会った後の祭りを儀式化したものらしいから、威勢が良いに越したことはないだろう。中味は至って普通の辛口の日本酒だ。とはいえ昼間から飲めるのはありがたい。 
   さて、祭儀所を出てすぐ、英霊との遭遇について先生にたずねてみた。
   「本殿に上がる前と、本殿から出てきたときに、『Aちゃん』と呼びかけられました。英霊の叔父様でした。ご遺族の方の中には、英霊が呼びかける声を聞き取れる人も多いのではないでしょうか」 
   う~ん、やっぱり英霊はいるらしい。
   「通常の神社では、天からシャワーのように御霊が降ってきてサッパリします。でも、ここでは地からゆかりのある御霊が上がってくる感じですね。下から暖かい気が、どんどんのぼってきました。あと、本殿に巫女さんのような女性が見えましたよ。英霊をお世話する女神のような存在でしょうか。 
   それにしても参拝したら、朝からの肩こりがスッキリ抜けました。すごいですね」と、先生はニッコリ。 
   しかし私は気になった。約246万余柱の英霊を、どうして先生は見ないのだろうか? 大量の英霊が神社を走り回っている図を、私は期待していたのだが……。
   「いや、簡単に説明すれば、靖国神社は玄関なんですよ。幽界にいる英霊が、参拝の声に応えて神社まで降りてきてくれるんです。もちろん自ら降り来てくださる英霊もいらっしゃるとは思いますが」 
   なんと、英霊は24時間、靖国神社に常駐しているわけではないのだ。つまり呼ばなければ、東條英機や板垣征四郎などのA級戦犯は出てこないのである。 
   これは大変な発見である。A級戦犯が合祀されているという理由で諸外国から参拝が批判されている点について、たとえば参拝した首相などの要人は「A級戦犯の英霊はお呼びしていませんから」といえばいいということになる。だが、そうするとなぜA級戦犯の英霊を呼ばなかったのかとか、だったらいったい誰を呼んだのかとか、オレの親父をなぜ呼んでくれなかったのかという新たな問題が発生する可能性もある。 
   こんな難問に果敢に取り組んでいる私をよそに、一行は招魂斎庭があった駐車場へ。この招魂斎庭、英霊を神祭として本殿に合祀する前に、心霊を迎え入れる招魂式を実施した場所だという。そんな聖なる場所を駐車場にするなんてけしからん、と一部メディアに批判された場でもある。 
   私も何となく罰当たりな行為だと思っていたが、先生は「問題ありません」と頷いた。
   「ログハウスが手狭になり、新しいログハウスを建設しても、普通、誰も文句を言わないでしょう。いきなり昔の施設を壊したならともかく、きちんとお祓いをしていますし、神様も怒っていないようです」 
   どうやら怒ったのは、人間だけだったらしい。

■千鳥ヶ淵戦没者墓苑との意外な関係

   さて、靖国神社を出て千鳥ヶ淵戦没者墓苑へと向かった。第2次世界大戦で亡くなり、遺骨が収集されたものの、氏名の特定ができなかったり、引き取り手がいない無名戦士の遺骨を納めている場所である。 
   門をくぐった途端、先生が深呼吸をした。やや顔をしかめ、目をつぶる。靖国に入ったときとは違う緊張感が漂っていた。納骨施設が視界に入ってくると、先生がボソッと一言。
   「ヘタにさわれない」 
   普段は何かを感じることが少ない私でも、入った瞬間体が怠くなり下半身が重くなった。だからといって、足腰が疲れている訳ではありません。 
   4人で献花し、門に向かって歩き出すと、今度は先生が首を振り始めた。
   「重い……。個別に霊がいるような状況じゃありません。エネルギーの集合体が、ドーンとある感じです。近づけませんでした」 
   首を左右に振りながら、先生は言った。
   「ここは4時閉門で正解だわ。夜は来ない方が良いですよ。どうなっても知りませんから」 
   先生、怖すぎます! 夜、トイレに行けません……。
   「足元から下に吸われるような感じがしませんでした? あくまでも私個人の意見ですが、千鳥ヶ淵は霊的にもう少しちゃんとした方が良いかもしれません。あらゆる宗教者が慰霊のために訪れるようになれば、霊も喜ぶと思います。ただ靖国も千鳥ヶ淵も、両方必要な施設なんです。千鳥ヶ淵は荒ぶる御霊であふれ、靖国はそれを鎮める『招魂社』。その2つのバランスが大切ですから」 
   そうだったのか! 靖国と千鳥ヶ淵の関係はいろいろと議論されてきたが、こうした新解釈も可能なのである。 
   先生の肩の痛みを払うためにも、再度、靖国神社をお参りすることになった。道々、先生から霊媒師から見た靖国神社像について教えてもらう。
   「政府や上の論理は、国威のために戦死者を利用し、『祀るから安心して天に昇ってくれ』という考え方。遺族や現場の倫理は、『死んだのだからせめて神に祀ってくれ』というものでした。どちらが正しいではなく、そういう考え方、思いがあるということでしょう。 
   ただ靖国神社は、荒ぶる霊をしずめています。A級戦犯などが処刑された池袋で幽霊が目撃されるのは、死者に怒りがあるからでしょう。靖国神社がなければ、誰が荒ぶる霊を諫めるのでしょうか」 
   靖国問題の根幹を解決すべく組まれた取材は、左右両陣営に加え、「英霊の主張」という新たな座標軸を発見することとなった。 
   そして私はといえば、さらに混乱を深めることになったのであった。英霊の主張?
   うーん……。  (■つづく)

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靖国を歩く/第10回 おみくじバトル2002年 冬~靖国vs明治vs大國魂vs湯島vs氷川~(奥津裕美)

■月刊『記録』02年12月号掲載記事
       *          *           *
  神社といえば、みくじだ! 誰がなんと言おうとも、おみくじである!!  
   使用されている紙だって粗末なものから豪華なものまで様々。値段も100円から、チャーム(オマケの魔除けグッズ)がついた200~300円のものまで千差万別。だが正直、そんなことは関係ない。みくじの醍醐味は、吉凶なのだ! そう、私にとって神社といえば、みくじ。みくじといえば、やっぱり吉凶!! 高いテンションで申し訳ありません。しかし初詣で凶を引こうものなら、最悪な一年になるのでは、とすっかり沈んでしまう私にとって、おみくじは重大問題なのだ。 
   というわけで今回は、靖国のみくじと他の神社のみくじを徹底比較する。 
   まずは、比較神社の紹介。 
   明治神宮は、明治天皇、明憲皇太后を祭神とし、靖国神社同様、極めて社格が高いとされる。大國魂神社は、大國魂大神を祭神とし、国を守る神を祀っている。湯島天神は、天之手力雄命と菅原道真公を祭神とし、学問の神として有名。氷川神社は、素盞鳴命、奇稲田姫命、大己貴命を祭神とし東京十社の1つでもある。東京十社とは、東京の鎮護と万民の平安を祈願するために明治天皇が定めたお社を指す。つまるところ東京の守り神の10代表なのだ。 
   さて今回、編集部の大盤振る舞いにより、1社10本、計50本ものみじくを引くこととなった。せっかくなので、各社のみくじを違いを、概略的につかんでいただこう。 
   まずは「願事」や「待人」など、占いの項目数を数えた。項目が多ければ、より細かく自分の未来を知ることができる。結果は、明治神宮→0、靖国神社→10、湯島天神→12、大國魂神社→13、氷川神社→17。明治神宮は吉凶そのものがないので論外であり、他の神社を圧倒した氷川神社の数が光る。 
   さらに1項目ごとの平均文字数も調べてみた。湯島天神→8.26、靖国神社→9.2、氷川神社→13.4、大國魂神社→16.5。なんと湯島と大國魂の文字数は2倍! 大國魂の顧客第一主義(?)には、頭の下がる思いだ。 
   さて調査をした5社のなかで、護国を担う靖国、明治、大國魂に着目した。この3社の特徴は、とにかく「お説教」が多いこと。 
   靖国神社は、吉凶が書かれた裏面に徒然草や五輪書などの古典から一文を引き、いかに生きるべきかを説く。大國魂神社のみくじは、裏面に「教え」と「天のみこえ」さらに表面にも「言」という枠があり、道徳満載となっている。きわめつけは明治神宮。なんと吉凶すらない。表面は「大御心」と呼ばれる明治天皇と明憲天皇が残した金言のみ。裏面は「この大御心を身につけて――明るく楽しく勤めましょう」という文章で括られた枠内に、金言の解説が書かれている。その欄外には、「今日の参拝の記念に大切に保存しましょう」という文言まで……。 
   国を守るためには、まず人民から。最近の情けない国民をビシッと叱りたい。その気持ちはわかります、はい。やっぱり偉い人は説教をしたくなるのだろう。この点、神も人間も同じということか。まあ、何となく全文を読んでしまうみくじで道徳心を説くのは、手法としては成功かもしれない。普段の「お説教」より抵抗なく入ってくるからだ。 
   実際「みくじ説教」の手法を、音楽に活用している人たちもいる。日本のラップミュージシャンだ。日々、リスペクトだ、突破だのと、御祭神が喜びそうなことを日本風のrhymeに乗せて歌っている。彼らに3社のみくじを歌わせてみたら、案外おもしろいかもしれない。流行るぞー! 
   それにしても、みくじに吉凶がないのはいかがなものか。一時の運不運を紙に託して批評するなど、神の仕事ではないかもしれない。しかしみくじを引く人は、未来の指針を知りたいのである。そこに神の力を借りたいのである。 
   引いたみくじに吉凶がないということは、例えるならモーニング娘のトレーディングカードを買って、プロレスラーの写真が出てくるようなものだ。凶が出るのとでは、絶望の度合いが違う。 
   明治神宮のホームページによれば、国家の管理に置かれていた戦前は神札しか出しておらず、おみくじの発行は戦後、宗教法人になってからだという。このとき明治神宮独自のみくじを出そうと知恵を絞り、祭神にゆかりの深い御製や御歌で、みくじを出すことに決まったという。 
   同じく高い社格を持つ明治と靖国。しかし、みくじの作りに、私は祭神の違いをみる。靖国神社の英霊は、もともと私たちと同じ庶民。だからたとえお説教が多くても、庶民のお目当て吉凶にも力を注ぐ。金言にしても、明治神宮が皇族の言葉だけなのに対し、靖国は国学者から狂言役者まで幅広い分野から人選している。格が高くても、敷居は低い。庶民派靖国、侮りがたしである。 
   まあ、考えてみれば、引く人物の民度に問題があったのかもしれんが……。高貴な方には、明治神宮のみくじがお気に召すことだろう。みくじには黄色と白があり、菊の御紋が光って浮き出る和紙を使っている。100円とは思えないほどの高級感だ。「しゃらくせい! こちとら運不運が知りてぇんだ」と叫んだ私には似合わなかった。それだけかも……。 
   靖国と同じく護国を担う大國魂神社のみくじは、先ほども触れた通り三部構成のお説教である。正直、しつこくないでしょうか? 社格が上の靖国でさえ、裏側だけなのに。大國魂神社の祭神・大國魂大神は、国土を開拓し、人民に衣食住の道を授けたといわれる神である。ほとんど類人猿のころから生活全般を指導してきたなら、余計な一言を言いたくなるのも人情(神情?)か。子どもがいくつになろうとも、親から見れば「子ども」なのだ。いやいや現代人なんて大國魂大神から見れば、やんちゃ坊主に過ぎないのかもしれない。「もう、おいたばかりして!」そんな気分で、みくじを渡しているかも。 
   一方英霊は、神とはいえ元人間。お説教にウンザリした人も多かろう。人間にしつこいお説教は逆効果だと、適度なところで切り上げたに違いない。
■必ず病気が「回復する」靖国 
   みくじの内容についても、個別にみていくとなかなか面白い。
   【進学】について、 靖国はとにかく努力を強調する。10本のうち半分が「努力」に触れている。「努力は報われる」、「努力の積み重ねにより開かれる」などなど。『少年ジャンプ』の合い言葉のようで参ってしまう。努力が大切なのはもちろんだが、さすがにちょっと多すぎやしないか! 努力だけでどうにもならないことは、英霊の皆様はわかっていると思うのだが……。 
   大國魂の決まり文句は「あぶないです」。なんと10本中5本も! 「怠るとあぶないです。努力してください」、「あぶないです。全力をつくしなさい」。これは参った。学生ではない私でも、ちょっとショックだ。神様から面と向かって「あぶない」と断定されると、本当に危なそうだ。 
   一方の氷川神社は、「祈り」がキーワードである。「祈りの心で励めば叶う」、「自己を克服し、神様を念じつつ励めばよい」、「御祈願を捧げ 努力専一に励めば必ず叶う」などなど。どこか神頼みとはいえ、祈ればどうにかなるよ、というのは簡単だなぁ。「現実的じゃないよ」などと毒づいていたら、「自惚れると失敗する、分に応じた処をえらべ」! 希望を下げろと? メチャクチャ現実的じゃない。無理を承知の神頼みなのに。項目数ナンバー1の氷川神社は、みくじの文章でも豊富なバリエーションをみせた。 
   ちなみに進学問題の権威・湯島は、意外なほど素っ気ななかった。受験を知り尽くしているがゆえの、口数の少なさだろうか? 
   【病気】に悩んでいる人にお勧めしたいのが、靖国神社である。とにかく多いのが「回復する」。10本中9本に、この文言が書かれている。残りの1本も「快復する」と書いてある。つまりどうやっても「回復する」わけだ。と、ここで心配になった。英霊が基準にしている健康体って……。 
   一方の氷川は、学問に続き神頼みである。「一応快くなる信心せよ」、「祈願をこめれば癒る」、「お祈りし快癒を待ちなさい」。神頼みすればどうにかなるというお告げだ。もっと切実感を出したいなら、「執刀医がうまくやることを祈れ」なんてのもどうだろう? それでは現実的すぎるかしら……。 
   ビジネス関連というと、靖国は【売買】という項目がある。その結果は「目上の人に相談すればよい」など。ビジネスでも、礼節をわきまえているのか、さすが英霊。まあ、実際には、相談しても失敗することが多いのだが。偏見かもしれないが、英霊にビジネスを聞く気がどうにもわいてこない……。 
   ビジネス関連で要チェックなのは、大國魂の【求人】である。この不景気にという感じもするが、採用サイドへのアドバイスである。「あとの人がよろしいでしょう」、「思うような人は来ないでしょう」、「その人でよろしいでしょう」などなど。しかし採用を神頼みする企業なんて御利益あるのだろうか? 占いの結果で落とされたら泣くに泣けない。でも、そんな会社なら行く必要はないか! 
   さて、書き残した情報が1つある。それは吉凶の数。発表しよう。靖国神社→大吉1、吉7、末吉2、大國魂神社→大吉3、中吉1、吉2、末吉3、凶1、湯島天神→大吉5、吉4、末吉→1、氷川神社→大吉4、中吉1、吉2、小吉2、凶1。 
   大國魂以外は私が引いたにも関わらず、けっこうなバラツキだ。となると気になるのが、大吉・凶などの確率である。 
   神社本庁に問い合わせたところ、「こちらでは(みくじの)確率は決めていません」とのこと。そりゃそうだ。吉凶すら書いてない神社があるのに、確率が決まっているはずもない。となると各神社任せとなり、大吉だらけなどという可能性も。 
   さっそく靖国神社に電話を掛けてみると、「(確率については)明らかにしておりません」とのこと。意外にガードが堅い。ただし、みくじの製作を業者に頼んでいると教えてくれた。ただし業者名は、「答えられません」とのこと。その後、湯島神社、明治神宮と電話をかけたが、どちらも業者にみくじを発注していることは教えてくれたものの、業者名や吉凶の確率には沈黙。神社の取引先って、そんなに秘密事項なのだろうか?  
   大國魂神社は担当者が不在で、最後の神頼みでドキドキしながら氷川神社に電話を掛けてみると、「はい。おみくじは大吉から凶まで5種類で、確率は均等に1/5です。女子道社に頼んでいます」と、快く教えてくるではないか。さすが東京の守り神。東京人には優しい! 
   この女子道社、なんと全国のみくじシェア6割を握っているという。経済における分業は、神の領域にまで及んでいた。勝手な話だが、何となく業者を秘密にしてもらったほうが、ありがたみがあったような気が……。 
   最後に、おもしろかったお告げを。「家が破れりゃその身が滅ぶ仲良くせよ」、「人の家庭を破らぬよう清く明るい愛に生きましょう」。なんてアダルトな氷川神社。もといアダルトな女子道社。 
   それでも来年の初詣は、お世話になった氷川神社に参らねば。でも、その前にきちんとたどり着けるのか? 赤坂で30分くらい迷子になったからな……。 (■つづく)

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靖国を歩く/第9回 絵馬から読み解く、靖国願掛けガイド決定版(奥津裕美)

■月刊『記録』02年11月号掲載記事
■奥津裕美(おくつひろみ)…ライター。1981年神奈川県生まれ。長らくの海外放浪生活に終止符を打ち、「記録」編集部へ戻るジプシー系ライター。著書に『誰も知らない靖国神社』(アストラ)
            *        *        *
  神社と言えば、現世利益とワンセット! お守りだって、縁結びや学業成就、商売繁盛、安産などなどバラエティーに富んでいる。ただし神社に祀られている神様にも、得意分野はあるようだ。 
   例えば西宮神社にはえびす様が祀られ、商売繁盛に効果ありとされる。学者・文人としても誉れ高かった菅原道真公を祀った天満神社は、合格祈願など学業関連の成就に強い。まあ、神社に祀られている神様は1人でないことも多く、けっこう幅広く願いを聞き入れてくれるようだが、神様のバックグラウンドは無視するわけにもいくまい。 
   で、靖国神社は一体どのような願い事に効くのか? 
   神社本庁によれば、「(靖国神社に)千年、二千年という歴史があるわけではありませんので、具体的に何に効くということは……。やはり天下国家にまつわることでしょうか」とのこと。 
   なるほど、なるほど。靖国神社は明治以降に国の為に死んだ人たちを祀る護国神社のひとつである。つまり神様は、出撃し散っていった軍人・兵士たち。「天下国家」の願いに、靖国の神様が敏感なのも当然だろう。 
   それにしても、神様なんて、なかなかなれるもんじゃない。会社を興して大成功を収めても、ノーベル賞を受賞して世界的に有名になったとしても無理だ。もちろん私みたいな一介の物書きなんぞ、悟りを開いても神にはなれん……。生前、故人がどのようなことをしていても「名誉の戦死」を遂げれば靖国に祀られ祭神になれるのだから、不謹慎ながら羨ましく思ってしまった。 
   しかし靖国神社の数々の絵馬を見て、吹っ飛んだ。 
   いやいや戦争で特攻するのも大変だが、英霊になって現世利益を叶えるのも楽ではなさそうである。
   「英検が通りますように」。「ECCジュニアがうまくいきますように」。こりゃ、いくらなんでもダメでしょう。明治時代の英霊が英語に強くないのはもちろんのこと、太平洋戦争の英霊にいたっては、国内で英語の使用が禁止され、野球用語まで日本語に換えていた世代である。そんな人達に英検に受かりたいとか、英語学習塾でのガキの成功を願うのはいかがなものか。だいたい英語は元敵国の言葉なのだ。英検なんて、どう考えても失敗しそうである。
   「青山学院大学中等部に合格できますように」。 
   待ってくれ、お願いだから! 青山学院といえば、ミッション系。キリスト教信仰に基づいた教育が行われている学校である。神道の神社との肌合いが良いはずもない。しかも思い返せば1945年、大鳥居の前にある「別格官幣靖国神社」と書かれた社号標を、神道指令で「別格官幣」の部分だけぶった切らせたのは、キリスト教の国アメリカ合衆国なのだ。いくら英霊が穏やかでも、これは怒るだろう。 
   青山学院大、上智大、立教大、同志社大などのミッション系や、駒沢大、大正大などの仏教系は、「手助けしない」と英霊が言い出しても文句は言えまい。実力で勝負してください。 
   やはり正しい合格祈願とは、「防大合格を祈願します」のようなものだろう。これなら英霊だって大満足。守った祖国を、子孫がさらに守ろうというのだから。
■A級戦犯の学歴に注目 
   さて、合格祈願に関しては、意外に忘れられていることがある。 
   そう、太平洋戦争のA級戦犯である。ほとんどが陸軍大学か海軍大学卒だが、東京帝大法科大の政治、経済、独法学科、また京都帝大の卒業生もいる。神様に学閥があるかは知らないが、母校への入学をお願いされたら拒めないのが人情でい! て、すでに「人」じゃないのだが……。 
   こう考えると、東京大学の文Ⅰ・文Ⅱ・文Ⅲには御利益満点だろう。皇族御用達の学習院大学、神道系の大学として名高い國學院にも、高い効果を発揮しそうだ。 
   さて、このような流れからいえば、留学なんてもってのほかと言いたいところだが、事情は簡単ではない。英霊の中には、オレゴン州立大学を卒業している者もいるからである。となれば、この英霊の動き次第ではアメリカ留学にも効果があるかも! アメリカに対する憧れが、当時から全くなかったわけでもあるまい。大穴として紹介しておきたい。 
   第1次世界大戦で敵だったドイツは、第2次世界大戦では味方。このような事情からドイツへの留学祈願は、若干の考慮を要する。ただし昨年10月現在の統計によれば、大東亜戦争(首相官邸のホームページ資料による)の英霊が、全体の86.5%を占めていること考えれば、英霊の多数決によってドイツへの留学には大きな効果を発揮しそうだ。もちろんイタリアへの留学も、無条件で叶えてくれるはずである。 
   逆にロシアは、ちょっとまずい。日露戦争では8万8429柱の英霊が祀られ、ノモンハン事件や第2次世界大戦終結直前のソ連の対日参戦など、英霊の恨みは浅くない。他の神様にお願いした方が無難であろう。 
   願いを叶えてくれるとなれば、好き勝手に書くのが人間である。そんなわけで絵馬には、本来なら天下国家を論じるはずの英霊を悩ますであろうお願いのオンパレードとなっている。
   「I WANT TO BE HAPPY」 
   いや、書いたのが外国人だから仕方がない。それはわかる。でも、英語で「ハッピー」と書いても……。せめて和訳を付け加えるぐらいの配慮がほしい。なんといっても英霊の大半は、第2次世界大戦で死んでいる。英語は不用意です!
   「歌のお兄さんのオーディションに受かりますように」 
   英霊のほとんどは、歌舞音曲といえば軍歌である。ダメだろう。たぶん。全く根拠はないが。
   「今年一年正しく過ごせますように」 
   一年を正しく過ごしたければ、神様に頼まず自分で良い生き方を見つけることのが先決だろう。少なくとも生きているときは、英霊のなかには「これが正しい道なのか」と迷った方もいらっしゃるだろう。神様になったからといっても、どうもねぇ……。
■恋愛問題は強い!?  
   もちろん英霊向きのお願いだってある。意外に効果のありそうなのが、驚くなかれ恋愛だ。 
   靖国神社の基本は『祖霊信仰』。共同体のために身を捧げて倒れた霊を祀ることにより、その霊が共同体の子孫を護る守護神に変わる現象をいう。こうした経緯を考えれば、共同体のために子孫を残す特効薬「恋愛」を、英霊がジャマするはずもない。 
   まして英霊のなかには、学徒出陣などで結婚できずに戦死した人が少なくない。そうした英霊に花嫁人形を供える風習は、現在も続いている。結婚に憧れていたり、新妻を残してきた英霊も多かっただろう。よほど心の狭い英霊でない限り、積極的に応援してくれるはずだ。 
   ただし英霊が願っているのは、共同体の存在である。縁結びではない。となればお手軽な恋愛には、力が入らないかも。恋なら命がけ、もっとも効果があるのは、やはり結婚に違いない。「赤い糸で結ばれた人と巡り会えますように」、「夫婦仲がいつまでもつづくように」なんて絵馬には、英霊もにっこり笑って応えるに違いない。 
   家族の無事を願う絵馬は靖国神社でも数多く見られた。無病息災・家内安全は、神社の「慣用句」でもある。これに効かなくてどうする! 
   太平洋戦争中、海外に出兵した兵士達は遠く離れた家族を心配したものだった。ある中尉は胸ポケットに母親への思いを綴った写真を入れ、またある大将は子供に手紙を送っていた。国家のために死ぬ決意とはいえ、やはり家族への思いは強かったに違いない。
   「健康で幸せで仲良く家族全員が送れますように」「おとうさんのびょうきがよくなりますように」「家族皆健康ですごせますように」といった願いは、英霊も最優先で叶えそうな気がするではないか。ただ生活習慣病の治療などは、「贅沢病だ!」などと一刀両断。あまり手を貸してくれないような気もするが、いかがなものか。 
   国を守る願いは、靖国神社の専売特許ともいうべき大本命に違いない。もちろん自衛隊の願いだって、大歓迎だろう。「専守防衛なんてしゃらくせぇー」なんて英霊が思っているかもしれないが、国防を担っている軍隊とくれば無視もできまい。
   「三等海曹合格 横須賀転勤」。これぞ靖国向きのお願いである。御利益間違いなし。
   「自衛官としても私の人生が無駄になりませんようお願いいたします」。こちらの絵馬となると、英霊は涙を流して協力しそうだ。もしかすると「無駄」にならないよう、国のために死ぬ機会を与えるのかもしれない。つまり戦死か!?  
   さて、ちょっと判断に苦しむのは、「外人部隊への入隊」という絵馬である。外人部隊に入るぐらいならば日本の自衛隊に入れ、と英霊は言われないだろうか? 日本のために死んだ祭神に外人部隊への入隊を願いをするのは、ちょっと勇気がいるような気が……。戦後民主主義に批判的な英霊なら、海外で戦うという意気込みには賛成してくれそうだが。 
   さて、最後に珍しい願いについて考えておこう。
   「チェスちゃんが苦しまずにいけますように」。「チェスちゃん」とは、ペットだろうか。いずれにせよ、英霊に安楽死の手伝いをしろ、というわけだ。これは英霊によって、対応が異なりそうだ。安楽死の手助けがトラウマになっているような英霊なら、協力は期待できまい。(といっても恨むべきではない。彼らは本来「天下国家」の神様なのだ。ペットの生死に関心はないはず。たぶん……) 
   この取材をするにあたり私も絵馬を奉納してみた。「人生がうまくいきますように」と。思い返してみれば、少しお願いが抽象的過ぎたかもしれない。なんとなく英霊と私の考えた「うまくいく人生」に、開きがあるように思うのだ。国を豊かにするために子だくさんになろうなんて思わないし、自分の子どもを自衛隊に入隊させたいとも考えない。それでも英霊は、私の勝手な願いを叶えてくれるだろうか。 
   いや、小誌に書いているぐらいだから、絵馬の御利益があったわけでもなさそうだ。心がけが良いわけでもなし、やっぱりだめかな。 
   そろそろ神頼みの人生を改めなければと思う秋の日であった。 (■つづく)

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靖国を歩く/第8回 忠義を押しつけられた犬たち(『記録』編集部)

■月刊『記録』02年10月号掲載記事  

      *        *        *

  それは体長1メートルほどのシェパードだった。耳を立て、少し後ろ足を曲げ、しっかりと前方に目を据えたブロンズ像は、どこか緊張感が漂っている。飼い主に見せる甘えた表情ではない。その姿に、軍犬としての悲劇が映り込んでいるように感じた。
  「昭和6年(1931)9月満州事変勃発以降、同20年8月大東亜戦争終結までの間、シェパード犬を主とする軍犬はわが将兵の忠実な戦友として第一線で活躍し、その大半はあるいは敵弾に斃れ、あるいは傷病に死し、終戦時生存していたものも遂に一頭すら故国に還ることがなかった。この軍犬の偉勲を永久に伝え、その忠魂を慰めるため有志相はかり広く浄財を募りこの像を建立した」 
   靖国神社・遊就館そばにある「軍犬慰霊像」には、このような建立の由来が書かれている。
  「軍犬」と聞いても、多くの人には馴染みが薄いだろう。旧日本陸軍が採用した犬を、「軍犬」と呼んだのである。その用途は意外と広い。首に付けられた通信用の筒に文章を入れて手紙を運ぶ。ゲリラや敵兵、仕掛けられた爆弾、負傷兵などの捜索に出動する。歩哨の補助として基地周辺などを警戒する、などなど。 
   実際、軍犬はよく働いたようである。当時、編纂されたいくつかの資料が、その活躍を伝えている。 
   闇に潜伏するゲリラを発見した。敵が待ち受ける前線と後方基地の間を連絡要員として走り抜けた。銃を持つ敵兵に死を恐れず飛びかかった。彼らの英雄伝には事欠かない。もちろん日本陸軍に正式に所属している犬だから勲章制度もあり、彼らが嬉しかったのかはともかく表彰された軍犬も少なくなかったようだ。

■満州事変の活躍で 

   日本の軍犬には、シェパード、ドーベルマン、エアデール・テリアの3種類が使われたが、ほとんどはシェパードだったという。そして日本におけるシェパードの歴史は、日本での軍用犬の発展にピタリと当てはまってくる。 
   もともと牧羊犬としてドイツで飼われていたシェパードが、どうやって日本に渡ってきたのか、正確なことはわかっていない。ただ第一次大戦中、青島を攻略した日本兵がドイツ人捕虜とともに連れ帰り、軍関係者が飼い始めた可能性が高いようだ。その後、ドイツにおける軍用犬の活躍を日本政府が知り、陸軍も試験的な採用に踏み切った。そう、日本におけるシェパードの歴史は、最初から軍と密接に関係していたのである。 
   それでも1920年代後半には、日本シェパード犬倶楽部という趣味の愛犬団体が発足。つかの間、日本のシェパードが戦争の道具としてだけではなく、愛玩動物としてかわいがられる時期を迎えた。しかし、その幸福も長くは続かなかなかった。満州事変の勃発がシェパードの運命を大きく変えていくからだ。 
   満州事変当時、陸軍はおよそ250頭の軍犬を陸軍に配属していた。とはいえ多くの日本人にとって、馴染み深い存在ではなかった。ところが満州事変で、軍犬は一気にスターダムを駆け上がる。金剛と那智、2匹の軍犬のおかげだった。 
   1931年9月18日、関東軍は奉天郊外の柳条湖で満鉄線路をみずから爆破する。いわゆる柳条湖事件である。これを中国軍のしわざだとして、関東軍は、奉天における張学良軍の本拠を攻撃、満鉄沿線の主要都市を一斉に占領した。このときに陸軍の先頭をきって敵陣に飛び込んでいったのが、先述の2頭だった。 
   激戦の爪痕を残した戦場が朝日に照らされると、噛みきった敵兵の服をくわえたまま息絶えた金剛と、何発もの銃弾を浴び、無数の刀傷を負って冷たくなていた那智が横たわっていたという。 
   金剛と那智の2頭の実績により、犬の軍事利用は拡大していった。軍用に適した犬をペットで飼うなどもってのほか、といった意見も国内で強まっていき、満州事変の翌年には陸軍省に認可された社団法人帝国軍用犬協会への発足につながっていく。 
   その当時、シェパードの繁殖団体として、ようやく力を付けてきた日本シェパード犬倶楽部は陸軍からの圧力に抵抗し続けるわけにもいかず、軍犬の資源供給に協力する道を選ぶ。愛玩動物としてのシェパードの歴史は、わずか数年で先細ったといえるだろう。 
   1934年にはシェパードの犬籍登録や血統書の発行を行う社団法人日本シエパード犬協会が発足し、軍事目的以外のシェパードも飼育していたようだが、帝国軍用犬協会とは所有していた数が違った。終戦時、軍用犬協会が約6万匹、日本シエパード犬協会の犬は1万頭そこそこだったというから、その違いは明らかだろう。 
   ちなみに軍犬の生産と教育に力を注いだ社団法人帝国軍用犬協会は、終戦とともに自然解散となった。しかし組織は社団法人日本警察犬協会に引き継がれ、現在、警察犬の訓練に担当している。「さもありなん」と考えるのは、私だけではあるまい。 

■軍国主義のスターとして 

   不平すら言えない犬が命を賭けて戦場に飛び出していく軍犬の姿は、軍国教育の材料としても脚光を浴びた。金剛と那智の話は国定教科書にも掲載された。神戸の軍犬学校は、軍犬の活躍を描いた戦意高揚の紙芝居を、いくつも作製している。『戦線に吠えろ軍犬』、『菊水号と兵隊』など、軍犬の忠誠心を愛国心として描いたものが中心だ。 
   ちなみに『菊水号と兵隊』のラスト近くには、「もの言わぬ犬でも、よく教えられた事を忘れず御国の為に立派な手柄をたてました」と書かれている。飼い主の命令に背かないように訓練された犬を、「御国の為」に闘ったと言い切る。これもまた、戦争の一面といえよう。 
   じつは軍犬を使った宣伝と時を同じくして、もう1匹のスターが渋谷で誕生している。そう、忠犬ハチ公だ。 
   ハチの飼い主だった上野英三郎博士(東京帝大教授)の死去は、1925年。ここからハチの渋谷駅通いが始まる。31年には、金剛と那智をスターにした満州事変が勃発。そして33年、東京上野で開催された犬の展覧会において、ハチの人気に火がついたという。翌年始めには、忠犬ハチ公の銅像を造るため、全国各地から募金が集められ始め、同年4月には渋谷駅に銅像が完成している。35年、ハチはフィラリアで死亡したものの人気は衰えることなく、翌年には尋常小学校の教科書に「恩ヲ忘レルナ」という題名でハチ公の話が掲載された。 
   ただ、ご存じかもしれないが、ハチが上野博士の帰りを待つために、渋谷へと通っていたのかどうかは怪しい。駅前にあった焼鳥屋の主人がハチをかわいがり、焼き鳥に目のなかったハチが通い続けたという説もあるからだ。 
   しかしハチ公を利用したかった軍部にとって、そんな事実などどうでもよかったのだ。飼い主が死んでも「恩ヲ忘レル」ことのない忠誠心こそ、軍部が国民に訴えたいことだったのだから。 
   もちろん軍部が国民に強要した忠誠心は、決して報われることはない。戦時中、軍犬の多くは民間人が育て、軍部が徴用することが多かった。出征することが決まっていたとしても、家族同然になってしまうのが犬である。『朝日新聞』などの投書によれば、戦地に赴く犬とともに、出征祈願祭などを行い、犬と一緒に家族で写真を撮った人などもいたという。 
   しかし戦争の道具としてしか犬を見ていなかった軍部は、彼らがどうなったのかを飼育者に知らせることなど、ほとんどなかったようだ。そして「軍犬慰霊像」に書かれていた通り、たとえ生き残ったとしても、軍の撤退の際には現地に取り残されたのである。あれほど軍部が宣伝した軍犬の忠誠心も、こうなれば哀れなものである。

■犬が人の内蔵を……  

   さて、ここまでは軍犬のいわば表の歴史である。ところが軍隊に所属する犬には、敵に見せる顔を持つ。それが軍犬の裏の顔だ。
  「生存者は次々と虐屠殺(殺の意味)された。男性を木に縛りつけ、軍犬が内臓も食いちぎっていた。妊婦を裸にして銃剣で腹を刺し、胎児をねじり出した。赤子を火に投げ入れた――。この目で見たことだ」(『毎日新聞』1998年5月17日) 
   この証言をした李徳祥さんは、中国の河北省のある村で抗日軍の民兵をしていたという。1942年5月に彼の村は包囲され、このような惨劇を目撃することになったのだった。忠実な軍犬は、ここでも大活躍したようだ。犬を戦争に使う現実とは、こういうことなのである。 
   ただし軍犬の忠誠心が、日本兵以上に強かったことだけは確かなようだ。『日本兵捕虜は何をしゃべったか』(文春新書)よれば、アメリカ軍に捕まった日本兵は、捕虜としての待遇の良さに驚き、捕まって1~2日たつと厚遇に報いるため実に従順に話したという。 
   ところが敗戦によって国民党軍の「捕虜」になった8頭の軍犬は、捕虜となった日本軍兵士の捕虜より良い食事を与えたりしたが、反抗的で日本語の命令以外聞こうともしなかったという。それどころか中国人の訓練員が銃を手放した途端飛びかかってきたのである。結局、中国側は軍犬の再訓練をあきらて彼らを食べてしまったそうだ(『毎日新聞』1993年1月17日) 
   軍犬もまた犠牲者だった。(逆らう意志を奪われてたい犬を加害者とはいえまい)敵を殺すために教育された人生は、楽しいものだはなかろう。 
   このような悲惨な事実を語り継ぐためであり、軍犬を慰霊するためなら、シェパードの銅像もよかろう。それならせめて軍犬らしい姿ではなく、飼い主に甘えている顔にしてあげたかった。せっかく動物愛護の日に建てたのだし……。  (■つづく)

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靖国を歩く/第7回 大鳥居の向こう側(『記録』編集部)

■月刊『記録』02年8月号掲載記事

    *        *        *

■日本一マニアの靖国神社 

   初めてライトアップされた靖国神社の大鳥居を見たとき、ゴジラ映画を思い出した。夜空に赤茶色に浮かび上がった大鳥居の周りを、サーチライトが照らす。バカでかい鳥居に向け何本もの光の筋がのびる光景は、自衛隊がゴジラを取り囲んでいるシーンに似ていた。 
   あまりに現実感のない光景に、私は笑った。何でこんなものを作ったのか――それが正直な感想だった。 
   当時、靖国神社は私に縁のない場所だった。歴代首相の公式参拝問題で話題にのぼるとはいえ、神社そのものに興味はないし、靖国神社の歴史など知る由もなかった。 
   そう、8年前私が感じたのは、イデオロギーとは関係ない、ただの違和感だった。
   九段下駅にもっとも近い大鳥居(第一鳥居)が、現在の形で完成したのは、1974年10月である。柱の高さが25メートル、笠木と呼ばれる上の横木の長さが焼く34メートル、全体の重さは約100トン。これだけの重量を支えるため、素材も鉄に炭素・硅素・マンガンなどなどを加えた耐候性高張力鋼板という特別な合金を使っている。 
   しかもこの大鳥居、当初の建設計画を急遽変更したという。質量にして、なんと2倍! もちろん計画の変更にともなって、鳥居を支える基礎工事も大幅な増強を強いられ、建設費も跳ね上がった。計画の抜本的な変更と言ってもいいだろう。 
   驚かされるのは、計画変更の理由だ。見積もり依頼のわずか1ヶ月前、栃木県に日本一の大きさの鳥居が完成したからだという。つまり自分たちで日本一大きい鳥居を作るため、突発的に計画を変更したのである。 
   当時の状況について、大鳥居建設の実行委員は、次のように語っている。

   小林   戎野君は三十メートルにしろと言っていましたね。
   戎野   いや三十五メートルですよ。(笑)どうしても無理なら三十メートルにしてくれと。そしたら、戎野さんが、やっぱ歩兵砲は大きいことを言う。そりゃ大きい方がいいと言われましね。
   奥谷   三十メートルにすると、幅の広がるのではないの。バランスはどうかな。
   小林   あれは、細かく比率が決まっているんだ。今の鳥居の寸法は、神社にいろいろ聞いて私が計算して決めたのですよ。今考えるとぞーっとする……。
   (『靖国人家大鳥居再建之記録』)

   なかなか大らかな話である。日本一の大きさの鳥居を作ることは、彼らにとっても至上命題だったようだ。確かに鳥居の大きさに対する靖国神社のこだわりはスゴイ。知っているだろうか? 靖国神社には、大鳥居を含めて“日本一”の鳥居が3つもある。 
   大鳥居から歩くこと数分。靖国通りに面した石造りの鳥居は、石造りの鳥居として日本一だ。高さ11.35メートル、笠木の長さも15.30メートル。第2位の大きさを誇る京都の八坂神社の鳥居に、高さで44センチ、笠木の長さで55センチ勝っているという。 
   さらに拝殿に向けて歩くと、青銅大鳥居と呼ばれる第二鳥居にぶつかる。この鳥居が、青銅として日本一の大きさを誇る。 
   いったい何をしたら、これだけ日本一が集まるのか。その答を説明するために、靖国の鳥居についての歴史をかいつまんで説明したい。

■戦争に使われた鳥居 

   1887年(明治20年)に建てられた現在の第二鳥居は、陸海軍当局が計画を進め、旧諸藩より提出された大砲を原料にして作られたものだ。この鳥居建設に対する意気込みが表れているのが、『靖国神社誌』の一文である。一部を抜き出してみよう。
  「本社は、王制の中興を翼賛し今日の昌平を開創したる神霊の祠にして、国家の永遠敬崇して忘る可からざる所なれば、鳥居の如きも宜しく其規模を壮大にして、以て万世不朽ならしむべし」 
   1945年の敗戦まで陸・海軍の管轄下にある国家施設であり、国家神道の中心地だった靖国神社の面目躍如といったところか。鳥居の大きさは、靖国の持つイデオロギーの体現となっている。 
   靖国神社の鎮座50年を記念して計画され、1921年(大正10年)6月にに施行された第一鳥居建設でも状況は変わらない。この大鳥居の建設趣意書をしたためた陸軍中将は次のように書いている。
  「(靖国神社は)永く国家を鎮護し国民の景仰する所なり、皇室の尊崇を蒙ること太く厚く、(中略)第一鳥居を新に九段坂上に建設して社頭の尊厳を加え、以て中外の儀表と為さむとす」(『靖国神社百年史』) 
   後年、「空をつくような大鳥居」と歌われた第一鳥居も、やはり国家神道を推し進めるために作られたわけだ。 
   しかし、この1921年に建てられた第一鳥居は、皮肉な運命をたどっていくことになる。1943年春頃から大鳥居の青銅がはがれ落ちるようになり、鉄骨の腐食まで確認される。しかし戦争の旗色は悪く、物資の供給もままならい状況にあって、鳥居の補修などできる状況にはなかった。背に腹はかえられぬ。軍部は、速やかに大鳥居の撤去を決定した。解体した銅や鉄は戦争に使うこと、また戦争終結後に鳥居を立て直すことを神社と約束し、木造の仮鳥居を建てたのである。 
   ところが敗戦により、軍部は靖国神社との約束を果たせなくなる。それどころか靖国神社の存続さえ危うくなった。慌てた靖国神社は、社名を変更し、宗教法人としての生き残りを図る。驚いたことに、軍事博物館の「遊蹴館」を、ローラースケートやピンポン、メリーゴーランドや映画館にしようという計画まであったという。なりふり構わず生き残りに賭けた靖国の姿が、そこに浮かび上がる。 
   こうした「逆風」の中、靖国神社は戦時中に失った大鳥居の再建を内に秘め続ける。そして冒頭に書いた通り1974年、元軍人や遺族などの寄付を集め、31年ぶりに大鳥居が建設されることとなった。 
   当時、国家護持法案が審議中だったこともあり、再建計画は極秘に進められた。企業からの大口の献金をもらえば金は集まりやすい。しかし、そこからマスコミに漏れることを恐れた実行委員は、個人から幅広く寄付金を集める方法を選択する。 
   この大鳥居の再建にも、もちろんイデオロギーの影がちらつく。大鳥居再建についての資料をまとめた『靖国人家大鳥居再建之記録』の冒頭では、靖国神社の權宮司が、国営施設ではない現在の神社の状況について、「靖國神社に祀られることを信じて、祖国の安泰を念じて散華された英霊に対して、国家が嘘を云ったことになると思う」と述べ、占領軍が日本弱体化のために靖国神社を宗教法人へと追い込んだ、という論陣を張っている。 
   しかしである。 
   この大鳥居の歴史は、すべてイデオロギーの産物と言い切れるのだろうか? 対談に表れた実行委員のおおらかさや巨大すぎる鳥居への違和感に、私は、イデオロギーと相容れない何かを感じてしまうのである。 
   実際、先述した座談会の中で、大鳥居再建の発端について、次のように語っている。
  「それに、理事長さんもこの話に触れておられたこともありましたね。靖国神社の前を、浅草寺の前の通りのように賑やかにするとか……」 
   仲店の賑やかさと国家神道の中心地。さて、これがうまく結びつくだろうか? 少なくとも私には結びつかない。人を集めてこそ、イデオロギーが形成されるとしてもである。

■明治時代はハイカラ 

   評論家の坪内雄三氏は、靖国神社がイデオロギーの中心地ではなかった時代があったことを、著作で明らかにしている。例えば「靖国神社は明治のハイカラ」(『諸君』1994年11月)では、明治時代の招魂社(現・靖国神社)の様子を描いた絵や文学作品を検証し、「一言で言って、洋風でハイカラな場所だったのである」と書き記している。 
   たしかに明治時代の靖国神社は、今とは少し様子が違う。例えば明治3、40年代の例大祭では、サーカスが名物だった。少し時代がさかのぼるが、明治4年頃の三代廣重の作品『招魂社境内ニテ フランス大曲馬』には、フランスから来日した「スリエ曲馬団」の曲芸が、いやに楽しそうに描かれている。馬上でお手玉をする女性、馬に乗りながら地面の帽子を取ろうとする男性、輪潜りをする馬などなど、画面ところ狭しと描かれた曲芸からは、見た者の興奮が伝わってくる。 
   そんな牧歌的な側面を、靖国神社から読みとるのは無理が過ぎるだろうか? しかし、あの大鳥居を見るたびに、どうも竹下登の実施した「ふるさと創生事業」を思い出してしまうのである。全国市町村一律に1億円を配分した、とんでもないバラマキ政策は、1億円の使い道に困った市町村に次々と奇妙な日本一を作らせた。「日本一長いすべり台」や「日本一大きい水車」「日本一大きい天狗面」などなど、ほとんど意味のない日本一が、一気に日本を埋め尽くした。 
   いや、間違えないでほしい。 
   靖国神社が国家神道の中心的な役割を果たし、戦争遂行に利用されてきた事実を否定するつもりはないのだ。ただ善し悪しは別にして、イデオロギーと別の論理が働いているように見える部分があることを、指摘したいのである。 
   一方で、もう1つ確かなこともある。大きくて、権威的で靖国神社の象徴ともなっている大鳥居は、イデオロギーと完全に切り離しては論じられない、という事実だ。 
   今年の御霊祭りに合わせ、遊蹴館も新装オープンした。明治42年に出された遊蹴館の意見書に、「教育上の資料に供せんとするに外ならす」と書かれた伝統を担い続けているのだろう。目に鮮やかな黄色の制服を着たコンパニオンが配置されるようになっても、やはり展示は日本の正当性を主張し続けている。 
   戦闘中のいたしかたない死どころか、生きる可能性を投げ捨て、「国のため」と死んでいった人々の礼賛のオンパレード。どんなに惨めでも、生き延びてこそ社会のためになるという発想自体、この資料館では異端らしい。 
   来館者が意見を寄せている雑記帳には、「英霊の写真を見ても虐殺に加わってとは思えない」、「正しい歴史を学べた」、などの記述があった。教育は成功しているようだ。 
   どんなに大きな鳥居を造っても、九段坂上が浅草仲店のように賑わうことは、もうあるまい。100年以上に渡ってイデオロギーを加え、国家神道の象徴として歩んできた歴史が、あらゆる建造物に意味を与えてしまう。だから多くの人の足は向かない。 
   明治時代のサーカスと似た催しが、復活することもないだろう。人を笑わせていた空間が、泣き・叫ぶ空間に変化した事実は重い。鳥居の片隅に、そんな空間を見てしまったからこそ、もったいなく感じてしまう。 
   そして8月15日。 
   靖国は怒号と主張が飛び交うだけのイデオロギーの空間となる……。 (■つづく)

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靖国を歩く/第6回 靖国の桜と気象庁(『記録』編集部)

■月刊『記録』02年5月号掲載記事

       *        *        *

 今年の3月16日、28年間の観測史上もっとも早い桜の開花が宣言された。気象庁の職員が靖国神社にある3本のソメイヨシノを調査し、東京における桜の開花時期が決まる。 
   じつは気象庁がデータをとり続けている植物は、桜だけではない。梅、椿、サルスベリやあじさいなどの開花も調べているし、かえでの紅葉やいちょうの発芽も観測対象となっている。驚いたことに、ウグイスの初鳴きやシオカラトンボを初めて見つけた日なども記録に付けているという。 
   この東京管区気象台が観測している14種類の植物で、気象庁敷地内以外でデータを収集しているのは、わずかに3つ。桜、いちょう、しだれ柳、である。だが、いちょうとしだれ柳の観測地は、気象庁の敷地から一本通りを隔てた清麿公園だ。なぜ桜の観測地だけが、直線距離にして1.6キロも離れた靖国神社なのだろうか? 昆虫や鳥でさえ、気象庁のある大手町周辺で観察しているというのに。 
   怪しい! そう考えたくもなるだろう。気象庁近くの桜など山ほどある。清麿公園の200メートル先には、見事な桜の植わった平川門があり、そこから皇居東御苑に入れば、まさに桜の宝庫。
   「開花の基準となる標準木が、どうして靖国神社の桜となったかは、残念ながら記録がありません。桜の観測も、1990年に本庁から東京管区気象台に管轄が移ったりしていますので……」 
   東京管区気象台の担当者は、こう答えた。 
   そもそもこの担当者によれば、53年の観測当初、どこの桜が標準木だったのかもハッキリしないという。靖国神社の桜を標準木にしたという記録が残っているのも、66年からである。
   「記憶が定かではありませんが、昭和39年(1964)ごろ庁舎の建て替えがあったので、もしかすると何か関係があるのかもしれません」 
   当初、気象庁敷地内にあった桜の標準木が庁舎の建設とともに伐られ、靖国神社に引き継がれたとしても何ら不思議はない。ただし裏付ける証拠はない。 
   インターネットには、各公園や名所の開花日を平均してみたら靖国神社の開花時期に近かったので標準木に採用した、という話も紹介されていた。しかし、この出典も明らかではない。

■生と結びついた桜 

   靖国神社の桜は、特別な意味を持つ。敗戦を翌年に控えた44年には、「死んでも靖国の桜となって会おう」と歌い上げた『同期の桜』がヒットした。また、靖国神社の桜の多くは、部隊名と連絡先の書かれた札が縛りつけられている。生き残った戦友が連絡を取り合えるように考えられたものだろう。軍国主義に利用され、戦争で死んでいった人や残された人の思いと密接に結びついているのが「靖国の桜」である。どんな理由であれ、わざわざ標準木にしなくても、と正直思っていた。満開の靖国神社を訪ねるまでは。 
   桜が満開になる数日間、境内は花見客に開放される。露天が並び、サラリーマンの笑い声が響く。 
   それは見事なまでの変化であった。五分咲きのころは戦争の暗い影を引きずっているように思われた桜の花が、宴会用の小道具へと変わっていた。戦時中、死と密接に結びついた桜も、露天商と酔っぱらいの熱気で生と結びついたようだった。 
   多くの国民が気象庁の開花宣言から思い浮かべるのは、花見だろう。ならば「靖国の桜」が標準木でも悪くない。そんなことを考えながら、満開となった靖国の桜を見物した。
(■つづく)

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靖国を歩く/ 第5回 訓練生を殺した特攻兵器(『記録』編集部)

■月刊『記録』02年4月号掲載記事

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 その写真を見たとき、思い出したのはオウム真理教だった。呆れて笑ってしまうほど無謀な計画なのに、なぜか技術は高水準。そのアンバランスさが、ずっと頭から離れなかった。 
   酸素ボンベを背負い、全身を覆う潜水服を身につけ、ひっくり返したバケツに丸窓を付けたようなマスクを被り、先に茶筒のような爆弾を取り付けた竹竿を握りしめ、その模型は右足を一歩前に踏み出していた。前回紹介した「かく戦えり。近代日本」展に出品された写真である。
   「五式撃雷を竹竿の先に装着して、海中から的の上陸用船艇を攻撃する特攻作戦も案出された。実戦にいたるまでに、訓練中の殉職者が多数生じた」と説明が添えられていた。 
   伏龍特攻隊。上陸したら無敵のM4戦車を、水際でくい止める秘密兵器であった。しかし、どうしてこんな発想が生まれたのだろうか? 全長5メートルもの竹竿を、高速で通過する船艇にどうやって突き刺すつもりだったのだろう。しかもこの撃雷、爆発したら数十メートル四方の隊員を吹っ飛ばす代物だ。安全に隊員を配置するためには(そもそも特攻なのだが……)、互いに50メートルの間隔が必要だったという。そんな離れて海中に並んでも、伏龍の上を敵船が通過する可能性は極端に低い。しかも潜んでいることがわかれば、敵は上陸前に機雷をばらまいてくる。戦うことなく全滅である。 
   また、この潜水装置が、人間のことなどおかまいなしの“スグレモノ”なのである。吐き出した二酸化炭素を苛性ソーダに吸引させ呼気を再利用するシステムは、あぶくも出さず、長時間の潜水も可能にした。当時の海軍が「海上ヨリノ送気装置ヲ要セズ無気泡ニシテ隠密性大ナリ」と評したのも頷ける。 
   ところが「鼻から酸素を吸い、口から呼気を吐く」という決まりを破り、数回鼻だけで呼吸をしようものなら、隊員はたちまち二酸化炭素中毒にかかってしまう。しかも空気清浄に利用している苛性ソーダは、劇薬物である。皮膚への腐食性があり、体に付けば高アルカリがやけどのように皮膚を破壊する。また水にも激しく反応し高温の化学反応まで引き起こす。 
   もう想像いただけただろうか? 訓練中、多くの兵士は呼吸を間違えて二酸化炭素中毒に倒れ、あるいは苛性ソーダを収めている缶に海水が入り込み、体内を焼けただれさせて死んでいったのだ。 
   当時、重要軍事秘密だった伏龍については、訓練中の死亡についても正式な記録がない。伏龍の元隊員が執念で資料をかき集めて発行した『海軍伏龍特攻隊』(光人社)にも、「3~4日に1~2人、時に2、3人」が病院に運ばれてきたという関係者のコメントを掲載している程度である。 
   結局、実戦投入されなかったものの、この作戦の悲惨さは特攻でも群を抜いている。考えてみてほしい。爆弾の付いた竹竿を抱え、苛性ソーダの逆流に怯えながら、海底で数時間も死を待つ気分を。朝の上陸に備え、潜るのは夜であろう。聞こえるのは、自分の呼吸音だけ。重力すら感じない。長時間、感覚を遮断されると、人は幻覚や強度の不安に陥るという。これは立派な拷問である。 
   結局、実行部隊の苦労など、誰も考えていなかった。人を大事にしない愛国って、いったいなんだろうか?  (■つづく)

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靖国を歩く/第4回 都合よい死にざまの列挙(『記録』編集部)

■月刊『記録』02年3月号掲載記事

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 奇妙な熱気だった。 
   軽く眺めるだけなら、せいぜい10分で終わってしまうほどの狭い展示場。5~6人しかいない入館者。聞こえてくるのは、館内で流しているビデオのナレーションだけ。ただ入館者の眼差しが違った。 

   遊就館特別展「かく戦えり。近代日本」は、昨年5月に始まった。戦争関連の品物を大量に置いてある遊就館が増改修工事のため閉鎖となり、いわば“つなぎ”としてこの展覧会が開かれている。 
   私が最初に立ち止まったのは、日清戦争のコーナーに置かれた1着の軍服だった。2つに折り畳まれた上着の肩、胸に、直径3センチほどの穴が見えた。艦砲射撃の跡だという。血なのか、それとも長い歳月によるものなのか、穴の周りの生地が変色していた。そう気付いた途端、名前も知らぬ一軍人の最期が軍服を通してリアルに甦った。歴史からいきなり飛びだしてきた生身の死であった。 
   この軍服を皮切りに、私は大量の「死」と直面することになる。日露戦争、満州事変、支那事変、大東亜戦争などの各コーナーで、兵士の死にざまが紹介され、死の決意を綴った遺書や遺影をつきつけられる。

   「作江、北川、江下等三伍長(当時一等兵)は破壊筒に点火して、これを抱いて鉄条網に突入自爆粉砕した。これによって味方軍は突破口を得て進撃し、廟巻鎮の一角を占領することができた」 
   満州事変コーナーで写真が掲げられた「肉弾三勇士」の解説である。 
   サイパン島で指揮をとった南雲忠一の遺影には、「『我玉砕ヲ以テ太平洋ノ防波堤タラントス』と決別電を発して守備隊とともに総攻撃をかけた。玉砕の翌八日に指揮所で自決」と書かれていた。 
   大東亜戦争内にある特攻の展示には、もっとむごい話が続く。 
   特攻に向かう少年飛行兵の精神訓練を担当し、自身も特攻に志願した藤井一の写真には、次のように書かれていた。
   「妻子があり操縦士でなかったため、すぐには念願かなわず、部下の操縦する複座戦闘機に乗り込み特攻出撃した」 
   その藤井の横、赤ちゃんを抱いた妻の写真には、「夫の固い意志を知った福子夫人は、『私達がいては後顧の憂い。思う存分の活躍ができないでしょうから、一足お先に逝って待っています』と遺書を残し、二人の幼子と近くの荒川に入水自殺した」と説明されていた。
   「かく戦えり。近代日本」の展示場を埋め尽くしているのは、「戦い」ではない。「死」、それも都合のよい「死」であった。 

   ガダルカナル島の展示には、「壮烈な戦死を遂げた」とされる若林東一陸軍大尉の写真はあっても、食料の補給がなく、飢えとマラリアで大量に日本兵が死んだ事実には触れてない。ガダルカナル島で戦死した日本兵は1万2500人余り、一方の戦病死は4200人余りである。ちなみに対戦した米軍は戦死者1000人、餓死した兵士にいたっては1人もいない。それが事実である。
   「三週間の激戦のすえ、陸海軍守備隊四万一千人は最後まで敢闘して玉砕。在留邦人の一万人も最後まで米軍に投降することがなかった」と説明が付けられたのは、サイパン島の戦いだ。 

   しかしこの行動は、本当に「お国」のためだったのだろうか? 
   情報史を専門とする山本武利氏は、「(兵士の)自殺的攻撃、あるいは敵に追いつめられて逃げ場を失ったときの自殺は、同じ兵隊仲間が周辺にいて相互監視の状態のときになされることが多かった」(『日本兵捕虜は何をしゃべったか』文藝春秋)と、兵士の自殺を説明している。さらに米軍が作成した日本人捕虜の尋問調書を、次のように分析している。
   「(261人のうち)百六十六人が拷問や処刑を予想している。七五%の者は、拷問や処刑を恐れ、捕らえられるより自殺した方が、不名誉にも面目つぶれにもならないし、連合軍の手によって不愉快な目にあわずにすむと考えた」
   「二百二十五人の(捕虜)のうち九〇%以上が、むしろ両親らに死亡したと見られる方がよいと述べた。三百六人の約七〇%が日本に帰還する恐怖を語り、(中略)どこか知らない他の国に住みたいという」 

   反抗を許さない相互監視の目が作りあげた「玉砕」や「特攻」を、遊就館特別展はきれいに飾り付け、磨きあげている。都合の悪い事実を、すべて封印してである。 
   大儀のために死ぬのは、カッコよい。日常をコツコツと生きるより、何倍もカッコよく見えてしまう。だからこそドラマや小説になる。しかし、人は格好悪くたって生きなければならないのである。

   「守るべき人の為に自分の命を捨てるという事はなかなかできない事だと思いますが、それだけ純粋な人になりたいです」 
   入館者の感想が集められたノートに書かれた、この一文が忘れられない。刺さった小骨のように引っかり、私を不安な気持ちにさせる。 (■つづく)

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靖国を歩く/第3回 まんじゅう狂乱の夏(『記録』編集部)

■月刊『記録』02年1月号掲載記事

     *        *        *

   時は三国時代。『三国志』でも有名な知将・諸葛孔明に率いられた蜀の軍は、風雨で荒れ狂った河に帰路を阻まれる。地元の将である孟獲は「49人の生首を神に捧げなければ、川は治まらない」と進言。しかし天候が変われば川も静まると知っていた諸葛孔明は、羊や豚の肉を小麦粉の皮で包んだ料理を作らせ、人頭の代わりにお供えしたという。これこそ日本でもおなじみ「まんじゅう」の起源である。

さて、このまんじゅうが売れている。
  「親子3代、ここで商売をさせてもらっていますが、こんなにお土産が売れたのは初めてです」と、靖国神社の土産物屋の店員に言わせるのだからすごい。ヒット商品の名前は、「ガンバレ純ちゃん好景気まんじゅう」。そう、小泉純一郎首相にちなんだまんじゅうである。
  「(お菓子の)業者さんから、小泉さんのまんじゅうがあると聞いてね。私も小泉さんを嫌いじゃないし、試しに8月5日から置いたら売れたんですよ」 
   この「試し」が当たった。店主の杉浦克幸さんによれば、最高で1日で1080個を売った日もあったという。1箱800円とお土産として手頃な値段とはいえ、随分と売れたものだ。 
   1ケース18個が15分で売れ切れた。店頭に並んだ「純ちゃんまんじゅう」を、どっちが取ったかでお客が言い争いを始めた。日を改めて6回も買いに来たお客さんがいた、などなど。とにかくその狂乱ぶりは、すさまじいものだったらしい。このまんじゅうを製造したお菓子メーカー大藤の担当者でさえ、「商品の企画を立てたのは7月でしたが、ここまで売れるとは思っていませんでした」と予想外の売れ行きに驚いているほどである。 

では、なぜここまで売れたのか? 
当時の小泉内閣の支持率は、現在よりも0.2ポイント高い73.1パーセント(ニュースステーション調べ)。まんじゅうの1ヵ月前に売り出されたキーホルダーが好評により品切れになったことを考えれば、同じ小泉グッズが売れたこと自体、何の不思議もない。また味の評価も上々とのことで、商品力の勝利と言えなくもない。 

しかしである。
「ガンバレ純ちゃん好景気まんじゅう」は、東京を中心とした観光名所、例えば東京タワーや浅草の仲見世など約30ヵ所で売られていた。どこもそれなりに好評だったとはいえ、靖国神社ほど爆発的には売れなかったという。つまり靖国神社と小泉首相の組み合わせこそが、大ヒットの原因だったのである。

■繰り返された妥協 

   さて、ここで少し小泉首相と靖国参拝の流れを、簡単に確認しておきたい。 
   2001年4月、総裁選を前にした小泉氏は、靖国神社への公式参拝について「敬意と感謝の意を表すのは当然」と発言していた。当時は8月15日に参拝するのはもちろんのこと、「公式参拝」も肯定。それどころか憲法9条の改正にまで言及していた。小泉氏の勝利を誰も予想しないなか、過激な発言だけで存在感を示していた時期であった。 
   しかし「地滑り的勝利」で首相の座を射止めて以後、靖国問題は日を追うごとにおおごとになっていった。7月末には、田中真紀子外務大臣から「(首相は参拝に)行かないでいただきたい」と、意見までされている。今では考えられないことだが、ほんの5ヵ月前には田中外相から小泉首相に、まともな意見を述べることもあったのである。 

そして8月1日。変われば変わるものだ。「私は質問をされた時だけ答える。靖国参拝を強調したか? 一つも強調していない。公約ではない」と、これまでの発言を大きく訂正。5日には、諸外国からの批判を和らげるため、首相の歴史認識を示す「小泉談話」を発表する可能性があると、山崎拓幹事長が発言した。6日には「賛否両論あるが、虚心坦懐、熟慮している最中だ。いずれ結論を出さなければならないが、もう少し時間をいただきたい」と、強心臓でならした小泉首相が、公式参拝に慎重な姿勢をみせ始める。その一方で連立相手の公明党が求めた「8月15日以外の私的参拝」は、まだ抵抗しているとの報道もあった。 

7日、時とともに弱気な発言が目立つようになった小泉首相を刺激しようと、「小泉首相の靖国神社参拝を実現させる超党派国会議員有志の会」が結成される。この設立総会には、議員の代理を含め105人が集まった。現役国会議員からは、「外国から言われて(参拝を)やめるようなことがあってはならない」との声も挙がったという。 
   しかし11日、ついに小泉首相は15日の参拝を見送る方針を決める。与党の3人の幹事長が反対している上に、福田康夫官房長官も慎重な態度を示したことが大きかったそうだ。「どんな批判を受けようが必ず8月15日に参拝する」という発言は、完全に忘れられた。また同日、15日の参拝が見送られた場合に備えて、首相が献花料を支払い、13日から1週間の期間、首相名の花輪が靖国神社本殿に飾られることになった。 
   そして13日。いきなりの靖国への私的参拝が決行された。

■若者が靖国に戻ってきた!?  

   8月に入ってから、靖国神社は異様な雰囲気に包まれていたという。マスコミ各社の取材が繰り返され、賛成派と反対派が神社に押し掛けたからである。また首相の参拝問題が報道されたことによって、一般の参拝者も激増した。神社の発表によれば、参拝者数は昨年より7万人多い12万5000人。あまりの人の多さに、開門時間を午後8時まで1時間延長したほどの混雑ぶりだった。

「今年は参拝者が多かったですよ。いつもは15日だけですから。それが今年は8月に入ってからずっとでしょ。しかも例年と違って若い参拝者が目立ちました」と、土産物店の店員も語ってくれた。本誌編集部も靖国神社には近いが、観光バスのと右翼の宣伝カーの数は、確かに例年にないほど多かったと記憶している。 
   こうした熱気と対立陣営の緊迫感が漂う中、純ちゃんまんじゅうはテレビや新聞のネタとなり、各局・各紙で報道されたのである。 

土産物店の店員は言う。
  「マスコミは怖いなと思いましたよ。報道されて、一気にお客さんが押し寄せましたから」 
小泉首相が靖国神社を政治問題化させたことで、国民の関心が引き起こされ、さらに小泉人気とメディアの報道が政治問題をバラエティー化させた。だからこそ、タレントショップの商品と同じように、多くの参拝者が純ちゃんまんじゅうを購入し、いままで靖国神社に見向きもしなかった若い世代が参拝に来たのではないか。メディアの露出に長けた小泉首相の出現が、眠っていた愛国心をたたき起こしたといえよう。 
   靖国神社は右傾化する「魅力」に満ちた場所であるらしい。土産店にも「必勝」と書かれた日の丸ハチマキや、菊の御紋のついたグッズなどが並んでいる。驚いたことには、菊の御紋輝く金のタイピンなどはかなりの人気商品だという。ファッション的には、なかなかネクタイと合わせにくい代物だと思うのだが、店によれば「右翼っぽくない、普通の方がけっこう買っていきますよ」とのことである。 

 ちなみに、今、もっとも売れ筋のお土産は、「徳仁親王殿下 おめでとうございます 雅子様 雅子皇太子妃」と書かれた内親王誕生記念まんじゅうである。 
   だからこそ7万人という参拝者の増加に戸惑ってしまう。ある種の熱気のなかで見ると、前回取り上げた九六式15インチ榴弾砲の話などは、どう映るのだろうか? 
   人命を救うために考え出されたまんじゅう。しかしアフガニスタンへの派兵などを見ている限り、今回のまんじゅうに描かれた人物が、平和のために活躍するとは思えない。まんじゅうの代わりに人頭を差し出す時代が来ないとは言い切れるだろうか?

 小泉首相の顔が焼き付けられた純ちゃんまんじゅうをつまみながらこの原稿を書いた。どこにでもありそうなまんじゅうだったが、なかなか美味しく、ついつい4つも食べてしまった。案の定、気持ちが悪い。(本当です)
  「甘い」小泉に気をつけろとの警告か? 不景気ばかりか、こんなところでも小泉から攻撃を食らうとは……。  (■つづく)

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靖国を歩く/第2回 各人に眠る「軍人精神」の魔力(『記録』編集部)

■月刊『記録』01年12月号掲載記事

   *        *        *

 陽が傾くとともに、家路に向かう近隣の高校生や中学生が参道に目立ち始める。セーラー服姿の地味な女子中学生に混じって歩くばっちりメイクの女子高生を、大鳥居そびえ立つ靖国神社で見るのが好きだ。「やっぱー、ダサクナイ?」などという歓声を聞くと、無条件に平和を感じる。 
   しかし神門をくぐり、武器が並ぶ野外展示場まで来ると、そこはもう別世界。もちろん女子高生もいない。
 九六式15センチ榴弾砲に添えられた看板には、「沖縄県糸満町真壁の陣地に據りて善戦し最後に全弾射ち盡し迫り来る戦車群に肉弾攻撃を敢行玉砕す」と書かれていた。 
   なるほど立ち止まって眺めれば、大砲には弾痕が残っている。5ミリ以上はあろう鉄板2枚を貫く直径15センチほどの穴から、黒い地面が覗く。穴の周りの鉄板は、飴細工のように引き伸ばされ引きちぎられている。砲手がいれば1メートルにも満たない距離での着弾である。助かるはずもない。人間を殺した爪跡が、55年もの歳月を超えて目前に迫ってきた。

■精神主義の追求、そして失敗

  「六屯牽引車による迅速な機動力と最大射程一一、九〇〇米に達する正確にして巨大なる火力に国軍砲兵の華にして、その戦績はノモンハン事件、満州国黒河省神武屯国境警備、比島作戦等幾多の戦場に赫々たる武勲を奉す」と、大砲の横に置かれた碑には書いてある。しかしこの大砲で戦った野戦重砲兵第一連隊の運命は、悲惨の一言である。 
   牛島康充著の『ノモンハン全戦史』によれば、確かにこの部隊に対する期待は高かったようだ。「野戦重砲第一連隊と第七連隊という日本では最新式の自動車編成による虎の子部隊を派遣するものであって、砲兵団の見解によれば、三時間でソ蒙軍砲兵は撃滅され、射撃目標はなくなってしまうと自負していた」と書かれている。 
   しかし結果はまるで違った。崖の影に隠れた敵には、ほとんど損害を与えられなかったばかりか、敵に雨あられの砲弾を浴びせられ、その後に玉砕。
  「全弾を射ち盡し火砲を自爆、敵戦車群に決死の肉薄攻撃を敢行、火砲と運命を倶にせり」と、靖国神社の碑には書かれているが、戦車に肉弾戦を挑むなど狂気の沙汰。戦いというより自殺行為そのものだった。 
   日本軍の研究として書として名高い『失敗の本質』によれば、ノモンハン事件の砲兵戦は「ソ連軍に比較して火砲数、とくに弾薬量が少なく、また火砲自体の性能も劣っていた。さらに敵情の捜索、観測を十分に行わずに実施した攻撃が失敗するのは当然」の結果であったという。しかも悪いことに、「戦場では過度に精神主義が誇張された」。 
   戦力不足を精神主義で補おうとして失敗。そのまま精神主義を貫こうとして玉砕。ノモンハン事件のころから、このような悪循環は始まっていたのである。もちろん選局が悪化すればするほど、精神主義は強くなっていった。 
   事件直後に軍部が設置した「ノモンハン事件研究委員会」では、「物的戦力の優勢な敵に対して勝利を収めるには、日本軍伝統の精神威力をますます拡充すべきである」(『失敗の本質』)という討議結果も出されたという。第2次ノモンハン事件だけで1万8000人もの人が死んだ大失敗の結論がこれでは、死んだ兵士も浮かばれまい。 
   6年後、この反省のなさが野戦重砲第一連隊を再び悲劇に陥れる。場所は沖縄だった。靖国神社の碑から紹介しよう。
  「遂に全弾を撃ち尽くすや迫り来る敵戦車の火焔攻撃に全員最後の切り込みを決行す。時に昭和二〇年六月二二日、聯隊長山根忠大佐以下七三九柱の将校逝く。神国日本の永遠の平和と繁栄を祈願しつつ靖国悠久の大儀に殉じ、火砲と運命を具にし玉砕せり」 
   当時、米軍との物量差はどうしようもないまでに広がっていた。1発打てば、1000発返ってくるという状況で戦っていたのである。しかも当時の野戦重砲第一連隊には、旧制中学の学生を「鉄血勤皇隊」として徴集し、医務室や炊事班で働かせていた。勝ち目のない戦に子どもまで動員し、最後に玉砕。 
   だが、この狂気のような悲劇が起こった状況を、僕は理解できる。 
   それが怖い。 
   胸の奥でカチリと歯車が回り、普段は眠っている感情が目を覚ました。玉砕に突き進む兵士に、わずかながらもシンパシーを感じてしまった。学生時代、部活で精神主義的な練習に夢中に取り組んだ経験や、赤穂浪士の映画で描かれる桜吹雪の自決場面での感動に、通じるところがあるのかもしれない。 
   理不尽な要求に従って組織の一員になる安心感や死を美化する意識は、多くの日本人が持っている。そんなバカなと思うかもしれない。しかし周りを見渡してみてもらいたい。旧日本軍の生き残りのような人が、いくらでもいる。
  「気合いが足りないから売れないんだろう」と、飛び込み営業を指揮していた営業マンを僕は知っている。そんな組織に愛想を尽かしつつも会社を辞められなかった人も思い出した。
  「日本軍はある意味において、たえず自己超越を強いた組織であった。それは、主体的というよりは、そうせざるをえないように追い込まれた結果であることが多かった。往々にして、その自己超越は、合理性を超えた精神主義に求められた。そのような精神主義的極限追求は、そもそも初めからできないことがわかっていたものであって、創造的破壊につながるようなものではなかったのである」(『失敗の本質』) 
   合理的な結果を認めなくていいという点では、「自己超越」を強いる組織も便利なものである。「そうせざるをえないように追い込まれれば」、しだいに何も考えないようになり、楽になってくる。
  『ノモンハン全戦史』には、「これらの攻撃(自殺的攻撃)は、命令する者は語るまでもなく、命令された者も、命令されたから仕方なく実行したといようなものではない」と分析している。 
   もちろん玉砕に抵抗感のあった人もいたであろう。実際、『玉砕しなかった兵士の手記』(横田正平著)には、玉砕を覚悟したときの心境が次のようにつづられている。
   「僕が死をやむをえないことだと考えていたのは、家族のためであった。僕のためを思ってくれている、僕にとって大事な人たちのためだった。彼らも僕を縛りつけている国に、社会に縛られている。その人たちが、その国で、その社会で抵抗を少なくしてゆくためには、そこの掟に、風習に順応しなければならない。その掟と風習は、ここまできた僕に死を要求していた。だから僕は死ななければならなかった。――その好きな人たちのために」 
   しかし筆者は、当時としては珍しく「軍人精神」がなかったと人物だったと本人も認めている。ここまで冷静に考えることなく、死を強制されたとさえ思い及ばず、ある種の興奮状態で玉砕していった人たち少なくなかったに違いない。 
   だからこそ煽っちゃいかん、と思うのである。
  「神国日本の永遠の平和と繁栄を祈願しつつ靖国悠久の大儀に殉じ、火砲と運命を具にし玉砕せり」などと、大砲と兵士の死を格好よく謳いあげれば、各人に眠る「軍人精神」がそぞろ動きだしかねない。 
   本当に平和を祈願するなら、ソ連軍など3分の1の兵力で壊滅できると、理由のない自信で関東軍がノモンハン事件に突入していったこと。あるいは野戦重砲兵第一連隊が駐屯した沖縄県糸満町真壁近辺でも、防空壕で泣き出した赤ん坊を兵士が殺したというような事件が起こっていることも、同時に書き記すべきだろう。 
   碑に書いてあるほど、この野戦重砲が大活躍したわけでもなく、格好よく玉砕したわけでもない。

 ■書き写していると怖くなる 

 最初、九六式15センチ榴弾砲の碑を読んだとき、そのアジテーションぶりがおかしかった。しかし座り込んで碑の文章を書き写していると、だんだん怖くなってきた。都合の悪い事実を削っていることもあり、書かれている歴史が心地よく感じたからだ。結末が悲惨なのにである。時代が時代なら、けっこう先頭走って戦ったかもしれない。少なくとも同じ世代の男には、そんな人が多いのではないか。みんな見事に会社人間になっているし……。 
   ギャル系の女子高生なら、こんな碑を読んだところで、「え~、そんな人生つまんないじゃん。ヤバイよ。なんかダサクない?」と頭ごなしに否定くれるかも。そんな思いが、ふっと頭をかすめた。  (■つづく)

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靖国を歩く/第1回 巨大な筒に首を突っ込んで(『記録』編集部)

■月刊『記録』01年11月号掲載記事

        *        *        *

 今年8月、小泉首相の公式参拝によって、靖国神社は揺れに揺れた。結局、「8月15日にいかなる批判があろうとも必ずする」と語っていた首相は、13日に急遽参拝。公式参拝だったのかどうかを明らかにすることもなく、うやむやにコトを収めたようだ。しかし中国や韓国は、この参拝に強く抗議し続けている。おそらく来年の8月も、靖国参拝は大きな政治問題になるだろう。
 ところで、そんなに小泉首相が行きたい靖国神社が、どんなところだか皆さんは知っているだろうか? 多くの『記録』読者は、あのバカでかい大鳥居をくぐった経験は、ないのではあるまいか。
 かくいう私も行ったことがない。編集部から歩いて5分ほどの距離なのにである。いやじつのところ、政治的な意思を持って行かなかったわけではない。
 毎年、御霊祭りになると、浴衣姿のお姉さんが九段下周辺に大量出没し、浴衣フェチの私は大興奮していたのが、お祭りのベストタイム(6~7時)は編集部が最も活気づいている時間と重なる。そのため浴衣見学に靖国に行く時間などなかったのである。また、靖国神社内にある遊就館には他で見られない代物が並んでいるとも友人から聞いていたのだが、わざわざ見に行こうとも思わなかった。今年の8月には、小泉首相の公式参拝に合わせて取材にでも行こうかと思っていたら、テレビで首相の参拝が終わったことを告げられた。つまり出向くチャンスが、とんとなかったわけだ。
 しかし今回、「靖国行けば何か書くことあんだろ。近いんだから行ってこい」という指令が編集長より下され、来年の夏に向け、他誌に先駆けて靖国神社の情報をお伝えすることとなった。
 で、「回天」である。
 その巨大下水道管のごとき筒は、戦没馬慰霊像という馬の銅像ほど近くにある。直径1.35メートル。完全な形で展示してあれば、全長16.5メートルもあるそうだが、そこに展示されていたのは「スクラップ化寸前に回天生存者より発見、奉納された」もので、およそ7~8メートルといったところだろうか。
 この訳のわからない筒が、いきなり凄みをもって迫ってきたのは、筒の横に添えられた説明文を読んでからだ。
  「回天(人間魚雷)四型胴体」
 そう、海の特攻隊、人間魚雷の一部であった。よく見れば筒の上部、ハッチを取り付けてあったはずの場所には、人1人がやっと通り抜けられる程度の穴が空いている。その穴をくぐり、ハッチを閉められたなら、2度と開くことはない。潜望鏡を覗き、敵艦に向かって真っ直ぐに突き進むだけだ。
 回天は、93式魚雷を改造したものである。追尾システムとして人間を搭載した魚雷ということになるだろうか。それでも試作の段階では、操縦士の脱出装置も考えられていたというが、兵器の性能が落ちることを理由に計画から消えた。
 少し日が傾きかけてから行ったこともあり、回天の中は暗かった。せっかくだから中で横になってみよかとも思ったのだが、人通りも多く、立ち入り禁止の柵もあったため、そこまではできなかった。そこで筒の先から首を入れて中を覗いてみた。気が狂いそうだ。閉所恐怖症なら5分といられないだろう。いや、押入れなど狭い場所に入り込むのが大好きで、むしろ大きな部屋などで落ち着かない貧乏性(本当に貧乏)の私でさえ、こんな中に10分とは耐えられない。
 とにかく直径1.35メートルという圧迫感がすごい。しかも実際の出撃となれば、私が立っていた場所には、1.55トンの炸薬が詰め込まれるのである。
 これは悲壮だ。空からの特攻だって十分にやりたくないが、潜水艦からそっと発射され、通信装置すらない魚雷を操って敵船に突入するのだけは絶対に嫌だ。回天に首を突っ込んでみればわかる。生理的な恐怖感ともいうべき何かを感じるのである。
 説明文によれば、「無気泡酸素魚雷利用の一方途として、海軍中尉黒木博司、同仁科関夫によって着想され、鋭意研究の結果、巨艦も一発で轟沈させる威力をもつ兵器となった」という。なんと106名の兵士が、この魚雷に乗り込んで亡くなっている。ほとんどが20前後の若者だったという。
 発射から爆発まで、各人が何を考えていたのかはわからない。ただ回天の機関は発動したら停止再起動が効かないため、心変わりなど許されない構造だったことは事実だ。
 たとえ英霊が靖国に帰ってきたとしても、自分を死に追いやった回天を見たいだろうか。少なくても戦後民主主義の中で育った私なら見たくない。黒い筒に首を突っ込みながら、漠然とそんなことを考えた。   (■つづく)

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首都高速道路500円通行の正義 第10回/警察ご招待で不払い開始

■月刊『記録』95年5月号

■若者が・・・・オッサンも・・・・

 日もとっぷり暮れた午後7時、大阪駅に着くと大阪の仲間がワンサカと待っていました。山口さんは写真すら見たこともないにもかかわらずひと目でわかりました。小柄な実直そうな青年で、旧知の友にやっと巡り会ったような素敵な笑顔を投げかけ、握手をした手から人柄がジワリと伝わってきます。
 真っ赤なハーレーにのってさっそうと表れた髭モジャは仲間の篠塚さん。1m90cmはあろうかと思われる大男で、小柄な私が見上げるようにして握手をすると、彼のグローブのような手の中で埋没してしまいました。トンボメガネの高橋さんは学者肌で、おおいにテレて握手を求めてきました。こうした総勢20人ほどの若者の出迎えから、私は天にも昇れるほどのエネルギーを感じたのです。
 そんな熱気ムンムンの中で、口髭のオッサンがチャップリンのような出で立ちでヌーッと顔を出し、「和合さんワテやワテや」と声をかけてきました。「ケッタイな野郎が出てきたもんだ。こんなオッサン、ワシャ知らん」。よく聞くと大阪のマスコミ界で知る人ぞ知る政経新聞発行人・青木さん。この大変な私が大変な人と断言するほど大変な人です。何でも公団のアホ奴等と大立ち回りの最中に取材で私と会ったとのことですが、失礼ながら記憶にありませんでした。「わしゃフリーウェイクラブ関西のマスコミ担当や」と自分の役柄を勝手に決めて悦に入っています。

■郷に入らば郷に従え

 青木さん出現で発会式はが然面白くなってきました。明日の打ち合せのために、青木さんの手配でホテルの一室が用意されます。
 まずこれまでのテレビ放送になった数々の名場面・珍場面のビデオ鑑賞からスタート。「ここ車の窓にぶら下がっている野郎がいるだろう。こいつがしつこい、こいつさえいなければ500円で通るのに5分で済む。考えてみるとなかなか天晴れな野郎だ」「ここでバンバーを蹴飛ばしている野郎はニコニコ笑っているだろう?本当は私のファンなのだが、仕事上仕方なく蹴飛ばしているんだ」などと口やかましくフリーウエイクラブ会長の解説が入ります。打ち合せは今夜限りなので、2時間ブッ通しで午後10時までやりました。
 新会員の面々はビックリ顔で食い入るように500円通行の様子を見ています。それがが違法な行動でもなく、したがって警察には全く関係のない行動であると徐々に理解してきました。新鮮な驚きと興奮で部屋中が充満しています。
 ビデオ終了後、まず山口さんが、「よしやろう。今夜中に旧料金通行宣言書を作る。明日は手分けをしてなるべく人数を集めて欲しい」と静かに口火を切ると、「俺に任せろ。今夜中に電話をかけまくって集める」と篠塚さんが乱暴に言い切ります。そして山口さんを関西支部長として行動を共にすると決議しました。
 変人青木氏も興奮して、「とにかく、みんなで協力しあっていかなければならない。それでなければ日本はよくならない。これは世直しである」と言うから、「そんなたいそうなことではないよ。500円のところを450円で通るというケチな話をみんなでやろうというだけだ。だから明るく楽しく遊び感覚でやろう。使命感とか非壮感を持ってはダメだ。みんなもよく肝に命じて欲しい」と私が口をはさめば、「わかった。とにかくマスコミ対策は私に任せて欲しい。会長はん、よろしいでしゃっろ」と応じます。
 彼のニコニコ顔にいやな予感を感じましたが、郷に入れば郷に従え、大阪のことは大阪の人たちに任せようと決めました。翌日午前10時にホテルのコーヒーショップで集合と決まって散会。

■無料通行はいつから?

 明けて4月1日です。発会がエイプリルフールとは何かの巡り合わせか、今日はどんな日になるのかとワクワクしながら約束の時間に顔を出すと、「ひどいじゃないですか和合さん。私に内緒でこういうことをやってもらっては困ります。噂を聞いて一番の新幹線で来ました。和合さんが何といっても今日はご一緒させて戴きますよ」と怒っている人がいる。よく見ると吉田勉さんです。
 私と違って非常に折り目正しい優等生で、長年某代議士の秘書を経験してきたので永田町界隈に詳しく、政治家にも知り合いが多く重宝しています。東京町田市議に立候補するのことで、迷惑と思って声をかけなかったのですが、スポークスマンには最適の人物です。ちなみに彼は2回目の選挙で目出たく当選しました。
 何はともあれ粒ぞろいの東京勢が5人そろいました。「朝の5時頃には大阪に着いてしまったので、今まで車の中で仮眠をとっていたのです」と張り切る田中健さんは、「ところで和合さん、大阪までの有料道路を全て無料で通ってきました」などと驚かせる。
「トラブルは何もありません。それぞれのゲートで、本来道路は無料と道路法にも定められており、ガソリン税・重量税で道路は建設するのが基本であり、現在の特別措置法は敗戦後の復興のためで、使命を終えた今日は廃止すべきだと、有料道路制度のデタラメさを説いてきました。ご心配なく。フリーウエイクラブの通行宣言書はキチンと提示してきました」と勇ましい。
 さらに、「特別措置法に反対しての無料通行宣言はいつ頃ですか?本当に待ち遠しい」などと言うから、和合会長はアングリと口を開けて聞き入るばかり。さすが勉強家のケンさんの話には道筋に少しの間違いがなく頼もしい限り。ちなみに、この時の無料通行の件で公団からはいまだ何の連絡もありません。

■事件は大きい方が面白いでっせ

 ヒョイと見ると一群の人だかり。山口さんが記者会見をしているのです。テレビカメラも回してのなかなか大ががりな会見で、フリーウエイクラブ関西の発会式を阪神高速道路を旧料金通行することで行なう旨を話しています。その横で自称マスコミ担当の青木さんが最もらしくフムフムなどとやっています。彼の仕業に相違ありません。なかなかの舞台になってきました。
 いつの間にか私の横には野上さんや西山さんなど東京人が集ってきました。「こりゃあ面白くなってきましたね」と楽しそうな西山さんに対し野上さんは心配そうに、「ホテルの回りにパトカーがたくさんいます。私のカンでは、ここには私服の刑事が多くまぎれ込んでいます。まさか青木さんが連絡したのでは」などと小声で耳打ちします。私は「心配ないよ。これは民事で警察はタッチできないことは立証済み。警察は動かないよ、外のパトカーは別件だろう」と答えましたが一応青木さんに確認を取りました。
 イヤ、その時の青木さんの返答がふるっていた。「外のパトカーが関係あるかはわかりまへんけど、警察に連絡したのは事実だっせ。イヤイヤ事件は大きい方が面白いでっせ。で、何かあったんでっか」・・・・。口髭のオッサンは、何の悪気もなく腕白坊主みたいに目を輝かしています。ヤレヤレ。
 記者会見も終わったようです。出発の時間です。(■つづく)

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首都高速道路500円通行の正義 第9回/フリーウエイ関西の大旗揚げ

■月刊『記録』95年4月号

■崩壊して当たり前だ

 阪神大震災での阪神高速道路の崩壊は、改めて背筋の寒くなる思いがします。もし首都高だったらと瞬間に考えるからです。ゆえに公団からどんなコメントが出てくるかと、息をひそめていますが今だにノーコメント。さすが芸達者な連中も考えあぐねているようですが、ソッと耳をすましているとかすかに聞こえてきます。囁いているようなかすかな呟きが・・・・。
・・・・阪神高速道路は早急に復興させなければなりません。これは私たちが絶対にやらなければならない使命と考えています。昨今、特殊法人の整理統合が話題となっていますが、とんでもない。この地震で、わが阪神高速道路公団の重要性が立証されたのです・・・・。
 な、何だこれはッ!あなた達は、「日本の高速道路の崩壊は絶対にありません。日本の建設技術は世界水準を遥かに超えています」などと大ボラを吹いていたのですよ。「申し訳ありません」の一言もないどころか、恥知らずにも、手前の造った欠陥品が欠陥品と証明されたがゆえに、その修理のために存在価値があるなどという言いぐさは往生際が悪いにも程がある。こういう体質を「水みたいな野郎」という。ケツを拭く紙を流すトイレの水である。
 それにしても多くのマスコミが放映した高速道路崩壊写真は迫力十分でした。巨大な恐竜が永遠の眠りについて横たわっているかのようで、彼が起き上がることは絶対にないと瞬時に誰でも理解できました。絶対に倒れないと信じ、声を大にして叫んでもいました。自国の技術を誇るあまり、海の向こうのロス地震による高速道路崩壊も冷ややかな思いで受け止めていた感がありました。通行料金の高騰も安全神話ゆえに許していました。それがどうです、実にあっけなくもろくも崩壊してしまったのです。
 崩壊写真は私たちの心を正常に戻してくれたともいえます。安全などもってのほか、むしろ倒れるのが当たり前なのだ、と。
 考えてもみて下さい。1本足の橋げたで1000トン以上もある鉄とコンクリートの塊を、重心を取りながら長年支えていたのです。技術もヘッタクレもありません。よくぞ今まで無事でいられたものです。よくぞ今まで頑張ったものです。

■首都に負けない阪神のデタラメ

 首都高と同様に阪神でも、フリーウエイクラブを通してすばらしい仲間たちと多く出会いました。特に山口正善さんという大阪の若者と、彼のドラマは生涯忘れないでしょう。
 1988年4月1日、阪神高速道路が400円から450円に値上げをすると私に情報が入りました。たったの50円かと小さな数字のように思われますが、そうではありません。パーセンテージでは10%以上の大幅値上げなのです。
 当然の如く、山口さんら大阪の若者たちは大いに怒りました。とにかく怒りました。どうしてくれようか、と大いに怒り狂った後、これを形にしなければならない。彼は私に電話しました。
 私はその頃にはなかなかの有名人になっていました。500円通行で週刊ポストには24週間続けて連載されたり、NHK以外のすべてのテレビ局に出演し、初めて本を出版したりもしていたのです。思えば全て100円を払わないことにより発生した出来事で、何と価値ある100円かと不思議に思い、人間社会の思いもよらない仕組みを発見したのです。その仕組みが山口さんと私を強烈に結びつけました。「フリーウエイクラブ関西を作りたい」と。「阪神高速道路が値上げとなりますのや。どうしても納得出来しまへん。ぜひ大阪へ来てわてらと一緒に行動して欲しいんや」。
 生粋の関西人が、もの静かに大阪弁で話す声からヒシヒシとエネルギーが感じられ、初めて声を交わした相手とは思えません。「これは行かなければならない。全力を振り絞って協力しなければ」。

■猛者が4人集まった

 フリーウエイクラブは180人ほどの会員がいますが、全員が500円通行をしているわけではなく、カンパをしたり、仲間を集めたり、署名集めをしたりと、自分達のできる方法で参加すればOKです。当初は約50人が500円通行をやっていたのですが、すさまじい公団の頑強な抵抗で30人ほどに減ってしまいました。しかしうち15人は、絶対にアップ分は支払わないという500円通行の猛者連中です。その猛者連中から3人を厳選して、計4人が各々の仕事の都合に合わせて大阪に向かい、4月1日午前10時に阪神ホテルロビーで合流しすることにしました。その4人とは。
◎和合秀典・・・・ご存じ会長、今日も快調に飛ばします。人呼んでスーパーゴリラ。肩の上に顔が乗っかっているといわれます。
◎西山俊一・・・・出版社の社長さんで、中肉中背年齢不詳。見た目では若いのか年寄りかわかりません。40歳チョイ前くらいかなとも思いますが、55歳くらいにも見えます。お米を顔の大きさまで拡大してから少し上下に伸ばしたような顔の輪郭をしており、その頂点が見事なバーコードとなっています。体制に対しての反骨精神はハンパではなく、何処からそんなエネルギーが出るのだろうと思うばかりです。本稿が彼に見つからないことを祈るばかり。

◎田中健・・・・千葉大学生です。沈着冷静、かつ大胆でどんな時でも慌てません。常にわが道を行き、理論構成には感情論が入りません。事実を整理し、積み重ねる方法で全てを予測していきます。法律やその他、多方面にわたって大変な勉強家です。卒業したら学校の先生になるといっていましたが、昨今では地元の区議会に打って出るといっており、私も出来る時に出来ることは何でもやった方がいいと応援しています。一見、女性と見間違うような風貌で、値上げ反対などと街頭で叫んでいるとビックリする人もいます。ケンさんと呼ばれる将来楽しみな若者です。

◎野上務・・・・新聞記者出身のフリーライター、いわゆる物書きで、当時は全くの無名で苦労していました。彼のリズムカルな文体が好きで、いずれソコソコまではいくだろうと思っています。何しろ努力家で、有料道路の疑問点を書きまくり、今ではすっかりその分野のプロとなってしまいました。
 昨今は多少売れてきたようですが、彼のスタンスは全く変わらりません。正義感が強く、いつもニコニコしていてみんなに好かれます。どんな時でも彼の嫌な顔を見たことがありません。
 やはり反骨精神は旺盛で、政治の話などになると決して後へは引きません。これが同一人物なのかしらと思うほどエネルギッシュで、記者魂を忘れることは永遠にないだろうと思わせます。

 当日、ただ一人の自由人であるケンさんは私の愛車プレーリーに乗って大阪に入り、張本人の私は前夜に大阪へ入って山口さんとその仲間たちと打ち合わせをしました。そしてフリーウエイ関西は旗揚げしたのです。
 阪神高速道路の値上げ日にみんなで旧料金通行をやることをもってフリーウエイクラブ関西の発会とすることとしました。大したことではありませんが、一応先輩の私が手ほどきをするわけです。
 さあ、サイは投げられました。どんな事件が大阪で待っているのやら、もうワクワクしてきます。そして期待通りに大変な事件が勃発することとなります。同じ日本でありながら、大阪は外国だったのです。欠陥道路を平然と造った公団らしい対応が待ち構えていたわけです。(■つづく)

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首都高速道路500円通行の正義 第8回/3兆円借金=値上げ=地震で崩壊?

■月刊『記録』95年3月号掲載記事

■震災での高速道路崩壊は何だ!

 阪神大震災での高速道路の崩壊。ありゃ、なんだ!ロサンゼルス大地震で高速道路やビルが次々と崩壊した様を見て、首都高速道路の関係者は、「地震国日本の建設技術は世界の水準を遥かに超えており、関東大震災クラス(震度7)でも充分耐えます。高速道路の崩壊など日本では考えられません。そういう点も含めて建設費用が割高になっているわけで、その分を皆さんに負担してもらわなければなりません」とうそぶいていたものです。
 してみると、今回の阪神高速道路の崩壊は何としたことなのかッ!!何と説明するのかッ!!これだけ多大な犠牲をどうわびるのかッ!!大体誰がわびるのかッ!!償還の期限は守らない、通行料金は一方的に値上げする、借金は増える、その上に地震対策はデタラメと、嘘ばかりついた挙げ句、崩壊の事実に対してわびもしないし責任もとらない。都合が悪くなるとコメントもなしで黙りこくっている。
  まさか、「阪神高速道路はダメだったけれど首都高速道路は大丈夫」とでもいうのでしょうか。私は知っています。崩壊した阪神道より古く、崩壊した個所と同様の軟弱地盤の上に高架されている首都高がどれくらいあるかを。しかも首都高はビル群の中を縫って走っているという悪条件もある。いったんことが起これば、阪神大震災の比ではないでしょう。それで不足分200円払えだと?チャンチャラおかしくてヘソでお茶も沸かない。
 もし首都高が崩壊した場に居合わせても、私は絶対に死にません。橋げたが頭上に落下しようが、高架がすべり台になろうが、断固として生き残って、公団の責任を追及し続ける所存です。

■金利だけで1日約5億円の借金

 安全のためだといってカネを巻き上げ、危険なものを作って安全だと言い張り、いざ危険だと分かればほおかむりするなど、私達の日常生活と比較してみると、公団には驚くことが多々あり、特別な事件が彼らの世界ではごく普通の出来事のように処理されるのです。特にお金に関しては特筆すべき大変な世界です。
  今回は、その大変な世界へとご案内するわけですが、驚きのあまり動転しないで下さい、あくまでも心を平静に保ち、落ち着いて現実を見すえて下さい。そうすれば身体の奥底から湧いてくる、怒りにも似たエネルギーを必ず感じるはずです。
 心の準備はよろしいですね?それでは、ご案内いたします。
 首都公団には現在3兆円の借金があります。この巨額の借金が今回の値上の原因とのことです。極楽トンボもいい加減にして欲しい。借金が値上げの根拠となるのは、世界広しといえど首都公団だけ。我々の世界で同じ理由で給料アップを申し入れたら、「チミ、明日からとりあえず自宅待機してくれたまえ。後のことは追ってサタするよ」といわれるのが精々でしょう。
 それにしも3兆円とは。500円通行を始めた頃の借入金が1兆5千億円だったので、7年間で丁度倍となったわけで、金利だけで平均6%で年間1800億円となります。いいですか、元金は減らずに金利だけで1日平均4億9315万円・1時間で2054万円もの金が刻一刻と消えていきます。私がゲートのおじさんと「200円(200万円じゃない、200円ですぞ)下さい」「今日のところは500円で通してくれや」などとやり合っている間にです。
 ところが、公団の連中には「もったいない、何とかしなければ」などの思いは一切なく、ごく普通の日常的な出来事だと信じて疑いません。異次元の化け物屋敷の光景かと思いきや、驚くではありませんか、実は私達が維持しているのです。お待たせ致しました。次はその化け物屋敷へとご案内致します。なかなか味のある世界で、化け物屋敷の扉を次々と開いていくと、忘れられていた過去の事が、鮮やかによみがえってきます。

■最終的には私達の責任だ

  ようこそ、首都公団化け物屋敷へ。ここに足を踏み入れて、無事に帰還した者はおりません。私が全く特別な唯一の例外として洗脳されずに現在にいたっております。洗脳を逃れる手法は、お上願望をゼロにすることです。「そんな願望は私にあるわけがない」と思うかもしれませんが、日本にはお上に絶対服従してきた士農工商300年の歴史があり、それが無意識に現代人にも組み込まれています。そして、「どんな不合理なことでも行政側が決定したことは守らなければならない」という思考の原点となっているのです。
 お上側もよく心得ていて、どんなことでも決めてしまえばこっちのものであり、多少の混乱があっても時間経過とともに最終的には浸透していく国民性と見抜いています。彼らの意識もまた、長い歴史の中で培われた本能のように存在している思考なのです。
 この例え話には苦労しません。日本中の全ての人々が反対し、絶対反対の旋風が日本中に吹き荒れた消費税に対して、「月日とともに定着しました」などと役人がまず切り出し、次いでテレビなどが、「始めは面倒だったけれど今はお買い物も慣れました」なんてオバタリアンのヘンテコなコメントを報道していたかと思っていたら、今度はそれを引き上げようというのです。
「来たるべき老人社会の準備をしなければならない、誰でも老人になる事は避けられないのです」と道徳教育みたいな意味不明の理屈がまかり通り、税率アップに反対する人は人間じゃないとでもいわんばかり。強烈な反対パワーも今回は感じられません。一体、私達が選挙で選んだ政治家諸子は何をやっているのか・・・・。
 さあ、よく考えて下さい。金銭的なものも含めた全ての事柄が、私達の責任においてなされているという、ごく当たり前の事実を新鮮な驚きをもって発見できませんか。首都公団がどんなに赤字を出そうと、ムダ遣いでお金をばらまこうと、最終的には私達の責任において成り立っているのです。公団は、最終責任者である私達に対して通行料金値上げを説明なしに繰り返してきました。あったとしても、非常に馬鹿げた説明でした。連中は私達をおとなしい羊の群れとでも思っているのでしょうか。
■首都公団化け物屋敷の妖怪達

 首都公団の諸君、7年前を覚えているかね。そうだ、通行料金が500円から600円になった時の事だよ。あの時は2年8ヶ月の間に、何と50%の大幅値上げだった。これが大騒ぎの理由だ。それからだ!「ふざけるなッ!」と旧料金の500通行が始まった。少なくとも私は羊をやめることにしたのだ。
 通行阻止のための諸君の説得や話し合いは全く人を馬鹿にしたものだった。君たちは、ありとあらゆることを私にやってきた。なだめすかしたり、脅したり、哀願したり、数を頼んでの暴力も長期間に及んだものだ。このクソ忙しいのに4人1組の説得団が数回にわたって会社にまでやってきて、ホトホト困ったものである。しかも3時間にもなろうかという説得たるや、とても大の大人が議論をかわす内容ではなかった。
  曰く、「決まったことだから払いなさい」。
  曰く、「こんなことをしていると大変なことになりますよ」。
  曰く、「500円で通るのは立派な犯罪です」。
  曰く、「何でお前はダメだということをやるんだ」。
 極めつけは当時の役職が首都高速道路公団管理部経済課長というわけのわからない肩書を持つ、園田八郎氏の説得だろう。「和合さん安心して下さい。首都高は30年後に無料開放となります。法律できちんと決められていることです。その年は1993年です。だから安心して下さい。というわけで、今は600円を払って下さい。ここは600円と決められたのです」というから、「本当に無料となるのかい?」と聞き返すと、「ええ、法律でキチンと決まっているから大丈夫です」と断言する。「ホンマかいな」とは思っても、何の知識もなかった当時は大いに驚きました。やはり行政はたいしたものだと感謝もし、感銘もした。
 が、幸福な時間は瞬時に終わった。計算が合わないのだ。「では園田さん、1兆7000億円(当時)の借金はどうなるの。最後の年に1回10万円の通行料金となるよ」と質問した瞬間、園田氏の立て板に水のしゃべりが、途端にしどろもどろとなってしまった。「それは・・・・そのあの・・・・法律で・・・・決められているからその・・・・」。
 当時はあまりの馬鹿らしさと怒りのために口から胃袋が出てきてしまうのではないかと思ったくらいであった。
 それから長い時間が経過し、今は首都公団のどこにいるのかはわからない園田さんだけれど、最近になって君のキャラクターを妙に懐かしく思い出します。これは何か縁があるのです。君も必ず懐かしがっているに違いありません。きっと私に会いたいはずです。ましてや、こうして当時の出来事が「記録」の活字となってしまうと君も大いに不服であろうし不満もあろうかと思う。いつでも連絡を下さい。とにかく話を聞こうじゃあないか。昔の友好を大いに温めようではありませんか。楽しみに待っています・・・・

■首都高は公団の玩具ではない

  こけにするのも好い加減にしろッ!
 幼稚園児でもあるまいし、こんな理由で当時の20%、今回を合わせると40%の値上げの説明がつくわけがないだろう。この化け物屋敷こそ、年間3000億円もの通行料金を徴収する首都高速道路公団なのです。考えただけでも恐ろしい、しかし、厳然と存在している事実です。首都高速は、彼らの生活目的で存在するのではなく、まして彼らの玩具ではない。全くのナンセンスで、主客転倒も甚だしい。首都高化け物屋敷物語はまだまだ続きます。(■つづく)

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首都高速道路500円通行の正義 第7回/公聴会で和合大爆発

■月刊『記録』95年1月号掲載記事

■死に目に会わせる高速道路?

 日本人のブランド志向は、限界をはるかに超えて滑稽でさえあります。今回の首都高速道路公団の公聴会でよくわかりました。
 日本国政府の権力中枢である霞ケ関の中央合同庁舎で開かれた公聴会は、テレビカメラがズラリと並び、目の眩むような強烈な光の世界。マスコミ席には50人ほどの記者が詰め、後方には300人ほどの公聴人が咳一つ立てずに静まり返っています。
 順番はアイウエオ順、ということは、「渡辺」さんがいない限り、いつも最後になるのが常の「和合」だけに、案の定、最後の公述となってしまい、仕方なく何人かの公述を聞いていると、次第に「こいつらアホか」とイライラしてきました。
 例えば某大学の某教授などは、「通行料金は1万円でも安いと思います。5年前に母が危篤となりましたが、首都高速道路のおかげで母の死に目に会えました。本当に、何とお礼を言っていいやら言葉が見つかりません」。こんな先生の授業を聞いている学生は本当にかわいそう。このまま若者を教え続けるのは罪に価するでしょうから、日本酒でもチビリチビリやりながら犬でも相手してなさい。
 痛烈な値上げ反対論者だというので楽しみにしていた、どこかの会社社長と称する方も全くお話になりません。
 なにしろ出だしがすごかった。「このような晴れがましい場所で、たくさんの皆さんの前で、私ごときが意見を述べさせて頂けることを大変な光栄と思います・・・・」。これが皮肉ならたいしたものだが、彼は間違いなく、喜色満面そのものです。「晴れがましい場所」に至ってはバカかとしかコメントしようがない。税金で建てた合同庁舎で公僕を前にペコペコするばかりか、血迷ったのか「晴れがましい」などと、ありもしないブランドを羽織り、テレビカメラの前でスター気取りだから救われません。

■なぜ大臣が来ないのだ

 散々茶番を見せられた挙げ句、やっと和合さんの番です。
 和合さんはこうはいきません。皆さんは用意された机の椅子に座って演説をしていましたが、私は立ったままの姿勢で全体をズラリと見渡した後、正面をハッタと睨みつけると、正面で偉そうに皆さんの演説を意味ありげにフムフムなどと聞いていた2人は建設省と運輸省の課長であることに気づき、仰天しました。
「なんじゃい、これは。何でこんな人たちに意見を言わなければならないのか?こいつらがそんなに偉いとでもいうのか。建設大臣でも出てくるのではなかったのか?主権者の我々は選挙で役人を選んだわけではない」と言いたいくらい、とにかく無性に腹が立ちます。
 そこでまず演説の前に、正面でズラリと並んでいる役人どもに自己紹介をさせました。彼らは目をパチクリさせながら、名前と役職を1人ずつ答えていきました。軽いジャブを放っておいて、いよいよフリーウェイクラブ会長の演説開始!以下はその際の要旨です。

 私は和合秀典と申します。ご存じの方も多くいらっしゃるかと思いますが、現在首都高速道路公団とは裁判係争中であります。
 6年前、通行料金が500円より600円に値上げされました。当時は高速道路として機能していませんでした。この現象は現在も変わらず、むしろひどくなる一方です。何でこれが値上げなんだ!と怒りで頭の中がまっ白となったのを覚えています。あわせて首都高には利用者を無視して、「今日から料金改定となる」との一方的な通告のみで次々と値上げを繰り返した歴史があります。とにかく怒り心頭に発した私は、以後旧料金の500円で首都高を利用させて頂いております。
 裁判所では差額の100円の意味が議論されているわけです。「100円の値上げは100円分速く走れなければいけない」が当方の言い分に対し、公団側は「決められた通りにやっている。一切の手落ちはない」と意味不明の説明を繰り返してきました。
 時代は確実に変化しています。当時は「不法通行者が何を言うか」と罵詈雑言を浴びせられ、500円通行のたびに愛車をガンガン叩かれていた私が、公述人として意見を述べられるのです。新しい風も心地よいとも思いますが、そうも言ってはいられません。日本国の首都にある首都高速道路の異常事態を何とかしなければ。公団の皆さんも真剣に考えて頂きたい。今日の状況は、値上げがどうのこうのという前の、全くの異常事態なのです。
 正常化には相当の蛮勇が必要です。繰り返された値上げのツケを清算し、値上げに終止符を打つと同時に抜本的対策を見いだして、正常化へ向けて出発するのは、21世紀目前の今が最後の好機でありタイムリミットだ、との認識を新たにする必要があります。

■高速で走れてこそ高速道路

 私は今回の値上げには反対です。断固として反対致します。
 第一に公団は利用者に対して基本的な約束事を守っていません。基本に立ち帰って考えてほしい。首都高速道路は、首都・東京を高速で走れる道路である。つまり我々利用者は「速く走れること」に通行料金を支払うというのが「基本的な約束事」です。
 確かに公団は我々利用者から通行料金を徴収する権利があります。それによって職員の皆さんの快適な生活が保障されるわけです。しかし権利と義務は表裏一体で、職員は速く走れる高速道路を我々利用者に提供しなくてはなりません。それによって我々利用者も快適な生活が保障されるわけで、相応の料金支払いは惜しみません。
 先日、戸越ランプより首都高を利用させて頂き、しばらく走ると地図入りの電光掲示板が目に入りました。地図には渋滞を示す赤とオレンジのダンダラ模様で塗りつぶされています。何と、首都高全域が渋滞しているのです。天災や事故があったのではなく、通常の状態での出来事です。異常事態でなくて何でしょう。
 これまでの値上げは、車線を増やしたとか、大変な費用をかけて橋を架けたとか渋滞解消を理由にしていたが、全く無意味だったのです。ましてや東京の新名所作りが理由になろうはずもありません。「渋滞は解決しました、さあ値上げはいかがなものでしょうか」が順番であり常識であり正常な要請です。それができないならば、首都高速道路の看板を降ろして、「首都低速道路」「首都駐車場」「首都道路」などと改称し、無料開放するべきです。
■渋滞は人災だ

 次の値上げ反対理由は、渋滞原因が事業計画の失敗から来る全くの人災であるという点です。首都高速道路の通行量1日115万台の30%強に当たる40万台は東京には用がなく、中央自動車道から常磐自動車道へ抜けたいが、外環状線がないため止むなく首都高を通らざるを得ない車たちなのです。
 国内のあらゆる物質は、首都高速道路を通過しないと反対側へ行けない構図になっています。全ての生活物質は首都高の通行料金の支払いを強要されているわけで、計画の失敗か故意なのか、日本列島を分断する、いわば関所となっているのです。
 東京に用のない30%の車が流れ込まなければ、高速道路本来の機能を取り戻せます。その唯一の方法が外環状線の建設ですが、外環状線建設を首都高建設の後に回したため、計画のほとんどの部分が土地買収すら終了していません。造れるところから造ってしまった計画のなさと見通しの甘さが、「高速道路全域渋滞」などという化物を生み出してしまったのです。これは完璧に人災なのです。
 今後の仕事は、レインボーブリッジを建設することではありません。トイレを設置して利用者に媚びることでも、ゴキブリを追いかけるように、あっちの車線を広げたり、こっちの車線を増やしたりすることでもありません。ひとえに、全エネルギーを渋滞解消のための外環状線建設に注がなければなりません。
 道路建設は国作りに匹敵するテーマなのです。ゴキブリと追いかけっこをしているような底の浅い計画では世界のもの笑いとなるだけではなく、我々利用者にとっては絶望的な事件なのです。
 それでも首都高速道路公団の皆さんは、できもしない遠大な外環状線の建設計画を提示してくれますが、恐らく100年の歳月を費やしてもできますまい。まず、土地買収まで含めた天文学的な費用が発生いたします。30年間で償却されるはずのプール料金制システムでは物理的に立ちゆかなくなり、立ち往生するのは目に見えているのです。

■戦後立法にしがみつくな

 反対理由の最後は、諸悪の根源であるプール料金制を温存している点です。よくも、こんなバカげた決まりがまかり通っていたかと思うと腹立しくなるほどです。30年で償却するということは、30年で通行料金がタダになることを意味します。
 首都高の羽田一号線が建設され、タダにする約束の30年目が1992年、つまり昨年が(注:公聴会は93年実施)、待ちに待った第1回目の通行料金を無料にする約束の年だったのです。とんでもありません。無料どころか、今年は値上げで大騒ぎをしているのです。「行って来い」でダブルの約束違反です。相手が公団ですから大騒ぎ程度で済んでいますが、これが民間でしたら間違いなく殴り合いのケンカとなっています。全くバカげた話です。
 そのバカげた話の根源がプール料金制です。
 新しく完成した道路の建設費は30年後の無料化をめざして加算され、そのたびに無料化はその日から30年後に先送りされます。日本中の道路は必ずどこかでつながっているわけで、要するに、このバカらしい取り決めは、日本中の道路建設が全て完成してから30年後に無料開放となるという、起こり得ないことを前提にしているわけです。したがって永久に無料開放の日が訪れることもありません。料金は永久に上がり続けます。
 この異常な首都高速道路の混雑を解決する方法を、暫定対策と恒久対策とに分けて考えてみます。
 恒久対策としては、東京を中心として50キロほどの半径で外環状線建設をすることです。自然破壊など解決すべき問題が山積みですが、これとて公団の計画の失敗から、我々利用者がツケの支払いを余儀なくされている点なのです。いずれにせよ今後の十分な議論を待たなくてはなりません。そこで、とにもかくにも混雑を緩和するための暫定対策を考えなければなりません。
 いろいろな方々がさまざまな意見を述べられたと思いますが、最後に「道路は本来無料であるべきだ」ということだけは覚えていて欲しい。特に、今回の値上げに賛成された方々に申し上げたい。
 つまり、天下の公道から料金をとるシステムは特別な仕組みであり、特別な法律(特別措置法)に基づいているのです。それが日本が第二次世界大戦の敗戦から立ち上がるべく、産業の復興のためにやむなく立法された特別な法律であることをわかって欲しい。
 そして世界第一の黒字国になった今、この天下の公道から金をとるという全く特殊なこの法律は廃止されるべきだという主張も理解して欲しい。
 このテーマには首都高速道路公団も建設省も利用者も一丸となって知恵を出さなければならない。最後の最後にもう一つだけ皆さんと約束をいたします。この見極めができた時が私の首都高500円通行の終わりの時であることを……。(■つづく)

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内部告発・豊島区は税金泥棒/第16回 懲戒分限審査委員会

■月刊『記録』99年2月号掲載記事

    ※        ※        ※

 私は六ヵ月の停職処分の期間中、闘うための体力をつけること、闘うための武器を磨き、さらなる武器を探し出すことに集中した。
 仕事と裁判を両立しながら闘っていれば、体力がモノをいう時が来る。まして私の裁判闘争は、相手が職場の上司なのだ。職場での仕事を増やすことによって、私を体力的な限界まで追い詰めることもできる。だからこそ闘い続けるための体力は、私に絶対必要だった。
 毎朝朝六時に起き、ランニングで皇居を一周する。さらに週に二回、夕刻からの豊島区役所の定例稽古の剣道部に通い、稽古相手を区長に見立ててしゃにむに竹刀を打ち込んだ。
 規則正しい生活と、適度な運動はすぐに体に現れた。七〇キログラムあった体重は、六三キログラムまで絞り込まれたのだ。体重が減って体が軽くなり、さらに役所に入って以来、長らく忘れていた熟睡も完全に取り戻した。
 裁判で闘うための武器は、情報公開と資料の整理によって手に入れた。ランニングを終えてシャワーを浴び、朝食を食べ終えれば、あとは夜まで裁判のための準備に当てることができる。裁判に関する資料を整理し、関連の本を読みあさり、準備書面の作成に必要と思われる事実関係を、ノートに書き記す毎日が続いた。
 六ヵ月の停職処分の次に待っているのは、上層部が望んでやまない私のクビ、つまり免職である。彼らが、枕を高くして眠るためには、私という障害物の除去が急務であったからだ。だから彼らは手段を選ばなかった。水面下にある不正という火薬庫の導火線に、いつ私が火をつけるかが気になってしかたがなかったからである。
 だからであろうか。私をクビにしたいなら好きな時にクビにすればいい。そのかわり、ただでは辞めさせられないぞ、という覚悟が停職期間中に、自然に固まっていった。
 ただ訓告処分と一五日、三〇日、六ヶ月の停職処分を通じて、もっとも強く怒りを感じたことは、これら一連の処分が、当局自らの不正を区民の目から隠すために、職務命令という職務上の武器を濫用し、戦うすべをもたない丸腰の職員を、よってたかって罪人に仕立て上げたこと、そして、これらが、一般職員への見せしめにしようと考えられた密室の儀式であったからである。
 この儀式の名は「懲戒分限審査委員会」その構成員は以下の区政中枢のメンバーである。ちなみに(  )内は、彼らが関与した私の処分名だ。

■「無駄もなければ無理もない」と吐き捨てた男

 まず、近藤秀夫助役(停職処分十五日、三十日、六ヵ月)。
 もう何度も連載に顔を出している人物だ。特に私が忘れられないのは、あと一歩というところまで、役所側を追いつめた住民訴訟にまつわる思い出である。役所の形勢が悪くなった時点で、状況の改善を約束した覚え書きを私達と交わした張本人が、この近藤氏だったのである。
 この覚え書きによって裁判は和解したにもかかわらず、この男は、覚え書きの存在自体を否定して、私に処分を繰り返したのである。
 助役の人となりは、次の具体例を示せば説明できるだろう。
 かつての私の同僚宿直員の架空勤務をめぐる不当利益返還の住民訴訟(私は当時豊島区に住所をおいていなかったため、原告側証人として協力し、原告には当時学校警備の職員をしていた江幡氏がなった)では、役所側が原告に和解を促した条件の一つに、無駄遣いを伴う勤務時間帯の是正と、健康に支障をもたらす二時間半の睡眠時間を従前の五時間に戻す、という約束が交わされていた。そして、この時、被告である役所側の窓口として原告側と折衝し、取りまとめを図ったのが近藤助役であった。
 しかし和解後、役所側は一向に約束を実行しようとしない。このため、私は近藤助役に対し、なぜ約束を実行しないのかをただした。すると、助役は一転して、その話はもう関係者との話し合いで終わった、不満があるなら好きにしてくれ。つまり原告側に聞いてくれということであった。江幡氏に確認すると助役聞いてくれと言って、取り合おうとしない。つまり、内部告発した私を除いて、当事者同士が手打ちをしてしまった、ということである。
 この時、江幡氏が助役、つまり役所側と取り交わした条件が、当時、廃止寸前にあった警備員制度の継続の承諾であった。もし、この約束を助役と原告側が反故にせず実行していたら私の十五日、三十日の停職は起こり得なかったからである。私の十五、三十日の処分原因は、私が是正されなかった無駄遣いを伴う勤務時間帯の勤務を拒否し、五時間の睡眠時間を実行したからである。
 そして、中原昭収入役(停職処分十五日、三十日、六ヵ月)。 この人物も、決定的な場面でしっかりと顔を出してきている。さらに連載が進んだところで詳しく書き記すことになるが、総務部長時代の官官接待が暴かれ、四五〇万円の損失を区に与えたことで、この金を区に返還することになるのが、この男である。
 彼は、官官接待に伴うカラ宴会の不正支出(現在係争中)を防止すべき立場にあったのに、適正な審査を怠り、区に損害を与えた。現在、その一部、利息を含めて四五〇万円あまりが区に返還されているのだ。
 次に、これも現在、係争中であるが、私の停職六ヵ月の処分の原因であるカラ超勤・カラ出張の存在が明らかになれば、これも同助役が意図的に適正な審査を怠ったと言わざるを得ないのである。
 また、彼が総務部長時代、前述の近藤助役が反故にした税金の無駄遣いを伴う勤務時間帯の是正、及び睡眠時間の適性化を図るよう申し入れたが「無駄もなければ無理もない」として、これをはねつけ、さらに無駄遣いを伴う勤務時間帯を設定した。宿直職員の土曜日の出勤時間は、昼の十二時で十分であるのに、朝の九時半出勤に変更したのである。この時間帯は昼間の職員が昼過ぎまで勤務しているのであるから、宿直職員の業務は、全く百パーセント存在しないのである。ところが当局は、業務が明らかに存在しなくても、その時間に出勤し、役所のなかにいれば、それだけで、その時間帯の賃金は保障しましょうというのである。
 役所内部では、常識では考えられない行政運営が職務命令の名の下に行われているのだ。
 話は逸れるが、現在の豊島区は、赤字再建団体に転落の一歩手前の秒読み段階である。収入役がこんなことをしていては、財源がいかに豊富であったとしても、金がなくなるのは当たり前である。バブル経済がはじけたから赤字財政になったなどというのは、きちんとした財政支出を行ってきた自治体だけが言える言葉であろう。
 次が、川島滋教育長(停職処分十五日、三十日、六ヵ月)。
 この人物は、まだ連載には登場していない。しかし、今後の裁判における最大の焦点である、小中学校職員のカラ超勤問題の責任者として登場することになる。
 続けて、鈴木敏万総務部長(停職処分十五日、三十日、六ヵ月)。
 この人物も、何度も誌面を飾ってくれたので覚えている方も多いのではなかろうか。私が最も記憶に残っていうのは、三〇日の停職処分に関して、「あなたがお金を返還したことも処分理由だ」などと口走ったことだ。
 役所の勤務体系を守っていたら体が保たないと考えた私は、仕事に支障がないように、勤務時間内に仮眠時間を設け、さらに仮眠時間分の給料を区に返還していたのである。これが鈴木氏には、気に入らなかったらしい。もらえるモノはもらっておくのが、豊島区職員の礼儀だとでもいうのだろうか。

■うしろめたさの存在があるか否か

 大沼映雄、現、総務課長(停職処分六ヵ月)。
 彼については、次の二点において関心がある。
 まず、彼は私が処分を受けた当時、私の上司であり、前述の「懲戒分限審査会」のメンバーの一員であった。彼が、私の処分に同意したことは、私の指摘するカラ出張・カラ超勤の存在に目をつぶり、部下の処分に直接、手を下したということである。だが、私が知りたいのは、彼が私の処分に加担したことではなく、処分に加担する際、彼の胸に内面的葛藤が存在したかどうかである。
 はっきり言えば、己の組織における保身のために、事実から視線を外して、部下の処分に手を貸したうしろめたさを感じていたのかどうかである。もし、うしろめたさを感じないで、これに賛成したのであれば、彼は公僕云々以前において「人間性」を問われなければならないだろう。
 二点目は、フジテレビが、当区の官官接待のカラ領主書を量産していた疑惑について。彼を取材している場面があったが、彼は、これに対してしどろもどろに答えていた。この、しどろもどろの原因が、単なる話し方の上手、下手にあるのではなく、真実を隠すことの恐ろしさから生じたものであったのかどうかである。私は、後者と思いたいからである。
 そして、望月治男職員課長(停職処分六ヵ月)。
 上層部の意を受けて、私を追いつめるのに、驚くほど努力した人物である。六ヵ月の停職処分に付随した事情聴取を担当した時など、私に逃げられると困るからという理由で、便所までついてこようとした。別に、私は警察に捕まったわけではない。たかだか役所がでっち上げた処分の調査である。逃げもしなければ、隠れもしない。ましてや便所に行ったついでに逃げ出す気などみじんもない。それとも望月氏は、私とツレションでもしたかったのだろうか。
 彼の名前を聞くと、真顔で便所について来ようとした彼の動作を思い出して、思わず笑ってしまうのである。
 最後に、懲戒分限審査委員会を諮問し、審議に事実上の強い影響を与えた人物を紹介しておこう。それは、加藤一敏区長(訓告処分、停職処分、十五日、三十日、六ヵ月)。私と最も長い間、闘い続けてきた人物である。
 彼が総務部長時代には、私の同僚の架空勤務を容認し、なおかつ私の訓告処分を決定した人物でもある。付け加えるなら、訓告処分に際して、私の事情聴取内容の改ざんに関与していた男でもある。
 三〇日の停職処分を受けた時には、すでに区長になっていた彼に、「この処分は、私に対する嫌がらせではないのか」と聞いたこともあった。その時の彼は、「処分は私の意志ではない。助役が積極的に行なったことだ」と答えたのであった。長いつき合いなのだから照れることもないと思うのだが、私の処分を積極的に進めているといった言葉は聞かせてくれなかった。
 これが私にかかわる一連の処分を決めたメンバーである。私にとっては、ほとんど悪夢としか思われないような構成だ。黒幕の張本人が立件して裁く。これが役所の構造なのである。まるで国民を虐殺し続ける、どこかの軍事政権のようだ。どんなに私が闘っても、なかなか勝ちを治められない理由がわかってもらえるだろう。
 しかし、後藤雄一氏に出会ったことで、形勢は完全に逆転する。彼の指摘した小中学校の残業命令簿の情報公開請求が、その発端だった。全小中学校、四二校の残業命令簿が、四年間四八ヵ月にわたり、三〇〇余名の全職員、毎日、同一の残業時間になっていたのだ。
 つまりある小学校が、ある月に、一人当たり四時間の超勤をしていたら、他の四一校の職員も全く四時間なのである。
 書類を手にした日の夕方、私はガッカリして後藤さんにこう言って電話した。
  「後藤さん、まいったですよ。出ましたよ」
 私は事前の内部情報から、ある程度のカラ超勤は予想していた。しかし、現実は、それ以上の凄まじさであったからだ。
 笑われるかもしれないが、役所の体質を目の当たりにして、がっかりしたし、寂しかったのである。不思議なことに、形勢が逆転した喜びよりも、失望のほうが大きかった。豊島区と熾烈な喧嘩をしていても、やはり私は豊島区の職員であったからだ。 (■つづく)

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内部告発・豊島区は税金泥棒/第15回 協力者は面長の男

■月刊『記録』99年1月号掲載記事

     ※        ※        ※

 後藤雄一氏に会うため世田谷区桜上水のパン屋に赴いたのは、停職中の八月、昼下がりだった。彼は懸命にパンをこねていた。白の帽子に白の作業衣。黒枠の眼鏡。面長で長身。
 そして、やけに顔の黒い人。それが世田谷行革一一〇番を主催し、情報公開請求を武器に、次々と地方行政の腐敗を暴いていた後藤氏の第一印象だった。私のビラを読んでくれていた後藤氏は、名前を告げると仕事を中断し、快く私を迎えてくれた。彼の職場からとなりの喫茶店に腰を落ち着け、挨拶も抜きにこれまでの行政と私の闘いについて説明した。時間にすると、およそ90分。この時間こそが、私の運命を劇的に変えていくことになるのだった。
 この時、後藤氏を訪ねたのは、六ヶ月停職処分取消し訴訟に証拠書類を提出してもらうためだった。それは前号でも若干触れたが、豊島区役所の匿名職員が不正の是正をを求めて、カラ出張、カラ超勤の存在を記した五枚の文書を後藤氏の手元に送付し、後藤氏より朝日新聞の記者を介して私にその内容が明らかにされたからである。
「わかりました。書類は私の手元にあることは確かですが、それは心ある全国の自治体職員から寄せられた不正を指摘する多くの書類の中に紛れているはずです。見つかり次第お渡ししますから、しばらく待って下さい」
 私の申し出と、役所との闘いの一部始終を聞いた後藤氏は、静かな口調でそう語った。そして私の眼を見て続けたのである。
「五十嵐さんに対する一連の処分は、カラ出張やカラ超勤はもちろんのこと、更なる不正が五十嵐さんに暴かれることを役所が恐れたために起こったものです。水面下で、もっと多くの不正を彼らは行っているはずですから。
 彼らは権力を私物化しています。だから五十嵐さんを追い詰めるのに、手段を選ばないでしょう。
 しかしこの闘いは、五十嵐さんのみならず、豊島区民のためにもあるのですよ。だから決して負けてはいけない喧嘩なのです。あらゆる協力は決して惜しみません。頑張って下さい」
 彼の話し方や物腰は、淡々としていて無理がなく、何よりも穏やかだった。だがその穏やかさの裏には、強い怒りが見え隠れしていた。私の闘いを自身の闘いと同様に受け止めてくれた彼の誠実さが、不正を許さなかったのだろう。
 この日、後藤氏から送られたエールは、私に勇気を与えてくれた。確かに役所の行動を見直してみれば、更なる不正が暴露するのを恐れている役所の様子が窺える。尻に火のついた状況を誤魔化すために、役所は嘘に嘘を重ね、私への圧力を強めたのだ。
 私が一三一名の町内会長にビラを郵送した時も、そうだった。
 前回でも触れたが、八六年五月、全職員に配布した二枚のビラを、私は長会長に送付した。カラ出張・カラ超勤についてこと細かく書いたこのビラは、区政の御意見番として一定の力を持つ彼らを刺激する結果となった。送付直後より役所に事実を問う電話が殺到、来庁する町会長まで現れたという。
 この事態に驚いた当局は、騒ぎの鎮圧に全力を注いだ。
 五月七日から六月五日にかけて、区民部管理課の森茂雄課長を、一二回も区政連絡会に出席させたのである。町会長と区職員が区行政について定期的に意見交換する区政連絡会に、森管理課長を派遣し続けたのは、区の危機意識に他ならない。
 この会合で、私のビラが嘘だらけだと森管理課長は説明したと聞く。カラ超勤手当もカラ出張手当も支給していないと断言し、しまいには「五十嵐はとんでもない奴だ。出鱈目なことのを言いたい放題言っている。だから彼は処分する。そしていずれは免職にする」と言い放ったというのだ。森氏が話したのを直接聞いた市民からの情報なので、こうした発言があったことは間違いないだろう。まさに噴飯ものである。
 だいたいカラ手当の不存在を町会長に説明していた時、森管理課長の管轄下にある全、出張所(12ケ所)では、カラ超勤・カラ出張、両手当がしっかりと支給されていたのである。しかもこの事実は、職員間では公然の秘密だった。知らないのは、区民だけだったのである。
 区民に「嘘」をついて不正を隠そうとした男が、私を「とんでもない奴」だと評した。どっちが「とんでもない奴」か、よく考えろと言いたくなる。しかし実際には、私を「とんでもない奴」に仕立て上げることで、町会長の動きは収まっていった。
「火のないところに煙はたたない。文章の全てが嘘であろうか」。「事実でないなら名誉毀損である。それを承知でやっているとすれば、ある程度は調べたのかという気もする」。「マスコミで公務員の不祥事が報道されており、区も無関係でない気がする」。このような声も町会長からは聞かれたというが、事態を究明する力にまではならなかった。
 役所の危機意識が生んだ「火消し」が、とりあえず成功したということだ。
 ビラを送るまでは、私の攻勢だった。しかし攻撃をすれば、必ず返してくるのが役所の体質だ。
 ビラを配った仕返しは、先月も触れた六ヶ月の停職処分となって表れる。「十五日」、「三十日」の停職に続く三度目。この六ヶ月の処分は、停職処分では最も重い。あと残されているのは、免職だけ。つまり私を辞めさせるための準備は、確実に整ったことになる。
 しかも停職はペナルティーとして、仕事に就くことを禁ずる処分であるから、停職中のボーナスはもちろん、一切の給与が支給されなくなる。その上、復職後の最初のボーナスは、全額支給を「十割」とすれば「1割弱」が私の受領額であった。これは停職により著しく勤務日数が不足したための減額措置なのである。
 更には、期間に関係なく停職処分を受けた者は、規定上六ケ月の昇給が延伸される。従って私は、今回を含めて三回の停職処分を受けたわけであるから、通算一年半の定期昇給が延伸されたことになる。
 どんなに節約しても、生きている以上生活費は不可欠である。食費、アパート代、その他、最低限度のいろいろの経費も必要である。それだけに給与の停止は、ずしりとこたえるものだ。だからといって、アルバイトをするわけにもいかない。公務員は副業を持つことは禁じられており、規則に逆らうわけにはいかない。下手をすれば、一気に免職処分を命じられる可能性がある。じっと耐えて生活するしか、方法がなかった。
 だがそのような状況でも、私が絶対に削らなかった経費がある。それは情報公開請求にかかる金だ。
 豊島区には、ソーサー付きのコピー機がない。一枚、一枚、手でコピーをしなければならない旧式の機械があるのみ。そのため情報公開請求によって許可された書類をコピーするのには、膨大な時間が必要となる。しかも土・日は、役所が休みのためコピーをとることができないのだ。
 こうした事情により、私が情報公開請求によって引き出した文書は、夏休みや有給休暇を使ってコピーしていた。それだけに平日に情報公開を行える六ヶ月の停職処分は、必要書類を入手する上で絶好の時間だったのである。これほどの好機を、経済的な理由で逃すわけにはいかない。
 訴訟に必要な事項は、徹底的に開示を求める。このような姿勢で情報公開を求めた資料は、六ヶ月でダンボール七、八箱にもなり、私の部屋を埋めていった。
 八五年四月から、私は何度も情報公開請求を繰り返してきた。しかし、一度として役所を追い詰めるような書類を引き出せなかったのである。ところが後藤氏に会い、どのように請求するのかを教わってから、状況は変わっていった。役所の不正を示す資料が次々と、手元に届くようになったのだ。私の部屋を埋めていったダンボールは、そうした証拠の束だった。
 事実を指摘したにもかかわらず、勝手に嘘を書きまくったように仕立て上げられ、デタラメな処分書が作り上げられる。しかもそのような公文書が永久に保存されてしまう。このような処分に名を借りた冤罪から自分を解放するための礎。それがダンボールに収まった書類だったのである。
 だからこそ積み上がるダンボールは、私に自信を与えてくれたのだった。 (■つづく)

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内部告発・豊島区は税金泥棒/第14回 宿直業務は廃止させない

■月刊『記録』98年12月号掲載記事

     ※        ※        ※

  「宿直業務を廃止したい」という部長の言葉は私にとって、まさに青天の霹靂だった。宿直業務を前提とした合意書を、全く無視してきたものだからだ。
 要するに自分達に都合の悪い判決には従わない。それが役所当局の姿勢なのだ。裁判での決定を反古にされたのでは、再度、訴訟を起こすしかない。しかし個人の力ではそう何度も裁判を起こせないものだ。それを見越しての役所の措置だった。
 だいたい財政難が原因で、宿直業務を廃止するというが本当なのだろうか。宿直業務がそれほど区の財政を圧迫していたとは思えない。批判すべき出費など、他にも山ほどある。
 例えば第一組合のビラには、次のような内容の記事が掲載されていた。
 バブルの全盛期、一般価格以上の高値で豊島区役所が土地を買いまくった。しかもその売買は、不動産関係に強い議員が深く関与していたという疑惑だ。もちろんバブルがはじけた途端、土地は二束三文の価値に化けてしまった。このような噂を知っていれば、財政難を理由とした宿直業務の廃止など鵜呑みにする気になれないのも当たり前だろう。
 さらに第二組合に何一つ知らせることなく、第一組合が宿直業務廃止に賛成してしまった。この態度も胡散臭い。
 私の同僚の二人は第一組合に所属している。当然、宿直業務廃止の賛成派であり、そのうち一人は、かつて当局と組合の容認の下に架空勤務を繰り返していた人物でもある。
 宿直業務がなくなれば、彼は昼間の業務へと転属となり、架空勤務やこれに伴うカラ超勤などの事実も過去へ流されるのである。不正を闇に葬り去るために、役所は宿直業務を廃止したのではないか。そんな疑いが頭をよぎった。
 裁判での決定を一方的に破棄する役所当局に、私の不信感は高まる一方だった。そして一九九六年一月二九日、役所側との労使交渉で私の怒りは爆発した。
  「財政難と称して、区民に対しては、福祉の切り捨てを着々と進める一方、役所の職員に対しては、いまだにカラ超勤手当、カラ出張手当が支給されているという。これは役所内では公然の秘密である。カラ出張、カラ超勤はあるのか、ないのかを返答してほしい」当日、職員課長の望月治夫氏に対して、私はそう問い詰めたのである。
 それに対する望月氏の答えが「現在、カラ出張旅費及びカラ超勤は存在しないと思うし、あってはならないことだと考えている。また過去にもそのような事実は無かったと思う」である。だが、昭和四七年、入庁して間もない頃、私は、私の知らないうちにカラ超勤が支払われていた経験をもっている。あれはなんだったのだろうか。私は白日夢を見たとでもいうのか。
 この望月氏の言葉が、私を一気に行動へと駆り立てた。
 労使交渉の一幕をビラに刷り、役所内に配布したのだ。二月七日にビラを作成。日を置かず、役所の全職員の机の上に、そのビラを配ってまわった。一斉に情報が行き渡るよう、作業は早朝、第二組合の責任者と共に行われたのだった。
  「赤字財政の原因は、長らく温存されてきたカラ出張、カラ超勤に原因があるのではないのか。もしそうなら職場の統廃合の前にカラ出張・カラ超勤を廃止するのが先決ではないのか。役所当局の行政改革の手順は本末転倒であり、大きな誤りがあるのではないか」
 私がビラで訴えた概要である。役所職員に公僕の良心が少しでも残っていればと、期待しての行動だった。しかし案の定、何の反応もないまま時間だけが過ぎていった。
●高齢者・障害者対策費からカット

 ところがある晩、宿直業務についていた私に一本の電話がかかってきた。相手は朝日の社会部の新聞記者。「一度、お会いしたい」という。なんでも世田谷行革一一〇番の後藤雄一氏に、私の名前を聞いたというのだ。
 翌日、さっそくその記者に会って驚いた。すると、なんと驚いたことに、私が役所内に配ったビラを彼が持っていたのだ。
 すべての発端は、後藤氏に送られた豊島区の匿名職員からのカラ出張やカラ超勤の存在を裏づける五枚の書類だったのだ。早速調査を開始した後藤氏は、私が配ったビラを入手。内部告発の資料と私の存在を、新聞記者に告げたということらしい。どうやら私の配ったビラも、全く無駄なわけではなかったようだ。
 そこで四月二五日、第二組合長の同意を得て二枚目のビラを私は作成した。カラ出張、カラ超勤の全額を金額を細かく示すなど、内容は一枚目よりもかなり突っ込んだものにした。また両カラ手当の無駄遣いを改めることなく、区民に必要な財源を削り続ける区の政治姿勢をも批判した。
 なぜなら、当局は、財源を削除する最初の対象を、高齢者や身体障害者、すなわち、声を大にして抗議しにくい人々に絞っていたからである。例えば、一人暮らしの高齢者宅にインターホンを設置する制度の廃止、寝たきり高齢者への見舞品支給制度の廃止、敬老金の支給の廃止、車椅子の利用者あるいは寝たきり状態の人が、そのままの状態で乗り降り可能なリフトつきハイヤー制度の廃止などなど、数えあげたら腹が立つばかりだ。結局、区民だろうが職員だろうが、等しく弱者から切り捨てるのだ。それがお役所体質なのである。
 二枚目のビラは、前回同様に役所職員に配った。さらに今度は、前回のビラと一緒に一三一名の町内会長全員にも配ることにした。
 この判断は、間違っていなかった。役所の職員に比べ、町内会長の反応はずば抜けて速かったからだ。二枚のビラに驚いた町内会長は、事実の確認のためすぐに来庁したのである。もちろん役所側は前面否定。そして役所によるお決まりの事情聴取が、私に課せられることになった。
 一度目は文書による質問だ。しかし、これでは埒があかないと役所側も思ったのか、結局、職員課長と総務課長から部長室で事情聴取を受けることになった。
  「どういう意図でこれを作ったのか」「何に基づいてこれを作ったのか」「情報提供者は誰か」
  そんな彼らの質問に対して、私は答えた。「このビラに書かれた内容は、複数の人から聞いている話であり、事実だと確認できる証拠もある。ただし情報を寄せてくれた人達に迷惑がかかるので、名前をあげるわけにはいかない」
 私を取り調べている職員も、実は事実であることを知っているのだ。そして知っているから青筋をたてて怒る。要するに彼らは「役所の職員もあろうものが、役所内の不正を外に漏らすのはけしからん」と怒っているだけなのだ。
 良い部分も悪い部分もすべて白日の下にさらし、改めて出発してはどうか。私は、ビラにそんなメッセージを込めたつもりだった。しかし役所側は耳を貸すどころか、さらなる攻撃をしかけてきた。
 九六年八月八日、当局は、区長加藤一敏名で六ヶ月の停職を言い渡してきた。処分理由については次のように書かれていた。
  「一律カラ残業手当、カラ出張手当については、およそありえないことである。しかし、このような虚偽の文書を区の町会長宛に送付したことによって、結果的にこれらの文書に書かれている事柄があたかも存在する、また、存在したかのような印象を町会長に与えるに至っては、到底見逃すわけにはいかず、許されるものではない。このような行為は、職員全体の不名誉となるような行為、また、区民から信託をうけて、全体の奉仕者として誠実に勤務すべき職員としてふさわしくないものである」
 もし、前の裁判で合意書の作成を拒否して敗訴していたら、私はこの件で確実に解雇されていたはずだ。というのも一五日の停職処分の是非をめぐって高裁で審理している最中に、さらに同一事由をもって三〇日の停職処分を重ねて行った当局の目的は、単なる訴訟費用に関する経済的負担の加重を狙ったものではなく、私の解雇処分の時期を、より早くするための布石であったことが、その後の内部情報からわかったからだ。
 近藤勝弁護士の先見の明が、私を救った。しかも彼は、この処分に関しても、敢然と立ち上がってくれた。
  「文書を送った行為は憲法で定めた表現の自由の範囲内で、懲戒理由には当たらない」。九六年八月三一日の読売新聞で、彼が語ってくれた言葉だ。この指摘は大変ありがたかった。私の言いたいことを、はっきりと言ってくれたからである。
そして、さらに四面楚歌、満身創痍で闘う私に強力な助っ人が息せききって駆けつけてくれた。助っ人とは、以前、新聞記者を通じて名前を知った世田谷行革110番代表の後藤雄一氏であった。  (■つづく)

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内部告発・豊島区は税金泥棒/第13回 役所と闘う、もう一人の男

■月刊『記録』98年11月号掲載記事

      ※        ※        ※

■宿直廃止

 合意書を出したことで、裁判は一段落した。
 合意を決定する直前まで「最後までやる」と言い張った私を、近藤弁護士は必死で止めた。行政相手の裁判では、個人が勝てないことを、彼が知っていたからだろう。勝つために越えなければならないハードルは、民事裁判に比べてもはるかに高い。それが行政訴訟の現実なのだ。
 役所側が負ければ、区長も三役も責任をとって辞めなければならなくなる。そうなれば区民の間にも、少なからぬ混乱が起こるだろう。だからといって、行政を勝たせておいていいのだろうか。行政と闘う人に設けられたハードルが、不正の隠ぺいに利用されているのが実態ではないのか。それは「えん罪」の構図そのものだ。もちろん私の「えん罪」も、合意書ぐらいではひっくり返らなかった。
 合意書が出て二、三日後、出勤を報告しに行った私に向かって、課長が言った。
  「財源が悪化しているので、宿直の職務を廃止したい」
 つまり今後は、昼間の職員を夜間に割り振り、宿直専門の職員をなくすということだ。「そんなバカなことがあるか」と思ったが、またケンカする気にもなれず、「同意できません」とだけ言っておいた。
 たしかに合意書には、「今後、お互いの条件についてよく話し合うように」と書かれていた。しかし合意書は、宿直業務の存続を前提に作られたものだ。つまり宿直業務をなくせば、合意書そのものに意味がなくなる。「五十嵐の言う通りに改善するのは腹が立つ、こうなったら宿直業務を廃止して、すべてをチャラにしてやる」と言わんばかりの処置に、私も呆れ、そして驚愕した。
 睡眠時間を元に戻すという合意書の約束も無視されたまま、宿直業務廃止の色合いは強まっていく。しまいには、反対する者の意見などお構いなしに、昼間の職員が増員され始めた。夜間勤務に対応するための体制作りだ。
 もともとの勤務態勢としては、昼間の職員が夜勤をこなすものであった。しかしそれでは区民サービスの質が低下するという理由で、宿直業務が始まったのである。何のことはない。役所の体制が昔に逆戻りしただけだ。そもそも昼間の職員を夜働かせたところで、宿直の職員を雇うのと出費はほとんど変わらないのである。

■当局・組合・議会の密着

 こんな横暴な振る舞いでも、役所ならまかり通ってしまう。それには理由がある。役所当局・組合・議会と、本来なら独立し、お互いに監視し合うべき三つの機関が、べったりと密着し合っているからだ。
 議員だろうが、組合員だろうが、役所の上級職だろうが、カラ残業手当をもらっている。不当なお金をもらっている者同士、お互いにかばい合う。
 役所がどのように税金を使うかを監視する機能をもつ議会も、議員がこれでは動けない。実際、告発した私を、議会は全く無視してきた。こちらから連絡を取っても、これまたなしのつぶて。
 本来なら職員の側に立ち、共に闘うはずの労働組合も、既得権を手放さないように役所の上層部と手を結ぶ。私の一件では、最初は無視を決め込み、最後には役所当局と一緒になって私を潰そうととさえしたのだ。
 組合は、すべての不正に対して声を上げるわけではない。小さな問題では役所当局に噛みつくくせに、ある一線を越えると沈黙する。カラ出張・出勤問題は、明らかにその境界線を超えていた。つまり聖域に属する問題だったのだ。触れてはいけない部分に触れたため、私は組合員からも疎まれることになったのである。
 まあ、それも当然なのだろう。
 カラ超勤をもらうことで、組合員も生活を成り立たせているのだ。組合員にも養うべき家族がいる。少しでも多くお金が欲しい。そこをつけ込まれる。みんながやっているからと、不当な収入に手をつける。そして、そんな行動の積み重ねが、少しずつ倫理観をすり減らしていく。悪循環だ。
 もちろん役所内の職員全員が、不正な収入を受け取っているわけではない。多少なりとも善意の残っている職員は、カラの部分を請求せず、静かに受け取りを拒否している。静かに拒否をする職員には、役所側も無視するだけだ。
 では、そのなかから告発する職員が出るかというと、そう甘くはない。彼らが声を上げることはないのである。声を上げた途端に役所当局は牙をむき、無理難題をふっかけて職場から追放しようとすることを、みんな噂で聞いているからだ。
 以前、新宿区役所でも内部告発があったらしいが、結局、その後の話を伝え聞かない。役所当局の弾圧により、告発した者が潰されたのだろう。
 だが、奇人は常にいる。
 一九九六年、私同様、権力に孤独な戦いをのぞんでいる人にやっと出会った。情報公開で世田谷区を追い詰めた人物として、一躍、名を知られることになった世田谷行革一〇〇番の後藤さんから紹介されたのだ。
 その男性は、高橋武男氏。東京都清掃局の清掃作業員であり、かつては都清掃局職員組合、石神井支部中央委員までしていた人物だ。だが組合本部の三役が都公社に天下りの密約をしていたことに反発した件で、さまざまな摩擦に遭遇することになったのである。
 組合の脱退も許されず、裁判を起こしてやっと辞めることができたという彼の話は、役所に常識など通用しないことを改めて実感させる。
 だが、もっと彼が悲惨だったのは、通勤手当の不正を東京新聞に実名で告発してからだ。このイジメが半端ではない。私は高橋氏から直接聞いたのだが、心底ぞっとした。

■ランドセルに鉄板

 ある日、子どものランドセルのふたの部分に鉄板が貼ってあることに、高橋氏は気づいたという。
  「なぜこんなものを貼ってるんだ」という彼の質問に、「うしろから殴られても、鉄板を貼っていれば痛くないからね」と子どもが答えたという。見知らぬ人に、いきなりうしろから殴られる。そんな恐怖を、子どもは感じながら生活していたのだ。無言の脅迫が、そこここに漂っていた。
 もちろん、仲間外れなどは、日常茶飯事だった。
 組合の新聞が自分にだけ回ってこない。「高橋には見られると困る」という理由で、高橋氏が出席しなかった集会のビラが、すべて回収されるということもあったらしい。
 深夜にかかる自宅への無言電話。ゴミ回収の作業チームからの追い出し。職場での完全無視など。村八分の状態にされ、あげくには昼間にも電話がかかり、高橋氏の妻や子どもまで脅迫されたという。しかも、この脅迫行為を行っているのは、ハッキリした確証はないものの、組合員や組合上層部の人間らしいとの情報が耳に入ってきた。
 上からの圧力に独りで耐えている彼の姿は、私とダブルものがあった。圧力のかからない方法で、そっと助けてくれる人が現れている点も似ている。間違っていると言い続けることによって、見えないところにいる味方が現れるものなのだ。
 私と高橋氏、二人の闘いは、今年の七月一日に発行された月刊『中村敦夫新聞』で紹介された。私以外にも権力と私闘を演じている人がいる、そしてちゃんとどこかで誰かが見てくれている。それだけでも少し救われたような気持ちがした。
 私は、正しいことが負けるのは、正しいことが表に出ないからだと思っている。役所当局・議会・組合を、がっちりとつないでいる鎖を断ち切り、すべての悪事を白昼のもとにさらした時、私はこの裁判に勝てるはずだ。勝負を決めるのは持続力なのだ。そう信じたい。 (■つづく)

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内部告発・豊島区は税金泥棒/第12回 当局側と合意書を作成

■月刊『記録』98年10月号掲載記事

    ※        ※        ※

■しびれを切らして区長室へ

 一九九五年二月二八日に受けた三〇日間の停職処分に納得できなかった私は、区役所の最高責任者である区長に面談を申し込んだ。なぜ、そんな処分が下されたのか、納得できる処分理由が欲しかったからだ。
 重要な話だから面談時間を設けてほしい、と何度も申し入れた。しかし一向に返事がない。しびれを切らした私は区長室まで乗り込み、「今すぐ会たい」と秘書に告げた。
 さすがの区長も仕方ないと思ったのだろう。私との面会を拒まなかった。
  「なぜ二審の結果を待たずに、同一理由による処分を行ったのですか。これでは嫌がらせとしか言いようがないでしょう」
 こう区長に言い寄っても、「おれは指示していない。助役が勝手にしたことだ」と床に視線を落としてボソリと言う。区のトップでありながら、自分は関係ないという態度だ。「きたないな」。私は思わず、つぶやいていた。
 豊島区の職員懲戒分限審査委員会規定の第二条には、「委員会は、区長の諮問に応じ……」と、ちゃんと書いてある。区長の意志なく、物事が進むことはない。私には無茶苦茶な規則への遵守を求めながら、自分だけが治外法権とでも言わんばかりの態度に腹が立った。
  「五十嵐さん、周りが耳を貸さないのでは意味がないよ。実際、組合も議会も動かないじゃない。このままでは一般職員も離れていくばかりだよ」おまけに加藤区長は私に説教までくれようとするのだ。「冗談じゃないよ」と私は思った。

■組合も上層部も頼りにならない

  「議会、組合、一部の区政の中枢にいる職員の三者が、どんなに私を批判したり無視したとしても、そんなことは私の動きにとって何ら支障にはならない。彼らの意見や態度は、健全な区民常識に裏打ちされていませんからね」
 言い返す私に対して、反論するでもなく、彼はただ頷くだけ。意味のある話し合いは、もう望めそうもなかった。私は区長室をあとにした。
 区長室は区政の表玄関などではない。行政運営の本音と建て前の使い分けを画策する舞台裏だったのだ。私は、今回の件で、それをしみじみ実感した。
 役所の上層部も区民無視でダメ。私が新たに加入した第二組合も腰が引けて全く頼りにならない。私に下された「三〇日の停職処分を知るや否や一変して、『障らぬ神にたたりなし』の態度である。当時の組合の長であった菅道治は、処分を受けたのは、あなたであるから、あなた個人で闘ったらどうか。組合は中立を保つ」とも言う。一審の敗訴(一五日の停職)でやめておけばいいものを、さらに控訴などするからだ、と言いたげである。
 裁判闘争は厳しく、そして長い。金銭的な問題もネックとなる。
 一五日間の停職処分は、精神的にも経済的にも辛い。さらに三〇日間の停職ともなれば、非常に苦しい事態となる。そうして経済的に追い込めば、裁判闘争は困難になる。これこそが役所側の狙いなのだ。だが、この停職処分に対する提訴をやめる訳にはいかない。
 一五日の停職処分と同じ理由で処分が下されているだけに、法的に異議を唱えなければ、自分の非を認めたことになってしまう。そうなれば一五日間の停職処分を巡って争われている第二審でも負けてしまう。経済的に追い込まれるか、それとも負けを認めるか。役所側は周到でかつ陰険な手口で攻撃してきたのだった。

■架空事実の捏造まではできまい

 九五年三月一七日、三〇日間の停職処分の取り消しを求め、私は提訴した。一五日間の停職と三〇日間の停職、二つの処分の取り消しを同時に戦わなくてはならなくなった。
 平行する一審と二審の裁判において役所側は、相変わらずデタラメな主張を継続していた。例えば区長が二度にわたって、私を処分した理由について役所側は、「五十嵐は睡眠を取っていて睡眠中に発生した業務の対応を怠っていたからだ」と主張する。
 しかし役所側の主張は抽象的な指摘にとどまるのみで、具体的な事実の指摘にまでは踏み込もうとしない。
 それもそのはず。原因は役所側、つまり総務課の手もとに保管されている宿直日誌にあった。日誌には私の手で、私が睡眠時間中に対応した、すべての業務の内容と時間が逐一記入されていたからである。
 つまり役所側は、私が睡眠中の勤務を怠っていないという具体的事実が日誌上に存在するのを知っていたのである。だから敢えて、具体的な架空事実の指摘にまでは踏み込んでこられなかったのだ。
 なお、この当該宿直日誌は、三〇日の取り消し処分訴訟のなかで、証拠として私の側からも提出した。しかしその際、役所側からの反論は皆無であった。
 ちなみに当該宿直日誌のすべてにわたり、上司である総務課長、係長の確認印が押印されている。平成五年二月一日の一五日の停職処分に同意した総務課長は堀田徳夫。平成七年二月二八日の三〇日の停職処分に同意した総務課長は中島康博。
 重ねて言うが両名いずれも私のかつての上司である。

■合意書を作成して一次撤退
 
 こういったやり取りが繰り返されるばかりで、裁判は遅々として進まなかった。そんななか、高裁の裁判官から合意書の作成を提案された。
 合意書とは、和解案のようなものと考えてもらえばよい。互いに譲れるところを譲り、争議を解決しようとするものだ。判決のようにハッキリした裁定が下されない代わりに、少なからず自分の意見を合意書に盛り込むことも可能だ。そして何より、裁判を維持する費用や労力から解放される。
 役所側は即座に作成に同意した。役所側が即座に、裁判所長の提案に同意したのは、私の性格上、私が裁判長の提案を蹴って、さらに判決まで審理の続行を主張すると判断したからであろう。
 だが、私はとりあえず「考えさせてください」と答えるにとどめ、確答を避けた。それから二、三日、近藤勝弁護士との論争が続く。「最後までやらせてほしい。骨になってもいい」と言い張る私を、彼は必死でとめた。「この裁判の継続は危険度が高い。敗訴の可能性もある。先を見て今回は、この辺で退こう」と、くいさがる私を放り出すこともなく、論理的に繰り返し説いてくれた。
 結局、私は、裁判のプロでもあり、人間的にも信頼していた近藤弁護士の助言を選択し、合意書を作ることに同意した。次回の法廷で、近藤弁護士が裁判長に「原告は合意書の作成に同意します。と伝えると、裁判長が同弁護士に「よく説得しましたね」と言い、「うん、うん」と言いながら何度も頷いていた。今もなぜか印象に残っている。
 そんな彼のアドバイスが正しかったことを身をもって知ったのは、一年後に六ヵ月間の停職処分を受けた時であった。もし、合意書の作成を蹴ってその裁判で負けていたら、確実に私は解雇されただろう。そうなると、外部から解雇無効の訴訟を起こさざるを得ず、結局、裁判を続けること自体が難しくなっていたはずだ。
 合意書は裁判長が原案を作り、それに対して私と役所当局、双方が提案していく形で作られることになった。私の要求がしごくまっとうなものだったからだろう。私の提案の半分以上は合意書に書き込まれ、結果として役所側の提案は半分にも満たない文書となった。裁判官が合意書の作成を提案して二ヵ月後の九五年九月二九日、私達は合意書を交わし、一五日間の停職処分をめぐる裁判は終わりを告げる。合意書の作成と受け取りは別室で行われた。
 合意文書の作成手続きが終わるやいなや、総務課の法規係長と区政会館の指定代理人が顔を真っ赤にして憤然と席から立ち上がった。一審が終わった時には、私の背中に向けて「ザマーミロ」と言い放った連中が、今回は硬直した表情で、こちらを見ることもなく文字通りサーッと帰っていったのだ。
 判決が下ったわけでもなく、勝った気はしなかった。しかし役所側がダメージを受けたことは間違いなかった。合意書には、「五十嵐に不利益にならないようにする事」という一文も加えられていたからだ。一審の敗訴を考えれば、逆転ともいえるような内容かもしれない。少なくとも「やってよかった」という気持ちで裁判を終えることができたのである。
 区議会に裁判結果を報告するため、合意書に添書を同封して各党の幹事長に普通書留で送付した。添書には「私の一五日及び三〇日の停職処分は、同封合意書の通りですので、御了承ください」と記載した。送付先の党は、自民・共産・公明・社会党系及び無所属議員で構成されている「区民クラブ」である。
 この送付に対する返答は皆無であった。見事なほどの無視にあった。
 第二組合にも結果報告は行った。組合員の反応はまちまちであった。「また、取り下げか」あるいは「まあまあじゃないの」という者、何も言わない者もいた。また、組合の長であった菅道治に至っては「訴訟費用はいくらかかったの」であった。
 孤独な闘いは、まだ続いていた。 (■つづく)

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内部告発・豊島区は税金泥棒/第11回 敗訴、そして更なる処分へ

■月刊『記録』98年9月号掲載記事

     ※        ※        ※

■二時間半の睡眠時間も合法

「一五日間の停職処分」の取り消しを求める訴訟を、私が起こしたのは、一九九三年四月三〇日だった。
 役所の体質が根本的な問題であるだけに、勝つ見込みは薄い。唯一の突破口があるとすれば、東京都総務局長からの通達だけであった。
「睡眠時間付与にあたっては(中略)四時間を下がらず七時間を超えない範囲で(後略)」と書かれたその通達は、わずかながら勝機を運んできているように思えたのだ。何といっても、私の与えられいる睡眠時間は、二時間半でしかない。東京都からの通達に違反しているのは明らかだった。さすがの豊島区役所も、これではやすやすと言い逃れはできないはずだ。
 しかし、そんな期待はあっさりと裏切られることとなる。これほど短い睡眠時間は違法ではないのかと、私たちが裁判で質問したのに対し、役所側は「それは豊島区の特質だ。豊島区の独自性として許されるはずだ」と答えたのである
 特質とか独自性とか、一体何を言いたいのだろうか。勤務するのはあくまで人間である。しかも一定以上の睡眠は、人間にとって欠くべからざるものだ。生きるのに必要な環境を奪っておいて、区の独自性も何もあったものではない。二時間半の睡眠で働き続けることがきないのは、誰が考えてもわかる。わかっていながら曖昧な言葉で逃れようとしているだけなのだ。ここにも役所側のどうしようもない嫌らしさが表れていた。
 しかも私は、この短い睡眠時間にさえ熟睡が許されていたわけではない。役所を訪ねる人が来れば、どんなに眠くても笑顔で対応しなければならない。
 たとえ来庁者の対応に五分しかかからなかったとしても、睡眠中に一度起きるのだから、そうそうすぐに眠れるものではない。実際、指定された睡眠時間に人が訪れれば、寝るための時間はほとんど残っていなかった。
 一九九四年一〇月三日、一審の判決が下った。弁護士はすでに負けを確信していたのだろう。
「五十嵐さん、わざわざ行かなくてもいいよ。辛い思いをするだけだよ」と言った。
 しかし負けた悔しさをバネにして控訴するためにも、判決を聞きたかった。覚悟を決めると同時に一縷の望みを託して、私は裁判所の門をくぐった。

■裁判所の長い判決文

 大番狂わせはなかった。敗訴。弁護士の予想は当たった。ただ判決理由は、私の予想を良い方に裏切ってくれた。
 行政相手によくある門前払いでもない。そのうえかなり分厚い判決書を、裁判長は用意していたのだ。現在のように、行政に対する情報公開が盛んだったわけではない。行政と裁判で争えば、確実に負ける時代だった。
 そんな状況で書かれた長い判決文だからこそ、それなりの意味があったはずだ。役所を勝たせるために必要な言い訳が、それこそたっぷりと裁判所に必要だったのではあるまいか。裁判官も内心では役所側の言い分を、無茶苦茶だと思ったのではないか。ただ役所が負けた時、社会に与える影響が怖かったのではないか。
 裁判長が読み上げる厚い判決文を見たとき、私の二審でも徹底的に闘う意志をさらに固めたのである。
 一度負けるのも、二度負けるのも一緒だ。このまま二審で闘ってやる。そんな思いが体を巡り、決意を新たにしながら裁判所を出ようとした。
 そのとき私の背中に向けて、勝ち誇った哄笑が浴びさせられた。
「ザマーみろ。ふざけたことをしやがって。ワッハハ」
 区政会館の職員である指定代理人及び豊島区総務課の法規係の複数名の職員が、私の後ろに立っていた。指定代理人となっている区政会館の職員は、二十三区内で起きた行政相手の裁判で、弁護士の代行をするのが仕事である。負けない行政裁判が仕事。しかも税金で喰っているのだ。「コノヤロー」と腹が立った。だが彼の一言が、二審で闘う私の決意をさらに強くさせた。
「五十嵐さん、もうやめた方がいいよ。ケンカするなら、別のケンカの仕方を教えてやるよ」
 一審でお世話になった弁護士は、そう言って控訴をとめた。常識的には、彼が正しいのかもしれない。でも逃げたくなかった。
「じゃあ、そのときはお願いしますよ」
 お世話になった弁護士に頭を下げ、私は事務所を後にした。
 控訴するためには、どうしても弁護士が必要となる。一審では忙しい過ぎて引き受けてもらえなかった知り合いの弁護士に、もう一度頼んでみることにした。
 これまでの経過を話した私に、彼は言ってくれた。
「しょうがねえなあ。骨は拾ってやるよ」
 負け戦をわかって引き受けてくれたのが、無性に嬉しかった。
 第二組合ににも控訴する旨を連絡した。「二審はやめた方がいい」。 「金と時間の無駄だ」。それが彼らの反応だった。まあ、無理もない。勝ち目が薄く、職場での圧力も続くのだ。私の身を心配して、かれらも言ってくれたのだろう。

■返金も処分の理由

 一審の判決が出てから約二週間後の一〇月一八日、私は控訴した。
 資料集めなどに走り回る一方で、職場での抵抗も続けた。以前同様、自分で決めた時間帯で仕事を続けたのである。そうこうしているうちに、まももや事件が起こる。
 一九九五年二月の二八日の朝、昨夜からの勤務を終えて帰り支度をしていた私は、突然現れた鈴木総務部長や職員課の職員に一枚の紙を渡された。そこには「停職三〇日」の文字が書かれていた。割り振りを超える睡眠をとり、夜間勤務の一部を約一〇ヶ月に渡って従事しなかったのが停職を言い渡す理由だという。
「いらないよ。こんなもの」
 私は通知の紙切れを、即座に突き返して言った。
「とにかく今日は帰る。また明日、来る」
 もちろん二審の判決はまだ出ていない。「一五日間の停職処分」の取り消し求めて裁判闘争が続いている最中に、「三〇日間の停職処分」とは。
 役所は、とことんまで私を追い詰めるつもりなのだ。突き返した処分の通知は、自宅に郵送で送りつけられた。
 もちろん前回同様、私は次の日も通常通り出勤した。あくまで処分を認めないと、意志表示をするためだ。案の上、代わりの職員が配置されていたが、めげる訳にもいかない。出勤簿に自分の名前を書き、宿直室で一、二時間、電話番をして帰って来た。
 ちなみに後から確認してみると、停職の期間中、出勤簿に付けた私の名前は全て消してあった。
 裁判だけが闘う術ではない。一方的な処分に納得のいかない私は抗議を行い、数日後には職員課の別室で役所側と話し合いをすることになった。鈴木敏万総務部長、中島総務課長、それに職員課の人事係長が、冷たい視線を携えて会議に出席した。
「余分に取っている睡眠時間の給料は、ちゃんと返しているし、睡眠時間中に生じた業務にも、きちんと対応していた。それなのに、なぜ処分をしたのか」
 そう厳しく私は問い詰めた。
「お金を返還することも、処分の理由の一つだ」
 鈴木総務部長は、私の眼を直視して平然と言い放った。一瞬、私は耳を疑い、そして唖然とした。区政中枢の中心に位置する人物がこれである。豊島区政は、間違いなく区民無視の末期的症状となり、もはや手のつけられない体質だと確信した。
 役所の職員からは、そんな開き直った発言しか聞き取れなかった。受け取るいわれのない金を受け取らないのも、処分理由とは。こんなバカなことがあっていいのか。
 納得できない理屈が、平然とまかり通っている。
 ついに私は、「自分が受けた処分について話し合いたい」と区長に面談を申し込むことにした。 (■つづく)

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内部告発・豊島区は税金泥棒/第10回 そして裁判が始まった

■月刊『記録』98年6月号掲載記事

       ※        ※        ※

 一九九三年の二月一日、私は突然一五日間の停職処分を受けた。依然として役所側の提示した勤務表に従わないというのが向こうの言い分である。しかし処分を受けたといっても私にしてみれば、処分自体が違法だとしかいいようがなかった。
 たった二時間半の睡眠時間で働けという勤務体制自体に問題があること。そのおかげで既に生活そのものが昼型から夜型に移行し、私の健康管理が限界にきていたことなどを当局に説明したが、依然としてまったくお構いなし、馬耳東風であった。
 さて、処分から一夜明けた日曜日、私はいつも通り所定の時間に出勤した。するとなんと宿直室には、私の替わりに昼間の職員が既に配置されていたのだ。「あれ、五十嵐さん、どうしたの」。事情を知らない職員は、不思議そうな顔でたずねてきた。私が間違えて出勤してきたぐらいに思ったらしい。
 その時、隣の部屋から顔見知りの守衛が顔を覗かせた。「五十嵐さん。余計なものをもらっちゃたんだって」と、彼は、ニヤニヤ笑いながら言った。
 本来、二人しか勤務しない仕事場に三人がたむろすることになったため、部屋の中はどことなく窮屈だった。私が机に座って電話番をすると、他の二人は所在なく壁ぎわに座った。
 私の代わりが来ているならしょうがない。そう思い、一時間ほど仕事をしたのちに、私は宿直室を後にした。そして帰宅後、直ちに知り合いの弁護士に弁護依頼の電話を入れた。しかし、残念ながら彼は忙しすぎた。新たな裁判を抱える時間的な余裕など、まったくない状態だという。仕方なく後日、弁護士会を訪れ、弁護士を紹介してもらうことになった。
 私は、紹介された弁護士に、今までの経緯の概略とポイントを、四点に分けて説明した。
一、私の処分は苛酷ともいえる勤務形態が原因であり、その勤務形態も同僚の架空勤務を議会に内部告発した私への報復として作られていること。
二、同僚の架空勤務が十余年にわたり継続したのは、カラ出張・カラ超勤が存在するにもかかわらず、当局がこれを黙認したためだったこと。
三、カラ出張・カラ超勤は、当局と組合の長年の癒着によって形成されて来たものであること。
四、これらの悪習を糾すべき議会も、当局との長年の馴れ合いにより身動きがとれなくなっていること。
 私の話を聞いた弁護士の意見は、厳しいものだった。
「形式的にみれば訴訟の相手は役所当局だが、真の相手は役所の体質でしょう。この裁判には大変な苦労が伴うはずです。組合や議会をも相手にしなければならないかもしれません。それに、こういう事例で勝訴するケースは稀なのです」
 それでも裁判を起こす気があるのか、私の目を見て彼は尋ねた。
「形式的な勝ち負けは、二の次なんです。私にとっての勝利は、法廷で言うべきことを言い尽くすこと。そして裁判が記録として残されることです。だから判決をもらえるまでやっていただければ充分です」
 これが私の答えだった。真実を訴える場所が、私には必要だったのだ。
「わかりました。そういうことでしたら弁護を引き受けましょう。そして、とことん暴れてみせましょう」と、私の話を聞いた弁護士も快諾してくれた。
 真実を明らかにすることこそが区民のためになるという意見は、役所のどこからも聞こえてこなかった。税金を預かり、区民に還元するのが公僕の仕事だということを、役所はすっかり忘れてしまっている。そんな日々のなかで、やっと私は真実を問い直すことのできる場所を手に入れたのだった。

■金を受け取るだけの組合

 処分を受けた後、どうしても頭から離れない言葉があった。当局が宿直室で十五日間の停職処分の言い渡しを強行したとき、当時の高橋職員課長が発した「既に組合は、私の十五日間の停職処分を承知している」という言葉である。その発言の真偽を確かめるため、私は組合を訪ね「上層部は(私への処分について)組合も同意したと言っているが、どうなんだ」と問い詰めた。
「しばらく待ってくれ」
 それが処分を受けた組合員への書記長の答えだった。結局、いつまでたっても組合は正式な回答を寄こさなかったが、労組の会合の模様は、会議に出席した役員を通じて耳に入ってきた。彼によれば、「規則を守らなかったのは五十嵐だ。五十嵐が悪い」と有力者のN役員が発言し、他の役員も諸手を挙げてその意見に賛成したという。決まったことは守らなければならない。たとえ健康を害しても規則は規則。悪法でも法は法に違いない。それが彼らの言い分だった。
 組合に期待するものは、この時にすっかりなくなった。期待するには、現実がひどすぎる。処分から一週間と経たぬうちに、さばさばした気持ちで私は、組合に脱会届けを提出することになった。
 結局、私の二十年余の組合生活を通して、組合がしてくれたことといえば、毎月天引きで納入している組合費を、つつがなく受取り続けてくれたことだけであった。では、これからの自分が組合なしでいいのかというと、そうもいかなかった。組合が動いてくれなくとも、所属しているだけで役所への圧力となる場合もある。丸腰では、役所側からの攻撃はかわしきれないものだ。結局、第一労働組合に脱退届を出したその足で、第二労働組合に私は出向くことになった。
 実は、第一労組で私が数々の問題を抱えていたことを知っていた第二労組は、以前から「第一労組でそんなに虐められるなら、こっちの組合に来いよ」と、誘いの言葉をかけてくれていたのである。
 第一労組に比べれば、第二労組は人数も少なく、力も弱い。しかし破れ傘でも、傘は傘。何もささないよりはずっとましだ。少なくともズブ濡れにはならないだろう。そう感じていた。しかもこの組合の責任者に、私は重大な関心を抱いていた。
 以前にも触れたが、私は住民訴訟取り下げを条件に、役所との間で交換文書を交わしたことがある。文書には、架空勤務をなくすことや、睡眠時間を以前の五時間確保できる状態に戻すこと、明らかな税金の無駄使いと思われる勤務時間帯の禁止などが書かれていたのである。
 その交換文書の作成に関与した人物こそ、第二労組の責任者だった。もしこの文書が公表されれば、役所が約束を反故にしたことが証明されるだろう。当然、裁判にも大きな影響を及ぼすはずだ。私は第二労組に入り機会を待つことにした。
 停職を喰らわせればおとなしくなり、規則通り勤務につくだろうという役所の思惑通りに行動する気など、私にはさらさらなかった。もちろん停職解除後も自分の決めた勤務時間に従い仕事を続けた。その合間を縫って、弁護士の指示に従いながら、上司と交わした書類などを集めたり、裁判の準備を整えたのである。
 一五日停職から三ヶ月、四月三〇日に私は提訴した。

■勝てるかもしれない

 裁判が始まってまもなく、一つの疑問が私を襲った。それは他区の職員も、私と同様の環境で働いているのかということだった。私は二三区にくまなく電話し、宿直の睡眠時間を調べ上げた。その過程で私は、意外な事実を耳にする。
「宿直者の睡眠時間に関する通達が、東京都総務局長からきているはずですよ。豊島区の睡眠時間二時間半は労働法違反ですよ。私の役所の職員課では、はっきりそう言ってますよ」
 そう他区の職員が教えてくれたのだ。
 豊島区の職員課に、その点を問い合わせてみると、もごもごとハッキリした答えを出さない。「それでは情報公開で請求しますよ」と言うと、対応した高橋計之課長も、やっと覚悟を決めたのか、その通知を持ってきた。 やはり豊島区にも通達は来ていたのだ。
 そこには「睡眠時間付与にあたっては、(中略)四時間を下がらず七時間を超えない範囲で(後略)」と書かれていた。つまり私の課せられていた二時間半の睡眠そのものが、東京都の条例に違反していたのだ。
 もしかすると、この裁判は勝てるかもしれない。私の中にかすかな希望が湧き起こった瞬間だった。 (■つづく)

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内部告発・豊島区は税金泥棒/第9回 旧態依然の対応

■月刊『記録』98年5月号掲載記事 

           ※        ※        ※

 二月一日は父の命日だった。
 その日は、いつものように宿直室で朝を迎えた。頭の片隅で父を思いながら、普段と変わらぬ仕事を淡々と片付けていた。父の命日であることを除けば、普段と変わりない日常だった。
 だが八時二〇分に事件が起こる。
 鈴木敏万総務部長・高橋計之職員課長そして職員課の職員三人が、いきなり宿直室に入ってきたのだ。五畳程度の広さしかない宿直室は、人で埋まった。
 間の悪いことに、私は区民からの電話を受けている最中だった。電話を切るわけにはいかない。突然の侵入者を椅子から見上げながら、電話対応を続けていた。そんな私に、高橋課長の声が響いた。
「これから処分を行います」
 こちらの都合は関係なし。何だがわけがわからないうちに、いきなり一五日間の停職処分が言い渡されようとしていた。
「あと一〇分で仕事が終わるので、待ってくれませんか」
 どうにか電話を切り、私は一〇分だけの猶予を申し出た。だが、それも無視。
 「組合には話を通してあるんですか?」
 ただ黙って処分されるわけにもいかない。そこで、本来なら私を守る立場にある組合の意向を確認した。
「通している」
 高橋課長は眉一つ動かすでもなく答えた。
「本当ですか?」と聞くと「本当だ」と言う。動じる気配さえない。
 仕事中だというのにいきなりの処分。総勢五人を引き連れた威圧的な対応。そんな状況で行われた役所の処分など、「はい、そうですか」と簡単に認められるわけがない。怒りが腹の底から昇ってくるのを感じた。
「組合に確かめてくる」そう言い放つと、私は席を立った。その途端、和田課長はいきなり前から両手で、私の肩を押さえ、力を加えて私を席に戻そうとした。私は「何をする」と言って課長を押し返す。すると課長の足は、私に手をかけた状態のまま、ずるずるとうしろへさがっていった。
 処分説明を読んでいた総務部長は慌てた。「もういい」と読むのを中断し、処分説明書を手にしたまま退席した。職員課長と他の職員もこれに従った。しかし一~二分すると、宿直室の引き戸が一〇センチほど開き、高橋課長がその間から顔を横にしてのぞかせた。「渡すよ」と言って部長が持って出た処分説明書を内側にすべりこませた。
 処分など受ける理由はない。そう感じた私は「返す」という言葉とともに説明書を職員課長につき返そうとした。だが、すでに引っ込められかけていた、職員課長の手には説明書は収まらず、音もなく床の上を滑っていった。課長はゆっくりとB5判の説明書を拾い、戻って行った。

■腐敗に気づけない役所人

 かなり乱暴な処分だった。今までも役所の横暴な態度には驚かされてきたが、ここまで唐突で強引な処分は記憶にもなかった。役所が私を力技でねじ伏せるために全力を投入しているのを感じた。そして、その先頭に立っていたのが高橋課長だったのだ。
 九二年の秋、私は高橋課長と組合役員及び同僚も交えて、勤務問題解決について話し合ったことがある。もちろん話し合いは平行線をたどった。
 健康を保たつために、以前の勤務体系に戻せと主張する私と、決められた規則に従わないならすぐにでも辞めろと迫る課長。私の要求に対する彼の答えは、たった一言「寝ぼけたことを言うな」だった。結局、「いずれあなたに対しては、法に照らして厳正に処分する」という高橋課長の言葉で会議は終わった。このとき上司には腰が低く、部下には厳しいと評判だった課長の処世術を肌で感じた。とはいえ、この後いきなり一五日間の停職処分がくるとは思ってもいなかったのだが……。
 私を処分させるには、役所にとって、高橋氏はもってこいの人物だったろう。誤った論理であっても上の出した判断なら、彼は信じて疑わない。事情を検討すれば、私の要求はまっとうなものであるとわかるのだ。それが証拠に、表だって逆らいこそしなかったものの、私を応援してくれていた職員は少なからずいたのだ。しかし、根っからの公務員であった彼は、悪しき役所の掟をもって私を断罪することに疑問を抱かなかったのである。
 もっとも、そんな彼を単純に責めるわけにもいかない。役所とは、そんな人間を育てる場所なのだ。ウミは前例となって、外部に知られることのないまま、ますます役所全体を腐らせていく。内部の職員は、誰も腐敗を止められない。なぜなら腐敗に気づくことさえないからだ。
 九六年に豊島区池袋のアパートで、親子の餓死死体が発見されたのを憶えているだろうか。新聞・週刊誌でずいぶん報道されたものだ。豊島区役所がどういった体質をもつのかを理解してもらうために、この事件をあえてここで紹介したい。
「とうとう今朝までで私共は食事が終った。明日からは何一つ口にするものがない。少しだけ、お茶の残りがあるが、ただお茶を毎日飲み続けられるだろうか」
『週刊文春』(九六年六月二七日号)に公開された日記には、貧困によって食べられなくなった親子の壮絶な様子が綿々と記されている。病弱な息子を抱えた七七歳の老女には、働く力もなく、年金以外に現金を得る方法もなかった。
 この親子の尋常ならざる状態に、はじめに気づいたのは、餓死した母親から国民年金の免除申請書とともに、生活の窮状の書かれた手紙を受け取った豊島区の年金課職員だった。この職員はすぐに福祉事務所に連絡し、生活保護の対象になるのではないかと問い合わせた。ところが福祉事務所は、「他の課の個人情報で動くのはプライバシーの点から問題」(九六年七月四日『東京新聞』)として、取り合わなかったばかりか、なんの行動も起こさなかったのである。

■貧困者を常習者と言う役所

 遺体が発見されたあとにも、親子の生活状態が事細かに記された日記について、「シュレッダーで処分した」などと、都議からの問い合わせに嘘をついていたという。もちろんこの発言はすぐに撤回され、親子の日記は白日の下にさらされることとなった。そしてこのときの福祉部長は高橋氏である。
 結局、事件発覚から二ヶ月後には、職員の対応に責任を取らせる形で、高橋氏をはじめ福祉事務所長に一カ月の減給、助役にけん責、相談係長に文書訓告という処分が下された。
 餓死するほど困った人を目の前にすれば、普通ならば理屈抜きで助けてしまうのが人間だろう。だがそんな人間的な感情を、役所は許さないのだ。
 仕事を探しに行くお金がない。食べ物を買うお金がない。そんな理由で役所を訪ねてくるホームレス風の人物に対して、「常習者には金を渡さない」という指示が福祉事務所から出されていたのは、その非人間性を示す好例だろう。しかも役所の基準では、たった二度の訪問で「常習者」というレッテルが貼られていた。
 酷寒の夜に訪れる救いを求める手へなど、たとえ常習者であろうとなかろうと貸さざるを得ないと感じるのが人間ではないか。私も宿直日に何度か貸し出したことがある。そうするとたちまち「五十嵐がどんどん貸すから、仕事がやりにくい」などと同僚からクレームが出るのだ。
「役所などにたのむ様にと、おしえられましたが、私共は普通と違う丈に、一般の人同様にはしてもらえないでせう。今後どうして生きて行くのでせうか。
 早く死なせて下さい。子供と私を一緒に死なせて下さい。外に方法がありません」(九六年六月二七日号『週刊文春』)
 餓死した親子がなぜこのように追い込まれたのか、私には痛いほどわかる。発言力をもたない経済的弱者に対して冷やかな役所の体質が原因なのだ。そして現在も、その状況は改善されていない。余りにも旧態依然である。 (■つづく)

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内部告発・豊島区は税金泥棒/第8回 処分ラッシュ

■月刊『記録』98年4月号掲載記事

        ※        ※        ※

 一九九一年六月一五日、勤務時間の任意の変更を総務課長に文書で通知して、はじめての給料日であった。何かが起こる。そんな予感がした。
 働いていない時間帯の賃金を給料から差し引くよう、私は上司に強く要求していた。明らかな税金の無駄遣いと考えられる勤務時間や、健康管理に著しく無理の伴う勤務時間には従えないことを課長に通知し、これに相当する賃金を給与から差し引くよう求めていたのだ。そして私は、申し入れ通りの内容で勤務を行い、すでに一ヵ月が経過しようとしていた。
 しかし前例主義の役所が、私の要求を簡単にのむとは思えなかった。それに、要求を満たせば、役所自身が自らの不備を認めたことになる。彼らは、かねがね宿直業務を円滑に機能させるためには、私の指摘する無駄と無理は必然的に必要であると主張してきていたからだ。役所がそんな危険を冒すはずがなかった。そこで何らかの対抗手段を打ってくるだろうと思われたのだ。
 一五日の朝、私は事務担当者から、銀行振込額を記した給与明細を受け取った。急いで内容を確かめたが、まったく控除されてはいなかった。控除されていれば、前月分より約五~六万円のマイナスになっているはずだ。そして、それっきり呼び出しがあるわけでもなく、なんらかの書類を渡されるわけでなく、淡々と朝の時間は過ぎていった。
 私は、ただちに課長と事務担当者に抗議した。「私は課長に手渡した文書通りに勤務している。従って、それに応じた減額処置をとってもらわなければ困る」と。しかし課長と事務担当者は「現認していないから」と言って取り合おうとはしなかった。つまり、私が寝ていたり、帰ったりしたのを実際に見たわけではないので、控除するわけにはいかないというのである。
 正直、私にとっても給料の減額は苦しい。生活費・住んでいるアパート代・木更津に買った家のローンなどで、切りつめても二〇万円はかかってしまう。役所と闘い続けていることもあり、高い給料などもらってはいないにもかかわらず、そこからの減額である。しかし働いていない時間の金を受け取るわけにはいかない。そんなことをすれば、自分が糾弾している不正に荷担するだけではなく、私をクビにする口実をいっそう役所に与えてしまうからだ。何が何でも減額させる必要があった。
 仕方なく、その月は、課長、事務担当者に「来月は必ず今月の控除分をも含めて控除すること」を要求するにとどめた。そして、そのまま給与係に赴き、今までの銀行振込を給与袋の手渡しに変更してほしい旨の申し入れをした。給与袋なら、その場で減額の有無が確認でき、もし減額されていなければ全額の受け取りを拒否することもできるだろう。
 そして、翌月の給与も減額されてはいなかった。私は事務担当者と課長に、話が違うと抗議した。今、この給与袋から前月分と今月分の控除をしてほしいこと、そうすれば給与袋を受け取ることを伝えた。だが彼らは「現認していないから」を繰り返すばかりだった。
 ここから余分な給料の押しつけあいという前代未聞の闘いが本格的に始まることになる。

■同僚がローンの総額を質問

 給料日のたびに私と課長や事務担当者との言い争いは続けられた。しかし、事態は一向に好転しなかった。仕方がなく、私は強硬手段に出た。一二月二四日、一二月分の給料全額を豊島区長の加藤一敏氏に送りつけたのである。
 さすがにこの行動には役所も驚いたようだった。いくら減額処理をしてくれと頼んでも、まったく意に介さないといった態度を貫いてきた役所が、年が明けてすぐに私に呼び出しをかけてきた。場所は部長室。職員課長と総務課長が口をそろえて、「まあ、固いこと言わずに給料をもらいなさい」と言う。
 もちろん、この日も話し合いは平行線のまま終わったのだが。
 そして一月の給料日。またしても減額されていない給料袋が手渡された。ついに私は、その場で事務担当者につき返した。こうなれば我慢比べである。役所としても、給料を支給しない異常事態を長期間続けられるわけはない。結局、私の給与袋は、九一年の十二月分から九二年の三月分まで、総務課の金庫に保管されることになった。
 しかし、膠着状態に陥ったかにみえた、私と役所のつばぜり合いは、意外な結末を迎えた。九二年四月一〇日、なんと、一年分の控除精算がいきなり行われたのだ。合計六六万余円の差額分が、金庫に保管された四ヶ月分の給与袋から差し引かれ、残りが給与として私に支給された。こんな突然の決定を促したのは、明らかに私が三月二一日に起こした、前述の無駄と無理に対する監査請求であった。おそらく給料を払っていない事実が監査委員の間で問題になったのであろう。それが証拠に、四月二八日に出された監査結果には「四月一〇日に精算後の給与を既に本人が受領しているので、措置要求は解消している」と書かれている。監査請求が出されてからいきなり精算しておいて、「措置請求は解消している」もないものである。
 以前起こした監査請求でも区側に立った調査しか行われなかったが、その伝統は今回もしっかり生きていた。二時間半の睡眠時間に関しては「監査の対象外である」と退けながら、「個人的な要望や主張が通らないことをもって、勤務を一方的に変更し、勤務命令に違反することは、公務員として許されるべきものではなく、服務に関する法令を遵守するよう指導することが必要であると考える」と、監査結果を知らせた文書には、平然と記されていた。
 だが、自ら決めた勤務体系で働きはじめてから、わずか一ヶ月足らずで私の体調は好転していた。増え続けていた体重も一息に落ちていった。二四時間、私の体を離れなかった倦怠感も、いつの間にか消えていった。そして勤務時間変更直前に私を襲った、頭の奥から発する鋭い痛みも消えた。それは再発すれば治療不可能といわれた、あの顔面麻痺の初期症状そのものだった。そこまで体も追い詰められていたのだ。服務を遵守していれば、確実に再発していただろう。
 結局、監査請求によって改善されたのは、四ヵ月分の給与から控除されたこと。そして残額が手許に戻されたことぐらいだった。もちろん負の代償も付いてきた。この監査請求をい一つの契機として、「法令を遵守するよう指導す」べく、怒濤の攻撃を区が仕掛けてくることになったのだ。

■「必要な措置をとる」

 同年、五月一六日、職務命令。
 私と課長の名前、日付、そして「割り振られた勤務時間を勤務すること」とだけ書かれた紙が手渡された。
 約二ヶ月後の七月六日、勤務明けの朝に私に声がかかった。
「五十嵐さん、部長が呼んでますよ」。嫌な予感がした。「行きたくないな」とつぶやきながら部長室に目をやると、部長がニヤニヤ笑って立っている。「ちょっと来てくれ」という部長の呼びかけに、「そのちょっとが危ない」と私が答えると、職員から笑い声があがった。危険人物とされている私が部長から呼ばれるなどロクなことはないはず。職員もそのことを知っていた。
 案の上、部長室で着席した途端に改善勧告書が読み上げられた。途中から「その書類いりませんよ」。そう言い残して部長室を出た私の背中で、まだ笑い声が響いていた。
 改善勧告の内容は、次のようなものだった。
「あなたは、平成四年五月一六日に『割り振られた勤務時間を勤務すること』との職務命令が発せられたにもかかわらず、同日以降も遅参及び早退を重ねています。
 このような行為は、公務員としてあるまじき行為であって、誠に遺憾であります。直ちに改善するよう勧告します。
 なお、改善されない場合には、地方公務員方に基づき、必要な措置をとることを付け加えます」
 最後の一文など明らかに脅し。「辞めるか、いやなら顔面麻痺になれ」と言っているようなものではないか。 (■つづく)

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内部告発・豊島区は税金泥棒/第7回 サイは投げられた

■月刊『記録』98年3月号掲載記事

      ※       ※       ※

 数々の疑惑にまみれた行政訴訟を取り下げてから一年、一人に戻っての闘いは、近藤秀夫助役との話し合いから始まった。
 私の要求はただ一つ。取り下げと引き替えに約束した三条件を守らせること。宿直職員による不当利得の(役所への)返還、私の訓告処分取り消し、勤務形態の変更、どれも当然といえば、あまりに当然な要求である。だが役所は一つとして実行しようとしていなかった。役所が金の無駄使いを闇から闇へ葬り去ろうとする腹づもりなら、この実態だけでも区民に知らせなければならない。その前に区政トップの本心がどこにあるのかを直接確認する必要がある、と私は判断した。
 一九八八年四月・助役室。「何故、約束の三点が未だに実行されないのか」の私の質問に対し、近藤助役は緊張した面もちで「関係者とは、すでに協議済みだ」とだけ繰り返した。「役所が何もしないなら不正を区民に報告せざるを得ないですよ。これは事実上の訴訟当事者としての私の区民への義務だと思っている」との指摘にも、「区民に報告するのは、あなたであって私ではない。従って、私はその点について何ともコメントのしようがない」と、木で鼻をくくったような返答であった。
 一九八九年三月十二日の午後一時・区長室。私は助役に尋ねた同じ内容を加藤区長にも質問した。返答は「宿直問題は取り下げにより既に解決したと思っている」であった。こんな不誠実な態度では、原告団と取り交わした文章も到底守られるはずがない。訴訟が終わったのをいいことに、役所は徹底的に私を無視する作戦に出ていたのである。
 そこで私は「区民に不正を明らかにする」と明言し、区長にその場で抗議の上申書を直接、手渡した。これが当時、私のできる唯一の抵抗だったからだ。
 八九年六月一二日の早朝、勤務形態の異常さと、宿直問題の現状をA四版の用紙四枚にまとめ、庁舎全域に配布するとともに豊島区内の全町会長に郵送した。町会長には、区内の有力者があてられ実質的な町内の実務を行っている。全区でおよそ一三〇人にのぼる町会長は、役所と月一回、区の行政について話し合っており、一般市民とはいえ少なからず行政に参加する立場だ。
 もちろん役所とも近い関係にある町会長達が、簡単に私の状況を変えてくれるなどとは思っていなかった。ただ「この報告は公僕の区民への義務」と信じ、またこれを明言した以上、私はやらなくてはならなかったのだ。言葉を発し行動しなければ、私を騙し、潰そうとしている彼らと同じ土俵に立ってしまう。それは耐えられないことだった。変則勤務のおかで、ただでさえ少ない睡眠時間を削り、私は一三〇人分のビラを作り、宛名を書いてポストに投げ込んだ。
「あー、その人物は訓告処分を受けていますよ」
 だが、やはり無駄だった。のちになって、ビラを見た五人の町会長が総務課に電話をかけてきたと聞かされたが、そんな問合わせも中原総務部長の一言でもみ消されてしまっていた。
「それじゃあ、しょうがないね」と、町会長らは言ったという。処罰を受けた職員の戯言など、誰も聞こうとはしないのだ。この日のために訓告処分は発せられていたのだと、私は役所の、そんなところにだけは用意周到さを惜しげもなくみせる情熱に、改めて呆れ、舌を巻いた。だが、日々追いつめられているのは自分なのだ。舌を巻いている場合ではなかった。

■弱みに喰いつく役所

 年老いた両親のため、木更津から通う必要が私にはあった。そのために必要な時間は往復六時間。八四年四月から始まった変則勤務は、そんな私の弱点を突くように作られていた。三週間に二回、四時間の勤務が巡ってくる。しかもその四時間勤務の数時間後には、二時間半しか睡眠を許されない一四時間勤務や、二〇時間勤務が待っているのだ。
 二十時間勤務の場合などは、午前六時前に家を出て翌日の午後二時頃に帰宅することになる。さらに二時間半の睡眠時間さえ、常に確保されているわけではないのである。区民・関係機関からの緊急の照会や連絡、無言電話などにより事実上の徹夜状態になることも決して少なくない。これでは体が保つほうが不思議だ。
 そして、ここが役所の上手いところなのだが、こんな無茶な勤務態勢も、実は私一人に課せられているわけではなかったのである。他の宿直職員にも一応は平等に課せられていた。ただ、当たり前のことながら、当局は、私以外の宿直勤務者にこんなバカげた就業規則を守らせてはいなかった。皆、午前〇時から七時ぐらいまで、たっぷり睡眠をとっていた。肩書き・給料が同じ夜間警備員の場合は、午前〇時から五時までを睡眠時間として認められていた。さらに朝の七時まで寝ていても、事実上、誰からもお咎めがなかった。
 また宿直勤務には、業務が入るはずのない時間帯が組み込まれていた。隔週土曜日の午前九時半から午後十二時半と、泊まり勤務の翌朝の平日・午前八時四十五分から同十時がそれである。宿直職員は、昼間の職員がいないときに役所の業務が滞らないように配置されてるものであるにもかかわらず、この時間帯には昼間の職員が勤務しているのである。これは勤務の体裁をとった税金の無駄遣いに他ならない。
 それだけではない。私への確認も相談もまったくなく、勤務形式は少しずつ変えられていくのである。私の急所をめがけ、さらなる攻撃を加えるかのように変化していくのだ。
 例えば、私は上司や関係者に、機会あるごとに改善要求を申し入れていた。あるとき、私は事務担当者に駅から自宅までの最終バスに間に合うように、勤務形式を組み替えてほしいと要求したことがあった。
 彼は、そのときは何気ない様子で、私から最終バスの時間を聞き出しメモしていた。だが、次に行われた勤務形式の変更内容をみると、私が確実にタクシーを使わねばならぬように時間を組み替えてきたのである。ボクサーが傷口を見せれば狙われ、拳を打ち込まれるように、役所も弱点を見せれば飛びかかってくる。情けも容赦もなく、即座に喰いついてくる。
 その頃、私は当時の総務部長の中原氏(現、収入役)にも、無意味かつ無理な睡眠時間の是正を繰り返し申し入れてきた。しかし、同氏からの返答は「無駄もなければ無理もない、従わなければ職務命令を出す」という一方的で強圧的なものであった。このため、平成二年七月五日、同総務部長に対し、納得のいく返答を求めて内容証明による質問状を送付した。しかし、その返答は、やはり皆無であった。

■自分で自分を守るしかない

 肉体が限界に達しつつある。
 数日間ごとに昼型と夜型を入れ替える生活、通勤時間を含めた四二時間勤務。そんな無理を強いられた七年間で、私はストレスからブクブクに太ってしまった。体重は五三㎏から一挙に七〇㎏となり、体のあちこちが悲鳴をあげていた。いつ大病に犯されもおかしくないほど健康状態は悪化していた。これに加えて、顔面マヒの再発の余兆である。医者からは以前より、マヒが再発すれば社会復帰は不可能と断言されていたが、顔面のむくみ、頭芯の痛みは頻発している。もうこれ以上規則を守り続けることはできない。その思いが、一つの決断を下させた。
 九一年五月二二日、「あなた方区役所と組合は、私の健康と人間としての最低限度のプライドさえも踏みにじろうとしている。もはや私には、自分で自分を守るしか方法はない」という言葉とともに、一通の文書を当時の総務課長・堀田徳夫氏に手渡した。
 文書の内容は、三点の勤務時間帯の変更の申し入れである。これらの勤務時間帯は、宿直業務としてはあまりにも無意味な拘束であって、明らかな税金の無駄遣いである。同時に、遠距離通勤の私にとって著しい健康管理の障害だと判断したからである。
 一、開庁している土曜日の出勤時間を、午前九時半から一二時に変える。二、泊まり明けの退庁時間を、午前一〇時から午前九時に変更する。三、睡眠時間を二時間半から五時間にする。
 役所が勤務時間を変えないなら自分で変えると宣言したのである。もちろん時間短縮と睡眠時間の拡大によって生じる余分な給料分は、すべて役所に返すことも明らかにした。また、当然のことであるが掘田課長には、この文書を手渡す際、たとえ睡眠時間帯であっても業務が発生すれば、直ちに対応する旨を伝えている。
 こうして就業規定を任意に変更すると宣言したことで、私と当局との軋轢は一挙に高まった。サイは投げられたのである。 (■つづく)

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内部告発・豊島区は税金泥棒/第6回 訴訟の裏側・2

■月刊『記録』98年2月号掲載記事

         ※        ※        ※

■不可解な昇給

「もし日比寛道区長の出馬がハッキリしたら、俺も区長選に出て訴訟中の宿直問題をぶつけるよ」
「区長には俺がねじ込んだんだ。区長に立候補して、あなたの政治生命に傷がついてもいいのかってね」
 勝てると思われた住民訴訟を取り下げる数ヶ月前、江畑騎十郎氏はこんな言葉を何度となく口にした。当時、事態を改善しようとしない日比市長に嫌気がさしていた私にとって、江崎氏の言葉はそれほど気にならなかった。しかし訴訟取り下げ後、事態の改善がまったくない状況の中で、この言葉は訴訟に対する私の疑惑を深めていった。
 どうして区長選投票日のわずか20日ほど前に訴訟を取り下げたのか。住民訴訟の道筋をつけてくれた区議と新市長が親しいのは偶然か。どうして江畑氏は日比市長を脅したのか。答えを求めれば求めるほど、見たくない図式が浮かび上がってきた。
 一九八七年四月二六日に行われた豊島区長選は、前助役の加藤一敏氏が当選を果たした。この加藤氏こそ、八二年から八五年まで総務部長を務めた私の上司である。そんな男が居座る区長室に、私を訴訟に導いた区議が足繁く通っている。この事実は少なからず私を落ち込ませた。職員の噂からも、二人が以前から親しい友人であることは疑いようがなかった。
 前区長の立候補を断念させた江畑氏と、新区長と連絡を取り合う区議。詮索するなというほうが無理な話だ。しかも現実を直視すれば、符丁の合う事柄も出てくる。
 区長選から三年以上も前となる内部告発の後、役所の廊下で私を呼び止めた加藤総務部長が、「区議に感謝しなよ」と私に耳打ちしたことがあった。当時は、訳がわからなかったが、訓告処分を言い渡す直前だったことを考えると、加藤氏と区議で私の処遇を話し合ったと考えるのが妥当だろう。
 まだある。
 江畑氏に続いて訴訟の中心的な役割を果たした警備員の昇給だ。なんと加藤新区長に変わった直後、この男性は連続して特別昇給を受けているのである。毎年、一つずつ給与のランクが上がっていくのが一般的なのに、連続して二つも三つもランクが上がったという。給料のランクが一番影響を及ぼすのは、退職金である。特別昇給によって自分の退職金がどれほど跳ね上がったかを、私はこの男性の口から直接聞いた。話しても時効だと思ったのか、私が何も気づかないと思ったのかはわからない。しかし嬉しそうに自慢する彼の言葉に私は耳を疑った。
 考えてみてほしい。
 公務員としてつつがなく生きてきた彼に、いきなり昇級する理由などあるわけない。営業成績が認められる民間企業ではなく、学校警備員なのだ。どうしても新市長の加藤氏との関係を疑わざるを得ない。
 だが彼が活躍した訴訟と加藤氏をまっとうに結びつけても、昇級の理由はみえてこない。なぜならこの訴訟は、常識的には上司としての監督責任を問われてもおかしくないからである。ここでも勘ぐりたくなる環境がそろっている。
 日比市長の任期が切れる三年前、私の内部告発を契機に、加藤氏・江畑氏・区議のもくろみは始まったのではないか。住民訴訟を起こせば、日比市長への強いプレッシャーになることは間違いない。「日比市長に内容証明付きで告発をしていた」と私が弁護士に語ったとき、弁護士が手放しで喜んだ理由も説明つく。
 しかも加藤氏には、別の追い風も吹いていた。私が内部告発をした八四年二月当時から、助役がガンで長期入院したのである。区長から信任の厚かった助役は、元気なら順当にいけば区長になっていたはずだ。その席次が病気によって狂った。そして助役になるのに好都合な役職・総務部長を手にしている加藤氏に順番がめぐってきた。条件が整ったのだ。
 そして何も知らない私は彼らに手を貸し、他人に迷惑までかけてしまった。そのことに胸が痛む。忘れたくても忘れられぬ光景が、胸の奥によみがえるのだ。

■そして助役は死んだ

 八四年三月二七日、私は訓告処分を受けた。その時、助役室で私を待っていたのが、当時の助役だった。入院していた病院から、処分の文章を読むためだけに出勤したという。「五十嵐君が処分を受けるのは、私の責任だ」という言葉を残したという噂を聞いたが、真偽のほどは定かではない。
 しかし彼が命を賭して、私に対面したことは事実だった。
 顔は土色、額には脂汗、手はぶるぶると震え、脚が定まらないのか体は前後に揺れ続ける。そんな助役が、私の訓告処分を絞りだすような声で読み上げるのだ。にもかかわらず同席した総務部長・職員課長・総務課長・職員係長などは、誰も助役に手を貸そうとはしなかった。ただ冷ややかな目つきで、眺めているだけなのである。
 助役の苦行は、それだけにとどまらなかった。病院に帰る地下の駐車場までの道のりが、また彼を痛めつけたのだ。助ける者もなく、エレベーターを降りてから公用車までのわずか数十メートルを、一人壁を伝うように歩いていたという。
 この助役は男気があり、一般職員からも人気が高かったが、このとき助役室に集まった人々は、彼の死によって昇格する人達ばかりだった。だからこそ冷え冷えとした眼差しが助役に注ぎ続けられ、彼を世話しようという人も現れなかったのだろう。
 結局、このセレモニーから二日後、彼は危篤状態に陥り、四月九日に永眠した。
 悲しいことに助役の最後の生命力を奪ったのは私だ。そして、その死が加藤氏や江畑氏を喜ばせることになった。死期を早めたという悔恨が、今でも心のどこかでうずき続けている。
 もし助役が生きていれば、私を取り巻く状況も大幅に改善されていたかもしれないという思いも、心の痛みに拍車をかける。日比市長に近い筋によれば、私からの告発文を受け取った後、「よく調べて善処しろ」と彼は職員に命じたという。しかし調査命令は、加藤氏子飼いの職員によって放っておかれ、手を着けられねままになったと聞く。もしこの助役が市長になれば、放っておかれた調査も再開したかもしれない。

■監視されていた

 そのうえ私の行動は、常に江畑氏に伝わり、誘導されてしまっていたのだ。訴訟への影響を計りたいからと言われ、私は江畑氏に毎日連絡を入れるようにしていたのだ。役所でどんなことがあったのか、どのような人と接触したのか、私は馬鹿正直にこと細かく報告した。私と役所の状況が一挙にわかるこの電話は、江畑氏にとって非常に好都合だったはずだ。
 不当な訓告処分を認めたと思わせる手紙を、全区議に送ってしまったこともある。私の問題を区議会で取り上げてくれたことに対するお礼状が、問題の品だった。下書きを江畑氏が書き終え、「時間がないから、あとは五十嵐さんが書いておいてください」と頼まれたのである。八四年の訓告処分から幾月も経ていない時期、つまり私が最も江畑さんを信頼していた時だっただけに疑いもしなかった。だがそんな無防備さをついて、「私が処分をうけるのは仕方ありませんが」という一文が手紙に入っていたのである。へりくだった表現のようだが、読みようによっては不当な訓告処分を認めたことになる。
 もしかしたら、すべては私の思い込みなのかもしれない。しかし筋を追っていくと、意図的なものを何か感じざるを得ないのだ。あれだけ私の裁判に協力してくれた仲間は、学校警備員の仕事存続が決まり、新市長が誕生すると、蜘蛛の子を散らすようにいなくなった。何も変わらない状況を残して、また私は独りになっていたのだから……。   (■つづく)

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内部告発・豊島区は税金泥棒/第5回 訴訟の裏側

■月刊『記録』98年1月掲載記事

          ※        ※        ※

■弱気の原告

 訴訟を取り下げるにあたっての最大の問題は、私が出した三つの条件だった。
・宿直勤務の同僚が得た不当利得の全面返還
・私に対する訓告処分の取り消し
・宿直勤務の形式を、一九八四年四月以前の状態に戻すこと
 裁判で争っていたのは、不当利益の全面返還だけだったが、私への嫌がらせとしか思えない勤務体系や不当な処分の実態は、裁判の進行とともに明らかにされつつあった。判決によって事態は改善されるだろうと、弁護士も折りに触れ話していた。勝てる裁判を取り下げるのだから、最低限、この状況を改善してもらいたい。私は切実にそう願っていた。極度の寝不足と闘いながら働く毎日に疲れ果てていたのだ。
 ところが私の代わりとして原告となった江畑騎十郎氏は、助役と交渉を終えるたびに弱きな発言を繰り返したのだ。曰く、「三つは無理だ。一つにしてくれ」。「勤務形式だけを役所にのませるのはどうだ」。突然の取り下げの提案と弱腰の態度に、私は彼に対して日々不信感を募らせていった。最初の出会いで頼もしいと感ただけに、かえって裏切られた気持ちが強まっていったのである。
 訴訟取り下げ騒動からさかのぼること一一年、私は怒りに身を震わせながら江畑氏が警備する学校に押しかけたことがある。それが彼との最初の出会いだった。
 当時、宿直の職員が一人辞め、その補充をめぐり私は上司と対立を深めていた。職員採用の代わりに用意されたのは、右も左も分からない日替わりのアルバイト。定期的に来てくれるならいざ知らず、次いつ来るのかも分からないアルバイトに、込み入った仕事を頼むわけにもいかない。しかも職員の補充ができない理由はまったく見当たらなかった。新たないじめだった。
 黙っていても、不当な処遇が変わるはずもない。総務課長と組合の委員長に、職員を採用しない理由を問いただした。
「学校警備員分会が反対しているからだ」
 それが二人の答えだった。宿直業務に関わりのない、豊島区役所の労働組合の一支部が何をほざいているのか。私は怒りとともに、学校警備員分会への直談判を決意したのである。数日後、私は休日の学校を訪ねていた。平日の喧噪が嘘のように静まり返った校内が、よけいに私の緊張感を高めた。
 そこで出会った、当時学校警備員分会の責任者である江畑氏は、勢い込む私をばかにするでもなく、猜疑心に満ちあふれた眼を向けるでもなく、極めて熱心に応対してくれた。じっくりと話に耳を傾け、的確に質問をする。そして私の話を聞き終わると、「職員の補充に反対したことなどない」という言葉とともに、その場で学校警備員分会の仲間に電話をかけ始めたのである。そして事実確認を終えた彼は、事態の収拾さえ約束した。私が説明を始めてからわずか一時間。江畑氏の手によって、事態は一気に収束に向かって動いた。
 東大卒で社会党中央執行部に在籍したいたとの噂もあった江畑氏は、噂通り、いやそれ以上の切れ者(切れ者に傍点)であった。筋道だった話し方には無駄がなく、説得力に溢れていた。意思の強さを感じさせる目、即座に問題を解決しようとする行動力。すべてが私を圧倒した。もちろん江畑氏は約束を守ってくれた。私が訪ねた数日後には、総務部長に直接掛け合い、職員補充の約束を取り付けたのである。

■祝勝会は知らない人だらけ

 私は三つの要求を主張し続けた。ここで妥協すれば、裁判した意味がない。粘り強い交渉が数週間も続き、ついに「先方(助役)が了解した」と江畑氏から報告を受けるにいたったのである。
 一九八七年四月三日、訴訟はすべて取り下げられた。
 取り下げから数日後、巣鴨にある居酒屋・神戸屋別館で祝勝会が開かれた。会場は実質勝利の結果に沸き返っていたが、私は祝勝会場で一人、不安に苛まれていた。弁護士二人、区議会議員二人を含めた二〇人ほどの参加者のうち、私が話したことがあるのはわずか五~六人。会場を埋めていたのは、私の知らない人ばかりであったのだ。
 さらに驚くべき事実も耳もした。
 「五十嵐君、心配ないよ。助役とは覚え書きを交わしたから。君の要求もいくつか書いた中に入れておいたよ」
 私の隣に座った区議は今まで会ったことさえないのに、赤ら顔をほころばせながら、そう語った。
 担がれたのではないか。そんな疑念が頭をかすめた。私が役所に要求した条件はわずか三点だ。ところが区議の言葉は、それ以外にもいくつかの密約が交わされたことを意味していた。
 「学校警備の連中は自分達の延命処置のために、五十嵐さんを利用したんですよ」
 数ヶ月前に軽く聞き流していた防災課職員の言葉が、胸を重苦しくしていた。同僚の突然の欠勤で、急遽仕事を手伝いに来てくれた彼は、仕事の合間に私の裁判に関する噂を口にしていたのだ。
 裁判が始まったころ、豊島区では学校警備員の異常な高給が問題となっていた。なにせ当時、年収一千万円もの高額所得者がゴロゴロいたのである。そこで区長をはじめとする区役所の中枢では、警備の機械化を推し進めようとしていた。もちろん失業を意味する機械化には、学校警備員は大反対。学校警備員分会を中心に、既得権を守ろうと懸命な運動が続いていたのである。もちろんその中心人物は、あの江崎氏だった。
 まず警備員分会が考え出した既得権確保の手段は、災害時の避難場所として学校を指定させ、非難した市民の学校内誘導を警備員の仕事として区に認めさせることだった。警備員が災害時に必要と認められれば、災害に備えて平時も学校に人を置いておく必要がでてくる。
 警備員分会は、この計画に沿って防災課に兼務辞令を認めさせようと圧力をかけていた。だが、傍流の組織と関わりあおうとする役人など、どこを探してもいようはずもない。やっかい事を押しつけようとする学校警備員分会は、防災課から敵対視すらされていたのだ。

■そして事態は変わらない

 学校警備員に利用された……。話を聞いたときには、警備員嫌いの防災課職員のたわごとだと、笑って否定していた。だが現実は彼の「たわごと」を証明しつつあった。祝勝会で交わされている会話から察するに、私の知らない参加者のほとんどが学校警備員なのだ。
 さらに祝勝会から数日後、もっと大きな衝撃が私を襲った。内部告発した直後に私に電話をかけてきてくれ、弁護士を紹介し、裁判の道筋をつけてくれた区議が、警備員分会の顧問だったというのである。もちろん祝勝会に現れたもう一人の議員も顧問だった。前にお話しした通り、弁護士も分会の顧問。原告は分会の責任者だ。私を除いて、裁判に関わったすべての人が、警備員の既得権に目の色を変えている連中だったのである。
 それでも問題が解決してくれされすれば、誰に利用されても仕方がないとも考えていた。弁護士も江畑氏も、確かによく動いてくれている。今更何を言っても始まらないではないか。そんな気持ちに支配されていたのだ。
 ところが警備の機械化は見送られたにも関わらず、私の要求は一年を経ても、なに一つ実行されることはなかった。なぜ実行されないのかという問いに対して、弁護士は「江畑氏に任せてある」と責任転嫁し、江畑氏は「助役に聞いてくれ」とつれない。助役は「関係者との話は済んでいる。その件は終わりました」と取り付く島がない。また一人取り残されてしまった。
 取り下げから一年、もう担がれたことを認めざるを得なかった。江畑氏が祝勝会の後、警備員への転職を勧めた訳が分かるような気がした。
 だが、この裁判にまつわる陰謀はこれだけではなかった。後にこの裁判により、知らぬ間に最大の敵に塩を送っていたことまで判明することになる。 (■つづく)

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内部告発・豊島区は税金泥棒/第4回 疑惑の住民訴訟

■月刊『記録』97年12月号掲載記事

           ※         ※         ※

■「監査請求すべきです」

「こんな不正は許されない。区議会議員として見過ごすわけにはいかない」
 穏やかな表情、力強い声、偉ぶらない態度。一体どうすれば、あのとき彼を疑えただろうか。元中央官僚だったという初老の区議会議員は自信に満ちあふれ、一方、私は破れかぶれの内部告発をした直後だった。
 すべての区議会議員に送った内部告発がきっかけとなって、役所と対決する人物が現われた。その事実に私は夢中になった。どれだけ不正を訴えても小さな風穴一つ開けられず、脱力感すら覚えていた私に、彼の存在は大きく映ったのである。
「これは監査請求をすべきです。何なら私が知り合いの弁護士を紹介しましょう」
 議員のこのような提案を拒む理由は何一つなかった。今まで役所への反撃は、すべて一人でしてきたのだ。私は諸手をあげて賛成した。一九八四年二月一五日、内部告発から四日後、前回お話した三人制シフトが発表される一ヶ月ほど前、法律的な決着を求めて私は大きく踏み出すことになった。だが協力者の出現に有頂天になっていた私には、不正への怒りでもなく善意でもない、提案の裏にある生臭い意図を嗅ぎとることができなかった。
           *  *  *
 議員との会談から数日を経て、自宅に弁護士から連絡が入った。今、考えれば、金にもならない監査請求の手続きをするために、弁護士のほうから電話をかけてくるなどおかしな話である。しかし不正への怒りを口にする弁護士を、私は無条件に信用した。役所の誰からも相手にされていない自分を騙しても、利益になる奴などいないだろうという思いもあった。結局、監査請求の書類を作るために、週に一回、銀座にある弁護士事務所に通うことになった。
 弁護士事務所では、とにかく事実を思い出し、証拠を提出するのが私の仕事であった。四月一日からは三人制シフトも始まり、事務所で三時間以上も話し込むのは楽ではない。話している最中にさえ眠ってしまうほどだ。だが元中央官僚だったという弁護士は怒ることなく、私を支え続けてくれた。本当に弁護士はやる気十分にみえたのだ。彼は弁護料さえいらないとまで言ってくれた。たしかにその言葉に嘘はなかった。監査請求に彼は、手弁当で協力してくれたのだ。

■監査結果は無惨

 何かがおかしいとはじめて感じたのは、三月二七日の訓告処分が出た直後である。事務所で処分の不当さを報告する私に、彼はまったく興味を示さなかった。正義のために、そして私を救うために動いてくれているなら、処分理由さえも怪しいこの事件を放っておくはずがなかった。ところが彼は聞き流すだけで、事実関係を確かめようともしないのだ。つい3週間ほど前、市長に内容証明付きの告発文を出したと報告したときには、満身で私を激励し、詳細に事実を確かめようとした彼がだ。この時が、彼が何を見つめているのかを推測できる最初のチャンスだった。しかし、私は彼の態度を追求できる立場にいなかった。訓告処分などというものは、法律的には大きな意味をもたないのかもしれないと、善意に解釈してしまった。私にとっては、この弁護士も市議会議員も大切な味方としか考えられなかったのである。
 事実の確認作業は順調に進み、八四年六月二日、監査請求が行なわれた。架空勤務に支払われたと推定される三千三五三万一四六〇円と、それに対する年五分の金利を区長と収入役に求めるのが請求内容となっていた。できばえは上々だった。区議と弁護士が付いているという強い安心感が、私を包んでいた。だからこそ極度の寝不足のなかで頑張れたのだ。
 しかし結果は無惨なものだった。監査請求から二ヶ月を経た八月六日に報告された監査結果には、次のように書かれていた。
「措置請求の原因となった中村及び上田の両名の無断早退について、両名は、行為の事実は認めたが、その日時を特定及び回数の確認が出来なかったので給与総額分の支払いについての措置はこれを求めない」
 予想通りの結果とはいえ、改めて役所の不正を正す難しさを味わった。監査委員会は、私に対する直接の事情聴取さえしなかったのだ。そのうえ監査結果報告書を読むと、提出した資料を都合よく使い、客観的な事実さえ大幅にゆがめている事実がみつかった。こんなものか。どこかで期待していた自分が情けなくなった。
 しかし弁護士は特にショックを受けた様子もなかった。というよりも満足する監査請求結果など出るはずもなく、続けて住民訴訟を起こすことになる予測を最初から立てていたようだった。そして、徹底的に闘うという彼の強い意志に、私は励まされた。
 だが、ここで一つ問題が起こる。住民訴訟を起こすには、豊島区在住の者でなければならないのである。木更津に住んでいる私には、訴えを起こす権利が与えられなのだ。急きょ身代わりの原告を捜すことになり、このとき率先して名乗りを上げてくれたのが、学校警備の部署にいた江畑騎十郎氏だった。一〇年ほど前、新規に職員を募集するかどうかで上司ともめた時、ひょんなきっかけから味方になってくれたのが、彼だった。私の弁護士も、学校警備の部署で顧問弁護士をしており、二人とも知らぬ仲ではなかった。この点からも江畑氏を原告にするのには都合が良かった。いや、あとから考えれば、都合が良すぎたのである。しかし当時の私は、この裁判の本当の意味をまだ知らなかった。

■訴訟継続断念

「このままでは不利だ。訴訟を取り下げよう」
 八七年三月末、私はいきなり江畑氏から、そう告げられた。場所は戸塚。弁護士が別荘として買った旧家の片づけを手伝っている最中だった。薄暗い廃屋の中で告げられた突然の言葉に、私は耳を疑った。
 勝てる。私はそう確信していたのだから。証拠の積み重ねが、被告に少しずつダメージを与えているのは確実なのだ。私のメモ・日報・区長への手紙など、あらゆる証拠を私は提示し続けてきた。私だけではない。原告の江畑氏や弁護士も、自信に満ちた発言を繰り返してくれていたではないか。勝てる裁判を続けることが、どうして突然、不利になるのか。間近に迫った証人尋問は、不正を暴く決定的な瞬間にもなりえるのである。彼に理由を問いだたしたが、
「止めたほうがいい」
 そう繰り返すばかりで、きちんとした説明は得られなかった。
 皆と別れたあと、江畑氏と二人で、戸塚駅近くの喫茶店に入ったのは夕方近くだった。
 私はいらだちを隠せなかった。彼がいくら言葉をつなぎ合わせても、裁判を止める理由がはっきりしないのである。しまいに江畑氏は、引っ越すので訴訟の原告人としての資格がなくなるとまで言い始めた。訴訟が始まる前は、名義だけを豊島区に残しても、裁判を続けると言い張っていた人がだ。とても同一人物の言葉とは思えなかった。
 だが、次の言葉が彼の口から発せられたとき、私は返す言葉を失った。
「もう弁護士さんも、訴訟の継続を嫌がっているんだ」
 監査請求から二年以上、たしかに坂本さんは、金にもならない訴訟を継続してくれていた。私自身、役所との闘いを決意し、厳しい人生を選択してしまったからこそ、まっとうな生活を守ることがどれほど大事なのかは身にしみていた。これ以上迷惑をかけたくないと思った。仕事が忙しくなったのかもしれない、他に助けるべき人が現れたのかもしれないのである。自分だけが彼の善意の恩恵を受け続けては、いけないと思った。
 江畑氏にこれまでの礼を言い、喫茶店のドアを開くと、いつの間にか小雨が地面を濡らしていた。
「カサを持って行っていいよ」
 手渡されたカサを受け取り、私達は別れた。もう誰とも話したくはなかった。そうして、八七年四月三日、私が正式に訴訟を取り下げたあとになって、思いもかけない二つの事実が発覚したのであった。  (■つづく)

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内部告発・豊島区は税金泥棒/第3回 役所逆襲

■月刊『記録』97年11月号掲載記事

          ※        ※        ※

■死期を早めたセレモニー
 役所の逆襲が始まった。
「五十嵐さん。助役室に行ってくれ」
 一九八四年三月二七日、仕事が終わり事務引継のために総務課を訪れた私を、高良総務課長が呼び止めた。思い切って内部告発に踏み切ったことで架空勤務もなくなり、それなりに平穏な日々を過ごしていた私が、この後に起こる重大な事態を予測できるはずもなかった。ただ私の履いていたゴム草履に目をとめ、「靴に履き替えてくれないか」と言葉を継がれたときには嫌な予感がした。
 三階の総務課から仕事場である地下に戻り、靴に履き替え助役室に急いだ。ノックをし、扉を開けると、緊張した面もちで円卓を囲んでいた頭が一斉に振り向いた。助役・総務部長・職員課長・人事係長・総務係長。ネクタイをきつく締め、隙のない姿勢で構えた彼らからは尋常ならざる気配が漂っていた。
「今から、五十嵐稔さんの処分を行います」
 口火を切ったのは、この日進行役を勤めていた職員課長だった。
  -処分-
 予想もしていなかった言葉だった。就業規則を守り、架空勤務さえしていない私がどうして処分されるのか。処分の対象になるような行為をいつしたというのか。怒りよりも先に疑問がわいた。

■解決していた職場離脱

 手渡された訓告処分の発令通知書は、読めば読むほど理解できないものだった。「上記の者は、昭和五九年二月一三日までの間、度々、勤務場所を離れ職場を放棄した」と、発令通知書には書いてあるのだが、いったいいつ自分が職場放棄をしたことがあるというのだろう。
 そこで発令から一週間後、職場を離れたのが日時を高良総務課長に確かめに行った。すると 「具体的に言う必要はない。わかっているからいいんだ」という答えが返ってきた。部下に罪人という判決を下し、処分まで言い渡しておいて、その理由も明らかにしないというのはいったいどういうことだろう。人権も何もあったものではない。
 仕方なく私は一人で理由に思いを巡らせた。すると一つだけ、思い当たる事柄に行き着いた。ただしその件は、すでに五年も前に解決済みのはずであった。しかし私には、それしか思い当たる節がないのだ。
 七九年のことである。私は役所から二度の職場離脱を注意された。一つは早朝に三階の総務課に移動していたこと。もう一つは隣室のエレベーター乗務員室で仮眠を取っていたことである。
 もちろんこの二つの移動にも理由はあった。総務室に上がっていたのは、仮眠時間中の同僚を起こしたくはなかったからだ。私は当時、唯一自分を庇ってくれたA氏とペアを組んでいた。顔面麻痺にまで追い込まれた頻繁の無言電話。早朝は、このベルが鳴らないわずかな静寂の時だった。だから、私はせめてA氏をゆっくり眠らせてあげたかった。総務室にいればA氏を起こすことなく電話を取ることができる。もともと早朝は私にとっても仮眠時間なのだ。電話を取ることに支障さえなければ問題ないだろう・・・。
 だが、総務課長は私に言った。
 「勤務時間中は、トイレ利用以外では宿直室を一切出るな」。そこで翌日から私は、トイレ以外に部屋を出るのをやめた。七九年八月四日のことである。
 エレベーター乗務員室で仮眠を取ったのも、やはり無言電話が原因だった。たまにはきちんとした仮眠を取らなければ、心身ともにダメになってしまう。そんな危機感から週末一回だけ、A氏と交代で仮眠場所として使用した。薄壁一枚に仕切られた隣室だ。声をあげさえすれば、いつでも宿直室に飛んで来られる場所だった。無言電話のために何らの措置も取られることのない状況で、守ってくれるのは薄い壁一枚だけ。情けないが苦肉の策だった。しかし数週間後、この行為さえも総務係長から日誌で注意を受ける。もちろん私達はその日から隣室の使用を中止した。

■訓告処分で信用失墜

 訓告処分といっても減俸されるわけでもなければ、停職期間があるわけでもない。ただ文章で、注意を受けるだけである。しかし、訓告にまったく意味がないかといえばそうでもない。停職処分などの重い処分が出されるのは、少なくとも過去に一回はこの処分を受た者に対して、という慣例が役所にはあるからだ。つまり文書訓告は、その後に始まる重い処分の予告編なのであった。
 また訓告は、私に対する信用を失墜させるのにも効果的だった。考えてみてほしい。職場では、上司・同僚からの評判が悪く、訓告処分まで受けている人物が、職場の不正を追及し続けている。この状況で私の話をまじめに聞いてくれる議員やマスコミ関係者がどれほどいるだろうか。これだけ大がかりな不正が、現在までほとんど騒がれなかった理由の一端もそこにある。
 このように影響力をもつ処分が、ろくな理由も示されずに決定されたことは、私に心理的な圧迫を与えた。しかし攻撃にうろたえている場合ではなかった。訓告処分を出されたのと同じ日に、さらに職務命令が下されたのである。そして私はとんでもない勤務体制を受け入れぜるを得なくなったのであった。

■従事不可能なら転職しろ

 まず、仮眠時間が五時間から二時間半に短縮された。寝てから二時間半後というのは、睡眠がかなり深い時期にあるため起きるのもつらい。ましてや午前二時半から五時までという常軌を逸した仮眠時間を指定された。こんな時間に体のリズムを合わせられるはずもない。だが私が規則を守れなければ、待っているのは首切りだ。他の職員が午前〇時から七時くらいまで、たっぷりと寝ている間、一二時から二時半など、逆立ちしても仕事のない時間ではあったが、私は睡魔と格闘し続けなければならなかった。
 さらに週に一から二回、事実上の四八時間勤務がまわってきた。このような長期労働と帳尻を合わせるためにつくられたのか、夕方一六時半から二〇時半までという奇妙に短い勤務時間もシフトには並べられていた。たった四時間のために、往復六時間をかけて木更津から通勤することになった。この変則勤務は私の体に打撃を与えた。
  勤務体制を変えられた表向きの理由は、鍼灸師に転職したA氏の退職に伴い、職員三人でローテーションを組むことになったからだという。しかし彼が辞めたのは内部告発をする少し前であり、以後、職務命令が施行される四月一日までの1年4ヶ月あまりは、アルバイトの人を含めた四人で仕事をしていたのである。慌てて三人体制にする必要もないはずだ。
  それだけではない。
-右制度に従事不可能と思ったら転勤等を昭和五九年三月二八日、午後五時までに総務課長事務取扱いまで報告すること-
 職務命令には、右のような文言まで付いていたのである。この冷たい言葉からは、勤務態勢の変更が、どういった意味をもつものであるかが透けて見える。もちろん多くの職員が、口頭でも変則勤務の意義を説明してくれた。当時の私の手帳にその言葉がメモされている。
「この勤務内容が無理と思うならば、学校警備など、似たような職場に移動すればいい。それが嫌なら退職するしかないだろう」(高良総務課長)
「あなたは追いつめられた。助かる道は一つしかない。変則勤務の作成責任者である船場職員課長か高良総務課長に哀れみを乞うことだな」(事務担当・佐々主査)
「あなたは内部告発をした。変則勤務は当然の報いだ」(組合幹部)
「変則勤務は宿直関係者の意見を参考にし、組合とも相談した上での決定であり特に他意はない」(日比区長)
 彼らが言いたいのは、「辞めろ」という一言なのだ。そして、彼らの感情が役所のシステムを動かしたことは、役所をあげての総攻撃が始まったことを意味していた。この後、牙をむきだした組織がどれほど怖いものなのかを、私は身をもって知ることになる。 (■つづく)

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内部告発・豊島区は税金泥棒/第2回 追いつめられて内部告発

■(月刊『記録』97年10月号掲載記事)

          ※          ※           ※

■口からは猛獣のうなり声

 六ヶ月ぶりの出勤。待っていたのは冷たい視線と嘲笑だった。
 半年間も治療を続けていたとはいえ、体は思うように回復していなかった。相変わらず顔の右半分は動かず、緊張感を失った筋肉は不自然に垂れ下がったままだ。私の顔を見た同僚は、まず呆然としたように私を見つめ、それから正視に耐えないとでもいうように視線を外した。「バカなことばかりやっているから、あんな顔になるんだよ」という笑い声とともに、あざけりが背中から聞こえてきたのも一度や二度ではない。
 問題は外見だけではなかった。体は疲れやすく、集中力が持続しない。食事は口に含んだ液体のほとんどが流れ落ち、かみ砕いた食べ物は感触のない右ほおに溜まってしまう有様。そのうえ言葉をハッキリと発音できなくなった。特にパ・ピ・プ・ぺ・ポがひどい。本人はきちんと発音しているつもりでも、口から発せられるのは、まるで猛獣のうなり声だ。
 当たり前のことだが、役所で働く以上は、人々と必要最低限の意志疎通を図る必要がある。しかたなく身振り手振りを使って会話を続けたが、そのまどろっこしさに同僚達は苛立った。私の気持ちも焦った。さらに言葉を失う恐怖にさいなまれはじめた。言葉を話せなくなっても、せめて伝達手段だけは確保したい。手話の勉強を始めたのは、この気持ちからだった。
 もちろん半年ぶりに出勤したからといって、職場での嫌がらせが止むことはない。仕事の始めと終わりに、総務課で行われる出勤簿の受け渡しと事務伝達は、私を虐めることを仕事だと思い込んでいる総務課長の独壇場となった。有給休暇の取り方がおかしい、夏休みの届け出に不備があるなど。他の職員が指摘されることのない事柄を、ほじくり出しては毎日注意された。よくこれだけネタがあるものだと感心したほどである。
 電話の音が問題になったこともある。激しい耳鳴りのある私にとって、ベルの音はかなりの苦痛であった。そこで机上の電話は、音量を小さくしていた。課長はこれに目を付けた。音量を大きくしなければならないという業務命令を下し、私が従わないのを知ると、ベルの音量調節部分をガムテープでぐるぐる巻きにした。大音量で鳴り続けるようにしたのである。
 もちろん敵は上司だけではない。嫌がらせをする機会を多くの同僚が狙っていた。ロッカーに鍵を差し込んだまま、その場を離れたときなど、数分で錠が下ろされ、鍵はなくなっていた。結果は言うまでもない。上司に嫌みを言われながら、鍵の交換となった。
 上司・仲間、そして自分の体にまで不安を抱いていた当時の私にとって、唯一の救いは一人の同僚、A氏だった。発病の2年ほど前に、夜勤として採用された彼は、つねに私の味方となってくれた。彼の入職によって、私は敵視されている同僚と組んで仕事をする苦痛から解放された。復帰後も一時間ごとにかかる夜中の電話への対応を、すべて引き受けてくれたほどだ。
 ところが唯一の味方にも異変が起きてしまう。最初に私が不安を感じたのはその表情だった。いつも活力にあふれていた彼が、次第にうつろな顔で仕事をするようになり、とうとうある日、自律神経を病んでいることを告げられた。「五十嵐さん、オレもきちゃったよ」。原因は夜中の電話である。そして私の復帰から約一ヶ月後、彼は二ヵ月間の入院生活に入るために休職した。

■口頭注意はセレモニー

 このままでは潰されてしまう。誰かを頼れば迷惑をかける。使える武器は何もない。頼れるのは自分だけ。窮鼠猫を噛むとでもいおうか、私はついに必死の反撃を開始した。職場の上司が代わるたびに面会を申し込み、架空勤務の実態を訴えかけた。上司が判を押さなければならない日報には、詳しく状況を書き込んだ。しかし返ってくるのは、依然として執拗な私へのイジメだけだった。
 部課長クラスに訴えても事態が改善しないと悟った私は、次の作戦へ打って出た。当時の豊島区長・日比寛道氏にターゲットを変えたのである。ただし秘書課を通して区長へのアポイントを取れば、断られることは目にみえている。幸い区長室は役所内にあった。そこで私は直訴を決意した。
 ところが運が悪かった。たまたま区長室の近くに居た総務課長に、区長室に入ろうとする姿を目撃されたのだ。総務課長は慌てて私を捕まえ、別室に引きずり込んだ。実力行使に出ることも考えたが、やはり直属の上司である課長を振りきって部屋を飛び出すわけにはいかない。結局この日は、課長と数十分、不毛な話し合いをしただけに終わった。
 結果的に、この突発的な行動は大きな事態の進展に結びつかなかっが、一つだけハッキリしたことがあった。架空勤務の実態を区長が知ることに、課長は強い恐れを感じていることだ。区長に事実を突きつけることができれば、何かが変わるかもしれない! 私は一縷の望みを託して、架空勤務の実態を書き記した手紙を記した。そして内容証明付きで区長の自宅に送りつけた。
 効果はあった。投函した数日後には上司から同僚に対して、口頭で注意が行われたのである。ところが一ヵ月が過ぎ、半年が経ち、一年を経過しても架空勤務は変わりなく続いた。口頭注意など形式的なセレモニーに過ぎないことに気づいたときの私の落胆は、期待していた分だけに大きかった。
 こんなことは役所の常套手段だと今ならば考えられる。しかし、当時の私は人間を信じていたのだ。訴えが正しいものならば、必ずどこかで取り上げられると確信していたのである。事態が改善しないときのために、内部告発に備えての文章を、実はこの頃から少しずつ書き進めてもいた。だが、できれば役所の自浄能力によって事態を改善したかった。私もできれば穏便に済ませたかったのだ。しかし何も変わらないままに、一年半の月日が経過してしまった。

■頭を下げた部長

 内部告発へのためらいを最後に消したのは、結局「オマエの言うことなんか、聞く耳はもたいないよ」という同僚の一言である。架空勤務を続けるくらいなら、役所を辞めてほしいという私の訴えに対する答えがこれだった。その言葉を聞いたとき、何かが私のなかで崩れた。胸の奥底でまだ、なお信じていた人間への信頼感、区長への依頼心、そしてどこかに残っていた同僚に対する友情・・・・・。
 ためらいが無くなれば、ことは簡単だった。架空勤務について内情を詳しく書き込んだ書面を五〇枚ほどコピーし、豊島区議員すべてに送りつけた。就職してから一二年、顔面マヒの入院から六年を経た一九八四年二月。ついに私は内部告発に踏み切ったのである。
 私の行動に対する反応は素早かった。ポストに投函してから二日後には、上司から次々と呼び出しがかりはじめた。まずは総務課長、さらに総務部長までが登場した。当時の総務部長で、現在の豊島区長でもある加藤一敏氏からは、「私達は何とか君の要望に沿うように努力してきたつもりだが、それを踏みにじるような行動は非常に心外だ。こんなに騒がせて君は責任が取れるのか。もし架空勤務がなかったら、役所を辞めろ」と、辞職まで迫られた。
 また、組合からは呼び出しがかかり「波及効果を考えたのか」と詰問された。区議会からの圧力によって、組合員が既得権を失うことを彼らは何よりも恐れたのである。彼らにとって、職員の不祥事を議員に流すことなど、もはや背徳行為以外の何ものでもなかった。そしてまさしく度々議題に上がっていた夏期休暇の縮小が、この内部告発から時を経ずして区議会で可決されている。
 議員からの食いつきも悪くはなかった。上司からの呼び出しとほぼ同時に、一人は電話で、もう一人は直接私を訪ね詳細を確認していった。そして二~三日後、驚くべきことが起こった。「確かに架空勤務の実態はありました。先日は、失礼なことを言って申し訳ありませんでした」と、あの総務部長が私に頭を下げたのだ。
 部長の声を聞いた瞬間、私は驚き、そして心から安堵した。これまでの長く苦しい闘争も、区民をばかにしきった不正行為もやっと解消される。そう確信したからだ。しかし、希望と喜びに胸をなでおろしている私の足元で、大激震の準備が静かに進められているとは思いもしなかったのである。 (■つづく)

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内部告発・豊島区は税金泥棒/第1回 命を賭けた闘いが始まった

■(月刊『記録』97年9月号掲載記事)

■五十嵐稔(いがらし・みのる……1944年、神奈川県生まれ。67年に中央大学法学部卒業後、72年豊島区役所に就職。過去、2件の訴訟―「停職6ヶ月処分取消訴訟」「官官接待に関する食料費についての返還訴訟」―で係争。現・豊島区議)

        ※             ※              ※

一三六五万六一二二円。
 一九八九年五月一〇日から九一年一一月一四日のわずか二年半に、豊島区が官官接待などに使った食料費の金額である。情報公開条例によって開示された段ボール五箱分の資料が、豊島区における食料費の不正使用を教えてくれた。区役所の担当者と同じ筆跡で書かれたモノ、店が打ったナンバリングと書き込まれた日付に矛盾があるモノなど、夥しい数の領収書は役所と私の攻守を変えた。二五年にわたり自分を攻撃してきた豊島区職員の上司が、訴訟を取り下げてくれないかと内々に打診してきたほどだ。それは職員・労働組合・区議会からサンドバックのように打たれ続けていた私が、初めて試合の主導権を握った瞬間だった。

■勤務時間は規定量の半分

 七二年当時、定職を探していた私は、職場に多大な期待を抱いていたわけではない。当たり前に仕事をこなし、普通に給料をもらおうと考えていただけだ。そんな私が豊島区役所の求人広告に目を留めたのは、一六時半から翌朝の九時までという勤務時間にひかれたからである。
 六七年に大学を卒業後、司法試験の合格に向けてアルバイトをしながら勉強を続けていた私にとって、夜間に公務員として働ける環境は魅力的に思えた。長時間拘束されるとはいえ、勤務中の零時から五時までは仮眠時間となっている。これならば司法試験に向けた勉強を日中に続けることができる。もちろん給与も納得いくものだった。ぜいたくをしなければ、きちんと生活できるぐらいの給与が保証されていた。
 役所に勤め始めてしばらくの間は、何の問題もないように思われた。ただ夜間に勤務している同僚が、一時間、二時間と遅刻してくるのだけが気にかかったくらいだろう。とはいえ私も二八歳という年齢上、一般的な処世術くらいは身につけていた。規則通りに仕事が進まないことも理解していたし、職場で無用な争いを起こさないようにする方法も知っていた。
 ところが同僚たちが出勤する時間が日々遅くなっていった。遅刻は数時間から半日に拡大し、さらに欠勤が当たり前となった。夜勤は二人一組ですることになっており、出欠の帳簿には二人の職員の名前が書き込まれているが、実際の現場には一人しか出勤しない状態になったのである。順番に休みを取り、出勤した者が仲間の分まで出欠の帳簿に記入する方法で、同僚の勤務時間は規定量の半分となった。

■お前もさぼれ!

 さすがにここまでくると見て見ぬふりをしているわけにもいかない。日勤から引き継いだ通常業務をこなしているうちは問題ないが、夜間に災害などの緊急事態が起これば、一人で対処できるのだろうかという不安もあった。
 ところが意を決して注意した同僚からは、予想もしなかった言葉を投げつけられた。
「お前もカラ超勤手当やカラ出張手当をもらっているだろう。その方がもっとひどいことなんだぞ。俺達に注意するぐらいなら、不正給与を解決してからにしろ」。恥ずかしながら、この時初めて不正給与の存在を知った。給与明細は毎月見ていたが、残業代がよけいに支払われているとは気づいていなかったからだ。この事実に私は驚き、そして暗澹たる気持ちになった。出欠を組織ぐるみでごまかす行為でさえ、まっとうな職場では起こらない。ところがそれ以上の悪事が、役所全体で行われているというのだ。しかし当時は、この問題によって自分が二五年間もイジメ抜かれることになるとは思ってもいなかった。
 同僚に直接苦言を呈してもいっこうにらちがあかないと感じ、私は係長に相談することにした。さすがに上司の対応は素早かった。私の話を聞いた後、すぐに同僚を呼び出し、きちんと出勤するように注意したのである。しかし問題は解決するどころか、ますます悪い方向に転がっていった。
 なんと注意した係長は、私と同様にカラ超勤手当・カラ出張手当の問題を持ち出され、何も言えなくなってしまったのだ。それだけではない。この日を境に、私が不正を騒ぎ立てないよう上司も圧力をかけてくるようになったのである。もちろん上司公認で出勤日を偽れるようになった同僚も、出勤簿通りに勤務する私を目の敵にした。
「お前もさぼれ。俺達がやりにくいだろ」。こう同僚から言われ、ふつふつと怒りがこみ上げてきたのを私はハッキリと覚えている。どうしてさぼりたくもない私まで巻き込むのか。組織全体が腐りきり再生不能なら、せめて巻き込まないでほしかった。ところが私の意思に関係なく、彼らの強引な説得が何度となく繰り返された。
「言うことをきかないと、もっと圧力を受けることになるんだぞ。素直に俺達の言うことを聞けば、退職まで波風が立つこともない。要所要所で権限をもった人がうまくコトを運んでくれる。これはお前に対する最後の救済手続きだ。せっかく手を差し伸べているのだから、紫の雲に乗れ。今、俺達の忠告を無視すれば、今後さまざまなことが起こる。それにお前が耐えられるとも思えない。世の中とはそういうもんだよ」
 出勤するとこんな話を聞かされる。そのたびに私は情けなくて、寂しい思いをした。とにかく全員で不正を働かなくては落ち着かない小心さや、少しでも休みを増やそうとする浅ましさ。そんな人達と同じような行動を取るには、どうしても自分のプライドが許さなかった。そして私に対するこの執拗な説得が、逆に私の正義感に火をつけた。
 この問題を解決するために、私は上司や労働組合にも掛け合い、労働組合の大会でも発言した。しかし事態は悪化する一方だった。上司にとっても、労働組合にとっても、カラ超勤手当・カラ出張手当は大事な既得権。その権利を守るためには、出勤のごまかしなど黙認すべきものなのだ。
 私が不正に対して声を上げたことで、説得をしていた同僚の態度は厳しさを増していった。職場で村八分となり、誰も口をきいてくれない日々が続く。警備員を含め八~九人の職員が働いているのに、一言の挨拶もない。組合でも「変わった男だから相手にするな」と噂され、上司からは「お前が何を言っても聞く耳はもたない」とさえ言われた。

■一時間ごとに無言電話が

 このような状況のなか新たな問題が発生した。
 私と組んでいる同僚が、「君と組んでいるとさサボれないので不公平だ」と言い出したのである。確かに私がきちんと出勤するために、いつも私と組んでいる同僚はサボれる日数が、他の二人よりも極端に少なくなっていた。そんな訴えなど、取り上げる方がおかしいと思われるだろうが、なんとローテーションは変更されたのである。同僚の三人が同じだけ休めるよう、私と出勤する日にちが綿密に計算された。
 こんなくだらない理由のためにローテーションを変更するのは反対だったが、私以外が賛成だったため、三対一の多数決によって押し切られた。この決定に不服だった私は組合にも訴えたが、多数決自体に誤りはないとして、平等にさぼるためのローテーションに組合はお墨付きを与えた。
 この事件が起こってから、同僚との関係はさらに冷え切ったものとなる。私を名指しこそしないものの、誰にでもわかるように私の悪口を言うようになった。しかし人間は強いものだ。誹謗中傷のたぐいも、毎日聞いているうちに慣れてくる。職場で孤立していることも気にならなくなっていった。しかし状況は改善しない。不正は続き、不毛な嫌がらせも止まることがなかった。
 新たな嫌がらせが始まったのは、区役所に勤め始めて3年ほど経ったころだった。午前零時から五時までの仮眠時間に、一時間ごと無言電話が入るようになったのだ。夜間の電話には、緊急事態が発生した可能性があるので、取らないわけにはいかない。慌てて電話を取ると、数秒の沈黙があり電話は切れる。相手の受話器を通して、マージャンの音や酒場の喧噪が聞こえてくることはあっても、声が発せられることはなかった。こんな悪質な嫌がらせも、一週間ぐらいなら何ということはない。しかし一日置きの出勤日を狙って休むことなくかけてくる無言電話が、数ヶ月も続くに至って、私は精神的にかなり追いつめられていった。
 夜中受話器を取ったと同時に、自分が自宅にいるのか勤務先にいるのか、一瞬わからなくなる。そんな小さな錯乱こそ、痛めつけられた私の神経が発した最初の悲鳴だった。それでも私は区役所に出勤した。明らかに自分が正しいのに、しっぽを巻いて逃げるわけにはいかない。

■結婚も安定もあきらめた

 そして次の変調は突然に現われた。
 七五年春。その日はどうも頭が痛く、やけに周りの音が大きく聞こえた。どこがおかしい。明日は医者に行かなければいけないと考えながらも働いていた。そして夜間の時間。にぎり寿司をつまんでいた私は、口に入れたシャリが右の口元からポロポロこぼれていくのを発見した。自分の体が少しずつ制御を失っているのを実感するのは気持ち悪いものだ。だが、自分の力ではどうしようもない。
 仮眠時間になるとお約束の無言電話がなり始め、熟睡できぬままいつものように朝を迎えた。洗面所で顔を洗い、フッと鏡を見ると変わり果てた顔の自分がそこにはあった。顔の右半分が硬直しており、表情が消えていたのだ。右目を閉じるには、指でまぶたを下げなければならない。
 役所を引き上げ病院に駆け込むと、顔面麻痺と診断された。神経性の病気だった。病名がわかっても顔面の麻痺が治るわけではない。私の顔は日に日に崩れていった。右の眉が左の眉より二センチも下がり、顔の右半分だけがひきつっていた。自分の顔はおろか、人間の顔と呼ぶのもためらわれるほど、私はすごい形相をしていた。
 ひどいのは表情だけではなかった。右目から耳のうしろにかけて、鋭い痛みが走り続ける。モノがぼやけて見え、口に入れた食事は、閉まりきらない口元から流れ続けた。そして頭も働かなくなった。簡単な事務連絡をするための手紙が、一日かかってやっと書けるようになるといった具合だ。
 六ヶ月間の有給休暇を取り、治療に取り組まざるを得なくなった。治療をしてくれた医師は、「またストレスがたまり、顔面麻痺が再発したら、二度と社会復帰できませんよ」と、私に語った。その言葉を聞いたとき、しかしなぜか転職は思いつかなかった。むしろ私は自分に賭けてみようと思った。自分をここまで追いつめた職員と闘い続けてやろう。病気が治ったら、豊島区が続けている不正を世間に公表しよう。そう考えて、一人闘志を燃やしていた。
 このとき私は、結婚をすることも世間並みに生活することもあきらめた。自分が正しいことを証明するため、私を追いつめた役所を逆襲するため、豊島区民をバカにしきった行政の姿を知らせるために、職場復帰の日を待ち続けたのだ。 (■つづく)

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阪神大震災現地ルポ 第10回/1年後それぞれの現実

■月刊『記録』96年3月号

■ 1月14日
 
 三宮の「旧居留地」を遠藤義子さんと歩く。倒壊した大丸デパートやダイエーの辺りの道路は整備されて見違えるほどだ。しかし中心部を離れ裏道に入ると凸凹だらけ。壊れた歩道は砂で埋めただけのままだ。雨が降るとあちこちで水と泥が溜まる。「目立つところばかり直す」と慨嘆していた被災者のことを思い出した。 
「1年が近づいて、当時を思い出すと怖い」と遠藤さんが言う。そのせいか、ここ数日体調を崩していた。この1年、怒ったり泣いたり感情の起伏が激しくなったという。年金をもらえるのは数年先。その間の仕事はない。いま働いているのは娘の美和さんだけだ。「貯金も底をついてきた。仮設住宅と違い、私達は家賃を払っている。仮設住宅に入っていない被災者も大変なんです」と、力なく語った。 
 昨年3月に訪ねた長田区に住む在日朝鮮人の清本吉伸さんを再訪した。全壊と認定された自宅は修復を済ませていた。「建て直すと建蔽率の関係で小さくなってしまうので、修理して住むことにした」と話す。一戸建住宅における「既存不適格」だ。修復とはいえ、費用には500万円かかっている。これでは住宅助成義援金30万円は「焼け石に水」にもならない。少額すぎる。 
 運送業を自営している清本さんは、震災後、中古のダンプを購入し、倒壊家屋の廃材を運んでいた。「捨場はトラックで長蛇の列。5時間待ちで1日1回しか運べなかった」という。いまは家屋の土台用コンクリートを運んでいる。「ほんまえらいめ遭うた」と震災を回想し「行政の援助もないし、結局、本人が頑張らないとどうにもならない。これからの方が大変だ」と心境を語った。

■ 1月15日
 
 地震で横倒しになった本山交通公園(東灘区)の蒸気機関車は、1年後もそのままだった。更地の上に家を再建できる人とできない人との格差も目立つ。「借金しようにもできなくて家を建てられない人が近所にも多い」と、田中比早子さんが語った。 
 震災直後、田中さん達とともに福井池公園に避難していた朝倉有子さんと再会した。逞しく明るいその姿は1年前と変わらなかった。朝倉さん一家は三田市に仮住まいし、まもなく自宅の再建が始まる。「狭い土地に建てるから規格品でなく注文建築になるので割高。全部あわせると4千万ほどかかる」と言う。倒壊した家は築4年しか経っていなかった。二重ローンがかさむ。朝倉さんは「ただ金をくれとは言わない。もっと国の方で貸してくれないものかと思う」と話す。県と市の震災復興融資は、住宅金融公庫からの融資がない被災者は受けられない。公庫の方も、既存ローンが残っている被災者には、ほとんど融資しない。その例が田中さんだ。被災地では「住専を税金で救済するなら、我々の方も何とかしてほしい」と、多くの人達が訴えている。まともに配分されているのかさえわからない義援金だけでは足りない。そもそも国家が公費で救済しない「冷酷」を、義援金という「厚意」でいつまでも糊塗し続けていいのか。解決策は、国家が公費で「個人補償」するしかない。

 朝倉さんと田中さんは「価値観は根こそぎ変わった。あまり物を欲しいとは思わなくなった。借金しても家を建てられるだけ幸せ」と、震災後を振り返る。田中さんは2~3月頃に家が建ち、朝倉さんは春頃に上棟式の予定だ。

■ 1月16日
 
 深夜から翌朝にかけて「震災を語り継ぐ夜-朝まで長田」が開催された。三谷真さんも主催者の1人だ。「市民語り部キャラバン」が行った東京での2度の集会の締め括りとして、この夜の集いがある。地元住民やボランティアが100人ほど集まった。 
 まちづくりについて、ボランティアについて、在日外国人と日本人との共生・共死について、様々な意見が出た。長田がケミカルシューズの町であることからの比喩だろうか、「いままでは靴(道路など)に合わせてまちをつくった。これからは足(住民)に合わせてまちをつくらなければ」との発言が印象的だった。

■ 1月17日
 
「朝まで長田」は午前5時から菅原市場での追悼集会「鎮魂と再生の集い」へと続いた。主催者の1人の森栗茂一さんが「震災から半年ほど、長田では火を見るのが怖かった。でも今日は希望の火。どうしてもこの日だけはここで迎えたかった」と語った。参加者の多くが同じことを思っていた。それぞれの思いを込めて、鎮魂の火を灯し、献花した。そして。 
 5時46分、参加者は思い思いに黙祷・祈りを捧げた。 集会の後、須磨区の西村栄泰さんに会いに行った。驚いたことに、自宅再建で詐欺に遭っていた。工事を頼んだ建設会社の社員に手付金350万円を騙し取られていたのだ。家の基礎部分の工費に匹敵する金額で、神戸市から借りた分を丸々詐取されたことになる。詐欺とわかったのは1ヶ月前。さすがの西村さんも、今回は見るからに落胆していた。「騙すよりは騙される方がまし。生きていけるだけの金があればいい。犯人のように欲を出すとろくなことはない」と嘆息するばかりだった。 
 西村さんの仕事の取引先は3分の2ほどが震災でなくなってしまった。「商売もきつくなっている」という。「この1年は早かった。何とか生きてこれた。また1年生きていければいい。生きていればこそ、こうして会うこともできる」。(■つづく)

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阪神大震災現地ルポ 第9回/住民はバラバラ

■月刊『記録』96年2月掲載記事

■ 11月10日

 震災ボランティア活動を続けている大阪の加納雄二弁護士に会った。加納さんは地震発生直後、オフロードバイクで被災地に通い、救援活動に携わった。以来、中央区避難所代表者会議に参加している。中央区で活動しているのは「マスコミ報道で長田に注目が集まった頃、こっちは全く放置されていた」からだった。これには思い当たるところがある。初めて生田川公園を取材した頃の小橋千津子達被災住民の窮状は、まさにそのことに起因していた。テント村に支給されていたのは毛布1枚のみ。洗濯機や流し台を調達してきたのはボランティア。すぐ近くに市役所と区役所があるのに、職員が巡回に来たことは1度としてなかった。「灯台もと暗し」というには、状況はあまりにも酷すぎた。
 
 加納さんは、毎回の代表者会議に出席の都度、簡単なレポートを関係者に配布している。最近は、ポートアイランドに建設された仮設住宅「団地」について報告している。床下に雨水が溜まり湿気が多い、街灯が少なく夜は真っ暗で危険といい、「仮設住宅の長期化、スラム化、姥捨山化は必至。今後活動の中心は仮設の自治会の結成、居住環境の設備等となろう」と述べている。

■ 11月20日
 
 11日に、仮設住宅の環境改善や心のケアの問題について、神戸市も交えて被災者が話し合う「市民交流集会」が催された。その様子を加納さんから電話で聞いた。「仮設の団地から消防署まで遠いので、団地内の消化器の設置数をもっと増やしてほしいなどの要望が住民から出された」という。 

 住民の行政に対するスタンスは、それぞれに思惑が違うからバラバラ。それが一因で住民間の反目も起きている。「市民交流集会」に集まった住民は、強いていえば「行政協調型」になる。長田区で仮設住宅・店舗集合施設「パラール」を運営している「久二塚区震災復興まちづくり協議会」も同様だ。10月に東充事務局長を訪ねると「以前ある雑誌の取材を受けた後、神戸市に何であんな取材を受けたと言われた」とかで、取材には慎重になっていた。行政との関係を象徴している。市長の態度も、オール与党の市議会議長が所属する公明と関係の深い『潮』の取材には応じたように「メリットがなければ取材には応じない」(広報課)。神戸市は、良好な関係にある住民組織には、自分と同じように取材に応じる相手を差別しろと、その広報活動まで統制下におこうとしている。もともと再開発や区画整理に伴って設立される「まちづくり協議会」は、法律で行政から助成金を得られることになっているから、行政との関係も一体的となる場合が多い。 

 これに対して「兵庫県被災者連絡会」は、さしずめ「対決型」になる。行政への強硬姿勢に対しては、実は被災住民の間でも毀誉褒貶が激しい。地震から日が経ち「日常性」を取り戻すにつれ、テント村などに対する周辺住民の視線が冷たくなっていることも、そのあらわれだろう。カトリック鷹取協会「救援基地」が被災ベトナム人のための紙製ログハウスをテント村に建設した際、一部の「対決型」住民との間に摩擦が生じたこともあった。精力的に救援活動を続ける同教会に対しても「作業音がうるさいと近所から苦情を言う人が出てきた」と、神田裕神父が語った。 
 住民組織のとるべき立場として、どちらが良いのか、正直にいってわからない。行政との連携がなければ、住宅問題ひとつとっても、復興計画の実効性に乏しいことは否定し難い、しかし、震災直後から今日まで反省と改善もない、神戸市の「人を人とも思わない」体質を不問にして、住民本位の復興などあり得るのか、とも思う。

■ 12月6日
 
 震災から1周年の1月16日夜から17日朝にかけて、長田区では「震災を語り継ぐ夜-朝まで長田」が開かれることになった。住民グループ「防災を語る会」の主催で、連絡窓口役は三谷真さんだ。「具体的な集会の内容は未定だが、とにかく徹夜で語り明かす、飲み明かす集会を開くことだけは決まった」と語る。午後10時から鎮魂の火をともし、地震発生時刻の午前5時46分に黙祷を捧げる。当日までは「市民語り部キャラバン隊」が東京を訪れ、集会をもつ。13日は墨田区で「一言言問」と銘打ち、14日は中野区に会場を移して、震災を語り継ぐ集会が開催される。 
 この号が発売される頃は既に1周年を過ぎているから、1ヶ月遅れの報告になるが、次回は、これらの集会をはじめ、1年後の被災地の現状を伝えることができると思う。

■ 12月8日
 
 兵庫県被災者連絡会の田中健吾事務局員に電話で状況を尋ねた。市庁舎前の「前線基地」はいまも置いている。避難所で生活している被災者3人が生活保護を申請していたが、稼働能力がある、親の簡易保険は預貯金と同じなどの理由で、11月30日付で却下された。田中さんが「行政は、仮設住宅に行かずに避難所で暮らしている被災者には、生活保護を認めようとしない」と話す。避難所住民は「住所不定」扱いされているということか。

 今月20日で「旧避難所」(行政はテント村などをこう呼ぶ)も解消されると新聞が報道したので、「確認と対策にあたっている」という。夏の避難所閉鎖も、報道されるまで住民には何の通知もなかった。一旦報道されてしまえば、それは「既成事実」と化す。未解決の問題を残して、既成事実ばかりが積み重ねられていく。 (■つづく)

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阪神大震災現地ルポ 第8回/不公平が罷り通る

■月刊『記録』96年1月号掲載記事

■ 10月29日

 前夜10時30分に横浜を出た高速バスは朝6時に三宮に着く。時間が早いので、付近を歩き回ってみた。無惨な姿をさらしていた神戸市庁2号館も解体作業が始まっていた。繁華街の小さな飲食店は28日で閉店し、ビルごと取り壊さざるを得なくなったと貼り紙がしてあった。いまだ解体を余儀なくされる建物がある。

 市役所1階のロビーで遠藤義子さんと再会した。現在は市役所に近いマンションで暮らしている。家賃は月10万7千円。旧宅の7万7千円より少し高くなった。再建後に家賃が15万円に倍増した旧宅は、以前の骨格を再利用で実質は修復に近い。前より部屋が小さくなったのはコンクリートを厚くしたためらしい。
 新居を探し不動産を訪ねても「私達のような母子家庭は嫌われて貸してもらえない。保証人が2人必要で、神戸在住に限るなど無理を言われた」という。結局馴染みの旧宅の家主の持つ別のマンションにした。既に還暦を超えている遠藤さんは新しい仕事も見つからず、住居を探すうえでも差別的な扱いを受けていた。
 住む家があるだけでもましと思う人もいるだろう。だが、住む家はあって当たり前、仮設住宅すら入れず、いまなおテント生活を続けている人がいる方が異常なのだ。神戸では当たり前でないことが罷り通っている。「これからどうなっていくのだろうか」との遠藤さんの不安も、容易には消えない。

 三宮の外れの仮設住宅に小橋千津子さんが住んでいる。十数棟立ち並んでいるうちの8号棟、2階の奥の部屋だった。トイレはあるが風呂はない。倒壊した市営住宅の住民専用の仮設住宅で、再建までの間住むことになっている。小橋さんは体調を崩していた。「仮設住宅に落ち着いてから、原因不明の高熱が続いた。今は指先の皮がボロボロで、医者に診せたら神経症と言われた」と話す。傷口保護のためビニール製指サックを買いに行ったところ、同じような症状で指サックを購入していく人が多い、と薬局で聞かされたそうだ。震災後も、こうして人々の心がストレスに蝕まれていくのだろうか。

■ 10月30日

 長田区で三谷真さんを訪ね、「長田の良さを生かしたまちづくり懇談会」の近況を聞いた。精力的に議論を続けているが、夏以降、住民に疲れが見え始めた。「市が建てる公営住宅の多くは西・北区で家賃10万円前後。これでは長田に戻って来れないという雰囲気が強まっている」と語る。県と市は災害復興住宅8万2千戸を3年計画で供給するのだが、全部を災害地に建設するわけではない。被災地分も被災者ならだれでも入れるわけでなく、再開発地区内の住民が優先という。まち懇は災害復興住宅があてにならないなら、区画整理による民間住宅の共同化も考えているが、これがまた難しい。

 僅かな土地でも自分だけの家を建てたい地主の説得は容易ではない。地主が売却を希望すれば、区画整理事業の自治体の用地買い上げ制度を活用できるのだが、市は何人かが一括して売却しなければ取得しようとしない。結局、住民の復興への足並みも乱れ、秋頃から違法建築もみられるようになったという。「市は自分では手を汚さないで、住民にまとめさせようとするばかり。住民の不満も募っている」と、三谷さんも行政への不信感を口にしていた。
 町を歩いていると、地主と借地・借家人が互いに住宅を建設する旨を宣言した看板を別々にたてかけていた。復興ムードの高まりにつれ、土地を巡る両者のせめぎあいも始まっている。

■ 10月31日

 兵庫県被災者連絡会は市役所前に「前線基地」を設けて活動していた。事務局長の田中健吾さんが「住民のよろず相談にものっています」と語る。自宅再建で悩みを抱える女性が相談に訪れ、ときに涙ぐみながら切々と思いを語っていた。

 河村宗治郎会長には、2日前に兵庫県の本町公園テント村で会った。「冬が来る前に越冬対策を考える」と語った。一体誰が避難生活で再び冬を迎えると考えたろう。連絡会は避難所でのアンケート調査をもとに、27日付で「避難者実態調査報告」をまとめた。B4判26ページの本格的な内容だ。報告書の被災住民の声は既に仮設住宅さえ諦め、テント村で恒久住宅(必ず入れるとは限らない)を待ち望んでいる。これを不法占拠と片づけていいのか。

 夜、須磨区の西村栄泰さんを訪ねた。夕食を御馳走になった。土産の1つも持って行かねばと思うのだが「そんな気をつかうなら来るな」と、その都度言われるので、好意に甘えてしまっている。
 西村さんは義援金を24万円しか受け取っていない。理解し難いことに住宅助成義援金30万円の受給資格がない。この義援金は自宅が全・半壊した後、民間の賃貸住宅に入居するか、家を修理した被災者が対象だが、震災後半年余りで全壊した住宅を建て替えた西村さんには、「自力再建の原則」とやらで交付されない。東灘区の田中尚次さんのように再建までどこかで仮住まいすれば受けとれたが、西村さんは車庫を改造した「自家製」仮設住宅に住んでいたため、ここでも資格を得られない。理不尽だ。何度も伝えてきた見事なまでの生活力が正当に報われていない。西村さんが在日韓国人だから交付されないわけではないが、「わしらは子どもの頃から『オイコラ朝鮮人』と差別されてきた」と語る体験がその根源にあることを思うと、二重の意味で理不尽だ。 (■つづく)

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杉山の中心で、観測史上最大のスギ花粉と闘う

■月刊『記録』05年5月号掲載記事

 聞くところによると観測史上最大であるらしい。
 飛ぶのが、たとえば獅子座流星群のような流れ星ならばこちらとしても全然かまわない。どんどん増えてもらっていい。しかし東京都福祉保険局が05年1月に発表したのは今春のスギ花粉の飛ぶ量が昨年に比べて20~30倍であるということだった。
 スギの花は2~3月にかけて開花して花粉を飛ばす。例年は3月をピークに飛散量は収まるが、今年はゴールデンウィークあたりまで飛び続ける見込みだという。
 現在、国民の約15%が花粉症と推定されているが、スギ花粉の抗体を持つ国民は全体の約7割と言われており、今は発症していない人にも他人事とは言えないのだ。
 一般的な症状はいうまでもなく鼻水、くしゃみ、目のかゆみだが、症状が重くなると喘息や頭痛、倦怠感を伴う場合もある。国民病と言われ、人々のうらみを買いながらあたりまえのように日常生活に入り込んではいるが、花粉が生まれる場所であるスギ林について私たちはなにも知らないのではないか。
 考えようによってはまたとない機会でもある。こうなったら花粉舞うスギ山に分け入って、この目でその様子を確かめることにしよう。幸い私は花粉症ではない。史上最大規模の花粉のなか、とことん踊ってやろうじゃないか。
 関東森林管理局によれば、東京に降りそそぐ花粉のほとんどは、東京西部の奥多摩にある広大なスギ林からこの季節に吹く偏西風に乗って運ばれてくるという。

■地元では1年分の花粉が1日で

 新宿から電車で約1時間半、青梅線の終点が奥多摩駅だ。それよりずいぶん手前の石神前あたりからスギが密生する山が目についてくる、なにしろ多摩地区のスギ林は東京都全体の面積の約1割を占めるのだ。奥多摩駅に近づくほど、スギ山の中を電車が走っているという具合になってくる。到着した奥多摩駅は完全にスギ山に囲まれた場所にあった。
 奥多摩には山歩きや渓流釣りの客が利用する民宿が駅の周りに10件ほどあるが、客が1人もいない宿もあった。平日とはいえ春休みの時期であるのにだ。駅から歩いて5分のことろにある「玉翠荘」で働く森川良子さんは「今年はやっぱり花粉のせいでお客さんが減ってるんでしょうね」と話す。目が充血して涙ぐんでいるのでたずねると、やはり花粉症だった。「奥多摩で30年近く働いてますけどね、はじめてなんですよ、今年が」と困った顔で笑う。「わたしはずっと無縁だと思ってたのにねえ」。30年間、花粉症とは縁のなかった人が突然、くしゃみを連発するようになる。これはやっぱりただごとじゃない、スギによる暴威である。
 奥多摩ビジターセンターの解説員、山本雄一郎さんに今春の花粉の様子を聞いた。「それはもう、すごいもんですよ。雨が降った次の日や風があるときなんかは、山を見ると花粉で煙ってモヤみたいに見える日もありますよ」。山を見上げると、山肌をまったく見ることができないほどひしめき合って群生するスギの緑に交じって、淡いオレンジ色が目に入る。花粉症の元凶であるスギの雄花だ。
 山本さんも例にもれず花粉症である。これだけスギに囲まれた地域でありながら、奥多摩に住む人たちは特に花粉症対策はしていない。私が訪れた何日か前には、前年の総飛散量ぶんの花粉が1日で飛んだこともあったという。
 山本さんに教えてもらい、スギの中を行く遊林道を歩くことにした。死地に赴くとはこういうことだろうか。もちろんスギ林の中を歩く人など見あたらない。この日はやや風があり、背の高いスギの木の葉が触れ合ってさざめいている。重なるように茂る葉の隙間を縫って落ちる木洩れ日もいいが、風があって天気がいい日というのは花粉が飛びやすい日でもある。しばらくオレンジの雄花を見ていると、風が強く吹き、揺れる花から白い花粉が飛び散る瞬間を目にした。しかし、歩いていくうちにそれが珍しくないことに気付く。花粉の渦の中を歩いているようなものだ。目に見えない細かい粒子が口から鼻からどんどん吸い込まれているのだろうが(マスクなし、ノーガード)今のところ自覚症状はない。
 しばらく歩くと手に届くくらいに低い位置に雄花があるのを見つけたので、それを採取しようとしていると、50歳くらいの男性に出会った。どうやら地元の人らしい。やはりマスクをしている。スギの花について聞くと、花がオレンジ色になって開ききる前の、まだ白とオレンジ色の中間あたりのころがもっとも花粉が飛ぶのだと言う。サクラやウメの花の明るく華やかな印象と違って、スギの花のオレンジはくすんでいて美しくはない。ふてぶてしい。まだ白っぽい雄花を選んで指で叩くと、キリフキを吹いたときのように白い花粉が散った。おもしろいように吹き出す花粉は、ものすごく軽いのだろう、花から飛び出たとたんに空気の流れに運び去られて舞い上がる。行く先は東京だろうか。
 改めてスギ林をじっくり見ると、目立つオレンジ色の雄花に隠れるようにして、白い雄花がぶら下がって出番を待っている。いくつか雄花をもらっていいかと男性に聞くと、ああいいよ、できれば山ごと持ってってくれ、となかばヤケクソ風に言う。

■花粉症急増は利便を追った結果

 スギ花粉による花粉症が問題になり始めたのは1980年ごろからのことで、それまでアレルギー性鼻炎はハウスダストとブタクサの花粉によるものと言われていていた。スギ花粉は話題にものぼらなかった。花粉症の専門家である三好彰は著書「花粉症を治す」(PHP新書)のなかでここ10~20年でスギ花粉症が急増した原因を3つ挙げている。

①アレルゲンであるスギ花粉そのものの増加 
②タンパク質や脂肪の摂取量が増え、抗体をつくる能力が高くなったこと 
③道路がより整備されたため、スギ花粉がより遠くまで飛ぶことが出来るようになった(花粉は土の上に落ちると再び舞い上がることは難しい)

 ①についてだが、なぜ花粉は増えたのかということに注目することにしよう。話は戦後にさかのぼる。
 市街地が焼け野原になった後、復興のために大量の木材の需要があった。戦中に戦争機材の原材料としてスギやヒノキが伐採されていたうえにさらに木が切り倒された結果、ちょっとした雨でも洪水が起こるようになった。その対策としての治水の目的でもあったが、1950年代には大規模な植林政策が行われた。
 奥多摩に住む多くの人たちも苗木を背負って山に入っていった。足場の悪い土地に苗木をひとつひとつ植えていくのは大変な作業だったが当時はそれがお金になっていった。切り出したスギを筏にして多摩川の下流に流す仕事があったり手入れをしたり、人々の生活とスギ山は密接に関わっていたので植林した山の手入れは入念におこなわれていた。
 しかし80年代にはいると価格の低い外国産木材が輸入されるようになり、国産の木材の需要は低下、価格も下がっていった。今ではスギの価格は1本900円程度までに落ち込んでいる。スギを切り出して売るとしても、運搬費や人件費を考えるととても採算が合わないのが現状だ。間伐、下刈り、枝打ちなどの山仕事をする人たちも高齢となったため今や手入れをする者はいなくなり、スギ林は荒廃していった。
 スギは樹齢20~30年で花粉をつけはじめる。50年代の植林政策で植えられたスギが放置された結果、80年あたりからスギ花粉症が問題となりはじめ、今ではスギ林の9割が花粉を生産する樹齢になった。
 スギの植樹の背景だけでなく、②と③にしても「自然とそうなった」のではない。先に私は「スギによる暴威」と書いたが、なんのことはない、花粉症の急増は人の営みや利便を追った結果なのである。花粉症が社会問題と呼ばれるゆえんだ。
 数日後、持ち帰ったスギの花はビニール袋の底に花粉を落とした。指でとって舐めてみると、不思議に甘い味がした。花粉症でなかったはずの私は鼻の奥がムズ痒く、目を閉じると涙がにじむようになった。ウソのような本当の話である。■了(宮崎太郎)

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レバノン9.11・難民キャンプを歩く 最終回/「祖国」とは何か

■月刊『記録』03年5月号掲載記事

 バハーさんが手ずから刺した伝統刺繍に彩られた部屋、暖かい雰囲気の中でのインタビューは、私の一言で一転した。「自爆攻撃…。そう名付けるのですね、あなた達は…」。日本から来るほど、パレスチナ難民の現実に理解があると思っていた人間との意識の溝を痛感したように、彼女は乾いた白い顔を突然上気させた。

「個人的には、相手がイスラエル人だろうが、人を殺すのは反対です。民間人ならなおさらです。私は殺人を憎みます。でも、ここで考えねばならないのは、イスラエルはパレスチナ人の家を破壊し、虐殺を繰り返している。なのに、パレスチナ人は妥協に妥協を強いられている。ナイフを首に突き付けられているというのに、それでも『私たちはテロリズムに反対です』だの『平和を愛しています』だの言えばいいのですか! 私は人間としてそんなことはできない。イスラエルこそテロリズムとあらゆる犯罪の頂点です。爆弾を体に巻いて抵抗する人たちをあなた達は『自爆攻撃』という、でも私達は『シャヒード(殉教者)』になるというのです。そういう質問をする人には言いたい。『じゃあ対案をくれ!』と。一体、どうしろというのですか! 一方的に私たちが殺されているというのに…」

 一気に言葉を吐き出すと、彼女は深く息を吸い込んだ。半世紀を超えても何一つ改善されない現実と世界の無関心への苛立ちが、わずが数秒に凝縮されていた。彼女は呼吸を整えると、おそらくは硬直していた私たちの顔を見て、悲しそうな、そして、少しすまなそうな顔で何かを呟き、インタビューを続けるよう促した。

 36年に及ぶ軍事占領、恒常化する外出禁止、経済破綻と失業、一方で入植地はオスロ合意以降も増加を続け、パレスチナ人の土地は奪われ続けている。殺戮と破壊が日常化するなか、自爆を選択する若者もいる。私たちが人でいることを許さない現実を続けさせているのは誰なのですか?この上どうすればいいのですか? 自分たちが安心する答えを私たちからむしり取りたいのですか? 答えるべきは同じ世界を共有しているはずのあなた方ではないのですか…? 問われているのは私だった。

 センターが現在、取り組んでいるのは、YWCAと共同実施しているボランティア活動である。障害のある人の介護や、キャンプ内の清掃などをする。他団体と共同ですることの意義について彼女は語る。「重要なのは、レバノン人のキリスト教徒と出会い、彼らが民主的な人たちであること、私たちを抑圧するレバノン政府とレバノン人は別であることを学んでもらうのです。決して、サブラ・シャティーラやタッル・ザァタルで私たちを殺した人ばかりではないことを知ってもらうのです。先日は日本から絵画の専門家を招き、講習会をしました。そうした専門家がここにはいないことも理由の一つですが、もっと重要なのは、ムスリムでなくても、私たちパレスチナ人のために身銭を切って航空券を買い、はるばるレバノンまで来てくれる人たちが世界にはいるのだということを子どもたちに知って欲しかった。人は、他者の境遇について共感できる、それを知って欲しかったのです」

「昨年9・11、どこに居て、何を思いましたか」
 気持ちを整理するように少し考え込んだ後、バハーさんは意を決したように話し始めた。
「…率直に言います。最初に聞いた時は嬉しかった。世界の覇権を握っている米国の一部が崩れたのですから。でも序々に理性的になり、無辜の市民が殺されたことを実感しました。その痛みは今も続いています。そして次に感じたのは恐怖であり、不安でした。この代償を支払うのは私たちだと思いました。そして実際、そうなってしまった。ビンラディンを育てたのは米国なのに、ツケを払うのはパレスチナであり、アフガニスタンだった。そして今、イラクが攻撃されようとしている」

 深い思慮、そして、こちらが戸惑うほどの率直さ。バハーさんの話に私たちは引き込まれていた。本当は夜通しでも話したかったが、最後に将来の夢を訊いた。
「将来はこのキャンプに止まらない青年サークルを作りたい。自分のことしか考えない子どもが増えている。これはとても危険なことです。根本にあるのは、経済状況の悪化と希望のない現実です。社会保障も仕事もない。しかも帰還の希望も持てないからです」
 ある時、ベイトのプログラムで、隣国・シリアを訪問することになったパレスチナ人の子どもが、出国カードの国籍欄に「パレスチナ人」と書いたところ、レバノン人の官憲が言い放った。「パレスチナ人だと? 違う、パレスチナ『難民』だろう!」
「『難民』には辞書にない、特殊な意味があるのです。それは烙印であり、若者であればなおさら誇りを傷つけられます」。レバノンにいる限り彼ら彼女らはあくまでも『難民』であり続ける。約38万人といわれるレバノンのパレスチナ人難民のなかには、青年層を中心に、デンマークやスウェーデンへの移住に踏み切る人も増えているという。
「今後については、いろんな望みを持っています。ただ、私の夢は、ベイトで働くことと切り離せません。ここで働くことが私の、パレスチナ人としての夢を育ててくれた。私は闘います。帰還するために人を殺すことは私には出来ない。でも子どもたちのために力を尽くします。これが私のジハードなのです。この夏の初めから昨日まで、1日の休みもなく働き通しでした。何が私を働かせるのかを考えると、とにかく『パレスチナ』のために力を尽くしたいからだと思うのです」

 彼女も00年の国境地帯解放時、センターのスタッフと250人の子どもを連れ、有刺鉄線の向こうにある故郷を見に行ったという。「どう思いましたか」。バハーさんは言葉に詰まり、目を涙でいっぱいにした。「祖国が…」。遠くを見るように、あの時、心に刻み付けた風景を思い出し、その記憶をいとおしむように言葉を続けた。
「初めて祖国を見ました。見えるのに、触れることが出来ない。そこに見えるのに、触れることが出来ない………。とても…、困難な瞬間でした」。私も涙が止まらなかった。今回の旅で何度目のことだっただろうか。

 インタビューを終え、玄関に行った。青い鳥が檻を破って飛び立つ姿が描かれた絵が掛かっている。日本の絵画ボランティアが描いたものという。絵の意味を聞いた。
「パレスチナを意味しています。牢獄から飛び立ち、自由になるのですよ」。
 バハーさんらが外まで送ってくれた。ここで培われ、そしてここに賭ける彼女の夢に触れた後では、殺伐とした外の風景が少し暖かく感じられた。誰も居なかったグラウンドでは、子どもたちがサッカーをしていた。海岸線に沿い、日が傾くのを見ながら北上していく。UNRWAの事務所前ではまだ、人々が座り込んでいる。反対側にはサブラ・シャティーラ虐殺事件の際、キャンプ住民を集合させ、連行する人間としない人間を選別したというスタジアムが見える。連れ去られた者たちの多くは帰ってこなかったという。ベイルート市中心部に入ると、信号機もない雑然とした道路に車がひしめき、クラクションが鳴り響いていた。

 15日に帰国すると、すでに新聞は日朝首脳会談に関する記事で満ち溢れ、そして17日、会談当日が来た。以降、メディアは拉致事件一色になり、それからの1カ月足らずで、日本各地の朝鮮学校生への暴行や脅迫は300件を超えた。拉致被害者の悲劇は、かつて日本が行った、そして「解放」から半世紀を超えても正されない不正に対し、日本の人々が思考を開き、その被害者たちに共感する契機となりえるはずだった。だが、現実は逆に他者の悲劇を周縁化し、不信と憎悪を膨張させ、有事法制など、反動化へのいわば「切り札」になっている。
 今年1月のイスラエル総選挙では、シャロン率いる極右政党リクードが圧勝した。彼らは「テロ防止」を掲げ、自治区内に巨大な壁を築き始めている。あのホロコーストをきっかけに出来た国の人々が、かつて、ナチスがユダヤ人を囲ったゲットーを再現している。そして3月20日、イラク侵略が始まった。米国兵士の死が詳細に語られる一方で、米英軍が、まるで人体実験のように投下する最新兵器で殺されていくイラクの人々の死は、名前どころか、数ですら語られない。
 そして「『人間の盾』には配慮しない」とのブッシュの言明に応じるように、3月16日、ガザでパレスチナの家屋破壊を止めようとした米国人女性が、イスラエル兵の運転する米国製軍用ブルドーザーに轢き殺された。ガザではその1カ月後にも、イスラエル軍の銃撃から子どもを救けようとした英国人男性が後頭部を撃たれて、脳死と宣告され、00年9月以降、イスラエル軍と入植者が殺した2000人を超える犠牲者の一人に加わった。イスラエル軍が攻撃する際の大きな「基準」だった「パレスチナ人とそうでない者」という一線、いわば「殺戮におけるレイシズム」は「乗り越え」られた。

 ホダーさんは結局、大学を断念した。今は専門学校で経営学を学び、大学に復帰できる日が来るのを夢見ている。兄のハーレドさんは結婚したという。私たちが帰国した後、レバノンの広報大臣が延々とパレスチナ人の大義についてスピーチをしたユネスコ宮殿では、サブラ・シャティーラ虐殺事件20周年を記念して、広河隆一さんの写真展が開かれた。だが、レバノン史の暗部を焼き付けた記録は、当局の命令で即日撤去させられた。
「人は他者の境遇に共感しうることを、子どもたちに知ってほしい」。子どもに未来を託し、バハーさんは包み込むような口調で語った。しかし、あの「9・11」は米国の物語として特権化され、横領され、アフガニスタンに続いて、イラクでの新たな殺戮を後押しした。
「私たちだって生きたい! 希望を持って、世界の人と同じように生きたいんです」。ミリアムさんは声を振り絞った。だが、世界の関心がイラク攻撃に集中する陰で、パレスチナでは当たり前のように人が殺され、家屋が破壊され続けている。

 1972年、ベイルートで、車に仕掛けられた爆弾で暗殺されたパレスチナ人作家、ガッサン・カナファーニの作品に「ハイファに戻って」という中篇がある。イスラエル建国で難民となったパレスチナ人夫婦、サイードとソフィアが67年、イスラエルの西岸占領によって、20年ぶりに帰郷する。自宅はユダヤ人夫婦、アフラートとミリアムのものになっており、ベッドに置き去りにせざるを得なかった息子・ハルドゥンは彼らの子、ドウフとして育てられ、イスラエルの軍人となっていた。ハルドゥンに拒絶されたサイードは語る「ねぇ、ソフィア。祖国というのはね、このようなすべてのことが起こってはいけないところなのだよ」。在日朝鮮人の作家、徐京植さんはこの作品を通して語る。「祖国」とは、政治的諸条件のもとで選ばれる未来に向かう姿勢、生き方の謂いなのだと。バハーさんの祖国、ミリアムさんの祖国、ハーレドさんの祖国、ホダーさんの祖国。彼ら彼女らを取り巻く不正が正され、その夢が実現する場所。パレスチナ、それはパレスチナ人の祖国であると同時に、私たちが求めるべき祖国でもある。
 パレスチナ人として生きること、それこそがこの旅で、私たちが出会った彼、彼女ら一人ひとりのジハードに他ならなかった。(■了)

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レバノン9.11・難民キャンプを歩く 第5回/キャンプの本当の現実

■月刊『記録』03年4月号掲載記事

 朝はバラの造花が飾られていたテーブルには食事用の黄色いカヴァーが掛けられていた。ナッツと手羽先を具にした炊き込みご飯。ヨーグルト、ナスの酢漬けとフライドポテト……。次々と、食卓いっぱいに料理が並ぶ。 

 準備が整うのを見計らったように、ホダーさんの兄・ハーレド(25)が帰宅した。レバノン大を卒業したが定期収入のある仕事はなく、今は鉄筋や鉄骨で日用品を作り、僅かな収入を得ている。近く結婚するため、連日、夜中までの仕事をこなしているとのことだった。「どんな作業をしてるの?」と私が訊くと、彼はもどかしげな表情で、溶接作業の内容を説明しようとする。新聞社で働く前、私は土木作業で食べていた。私が溶接機器の操作を身振り手振りで示すと、表情がぱっと明るくなった。 

 食事が和やかに進む。アラブのもてなしの慣習で、食べた分はすぐさま継ぎ足される。「もっと食えよ。日本に帰るころには、別人みたいに太ってるかもな」。ハーレドが嬉しそうに私の皿に食事を盛り続け、ホダーが囃し立てる。あまりの量に、さすがに音を上げると、彼が私の耳に口を近づけ、声を潜めて言った。「上へ来ないか?」 

 階段を上がった屋上が彼の仕事場だった。鉄パイプや鉄骨を切るための電気カッターがある。ろくすっぽ英語も出来ない私に、ハーレドは決して流暢とはいえない英語で話しかけてきた。「俺は腕がいい職人なんだ。何だって作れる。でも移動であちこちに行くのが煩わしいから、ここで仕事をしてるんだよ」。大事な仕事道具を指差して、彼が言った。「使っているとこを見たいか?」 
 電気カッターにスイッチを入れた。彼の顔が引き締まる。レバーを下げ、回転する刃を鉄パイプにあてると、勢いよく火花が噴き出した。
「写真を撮っていいか?」。私にこの姿を見せたかったのだと感じ、思わず言葉が口を衝いた。 
 鉄パイプを切ってみせた彼は、繰り返した。「これで何でも創れる。だけど、移動が嫌だからここで仕事をしてるんだ。君は友達だよ。分かるだろ。君は友達だ。分かるだろ」 

 拙い英語で、だがそれゆえに、言葉以上の思いが伝わるような英語で、何度も、何度も繰り返した。彼は決して「軟禁状態だから」や「難民だから」とは言わなかった。大学を出ても仕事はない。今では資材の搬入すらも妨害され、働くことも認められない。「難民」の意味を日々、思い知らされる暮らしのなかでは、「尊厳」を保つことがまさに闘いだった。彼はその「誇り」を、対極的な境遇にある私に示し、いうなれば「一人前の男」として張り合い、そして、「彼の闘い」に対する私の想像力を問うているように思えた。
「分かるよ。俺もそう思うよ」。私もただ、何度も繰り返した。 

 階段から降りる時、彼が屋上から私を呼び止めて言った。「母親が階段を綺麗にしているから撮ってくれよ」。見ると、空き缶を利用した「鉢」に植えられたハーブや観葉植物が、日光を浴びながら美しく並んでいた。 

 ホダーさんの家を辞去する。すでに午後3時近くなっていた。「もう一軒、寄って行きましょう」。ミリアムさんは私たちに促すと、路地に入り、傍らにある平屋のドアを開けた。すえた匂いがする。中には布団が敷いてあり、うつ伏せになり、首を直角に反らした異様な姿勢で寝ている男性の姿があった。無精ひげが目立つ口は大きく開かれ、生気が感じられない。側にはタバコの箱があり、灰皿の上には乱暴に押し潰した吸殻が数本、乗っている。開けたドアの枠内に広がる異様な光景は、少し前の和やかな雰囲気とはあまりにもかけ離れていた。すると枠の中に突如、男の子の顔が飛び込んできた。他人を拒絶するような、怯えたような眼に、思わず声を上げそうになった。 

 子どもは5人、寝ている父親は精神を病んでおり、母親が家計を支えているという。ベイトはこの家庭を支援しているが、父親がいるためUNRWAの援助対象からは除外されている。ミリアムさんが言った。「ホダーはまだ恵まれています。本当に貧しい世帯の現状がこれです。あなたたちに厳しい現実を見て欲しかったのです」 
 事務所に戻ると、運転手のモヘッディーンさんが寝ている。一階の壁に貼られた船の絵を指してミリアムさんに聞いた。「この船はどこに向かって航海するのですか」。「パレスチナですよ。どんなに海が荒れても進んでいく。希望のシンボルです」 
 センターの隣は更地になっている。むき出しになったセンターの壁に高校生くらいの男の子がペンキを塗ったり、欠けた部分に漆喰を塗りつけている。これもレバノンの「帰還促進」政策からみれば禁止行為である。 
 キャンプの門を出ると、モヘッディーンさんが言った。
「アインアルヒルウェに寄っていこう」

 
 青い空、緑の木々、家の合間からみえる青い地中海、軒先に干してある赤や青の洗濯物。陽射しに照らされた、水彩画のようなラシーディエの風景に浸った後では、都市型キャンプのアインアルヒルウェの景色は、鉛色に写った。国軍兵士のチェックを受け門をくぐる。デコボコになったキャンプ内の道は、機械油が染み込んだようにどす黒く、小さな子どもや青年たちが、路上に屯している。険しい眼が車の中の私たちに注がれると、否応なく緊張感が増してくる。 

 道を曲がりくねり、車を降りる。車幅より狭い路地を歩くと、グラウンドがある。その通り向かいにベイトのアインアルヒルウェ・センターがあった。3階建ての建物と建物の間の、やっと人1人が通れるくらいの路地に、無理やり押し込んだような高い鉄の扉があり、上には鉄の棘がある。その横の壁には、複数の銃痕が刻まれている。 
 モヘッディーンさんが扉を何度もノックするが、なかなか人が出てこない。門から建物までの距離が遠いのだろう。しばらくして、ようやく、女性職員が扉を開けてくれた。狭い路地を抜けると、建物の壁に四方を囲まれた小さな庭がある。日の射さない場所とはいえ、中心部は砂場になっていて、ブランコが1台、据え付けてある。その周囲には花が咲き、赤や緑に塗られた手すりが遊び場と通路を立て分けている。ベイトを支援している日本のNGO「パレスチナ子どものキャンペーン」から派遣されたボランティアが整地したのだという。 

 センターに入ると、壁にはパレスチナの伝統的刺繍で織られたパレスチナの地図がある。その地図には、48年以降、シオニストらに蹂躙され、消し去られてきたパレスチナの村々の名前が縫いこまれ、幾度となく繰り返された戦争のたびに引かれた停戦ラインも、度重なる国連の非難決議を無視して造成され続けるイスラエル人の入植地もない。 

 所長のバハー・タイヤールさん(45)がにこやかに出迎えてくれた。「一番問題の多いキャンプ。それは人口が一番多いからです」。開口一番、切り出した。 
 49年に出来たこのキャンプでは、6万人の人々が約1.5キロ平方メートルの敷地内に暮らしている。昼間はキャンプ内の市場で働くシリア人やUNRWA職員など、これに約1万人が加わるという。「80年代後半、レバノンのキャンプ内で党派間の争いが激しくなった。勢力争いに敗れた人たちがみな、このキャンプに集まったのです。例えば北部のキャンプではシリア系のダンズィーマートが、南部はファタハ(アラファト派)が牛耳っているが、ここには全部あって衝突を起こしている。普通、キャンプには一つの人民委員会があり、行政機構的役割を果たすが、ここには4つある。それが対立していることが青少年に悪影響を与えている」と話す。
「具体的にはどんな問題がありますか?」
「いろんなプロジェクトを企画しても、党派間の対立を調停する努力がいる。それから、先日は15人の少女が性的に利用されていたことが分かりました。でも問題をどこに持ち込んで、解決させればいいか分からない。4つ委員会があるということは、言い換えれば責任を持つ組織がないということです。無秩序ゆえレバノンで犯罪を犯した人が逃げ込んで来たりもする。先日もそれでレバノンの警察官と党派との間で銃撃戦がありました」 
 そこまで言っていいのかと、率直さにこちらが困惑する。色白で乾いた顔に栗色の髪、茶色い瞳で私たちを見つめ、よく質問を聞いた上で、ていねいに答えてくれる。 

 バハーさんは57年に生まれたパレスチナ難民2世である。パレスチナ北部の町、シャァブ・アッカ近くの村が故郷で、76年、タッル・ザアタル虐殺事件の後、ベイトが設立された時のメンバーである。「ベイトには約200人の孤児がいました。私は80年からの2年間、7人の孤児の母親代わり、当時は私が最年少の職員でした」 

 82年、サブラ・シャティーラ虐殺事件が起きた年、アインアルヒルウェに赴任した。その時が、自身にとっての原点になっているという。当時、南部レバノンは戦場だった。
「避難所が爆撃され、200人余りが殺されました。サブラ・シャティーラでも、子どもや女性、老人たちが獣のように屠殺されました。あの時私は、パレスチナの子どもたちのために、もっと、もっと働きたいと思ったのです」
「今の対立が与えている悪影響とは?」
「矛盾です。何が正しくて何が正しくないか。例えばオスロ合意一つとっても、党派によって評価が違う。私は大人で自分で考えることが出来る。それでも一体、何が正しいのか私でさえ当惑することがある。ましてや17歳の子どもには……。例えば民族舞踊の企画をするにも、女の子と手を繋ぐことを『ハラーム(禁忌)』だと言う党派もある」 
 じっくりと、言葉を選びながら話しているのだが、時おりウンザリした表情をみせながら話す党派対立への批判は手厳しく、激しい。
「サブラ・シャティーラの前にもいろんな組織はありましたが、目的は一つ『解放』だった。でも今は違う。アラファトのやり方がもたらしたのはインティファーダであり、ジェニンの虐殺だった。『帰還』一つとってもアラファトの主張か、宗教勢力の主張か、どちらを支持すればいいのか。(オスロ合意でパレスチナの約78%を諦めたアラファトに対し)『私たちはパレスチナ全土の主人である』とのスローガンを主張する党派も出た」 
 すでにパレスチナ難民キャンプには、4世、5世が誕生している。世紀を超えて続く不正を国際社会は放置し続け、出口の見えない状況が続くなか、北欧や欧州に移住する人たちも相次いでいるという。「解放」「帰還」……。何よりも彼ら彼女らが待ち望む言葉の実現を巡る道筋が、同胞間の対立を激しくさせている。 

 部屋に並んだたくさんの壷にも鮮やかな刺繍を施したカバーが被せてあり、暖かい雰囲気が醸し出されている。彼女が刺繍したのだという。「子どもたちの多くは、家では寝るのも食事も同じ場所、外に出れば殺伐としたスラム。くつろぐ場所が必要なのです」。一言一言に深い思慮と知性を感じさせる彼女とのインタビューは和やかに進んだ。その表情が一転したのはこんな質問がきっかけだった。
「Suicide Attack(自殺攻撃)についてどう考えますか」
「‥‥」 
 最初、彼女はその言葉が何を指すのか分からないようだった。「パレスチナ人が爆弾を身に付け……」。説明するのを制し、頷きながら深呼吸をすると、彼女は愕然とした表情で呟いた。「『自殺攻撃……』。そう名付けるのですね。貴方達は」。みるみる顔が上気した。
(■つづく)

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レバノン9.11・難民キャンプを歩く 第4回/たび重なる虐殺と「記憶の熱さ」

■月刊『記録』03年3月号掲載記事

 小麦粉の塊を捏ねる母親の手、幅2メートルもない路地で壁にぶつかりそうになりながらボールを蹴り合う子どもたち……。身近な人たちの笑顔を捉えた写真に混じり、砲撃で穴だらけになった家の壁や、窓から陽が差し込む部屋の中で、物憂げな表情で毛布に包まっている父親、二の腕の刺青をカメラに誇示する兄の姿もあった。おそらく彼らは失業しているのだ。 

 ラシーディエ難民キャンプにホダーさんを訪ねた前日、私たちは、ベイルートのユネスコ宮殿を訪れた。英国の写真家の発案で、キャンプの子どもたちがインスタントカメラで自らの日常を写した写真の展覧会が開かれていた。 
 来場者でいっぱいの会場、パネルの傍には小さな写真家たちが、いくぶん照れ臭そうな顔で立っている。少し恥ずかしい、でも自分の作品を見て欲しくてたまらない、そんな顔をした子どもたちと人びとが言葉を交わしている。会場風景を撮ろうとカメラを構えると、「ねぇ、僕の写真だよ!」とばかりにこちらを向く少年がいる。閉塞した環境の中で得た自己表現の機会。こんな場が、彼ら彼女らの自信につながるのだと思えた。 
 開幕式典の冒頭、レバノン政府の広報大臣が挨拶に立ち、延々とパレスチナの大義やらパレスチナ人との連帯を訴えた。01年6月現在、レバノンにいるパレスチナ人約38万3000人のうち、56%が難民キャンプで暮らす。このれは、同じく離散パレスチナ人が生活しているシリアの28%、ヨルダンの18%に比べてもずば抜けて高い。「帰還促進」に名を借りた、抑圧政策の結果である。貧困や失業の現実を伝える写真を前に、大げさな身振りで「連帯」や「解放」を口にする政府要人の姿に、カメラを構える気すら失せてしまった。 

 NGO「ベイト・アトファール・アル=ソムード」のラシーディエ・センター所長、ミリアムさんが話す難民キャンプの窮状に、私は前日の出来事を思い出した。それを話すと彼女は言った。
「えぇ、でもあの大臣はまだマシな方ですよ。4年前から資材の搬入も駄目。これは明らかに政府の方針です。繰り返しますが、『帰還』と、『雨漏りのしない家に住む』のは、まったく別問題です」 
 彼女の故郷は国境線から見えるサファドである。00年には彼女もベイトの子どもたちを連れ、事実上、禁じられるまでの数ヵ月間に6回、国境を訪れた。
「故郷を見てどう思いましたか?」
 みるみる目が潤んだ。彼女は少し間を置いて言った。
「あれが私の村かと……、その気持ちは表現できません……」。亡くなった父に聞いたり、本を読んだりして知る故郷。有刺鉄線越しに出会った同胞に、パレスチナの石とオリーブの枝を貰い、今も部屋に飾っているという。「ますます故郷に帰りたいとの想いが募りました。もう一度、故郷が見たい」 

 私たちが訪問する少し前、韓国からやってきたジャーナリストが、ベイトの子どもを国境線に連れて行き、感想を記事化することを試みた。30数人を連れて国境に向かったものの、結局、レバノン当局に阻止されたという。最初、ミリアムさんからこの話を聞いた時は、ネタ取り的な浅ましさを覚えたが、現実問題として、そうでもしなければ子どもたちは自分たちの故郷を目にすることすらできないのだ。それは、分断された民族の一人ゆえ思い立った行動だったのかもしれない。私は、朝鮮分断後、知人の車で韓国側から停戦ラインに赴いた力道山が、突然、上着を脱ぎ捨て、故郷である38度線の向こうに向かって、およそ言語化できない音で、ただひたすら絶叫し続けたというエピソードを思い出した。

「ちょうど、1年前でしたね」ミリアムさんに訊いた。彼女は即座に質問の意味を理解し、ゆっくり噛み締めるように語った。
「おそらくどの民族にも増して、私たちこそ、9・11の犠牲者の痛みを感じたと思う。サブラやシャティーラ難民キャンプでの虐殺事件のように、罪もない人が理不尽に殺されていくことを、私たちこそが何度も経験しているからです」 
 ミリアムさんが語った、パレスチナ人にとっての9月の記憶「サブラ、シャティーラ虐殺事件」。82年9月、PLО撤退後のパレスチナ人難民キャンプに、イスラエル軍の支援を受けた、レバノンのキリスト教マロン派民兵組織「ファランジスト」が侵入、3日間にわたり2000人以上を殺害した。民兵たちは白い武器、つまり鉈や斧を多用した。キャンプのメイン・ストリートであるサブラ通りは、夏の日差しで腐乱し、家族ですら判別できない死体で埋め尽くされたという。首から上がない死体、頭を斧で潰され、うつ伏せになったまま絶命していた老人、両足を別々の車に縛られ裂き殺された男性、強姦された上、腹を割かれて胎児を引きずり出された妊婦の死体……レバノン滞在中、目撃者から聞いた当時の一場面である。およそ考えうる限りの方法で「屠殺」されたのは、抵抗勢力が去った後、キャンプに残された、高齢者や子ども、女性ばかりだった。 

 当時、現場を仕切っていたのは、アリエル・シャロン・イスラエル国防相(現首相)である。占領地で民間人の安全を確保するのは国際法上の義務だが、シャロンはイスラエル軍に、「(民兵を)妨害するな、自由裁量と援助をレバノンのキリスト教民兵組織に与えよ」と命令、同軍は、民兵組織をキャンプに立ち入らせた。そして夜には、子どもが昼間と見紛う程、おびただしい照明弾でキャンプ内を照らし続け、民兵の殺戮を支援した。虐殺は、両者の「共同作戦」だった。 
 事件はイスラエル国内でさえも批判を浴び、議会が調査した結果、シャロンは責任を問われ、国防相辞任に追い込まれた。だが、その刑事責任は、今に至るまで問われていない。レバノンでのパレスチナ人抹殺が、イスラエルの利益、ひいては米国の中東政策に反することではなかったからだ。 

 ミリアムさんは当時、14歳で、国境から17キロの、ここラシーディエもまさに戦場だった。虐殺の噂を聞いた彼女らは、レバノン最大のキャンプ「アインアルヒルウェ」に避難した。砲撃の危険に怯え、母親は夜も眠れず、ただ彼女たちをだき抱えていたという。 
 事件から20年の節目。現地にはイタリアやスペイン、欧州を中心にした各国から代表団が訪れ、数々の行事が開かれた。ベイルートの「ベイト」の事務所屋上で開かれた証言集会もその一つだった。60人はいただろうか。それでなくても狭く、蒸し暑い会場には聴衆が詰め掛けている。演壇の上には、白地に赤い格子模様が縫い込まれたクーフィーエ(スカーフ)とパレスチナの旗が敷かれ、ミネラル・ウォーターのボトルと録音機が並んでいる。その向かい側には、これから登壇するヒジャーブ(イスラム式スカーフ)で頭を覆った女性たちが座り、たくさんのフラッシュを浴びながら、重い空気を漂わせていた。 

 集会は、レバノン人とパレスチナ人で作る「対シャロン委員会」が開いていた。ベルギーには、組織的大量虐殺(ジェノサイド)や戦争犯罪、そして人道に対する犯罪については、容疑者の国籍や犯行場所を問わずに訴追できる人道法が存在している。82年12月、事件は国連総会でジェノサイドと認定(米国は棄権)されており、その判断を根拠に、シャロンの刑事責任を問う運動が進められているのだ。証言者は全員、同委が作成した起訴状の話者である。しかし集会での話の数々は、およそ「証言」とは程遠いものだった。
「私の子どもが殺されたように、シャロンを殺してくれ」 
 最初に演壇に座った、年老いたヒジャーブ姿の女性、サミーハ・アッバースさんは、同委メンバーに「証言を」と促された後、こう叫んで泣き崩れた。 
 証言者は8人だった。話が続くと、岡さんは私に通訳の困難さを訴えた。スペインとイタリアの代表団は、事前に渡されたペーパーを元に、話の内容が翻訳されていたが、実際、その場でなされた話は、論理性がない言葉の断片で、しかも言語はアラビア語が第一言語でない者には理解するのが困難な、方言だったという。 
 ある人は、行方不明の弟の身分証明書と、故郷の土地の所有証明書をかざしながら、ただ時系列で「その日」の出来事を話す。またある人は、自分以外の人間などいないかのように、一点を凝視したまま淡々と話した。遺族たちの姿はさまざまだった。ただ、私が一様に感じたのは、ふとした弾みで暴力的に湧き上がる記憶の熱さ。そして、それと向き合うことの困難さだった。 

 パレスチナ人にとって、このような悲劇は珍しいことではない。イスラエル建国直前の48年4月、後の首相、メヘナム・ベギン率いる極右シオニスト組織で、現在の与党リクード結成時の核になった「イルグン」を中心とする武装グループが、エルサレム西の村を襲撃、民間人254人が殺された「デイル・ヤシン村虐殺事件」。76年、ベイルート郊外の難民キャンプが、レバノン右派民兵組織に半年間に及ぶ包囲攻撃を受け、住民4000人以上が殺された「タッル・ザアタル虐殺事件」。そしてサブラ・シャティーラ。さらには記憶に新しい02年4月の「ジェニン虐殺事件」……。パレスチナ人の歴史はまさに虐殺の歴史であり、それは現在も続いている。 

 これほどの事態が起こりながら、いったい、その下手人はいかほどの罪を問われたというのだろうか。ジェニンに至っては、米国の支援を受けたイスラエルが国連の調査団受け入れを拒否、実態すら調べられていない。力がすべての価値観が大手を振るっているのだ。
「今の状況のなか、『自爆攻撃』を選択する若い人がいることをどう思いますか?」
「私こそ世界に聞きたい!」。ミリアムさんは即座に切り返した。
「誰だって生きたいんです。たとえば小部屋に押し込められ、食べ物や仕事、あらゆる手だてを奪われれば、自分を殺すしかないでしょう。たとえ難民として、キャンプで死ぬとしても生きていたいに決まっています。私たちは希望を持って生きたい! 世界の他の人と同じように、私たちも生きたいんです!」。出口の見えない現状への苛立ちを隠せないように、眼を潤ませ、搾り出すように話した。 

 すでに11時50分、最後に「夢」について聞いた。
「それは個人として? それともセンター長として?」少し表情を和らげ、ミリアムさんは語った。
「所長として言えば、今後の計画は書ききれない位、頭の中に詰まっています。施設の増築もその一つ。ここには歯医者もありませんから。ただ、とにかく資金が足りません。子どもたちが執筆する機関誌も休刊状態。刺繍のプログラムも中断しています。奨学金もそうです。大学を最終学年で退学する子もたくさん居る。助けてあげたいけど、今の資力ではどうすることも……」。財政難は深刻化する一方という。
「そして個人としては、まずは故郷に帰ること。次にパレスチナの人々のために働くこと。3点目には、私たちの声が外に届き、世界の人びとが私たちの権利を支援してくれることです。どうか私の話を、日本の人たちに届けてください」。もう昼食の時間である。事務所の1階にホダーさんが迎えに来ていた。(■つづく)

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レバノン9.11・難民キャンプを歩く 第3回/土踏めぬ故郷

■月刊『記録』02年3月号掲載記事

 生まれた時、既に難民だったホダーさんやイブティサームさんにとって、故郷パレスチナは、肉親の話や書物、映像など、間接情報を通してのみ知る場所だった。南にわずか17キロの場所にありながら、その土を踏むことすら叶わない。私たちが4月、その地を訪問したことを知ると、2人が続けざまに訊いた、「美しかったでしょ?」。長椅子から身を乗り出し、まるで、私たちの口から出てくる次の言葉の中に、自らの叶わぬ夢の実現を求めるかのように。 

 数秒くらい経っただろうか。私たちが言いよどんでいると、我に返ったようにイブティサームさんがぼそっと呟いた。
「外国人のあなたたちは行ける。でもパレスチナ人の私たちは行けない……」 
 1948年、イスラエル建国に伴うパレスチナ人の分断と離散から半世紀余りが経つ。パレスチナ解放を目指す闘いは今も続いているが、国際的な現実政治の力学の中で、事態はむしろズルズルと、際限なく後退を続けている。彼女たちも故郷への帰還どころか、訪問することすら出来ないのだった。 

 00年5月下旬、20年以上、南部レバノンを占領していたイスラエル軍が撤退。国境地帯が解放された。異郷レバノンで難民として暮らす多くのパレスチナ人が国境を訪問、渇望してやまない故郷の姿を目に焼き付けた。しかし、それは長く続かなかった。その年の9月、イスラエル右派政党リクード党のアリエル・シャロン党首(現・首相)が約1000人の武装警官を引き連れ、エルサレムのハラム・アル=シャリーフ(イスラム教の聖地)を強行訪問した。 
 当時の与党・労働党の「和平」路線に反発する国内世論を惹き付け、目前に迫った選挙を有利にするための示威行為である。暴挙に対し投石で抗議したパレスチナ人に向け、警官隊が発砲、おびただしい人々が死傷し、第二次インティファーダが始まる。それをきっかけに、レバノンのパレスチナ難民が国境地帯を訪問することは事実上、禁じられた。 

 わずか4ヵ月だけ実現した国境への訪問。その間、ホダーさんたちも家族や友人、NGOの「ベイト」の人たちと共に、国境を訪問した。その時の感想をホダーさんに訊いた。
「フェンス越しに婚約している人や、贈り物を交換している人も……。感動しました」。彼女は大きな目を輝かせた。 

 レバノンに暮らすパレスチナ難民たちのこの国境訪問の様子はドキュメンタリー映画『夢と恐怖のはざまで』(01年、メイ・マスリ監督)に記録されている。 
 ヨルダン川西岸のパレスチナ難民キャンプ・デヘイシャに暮らすマナールと、レバノンの難民キャンプ・シャティーラに暮らすモナ。国境線に隔てられた別々の難民キャンプに暮らし、お互い顔も知らない2人の少女とその仲間たちが、「ベイト」などのNGOを介して手紙や電子メールで交流を始める。 
 少年、少女たちはお互いの日常を伝え合う。自治区をわがもの顔で蹂躙するイスラエル軍の戦車に投石を繰り返し、射殺されてしまうパレスチナの少年。展望のないシャティーラでの暮らしに見切りをつけ、海外への移住を決意、友達に告げぬままロンドンに渡り、「同胞を裏切ってしまった」と、自責の念にさいなまれる少女……。そして、イスラエル軍が南部レバノンを撤退。子どもたちは、ついに、国境で対面する。
「今日のこと、忘れないでね!」「絶対に忘れないよ!」 

 M16を構えたイスラエル兵に監視されながら、自分たちを分断する有刺鉄線越しにキスし合い、言葉を交わす子どもたち。傍では半世紀以上前に生き別れとなった家族の写真パネルを掲げ、レバノン側の人々にその消息を尋ねているパレスチナ人の老女がいる。鉄の刺の間に手を伸ばし、故郷の土をかき集める子どもがいる。有刺鉄線から引き剥がされ、兵士に怒りをぶつける老人がいる。少しでも故郷に近づこうと、鉄の棘に押し当てていた彼の額からは、血が流れていた。 
 パレスチナ人であるがゆえ、死と破壊の日常を強いられ、国境を越えることが許されない。理不尽な現実。子どもたちは言う、「この鉄線を引きちぎってやりたい」。 

 実はあの映画で、土を取ろうと手を伸ばしていた少年が、13歳になるホダーの弟・カリームさんだった。有刺鉄線の間に頭を入れる彼にイスラエル兵が訊いたという。
「何をしてるんだ?」
「ぼくたちの土地に触ろうとしてるんだ!」。そう答え、地面に手を伸ばした彼に、兵士は言った。「お前たちの土地じゃない。ここは我々の土地だ」 

 私たちが訪問したこの日、弟は親戚の家に行っており不在だった。彼は心臓を患っており、外科手術を受けているのだが、その治療費を工面するのが難しい。前に述べたように、難民への医療支援は、国連パレスチナ難民救済事業機関(UNRWA)が行っているが、難民の帰還どころか、占領の終結にも目処が立たないなか、年々、施策は後退。近年、癌や心臓病などの高額医療は対象から外されている。それは、学業を続けたいホダーさんにも重く圧し掛かっていた。 

 いろんな話をしているうちに、午前11時になっていた。アラビア語が分からない私を蚊帳の外に、岡さんとホダーさんが2人で盛り上がっている。泊って行くよう、ホダーさんが勧めてくれているのだという。この際、とも思い気持ちが揺れたが、あとの予定もある。センターではモヘッディーンさんが、次の訪問地に私たちを連れて行くために待機している。相対する感情を引き摺ったまま、「次に来た時、宿泊させてください」と話すと、ホダーさんが岡さんの腕を抱え、即座に次の提案をする。「じゃあ、昼御飯を一緒にしてくれないとイヤだ」。「それはぜひ」。抱えた腕を左右に揺らし、ホダーさんが喜んだ。まるで小鳥のようだ。ただ少し間がある。イブティサームさんの提案で、一旦、センターに戻り、ミリアム・スレイマーン所長の話を聞くことになった。

■ 圧政と、貧困と
 
 白い家々と子どもたち。家々の間からのぞく青い海、強い日差しが建物や路面、木々の葉にまで反射し、目がチカチカする。「ベイト」の事務所に戻り、鉄柵の門をくぐる。外から入ると、ベージュを基調にした部屋は薄暗く感じられる。天井近くに張られた紐からは小さなパレスチナの旗が吊るされ、玄関を入ってすぐの壁には、ノルウェーで開いたサマーキャンプの記念写真が、その模様を伝える新聞記事と共に貼ってある。 
 階段横にはボードがすえつけられ、紙を切り抜いた船が貼ってある。大きな船から海に向けて9本のタスキが伸び、取り巻くように6隻の小船が浮かぶ。タスキと船には、伝統刺繍教室など、センターが行っているプログラムが書いてある。 

 今日、私たちの運転手をしてくれているモヘッディーンさんが待機している部屋を覗く。既に数時間、待たせているのだ。私たちを見て、彼の顔がぱっと明るくなる。申し訳ないと思いながら、ホダーさんたちと昼食を一緒し、滞在がさらに数時間、伸びることを詫びる。 

 所長室は2階にある。エルサレムにある黄金のドームの絵が貼られたドアを開けると、日当たりのよい6畳くらいの部屋には、伝統刺繍でつくったパレスチナの地図が掛けられている。格子のはまった窓の向こうでは地中海が波打っており、規則的な潮の音が聞こえてくる。

「このキャンプの最も大きな問題は?」。ミリアム所長に訊いた。
「問題だらけ。とてもひとつなんて言えません」 
 ミリアムさんは68年生まれの難民2世である。リゾート地・サイダにあるレバノン大の文学部を卒業し、89年から「ベイト」で活動しているという。これまでの経験に鍛えられたのか。強い意志と包容力を感じさせる眼差し。実際はもっと大きな印象を与えるが、身長は150センチほど。海の色を思わせる青いズボンに、落ち着きを感じさせる黒い上着、ふっくらとした顔をブルーのスカーフで包んでいる。
「ただ、根本的な問題を上げるなら、やはり貧困です。経済的な困難が、結局は健康や、精神の状態に反映されてきます」 

 内戦による疲弊、それでなくても失業率は高く、首都・ベイルートでさえ就労状況は悪い。しかも、パレスチナ難民の“定住阻止”を掲げるレバノン政府は、70以上の職種からパレスチナ人を締め出している。ベイルートのシャティーラ・キャンプで私は、レバノン政府がパレスチナ人の就労を禁じているデザイナーを目指し、専門学校に通う17歳のパレスチナ難民の女性に会ったが、それも都市に居住していることが少なからぬ影響を与えているように感じる。農村型キャンプ・ラシーディエでは状況は更に厳しい。ホダーさんが47歳の母親の意見に従ってジャーナリストを諦め、現実的な選択をした背景のひとつもそこにあるように思える。
「海で魚を採るにも、家を建設するにもレバノン政府の許可がいります。一時的に、果樹園で季節労働をする人もいましたが、今ではシリアなど、海外から来る人たちが安価な労働力として使われ、パレスチナ人はそこからも締め出されているのです。たとえば大学を出て医師免許を取ってもレバノンでは勤めも開業も出来ません。唯一の職場は赤新月社(イスラム世界の赤十字)ですが、そこも雇用人数には限界がある。結局、安価な肉体労働に就くしかないのです」と現状を説明する。 

 このキャンプで同センターがケアしているのは計54世帯。対してソーシャルワーカーは2人だけ。単純計算で1人あたり27世帯を担当していることになる。ベイルートなどではセンター内に歯科医院を設けているが、ここにはない。健康を損ねている人も多いが、UNRWAの施策は後退している。そればかりか、予算が年々削減されることに伴い、そこで働くパレスチナ人職員の処遇も悪化、訪問時は、処遇改善を求める職員のストライキが、2週間に及んでいた。 
 社会資本の整備もなされていない。水はキャンプ内に泉が湧いており、浄化して使う。電気はレバノンの電力会社から引く。しかし、トランスが古く、許容量以上だと壊れてしまう。ガスボンベ1本が1万リラ。貧しい家庭では木を買って燃料にしているという。
「明確に変わったのは4年前からです。知っての通り、建築資材も搬入させない。家庭用のランプだってだめ。これは政府の政策です。建築許可は、スールにある建設担当当局に申請して許可を受けますが、何ヵ月も待たされるうえ、下りるとも限らない」
「なぜだと思いますか」
「レバノン政府の高官に聞けば『帰還促進の為』というでしょう。彼らが恐れているのはパレスチナ人の永住です。でも、私たちは『永住したい』と思っているのではありません。帰還したいことと、雨漏りのしない家に住みたいというのは別問題です」(■つづく)

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レバノン9.11・難民キャンプを歩く 第2回/答えられない質問

■月刊『記録』03年1月号掲載記事

 ベイルートから車で1時間半ほど走ると、岡真理さんの里子、ホダー・アル=シャーエルさん(21)が暮らすレバノン南部のパレスチナ難民キャンプ・ラシーディエに到着する。ブロック造りの建物は高くても3階程度で、空が広い。家々の間からは地中海が波打つのが見え、広い道を自転車に乗った子どもが行き交う。約1.5平方kmに2万2000人が暮らすという。 

 イスラエル軍が南部レバノンから撤退したのはわずか2年前のことである。民家の壁には銃痕が目立ち、南にわずか17km離れた国境線では、今もイスラエル軍とヒズボラが衝突を繰り返している。とはいえ、目の前に広がるのどかな風景は、ここが出入りの自由を国軍に管理された半世紀を超える「牢獄」であることを忘れさせる。6日からの滞在で何度か訪れたベイルート郊外の難民キャンプ・シャティーラとは対照的だった。 
 0.06平方kmほどのシャティーラには、パレスチナ難民やシリアからの出稼ぎ労働者、レバノンの貧困層ら約1万7000人が生活している。 

 20年前のサブラ、シャティーラ虐殺事件の際、斧やナイフで惨殺された死体で埋め尽くされたサブラ通りに立つと、生ゴミと汚水の匂いが鼻を衝く。未舗装の通りは排水設備すらも整備されておらず、雨が降れば泥の川となる。大きな箒で、一心不乱に汚水を掻き出している男性の写真を撮っていると、私の背後で通りすがりの男がぼそっとつぶやく。「撮れよ、撮れよ、これがシャティーラさ」。男の言葉は、難民としての生を強いる日常への憤りだったのか、あるいは、尊厳を傷つけるその日常を写し込む私のあさましさをなじったのだろうか。 

 サブラ通りから東側には狭く薄暗い路地が迷路のように伸び、ブロックを不恰好に積み重ねた7~8階建てのビルが、まるで光を求める植物のようにひしめき合う。足元をみれば至る所に水溜りがある。何十本もの電線が垂れ下がり、建物の合間から僅かな空がのぞく。レバノン政府は、歴史の暗部が刻まれたシャティーラの再開発と、住民の立ち退きを目論んでいるという。 
 シャティーラと違い、ラシーディエはどこかのどかだった。子どもたちがサッカーゲームに興じている。カメラを向けると、お気に入りの選手のブロマイドを手にポーズを取る。お菓子の付録だ。今年4月、私は占領下パレスチナの、虐殺事件から半月後のジェニン難民キャンプを訪れたが、殺戮と破壊にさらされた直後の子どもたちの中には、手榴弾の破片を掲げたり、角材や鉄パイプを自動小銃に模してポーズをとる者もいた。 

 駄菓子屋の前を通りかかった時だった。店内から小柄な女性が弾けるように飛び出してきた。私がカメラを構える間もなく岡さんに近寄った女性が、里子のホダーさんだった。岡さんと抱擁しあい、ぶら下がるように腕にしがみつく。身長150cmくらいほど。白いシャツの上に小豆色の上着。黒のスラックスを履き、薄紫色のヒジャーブを被っている。手紙や写真のやり取りで知った彼女の好みに合わせ、岡さんが京都で買ったお土産、薄紫の和紙製扇子やハンカチ、和紙の小箱がよく似合う。
「もっと大柄だと思ってた」岡さんが言う。
「そう?私、縮んじゃったのね」ホダーさんが返す。
「手紙、あまり書かなくてごめんね」
「私、忘れられたのかと思った」 
 里子と里親というより、まるで、就職か進学で町に出た後、長らく音信不通だったズボラな姉と、やきもきする故郷の家族をなだめつつ、彼女を待ちかねていたしっかり者の妹のようだ。 

 里親制度は、レバノンの難民キャンプ住民のソーシャルケアに取り組むNGO「ベイト・アトファール・アル=ソムード」が展開している貧困層の支援策である。 
 76年、ベイルート郊外のタッル・ザァタル難民キャンプで住民4000人余りが殺害された。「ベイト」はその虐殺の遺児を支援するために設立された組織である。内戦を経た今では、レバノン国内に12あるパレスチナ難民キャンプの10カ所にセンターを持ち、海外のNGOとも協力し、子どもの就学支援や、文化、芸術活動も展開している。レバノンには同様のNGOが20近くあるが、その中で、最も活発な取り組みをしている団体である。 

 里親制度は、サブラ、シャティーラ虐殺事件の遺児を支援するために始まった。子どものスポンサーを募り、毎月、仕送りを行い、手紙を交わす。生まれた時から難民生活を強いられている子どもたちが、世界の人と繋がり、絆を実感できる制度である。「ベイト」が撒いた絆の種は、フォト・ジャーナリスト、広河隆一さんが日本に持ち帰り、現在では、フランス、スイス、ドイツ、ノルウェー、マレーシアなどでも芽吹いている。 

 ホダーさんは現在、母と兄、弟の4人家族である。壁には軍服姿の肖像が掛けてある。父は90年8月、南部国境地帯での戦闘で死亡、母は看護婦をしながら、彼女と姉、3人の兄、そして弟の計6人を育ててきた。 

 平屋建ての小奇麗な家は3部屋。卓上にはバラの造花、中央にはデスクトップのパソコンがある。彼女が寝室に案内してくれた。天井から壁沿いに斑模様がついている。雨漏りの跡である。修繕したいが、出入りを管理している国軍が資材の搬入を認めないのだという。 
 彼女は当時、レバノン大の1年生、アラブ文学を学んでいた。「文法、古典、中世文学、フランス語、オスマン語、哲学も勉強しています。本当はジャーナリズムを勉強したかったけど、レバノンではパレスチナ人はジャーナリストにはなれない。母が『入っても先がない』と反対したから諦めました」という。パレスチナでもジャーナリストを希望していたパレスチナ人女性に会った。動機は単純明快である。「不正を告発したい。この状況を世界に知らせたい」。シンプルでピュアな思いは、それゆえに、私が属する、少なくとも日本のメディアの性癖、すぐ分かった気になり、飽きっぽく、出来合いの言葉で事態を切り取り、消費し続けるさまを痛烈に撃つ。今は教師を目指しているホダーさんは、「パレスチナ人に教えたい」と語った後、付け加えた。「経済的に可能ならだけどね」 

 20近い宗派の微妙な力関係の上に成り立つレバノン政府は、国内人口の1割近いパレスチナ難民の永住阻止を一貫した政策として掲げている。参政権はおろか、社会保障からも排除している。前述した難民キャンプにおける住居改修の禁止もその一環である。来春から大学の授業料が値上げされるが、レバノン人が2倍なのに対し、パレスチナ人は5倍、日本円にして実に75万円にまで上がった。仮に卒業しても、公務員はもちろん、医者やジャーナリスト、法律家やエンジニアなど、専門職を中心に70以上の職種への就労が禁じられている。 
 付き添ってくれている「ベイト」のソーシャルワーカー、イブティサームさんもレバノン大を中退していた。学費が工面できず、入学しても卒業ができない人が多いのだ。レバノンのパレスチナ難民という現実が、彼女たちの夢を諦めさせる。 

 客間で談笑している時、岡さんが話した。「実は私たち、4月にパレスチナに行ったんです」 
 すかさずイブティサームさんが聞いた。
「美しかったでしょ?」 
 それはレバノンに来て以来、「パレスチナへ行った」というたびに、何度も受けた問いだった。 
 今年4月28日、ヨルダン西岸の町、キリスト生誕の地といわれるベツレヘムで聞いた言葉が浮かんだ――  
 イスラエルで18歳の女性が行った「自爆攻撃」への報復として、4月1日、イスラエル軍はベツレヘムに侵攻、私たちが訪問した時、町は戒厳令下にあった。
「ここから先は軍がいる。私はもういけない」中心部から少し離れた場所で運転手が説明した。ハンドルのちょうど前の部分のフロントガラスには弾痕があった。外出しているパレスチナ人は、誰でも狙撃の対象である。 

 車を降りる。アラブ人とは違う顔立ちゆえ、昼間に私が撃たれる可能性は低い。いわばレイシズムの“恩恵”である。とはいえ、両脇のビルの中には、銃口をこちらに向けたスナイパーがいるのだ。何かのはずみで爆発しそうな緊張感の中、この日の待ち合わせ場所であるホテルまで歩く。 
 人影のない町には至る所にシャヒード(殉死者)のポスターが貼られている。通りでは回収できずに乾燥した生ゴミが宙を舞う。破壊された給水タンクが転がっている。路面は戦車のキャタピラで踏み荒らされ、電柱が倒されている。海外からの支援を受け、自治政府が積み上げてきた社会資本が徹底した攻撃を受けている。パレスチナ国家否定の思惑が、破壊の対象に現れていた。 
 装甲車が横付けされたホテルの1階には、M16を下げた兵隊がたむろしている。最上階の5階はイスラエル軍が占拠し、当時、追い詰められたパレスチナ人が立てこもっていた聖誕町内を監視していた。手持ち無沙汰なのか、兵士が入れ替わり私に身分証の提示を求める。 

 案内役のパレスチナ人青年2人アウニー・ジュブラーンさん(30)とバーシム・スベイハさん(25)と落ち合った。取材のコーディネートや、自分で撮った映像を報道機関に提供し、僅かな糧を得ているという。水も満足に出ないトイレに行ったアウニーさんが、戻り際、一人のイスラエル兵と言葉を交わす。「何を話したの?」。「『やあ、調子はどうだい』みたいな他愛も無い話だよ。仕事をつつがなくするためにイスラエル人への感情は置いておくんだ」。吐き捨てるように語った。 
 今日の予定を話し合っている時だった。突然、アウニーさんの目が険しくなった。言葉が怒気を含み、英語混じりのアラビア語でまくし立てる。ビリビリした空気が伝わるが、何も理解できない。私の苛立ちも募る。岡さんから後で聞いた彼の話は次のようなものだった。 
 彼女のアラビア語にモロッコ訛りを聞きとった彼が聞いた。
「モロッコは美しかっただろ」
「でも、パレスチナの方がもっと美しいですよ」
「美しいだって?」
 反射的にしてしまったアラブ世界の慣例的な受け答え。彼が感情を顕にした。
「こんなに毎日人が死に、血が流されている場所の一体、どこが美しいんだ? 2日前だって俺の友達が殺された。血まみれになった死体を前に、俺は泣き叫ぶべきなのか、あくまで仕事に徹してカメラを回すべきなのか分からなかったよ」
「それでもなお、パレスチナは美しいと思うんです」
「パレスチナが美しいなんてことは言われなくても分かってるさ。俺はパレスチナ人なんだから。でもここでは人が殺され、家が破壊されるのが日常なんだよ。俺たちは平和と自由を求めて闘っている。でも平和がどういうものか想像ができない。生まれた時からここは占領され、暴力が日常だった。君たちにとっては明白なのかもしれない。でも俺たちは分からない。教えてくれよ。平和とはどんなものか。自由とは何なのか…」

「美しかったでしょ?」長椅子に並んでいたホダーさんが目を輝かせ、質問を繰り返した。私たちは返事ができずにいた。
(■つづく)

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レバノン9.11・難民キャンプを歩く 第1回/ベイルートで迎えた朝

■月刊『記録』02年12月号掲載記事

■中村一成(なかむら・いるそん……新聞記者。日本の「国民教育」が排除する者たちの教育権や外国人管理の問題が主なテーマ。1969年生まれ。京都市在住。)

        *       *       * 

「9・11は恐ろしい暴力行為でしたが、新しいことではありませんでした。あのような暴力行為はいくらでもあります。ただアメリカ以外の場所で起きていたというだけです」(ノーム・チョムスキー)  

 2002年9月11日、朝5時に目が醒めた。頭の中に異物感がある。昨夜呑んだアラクのせいだ。 
 夕食を終えベイルート中心部にあるホテルに戻ると夜の10時を回っていた。1階のバーに入る。カウンター内のテレビではイラク放送が流れていた。イスラエルのパレスチナ侵攻、演説するブッシュ、乗っ取られた旅客機がワールドトレードセンター(WTC)に衝突する。繰り返されるその映像が「自業自得」のイメージを伝え続ける。笑うと目が無くなるレバノン人のバーテンが私の名前を訊ねた。「イルソン」。不思議な顔をするので付け加える。「ノースコリアの主席キム・イルソンを知っている? あれと同じ発音だよ」。「ノースコリア!知ってるよ!知ってる。イラク、イラン、‥‥キューバ!」。彼の目が無くなり、握手を求められた。「悪の枢軸」を連想したのだ。
「中東に生まれて不幸だよ」グラスを磨きながらバーテンが言う。
「なぜ?」
「今の世界にゃクレイジー・ビッグ・ワンが2人いるからな」
「シャロンとブッシュ」。思わずバーテンとハモった。「ブレアは?」
「ありゃスモール・ワンだ」
「じゃコイズミは?」
「?」
「日本の首相だよ」
「あぁ、違う、彼は違うよ」 
 テレビ画面を指差して訊く。「あの事件、どう思う?」。「9・11は確かに痛ましい事件だ。でもイラク人は12年間(湾岸戦争とその後も続く爆撃、及び経済封鎖で)、毎日殺され、イスラエルは米国の支援の下、パレスチナ人を毎日殺しているじゃないか」。 
 酒を酌み交せば日本の首相が「スモール・ワン」に昇格するのに20分もかからなかった。話は弾み、徹底的に呑もうかとも思ったが、明日の仕事がある。「店の奢りだ、もう一杯呑んでけ」。座った目で絡むバーテンを振り切って部屋に戻った。 

 私は9月6日からレバノンの首都・ベイルートに滞在していた。主たる目的は2つ。 
 1つは82年9月、イスラエル軍占領下にあったベイルート郊外のパレスチナ難民キャンプ、サブラとシャティーラに同軍の支援を受けたレバノン民兵組織が侵入、住民2000人以上が殺された。その虐殺事件の証言を聞くこと。もう1つは、今回の旅に同行し、通訳を務めてくれるアラブ文学研究者、岡真理さんとともに、彼女の里子に会うこと。地元NGO「ベイト・アトファール」がパレスチナ難民の貧困家庭の子どもを対象に里親運動を行っており、彼女も里親の1人だった。 
 もう一度、寝ようとしたが眠れない。テレビを点ける。カタールの衛星放送「アルジャジーラ」の映像が流れている。煙を上げるWTC。ブッシュ、シャロンの叫ぶ顔、イスラエル軍の戦車に投石する少年、近づいた男性が戦車に何かを仕掛け、周囲に白煙が立ち込める。棺の中には頭を撃たれ、耳と口から血を流した少年が横たわり、母親が亡骸を抱き寄せる。太ももに被弾し、丸太が倒れるように転がる男性‥‥。 
 パレスチナでは00年9月に第二次インティファーダが起きて以降、わずか2年間で、子ども480人を含む約1900人のパレスチナ人が殺され、1万5千人以上が負傷、1万6千戸以上の家屋が破壊されている。 
 スペイン内戦の最中、写真家ロバート・キャパは、頭を撃たれて崩れ落ちる共和国軍兵士をフィルムに収めて名を成した。そんな姿だけをとれば、ここから南、ほんの数十キロ離れた土地では日常である。それこそ、切り取り、消費することにすら飽きてしまうほどに。  

 午前7時過ぎ。サマータイムだから実際は午前6時過ぎ。窓から見た空は少し曇っていた。レバノンに来て以来、私は毎朝ベランダに出て、そこから見える空や町並みを撮っていた。飛び立つ鳥。家や店の前を掃いている人たちがいる。目が醒めると頭の中で鳴り始める前日の喧騒と、虐殺事件の記憶。証言として整理もできず、ただあの日の記憶を吐き出し続ける遺族たち……。朝のルーティンは、いわば深呼吸だった。 

 朝食をとり、外に出る。迎えが来るまで少しあった。「タクシー」「タクシー」。ドアを開けるや否や、ホテル周辺に屯する白タクの運転手たちから営業攻勢がかかる。かつて「中東のパリ」といわれ、金融や貿易、情報産業で栄えたこの国の経済は、20年近く続いた内戦の後遺症に苦しんでいる。国内人口約400万人の3倍ともいわれる在外レバノン人からの送金で、貿易収支は黒字を記録してはいるが、インフレが激しく、金のやり取りはほぼ紙幣のみ。失業率も高く、車一台で始められるタクシーには、膨大な就労層が流れ込んでいる。 
 根元まで吸ったタバコを指に挟んだ白髪の老人が寄って来て乗車を勧める。パレスチナ人という。難民キャンプに通っていることを告げると、親しげな仕草に拍車がかかる。かつてはPLO(パレスチナ解放機構)のメンバーで、70年代には中国や日本を訪れたこともあるという。別れ際には名刺を握らせて顔を近づけ、「実は今もPLOを支持してるんだよ」。こそっと呟いた。 

 70年にヨルダンで起きたパレスチナ人大弾圧「黒い9月事件」で、PLOが同国を追放された後、レバノンは82年までPLOの拠点だった。今も国内には12の難民キャンプがあり、約35万人のパレスチナ難民が暮らす。大半は48年、イスラエル建国と第一次中東戦争で故郷を離れざるを得なかった人々で、多くは第三次中東戦争の停戦ラインより西側の出身者という。つまりは93年にイスラエルとPLOが交わした「土地と和平の交換」たるオスロ合意で、PLOが放棄した土地である。この合意は「中東和平に新たな地平をもたらした」として、当事者3名がノーベル平和賞を受けた。しかし、世界がパレスチナに望んだ“和平”とは、帰還というシンプルな願いを遠のかせ、皮肉なことに「解放」への道筋を巡る同胞間の混乱と対立を激しくしている。老人が声を潜めたのには、そんな背景があったのかもしれない。

「ベイト」で働くパレスチナ難民の青年、モヘッディーンさんが迎えに来てくれる。車はトヨタ製、日本からの寄附で購入したものだ。林立するビルの間を抜けて幹線道路に出る。車窓からみえる高層ビルは、砲撃で大破し、無残な姿を晒している。注意して見ると、廃墟の中ほどには洗濯物と人影がある。一方では更地と白亜のビルが建っている。道路を走る車の大半は、腐食して車体に穴が開いていたり、どこかが剥がれているが、そんな間を、場違いな最新型の高級車が縫って行く。内戦で欧州諸国に避難していた富裕層が近年、相次いで帰国しており、貧富の差はますます広がっているという。 

 高速道路に乗る直前、UNRWA(国連パレスチナ難民救済事業機関)の事務所前を通り過ぎる。総会の決議で48年のイスラエル建国にお墨付きを与えた国連が、第一次中東戦争後、離散パレスチナ人の社会保障などを目的に設置した支援機関である。 
 頑丈そうな門のそばにはレバノンの国軍兵が立っている。両脇に伸びる歩道はテントが並び、何枚ものプラカードが掛かっている。「(破壊された)ナバテア・キャンプの再建を許可せよ」「レバノンのUNRWAはパレスチナ人を抑圧している」「なぜ心臓病、腎臓病、癌患者は治療が受けられないのか」。ガードレールに縛り付けた鉄パイプの上に粗末なシートを被せただけのテントの隙間からは、疲れた顔をした男性や、ヒジャーブ(イスラム式スカーフ)を被った女性たちが腰を下ろしているのが見える。 
 離散から半世紀が経ち、パレスチナ問題の解決が国際政治の力学に歪められ続けるなか、UNRWAの予算は年々、削減傾向にあるという。今では負担の大きい医療は援助の対象から外され、最低限の生活を保障することすらままならない。座り込みは既に2週間を超えるという。 

 右手に地中海を臨みながら高速道路を南下する。左手には、照明灯ごとにコカ・コーラの看板が据えつけてある。ユダヤ資本の同社はマクドナルドなどと並び、長く、アラブ諸国からボイコットされていたが、今ではどこでも見られるようになっている。 
 高速道路を降りると、左手には約6万人が暮らす国内最大のパレスチナ難民キャンプ「アイネルヘルウェ」が見える。「かつてはこのあたりまでイスラエルの占領地だった」とモヘッディーンさんが教えてくれる。 
 バナナやナツメヤシの畑が並ぶ単調な風景が続く。赤と白のバリケードが目に入る。検問所だ。砲台を四方に向けた戦車が並び、見張り塔の上にはAK47を抱えた兵隊がいる。旧ソ連製の自動小銃は、おそらくシリアからのものだろう。78年の占領以来、22年間もイスラエルに占領され、今も国境線を挟んで緊張が続いている影響からか、南部にはたくさんの検問所がある。街灯には、レバノンの国旗とクロスして自動小銃を持つ手をデザインした旗と、男性の肖像画が据え付けてある。82年に結成された、レバノンの主要政党の一つ、ヒズボラ(神の党)の旗と幹部の肖像である。 

 イスラエル軍が南部レバノンを撤退した00年5月、国連は安保理決議に基づく撤退は完了したとして手を引いた。一方、レバノン政府は、国連が設定した「ブルー・ライン」は本来の国境線ではないとして、シェバア農地など一部地域の領有権を一貫して主張している。同党はそれらの奪回を訴えており、現在もイスラエル軍としばしば衝突している。米国は従来から同党を国際的なテロ組織に指定しており、01年9月11日以降は、テロ組織資産凍結リストに加えている。 
 未舗装の道路を進むと検問所が見える。その向こうに、この日の訪問地、ラシーディーエ・キャンプがある。モヘッディーンさんが身分証の提示を求められる。「どれだけ滞在するんだ」。国軍兵士の高圧的な質問に答え、通過を許される。生い茂った木々の間を縫って、でこぼこの道を進む。視界が開けると、パレスチナの旗とアラファトの肖像が据え付けられたゲートがある。キャンプの入り口だ。シャヒード(殉教者)の肖像写真が至る所に貼ってあり、門の近くでは米軍が使用する自動小銃・M16のオモチャをぶら下げた子どもが同じ歳くらいの子どもと戯れている。 
  コンクリートの壁に赤いスプレーで書かれた落書きがある。「アラファト+エルサレム=パレスチナ」。このキャンプではアラファト支持派が優位のようだ。 

  小さな3階建ての建物の前に着く。「ベイト」の現地事務所である。ミリアム・スレイマーン所長と、ソーシャルワーカーのイブティサーム・フセインさん、ウマイマさんの3人が出迎えてくれた。「ホダーが心待ちにしているから、まずは行きましょう」。イブティサームさんが私たちを促した。
(■つづく)

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阪神大震災現地ルポ 第7回 被災者からの手紙

■(月刊『記録』95年12月号掲載記事)

■ 9月11日 (1995年)

 8月に神戸を訪ねた際、移転先がわからないため会えなかった遠藤義子さんと小橋千津子さんに手紙を出してみた。その後の消息を尋ねてみたいと思ったからである。取材というのは、善かれ悪しかれ「一期一会」の要素が強いものだと思っているから、正直にいうと、そこまで追いかける必要があるのか迷った。あまり追いかけるのも無神経ではないかとも思ったのだ。しかし、震災直後の極限状態だけでなく、その後の困難な状況について追跡取材を試みることが連載の目的である。それに小橋さんには、記事になったら見てもらうと約束していたが、まだ果たせずにいた。 

 手紙には、いまも取材を続けていること、8月も取材に行ったが会えなかったこと、その後どう過ごしているか、よかったら教えてほしいこと、10月にまた神戸を訪ねるので連絡先を教えてほしいこと、などを書いて送った。この連載のコピーも同封した。
 現住所はわからないが、震災以前の旧住所は聞いてあった。そこへ送れば新住所に転送されるだろう。転居先不明で戻ってきたら、そのときは仕方ない。そう思って投函した。

■ 9月18日

 小橋さんから返事が届いた。手紙には「今となれば、あの時の怖い思いをしたのが夢のような気がします」と綴られていた。本人の了解を得たので、この手紙から、差し障りのない範囲で、小橋さん母子の置かれている状況について紹介しよう。 
生田川公園での避難生活は、春頃からテントの中にまで入り込んでくる虫に悩まされたので5月で切り上げ、6月からワンルームマンションに移り住んだ。東灘区の田中さんからも聞いているが、震災後、賃貸住宅の家賃は値上がりしている。だから小橋さんも割高な家賃で住まねばならなかった。小橋さんはこのマンションに8月まで暮らし、今月から仮設住宅に移っていた。場所は生田川公園から南に下った辺りという。 
 詳しいことは10月に会って尋ねようと思うが、彼女ら市営住宅の入居者が優先的に仮設住宅に入れるというのは、あるいは本当だったのだろうか。前回「空手形」と書いたのは、私の「早トチリ」だったかもしれない。それとも小橋さんたちが2人暮しだから入居できたのか。仮設住宅に入れない被災住民の多くは4~5人以上の世帯で、2Kの間取りの1室では狭すぎ、2室以上を求めても絶対数が足りない。それで入居を諦めていた。だが2人なら生活は不可能ではない。小橋さん母子は、もしかするとそれで入居することができたのかもしれない。てっきり仮設住宅には入れなくなったと思っていたので、何にせよ、その点だけはよかった。 

 マンションに3ヶ月間住んで、かかった費用は家賃と敷金からの差引分で55万5千円だった。受け取った義援金は10万円。市と県からの見舞金14万円と合わせて24万円。これに住宅助成義援金30万円を受け取ったとしても、1万5千円の赤字となる。大震災で住宅を失った上に財産まで減っていく。つくづく理不尽だと思う。しかも小橋さんによれば、テント生活からそのまま仮設住宅入りした被災者には、この30万円は出ないという。

■ 9月23日
 
 手紙を出したもう1人の遠藤義子さんから電話をもらった。彼女らは母娘も避難所を出て、市内のアパートに移っていた。結局仮設住宅には当たらなかったのだ。「今まで住んでいたマンションの建て替えは終わったが、家賃が倍以上に高くなってしまったので、住むことは諦めた」とのことだった。短期間の突貫工事で建築したせいか、建物全体も室内も以前より小さくなっているような感じだという。部屋が狭くなった上に家賃が2倍以上にはね上がったのでは、とても住むことはできない。遠藤さんはいまも失業状態だ。震災で倒壊した職場の再建は、まだ見通しがたたない。年配の彼女には、新しい仕事をみつけることもままならない。

■ 9月25日
 
 笹山幸俊神戸市長に取材を申し込んだ。これまでは取材しても意味があるとは思えなかったし、その必要もなかったが、小橋さんと遠藤さんに連絡をもらってから、考えが変わった。今まで取材して聞いてきた被災者の怨嗟の声を、彼に直接ぶつけてやろうと思うようになったのである。 

 既に鎌田慧さんをはじめ何人ものライターが、市長に取材を申し込んでいるが逃げられていると聞く。「新聞・TV以外は取材に応じない」と言っているらしい。だから恐らく応じないだろうと思っていると、案の定、「震災対策で忙しくて時間がとれない」と広報課が回答してきた。だがそう言いながら、市長は、創価学会系総合雑誌『潮』の取材には応じているのだ。記事中の市長の発言は、被災者を愚弄するには十分な内容だった。愚問を繰り返す女性記者を、与し易しとみたのだろう。笹山幸俊という人は、その程度の取材には応じる、その程度の人物らしい。それなら、事前に申し込むような悠長なことをしないで、執務室に直接市長を訪ねるか、自宅に「夜討ち朝駆け」でもしてみようか。

■ 9月29日
 
 手紙をもらってから日が経ってしまったが、小橋さんに電話をかけてみた。「ワンルームマンションは金がかかってしゃあないわ」と、電話口で語る小橋さんの様子は元気そうだった。住宅助成義援金も受け取ったという。小橋さんは市街地の仮設住宅に入ったのだが、同じ仮設住宅でも、市街地と郊外では、待遇に差があるようだ。「山の方の仮設住宅にはコンロと食器がついていて、コタツと米10キロがもらえた。私ら町の仮設住宅の者は米とコタツだけ」と話す。郊外の方が生活に不便だからという理屈なのだろうが、ここまであからさまに差をつける必要があるのかと思う。 
 しかも「山の方の仮設にはエアコンがついているのに、町の方にはついていなくて、神戸市はエアコンが欲しければ山の方へ行けという態度だった。つけてもらうまでずいぶんかけあった」と言う。なぜそんなに郊外の仮設住宅へと被災住民を誘導したがるのか理解に苦しむ。誰もが住み慣れた土地を離れたくはない。愛着があるし、復興の進み具合を見届けたいと思って当然だ。市当局は、その程度の住民感情すらわからない。 
 小橋さんには子どもが3人いて、現在はいちばん上の息子さんと住んでいる。「息子がまだ独身なので、地震の後も面倒みてもらえてよかったなあ、なんて言うてる」と笑う。彼女は戦前の大水害、大戦中の空襲、そして今度の大震災と、3度の災害を生きてきた。その間に夫を亡くし、3人の子を育てた。今度会う時には、そうした人生経験も聞いてみたいと思っている。

■ 10月14日
 
 東京で、「阪神大震災報告会-被災者が語るあの時(1・17)と現在(いま)」が開催されたので行ってみた。被災者団体と神戸市との紛糾の様子(前回報告した)などを撮影したビデオ上映の後、自身も被災した地元ボランティア活動家の報告、参加者の発言と続いた。久しく現地で取材していないから、報告の内容は参考になった。けれども参加者はわずか40人ほどで、ほとんどがボランティア活動家ばかり。それ以外の参加者は数人程度というのが気になった。浴衣姿の力士が1人、少し遅れて参加して、途中で帰って行った。兵庫県出身者だったのだろうか。

 日々関心が薄れていくことを痛感した。やはり日本人は冷たい。それにもこの日の集会は事前の告知や内容の点で、もっと運動の「外側」にいる人たちへも働きかけてもよかったと思う。残念ながら内輪の集まり、「体験談発表会」のようになってしまっていた。 
  『記録』の読者には市民運動に関わっている人々が多いから言わずもがなではあろうが、ボランティアとは無縁の人たち、義援金を送っただけとか、義援金もボランティアも全くしなかった人たちにこそ、難しいが伝える努力をすべきだと思う。これは取材を続ける自分にとっての課題でもある。そんな感想を抱いた。

■ 10月25日

 この日、長田では、映画『男はつらいよ』のロケが行われた。「長田の良さを生かしたまちづくり懇談会」(まち懇)の三谷真さんに聞いたところでは、「まち懇」の議論から「寅さんを呼ぼう」という話が生まれた。山田洋次監督が明石へ講演に訪れたところを、「まち懇」有志で会い、撮影に来てほしいと要請した。その時は既に脚本も決まっていて実現は難しいと断られたのだが、その後、山田監督が脚本を手直しして、ごく僅かだが長田が登場することになった。寅さんが神戸滞在中に大地震が来て避難所生活を送り、1年後に再訪するという設定で、来年1月に公開される。 

「まち懇」でも「寅さんを迎える会」を作って準備を進めてきた。これを機会に、「寅さん祭り」を催したり、災害遺児のための「寅さん基金」を設けようという提案もある。基金の方は松竹との関係で、寅さんの名称を使えるかどうかはまだ流動的なのだが、「地元はけっこう『寅さん』で盛り上がっている」と三谷さんは語った。 「まち懇」本来の活動も順調に進んでいる。4月の発足以来、9月までに毎週の会合を17回(準備会も含めると18回)重ね、10月からは隔週で開催している。これまでの経過をまとめた資料を送ってもらったが、統一テーマとして精力的に議論されているのは、やはり区画整理と再開発の問題だ。神戸市は長田の復興に際し、19年前の酒田大火(山形県酒田市)の例を参考にすべく、同市から資料を取り寄せている。だが酒田の復興は失敗だったのだ。酒田の被災者は、いまなお困難な現実を抱えている。長田がその轍を踏むかどうかはまだわからないが、その前に、酒田の商店街が区画整理の後どうなったかを検証することも、決して無駄ではないと思う。この問題は、いずれ機会を改めて、報告することにしたい。 (■つづく)

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阪神大震災現地ルポ 第6回/仮設住宅は余っている?とんでもない!

■(月刊『記録』95年10月号掲載記事)

 阪神大震災から7ヶ月後の8月20日、神戸市は被災救助法適用を打ち切った。被災住民は避難所から「待機所」に移るように促されている。「震災騒ぎもそろそろ終わり」という雰囲気が、日に日に強くなっている。 だが、4ヶ月ぶりに訪れた神戸では「震災」はまだ続いていた。地震後の困難な状況だけが震災ではない。復興のありようもまた「震災」だ。それは今も続いている。終わったというには、まだ早すぎる。

■8月13日
■行政に「空手形を」 

 早朝の三宮。地震の起きた頃は真冬だったのに、季節だけは否応なしに変化して、真夏の暑い陽射しが容赦なく照りつける。 
 神戸市役所の正面玄関前で、「兵庫県被災者連絡会」の人々が座り込んでいた〈写真〉。市が避難所閉鎖を通告した日からここに陣取り、「たすけてー」と書いた横断幕を立て、署名とカンパ活動を続けている。夜はここに布団を敷いて寝る。河村宗治朗会長(58)は「市は今日まで何もしてこなかった。挙げ句の果てに避難所を閉鎖するというのだから」と、静かな口調で憤りを語る。 
 連絡会は避難所閉鎖の撤回、都市部に仮設住宅など10項目の要求を掲げている。会の一員で、地域住民団体「ネットワーク須磨・長田」の中村年一代表が「これは座り込みと違う。ここで市の回答を待っているのだ」と語り、河村会長が「戦争と同じや、いつも弱い者がいじめられる」と話す。戦争や災害のような極限状態の時、その国や社会の体質が、むき出しになって現れてくる。 
 市庁舎の避難所は2ヶ月ほど前に閉鎖されていた。自分達の足下から先に避難住民を追い立てるのも市の体質だ。住民の一部は中央区役所隣の勤労会館に移っていたが、そこに遠藤義子・美和さん母娘の姿はなかった。抽選に当たらない仮設住宅を諦め、民間アパートに移ったのだろう。その後の行先はわからない。 
 勤労会館の近くに新生田川公演がある。このテント村では小橋千津子さんが暮らしていたが、既に引き払った後だった。公園いっぱいに張られた無数のテントも、いまでは隅の方に数えるほど。小橋さんは新神戸駅近くのマンションに移ったと聞かされた。倒壊した市営新生田川住宅の住民だった彼女らは、公園に立てられる仮設住宅に優先的に入れると話していたが、仮設住宅など見当たらなかった。そもそも市営住宅の入居者が優先的に仮設住宅に入れたのかどうかさえ疑わしい。小橋さん達は、行政に「空手形」をつかまされたのだ。

■カネを出し渋る神戸市 

 この日は私鉄各線が相互の乗り入れる神戸高速鉄道が復旧した。須磨区の西村栄泰さんに会うのも、最寄り駅の山陽電鉄月見山駅から歩いて行けるようになった。ちょうど車庫を改造した「家」から、再建した家に家具を運び終わったばかりのところだった。「7月始めから建て始めた。まだ建具は全部入っていなくて、入り終わるのは盆明けになりそうだ。それでも車庫の中よりはまし。暑い時は室温が50度くらいにはなっていたから」と言う。 
 新しい家は平屋で、まだ気の匂いがする。クーラーも付けたから、やっと過ごしやすくなった。それにしても、半年あまりで住宅を再建したのは、被災地でも早い方だろう。隣家はまだ崩壊したままになっているし、近隣一帯も倒壊家屋が撤去され「荒野」が広がっていた。彼のタフさにはいつも感嘆させられる。 
 むろん西村さんも何の困難もなく自宅を再建できたわけではない。建築費用1100万円プラス証明などの電気機器購入費用が借金として残った。震災対策として神戸市災害復興住宅特別融資制度などがあるが、彼の場合、「神戸市から借りたのは350万円だけ。金利は年3%。元金は5年間据え置きで、後の5年で10回払い」という。彼のように木造住宅を再建する場合の融資限度額は1500万円で、それならば十分な自宅再建資金になるのだが、市は簡単に限度額まで貸さない。神戸市震災復興緊急整備条例定められた重点復興地域内には最大3%の利子補給があるが、須磨区はその対象外だから、利子補給率はわずか0.5%。震災融資の金利は3.7%だから、利子補給を受けて、まあ3%となる。震災対策といっても、実質はこの程度にすぎないのだ。

■大阪が遠く 

 その後、「長田の良さを生かしたまちづくり懇談会」の三谷真さんに会った。懇談会は夏井休み中だった。「毎週の会合は14回続けた前回は区画整理と商業がテーマだった。区画整理に対する皆の理解も進んでいる」と言う。三谷さんは本業が関西大学商学部助教授なので、商業については彼が報告した。長田区の商店街は、住民が街を離れているため、軒並み停滞している。唯一、仮店舗と仮設住宅を1区画に集積させた「復興元気村パラール」が活況を呈している。三谷さんは「これからの長田の商店街は、パラールのようにある程度の集積化を図らなければ、存続は厳しいだろう」と展望している。 
 震災以来、「大阪が遠くに感じるようになった」と三谷さん。「買い物をするのも酒を飲みに行くのも、長田だけで十分足りるとわかった。長田では手に入らないものがある時だけ、三宮に行けばいいので、日常的には長田から出ないでも生活していける」と語った。

■8月14日
■日記を再開
 
 三宮駅北側の商店街「サンキタ通り」。播谷慶和さんは、震災以前はずっとここで働いていた。だから「三宮の生き字引」と言われていた、職場のビルの解体作業はほぼ終わっている。「こうして見ていると、40年前のことを思い出す」と語る様子は少し寂しげだ。勤務先は来年の春頃に再建される予定だが、復職するかどうか決めかねている。やはりこのまま引退しようかとも思っている。 
 播谷さんは日記をつけていた。「仕事のことは決して書かず、何十年と1日も欠かさずにつけていた。ノート何十冊分もあったのだが、倒壊した職場に置いていたために取り出せなかった。それだけが心残り」と言う。いわば自分史だ。かけがえのない記録を失ったが、「また日記をつけることにした。老い先短いからいつまで続くかわからないが、震災1周年ごろから始める」と語った。

■市職員が公安警察のマネを

   夕方から県民会館で、被災者連絡会と神戸市との最後の協議会の場がもたれた。出席した住民はおよそ100人。市は、仮設住宅も十分建てた、災害救助法打ち切りの予定は変えない、待機所の場所はまだ明らかにできない、と説明した。避難所閉鎖期限の20日まで1週間しかないのに、場所は言えないがとにかく移れとは無茶苦茶だ。これでは待機所と言うよりも収容所ではないか。
 河村会長が「20日以降は我々を難民・浮浪者として扱うということ。震災以来、人間扱いされてこなかったが、改めて再認識させられた」と抗議する。住民の間から「人殺し」という怒号が飛び交った。 
 市の説明を聞いていて驚いたのは、被災者が希望すれば誰でも仮設住宅に入れるわけではない、ということだった。仮設住宅の残戸数は1964個。もう新築はない。こに日の時点で避難住民は市内に約1万人。市外に避難した被災者と合わせて5333世帯が応募しても入れないでいるから、実に3369世帯分の仮設住宅が足りない。これに遠藤さんや小林さんのように抽選で外れ続けるあまり応募自体諦めてしまった被災者が加わるから、誰がどう見ても絶対数不足している。都市部はともかく郊外の仮設住宅は余っているといわれていたが、事実は全く違った。 
 この3369以上の世帯を自力で住宅を確保できる。仮設住宅の不要な人たちとして、市が一方的に切り捨ててしまっていることにも驚いた。当たらないから「自力で住宅を確保」したいのであって、必要がなくなったわけではない。遠藤さん、西村さん皆さんそうだ。発想が逆転している。 
 震災直後、貝原俊民県知事は「希望者全員に仮設住宅を提供する」と発言していたのではなかったか。 
 市側が一歩的に協議を打ち切った後も、納得できない住民達が担当者を取り囲んだ。市職員の1人が「痛い、痛い」といいながら自分で勝手に転ぼうとした。公安警察の常套手段だ。それを役人がするというのは、行政が住民達を「ならず者」扱いしていることに他ならない。神戸市はここまで頽廃している。住民達が「手を出したらアカンで!」と互いに抑え合っていることとの落差は大きい。

■8月15日 

 東灘区の田中尚次さんを訪ねてみると、夫人が大阪から戻ってきていた。彼女に会うのは震災直後の1月以来だ。「神戸市は『ええかっこしぃ』だから、国道沿いとか三宮とか、目立つところから優先して直している」と、戻ってみての感想を語る。「神戸は開発ばかりで住みにくい。若い人達もどんどん阪神間(西宮・芦屋など)に移っていく。私達も今回は決心して家を建て直すことにしたが、もし次に住むときは神戸を出ようと思っている」と話す。震災以来、どれほど多くの市民が行政に愛想を尽かしたことだろう。 
 再建までとはいえ、自宅前の仮住まいは単身者用なので、親子4人では狭い。家賃は月13万円。震災後値上がりしたという。それでも「来年の1月ごろには新しい家ができる。そのときはまた見に来てください」と、夫人は元気な様子で話した。 
   この日、被災地では精霊送りが行われていた。

■8月24日

 20日以降も待機所への移転を拒否し、避難所で暮らし続ける人々がまだ数千人いる。その後の状況を尋ねるため、被災者連絡会に電話をかけてみた。河村会長は「私らに何か策があるわけでなし、先の展望があるわけでもない。八方破れの心境や」と語る。絶望の色は濃い。21日付で全国に支援を求めるアピールを出した。「食糧の配給を独自で行っていこうと考えている。市庁舎前の泊まり込みも続けている」と中村さんが語った。 
 市民それぞれが困難を抱えながら、復興は進んでいる。取り残されていく人もいる。今必要なのは、復興ムードを盛り立てることよりも、ここの復興の障害は何で、現況は何なのか、もっと明らかにすることだと思う。(■つづく)

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阪神大震災現地ルポ 第5回/行政が住民を追い詰める

■(月刊『記録』95年8月号掲載記事)

■4月27日
 
 震災から100日目の神戸市長田区を歩く。少しずつ瓦礫の撤去も進み、プレハブの仮店舗などが建ち始めている。「復興にむけて、ようやく第一歩をふみ出し始めたというところだろう」と、地元ボランティア団体「すたあと-長田を考える会」代表の三谷真さん(40)が言う。「すたあと」は、震災直後から救援活動をしていたピースボートの撤退後、活動を引き継いでいる。 
   ケミカルシューズ製造業ジョイ製靴を経営する田中正男さん(50)を訪ねた。須磨区の西村栄泰さんの友人だ。4階建てビルの一角に工場があった。従業員は震災前の約15人から7人と半減した。2月から生産を再開したが、売り上げは4分の1に減った。「復興といっても簡単には戻らない。上から見たら靴屋などどうでもいいのと違うか」と嘆息する。廃業も考えたが、「やめても先のあてもない。生活がかかっているのだから、続けていかなければ。悪い時ばかりじゃないと前向きにやっていく」と考え直した。 
   田中さんは中卒以来35年間、独立して15年、この仕事を続けている。先行きは決して明るくないが、「自分の作った靴が店先に並んだり、誰かが履いているのを見るのは、楽しいもんなんやで」。

■4月28~29日
 
 28日。小雨模様の淡路島・北淡町の避難所の町民センターに被災住民の姿はなかった。仮設住宅への入居を終わらせていたのだ。1ヶ月前に会った浜口磐夫さん(77)も、奥さんと2人で移っていた。雨の日は少し寒い。「一昨日は真冬のように寒かった。ところが日が照ると、今度は弱るほど暑い」という。バス・トイレ別のタイプで老人には使いやすいのがせめてもの救いか。家は全壊し、再建も難しい。仮設住宅の入居期限の2年が過ぎたら、公営で建設される災害住宅に入居しようと思う。ただし抽選に当たるかどうかはわからない。「震災は辛かった。泣くにも泣けなかった」。 
 夜になってから神戸に戻った。長田区の「ちゃんちき酒場あいちゃん」は6坪ほどの仮店舗で営業している。地震の発生した午後5時46分で止まった掛時計の下に、「忘れるな! 平成7年1月17日AM5時46分 勇気、根性、笑顔から一歩ずつ・・・・・・わいは神戸子や! がんばろうぜ!」と張り紙がある。 
 偶然にも西村さんと1ヶ月ぶりに再会した。「命あるのが何より」がすっかり口癖になっている。生き残った者の偽らざる心境なのだろう。29日も彼を自宅に訪ねた。5月1日から7日まで、娘婿と韓国に行くという。親類に元気な顔をみせてくるそうだ。

■6月23日~26日
 
 23日。長田区の三谷さんに電話で消息を尋ねた。神戸市議選に立候補した友人の応援に立つため「すたあと」代表から外れ、1スタッフとして、またケミカルシューズ業界を中心に生まれた「長田の良さを生かしたまちづくり懇親会」の事務局スタッフとしても活動している。懇談会は「復興にむけての5項目提言」をまとめた。①災害にも強い杜の下町②高齢者も戻ってこられる町③21世紀型都市型産業としての神戸シューズの復興④国際都市神戸の顔としての長田アジア通り⑤南部ウォーターフロントに海浜を復活させる、である。杜の下町、神戸シューズ、アジア通りという表現に、お仕着せではない発想がうかがえる。 
   三宮の播谷慶和(61)にも連絡をとった。震災で失業した後は「好きな時に寝起きして、好きな時に外出する生活。もともと65歳で引退しようと思っていたから、それが少し早まったようなもの」という。勤務先は区画整理の対象区域内にあるから、再建まではさらに時間がかかりそうだ。趣味の写真も最近再開したが、三宮を三脚を手にして歩くのはまだ気が引ける。 

 25日。同じく三宮の遠藤義子・美和さん母娘に電話してみたが、既に取り外されていた。自宅マンションは結局建て直すため、電話も外したようだ。「仮設住宅が当たらないから、仕方なく民間アパートに移る」と4月末に語っていた。被災住民が諦めて自分で家を探すことで、仮設住宅の絶対数の不足がカバーされていく。 
   26日。北淡町の浜口さんにやっと義援金が出た。家屋全壊と赤十字からの見舞金が10万円ずつ。区画整理反対の住民団体も発足しているという。「反対派が何か動くと、町は仮設住宅にクーラーをつけたり、住民を牽制してくる」そうだ。 
   北淡町では仮設住宅を独居老人には数人で1部屋と割り当てているが、慣れない共同生活に嫌気がさし、出ていく老人も少なくない。これでは収容所だ。「県や町が建てる災害住宅も、場所がないと言い出している。区画整理のための建築規制が続くと、家を建てる費用まで生活のために食い潰してしまう人も出るだろう。私たちが根負けするのを待っているようなものだ」と浜口さん。行政が住民を追いつめる。仮設住宅にしても区画整理にしても、被災地で起きているのは、要するにそういうことではないのか。(■つづく)

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阪神大震災現地ルポ 第4回/地域のつながり方が見えてきた

■(月刊『記録』95年7月号掲載記事)

■3月26日
 
   須磨駅から倒壊した商店街を通り抜けて30分ほど歩くと、月見山本町に出る。発生2日後の1月20日に訪れたときは、ここも多くの家が倒壊していた。細い路地に入ると、屋根瓦が散乱し、ブロック塀が根本から折れるように倒れていた。潰れた家が道をふさいでいた。倒壊した家の前で「空襲でも燃えずに残った家だったけど、そんなこと自慢してても仕方なかったね」と力なく笑うお婆さんがいた。この辺りは戦前からの古い町で、倒壊した建物の多くが、昔からあるこういう家だったのだ。 
   とりあえず市外へ避難するが、「この町は住みよい町なの。だからまたここに住みたいね」と、このお婆さんは語っていた。2ヶ月後、家は解体されていた。彼女が再びこの町で暮らせるのはいつになるだろうか。 

   西村栄泰さん(55)も、震災で大きく損傷した築150年という古い家を取り壊し、車庫を改造して奥さんと息子とで暮らしている。自宅は地震から1ヶ月後に解体した。その際、車庫に畳を敷き、家財道具を運び入れた。天井のトタン板は雨音がうるさいので防水シートをかぶせている。「車庫の電気だけでは暗いので、ブレーカーをつけてもうひとつ電灯を増やした。配線も全部自分でやった。水道も全部自分で配管した。トイレも家から運び出して、自分で下水につないだんだよ」というから凄い。まだガスが復旧していないので、プロパンガスのボンベを調達してコンロにつないだ。いずれ復旧した時に備えて風呂も運んである。その「サバイバル」精神には感嘆させられるばかりだ。 
   西村さんの仕事は解体処理業者だ。毎朝自動車で大阪まで仕事に向かうが、復興車両優先の交通規制のため、早朝に出発しなければならないので大変だ。早朝4時に出発して、帰宅は深夜2時というのも珍しくない。ある時は芦屋から裏六甲を越え、凍結した路面で車が滑るなか、「死ぬ思い」をして帰ってきたという。 
   在日韓国人2世である西村さんのもとには、地震の後、韓国にいる親類から安否を心配する国際電話が相次いでかかってきた。3人の娘たちが嫁いだ大阪からは、物資を積んで娘婿たちがかけつけてきた。「危ないから来んでいいと言うたのにな。でも無事に来てくれた時はうれしくて、お互いに大泣きしたよ」と、当時を思い出して笑う。人情家の西村さんは、近所でも救助活動の手助けに奮闘し、1月に会った時も通りがかる人たちから口々にお礼を言われていた。 
   「震災で人の心がよく見えてきたなあ」と西村さんは語る。隣近所、親類を問わず、助け合える人とそうでない人が、震災をきっかけにはっきりわかったという。「この人にこんな面があったのかと思わされることも多かった。百人百様じゃなくて二百様だよ」と言う。その一方で、「昔の『隣保』のような、近所のよしみというのはやっぱり大事だね」とも語る。助け合える人たちの間では、以前にも増してつながりが深まっているのだった。 

   西村さんの案内で、同じ在日2世の友人のKさん(54)を長田区の自宅に訪ねた。自宅は全壊の認定を受けた。外見よりも内部の損傷がひどく、そのために一度は半壊とされ、再調査で全壊に認定された。壁が剥がれモルタルがむき出しになったり、台所の流し台と壁の間に大きな隙間が空いている。屋根に登らせてもらうと、三角の部分が潰れて平らになっていた。その分2階の天井が重みでたわんでいる。2軒隣の家では死者も出た。「前日に会った人が亡くなっていたり、運が生死を分けるのだろうか」と感じている。 
   Kさん一家4人は、日中をこの家で過ごし、夜は地域の仮設住宅で暮らしている。「ここは同和地区なので、市営住宅を建てたり、建替えの間に住むための仮設住宅が常時建ててあるのです」と言う。本来は緊急用ではないのだが、地元の自治会長の判断で、被災した住民はここに身を寄せている。 
   「1ヶ月経つまでは余震が怖くて気持ちが落ち着かなかった」とKさんが振り返る。「最初の頃は夜が怖かった。暗闇がいちばんこたえた。電気のありがたさを実感した」と言う。地震発生直後、神戸の街は夜になると街灯も家の灯りもない暗闇だった。自転車を走らせていても、1m先も見通せない恐怖を感じた。被災者たちは皆、幾日もそんな夜を送り、「暗闇の恐怖」と闘ってきたのである。 
   Kさんも、「地域のつながりの大切さを再認識した」と言う。それだけに「最初は政府はもっと早く対応していると思っていた。後でテレビを見て、ごっつう手ぬるいなあと思った」と、行政には失望していた。被災地での人々のつながりを見るたび、その「外側」にいる者に対し、こんな疑問が募ってくる。「日本人は、昔から他人に対してこんなに冷たかったのだろうか」と。(■つづく)

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阪神大震災現地ルポ 第3回/淡路島での区画整理

■(月刊『記録』95年6月号掲載記事)

■3月25日

「震源の町」淡路島・北淡町には、倒壊家屋がほとんどなくなっていた。内外の解体処理業者に加え、自衛隊も「超法規」的に瓦礫の撤去を行っていた。そのため町の中心部・富島地区は、空地ばかりの寂漠とした光景が広がっていた。港に佇んでいた老人が「家も店も皆めげてしまった。野っ原になってしまった」とつぶやいた。それらの風景は倒壊家屋が野ざらしになっている神戸とは異なる、震災の無残さを感じさせるものだった。 
 北淡町は人口1万1400人。震災による死者38人。最大で3600人が避難生活を送り、被災率は60%に上る。町の規模に比べて被害甚大だった。町民には高齢者が多く、避難所の町民センターにいる被災者も老人が多かった。彼らは自らも被災した上に、島を出て神戸などで暮らす肉親たちもまた被災していた。ある老人女性の場合、神戸に住む姪の夫が崩れてきた天井を支えながら失神、下敷になって子ども2人とともに絶命した。  

 富島の商店街だった道はほぼ壊滅状態で、地震の凄まじさを改めて思い知らされた。仮店舗で営業を再開した商店や入居の始まった仮設住宅などが所々で見られた。畳屋の仮店舗の土台とするコンクリートブロックを運んでいた男性Aさん(60)は、「薮から棒に区画整理の話が出てきて、30㎡以内の仮店舗以外は建築が認められない。徐々に住みにくくなっていく感じだ」と語る。 
 この区画整理事業計画が、震災後の最大の問題だ。最も被災の激しかった富島地区の県道を7mから15mに拡幅し、県道に通じる細い路地の数本を4mに広げるというのが骨子である。神戸では同様の計画が減歩率を緩和した上で浮上しているが、北淡町では緩和の動きさえなく、対象地区の住民は土地を取られる不安と怒りを隠さない。「行政の独走は困る。こんな小さな町に15mもの道路は要らない」とAさんが言うように、区画整理の必要性の議論など何もないまま、都市計画決定などの手続きだけが進んだ。「早く着手したいから倒壊家屋の撤去を急ぐ」が町の本心らしい。 
 町民センターで会った浜口磐夫さん(77)も対象地区の住民だ。「住民で話し合って『これでどうだろうか』と町に相談するのが筋。それを『こうなりました』と勝手に決めてしまう」と憤りを口にする。浜口さんたちは町に反対の意見書を提出したが、それとても「計画を作った役人が審査するのだから当てにならん。説明会でもわしらの質問によう答えん」と、行政を全く信用していない。 
 ある飲食店が30㎡を超える仮店舗を建てたところ、近くの住民に通報され、町に超過分を取り壊された。区画整理を契機に住民同士が疑心暗鬼に陥っている。地価上昇を当て込む人もいるが、区画整理で減歩が少なく済んだ住民は均等負担の建前上「清算金」を負担しなければならない。つまり、震災で家を失った後、区画整理で土地を奪われ、場合によっては財産まで奪われるのだが、事前には全く知らされていなかった。 

 小久保正雄町長(61)は、阪神大震災では淡路島が忘れられるとして「阪神・淡路大震災」と呼ぶよう国と県に働きかけ実現させたが、今度はその熱意を区画整理に向ける。「公共の福祉の前には私権は制限されるべき」と、多少の反対は押し切って実行すると明言した。神戸と同様、「公私」の差別がこの町でも起きている。 
 浜口さんら区画整理反対派は異口同音に、町長を「悪代官」と呼ぶ。「金持ちや偉い奴は時代が悪くてもうまくやるが、わしらはなお悪くなる。時代劇の頃と一緒や。時代が変わっても何も変わっていない」と語る浜口さんの絶望的な心情が強く心に残った。

■3月26日

 淡路島から船で明石に渡り、神戸市須磨区に住む西村栄泰さんを訪ねた。西から神戸に入るのは初めてだったが、須磨駅から商店街を歩くと、倒壊家屋の大半がそのまま放置されていた。神戸市の復興(旧)は東から西に行われていたから、長田・須磨区は必然的に遅くなる。震災前も都市化の恩恵から外されていたこれらの町は、震災後も後回しにされていた。ここに、神戸市の変わらぬ体質をみてとることができる。
(■つづく)

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大使館は世界への窓 最終回/ニュージーランド

■(月刊『記録』95年8月号掲載記事)

■「おいしいリンゴはいかが?」/アントアネット・ジャッケリー二等書記官に聞く

  ニュージーランドと聞いて皆さんが思い浮かべるのは羊だろうか、ラグビーのオールブラックスだろうか。もちろん羊肉や羊毛は今でも重要な輸出品目だが、近年では工業力・技術力も向上している。その一例が、日本艇の参加で日本でも大きく取り上げられた世界最大のヨットレース、アメリカス・カップの優勝だろう。ヨットの性能とクルーの技能が試される同大会で、今年はチームニュージーランドが優勝し、本国では最高の盛り上がりを見せた。次回は1999年、オークランドで開催される。
  また、ラグビー・ワールドカップでのオールブラックスと日本チームの試合は大差がついて残念だった。これは経験によるものだろう。日本も経験を積めば必ず強くなる。オールブラックスの選手は試合前以外は週末に個人練習するくらいで、日本人選手とはずい分違うと思う。国民は皆スポーツに親しんでおり「スポーツが宗教」といわれるほどだ。
  わが国は社会福祉の国という印象があると思うが、失業とインフレに見舞われ、10年ほど前から行政改革に取り組んでいる。海外の旅行者がけがをした際、無料で治療が受けられる制度は廃止され、年金の給付が60歳から65歳に引き上げられた。各種の引き締めが行われた結果、昨年の経済成長率は6%となり、失業率は11%から7%以下にまで回復、国内生活は安定した。治安も保たれているため、日本からの語学留学生も増えている。
  英国との精神的・経済的な結びつきは強いが、60年代は約70%だった貿易高は、現在では7%程度であり、逆にAPEC諸国との取引が70%を占めている。最近は太平洋諸国の一員としての立場が重要視されており、なかでも日本はオーストラリアに次いで第2位の貿易先である。今後ますます重要なパートナーとなっていくだろう。
  昨年のリンゴの自由貿易化によって、今年もおいしいニュージーランド産リンゴを皆さんのご家庭にお届けすることができるだろう。
(■了)

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大使館は世界への窓 第11回 タイ王国

■(月刊『記録』95年7月号掲載記事)

■「『タイ米はまずい』は偏見」/シーハサ・プワンゲーギャオ公使参事官に聞く
 
  現在、アジアには5匹の竜が住んでいるといわれている。韓国・台湾・香港・シンガポール、そしてタイ。竜の由来は、近年5ヶ国が目覚ましい経済成長を遂げていることにある。タイに限っていえば、1987~92年の経済成長率が11%、93年以降は爆発的成長から安定成長に変わったとはいえ、8%の伸びを記録している。
  タイの経済成長は、日本の政府や民間団体などの援助によるところが大きい。しかし最近では、アジア進出の拠点として地理的に有利なこと、巨大な人口が消費国として魅力があることなどにより、日本企業からタイへの投資が盛んになってきている。
  また、92年にはシンガポールにおいてAFTA(ASEAN自由貿易圏)構想が合意され、わが国を始め参加国の間で、関税を撤廃した商品の輸出入も始まった。このようなことも、タイの経済発展を後押ししているのだろう。
  GNPも国民一人当たり700ドルだったものが、現在では2300ドルへとふくらみ、生活もかなり豊かになった。一方で、経済成長に伴う問題も現れている。
  バンコクでは、夜中をのぞく1日中、車が渋滞している。2~3キロ進むのに40~45分かかるほどだ。また、環境汚染の問題も深刻である。タイ政府もこのような問題の解決に力を注いでいる。
  タイの魅力の1つは、国民の親しみやすさにあるだろう。にこやかによく笑い、外国人と接するのに抵抗がない。それは、植民地になったことのない歴史が、タイ人に誇りと自信を与えているからだろう。また、敬虔な仏教徒が多く、仏教が国民の生活に密接に関わっていることは現在も変わりがない。家の新築や誕生日には、食べ物や袈裟を寄進するのが習慣となっている。
  タイと日本の関係はうまくいっている。しかし、昨年の米騒動には絶望した。タイ米を食べたことのない人まで、悪口を言う。タイ米と日本米は違う。もちろん品質が悪いわけでもない。「まずい」ではなく、せめて「食べ慣れていない」と言ってほしい。マスコミもマイナスイメージだけを流し続けた。日本にはタイ料理屋さんも多いので、いろいろなタイ料理を食べてみて欲しい。タイ料理には、やはりタイ米が合う。今年、タイ米が輸入された時には、米にあった料理を作ってみてください。タイ米の評価は、マスコミの偏った報道ではなく、自分の舌で出して欲しい。
(■つづく)

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大使館は世界への窓 第10回 チリ共和国

■(月刊『記録』95年6月号掲載記事)

■「世界一長く狭い国」/ハイメ・ラゴス大使に聞く

  チリは南アメリカ南西に位置し、世界で最も南北に長く東西に狭い国である。南北は北海道から九州までの3倍もあり、世界で最も長い山脈の1つであるアンデス山脈と広大な太平洋に挟まれ、北に砂漠、中央に土地の肥えた平原、南に南極大陸にまで延びている氷河がある。これほど多様な気候と形を持った国はまずないだろう。特異な地理的条件は人々を刺激し、「神が天地創造時に最も美しい破片をチリにもたらしてくれた」といわれるほどだ。
  わが国は長い間、ラテンアメリカの中でもっとも安定した民主主義を営み、現在も利害が異なる党派が協同歩調をとって統治されている。過去10年間、チリ経済は平均6%以上の数字で成長しており、1350万人の国民のGDPは1986年の1438米ドルから、昨年には3700米ドルまで成長した。経済の安定と成長のために自由貿易を推進している。自由貿易は経済と外交政策上基本的で重要な要素であり、近年のチリと日本には主に商業的関係で結びついている。日本への主要な輸出品は鉱産物・漁業水産品・林産業物・農産物であり、輸出額は約1億米ドルに上る。
  また世界有数の鉱産物生産国・輸出国である。モリブデン・リチウム・金および鉄の鉱石の主要生産国だ。漁業では世界第5位の700万トン以上の漁獲量を誇る。また近年の農業ブームは農産物の巨大な輸出国にわが国を成長させ、グレープなどのフルーツや野菜は日本のスーパーでも見られる。キウイの生産ではニュージーランドさえ打ち負かしている。良質なグレープから作られるチリ産ワインは米国ではフランス産・イタリア産に次いで売れている。さらに林業は巨大な潜在力・競争力がある。というのはわが国では森林が急スピードで成長するためで、そこから生産されるチップや木材パルプは世界中に輸出されている。
  次回のアジア・太平洋協力会議(APEC)は大阪で開かれるが、チリは加盟18ヶ国の中で最も新しい加盟国であり、日本の大阪港が首都サンティアゴのバルパライソ港と姉妹港の調印をして以来チリ人は大阪に親近感を覚えている。そしてたった数ヶ月前に、この地域を襲った地震に深い悲しみを抱いている。チリもまた不幸にも頻繁な地震に見舞われている。
  私の文章が読者の皆様にチリについての知識をさらに増やそうと考えるきっかけとなり、日本とのパートナーシップが強化されることを深く望みます。
(■つづく)

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大使館は世界への窓 第9回/バングラデシュ人民共和国

■(月刊『記録』95年5月号掲載記事)

■「日本との関係は良好」/サイード・ファヒム・ムネイム報道官に聞く

  日本に赴任する前の私は長崎・広島の原爆投下のことぐらいしか詳しく知らなかった。しかし、来日2年をへて、バングラデシュと似た国だと感じている。例えばわが国の国旗は緑の地に赤丸と日の丸とは色が違うだけで同じデザインだ。また、茶はベンガル語でチャー、「ハイ」はハと発音する。基本的には米と魚という食生活も同じだ。家族の結びつきも似ている。そのせいか、母国で放送中の「おしん」の評判がよく、共感を呼んでいる。相撲も放送されており、私は貴花田・若花田・曙が好きだ。
  治安の良さと人々の親切さには驚いた。花や野菜が無人販売されてもお金が払われる国は他にないだろう。赴任直後で乗り継ぎの悪い地下鉄で迷った時には、親切な女性が間違えたキップを買い直して差額を取り戻してくれた上に、正しいホームまで案内してくれた。日本ならではと思う。最近、サリン事件などによって治安が心配されているが、特別な事件であり、安全神話は崩れていないと思う。今まで大丈夫だったからこそ、衝撃も大きかったのだろう。事件の衝撃が、間違った形で世界に波及しないことを願う。
  東京駅から馬車に乗ったことも忘れられない。新任大使が赴任すると、東京駅のVIPルームから馬車で皇居まで案内されるため、大使と共に2回ほど皇居に入った。本当に美しいところだ。
  私の仕事は、自国を日本に紹介するとともに、互いの文化の違いを埋めることにある。自国から来たジャーナリストの世話も、日本の人達への文化紹介セミナーの開催もしている。マスメディアは大事件だけを扱いがちなので、わが国がいつも洪水に見舞われているような印象を与えるが、もちろん違う。報道と現実とのギャップは困った問題だが、存在は大きい。政府は変わっても、マスメディアの総入れ替えはないからね。
  日本との科学技術面での貿易推進も、これからの目標だ。両国関係には戦争にまつわる歴史上の問題などもなく極めて良好。日本の市場では高品質が求められるので参入は難しいが、魚介類や繊維製品・皮製品はわが国から入っている。日本企業群の工業地帯もあり、関係はますます密接になってくるだろう。
  なお、手で食事をするわが国の習慣はわが国の習慣には多少誤解があるようだ。食事には指も使うがナイフ・フォークも使う。もちろん、食事の前には手も洗う。合理的で衛生的な食事方法だ。
(■つづく)

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阪神大震災現地ルポ 第2回/避難所から出勤する被災者

■(月刊『記録』95年5月号掲載記事)

■3月23日

  3度目の阪神・神戸の訪問である。自動車のクラクションや緊急車両のサイレンによる喧騒はほぼ消え、人々の話し声や日々の暮らしの音が聞こえた。生活の息吹が少しずつ戻っている。 
   芦屋市の高井浜仮設住宅は500戸分のほぼ9割が完成し、半分ほどが入居済みだった。小さな台所と2間で30㎡弱の広さで、13日が入居開始日だった。入居者の家族構成はさまざまだが、やはり老人が多い。敷地の中を散歩していたおじいさんが「隣とは板壁1枚だから、両方から音や声がよく聞こえてな」と苦笑する。誰かいるのかと思ったら隣の足音だったりするという。 
   西山さん老夫婦は1週間ほど前に入居してきた。倒壊するまで住んでいた市営住宅と比較して、「風呂とトイレが一緒なのが使いづらい。風呂に入ると床が水浸しになってしまう」とこぼす。考えてみれば仮設住宅に設置されたユニットバスなど老人は使ったことがないから、勝手がわからないのも無理はない。年老いた入居者は口をそろえて「風呂には往生している」と語る。これが仮設住宅の現実だ。確かに「贅沢をいえばきりがない」(西山さん)が、そんなことは被災者自身が一番よくわかっている。 
   芦屋市から神戸市東灘区に入る。倒壊家屋のうち解体が進んでいるのは3~4割か。かつて福井池公園に避難していた田中尚次さん達の6軒並びの住宅は、どれも1階部分の車庫を残し跡形もなく撤去されていた。家族で車庫暮らしを続けているのは1軒だけだ。「年内には家をまた建てられそうだ」と田中さんは明るく語るが、それにはさらに住宅ローンを重ねなくてはならない。 

 1月29日に会った小野享子さんを阪神青木駅近くのアパートに訪ねた。当時は夫と2人で隣家の屋根伝いに瓦の落ちた屋根に登って防水シートを張ったばかりで、日中に家の中を片づけ、夜は家の前の会社の独身寮に避難していた。倒れて折り重なったタンスの中から、「無我夢中で、どうやって出てきたのか自分でもわからない」状態ではい出した。その際全身を圧迫され、体調不良も口にしていたが、「今は重傷者の手当てで病院も手一杯だろうから、診てもらうのはもう少し先でいい」と気丈な人だった。 
   2ヶ月を経て東灘区周辺は電気・ガス・水道・電話総て復旧し、小野さんも「ほんまありがたい」。2月から自宅に戻っていた。2階建ての古いアパートは奥の方が少し沈んでいる。正面中央に2階に上がる鉄製の階段とそれを支える柱があり、これらの鉄骨が支えになって何とか持ったという。新旧にかかわらず、倒壊は紙一重の差で起きたのだ。先日病院で異状なし診断されて一安心。防水シートと残った瓦から軽くて落下しない瓦に葺き替えるため、さらに2回も屋根に登った。重い瓦を大量に運んだせいで腕が上がらないが、この日も壊れた家具を修理するためにカナヅチを手にしていた。「性分なのよね」と笑う気丈さは相変わらずだ。 

 三宮に向かう。阪神御影駅から先は代替バスか阪急に乗り換える。1時間待ちのバスを諦めて歩く人も多い。一緒に歩いてみると阪神御影駅まで15分、毎日の通勤を考えると大変な時間だ。 
   神戸市役所の避難住民も半分近くに減って閑散としていた。遠藤義子・美和さん母娘は1階出入口そばから2階ギャラリーの一角に移っていた。市から移るように命令されて3月9日に1日かけて「引越し」た。移る場所の手配も全くないなど相変わらず冷たい神戸市はまた、避難住民以外の被災者への食事提供も26日で打ち切ると通告していた。水道は3月初旬に完全復旧したが、中央区より西はまだガスが通らない。調理できなければどこかの店で買え、税金を使うのは嫌だから私財を使えというわけか。 
   美和さんはアルバイトをしているが、義子さんは勤務先のビルが震災で破壊されて失業したため母娘の収入は減った。自宅マンションの再建には半年から1年はかかる。仮設住宅の応募に外れれば、市内のアパートを探すしかないだろうと言う。2日後の抽選で外れた母娘だが、再募集にまた応募するつもりだ。

■3月24日

 7時頃から出勤が始まり、美和さんも同刻に市役所から職場に向かった。8時頃までが出勤のピークのようで、ポートアイランドに向かう人達と一緒に歩いてみる。崩壊したポートライナーの線路を横目に、三宮駅からは約1時間半黙々と早足で歩き続け、職場のあるビルに各々吸い込まれていった。三宮駅前からの代替バスに乗れば15半で着くが、乗車待ち時間が長すぎる。 
   この「日常」に強い違和感を覚えた。そもそも避難所からの通勤自体が異様な光景なのだ。交通網が部分的でも優先的に復旧すれば企業は業務を再開する。被災していないか軽微な被災で済んだ市民は多少不便でも通勤を始め、引きずられるように避難住民も住む家さえ決まらないのに出勤せざるを得ない。 
   これを仕方がない・働かなければ生活できないからだと言い切っていいのか。被災者の約30万人も今なお避難所生活を送る8万人も、総人口からみればわずかであり、いつまでも震災騒ぎでもないということなのだろう。被災しなかった者達の、ある種の「冷たさ」を感じると言っては言い過ぎだろうか。 

  三宮の小野柄小学校にも多くの避難住民がいる。学校隣の生田川公園では、近くの市営新生田川住宅13号棟の被災者がテント生活を送っていた。建物は既に解体工事が始まっている。世話役の松本里子さんが「神戸市は何しとんのや。今まで現地に来て実態を見にきた者は1人もいない」と憤る。市役所から歩いて15~20分なのに誰も来ない。市からの提供は毛布1枚だけ。公園の隅に置いてある流し台と洗濯機はボランティアが調達し、テントや防水シートは各自で購入してきた。 
   被災各地では県知事や市長への怨嗟の声が充満している。住民の信頼を失っている行政に何の意味があるのか。確かに公設の風呂や銭湯も開き、水道も復旧、入浴や洗濯も可能になった。避難所生活を送る上での人心地がつくようにはなっているが、その先の避難住民の生活を改善する方策は止まったままで、仮設住宅がいつ完成するかも入居できるかもわからない。前日に訪れた東灘区の「西青木公園テント村」の住民達も「仮設住宅に入れなければ、ここにいるしかない」と半ば絶望的になっていた。生田川公園でも、息子と2人で登山用テントで暮らす小橋千津子さんが「梅雨になったら辛い。それまでには仮設住宅を建ててほしい」と語った。長い間の使用でテントが歪み始め、周囲をベニア板で囲い、防水シートで覆った。材料もすべて小橋さんが購入してきた。 

 復興には「公私」の差別があった。ライフラインも「公」を優先的に復旧させ、鉄道や道路など「公」の性格を伴う交通網も段階的にだが復旧しつつある。企業活動(本来は私企業なのだが)も再開した。しかし、仮設住宅を始め家庭用ライフラインなど被災者の私生活を支えるための「私」の復興は常に後回しにされている。これはある意味で、震災直後の極限的な状況よりも異常なことだ。
(■つづく)(和田芳隆)

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阪神大震災・現地ルポ 第1回/阪神大震災発生直後 現地からの報告

■(月刊『記録』95年4月号掲載記事)

■和田芳隆(わだ よしたか)
ルポライター。1967年東京都出身。日本ジャーナリスト専門学校卒。雑誌編集者、記者等を経て、1992年よりフリー。週刊誌、月刊誌などで活動。特に地域開発に絡む問題に関心をもって取材している。横浜市在住。

■1月19日

   阪神大震災発生から2日後の1月19日、自転車で西宮から神戸へと向かった。家屋倒壊やビルの崩壊と息を飲む光景が続く。 
   播谷慶和(62)は戦後まもなくから神戸市三宮に住む。「はじめ横に小さく揺れて、地震だなと思ったら縦にドンと揺れた。寝ていた私の体が宙に浮くほど。揺れは20秒ほどだったと後で知ったが、1~2分にも感じられた。衝撃が強すぎて、最初は地震とわからず、『これは何や?』と思った」と振り返る。住居の公団住宅は倒壊こそしなかったが、室内は壊れた家具が散乱し、余震による被害を避けるため市役所に身を寄せた。 
   新市庁舎の1階と2階に非難した市民は数百人はいた。市職員は「人数まではとても把握できない」というが、それでは食料など救援物資の必要量もわからないではないか。案の定、数が足りなくて食事を受け取っていない人もいた。震災のショックで、あるいはそれ以前から体調を崩し、行列に加わることが困難な人には、食事も毛布も全く配布されず、配布の際も市は広報しない。いつの間にか始まり、気がつくと行列ができている。発生2日後で、既にこのような不公平が生じていた。

■1月20日 

 長田区は地震の後の火災で一面の焼け野原。焼跡に「ここに○○が埋まっています。掘り出して下さい」と、がれきを利用して書かれた立て札が点々と立っていた。西村栄泰さん(55)は、妹の安否を尋ねて焼跡に来ていた。「ここに家族で住んでいたが、生きているのか死んでいるのか。隣にも俺の友達が家族で住んでいたけど、どうなったかわからん」と語って西村さんの指し示した先は、すっかり焼け落ちて、ベランダの残骸だけが残っていた。 
   遺体(骨)を探して、焼跡をスコップで掘り返している人達とともに自衛隊の姿があった。身寄りのない人は、自衛隊の手を借りるしかない。私の傍らの老人は妻を亡くしたのか。水を供えて合掌し、すすり泣いたまま遺骨を抱えて去っていった。

■1月21日

 震災で最多の死者を出した東灘区を歩いた。川の中に滑り落ちてしまった家のそばで、被災民がトイレ用の水を汲んでいた。もはや余程でない限り、倒壊した家を見ても驚かない。 
   福井池公園には4家族が避難していた。学校などの避難所が既に一杯だったり、不便を感じて見切りをつけ、公園で過ごす人も多いが、兵庫県や神戸市の指定避難場所ではないため物資の配布や給水の連絡が届かない。口コミで情報を仕入れて、近くの学校へ受け取りにいくため泥棒呼ばわりされる人も。彼らは「皆が学校に避難しているわけではないから、市や区はもっと広報してほしい」と訴えていた。

■1月27日

 避難住民の不安と焦燥で、震災直後には重苦しい雰囲気も漂っていた各地の避難所では、ボランティアと住民有志が忙しく立ち働き、救援物資も充足しつつある。反面、直後は奇妙な落ち着きさえあった神戸市役所の雰囲気が、どこか澱んでいた。 
   遠藤義子・美和さん母娘は、住んでいたマンションの損壊が予想以上にひどくて取り壊しが決まったため、この時期から避難生活を始めた。遅れての避難では、避難所も寒風の吹きすさぶような場所しか空きがない。女所帯では重い家財道具は運び出せない。神戸ならどこでも近隣が助け合っていたというわけでもなかった。「2人で持てるだけ持ってきました。先のことは何も考えていません。きっとお金がいるだろうから、せめて今は倹約しています」。 

   兵庫県庁1階ロビーの十数人の避難住民は、主に高齢者の被災者だった。ちなみに不可解なことにここは指定避難場所ではない。そのなか72歳の男性は、「金があっても、家があっても、皆それぞれ違った不安を感じているんですよ」と淡々と話す。県庁や市・区役所の避難民は、老人・病人・母子家庭・路上生活者が特に多い。他には頼るところがないということだろうか。 
   福井池公園の避難民には生活力を感じた。家族や隣近所という生活の核を持ち、懸命に状況に対応していたからだ。だが、独居や老夫婦で地域社会とのつながりも希薄な人は、何もしてはくれなくても行政に身を寄せるしかない。時間の経過とともに、この差があらわになっていた。「今後は精神的ストレスが特に高齢者で問題になる。行き場のない人が将来の希望を持てなくて自殺しやしないか」という懸念は他ならぬ被災老人自身から出ていた。

■2月23日~26日

 連絡のとれた人に「1ヶ月後の震災」を尋ねると、その後の事態は、残念ながらこの通りになっている。 
   播谷さんはまる1ヶ月避難生活を送った後、自宅に戻った。居酒屋やパチンコ店を営む会社で40年近く働き、ここ30年は支配人を務めていたが、商店街ぐるみの復興案が数年を要するため会社は解散となり、自動的に失業した。今は年金や雇用保険の手続きで忙しい。これからは、避難生活の間にお世話になった人に、せめて何かお返しにお手伝いをしたいと考えている。 

   長田区で会った西村さんの築150年の自宅は壊すしかないと判定され、自宅裏の車庫で寝泊まりしている。仕事で大阪まで毎日通うが、渋滞を見込んで朝4時に出て、戻るのは真夜中。「1日23時間ずっと車の中で、眠くてかなわん」とこぼす。このような生活のため日曜日にやっと連絡が取れた。焼跡で消息を案じていた友人の無事はわかったが、妹の安否については語らなかった。 

   福井池公園の4家族のうち2家族は1ヶ月後に他県へ「疎開」し、公園グループは「お開き」となった。この町を離れたくないと語っていたが、当分は断念せざるをえなかったようだ。神戸に残った田中尚次さんは、夫人と2人の子どもは大阪の池田に移り、彼だけが仕事のために残った。「つぶれなかった自宅1階の鉄筋の車庫で暮らし、池田には週に2度ほど風呂に入りに行く。町はまだ何も変わっていない。私達は『お開き』にしましたが、他の公園にも学校にも多くの避難民がいる」という。 

   遠藤さん母娘は避難所生活を続けていたが、自宅は大幅修理で済むことになり、日中は義子さんが自宅の家具を片づけ、美和さんはアルバイトを始めた。「修理中に住む場所がないのです。家賃も倍になるらしく、どうなることか。市役所から出ていかなければいけないとの噂も聞いています」と不安げだ。 
   近くの公共プールがボイラーで湯を沸かし、風呂に入れるようになった。電気と電話も復旧したがガスはまだで、水道も市内の主要な地点までの復旧に止まる。 
   県庁で会った老人のように、今も避難所で過ごしている人には電話では連絡のとりようがなかった。この人たちの「その後」を知るために、これからも被災地を訪ねていく。震災の後の「それからのこと」こそを、追跡取材しなければならないと思う。      
(つづく)

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大使館は世界への窓 第8回/キューバ共和国

■(月刊『記録』95年4月号掲載記事)

■「真の経済発展をめざす」/エドゥアルド・デルガード・ベルムーデス大使に聞く

 今年、キューバ国民はキューバ革命36周年を迎えた。
  革命によりキューバを支配していた軍事独裁政権が倒れ、根本的な社会・経済・政治改革の道が開かれた。
   この過程によってキューバ国民は真の自由と独立を達成し、あらゆる形の不正義と社会差別をなくし、真の経済発展を開始し、強力な教育・文化、スポーツ運動を作り上げ、長年夢見てきた社会目標を達成した。公衆衛生、教育、スポーツ等におけるキューバ革命の実績は、国際社会でも認められている。
   しかし、わが国は過去4年間、経済的に非常に困難な時期に直面してきた。低開発国という条件と、33年前から続く米国の経済封鎖の極めて否定的な影響に加えて、旧ソ連とコメコンの消滅により、キューバは主要な市場と、それら諸国との経済関係を規定していた平等な交易条件、技術・原料・経済協力の主要な供給源を失った。その影響は非常に深刻なものであった。
   1994年は経済回復を目指し、基本的サービスと、公衆衛生・教育・スポーツの分野で達成された社会成果を維持し、今日のキューバ社会を支配する社会正義と平等原則を損なわずに、経済回復を助ける効果的方策を実施することに努力を集中してきた。全体的な情勢が引き続き否定的なものであるなかで、高い成長率を維持してきた観光産業をはじめ、ニッケル産業、軽工業など回復の兆しを示した経済部門もあった。外国企業との合弁・投資の契約が進み、その数は165社・26経済部門に及んだ。
   旧国営農場耕作権の新形態の協同組合、個人農業への移行、需給関係に基づく価格によって運営される農畜市場の開設、採算の悪い企業への補助金削減の財政措置、より完璧な税制の創設、その他の財制健全化のための措置、それらが成果を生み始めている。
   他方、米国との移住問題では不安な機運をつくり、キューバの国際的イメージを傷つけるために、キューバ人の不法出国を刺激するという米政権の従来の政策の結果、94年前半に状況が深刻化した。しかし、9月9日の両国政府の協定により新たな段階に入り、秩序ある合法的かつ安全な移住のための条件が整えられつつある。
  昨年11月、国連総会は3年連続して米国による対キューバ経済封鎖の不法性を宣言し、摘発を求めた。評決では、賛成票が圧倒的多数の101ヶ国であったのに対し、反対はわずか2票だった。
   近年、日本との文化・スポーツ交流が著しく拡大され、またキューバ経済が直面する困難な情勢にもかかわらず、重要な貿易経済関係が維持されたことを明らかにできるのは大変うれしい。キューバの音楽・美術・文学・映画への関心がますます高まっていることや、皆さんがわが国の野球、バレーボール、柔道などの関心を寄せておられるのを知るのもうれしいことだ。
   わが国の国民とフィデル・カストロ議長、キューバ政府に代わり、日本とキューバの関係が引き続き発展し、相互理解と意見交流、人的交流が深まるよう望むと共に、日本国民の皆さんの幸福をご祈念する。
(■つづく)

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大使館は世界への窓 第7回/ネパール王国

■(月刊『記録』95年2月号掲載記事)

■「融和と共生の王国」/日本ネパール協会会員 田村真知子氏に聞く

■労働で鍛えた女性達

 ネパールの魅力はなんといってもトレッキング(山旅)である。毎年万単位の人々がネパールの山地を歩いている。世界の屋根の眺望、長閑な田園風景、変化に富んだ道は言葉に現せないほどの美しさ、楽しさだ。トレッキング人気のもう一つの理由は、ネパールの労働力の安さ、つまり経済力の差によって、貧乏日本人でも案内人や料理人、荷運び人夫を何人も引き連れた大名旅行ができ、ちょっとした王族貴族の気分が味わえる点にあるといえようか。
   山旅派以外には、カトマンズをはじめ多くの町や村に息づく歴史的文化財がある。これらは信仰の対象、生活の場として生きており、夜明けの光の中、幼児の手を引いた母親や杖を頼りの老人、仕事前の若者達がお参りする姿を目にするたびに、私は羨望さえ覚える。
   私自身は同国の「人」に最も惹かれるといっていい。例えばネパールの女性は、胸もお尻も出るところは出て、力強くて美しく、日本の女性が醜く見えてしまうほどだ。その美しさは労働に裏打ちされたもので、真剣に生きているのが見るだけで伝わってくる。
   ネパール人は怠け者だとの俗説には賛成できない。日本なら森林に覆われている山地を見事な耕地となし、屋根から谷まで1000mなどという地域で農業を営むのは並大抵でない。気候の違いからか日本的な基準から見るとのんびりしているように見えるだけだ。
   多くの民族で構成されるネパールでは、同じ村の隣の一家が違う言葉を話すのもごく当たり前。店先でも3つ程度の言葉が行き交ったりするから、外国人の私もスッと入っていける。よそ者にとってはとてもうれしい。社会全体に違いを認め合おうとする配慮があり、互いの領域は犯さず否定もしない。賢い共生の1つの形といえよう。
   年齢の違いもありのまま認める。5歳の子どもは「5歳としてできることをする、それで等しく一人前」というわけで、赤ちゃんから老人まで、時には障害者も含めて村の中にムダな人間はいない、全ての人が共生する人間社会がある。ヒンドゥ教の国特有の階層構造から生まれる上下関係が社会全体に及び、経済的な階層化とも結びついている現実は同国の前途を困難にしているが、ネパール人特有の融通上手がやがて何らかの解決方法を見いだすだろう。
   最後に雪のヒマラヤを遠くに見ながら、1000~2000mくらいの山地をトレッキングして、さまざまな村を訪ね歩くことをお勧めしたい。本当のネパールの顔と魅力を見ることができるだろう。
(■つづく)

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大使館は世界への窓 第6回/ベトナム社会主義共和国

■(月刊『記録』95年1月号掲載記事)

■ 「アオザイが着られる政治」/グェン・ヴァン・ホアン参事官に聞く

■ドイモイの成果

 冷戦時代の社会主義国は、全ての資本主義諸国を信用できないと思っていた。逆に資本主義国の人々も、全ての社会主義諸国に不信感を抱いていただろう。
   しかし、喜ばしいことにそんな時代は終わった。今ならば、お互いの国の長所をきちんと評価できるのではないだろうか。
   ご存知のように、ベトナムは多くの戦争を乗り越えなくてはならなかったため、指導力を集中せざるを得なかった。だからこそ、指導者は言葉ではなく行動で人民の信頼を獲得していったのだ。
   政府はベトナム社会主義を堅持する一方で、経済的には1986年よりドイモイ(刷新)政策を開拓し市場経済に力を入れている。ドイモイが順調に進んでいる結果、国民生活は少しずつ豊かになってきた。
   たとえば、ゆったりと体を包む民族衣装のアオザイは、絹製で非常に高価であるため、着られる女性は昔は少なく、お金持ちの女性にとっても、初めてのデートや友達の結婚式に着る服だった。ところが今では、ハノイのあちこちでアオザイ姿を見ることができる。女性の化粧品への関心も高まり、特に口紅などはよく売れている。

■文化や民族性を大切に

 ベトナム人は協調性があり勤勉でもある。日本人とは同じアジア人ということもあり、大きな違いは感じないが、両国は発展に伴う違いがある。例えばわが国では、自分の家族のことがよく話題になる。会社の仲間の家族がどんな人なのかは皆が知っているし、商談の合間に互いの家族の話が出ることもある。街では人との温かい交流があり、親切な人も多いように感じる。都市化が進むにしたがって消えてゆく風俗かもしれないが。
   現在、ベトナムには海外からの投資が盛んに行われている。94年6月までに海外から957件の投資が行われ、投資総額は94億ドルにもなった。わが国が新しい段階に入ったことの証明だろう。
   このような状況の中で、日本を見習いたいことがある。それは、日本独自の文化や民族性が発展した経済の中できちんと保存されている点だ。このような柔軟さを取り入れつつ、民衆の力を経済発展に集中させ、先進諸国と肩を並べる経済力を持つようになりたいと思っている。 (■つづく)

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大使館は世界への窓 第5回/アイルランド

■「セント・パトリック・ディにようこそ」アイリッシュネットジャパン会長とメジーナ・ピアース幹事に聞く

■豊かな緑の国

 アイルランドは英国の西側に位置する国で、ヨーロッパ共同体に属する国でもある。昔から聖人・学者の地として名高く知られたり、国民の95%は敬虔なカトリック信者である。アイルランドの生み出した世界的な著名人は、W・B・イエーツ、ジェームス・ジョイス、オスカーワイルドなど数多くの詩人や作家が挙げられる。
   地図上、緯度の高さからか一般的に寒い国と考えられているが、実際は東京の気候とさほど変わりない。降水量の多いアイルランドでは、それゆえ緑が美しく、俗に『エメラルドアイランド』と呼ばれている。そして世界各地から多くの人々がやってくる。
   わが国は32州から成り立ち、その中の6州は俗に北アイルランドとして知られている。人口は現在50万人で、大半の人々はプロテスタント教徒。アイルランドはかつて長年にわたりイングランドの支配下であったため、英語が母国語として使われてきたが、アイルランド語(ゲール語)も今でも一部の地域で使われている。

■日本で楽しめるアイリッシュナイト

   現在でも北アイルランドとアイルランドとの2者間において、様々な政治的・宗教的問題が残されているが、これらの問題も徐々に解決の方向へと向かっている。
   今世紀、世界で活躍した米国の大統領、J・F・ケネディー、R・レーガンはわが国からの移民の子孫である。このようなアイルランド系の人々の飛躍は、今後も世界各国で期待されている。
   アイルランドの守護聖人パトリックを祭った3月17日のセント・パトリック・ディは、日本でも多種多様のイベントが企画され、東京・原宿で開催されるパレードでは500人以上観客でにぎわう。特に1994年に行われたパレードは前代未聞と呼んでいいほど盛大で華やかだった。
   また、セント・パトリック・スポーツディはアイルランドの伝統的なスポーツが催され、誰もが気軽に楽しめる。その後のパーティでは典型的なアイリッシュナイトを名物ビールのギネスを飲みながら楽しく過ごす。みなさんもぜひどうぞ。
(つづく)

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大使館は世界への窓 第4回/スロベニア共和国

■筑波大学外国人教授アンドレイ・ベケシュ氏に聞く

■スキーと「カルスト」

   スロベニアは、日本では大変なアイデンティティー問題を抱えているようだ。初めてあった人に出身地を聞かれるとよく、「え、それどこ?南米?」という反応にあう。不思議でもない。独立以前のユーゴスラビア時代も、知名度はかろうじて高かったぐらい。
   実はスロベニアは、誰にも気づかれず、意外にも日本の表舞台で活躍している。秋吉台で知られる「カルスト」やそこにあるすり鉢状の窪地の「ドリーネ」などの用語は、スロベニアからの外来語だ。また、多くのスキーのファンはスロベニアのエラン社製のスキー用品出湯機とした沁み、スキーをやり過ぎて風邪を引くと、スロベニア製の抗生物質で治すこともあるかもしれない。
   もっとも、人口200万強で、面積は四国と同じくらいの約2万平方キロのわが国が、英物のような形で日本の表舞台に活躍するのはおそらく無理であろうが、逆に日本がスロベニアの表舞台にもっと出ることは、国民の誰もが大いに期待している。
   スロベニアは小さいながら、欧州の中でも非常にバラエティーに富んでいる地域だ。中央ヨーロッパの東に広がるパノニア平原、西のアルプス地帯、南の地中海世界の風土・風俗の異なった世界の接点にあるからだ。いわば中欧の辻路のようなわが国を通路に、東へと、時にして西へと広がったこともあった。しかし今、スロベニアはアドリア海北部からの、中欧・東欧へ最も近い位置にあるだけに、交通の要所としての役割が注目されている。

■カヌーやトレッキングを楽しむ

   観光地としても絶好である。国全体がまだ破壊されていない美しい自然に恵まれ、首都リュブリャーナはウィーンとヴェニスの中間地点にあって、どこからも大変訪れやすい。日本からみれば、観光の穴場である。200年以上の歴史を誇るリゾート、鉱泉や温泉でのんびりとくつろぐこともできれば、観光農家でアルプスの世界とより密接に触れ合うこともできる。
   多様性に富んでいる自然条件は、休暇の個性的な過ごし方を促している。国民も自然と接するのが好きで、自然と触れながらできるスポーツが大人気。国民スポーツはサッカーでもなく、最近人気上昇の野球でもなく、山登りやスキーである。スポーツといっていいかどうかわからないが、キノコ狩りも大人気。アルプスから流れてくる水の豊富な川でカヌーやカヤック、それにラフティングを楽しむファンも急増している。
   また、スロベニアの約半分を占めているカルストの数多くの洞窟は単なる観光で楽しむだけでなく、山歩き気分で地下の世界を2日、3日とトレッキングできるところもある。例えば、クジャナ・ヤーマ洞窟ではトレッキングだけでなく、カヌーも楽しめる。
   自然のバラエティーは、食卓のバラエティーにもつながる。内陸の方では、少ししつこいがおいしい中央ヨーロッパ系の料理が主流で、沿岸地方ではイタリアを思わせる地中海料理が主役。ワインも同様で、沿岸地方では上質の地中海系で、内陸はドイツ系ですぐれたものがある。このように、異なった系統の、しかもどちらも非常にいいワインが同じ国でできる例は欧州ではわが国だけだ。
   もちろん、全てが観光とキノコ狩りだけではない。日本と同様に多いのは山だけで、資源はそこにいる人間以外に何もない。これらの悪条件では逆に知恵や勤勉さが育つ。だからかも知れないが、スロベニア人と日本人はどこか似通ったところがある。例えば、おしゃべりはあまり上手ではなく、照れ屋で表にあまり出たがらない。しかし、日本人よりも個人主義かもしれない。
   そのせいか、スロベニアは作家や芸術家、特に画家が非常に多い。人口30万の首都リュブリャーナには無数の画廊があって、オペラ座、国立劇場のほかにも、大小8つの劇場がある。人口10万とか5万、あるいはそれ以上の地方都市にもオペラ座や劇場があったりする。独自の民族文化が広く一定の機能を果たすためには一定の人数が必要だが、民族規模が小さいだけに、文化的活動に励む人の割合が必然的に大きくなった結果だろう。

■激動の歴史を生きて

   生まれて3年しか立っていない新しい国だけに、突然どこから現れたのかと不思議がる人もいるだろう。国の年齢こそ若いが、スロベニア人はこの土地に民族大移動時代の約1400年前から住み続けてきた。早期に形成したカランタニアという国が短期間で滅びてからは、バヴァリア、ハプスブルグ、ヴェニス、ナポレオン再びハプスブルグと多くの支配者に耐え、第一次世界大戦でハプスブルグ帝国が崩壊してから、同様に帝国の支配から解放されたクロアチアとボスニアとともに、セルビアをパートナーとしたユーゴスラビアを形成した。
   自由と民族平等に基づいた繁栄を夢見たが、第二次世界大戦の苦い経験、戦後の社会主義の実験の挙げ句に、夢は崩れ、夢とともにユーゴスラビアも崩壊した。しかし、独立後のスロベニアは、今度は独立国家としていっそう大きな責任を持って、国際社会において、その夢の実現に励み続けている。
(■つづく)

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大使館は世界への窓 第3回 ガーナ共和国

■ 「もはやココアだけでのガーナではない」  
           クワメ・アサモア・テンコラン参事官に聞く

■経済再建に成功
   来日までの日本のイメージは、高いビルが建ち並び、ハイテクノロジーがあふれ、とにかく忙しく働いているという印象だったが、実際の日本人は友好的で尊敬ができる人が多かった。
   日本に来てまだ3ヶ月だが、日本語が話せないことと、標識や案内板にローマ字がなくて困るくらいだ。外国人が苦手とされる刺身や寿司などの日本食も口に合う。
   アフリカというと、ソマリアなどのショッキングな映像ばかりが報道され、ガーナがどのような国なのかは想像しにくいと思う。
   わが国はここ10年来、実質GDP成長率が年5%で、70年代後半から80年代前半にくらめ経済状態は比較にならないほどよくなった。1983年に政府の経済再建プランがスタートし、社会主義を掲げながらも、84年にはIMFの長期融資を受けた。現在では経済再建の成功国として『ニューズウィーク』に特集が組まれるほどになった。
   再建成功のポイントは、2つあると思う。1つは政府と国民の経済再建に対する意欲の強さ、2つめが国際的協力だ。ガーナ人は物静かで、礼儀正しい国民である一方、成功する事への意欲が大変強い。そんな意欲の高さが、軍事政権から民主化への移行をスムーズにもしたのだろう。

■輸出品の第一位は金
   政党は現在4つあり、前回の選挙では1つの政党がボイコットしたが、その政党も今では後悔しており、次の選挙はきちんと参加することになるだろう。
   ガーナといえば、ココアというイメージは強いかもしれないが電材の輸出品の第一位は金だ。ココアも輸出品の第二位になっているが、昔のようにココアの相場が下がると、一気に国内経済も悪くなるというようなモノカルチャー路線は改められた。
   現在はトマトやパイナップルが作られ、米国資本の会社が製品化して輸出されている。将来的には、ココアの輸出も現在のような豆の形ではなく、自国でココアバターやチョコレートに製品化して輸出したいと思っている。
   発電所や港の整備など、ガーナ国内では大がかりなプロジェクトも進行しており、これからも日本に投資を募りたい。
(つづく)

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大使館は世界への窓 第2回 エチオピア/部落差別は考えられない民族性

アデジス・デイルネッサ参事官に聞く

■アベベとモカと

 日本の治安の良さには感心する。私の2人の子どものうち、下の5歳の方は幼稚園に通っているが、治安上の問題が全くないのだ。多くの日本人は当たり前なのだろうが、実は驚くべき事である。
   もう一つ驚くのは、やはり物価の高さ。エチオピアのレートで換算すると驚異学的数字となり、本当に大変だ。
   赴任当時に、外国人である上に子どももいるので入居を断られた。思ってもみないことだったが、苦労といえばそのくらい。
   エチオピアはアフリカで最初に日本と国交を持った国だ。1964年の東京オリンピックではわが国のアベベ選手がマラソンで優勝し、互いの距離が一気に近くなったが、74年の政変で社会主義国家になり、外交関係は冷めてしまった。しかし、91年の大統領辞任と国外脱出を機に、市場開放が開始され、民主化も進んだ。日本との関係も温かさを取り戻しつつある。
   原料輸入なので認知度は低いが、貿易国で両国関係を考える時、モカコーヒーは欠かせない。エチオピアは史上初のコーヒー輸出国であり、コーヒーの語源はエチオピアで「カファー」と呼ばれるからだ。

■80以上の部族と民族

 わが国では今まで、緊急時代を乗り越えるための援助をいただいていたが、現在では社会的・経済的インフラを整え、国が自立するための更なる援助が必要だ。天然ガスや各種鉱物が未開発のまま眠っている一方で、農作物を自給できる技術や肥料が不足している。国民が自立した生活をするための基盤である健康管理や安全な水の確保、学校等の建設などは、NGOの方々にも協力をお願いしたい。
   エチオピアには84の部族と80の民族が暮らしており、生活習慣は各部族ごとに違う。その上、結婚などによって文化が多様にミックスされている結果、さまざまな文化が渾然一体となって存在するところにわが国の生活習慣の特徴がある。
   私は日本で部落差別という難しい問題があることを聞いて、非常に驚いた。というのも、エチオピアではマイノリティーを差別する基準がなく、日本の部落差別というようなものは成り立たないのだ。 (■つづく) 

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首都高速道路500円通行の正義 第5回/「裁判長、私に100円の債務はありません」

(月刊『記録』94年11月号掲載)

■日本を良くする不払いなのに

 私は町の発明家である。仕事に関連したものに限られてはいるが、出願済みを含めて特許、実用新案を計160件有し、シンプル・イズ・ベストの信奉者であり、常に原点思考を心がけています。
 アイデア創造は物事に不便さを感じることから始まる。不便さは疑問に変化していき、疑問は物事を整理しながら解決へ向けてのエネルギーを生む。思考世界が「必ず解決する」との思いで充満してくるのだ。500円通行もこうしてうまれた新発明、いや、首都高の不治の病には本当によく効く新薬なのです。もっとも、公団にとっては、すさまじい劇薬だと勘違いしているようですが。
 なぜ新薬か。まず、続けている限り常に話題にのぼり、道路料金問題を決して風化させません。それによってまず値上げが凍結となり、無料化への道が開けます。「新薬500円通行」を楽しく皆でやれる環境を整備することが必要で、治してもらっている公団の方が率先して推進すべきだとすら思いますが、逆に500円通行がガン細胞のようにまん延することを恐れているから困ります。
 もっとも、新発見が当初迫害されるのは歴史の証明するところ。単に「600円のところを500円で通る行為」と考えれば、全く非常識きわまりない行動です。たった100円でも、決められたお金を払わないお行儀の悪さに、世の知識人は眉をひそめます。
 しかし町の発明家にとってそのことはすでに織り込み済みです。一見非常識な行動の中に、無謀な値上げに反対という常識があったからこそ、運動は取り上げられ、首都高正常化の大事な肥料となり、小さな小さな芽が出たのです。これをどうしても育てなければなりません。細心の注意を払って大胆に行動しなければなりません。
■公団を法廷に引きずり出せ

 このまま放っておくと、首都高サファリパークには前号で書いた「ヒヒの群れ事件」以上の公団自作自演の大事件が勃発します。そうなれば、「和合は反社会的アウトローだ」と烙印が押せると。とんでもない、そうは問屋が卸しません。1988年5月、裁判所へ訴状を提出しました。弁護士の大津卓滋先生と厳密な打ち合せをした結果です。
 世の中は必ずしも正義の味方ではないことくらい、長い仕事の経験でイヤというほどわかっています。まして法治国家の根幹たる裁判所が、我が方に勝利の微笑みを投げかけてくれるなど、まずないと考えるのが常識です。しかし、安心して500円通行は続けたい。智恵のしぼりどころです。
 さあ、それではデスマッチ裁判編へご案内いたします。
 訴訟を起こすにはさまざまな条件と付帯事項があり、なんでも裁判に持ち込めるわけではありません。特に訴える方の「訴えの利益」が整理されていることが必要です。損害が発生して初めて訴訟の対象になるのです。
 たとえば、「自衛隊は違憲である」という裁判は、訴えの利益がぼやけているの起こせないわけです。また、公権力の適法性を争う行政訴訟となってしまうと、裁判所はどうしても行政側を向きがちで、たいていの場合却下されます。主権者の国民が選んだ国会議員が作った法律に基づく組織が「違憲である」とする裁判は、基本的な三権分立の秩序を乱すと考えるのか、成立しにくいようです。
 だから、「首都高速道路公団の値上げはけしからん」という裁判を起こすことはできません。法律で定められた手順にのっとって値上げ申請が行われたものだからです。仮に起こしても、おそらく審議までは進行しないでしょう。
 首都高の値上げを裁判の舞台に引きずり出すにはどうしたらよいか?大津先生と長時間にわたりシミュレーションをして発見したのが「責務不存在の確定訴訟」というわけです。要するに、「首都高速道路公団が100円払えといっているが、私の方は100円の債務はありません。そのことを認めてください」と実にシンプルでわかりやすく、しかも行政裁判とはほど遠い、れっきとした民事裁判です。ついにやりました。天下の公団と和合秀典とが対等の立場で舞台にのぼったのです。
 実は、さほど新奇な手法ではありません。町の金融業者やヤクザからやむを得ず法外な金利で借金をし、元金の十数倍の返済を求められ途方に暮れている人が、ニッチもサッチもいかなくなり、夜逃げ寸前、弁護士先生の門を叩いた時、救済措置としてまず打つ手なのです。借り入れた元金はすでに返済しているのに、法律に定められた以上の金利を請求してくる貸し主に債務はありません。裁判所で証明してください、というわけです。そして、ここで裁判所は強烈な正義の味方となり、ほとんどの場合が勝訴となるそうです。
 その悪徳金融業者と同じ土俵に天下の首都高速道路公団がさらされてしまったのです。当の公団もびっくりしたでしょうが、前代未聞の切り口に裁判所側もずいぶんと驚いたことでしょう。第一回公判が訴状提出から5ヶ月もたってやっと開かれたくらいです。まさに超ウルトラ裁判の幕開けです。

■不払いは千回を超えた

 もう一つ、私には隠し玉がありました。裁判は勝負の他に、「訴訟を起こした部分の時間が止まってしまう」とでもいうべき特長をがあるのを利用することです。判決まで、世の中が日々進化していくなかで、その部分が取り残されたように凍結してしまう・・・・特許申請をしたいくらいの、誰も考えつかなかった超ウルトラCはここを利用したものです。
 訴状提出の日はやはり首都高を500円で出かけました。あいかわらず非常ベルがけたたましく鳴り、ビデオカメラに執ように追いかけられ、ウジャウジャと集まっているおじさんたちに丁寧に説明しました。
「これから裁判所へ行ってきます。公団が正しいのか私が正しいのかは裁判所が決めます。日本は法治国家です。裁判所の決定には従います。それまで私を止めることはできません」と。
 忘れもしません。次の日からは、あれだけ激しい抵抗にあった500円通行が、なんのおとがめもなしとなったのです。「ご苦労さん」とはいいませんが、料金所のおじさんたちもホッとした表情で私を送ってくれます。本当に晴れ晴れとした表情で何かツキモノが落ちたようです。
 以来、7年目に入る500円通行は1100回を超え、700円に値上げされた現在でも何の問題もなく、毎日楽しく500円通行しています。判決までは500円で大威張りなのです。立派に法律に従った行動なので、警察も誰も止められません。この、いわば「裁判効果」に公団側は今さらながらやっと気づきあ然としています。効果を知って、上手に裁判とお付き合いすることが必要なのです。何しろ長丁場、いや、むしろ長丁場にしなければなりません。
 それにしても随分とおじさんたちにも迷惑をかけたものです。この半年、命をかけたドタバタは一体何だったのだろうか?と考えてしまいます。
 なお、「大変頑張っておられますが、裁判に負けると大変なお金を支払はなくてはならないのでしょう」とよくいわれますが、私たちが首都高に対して訴訟を起こしたのであって、負けたとしても、「お金を支払え」との判決は出ません。首都高がお金を徴収するには、逆訴訟して勝たねばならないのです。

■公団弁護士費用も通行料金から

 第1回公判は10月31日午前10時半より東京地方裁判所706号法廷で開かれました。一回目はお互いの書類やら、その他の確認だけでほんの数時間で終わります。傍聴席は満員で、後でわかったことですが、ほんの一部のマスコミ関係者以外は全て公団職員でした。
 公判終了直後、公団の面々が打ち合せをしている部屋を表敬訪問しました。人垣の中心で弁護士先生らしき人が一心に説明しています。「この裁判は必ず勝つから心配しないように」とか、「和合側の戦略はこうだ」とか話をしています。そこで初めて公団側の上野弁護士との初対面を果たしたのです。
「今後、長いお付き合いとなります。宜しくお願いします」と私は握手してまわりました。もちろん、上野弁護士とも名詞交換し、和気あいあいの初対面を果たしたものです。
 しかし、上野先生。あえていいますが、「基本的人権を擁護し、社会正義を実現することを使命とする」(弁護士法第一条)はずの弁護士としちゃあ、ずい分ヘッポコじゃないですか。
 あなたにあるのは「首都高速道路公団は国である、国が和合秀典に負けるわけがない」ということだけとお見受けします。私にいわせればカラッポですね。でもまあ、弁護士が六法全書を片手に法廷で弁論を張るのはお仕事ですからよしとしましょう。
 しかし、なりふりかまわずの和合つぶしの官僚の先頭に立ち、首都高速道路公団おかかえ弁護士の評価を宜しくするために信用金庫へ出向き、人の金をいじくりまわすのは、ヘッポコとしかいいようがありません。よくぞ世界一難しいといわれる日本の司法試験に合格したものです。
 さらに腹が立つことは、彼への少なくはないだろうと思われる弁護士報酬費用も我々の通行料金から拠出される点です。額は私の100円不払い分の比ではないでしょう。どうもこの辺のつじつまが合わない。こちらは自費で賄い、公団側の費用は通行料金で拠出されるのだ。そしてその通行料金は私も支払いをしている。少なくとも公団は500円の通行料金を私から徴収しているのだ。
 この際、本誌上を借りて上野弁護士に告ぐ。
 裁判は貴男がいなくとも最終的には公団が勝つでしょう。貴男のいうとおり、国が個人に負けることはないからです。だから、貴男が私に勝つことは裁判に勝つことでありません。貴男が500円通行を止めることが私に勝つということである。その意味では、現在まで私の連戦連勝であるとここに宣言する。

■最高裁判決までデスマッチだ

 それから4年の歳月が過ぎ、一審判決が出ました。予想通りの敗訴ですが、完璧な負けではありません。部分的には公団が正しいが、全体では和合が正しい、という玉虫色の判決です。それにしても大津先生もよくぞ4年も引っ張ったものです。超ウルトラ裁判ならではの結果です。
 判決書面を手にしてエレベーターの前に立っていますと上野先生のところの若い弁護士が肩越しに話しかけてきました。「どうです和合さん、感想を聞かせてください。いや、負けた感想が聞きたいのです。これで500円通行はできないでしょう。和合さんは裁判の判決には従うと常々いっていましたからね。これで和合さんの首都高問題はおしまいということでしょう?これで和合さんとお別れかと思うと一抹の寂しさがあります・・・・」。
 このいやらしさはどうでしょうか?「どうだッ、参ったかっ!」てなもんです。こちらは、次の高等裁判所にはどんな書面で行くのか、などの作戦を、あれこれ大津先生と楽しく話していた後でしたから、腹も立ちません。それはそれは丁寧に親切に失礼のないように、粗相のないように、考えられる最大の気づかいをもって、法治国家日本の基本を教えてさしあげました。
「上野先生にお伝えください。ご存知とは思いますが、念のため申し上げます。日本の裁判は三審制なのです。今後、高裁・最高裁と続くのです。まだまだ先生とお別れするわけにはいきません。『そんなに私を嫌わないで今後とも宜しくお願いします』とお伝え下さい」。その時の彼の、ハトが豆鉄砲を食らったような無邪気な顔が忘れられません。とても新鮮で素敵でした。(■つづく)

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首都高速道路500円通行の正義 第4回/愛車を破壊する幻の志村料金所

■息子への社会勉強のつもりが
 非常に優れた官僚たちではあるけれど、ある部分ではとんでもないアホである。そのアホさが、目的達成のために膨大なエネルギーを垂れ流します。
 1分間に3000回転もするレシプロエンジンを積んだ、機械文明の最高峰を行く自動車を人数に頼んで人力で止めようというのだ。そのエネルギーが我々の通行料金や税金であったりするからかなわない。
 当時10歳の長男を同乗させたことがありました。窓ガラスに類々とへばりついて、凄い形相で口をパクパクさせているおじさん達に彼は何と、アッカンベーをして見せた。おじさん達に負けじとばかり、窓に顔をつけてやっていました。おじさん一人一々にまんべんなく、実に丁寧に、実に忙しくやっていたのです。
 子どもというのは凄いものだと思いました。彼はサファリパークで、ヒヒの群れに車を囲まれたくらいの認識しかない。かわいそうにおじさん達はヒヒになってしまいました。
「総君どう思う?」。最後の若者との別れた後、息子の感想を聞いてみると、実にシンプルな答えが返ってきました。「あのおじさん達どうかしてるんじゃあないの、自動車を手で止めようとしているよ。僕だったら車の前に丸太棒でもゴロンと置くよ。それで終わりだよ。今度はいつ行くの?」と景色を見ながら実に楽しそう。
 子どもにもわかるアホさを、彼らは決して気づかない。彼らにとっては重大なことなのだろうが、我々にとってはどうでもいいことに、「正義は我にありと」と錦の御旗を振りかざして、それこそ全力で汗を流すのです。
 そんな彼らを見ていると、愛すべき奴らだと思う時もありますが、その汗が税金だったりするものだから腹が立つではないですか。
 さて、この話にも後日談があります。実は、この件に関しては他言無用との約束が総君とできていました。言葉で確認したわけではなく、男同士の無言の約束。私としては、彼の社会勉強も兼ねた教育の一環くらいにしか考えていなかったので、「総君、あのおじさん達は一生懸命に仕事をしているつもりなのだ。そして、頭からお父さんを悪者と決めてかかっているのだ。将来、仕事を選ぶ時は決してお金を基準に決めてはいけない。その仕事が社会にどのくらい役に立つかを基準にしなければならない」などと、いい気持ちで親父ぶっていたものです。
 だがしかし、うまくいかないのが世の常で、いい気持ちはそれほど長く続きません。ヒョンな事からこれが公となってしまったのです。さあ大変、内外で賛否両論、カンカンガクガクの教育論が渦を巻く結果となってしまいました。もちろんその渦中で善戦健闘したのですが多勢に無勢で、とてもかなうものではありません。全くヨレヨレとなってしまいました。
 いうまでもなく、「いくら何でも行き過ぎ」というものも含めて、圧倒的多数が反対派。「すばらしい教育」といってくれた賛成派はごく少数でした。賛成か反対が極端に分かれて、中間とか、どうでもいい、とかの意見がないことが特長でした。読者の皆さんは賛否いずれでしょうか。

■公団の無謀に警察を呼ぶ

 さて、高島平サファリパークが半年も続いたある日、ついに最後の事件が起きました。ついに警察のお出ましです。最終的には裁判へともつれ込む事件が幕を開けました。
 勘違いをなさらないように。首都高速道路公団の乱暴さについに堪忍袋の尾を切って110番通報したのは私の方なのです。まことにおかしな図式ながら、あまりのお代官の無謀さに、恐れながらと隣村のお代官様に訴えた結果、お代官同士の対決となってしまいました。さてさてどうなる事やら。善良なる市民の私めは只々恐れおののき、事の成り行きはいかに、と見守るばかりです。
 心地よい乾いた風が車内を通り過ぎます。ソロソロとでも動いていた愛車プレーリーは、料金所に近づくにつれてますます遅くなり、直線コースに入りおじさん達が見えてくると、完全に止まってしまいました。なんと、料金を払い終わった車でさえ、動くことができないのです。
 とにかく前後左右、車でビッシリ埋まっています。自動車の群れ特有の、何ともいい難い騒がしさで辟易します。考えてみると、まことに不思議な「高速道路」です。
「空は」と見ると何もありません。あくまでも青く、永遠に続くであろう青さが深く広く、ただ空ばかりです。人間の機械文明もたいしたことはない、いまだ空を征服できないでいる。生活レベルでの利用が可能でなければ征服したことにはならない。いつまでこんな地表をはいつくばる機械文明が続くのだろうか?鉄骨とコンクリートの世界とは早くおさらばしたい。
 何の気負いもなく、ごく平凡にカモメみたいに空を飛ぶ日常を過ごしてみたい。鉄腕アトムのSFの世界が来た時、空中自動車が世の中に受け入れられる値段は800万円程度かな?それこそ大ヒット商品となるだろうな。西暦2020年くらいかな?メーカーは多分、本田技研工業だろう。などと、空想の世界に浸っていました。

■さあ、戦闘開始です

 突然、メルヘンは途絶えました。いきなりおびただしい数の公団職員が眼中に飛込んできたからです。突如としてサイレンが鳴り渡ります。右往左往、蜂の巣をひっくり返したような混乱ぶりです。どういうつもりなのでしょうか、ビデオカメラが2台、左右から撮影しています。
 さあ、戦闘開始です。愛車プレーリーも窓を閉めバックミュージックの準備をします。今日はシベリウスのフィンランディアを用意しました。
 重く、地をはうように静かな序曲が始まります。名曲のメロディーに心身を浸していると、窓にへばりついている職員の顔が何か異次元のETに見えてきます。
 厳かさの中にも軽快なテンポに変わったその時、今日は何かが違うことに気がつきました。おじさん達の気合の入れようが、いつもと違い相当なもので、顔々がヒステリックに歪んでいます。私は前の車にすき間のないようにピタリとついて前進する戦法をとるのですが、肝心の前の車が止まったまま動きません。職員が何か頼みごとでもしているようで、やたらペコペコとお辞儀をしています。「すみません、もう少しお待ちください」とでもいっているようです。
 そこへ、どこからともなく公団の車が登場します。例のごとくピカピカと回しているパテライトの華やかさで雰囲気が一変してしまいました。前の車が前進する、公団車がバックして入れ替わる、という作業が手際よく終了しました。
 気がつくと、後ろにも公団車がパテライトを回しピタリとつけています。さあ、これで完璧にもニッチもサッチも行かなくなりました。職員の皆さんの顔は実に晴ればれとして気持ちがよいほどです。「どうだ、参ったか!」というふうに勝ち誇って実に楽しそう。
 私は、「こりゃあ持久戦になるな。セブンイレブンでおにぎりでも用意するんだったな」などと食い意地が張ってきました。「まあ、時間はタップリある。今日はここで夜明かしか」と、心はすでに夜明けのコーヒーに思いを馳せます。

■ワイパーもぎ取り、ミラーもねじ曲げ

 フィンランディアは激しくフィナーレを迎え、そして沈黙しましが、静かな時間は長くは続きません。勝ち誇った公団職員はプレーリーを叩くやら、ゆさぶるやら、お祭り騒ぎとなってしまいました。とにかくどうなるかわかりません。
 何しろ、いつもと全く違います。そのうちワイパーがもぎ取られました。サイドミラーもねじ曲げられます。ワッショイ、ワッショイとエスカレートしていきます。おじさん達とすれば、日頃のウップンが溜まりに溜まっていたのでしょう。
 プッシューという大きな音と共に車が傾きました。前輪右のタイヤの空気が抜かれたのです。続いて左のタイヤも抜かれました。万事休す。もう本当にお手上げです。どうすることもできません。完敗です。
 しかし、これはどう考えてもやりすぎではないのか。この後、公団はどうするつもりなのだろう。しゃあない、警察にでも電話をしてみるか、と恐れ多くも隣村のお代官様に直訴を致します。
「もしもし、警察ですか?私は和合と申します」。
「ああ、和合さんですね。どうなさいました?」。
「今、首都高でひどい目にあっています。タイヤの空気を抜かれて立ち往生しています。助けてください」。
「わかりました、すぐに直行します。それまで頑張って下さい(とはいいません)」。
 そうです、たしかに警察はいいました。「和合さんですね」と、昔から知っている口振りでした。和合姓は電話でいうと必ず聞き返される、なかなか難しい名前です。それを初めて話をする人が親しげに応対してくれました。恐らく、この件に関して首都公団と沢山の打ち合せをしていたのでしょう。
 恐らく公団は、「和合が・和合が・あの和合が!」と連発していたのに相違ありません。それでなければ、こんな難しい姓に対して瞬時に応対できるはずがないのですから。
 私は、「全く首都公団はフェアーではない」と憤慨していると、さすがに早い、サイレンも勇ましくパトカーが現場に到着です。

■料金所は通らなかったことに・・・・

 さあ、問題はこれからです。とにかく待てど暮らせどお巡りさんは私のところへは来ません。公団職員と身振り手振りで何事かを打ち合せしているばかりです。10分たっても20分たっても、そのままです。
 ドアを開けて出ようとすると、「ダメダメ和合さん、危ないから出てはダメです」と大勢の職員に押込められてしまったので、乗車したまま身を乗り出して、「お巡りさん、こっちだこっちだ。呼んだのは俺だよ」と叫ぶと、お巡りさんは、「チョット待ってください」というふうに手を上げて、軽い会釈をするばかりです。次の展開までもう暫く待たなければなりませんでした。
 30分ほどたったのでしょうか、お巡りさんはやっと私の所へ来てくれました。そして彼はこう云ったのです。
「和合さん、申し訳ありません。ただ今、和合さんに対しての対応を本部と打ち合せ中です。まことに申し訳ありませんが、もう暫くお待ちください」。
「ふーん、だけどそんなに長くは待てないよ。難しいことではないよ。囲みを解いて私を通してくれればいいんだよ」。
「うーん、もう暫くお待ち下さい」。
 お巡りさんは本当に申し訳なさそうに言い訳をしています。仕方がないので、もう少し待つことにしました。しかし、最後の待ち時間は短いものでした。
 突如として、なんとJAF車が到着したのです。曲ったサイドミラーを直して、ワイパーを交換します。そして最後にそれこそ手際よく、タイヤに空気が入れられました。さあ、これで元通りです。さすがに隣村のお代官様はやる事がちがう。たいしたものだ。
 こうなるとフリーウェイクラブの会長は快調そのものとなり、とどまるところを知りません。「ハイハイ前の車を退かしてください。通り道の邪魔になりますよ。時間がありませんからね、早く退かしてくださいよ」。
 そこへまたお巡りさんが来ます。「和合さん、今日は私に免じて600円払ってもらうわけにはいきませんか?」。
「いや、お巡りさん、警察もたいしたものだ。なかなかの計らいで感謝しています。が、それはそれ、これはこれです。600円払えというのは難しいことです」。むげには断りにくい状況なので、慎重に言葉を選びながら意志の固さを伝えます。
 すると、お巡りさん折衷案を出してきました。「わかりました、和合さん。じゃあ、『今日は志村料金所は通らない』でどうでしょうか。職員の皆さんで誘導致しますので、ここから一般道へ出てくれますか?」。
 このお巡りさん、なかなかの苦労人で、双方の顔を立てようという心が手に取るようにわかったので、私も渋々妥協したことにして若いお巡りさんの顔を立てました。
 何か不服そうな顔の職員さんの人垣を沿って一般道へ出た時は、かれこれ3時間も費やしてました。暫く走ると大和料金所の入り口が・・・・。志村料金所は通らない代わりに、ここを通ろうと決めました。一日のつじつまはどうしても合わせておかねばならないからです。さあ、大和料金所に着きました。これより今日一日のつじつま合わせを致します。
「おじさん、ハイ通行宣言書と500円 頼むよっ」。
「あッ!和合ッ!100円!この野郎ーっ!100エーン」。(■つづく)

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愛車を破壊する幻の志村料金所 第3回/「大の字おじさん」を生む非情な公団体質

(『記録』94年9月号掲載記事)

■100円のために100万円の出費

 今となって考えてみると、おかしなことがたくさんありました。首都高速道路公団が、いつ、どこから来るのか、または来ないかもわからない私の来訪に備えて、常時50人以上の人数を備えて厳戒態勢を敷いたのは、その最たる例でしょう。
 志村料金所はもちろん、大和料金所や池袋周辺の料金所に出現した、ヘルメットに黒マスクのものものしい若者たちが周辺の人々を驚かせました。しかも、彼らのアルバイト料や、おじさんたちの残業手当てが1月で100万円をかるく越えたというのです。これが、たった私一人のために用意された公団のメニュー。たった100円の通行料金不足のために、です。さらに公団は、このメニューを半年間維持し続けました。
 不足料金の100円の督促状書留封筒にも驚かされました。100円を徴収するために800円分の切手が5、6枚ベタベタと貼ってあるのです。コスト意識のかけらもない。
 一方で公団はマスコミに対して絶叫していました。
「これは和合たった1人のことであるっ!600円を払っている和合以外の100万人の利用者に申しわけない 私たちは通行料金の徴収義務があるのだあーっ!絶対に和合を許すわけにはいかない!あやつは犯罪者なのだあーっ!」などと、ほとんど絶叫マシン。理論も理屈も全くない。意味のない道徳教育みたいなことを延々と叫んでいます。反応の過敏さに、こちらの方が驚いてしまう。
 しかしいくら驚いたからといって、引っ込むわけにはいきません。江戸時代の農民でもあるまいし、お上意識むき出しの敵に、「お代官様、後生だから年貢(通行料)を負けてくんろー」などとは口が裂けてもいえないのです。へへーと頭を下げるわけには絶対にいかない、そんな光景は考えただけでも胸クソが悪くなる。
 自分の方が絶対に正しい との双方の思い込みが激突し、日に日にエスカレートしていきました。マスコミがはやしたて、野次馬の人垣ができるようになると、首都公団は何を勘違いしたか、「和合潰しの行動は全てが正義である。必ず現場で阻止せよ」と指令を出しました。かわいそうなのは料金所のおじさんたちです。忠義を尽くすあまり、ついには一命をなげうってでも阻止しようとする者が出てきました。
 フリーウエイウラブの会長(筆者)も会長で、怪傑ゾロかルパン三世の心境。日時はもちろん、使用するゲートまで指定して「止められるならやって見ろ」とばかり、あらん限りの知恵を絞って対抗していきました。

■パテライトをテカテカ回転させて

 そして ついに最初の事件が発生。その日、私は料金所を通過し、すさまじい怒号を後にして最後の追跡者を振り払い、愛車プレーリーを通常の速度に下げました。あとは午後の高速道路を快適に飛ばすだけ。大和料金所を過ぎて池袋方面には向かわず高松で降りる予定でしたた。
 その時、けたたましいサイレン音とともにスピーカーが、「そこの大宮ナンバーの車止まりなさいッ 直ちに停止しなさい!」とがなり立てています。「何じゃい」と思ってヒョイと見ると首都公団の車ではないですか。工事車風の車がパテライトをテカテカ回転させて、にぎやかなこと。「何様だと思っているんだ」などと思いながらも、「わかったわかった」というふうに、手を挙げて道路脇へ停止しました。これからどうなるんじゃい、とワクワクしながら下車すると、ドカドカと公団職員たちも降りて来ました。
 ズラリと私を取り囲んで、口々にわめきたてる様は、ピーチクパーチクとこれまたにぎやか。グルグル回っているパテライトが舞台効果を盛り上げ、何か重大事件勃発といった雰囲気を醸し出す。さしずめ人垣の真ん中の私が重大犯人というわけです。
 これは敵役。私には全くのはまり役!あごひげにサングラスの怪しげな風貌は、事件の重大さをいやが上にも盛り上げる。通りかかる車は例外なく、この光景を楽しむために速度を落とし、通り過ぎる一瞬に、物語を理解しようと身を乗り出していました。まさか「100円の取りっこ」などとは誰も思いますまい。
 公団職員はここぞとばかり口嚇泡を飛ばしてまくしたてます。「何でお前は600円と決まっている場所を500円で通るのだ!他の100万人の皆さんに申しわけないと思わないのか!自分だけよければ他人はどうでもよいというのか。卑劣な野郎だ!人の迷惑を考えたことがあるのか!首都公団で働いている我々の迷惑を考えたことがあるのかーっ!」。本当は、一番最後のことがいいたくて、意味不明の事柄を延々と言い立てる。
 私は、「料金所の続きを、またやろうというのか」とあまりの新鮮味のなさにガッカリして難しい顔をして黙っていたら、恐れ入ったとでも思ったのでしょう。職員の皆さんはドンドン興奮してエキサイトしていきます。
■俺を殺して100円払え

 さあ、舞台もクライマックス。頃はよしと、最も勇ましく最も太ったチンチクリンのおじさんが、「和合!どうしても通るというのなら、俺を殺してから通れーっ!」と鶴のごとく一声叫ぶや、次の瞬間驚くべき光景が出現しました。このおじさんが、我が愛車プレーリーのまん前に、大の字となってドーンと寝てしまったのです。
 この光景を想像して下さい。パトカー宜しく、クルクル回るパテライト車があり、その前に並んだ民間車があり、そのまた前に公団職員の一群があり、一群の真ん中にあごひげを蓄えたサングラスの怪しげなる人物が、苦虫をかみ潰したような難しい顔をしてごう然と立つ。そして何と、その足元に首都公団職員が制服のまま大の字で寝ているのです。回りの人はかたずを飲んで無言でただ見ているだけ。それが他でもない高速道路上で起きている光景なのです。
 とにかく、おじさんの出現で重大事件は謎めいたサスペンスの模様を呈してきます。興味津々の通行車の速度はますます遅くなる。
 謎めいた光景の中には、説明できないことが多くあるものですが、通行車がいかに速度を落とし、通り過ぎる一瞬の時間を最大にしたとしても、その間、目の玉をひんむくほど見開いて、脳細胞をガチャガチャに活動させたとしても、この事件の値段がたったの100円であるとは見抜けますまい。さすがの私もあっけにとられ、しばらくは見ているだけで解決策が見つかりません。
 5分・10分・・・・。そのままの状態で過ぎていった沈黙の時間を破ったのは、私の最も常識的な平凡な一声でした。「おじさんも家へ帰れば奥さんの子どもさんもいるのだろう?つまらないことをするものではありません。起きなさい!」。
 今度はおじさんは腕を組んで瞼を閉じてしまいました。「聞く耳は持たん、テコでも動かんぞ」というふうです。今度は同僚の説得が始まります。「オイもうやめようや、こんなことをしてもどうしようもない。起きろ、起きろ」。同僚の説得が2人3人と広がって、ついにおじさん渋々と起き上がりました。
 私は、「じゃあ俺は行くよ」と職員の皆さんに手を挙げて挨拶をし、愛車プレーリーの人となると、職員の皆さんが心持ち黙礼をしているかのようでした。
 しかしこれでもまだ、序章に過ぎない出来事なのです。次回はついに警察のおでましです。彼らは結局私に詫びを入れることとなってしまうのですが・・・・。

■組織のために命を捨てよ

 さて、この「大の字のおじさん」事件には後日談がある、というより、重要なポイントが後日談にあったといった方が正解です。
 さすがに腹の立った私は翌日、霞ケ関の首都公団本部へ怒鳴り込みました。応接間に通されてお茶が出てきます。現場とのやりとりとは裏腹に何故か本部の人たちとは話が弾みました。「和合さん、500円通行はもう勘弁して下さいよ もう十分でしょう。私たちも一生懸命やっています」。
 私は、「いや、今日はそんな話をしに来たのではありません。昨日こんな事件がありました」と一部始終を話し、「念のために確認しますが、まさか公団では命を張ってでも和合を止めろと指示しているのではないでしょうね?あとに残された家族のことは公団が面倒を見る、とでもいっているのではないでしょうね?このままでは事故がおきる。いったいどういう了見なのですか!」と詰問しました。
 公団側は当然、「和合さん済みません。これは私どもの行き過ぎでした。現場にはよく注意しておきます。いくら何でも100円のために命を危険にさらさせるわけにはいきません」と返答すると思っていました。案の定、今まで黙って聞いていた公団本部の人は目を輝かせ、「本当ですかッ?本当にそんなことがあったのですか?」と切り出します。ここまでは、ほら、おいでなすったと思っていたのです。「いくら何でもこれからは注意しなければならない。まだまだ長い付き合いが続くのだから」と続くのだろう・・・・。
 ところが、とんでもない答えが跳ね返ってきました。
「それはすばらしいッ!」・・・・な、なんだッ?
「今時、そんな骨のある男がいたのか!公団職員にはそんな素晴らしい男がいたのか!」・・・・そ、そんな馬鹿なっ。何だこれは?
 それからの私は、100円不払いはそっちのけで、世の中の常識論を職員に延々と説明するハメに。ところが、いくら説明しても理解し得ないのには困りました。彼らは大の字のおじさんの偉業を私に理解してもらえないのを不思議がっているばかりです。

■官僚制の弊害極まれり

 まるで価値観が違う。広東語とフランス語で話をしているよう。組織のためには命を捨てる。何か高倉健の親分子分の世界と似ています。私がひき殺したりしようものなら(するはずないが)、霞ヶ関におじさんの銅像が立ちそうです。
「大の字のおじさん」については、以後機会のある度に、多くの人の感想を求めてきましたが、先だって日本高速道路公団の公聴会の折にお話しした、建設省有料道路課の荒川さんも、「今時、随分根性のある人だなあ」と、先程の職員と同じ反応を示しました。
 一方、フリーウエイクラブの会員は私と同意見。
「へえー 馬鹿じゃないの」。
「怪我をしようと思ってわざとやっているんじゃないの」。
若いマスコミ関係者は、
「行政側は国民感情がわかっていないのだ」。
「この異常さが理解できないなんて、恐ろしくなる」。
年期の入ったマスコミ人は、
「いや 和合さん こんなもんですよ」。
「これが官僚世界の最たるもんですよ」。
 人生50年目にして初めて知った、この未知の世界は希望も未来も夢もありません。あるのは馬鹿らしくもあり滑稽でもある、およそ我々とはかけ離れた不毛の非常識だけ。
 絶望的なのは、彼らが優秀な官僚たち、とされ日本の国に絶大な影響を及ぼしていることでしょう。何とかしなくてはならないが、さほど悲観したものでもありますまい。時代の流れはまぎれもなく大きくカーブしているからです。
 近年、正常へ正常へと時間の浄化作用が大きく作動しはじめ、歴史的に重大な出来事が世界で数多く勃発、世界の仮想敵国だったソ連さえが崩壊しました。日本でも自民党一党支配が崩れ、1年間に4人もの首相が変わり、自社連立が政権を掌握するなど、よくも悪くも混沌としたカオスから新しい秩序が形成される時代なのです。
 新しい時代の風が間違いなく吹いている。その証拠に、今だに私は首都高速道路を500円で通行しています。新しい時代の新しい風がそれを許しているのではないでしょうか。
 最近は料金所のおじさんとは非常にうまくいっています。徐々にではありますがファンも増えてきました。
 しかし、この間は私のちょっとした物忘れのせいで随分怒られてしまいました。
「おじさん、申し訳ない。通行宣言書をきらしてしまった。今日はこの名刺で通らして下さい」と、500円玉と名刺を料金所のおじさんに差し出すと、「やあ和合さん」と素敵な笑顔で迎えてくれたおじさんが、烈火のごとく怒り出しました。「ダメダッ!あの紙(通行宣言書)がなければダメダッ!あの紙がなければ絶対にここを通すわけにはいかない!」。おじさん、あの時はゴメン。(■つづく)

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首都高速道路500円通行の正義 第2回/公団とのデスマッチが始まった

(月刊『記録』94年8月号掲載記事)

■料金改定、今日から600円

 だいぶ後になってわかったのですが、500円通行で首都高速道路公団が慟哭した度合いは、想像をはるかに越えたようです。
 当初は無視していた公団も、マスコミが私をたびたび取り上げるようになると 「何をバカな事をやっちょっるのだ」という感じで和合対策に腰を上げたのですが、やがてそんな単純な問題ではないとわかったからです。私の反乱は、ひょっとすると公団がなくなっちゃうかもしれない、重大な蟻の一穴でした。
 私の方は気楽なものです。「2年半で50%もの値上げなんて、ふざけちゃいけないよっとくりゃ、ホイ500円」と500円玉を貼り付けた旧料金通行宣言書で首都高速道路と毎日お付き合いをして続け、今もそうしているわけです。それだけです。

 今回は、運動の原点となった、87年9月11日以来の私と公団とのやり取りを、活劇風にまとめてみました。
 まだまだ汗ばむ陽気でした。抜けるような青い空に、落書きをしたような透けた白い雲が点在しています。いつものように私の経営する会社近くの首都高高島平入口から志村料金所へ向かいました。
 やれやれ料金所のはるか手前でもう渋滞です。当時の私は、「首都高は渋滞するのが当たり前」と無意識に納得していたのか、何の感情もわき起こらず、ただ車の流れに身を任せていました。大きく右へカーブし、視界が開けて直線コースへ入ると、忙しそうに働いているゲートのおじさんたちが見えてきました。そこまではいつもと同じ、ありふれた風景でした。
 が、その日は不思議な立看板が目に飛び込んできたのです。「料金改定、今日から六百円」という・・・・。
「何じゃい、こりゃあ」。この時、脳の奥深いどこかでプチンと何かが弾けました。どこからか、小さな信号音が確かに聞こえたのです。立看板の文字を理解しようと、目まぐるしく脳細胞が活動しましたが、「値上げ」以外の意味を見出せないまま、ゲートに着いてしまいました。
「ハイッ、今日から600円」と、料金所のおじさんが発した事務的な言葉にハッと我に返りました。プチンとはじけた小さな穴から「玉ヤーッ」のかけ声が掛かったかのように、ドカーンと火山が爆発します。
「ふざけるなッ、この野郎ッ!」と言えた方が、怒りの程度は小さかったのでしょう。危険すぎるマグマの吹出口を必死になって覆っていた私は、引きつった頬をピクピクさせながらギコチなく、しかし厳かに告げました。「これはとても納得出来るものではない、とりあえず今日のところは500円をお支払する」。はた目にはむしろ冷静にみえる態度で、名刺を差し出してゲートを通り過ぎました。

■公団に通行予告

 さあ、あとはお待ちかね500円通行の始まりです。私と首都高公団の血わき肉おどる活劇に、読者の皆さんも参加して下さい。
 車のナンバーを覆い隠し、無料で突っ走る暴走族はいくらでもいます。しかし住所氏名を明らかにし、白昼堂々と、しかも毎日、600円のところを500円で通るやつがいる。多い時には日に6回もある。「一体これは何者なのだろう?思想団体の嫌がらせか、はたまた、とんだ愚か者か」。年商2400億円、1400人の大組織である首都高速道路公団がびっくり仰天して、ジャジャジャ、ジャーンと開幕ベルが鳴った。
 正義は私にあるのだから、逃げも隠れもしない。公団には通行予定を前日にしておきました。「明日、志村料金所の1番左のゲートを通る。時間は6時半、料金は500円。昨日は職員が20人しかいなかったが、私に対して失礼である。倍の40人は用意しないと私を阻止できない。完璧を期すならば、自衛隊1個中隊を用意しておくことだ」と。
 だから、彼らは万全の用意で、今か今かと私の訪問を待ち望んでいるはずなので、期待を裏切るわけにはいきません。クソ忙しいところを約束の時間までに仕事を中断し、通行宣言書と500円玉を用意します。車内ミュージックはラベルのボレロを用意しました。さあ出発です。
 笹目橋を渡り、高島平入口に近づくと見張りがずらりと立っていました。目深にかぶったヘルメットにサングラス、菱形の黒いマスクと云う出で立ちで、カラステングみたい。濃紺のつなぎの服を来て、右手には懐中電灯を持っていました。それが料金所まで3キロあまりの道のりに点々と続くのです。
 私の姿を確認すると彼らの懐中電灯が大きく振られ、後方へ合図を送信、「まさにカラステングがのろしを上げているようなものだ」、などと大笑いしながら、愛車プレーリーはゲートへ向かう。
「和合来襲ッ!」(本当にこう叫んだ)。のろしで届いた情報に料金所は右往左往で大騒ぎ。とにかくスクラムを組んで今や遅しと獲物を待ち構えています。

■100円ッ、100円ッ、100円ッ!

 クスリが効いたのか、500円通行を重ねるたびに、私を迎える公団職員の数が増加、この日も雲霞のごとく湧いてきました。阻止し、差額の大枚100円を腕ずくで取ろうというわけでしょう。
 私も負けてはいません。潮が満ちてくるように単調なボレロのメロディーが、大きく押し寄せてきまました。双方ともに準備完了。
 外では、ラベルとは比較にならない怒声が飛んでいるようです。「ふざけるな、この野郎!ここは600円と決まっているんだ」などとわめいているのでしょうが、残念ながら窓は完全に閉め切ってあり、ただ職員諸君の全く品のない形相だけが窓外に迫ります。
 大歓声の中、やっと料金所に到着。とにかく通行宣言書と500円を渡さなければ、と500円玉の厚み分だけ窓を開けました。
「100円ッ100ッ100円ッ」。
ワンワンと大合唱が飛び込んで来ると同時に、その小さなすき間から指を入れようとしてきました。何んともはや、たいした執念ではないですか。通行宣言書と500円玉をゲート落とした後、窓ガラスを閉めて指を挟んでやると、ビックリした顔をして手を引っ込めました。ハイ、これでまたラベルの世界に戻りました。
 職員はガラスの向こうでまだなにやら喚いています。その形相から推察すると、「何をしゃがんでー、この野郎」てなことをいっているに相違ありません。
 再び発車。ほんの少し速めてソロソロと、10メートルほど進むと愛車に鈴なりにぶら下っていた職員がまず脱落しました。体力の相違ですから仕方がありません。わが車と一緒に走っているのは5人ほどの若者だけになってしまいました。
 そこで窓を開けて、やおら若者に、「大丈夫か?、と話しかけると、若者は、「ハァハァハァ」と答えるのみ。「少しスピードを上げるぞ」「ハァハァハァ」「よおし、もう少し大丈夫なようだな」。この段階では一番屈強な若者が1人しかいない。車と一緒に懸命に走っている意味が急速にぼやけてしまいました。頃あいを見はからって料金所近くの緊急非難場所に車を止めたて、やおらドアを開き下車するとその若者は、何か所在なさそうにキョロキョロしています。「危ないから、とにかく気をつけて行けよ」と声をかけ、悪びれた様子もなくコックリとうなずく若者を後にして再び発車しました。
 今から考えて見ると、一体これは何んだったのだろうかと思いますが、500円通行開始当時は私も公団も大真面目でした。
 こんな騒ぎが半年も続けば、双方ともだんだんエスカレートするのは人情で、さまざまな事件が起きました。次号では私の車の阻止のために命をかけた公団職員の話をします。この事件にはビックリすると同時に、公団の実態が、我々がイメージしている公団とは似ても似つかない世界であることが除々に判明してきたのです。

 その当時、首都高速道路公団の営業部長だった関氏が、後にシミジミと語ってくれました。
「弁護士費用も含め、公団の和合対策は極めて深刻なものでした。『500円通行を認めた形になるから、お金は受け取らない方がいい』との意見もたくさんありました。『決定されたことを守らないのだから、警察のお出ましを願うしかないのではないか』という意見もありました。
 しかし後者は我々の間違いであるとすぐわかりました。警察には民事不介入という基本的な大原則があるからです。そしてこのことが民事であることが改めて確認されたりもしました。
 法律的な解釈も含めて、とにかく相当時間をかけてミーテングをやった結果、「現場で阻止するしかない」と決まったのです。500円通行は全く法の落とし穴でした。公団はこれを許して伝染病のごとく不払い広まるのでは、と恐怖のどん底に陥ったのです」と。
 そんな事とはつゆ知らずフリーウエイクラブの会長は、今日も快調に首都高を疾駆します。
「ふざけちゃいけないよっとくりゃ、ホイ500円」。(■つづく)

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首都高速道路500交通の正義/フリーウェイクラブ会長・和合秀典

(月刊『記録』94年7月号掲載記事)

■恥を知れ!何がお上だ! 和合秀典

はじめのご挨拶
 私は和合秀典と申します。
  趣致高速道路の値上げには絶対に反対です。どんな天変地異が起きても、これを阻止します。こんなふざけた話はないからです。
 ご存じの方も多いでしょうが、現在700円の首都高道路を500円で通行しております。87年に500円から600円に値上がりして以来ですから、もう7年にわたっています。
 改めて申し上げます。首都高速道路の値上げには断固として反対します。500円通行はそのときが来るまで止まることはありません。自衛隊一個中隊を持ってしても阻止は不可能なことです。
 この運動は楽なものです。職員が何人こようが、弁護士が何人こようが、必要なときに500円で通ればよいのですから。
 賛同の方は、わがフリーウエイクラブにご入会下さい。トラブルの一切は、会長である私が引き受けます。クラブ専用の通行証明書に500円玉を貼って、料金所で渡すだけです。

■無料開放の年に言い出された値上げ

 今年5月24日、私は日本道路公団の料金値上げのための公聴会に公述人として出席し、永野健日経連会長らとともに、反対の意見を述べました。かつて首都高の公聴会でも発言しましたが、要するに、この不況で、民間が爪に灯を灯すようなリストラをしている最中に、組織の見直しなど全く考えず、いけしゃあしゃあと値上げを言い出す役人根性が許せないのです。
 私は小さな金属加工会社の経営者で、不況の苦しみは人一倍です。同時に堂々たる日本の主権者です。何で無反省の公僕に、いわれなき弾圧を受けて黙っていられましょうか。
 そもそも首都高の有料料金制は、戦後の壊滅的な日本経済を立て直すための、我が優秀な官僚たちによる超ウルトラCでした。本来タダの天下の公道から通行料金を取るという超法規的な法律、道路整備特別措置法の制定です。
 もっとも、それだけでは国民の支持は得られないという程度のたしなみは当時の官僚にはあったようで、同時に30年たった後に無料開放との約束で開通しました。番外として、天下の公道を有料とする唯一の条件が30年満了後の無料開放だったのです。それが、今や官僚の悪徳の結果、すさまじい化物法と化してしまいました。
 30年の約束です。長い間待ちました。そしてやっとその日がやって来たのです。1993年がその待ちに待った無料開放約束のまさしくその年だったのです。
 ところが、約束は守られるどころか、驚くなかれ、公団は何と値上げを打ち出してきたのです。
 恥を知れ!何がお上だ!一体全体利用者を何だと思っているのか。これほど利用者をコケにした話はないではないか。私の抗議に対し、彼らはシレッとして言い放ちました。「決められたことは守ってもらわなければ困る」と。私は「お上」の存在を認めません。したがって決めるのは国民です。公団や建設省の木っ端役人は、自分をお上だと勘違いしているんじゃないか。たわけたことだ。私と首都高とのデスマッチは、官主ではなく民主主義が健全に機能していれば、ニュースにならない出来事なのではないでしょうか。

■官制パフォーマンスに弱い国民

 横浜のレインボーブリッジ開通で「若者のデートコースにピッタリです」などと、通行料金値上げに向けて、公団は大いなるパフォーマンスを展開しました。日本の国民は「お上」のパフォーマンスに実に弱いものです。何が正しくて何が悪いのかも判断できなくなってしまいます。そのことを官僚は熟知していて、やたらとパフォーマンスします。そして「決められたことは守らなければいけない」と集団催眠をかけるのです。気を付けなければなりません。
 さて、偶然の一致というものは恐ろしいものです。レインボーブリッジのお祭り騒ぎの日は、500円運行1000回記念日でした。我が方も大いに盛り上がり、すこぶる楽しい時を過ごしたのです。双方の大いなる盛り上がりは値上げに向けてのデスマッチ開始ゴングとなりました。新鮮な闘志が湧いてきます。

■総勢40人で8万円を差し押さえ

 首都高速公団は実にアンフェアーです。「天敵和合」などと、値上げに向けたなり振り構わない和合つぶしは全くみっともない。
 昨年の夏の暑い盛りでした。首都公団職員やら弁護士やら総勢10人が、私の個人財産を差し押さえたのです。
 午前9時に金融機関のシャッターが開くと同時に、見張り役に職員4人を残し、公団の一群が雪崩れ込みました。首都高お抱えの上野弁護士ら計6人が、国税のガサ入れさながらに、六法全書を片手にドカドカと入り込み、けげんそうな顔で見守る一般客を尻目に、上野先生が「和合秀典はとんでもない奴である。お上にたてつく不届き者である。600円の首都高速道路を未だに500円で通行している。よってここに首都高速道路不法通行により和合の私有財産差し押さえする」と叫んだとのことです。
 金融機関側が「裁判所の支払命令書はお持ちですか」「何か税務署の通知書はお持ちですか」と質問すると、上野先生は六法全書を開いて、「ホラ書いてあるでしょう?通行料金は税金に準ずる、と」とまくしたてました。税務署ならいざ知らず、首都高速公団が個人の財産を直接持っていくなど聞いたことありません。
 通行料金が税金と同じなどと全くトボケタ話です。道路建設のためにガソリン税、重量税を払っています。なおかつ通行料金までが税金というのであれば、これは完璧に税金の二重取りです。
 ましてや、上野弁護士は民間人ではないですか。六法全書を振りかざしてお上軍団の先頭に立って突撃するなんて、いかに生活のためとはいえ、最近の弁護士先生も堕ちたものです。
 さて、公団は何と職員8人弁護士2人のグループを4組も用意し、同日同時刻に4金融機関に一斉に踏み込んだようです。
 もちろん、金融機関も、公団よりお客様を大切にする思いは同じです。お客様というのは私です。とっさの知恵を絞って私の預金を守ってくれ、結局、民間弁護士8人を含む総勢40人の公団側は、普通預金に入っていた家のローン1回分の8万円を押さえました。
 翌日より首都高速道路公団に対して新しい裁判が増えました。
1税金は国会で十分論議され決定される。故に保全のための裁判をしないで直接差し押さえが出来る権限を持っている。しかし首都高の通行料金は認可制で、国会審議を受けないので、全く税金とは異質であり、税金の持つ権限を有することはできない。
2本来、道路建設はガソリン税など自動車関連税建設されるものである。もし仮に通行料金が税金であるとすれば税金の二重取りとなり、そのような解釈は成り立たない。

■たかが100円されど100円

 それにしてもなぜ、私のことを公団は目の敵にするのでしょう。たった100円の不払いを、公団は毎月、明細付きで請求し、差し押さえするなど、まるでマンガじゃないですか。
 どうやら、この「たった100円」が、偏差値秀才たちにはどうにも邪魔なようです。「100円くらいいいじゃないか」と世論が容認すれば、値上げが出来ない。潰しておく必要があるのです。
 私は、種痘高速道路公団を目の敵にしているわけではありません。残念ながら、そんなにヒマではないのです。公団の諸君が仕事を熱心にやっているのは認めているのですよ。 ただ、方向が間違っています。庶民の感覚を思い出し、お上意識を払った行政に戻れば、長いお付き合いですから、過去のことをとやかく問題には致しません。利用者側のための改革が始まるまで、このまま「良い」関係を保ちたいものです。
 重ねて申し上げます。値上げには反対です。仮に「お上」といえども、約束は守らなければいけません。無料開放の前提で道路有料化の許可をしたのは、私たち主権者です。主客転倒してもらっては困ります。

■■■こうして始まった
 1987年9月11日、高島平入口から首都高速に乗り入れ、志村料金所に向かっていた私は、「錦糸町6キロ渋滞」と、相変わらずの慢性渋滞を示した電光掲示板にウンザリしていた。ところが、その日はさらに「今日から通行料金が600円改定になりました」との掲示までがされているではないか。
 寝耳に水、あきれ返った私は、それでも流れのままにゲートにたどり着いた。500円を手渡すと、職員は窓越しにパンフレットを渡し、「600円になりました。あと100円下さい」と事務的に要求してきた。
 この対応に怒り心頭に発した私は、気持ちを懸命に鎮めつつ、「いきなり、このような20%もの大幅値上げは、到底認めるわけにはいかない。とりあえず今日は今まで通りの500円で通行する」と、名刺と500円を置いて発車した。
 翌年1月、毎日新聞に報道されて以来、支援、阻止双方の側から、さまざまな声が届いたが、首都高速道路公団からは、依然として値上げが納得できる説明がなされていない。したがって500円通行をやめる理由もなく、700円に上がった現在も続けている。■つづく(わごう・ひでのり……1941年生まれ。都内の高校を卒業後、1971年より金属加工業「和合ダイカスト」代表取締役。フリーウェイクラブ会長。)

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大使館は世界への窓・その1 アルジェリア民主人民共和国

(月刊『記録』95年1月号掲載記事)

大使館は異国事情を知る手段、異国へ開かれた窓として機能する。それぞれの国の大使や参事官にお国の事情を伺ったのが、このシリーズである。(編集部)

        *        *        * 

■アルジェリア民主人民共和国・2億6千万人の人口大国/バキール・ラウド・ダウド参事官に聞く

■「国民は暴力的な政党を望まない」

   アフリカにありながらアラビア語とフランス語を公用語に持ち、国民の99%がイスラム教徒という国内状況は、日本の方には理解しにくいかもしれない。しかし、イスラム教の伝統は、中東であろうがアフリカであろうが変わりない。
   また、日本の仏教と同じように厳しい戒律を守る人もいれば、関心のない人もいる。特に若い世代は、厳しい戒律に関心がないようだ。海岸では多くの女性がビキニを着ている。もっとも、最近は現状よりも厳しい戒律を要求するイスラム原理主義の台頭によって、女性がベールをかぶるなどの傾向にある。
   だが、1991年末に原理主義者の政党が選挙で勝った理由は、国民がイスラム原理主義を望んだからではない。国民は総じて、厳しい戒律も暴力的な政党も望んでいない。むしろ、伝統的に国民が多党主義に慣れていないからだろう。
   わが国が数年前から乗り出した民主化の過程で、89年には1つだった政党が現在では60以上にもなってしまったために、政治運営は非常に難しい状況にある。加えて、62年から続いた社会主義経済を市場経済に移行したものの、市場経済はすぐには国民に利益をもたらさなかった。社会主義時代は、パンの半額は政府が出していたし、英語を学ぶこと、家を持つことも無料だった。
   このような混乱の中で、99%がイスラム教徒である国民は、イスラムのルールに乗っ取った政治運動を主張した原理主義者に投票してしまった。しかし現在国民は暴力的で戒律に厳しい原理主義者の政策や主張に距離を置くようになってきている。また、米国や日本・ヨーロッパからの投資が増えてくるなど、市場経済の導入効果もようやく現れてきた。

■少なくとも3カ国語は話せる人々

   アルジェリアは地形的にも恵まれており、パリ・ローマ・マドリードまで飛行機で1時間、ロンドンでさえ4時間で到着する。さらに、アフリカ周辺諸国の交通網はわが国中心に伸びており、アフリカの表玄関としての機能を果たすことができるだろう。電信電話も整備されており、教育水準も高い。アラビア語と仏語の公用語の他に、中学からはイタリア語・英語・独語・スペイン語から1つを選択して勉強するため、国民は少なくとも3カ国語は話せる。
   投資国としても勧められると思う。石油と天然ガスの輸出により、あと2、3年で重い借金経済から脱する可能性が高い。そうなると、92年の段階で2億6千万人という巨大な国民人口は、市場としても有望視されるだろう。日本も米国との貿易摩擦などで苦労しているようだから、アルジェリアという市場に目を向けてみてはどうか?
   わが国はアフリカで2番目に大きい国で、国土の約80%がサハラ砂漠であり、観光地としてもなかなか人気だ。信じられないかもしれないが、北部にはスキー場もある。ユネスコのリストに載っている歴史的建造物も多い。
   特に日本人の方に知ってもらいたいのは、良質の松茸が採れることだ。鮮度の関係であまり輸出はされていないが、アルジェリアの松茸はかなり安い。ワインと果物の産地としても有名である。とくにデイツという果物は、人差し指ほどの大きさでわが国だけで採れる特産品でとにかく甘い。ぜひ来て味わってもらいたい。
   私は、学校では日本の経済や科学技術について学習したが、日本に来て東京という街の大きさと、人口の多いにもかかわらずゴミのない美しい街並み、人が時間通り動くのには、本当に驚いた。
   私は、まだ3年しか日本にいないので、日本の文化をしっかり理解してはいない。大使館での業務が忙しいこともあって、アフターファイブに遊ぶというのも、なかなか難しい。日本についての深い感想は、もう少し暮らしてから出てくると思う。

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元信徒が視るオウム的社会論 第2回 一服で心が変わる!? プロザック

 物事には何でも二面性があります。そして、それを最も象徴しているのが「薬物」じゃないでしょうか。
 脳内物質が心の状態を変えることがわかってから、心を変容させる薬物がたくさん開発されました。最近は「暗い世界」でも明るく振る舞えるという「プロザック」という抗うつ剤が流行ったりしているようです。
 不況で会社の倒産も相次ぎ、それどころか国家自体が破産寸前に追い詰められている日本にとって、飲むだけで世界がガラリと変わり、生きる意欲が湧く抗うつ剤はこれからますますもてはやされるでしょう。特にきたるべき金融ビックバンでは、多くの銀行・證券会社などが間違いなく破綻するでしょうから、そのときビルから飛び降りるよりもたった数錠の薬でそれを止めることができるならば、本人にとっても周りの人間にとっても有益かもしれません。
 ところで、ご存じかと思いますが、オウムでもたくさんの薬物が「イニシエーション」(秘儀伝授)と称し、信者に投与されました。オウム特製の滋養強壮剤から自白剤(チオペンタール)、そして覚醒剤から究極の薬物ともいうべきLSDまでのフルコース。僕自身もイヤというほど堪能させていただきましたね(笑)。
 世間では、オウムでこれらの薬物を使ったことは非合法なのだから、すべて「悪」だったというレッテルが貼られていますが、僕自身としては経験してよかったと思うものもなかにはあります。その一つが自白剤です。
 ベットの上に横になり、点滴を打つようにして自白剤を体の中に注入されると、意識が朦朧としてきました。すると医師が枕元に来て、僕に呼びかけてきました。「あなたはどういう破戒をしましたか」「あなたは心に引っ掛かっていることがありますか」と。そのときの僕はもうどうでもいいやっていう気持ちになっていて、聞かれたことは何でも話してしまいましたね。
 その後、完全に意識がなくなって、気がつくと四時間ほど経っていました。そして、心の屈折がなくなったせいか驚くほど身が軽くなっていました。自分が何をされたのか全部憶えているわけではないのに、いつのまにか心身が軽やかになるという体験ははじめてでしたので、ビックリしましたね。やり方に問題があることは間違いないのですが、神経症になる前にこうして心身の転換を図れるのならば、テクニックとしては一考の余地があるのではないでしょうか?
 しかし、薬物を使ったイニシエーションでは、記憶を消されたり、あるいは本人の知らないうちにある思考パターンを植え付けるという「洗脳」が行われたことも間違いありません(どこまで効果があったのかわかりませんが)。もしそのオウムのテクニックよりはるかに優れた洗脳技術を、人々を支配してやろうと考える独裁者が握ったらとんでもないことになりますね。人々の心を一定方向へと操ろうとするでしょうから。
 薬物をつねに善用できる方法ってないのでしょうかねぇ。■つづく(■猪瀬正人 いのせ・まさと……1969年栃木県生まれ。早稲田大学法学部に入学後、89年オウム真理教で出家した。95年6月、微罪逮捕を契機に脱会。現在、フリーライター。)

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元信徒が視るオウム的社会論 第1回/エヴァやオウムが流行るワケ

■月刊『記録』97年11月号連載記事

(■猪瀬正人 いのせ・まさと……1969年栃木県生まれ。早稲田大学法学部に入学後、89年オウム真理教で出家した。95年6月、微罪逮捕を契機に脱会。現在、フリーライター。)

 僕は高校3年生のときに、オウム真理教の前身である「オウム神仙の会」に入会しました。そして、大学2年生のとき、オウムに出家しました。その間、3年ほどの期間があるのは、まだ十代で出家するだけの度胸がなかったからなのですが、それと同時に大学教育というものに未練があったからでした。1年間、予備校で浪人生活を送ったのも、もちろん大学に入りたかったからです。田舎に住んでいた僕は、大学生活の現状を知らず、憧れの思いだけを抱いていたのでした。

 尾崎士郎の『人生劇場』の世界に憧れ、早稲田大学に入ったのですが、入学直後から自分の勘違いに気づきました。既にレジャーランドと化していたキャンパスには何の精神性もなく、内的思索の機会もなく、特に早大は教授が二流で、しかも授業に出なくても単位が取れるという校風のためか、入学して1ヵ月もしないうちに、オウムの道場に入り浸りになるようになってしまいました。つまり、大学教育の薄っぺらさによって僕はオウムに引きずり込まれたようなものです(もちろんそれだけではありませんが)。

 ところで、今年に入ってアニメの「新世紀エヴァンゲリオン」の大ブームが起きました。他ならぬ僕も、元オウム信者に勧められて観るようになり、一時期ハマったのですが、世間でもこのアニメとオウムの共通性についてよく取り沙汰されましたね。曰く、この映画はオウム的カルトの世界を表現したものだと。あるいは心理学用語をちりばめてオウムと同じ手法で洗脳していると。
 実際、この映画の題名からして、オウムがロシアのラジオ局を通して放映していた「エヴァンゲリオン・テス・ヴァシレイアス(御国の福音)」とダブっていますし、映画館に行くと、オウム世代ともいうべき20代~30代の男性がほとんどです。そして、オウム幹部の石井久子被告とよく似た「綾波レイ」という登場人物に信者までできて、一体何十万円もする彼女の等身大のフィギアやグッズが爆発的に売れるという現象まで起きました。そして、このアニメをより理解するための解釈本が何十冊も出て、たくさんの読者が、オウムと共通した精神世界を必死に勉強しているのです。
 特に男子大学生などは集団で映画を何回も観に来たりしていて、もう信仰宗教の信者と同じです。彼らを見ていると、オウムに出家する前の大学生だった自分を見ているようで、「また同じことを繰り返しているなあ」と思わざるを得ません。
 いったい大学教育はどうしちゃったのでしょう? 「エヴァンゲリオン」ならまだしも、もしもっと強烈な第二オウム、第3オウムが登場したら、たくさんの大学生がオルグされて、また大きな社会問題に発展しますよ。
 オウムでの失敗の教訓を、大学側にも生かしてほしいものですね。(■つづく)

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畳職人を怒らせたアース製薬・ダニには効かない?ダニアース

(月刊『記録』98年1月号掲載)

■畳をねらい打ち

 原因は一本のテレビコマーシャルだった。
 畳を丸くくり抜き、そこから顔を出す作家の野坂昭如氏。その異様な姿のまま「畳、畳、畳、ダニ、ダニ、ダニ」と連呼するCMは、97年六~8月の3ヵ月間、日本全国ほとんどの地域で放映された。アース製薬のダニ駆除剤・ダニアースの宣伝である。
 このCMについて、全日本畳組合連合会の今川喜三一事務局長は、「畳だけを標的にした広告ですからね。ダニの発生原因は不明なのに……。製薬会社にすれば、畳にダニがいると強調すれば宣伝しやすいのでしょう。アース製薬の薬害をたてにとって、訴訟でも起こそうかという意見までありましたよ」と怒りを隠さない。
 7月18日、その全日本畳組合連合会が行動を起こす。日本広告審査機構(JARO)に調査を依頼したのである。彼らの主張は、しごく簡単な内容だった。ダニの発生原因でもない畳を、ダニの温床といわんばかりに表現する広告が、畳のイメージをひどく傷つけていること。そして広告で示された畳内での薬剤散布範囲が誇大であること。根拠なくダニの温床であるとA級戦犯に仕立て上げられたのだから、畳業界の抗議はもっともだ。
 ところが、JAROはダニの発生と畳の関係に着目することなく、表現の自由を理由にアース製薬のCMにお墨付きを与えたのである。もちろんアース製薬へのおとがめはなかった。
「タレントが畳をかぶっていることで、畳の印象が強くなっています。しかし当該商品が畳やソファーでのダニ駆除剤であることを考えると表現に無理があるとは思えません。用途が特殊化されたものである以上、広告表現もその用途を明確に表現する必要に迫られることになります。(中略)薬剤の噴霧描写はイメージとはいえ、誇張され過ぎているようにも、見受けられます。この点に関しては何らかの改善をアース製薬にお願いしようと思います」。
 これがJAROの回答の要旨である。JAROによれば、ダニアースが畳用の駆除剤だから、畳はダニの温床だと表現してもいいらしい。しかも誇張された表現と認めても、改善を「お願いする」のが解決方法だという。
 表現の自由は絶対に尊重されるべきだが、それは本来弱者・少数者の権利を擁護するために考えられた概念である。いきなり全国のテレビCMで標的にされ、反論するメディアさえ持たない畳業界はどうすればいいのか。対抗手段を持たない映像の暴力を許さないのもJAROの大きな仕事のはずだが、状況改善を促すでもなかった。先述した今川氏も、「アース製薬から直接回答が来るわけでもなし。まったく役に立たなかった」と呆れ顔だ。

■誠意なき回答

 変わらない現状に業を煮やし、さらに強力な対抗策を打ち出したのは、新潟県畳業組合連合会だった。同連合会の浅井忠雄副理事長は、次のように語る。
「CMですから、製品を売り込むのは仕方がないと思っております。しかしそのCMによって消費者から誤解され、日本文化の象徴でもある畳に泥が塗られるのは許されません。放っておけば大企業は繰り返し攻撃をしてきます。だから直接抗議することにしたのです。
 アース製薬が抗議を無視するのが不安だったので、とりあえず弁護士に相談しました。すると『現在の日本は、弱者の声がまったく届かないまま攻撃をされ続けることが多すぎる。ぜひ、きちんとした抗議をアース製薬にしましょう』と、弁護士さんも意義に賛同してくれたのです。
 私達は正式な文章を作るために弁護士と相談を重ね、3週間かけて申し入れ書を作成しました」
 9月19日、新潟県畳業組合連合会が作成した申し入れ書は、アース製薬の社長宛に送りつけられた。主張は3点。
①薬剤の注入対象を畳だけにした理由を明確にすること。
②日本の情や文化を肯定的に描く作家を使い、日本の伝統的な畳のイメージをおとしめるような映像をことさらに放映した理由について説明すること。
③注入薬剤の残留に対する人体の影響について説明すること。
 申し入れ書を無視することなく、10月6日付でアース製薬は回答をよこした。しかしその回答は、誠意のかけらも見当たらないものであった。回答の一部をそのまま抜き出してみよう。
「この製品の最大の特徴であります畳注入用であることをアピールする必要があります。このためには、畳をCMに取り入れなければ、消費者にはこの製品の良さは伝わりません。当社としては、ダニアースが畳をいつまでも清潔に維持出来る便利な製品であればこそ、消費者に幅広くご使用頂いているものと考えております」
 これが①の質問に対する回答である。畳に注入する商品だから畳を攻撃させてもらうといったロジックは、ほとんどヤクザなみだ。
 ②に対する回答も素晴らしい。
  「一方では強烈な印象を与えると共に、他方ではユーモラスなCMではありますが簡単に害虫駆除処理の難しい畳であってもこの便利な製品を使用すれば、いつでも誰でも簡単に畳の害虫駆除処理ができることを、畳を用いて宣伝したのであります」
  「強烈な印象」と「ユーモラスな」作りが、そのまま畳のイメージを悪くしていることなど、はなから無視している。
 さらに③に対しては、ほとんどお役所回答で切り抜けている。
  「当社では、商品化にあたり前もって信頼出来る第三者の試験期間によって、安全性を確認しております。又、厚生省から医薬部外品として承認を取得しております」
 エイズ問題で血友病患者を塗炭の苦しみに陥れた厚生省の承認に、どれだけの価値があるのだろうか。さらに回答では実験結果を添付しないなど、安全性を証明する気など、これっぽっちも感じられない。
 前述の浅井さんも、「謝罪の言葉はまったくありませんからね。回答に納得しているわけではありません。企業姿勢としては当たり前なんでしょうが。
 まあ、抗議に対する回答が来たことで、われわれの姿勢は示せましたから、一歩前進でしょうか。もし、うちにアースと同等の予算があれば、ダニアースに対抗するCMを作ることも可能なんですがね」とつぶやいた。
 アース製薬もJAROも、畳への侮辱は表現の範囲内であるという。アース製薬にいたっては、「害虫駆除処理の難しい畳」がダニアースよって快適に使えると、ダニの駆除処理が畳で必要であるかのように答えている。本当だろうか?

■危険なのは絨毯だ

 一口にダニといっても、現在命名されているだけで世界で3万種、日本だけも約1500種もいる。もちろん種類によって、習性・住む場所・人間への被害などが変わる。屋内だけに限っても、かなりの種類のダニが生息している。ただし屋内で繁殖し、人に大きな被害を与えるダニは、おおよそ二種に絞られる。ぜんそくや鼻アレルギーを起こすヒョウヒダニと、人を刺すツメダニである。
 まず、ヒョウヒダニから説明しよう。
 ダニの権威として20冊以上の著作を持つ東京都立衛生研究所の吉川翠氏は、ダニがどれだけ増殖するのかは人間の生活の仕方が大きいと断ったうえで、次のように解説してくれた。
「アレルギー疾患に関していえば、一番危ないのが畳とじゅうたん、畳と花ござなどの床材の二枚重ね。次がじゅうたん・寝具そのもの。そして3番目に畳です。
 生きているダニの数を比べれば、畳の内部が最も多くなりますが、アレルギー反応を引き起こすヒョウヒダニの糞は、きめの細かい畳からは出てこられないのです。一方、表面にいるダニの数はじゅうたんが圧倒的。しかもじゅうたんの根本の部分は掃除がしにくいわりに、糞などは舞い上がりやすいのです。
 寝具もヒョウヒダニの好物であるフケやアカが多いため、食べ物を求めてダニが集まります。そして布団の内部で排泄された糞は、布団の移動で舞い上がるのです」
 絨毯の危険性を指摘するのは、ダニの専門家ばかりではない。アレルギーの原因の検査結果を伝える資料には、次のような記述がある。「ダニ数は板・畳・絨毯=1・10・100 床は板やリノリウムを用い、絨毯はできる限りやめる」。
 畳に以上にじゅうたんが危ないことは、ダニアレルギーを語る上ではすでに常識なのである。

■全ワラ畳は7%

 また、畳自体も以前とは大きく変わっている。
 1968年、東京都町田市の鶴川団地において、入居直後に畳から多量のケナガコナダニが発生し、マスコミをにぎわせた。この大量発生の原因は、湿気を逃がさない集合住宅の構造と、水分を含んだままのワラを使ったことによる。もちろん当時の畳は、い草の下にワラが使われていた。
 ところが現在使われている畳は、ほとんどワラが使われていないのである。すべてワラで作った畳の生産量はわずか7%であり、一部でもワラが使われている畳でさえ生産量の30%にしか満たない。残り63%の畳は、い草に下にホームポレスチレンという発泡スチロールのような石油製品を使っているのである。さすがにワラがなければ、ダニが住めるはずもない。さらに全国に出荷される畳の20%ほどがJIS規定を通っているため、たとえワラを使っていても、ダニが繁殖しにくい構造になっているのである。
 つまり畳のダニ問題は、かなり解決しつつあるのが現状なのだ。いくら畳に針を突き刺して薬剤を噴射しても、絨毯や寝具に注意を払わなければ、ダニアレルギーが改善されることはない。
 では、ツメダニに関してはどうだろうか。
 じゅうたんよりも湿度の高い畳は、じゅうたん以上に増殖する可能性が高い。だが先述した通り、畳の63%はワラを使っていない。そのため「ツメダニの数は減っている」と吉川氏も語っている。さらに重要なことは、たとえツメダニが発生しても、ダニアースでは増殖をくい止められないということだ。
「防虫シートの品質検査基準について」と題された資料が手元にある。これは95年7月、反農薬東京グループが起こした防虫加工紙の使用中止運動に対して、日本畳防虫紙工業会が作成したものだ。そこに興味深い表が掲載されている。コナダニ・ミナミツメダニ・コナヒョウヒダニ・ケナガコナダニの四種類のダニを、1グラム/㎡、10グラム/㎡の薬量でダニに接触させ、24時間後の致死率を調べたものだ。
 この表でダニアースの主成分であるピレスロイド系フェノトリンは、検査した七種類の薬剤の中で最も低い致死率を示している。例えば、1グラム/㎡の濃度で行われたコナヒョウヒダニに対する実験では、他のほとんどの薬剤が100%の致死率を示しているなか、堂々の35.7%。さらに、問題のミナミツメダニは既存の殺虫剤に対して極めて強い抵抗力を持っており、フェノトリンなど効くはずもない。この資料はツメダニに対する殺虫効果について、次のように書いている。
「(ダニを)10グラム/㎡という常識では考えられない薬量を含む残渣面に接触させても、有機燐剤、カーバメイト剤、ピレスロイド剤(アースの主要成分)のいずれも致死量がほとんど得られていないという、驚くべき結果が示されている」
 同じような実験で、ハエ・蚊が通常0.25グラム/㎡の濃度で死ぬことを考えれば、この実験のすさまじさがわかるだろう。吉川氏も、「直接ダニ吹き付けなければ、ピレスロイド系の殺虫剤ではツメダニは死ににくい」と語っている。

■薬は広がらない

 ダニアースが効かないのは、薬剤の効果が薄いからだけではない。この殺虫剤には決定的な欠陥がある。それは畳に薬剤が浸透しないことだ。写真①をみてほしい。
 これはダニアースの噴射口にインクを仕込み、畳の中でどれほど薬が広がるかを編集部で実験したものだ。ダニアースの説明書には「1ヶ所に3秒の割合で」と書いてあったが、親切心で6秒噴射を3回繰り返した。結果は6センチ四方、高さ1.2センチに広がっただけ。これでどうやって畳のダニを駆除するつもりなのか。ダニは危険を察知すると、畳の下へ下へと逃げていく。針は畳の底まで届かないのだから、畳を上げて下から針を刺さなければ、逃げたダニは殺せない。
 たとえ底のダニを無視したとしても問題は残る。ダニアースの使用説明には、「1畳につき6ヵ所以上に注入噴射してください」と書いてあるが、全国的に使われている畳一畳は、88センチ×176センチもの大きさなのだ。6センチ四方しか広まらないダニアースを畳全体に注入するには、なんと430回も針を打たなければならない。ほとんど百人針の世界である。
 じつは畳に薬剤を浸透させようという実験は、他のメーカーでも行われていた。大手家庭品メーカーの花王は、畳に効く界面活性剤の開発に失敗したと伝えられている。良識的なメーカーであれば、薬剤が浸透しないなら商品化などあきらめるものだ。
 それだけではない。ダニアースにはまだ問題がある。
 ワラの代わりにホームポリエスチレンが使われている場合、薬剤の噴霧によってホームポレスチレンが熔けてしまうのだ。外から見ても、ワラなのかホームポレスチレンなのか素人にはわからないので防ぎようもない。「足で踏むとわかるほど、ホームポレスチレンが熔けてしまった例もあります。処置なしです」と、今川事務局長も語る。
 いったいアースは何様のつもりなのか。ダニの主要原因に言及せず、消費者の不安をあおり、効力のない殺虫剤を売りつけ、なおかつ畳を壊す。経営姿勢に大きな問題があるとしか思えない。

■気にくわなければ圧力

 じつは取材の過程で知り合った薬剤の関係者が、誌面に一切名前を掲載しないことを条件に、アース製薬にまつわる思い出を語ってくれた。
「かつてアース製薬の薬が効かないということを講演で話してしまったことがあるんです。それがアースの耳に入ったのか、その後の講演会では、アースの社員らしき人が講演を邪魔するような質問を繰り返しました。しかも講演の場所が決まると、所属する大学にアースから電話がかかり、講演中止を求めたりするのです」
 まだある。取材の過程で、編集部はダニアース以外の製品にもごまかしがあることを知った。
 殺虫成分を煙とともに発生させる加熱蒸散殺虫剤・アースレッドWの説明書には、イエダニに有効と書かれている。ところが、この表現がくせ者なのだ。消費者の多くはダニの種類など多くは知らなくて当然だから「イエダニ」といわれれば家の中にいるダニの多くを連想するであろう。
 ところが、学術的な意味での「イエダニ」とはネズミに寄生するダニの一種に過ぎない。イエダニはネズミが天井を歩くため、主に天井などに生息する。つまり殺虫成分が上に昇るアースレッドWは、たしかにイエダニを殺す。ところが人への被害の大きいヒョウヒダニやツメダニなどへの効果はほとんどないのだ。結果的に消費者は予想の範囲を大きく下回った効力しか発揮しない薬剤を買わされることとなる。
 さらに94年2月、アース製薬が企画し、学習研究社が作成した高校家庭科ビデオの台本には、「畳の部屋でのダニの大量発生を防ぐためには、畳の内部に住むダニを駆除することが大切です。畳の内部のダニ駆除には、エアゾール状の薬剤を使います」と書かれている。効かない薬が高校の教材にまで使われていることには、驚かざるを得ない。
 先述した吉川氏は、「1年を通じて被害の出るダニを、殺虫剤で退治するのは限界があります。まず屋内湿度を低くし、身の回りをきれいにすることから始めてください」と、ダニの対策法をアドバイスしてくれた。
 効力のない薬を撒き散らすなど、ナンセンスもこの上ないのである。

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丸山ワクチンと薬害エイズの奇妙な関係・篠原一東大名誉教授に聞く

(月刊『記録』97年5月号掲載記事)

ほとんど知られてないが、丸山ワクチン認可問題と薬害エイズ問題には接点が非常に多い。
厚生省の2大スキャンダルから浮かび上がる事実は何なのか。「丸山ワクチンの製造認可の促進を請願する患者・家族の会」代表の篠原一東大名誉教授に聞いた。 

接点① 時期が同じ

 丸山ワクチン認可問題は、中央薬事薬事審が不認可を繰り返すことに国民から非難の声が上がり、マスコミの糾弾も日増しに強くなっていた。そして、丸山ワクチンが医薬品として認可されるのか、有償治験薬としてさえも認められなくなるのか、重大な山場を八四年一一月に迎えることになった。そのため八一年から八四年にかけて、「患者・家族の会」は必死の活動を展開した。一方、薬害エイズ問題は、八三年中頃から非加熱製剤の危険性が明らかになりつつあり、厚生省内では対応が検討され始めた時期にあたる。
【篠原氏】
当時、私をはじめとする『患者・家族の会』は、厚生省に丸山ワクチンを認めるように日々圧力をかけていました。郡司篤晃・元生物製剤課長はもちろんのこと、彼の上司にあたる薬務局長まで呼び出していました。また、丸山ワクチンを支援する政治家も厚生省を糾弾していました。その裏側で、エイズ薬害問題が発生していたのです。
 しかも当時の状況を考えれば、厚生省にとっては薬害エイズ問題より、丸山ワクチン問題の比重が大きかったと思います。

接点② 厚生省の担当者が同じ

 薬害エイズ事件では、衆議院の参考人招致された郡司氏は、丸山ワクチン認可問題でも「患者・家族の会」に対応していた。
【篠原氏】
私が二つの事件の関連性に気づいた発端は、薬害エイズ事件のニュースで、郡司氏の名前を聞いた時です。何を隠そうあの郡司氏は、丸山ワクチンの問題で私が何度も話し合った張本人でしたから。
 彼に会った時は、やっとまともな課長が出てきてくれたなと思ったものです。彼とは折衝を重ね、時にはプライベートな話までしたこともありましたが、学者肌で性格の良い人物でした。その分だけ根回しに疎く、無理押しなどできない人でしたから、彼の決定は厚生省幹部の意向が強かったのではないでしょうか。

接点③ 利権の構図が同じ

 長い間、丸山ワクチンが薬事審に医薬品として認可されなかったのは、薬事行政の構造的欠陥の波を、まともに被ったからである。製薬会社と厚生省、そして医師が手を結び利権をむさぼっている構図は、二つの事件に共通する。
【篠原氏】
丸山ワクチンでも問題になったのは、大手薬品メーカーが既存の薬で挙げていた利益です。丸山ワクチンは副作用もない上に、かなりの効果を上げていました。その一方で、薬事審は毒性の強い抗ガン剤をメーカーの意向を汲んで認可していました。丸山ワクチンが認可されればどうなるかは、明らかでしょう。
 薬事行政は、まずトップに医者がいます。そして医者と結託している製薬会社があるのです。そういった意味で、丸山ワクチン認可問題における最大の障害は、医者の集まりである薬事審でした。
 エイズと丸山ワクチンの時期は同じですから、当時の薬事行政の手法は変わっていないはずです。わかりませんが、薬害エイズにも、医者と薬学者がトップで動いていたのではないでしょうか。

接点④ 郡司ファイル

 九六年二月に、厚生省の倉庫から通称「郡司ファイル」と呼ばれる郡司氏の個人ファイルが、いきなり発見された。このファイルには、八三年七月四日に「加熱製剤の導入を検討」と書かれているが、一週間後の一一日には「加熱製剤の超法規的承認は好ましくない」と一八〇度方向が変わっている。また、同ファイルは、その変換の理由についても述べている。
新聞に掲載されたファイルの抜粋を、そのまま掲載する。
 
超法規的措置による承認は、以下の二点の理由から好ましくない。
(1)薬事承認行政に特例扱いの前例を作ってしまうことになり、丸山ワクチンの審議にも影響を与える。
(2)当該製品は、血友病治療の安全性、有効性については問題の点があり、冷静な学問的判断を行う必要がある

【篠原氏】
当時、マイナーだったエイズのために治験を実施しないで加熱製剤を認可すれば、当然、丸山ワクチンを認めるざるを得なくなります。証拠はありませんが、当時、厚生省にとって最大の問題だった丸山ワクチンは、加熱製剤の承認と関係があると思います。

接点⑤ 菅直人と安部英

 丸山ワクチンをめぐる舞台にも、菅直人と安部英というエイズ問題のいわば主役が登場している。単なる偶然なのだろうか。
【篠原氏】
薬害エイズ問題を(厚生大臣として)追求した菅直人氏は、そのノウハウを丸山ワクチン問題で培っていたんですよ。丸山ワクチンの問題にかかわらなければ、薬害エイズの追求もできなかったでしょう。
 そしてもう一つの偶然が、あの安部英氏が丸山ワクチンをエイズの治療薬として担ぎ出そうとして、故丸山千里氏に断られたことです。
 2つの事件の結びつきは、かなり深い。再度、丸山ワクチン問題から、薬害エイズを考えてみる必要がないだろうか。(■篠原一……1926年生まれ。東京大学法学部政治学科卒業。東京大学名誉教授。73年ガン告知を受けるが、丸山ワクチン療法で治癒。「丸山ワクチンの製造認可の促進を請願する患者・家族の会」代表)

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