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2007年6月

だいじょうぶよ・神山眞/第3回 計算されたできレース

■月刊「記録」1999年10月号掲載記事

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■良江先生に呼び出される

「神山先生、ちょっとよろしいですか?」
 おきまりのセリフで、ぼくは良江先生に呼び出された。好きな言葉が「ジャスティス」と「強くなければ優しくなれない」というだけあって、良江先生は曲がったことや不透明なことが大嫌いなのである。
 物腰柔らかく、にこやかではあるが絶対に妥協しない雰囲気が今日も漂っていた。ぼくに頭を下げさせるまで、この人の話は終わらないのだろう。だいたい「ちょっと」といったって、本当に「ちょっと」だったことなどまだ一度もないのだ。今日もまた、「はい、わかりました」と、ぼくが言う瞬間まで話は続けられるのだろう。 六月だというのに、雨一つ降らぬ天気が続く。うだるような暑さの昼下がり、良江先生のうしろをトボトボとぼくはついていった。高校生ぐらいになると職員間の力関係がわかるようで、途中で何度も子ども達に「神山先生、また説教くらうのかよ」と声をかけられた。「うるさい」と小声で注意する。
 良江先生は、髪の毛をひっつめて頭のうしろで一つに束ね、背筋をまっすぐに伸ばして歩く。その自己管理が徹底されている背中を見ていると、いったいこの人は何歳なのだろうかと思えてくる。たしか四〇歳は越えているはずだが、年齢よりも若く見え、いや、老けているようにも思える。つまり年齢不詳なのだ。不思議なことに良江先生は、いつの時代のどの写真を見せてもらっても、同じ髪型、同じ服装をしているのだった。
 そのわけを訊ねると、本人曰く、「異性に媚びを売る生き方をよしとしない」ところからきているそうである。媚びを売らないのはいいが、その徹底ぶりときたらちょっと表現に困るほどである。とうとうぼくは、学園をやめるまでの四年の間、良江先生がいつ美容院に行ったのかまったく気づかなかったほどである。
 その徹底的に管理された背中を見ていると、思わずため息が漏れた。
 あーあ、それにしても正利。おまえは一体何をしでかしたというのだ。

■かえったら、だれもいないのよ

――なんだかね、まいんち、つまんないのよ……。ぶかつでね、いじめるひといるの。ボールとかぶつけんのね。「しんたい」「しんたい」って言いながら……。いみわかんないけど、ちょっと、いやだからやめたいのよ……。
 べんきょもつまんないのよ。いみわかんないの……。だから、ねるのよ。おれには、せんせ、おこんないよ……。ねててもおこんない。せんせは、まぁ、やさしいとおもうのね。
 がくえん?
 がくえんもつまんないとおもうのね。だって、おこずかいすくないとおもうよ、おれは。みんなもっともらってるとおもうよ。いっかげつに、いっかいじゃ、すくなすぎるのよ。もっと、ゲームやりたいのよ。――

 一つ嫌なことがあると、全部が嫌になる。正利にはそんなところがあった。それにしても確かに、IQが低く、風貌が異彩を放ち、ぼんやりして口調に特徴がある。あいつはいじめられる対象になりやすいのだろう。僕もあいつが「しんたい」「しんたい」といじめられたと聞いた時には、「かわいそうに……」と思うより先に「やっぱり」という気持ちが先に起こったくらいだ。
 で、正利、いったいおまえは今回、何をやらかしたんだ?

――そのひは、たしか、はやびきしたのよ。はやびきしても、がっこのせんせも、がくえんのせんせも、おれにはあんまり、おこんないのね。だまってると、「しょうがないなぁ、正利は」とかいってみんなわらうのよ。だから、だいじょぶよ、おれは。
 はやびきして、かえったら、だれもいないのよ。それで、ちょっと、おかね、さがしてたら、あったのね。さんまんえんも……。すこしびっくりしたし、すごくうれしかったよ。そのときは……。――
 あいつは若い保母のサイフから三万円、そして僕のサイフからも少しずつ、小銭で数千円を盗んでいたらしいのだ。

■事前にすべてが決まっている

  「じゃあ、もう一回言わせてもらいますよ。正利はねぇ、動物なの!」良江先生が、さっきから僕を前にして説教を続けている。
  「はぁ、そうですかねぇ」僕は精一杯のんびりと構えてみせた。
  「動物はねぇ、悪いことをしたら、痛いめにあうってことを体に覚えさせなきゃいけないんですよ、わかります?」言葉はていねいだが、どうやら僕の態度が気に入らないようで、良江先生はかなり苛立っているように見えた。
 学校の成績はオール一。IQは72。挨拶ができないあたりも含めると、確かに正利は動物並みかもしれなかった。だからあいつを動物のように調教すべきだと、良江先生はいうのだ。
 けど、無理だよ。僕には無理だ。そもそも僕は怒ることが大の苦手なのだ。それにだいたい怒ったところで何も変わりやぁしないじゃないか。人間なんてもともと悪い生き物なんだ。ましてやあいつは親に捨てられたんだろ?
 IQが80以下なんだろ?
 するよするよ。悪いことの一つや二つ、当たり前じゃないか。いちいちきーきー、きーきー大騒ぎするんじゃねえよ。
  「聞いてる?」「はぁ……」
 はぁしか言わぬ僕に業を煮やしたのだろう。ついに彼女はこう言い放った。「ぶん殴っちゃなさいよ」「はぁ?」「憎いでしょ? 頭にくるでしょ? あいつは神山先生のこと裏切ったのよ? 殴っちゃいなさいよ! 私だったらボコボコにしてるわね!」
 体重120キロの保母が腰に手をあてて大きな声で叫び、気がつくと僕は4、5人の保母に取り囲まれていた。好奇心をもろに顔に出したまま、ニヤニヤ立っている彼らを見ていると、僕は急激に脱力感に襲われた。
 いつもそうだ。いつだってそうなんだ。この人達は誰か職員が問題を起こすとなにげなく、どこからともなく集まってくるんだ。タバコを吸いに来るふりをしながら、ジュースを飲みに来るふりをしながら、一人ずつ集まってくる。じりじりと近寄ってきては、いつのまにか当事者を取り囲み、好奇心一杯の顔で話に参加しているんだ。
 いつだってそれらは断じて偶然ではないのだ。事前にすべてが決まっているのだ。誰がぼくを呼び出すか、どういう道筋で話を進め、どういった結論にもっていくのか、誰がいつどこで登場するのかまで、細部にわたって計算されているできレースなのである。
 しょうがないな。こう取り囲まれちゃ、選ぶべき結論はただ一つだ。
 僕は意を決して立ち上がり、大きな声で宣言した。「じゃあちょっと行って、ぶん殴ってきます」良江先生が満足そうにうなずいた。
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 あいつを無事殴ることに成功すると、とたんに誰もが優しくなった。良江先生も機嫌が良くなり僕を仲間として認めてくれた。
 職員会議であいつの盗みの件を報告しても、職員達の反応は実にあっさりしたもので、なかには報告の最中に楽しそうにゲラゲラ笑う者までいた。通常、問題を起こした児童の担当職員には、四方八方から辛辣な意見が浴びせられ、顔を上げることすらできなくなってしまうものなのだが、僕が正利を殴ってきたことが、良江先生から保母達全員に十分伝えられていたようで、まったくとげとげしい雰囲気にはならなかった。
 しかしホッと胸をなでおろしたのもつかのま、この事件をきっかけに、待ってましたとばかりに、僕の指導方法に抜本的なメスが入れられることになったのだった。 (■つづく)

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保健室の片隅で・池内直美/第五回 拒食・過食・共依存

■月刊「記録」1998年5月号掲載記事

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 若い女性にとって、「太る」は恐怖の体験だ。私も二度ほど体重の激減を体験した。最初は一〇代後半のちょうど高校に入学した頃だった。食べたいのに、食べ物がノドを通ってくれない。約二年後に同様の症状が再びやってきた。聞けば私と同じような状態が若い人の間で増え続けているという。正確には「拒食症」や「過食症」といった言葉の範囲には属さないが、それに近い状態にある人が増えているのだ。
 拒食や過食嘔吐のことをご存じの方は多いと思うが、私の拒食はそこまではいかない。時々ものが食べられなくなったり、自分でも気づかない間に食べすぎ、すぐに吐いてしまうというものだ。どうしてそうなってしまうのか? 私の場合はダイエットからだった。

■最初は単なるダイエットだった

 中学生の頃は、一五四センチの身長に対して、体重六四キロという中途半端なデブだった。
 極端なデブも嫌だけれど、この中途半端な体型は悲しいほどに私を悩ませた。またダイエットして体重が減っても、お腹がへこまなかったことが、極端な食事制限に走るきっかけになった。それまでは保健室でも給食を食べていたのだが、ダイエット後は、「胃かいよう」という理由をつけて、お弁当を持っていくようになった。
 母親が作ってくれるお弁当には、胃にやさしい温野菜と少しのご飯、そしてプリンをいつも入れてくれた。でも私が口にするものは、プリンだけ。そんな生活を続けるうちに、それ以外のものがだんだんノドを通らなくなった。
 けれど、私がお弁当を持っていった本当の理由は、あまり食事をとることができないということを、親に気づいてもらいたかったからかもしれない。ただし、これは今になって、振り返って思うことである。当時は、自分でも、ダイエットと拒食症隠しを兼ねておこなっているつもりだった。
 このあたり、拒食症の原因の一つに思い当たる。拒食症になる人は、「親が心配してくれる」ことを望んでいるのだと、何かの本で読んだことがある。それだけ安心できないのだろう。人に心配されて、はじめて自分の存在を確認することができる。逆にいえば、心配されていなければ、自分の存在に自信を持てないということなのだ。
 食べなければ心配してもらえる。心配されれば安心する。安心すれば生きていける。そして、食べられるようになるか?
 いやいや、ところが現実は、そう簡単には進んでくれない。安心できるようになって、いざ食事をしようと思っても、今度は食べられなくなってしまうのだ。
 食べたいのに食べられない。ここではじめて私は焦った。するとそれが大きなプレッシャーに転じ、もっともっと食べられなくなってしまう。食べるタイミングを逃してしまうと、ますますどうにもならなくなる。
 二度目の体重激減はまさにそうだった。歯科医でのアルバイトを終えて帰宅し、夜遅いからと夕飯を抜く。就寝が遅いので、昼すぎまで寝ている。これで朝食も抜いてしまうことになり、二食目をパスだ。そしてお昼ご飯は、お腹が空きすぎているので、食べすぎないようひかえ目にしているうちに、とうとう拒食ぎみになってきた。食べたいときに、食べたいものしかノドを通らなくなってしまったのだ。
 ただし、中学生の頃と違って、家のなかが安心できないというわけではなかったので、食べようと思えばふつうに食べられたのかもしれない。けれど、もしも、もしもそこで食べられなかったら、というのがこわかった。
■どんどん痩せていく怖さ

 高校に入学した頃の最初の「拒食症ぎみ」体験は、中学卒業とともにせっかくやせた体重が、元に戻ってしまったこと、それから、たまたま家で一人で食事をしなければならなかったこととが重なり、さびしさと、それに気づいてもらえないもどかしさで、心の安定を失っていた結果だったと思う。もちろんこれも、今だから思えることで、当時は単なるダイエットをしているつもりでいた。
 母は、ある日、私が食事をとっていないことに気づき、無理に食べさせようとした。しかし、当然のことながら体はそれを拒んでしまい、すでにほとんど飲み込めなくなっていた。心の中では「お母さんに嫌われる!」と思っており、食べなければいけないと必死なのに。
「どうして食べられないのッ」。ジャガイモとニンジンとタマネギをゆでて裏ごしして、固形物が何一つ入っていないスープでさえ口に入れられない私に、ついに母はそうどなった。
 二度目のときも母はあのときと同じようにどなっただろうか。当時、ふと鏡で自分の顔を見てみた。中途半端なデブは変わってはいないのだが、なんだか頬がこけている。 「ヤバイかも……」。とっさに触った胸も、なんだか小さくなったように感じる。
 あわてて飛び乗った体重計は、喜ぶべきか、悲しむべきか、今までで一番少ない記録的な数字を示していた。五キロ以上も減っている……。自分が子宮を悪くしていることに気づき、不妊症であることも知ったばかりの頃で、どんどんやせていくことが急に不安になり出した。 私も、やせてほしいところがやせず、出っぱってほしいところが貧弱な、中途半端な脂肪のつき方をしているのでわかるのだが、女性は体型を必要以上に気にしてしまう傾向がある。周りを見ても、とても太っているようには見えず、バランスのとれた体型をしているのに、モデルのような体になれないと悩む人が多い。
 だからといって、無理なダイエットをすると、女性の場合は排卵がなくなったり、月経が止まってしまうことがあるのを忘れてはならない。ホルモンのバランスが崩れると、テレビやマスコミが騒ぐ以上に生々しく自分の身に襲いかかってくるからだ。
 アルバイト先の歯医者でピルを飲んでいる患者さんの口の中を見たことがある。身体のホルモンバランスを、お腹に子どもがいるときと同じ状態にもっていくという、避妊薬のピルである。ピルを飲んでいるだけで、口の中は白くはれ上がり、たえがたい痛みがあると患者さんは訴えた。本来あるべきの身体の形を無理に変えようとすると、これほどの影響が出るのかと驚いたものだ。

■抑圧された恐れが原因

 私のなかでの拒食症とは、ダイエットから起こる女性の病気だと思っていたのだが、どうやらそれは間違いだったらしい。これまでいただいたたくさんの手紙のなかに、拒食と過食嘔吐を克服した男性がいた。「男の人でも拒食症になるんだあ」と、最初は感心すらしていたのだが、さらに話を聞いているうちに、拒食の原因は、「彼女ができないのは、自分が太っているからだ」と思い込んでいるせいだとわかった。
「恋人同士は、体型でつき合うんじゃなくて、気持ちでつき合うものなのじゃないかなあ?」。彼がその病気に悩んでいる頃に、何度そういっても、「こんなに太っている自分を、好きだなんていってくれる女の子が、どこにいるんですかっ!」の一点張りだった。
 幸か不幸か、私には中学一年生の頃から、自分の側にいてくれる異性がいた。だから、そういう気持ちにはならなかった。けれども、彼氏や彼女に限らず、太っているからといって離れていった人などはなく、またやせたからといってそばに寄ってきた人もいなかったのだが。 その彼が、もう一つ気にしていたことは、「共依存」というものだった。
 共依存。聞き慣れていない言葉だと思う。私もこの言葉を知ったのは最近のことだ。簡単にいうと、一つのことに悩んでいる人と向き合い、一緒に悩み苦しむことで、自分も同じような悩みを抱えた状態に陥ってしまうことだ。
 簡単には理解できないだろうが、私が不登校で悩んでいたとき、両親もどうしたら私が悩まなくなるのかを悩み、共にどうしようもない泥沼に落ち込んでしまっていた。これがもっとひどく、長い時間持続する状態といえば、ある程度おわかりいただけるだろうか。
 そして共依存を気にするあまり、自分が拒食症であることを人にいえずに一人で苦しんでしまうのも、その後の症状を悪化させる原因の一つではないかと、私は考えている。体を動かせなくて溜まるストレスは、運動すれば吹き飛ぶだろう。でも、心のストレスは口から吐き出す以外に出口はないと思う。
 心のストレスをストレスと感じていない人でも、知らないうちに、きちんとどこかで口から吐き出し、ストレスを発散しているはずだからだ。
 拒食症のストレスは、食べられないことや食べすぎることではないような気がする。やせはじめた当初は、もちろん好きなものを食べられないことがストレスになっている。ここまではふつうのダイエットと同じだ。しかし、ここから拒食症になるためには、自分の身体を太っていると過剰に意識するあまり、自分のなかで自分を、肥満という弊害の被害者と思い込む、被害妄想が進んでしまったからなのではないか。
 けれども、拒食症の原因は、さらに深く探れば、自分を太っていると思い込む、その自意識だけでもない。原因はもっと他のところにあるのだ。これは私の周りにいる人を見ていてもわかる。
 ある女の子は、彼氏が自分よりやせていることを気にして、食事ができなくなったという。だが本当は、両親の不仲が彼女の心に追い打ちをかけていた。
 ある男の子、先ほど例にあげた彼だが、太っていることを気にしているのは間違いないが、よくよく話を聞いてみると、父親が亡くなってしまったことで、心の支えを失ってしまっている背景がうかがえる。
 二人とも今はふつうに食事をし、何かあれば私に相談を持ちかけてくれ、充実した毎日を送っている。しかし、ときどきは、食べものを胃が受けつけないような日もあるらしい。何かを恐れ、その恐れを抑圧している、そのストレスこそが、身体と心を破滅へと追い込んでいくのではないだろうか?
 これを書きながら私は、もう一度自分を見つめ直し、自分が幸せになるためにできることを、探そうかなあ……と思っている。 (■つづく)

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ホームレス自らを語る/半身不随の体になって・三浦俊二(五六歳)

■月刊「記録」1998年11月号掲載記事

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■四歳で養護施設に預けられた

 生まれたのは、一九四二年二月だから、太平洋戦争が始まって三ヶ月後ってことになる。生まれたところは、岡山だった。
  おやじは造船工場を経営していた。大阪に本店と工場があって、工場は岡山と沖縄にもあった。従業員も一〇〇〇人くらいはいたらしい。海軍におさめる焼き玉エンジンの船を造っていたそうだが、おれには戦争のことも、造船工場のことも、小さかったから記憶にはないよ。  戦争が終わって、工場は米軍に接収された。おやじは四つあった家屋敷を売り払って、従業員の解雇手当にあてたようだ。今なら、会社が倒産したからって、そんなことする社長なんかいないよね。おかげで、それからは悲惨のドン底さ。三人兄弟の末っ子だったが、上の兄と姉は養子になって、どこかにもらわれていった。おれは大阪の養護施設に預けられた。四つのときだったよ。(※このとき、三浦さんの両眼から大粒の涙がみるみるあふれ出し、おえつに変わって、一分間ほど続いた)
  いや、大丈夫。続けられるよ。
  施設にはすぐに慣れたと思う。まだ四つだったから、わけもわからないしね。待遇も悪くなかった。そのころは、社会福祉の施設が少なかったからじゃないかな。施設の人が「君たちの食費には、一日に一人六一円六八銭もかけている」って、よく自慢していたのを覚えているよ。
  その後、おやじは仕事を転々としたらしい。事業を起こしたり、流し台の販売をしたり。だけど、どれもうまくいかなかったようだな。おやじやおふくろが施設まで会いにくるということもなかった。そんな余裕もなかったろうし、いろいろ事情もあったんだと思う。(またしばらくおえつする)
  その施設から、小学校、中学校に通ったが、「施設の子」だからって、いじめられたりすることもなかった。あのころは、全体に貧しかったし、戦災孤児もいっぱいいたからね。中学校を出て、二年制の職業訓練校にやってもらって、鋳物のことを習った。
  それで訓練校を出て、大阪の鋳物工場に就職したんだ。だけど、熱とススとホコリのひどい工場で、若者にあんな職場は勤まらんよ。すぐに辞めたね。それから東京に出てきた。
 東京に来てからは、いろんなことをやってきたよ。まず、航空自衛隊に入った。勤務先は隣の埼玉県にあるジョンソン基地、今の入間基地だ。そこでは戦闘機の部品の整備や取り扱いをした。四年で除隊になって、三曹までいった。昔の上等兵だよ。
  自衛隊にいたとき、ボイラー取り扱いの資格を取った。資格を取るのが好きでね。その後も、冷凍機、危険物、転圧ローラーなんかの資格を取ったよ。そういう資格を生かしながら働いたんだけど、やっぱりボイラーとか空調関係の仕事が多かったね。
 ただ、四五歳をすぎると、普通の会社に就職するのは難しくなる。相手が信用しなくなるからね。おれの場合は独身だったから、余計にそうだった。それからは建設現場で働いてきた。まあ、日雇いに毛の生えたようなもんだよ。数え切れないくらい転職したけど、そのたびに環境が合わない。めぐり合わせが悪い。おれの人生そのものが、悪いめぐり合わせなんだ。
  ずっと独身だった。結婚しようなんて、思ったこともないよ。女にカネをかけるくらいなら酒を飲んでいたほうがましだった。女にもギャンブルにも興味はなかった。ただ、ただ、酒。毎晩のように飲み屋に行って、焼酎をボトルで飲んでいたからね。給料はほとんど飲んじゃったよ。

■通行人に発見されて運ばれた

 九三年の冬の寒い晩だった。街の食堂で夕飯を食ったんだ。当然、酒も飲んだ。食い終わって外に出ると、ふと目の前が暗くなって、意識が遠のいて倒れた。普段から血圧が高かったのに、酒を飲んで、いきなり寒い戸外に出たのがいけなかったようだ。
 気がついたときは、大学病院の集中治療室に寝かされていた。通行人に発見されて、救急車で運ばれたらしい。病名は脳軟化症(=脳梗塞)。命は助かったけど、右半身はまったくきかない体になっちまった。今でも歩くのは、杖にすがってやっとの状態だよ。
  病院には半年間入院していた。ホントはもっといて、リハビリとかしないといけなかったんだが、カネがないだろう。仕方なかったんだ。
 入院治療費は兄が払ってくれた。実は、子どものころに生き別れになっていた兄と姉の住所が、その後わかって、二人とも東京で暮らしていたんだ。退院してからは、姉のところに引き取られた。兄には家族があって同居できないんで、独身の姉が引き取ってくれたんだ。姉は学習塾をやって、生計を立てていた。
  けれど、姉だって女一人でやっと食べているわけだろう。そんなところへ、半身不随のおれのようなものが転がり込んで……(言葉が途切れて、おえつする)。そんな姉に面倒をかけられないと思って、そこをこっそり出たんだ。出たからって、行くあてなんてないし、新宿に来てホームレスになるしかなかった。

■四畳半のアパートも追い出され

 おれの場合は、こんな体だろう。福祉に行けば何とかしてもらえるかと思って、新宿区役所に相談に行ってみたんだ。そうしたら区が借り上げている四畳半のアパートに入れてくれた。だけど、そのせまい部屋に六人も暮らすんだ。食事はついていたけど、酒はダメ。小遣い銭もくれないから、タバコも買えない。まあ、みんな隠れて、こっそりやってはいたけどね。そこで三年暮らしたよ。
 九八年五月には、この体を引きずって横浜まで行ったんだ。横浜のほうが、福祉の待遇がいいって聞いたからね。だけど、「今、新宿区から保護されている人を、横浜に引き取ることはできない。そういう決まりになってる」って断られた。仕方なく新宿のアパートに戻ってみると、すぐに区の役人が来て 「もう、福祉は打ち切る」っていうんだ。
 それでアパートを追い出された。表向きの理由は、「禁止されている酒を飲んだ」ことになってるが、そんなことはみんなやってるからね。たぶん、横浜の役所から新宿に(照会の)連絡があって、役人がメンツをつぶされたとでも思ったんだろう。腹いせに決まっているよ。  だいたい役人なんて、態度も偉そうにして、もうあんな連中の世話になんかなりたくないね。おれはこんな体だから、堂々と福祉の世話になってもいいと思ってるんだが、「そんな気でいてもらっちゃあ困る」っていわれたし、「おまえらのために使う税金はねえ」って、はっきりいったやつもいた。
 前に福祉のことで都庁に相談に行ったら、「そういう話なら、区役所へ行け」っていわれ、区役所に行って話すと、「それは都の管轄だ」っていう。どうなっているんだ。ホームレスにも、身障者にも、それぞれ事情があるんだから、「ちゃんと話を聞け」っていいたい。
 みんな事務的に書類を処理するだけで、おれたちが明日から飯を食えなくなっても、関係ないと思ってるんだ。ホントに偉そうにしてさ。
 まあ、そういうわけで、またホームレスに逆戻りしたんだ。でも、この体でホームレスをしていくのは、つらいものがあるよ。スーパーとか、コンビニの対応も千差万別でね。親切な店もあれば、店が捨てた弁当をあさっていて、水をぶっかけられたこともある。
  夜は地下鉄のK駅で寝かせてもらってるよ。あそこの駅は親切でね。終電が出た後、ホームレスを中に入れてくれるんだ。それも朝六時までいさせてくれる。構内を汚さないっていう条件はあるけど、助かるよね。毎晩、一〇人くらいの仲間とやっかいになっている。そんなことをしてくれる駅は、ほかにはないだろう。ありがたいよ。
  今日は天気もいいから、久しぶりに友達と飲もうと思ってね。K駅から、ここ(東京都庁前の路上)までやって来たんだ。友達?酔いつぶれて、そこに寝てるやつがそうだよ。こんな体になっても、好きな酒はやめられないよね。カネ?障害者手当っていうのがあって、それで何とかやってる。でも月に二万円しか出ないんだよ。二万円で生きていくのは厳しいね。
  まあ、これも天罰なんだろうね。今まで、いいかげんに生きてきたバチが当たったんだよ。そう考えるより仕方ない。めぐり合わせの悪い人生さ。
  兄や姉に連絡?できないよ。電話で声を聞かせたりしたら、かえって心配させるだけだろう。そんなことできないよ。(またおえつを始めた) (■了)

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ホームレス自らを語る/薬だけ飲んで、飯を食ってない・佐原義行(五三歳)

■月刊「記録」1999年5月号掲載記事

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■酒乱にいたたまれず

 おれが二四歳のとき、おやじが脳いっ血で倒れてね。それきり意識のないまま、翌日には死んじまったんだ。 おやじの仕事は鉄筋工の親方で、若い衆も二〇人くらいは使っていた。おれもその下で働いていて、ゆくゆくはおやじの跡を継ぐことになっていたんだ。
 それが、あまりにも突然に死んじまっただろ。おれはまだ仕事を覚えている最中だったし、得意先のこととか、経営のこととかは何も教えてもらってなかったからね。それでも従兄弟に助けてもらったりして、何とか続けていこうとしたんだがね。
 おれは中学校を出て、すぐにおやじの下で働くようになったんだけれども、一緒に働いている親族のうち、本当は別の道を進んでいくはずだった人がいた。彼は野球が上手でノンプロに引っ張られて、そっちで活躍していたんだ。ところが、仕事中に工場の機械にはさまれて、右手中指を第一関節から落としちゃったんだ。利き手の中指が不自由になっては野球はできないから、会社を辞めて、おやじの下で働くようになったんだ。
 野球ができなくなって、やけになったのか酒におぼれていてね。それもひどい酒乱なんだ。おやじが死んでからは、それがなおひどくなって、誰彼見境なく当たってさ。若い衆もどんどん辞めていって、一〇人くらいに減っちゃったんだよ。
 おれも一年くらいは我慢したんだけどね。とてもいたたまれなくて家を飛び出しちまった。二五か六のときのことだね。
 おやじはいいおやじだったよ。酒も飲まなかったしね。でも、仕事の上では厳しかった。おれにはどこの現場に行くのも自転車しか許してくれなくて、東京・板橋の家から川崎市の現場まで自転車で通ったことだってある。
 おれの場合は、若い衆が来る前に現場に行って、仕事の段取りをつけておかなくちゃならないだろう。だから川崎に行くときなんか朝五時には家を出たよ。冬の朝暗いうちに出て、自転車で通うのはつらかったね。

■競輪で一日二〇〇万円稼いだ

 家を飛び出てからは、ずっと土工をやってきた。まあ、おやじの急死がなかったら、おれの人生もずいぶん変わっていたと思うけど、いまさら考えてもしょうがないよね。
 もっとも日雇いの土工でも、景気のいいときはあったんだよ。おれの場合は鉄筋の仕事もできたから、そんなのを手伝うと割増がもらえたりして、一ヶ月に六〇万円も稼いだことだってあるんだ。
 稼いだカネは、酒とギャンブルに使っちゃったね。競輪が好きでさ。関東一円の競輪場で行かなかったところはないもの。宇都宮や前橋あたりまで行ってたからね。 競輪の面白さは、自分で展開を推理するところさ。ピタリと当たって、一日で二〇〇万円になったこともあるからね。うそじゃないよ。
 その競輪も、もう一年以上もしていないな。仕事がなくて賭けるカネがないからね。五〇歳を超えると、途端に仕事を回してもらえなくなる。それにおれは血圧が高くてね。上が二二〇あるんだ。今はどこの現場も健康診断がやかましくて、「血圧が高い」ってだけでハネられちゃうんだから。
 景気のよかったころは、血圧が少しくらい高くたって外国人労働者だって、誰でも彼でも働けたんだよ。今、大手建設会社の現場に行ってごらん。外国人なんて一人も働いてないから。現金なもんだよね。
 おれだって仕事さえあれば働きたいよ。今は土工の仕事もほとんど機械でやるんだから、昔ほど肉体労働じゃなくなっているからね。仕事の要領はわかっているし、まだ働ける自信はあるんだ。だけど、働かせてもらえないんだからしょうがないよ。

■悪いホームレスが増えた

 ホームレスになったのは、九八年の夏からだね。新宿に近い高田馬場の公園で夜だけ段ボールの小屋を作って寝ている。暮らしていくのには新宿のほうが便利なんだけど、ホームレス同士のケンカが多いし、ちょっと油断すると物が盗まれたりと、物騒だからね。ちょっと離れた高田馬場のほうが静かで安全でいいよ。
 飯は一日に一食ありつけるかどうかって状態だから、正直いってひもじいね。ホームレスを長くやっていると、そのひもじさにも慣れるらしいけれども、おれはまだなってから一年にもならないせいか、腹が減って困る。そんなときはひたすら水を飲んでごまかすしかない。水だけはタダだからね。
 空腹を少しでも和らげるために、夜なると、あちこち歩き回って食い物を探すんだ。でも、なかなかありつけないね。そもそも、どこのコンビニが、いつゴミを出すかなんてことは誰も教えちゃくれない。そんなことをしたら、自分の取り分がなくなっちまうからね。そういう情報をつかまなければ食い物は見つからない。たまたま行ったら、食い物が捨ててあるなんてことはまずないよ。
 そういえば、売れ残りのハンバーガーをゴミとして出してくれる店も少なくなったね。このところホームレスが増えて、質の悪いのも多いんだ。そういうやつらが、ゴミが出されているその場で食い散らかすようなことをするから、店も嫌がって出さなくなったらしい。ホントに悪いのが増えたよ。
 だから今ではボランティアの炊き出しとか、差し入れが頼りだね。けれども、それだって毎日あるわけじゃない。あれだけ好きだった酒だって、正月から一滴も飲んでないんだよ。寂しいもんさ。
 血圧のほうは相変わらずだね。新宿区役所の紹介で週一回通院して、薬をもらって飲んでいる。医者は「この薬で血圧が下がらないのはおかしい」って不思議がるけど、そりゃそうだよ。薬だけ飲んで、飯を食ってないんだもの。よくなるわけないよ。薬の副作用でめまいがするくらいだからさ。
 とにかく景気だよね。景気さえよくなれば、働く意欲はあるんだからね。 (■了)

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鎌田慧の現代を斬る/悪魔の物質が日本を侵す

■月刊「記録」1998年6月号掲載記事(表記は掲載当時のままです)

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■平和利用技術が原爆に

 五月一二日、二四年ぶりにインドが核実験を再開した。米国・ロシア・中国・イギリス・フランス五ヶ国による核爆弾の独占体制は、この事件によって大きく揺らいだことになる。事件後、核保有国である五大国は一斉にインドを批判。一九七〇年に発行された核拡散防止条約(NPT)体制の崩壊が叫ばれている。
 しかし、この事件の背景としてもう一つ重要なのは、核保有国である五大国自身が核爆弾や核兵器の縮小にさほど熱意をしめしていない現実だ。冷戦が終わり緊張緩和の時代となったにも関わらず、九六年一月にはフランスが核実験をおこない、現在でも米国などは爆発を必要としない核実験・臨界前実験を続けている。こういった五大国の静かな核開発と、核保有を狙う諸各国の開発競争が核戦争の危機をさらに高めることはまちがいない。実際、インドの隣国パキスタンでも、核実験実施の動きがある。
 じつはこのパキスタンの核開発には、中国の原発技術が大きく影響しているといわれている。パキスタンの核研究施設で生産している濃縮ウランは、「平和利用」の代名詞を使い中国の原発技術が造りだした代物なのだ。 いうまでもなく原発は原爆の商業利用である。つまり、人殺しの技術を商売に転用するかたちで発展してきたのだ。その原発と原爆の関係は、核保有五大国がいずれも早期から原発を抱えていた国であり、イギリス・フランスにいたっては再処理によって、大量のプルトニウムを生産していることからも確認できよう。原発技術はいつでも原爆製造技術に転化しうるのである。
 そうなると、気になるのが日本の動向だ。
 再処理を終え、フランスからぞくぞくともどってきているプルトニウムは、国内にたまりだした。だから、日本が核爆弾をつくるのではないかという、アジア各国の疑念は晴れることはない。
 本来、再処理工場で発生したプルトニウムは、増殖炉や転換炉で使う方針だった。しかし増殖炉構想がもんじゅの事故によって事実上破綻したため、今後はプルトニウムが大量に余りつづけることになる。対策として福井県の原発地帯を手はじめに、MOX燃料を使う方針が打ちだされた。これはプルサーマル計画といわれるもので、プルトニウムとウランの混合酸化物燃料(MOX燃料)を、いまの原発施設で燃やす方法だ。だがこの急場しのぎの方法には、安全性に関する保障がまったくとれない。
 結局、原発を動かし再処理を続けようとする限り、日本は増え続けるプルトニウムの利用方法に悩まされ続けられることになる。そしてプルトニウムが余りつづければ、将来、憲法改悪とセットになって原爆製造という悪魔の道に迷い込む可能性さえある。インドやパキスタン、イスラエルなど、核開発を目指している国を批判するだけでなく、自分の問題として考える段階に日本もきているということだ。

■核廃棄物問題を知らない原発旗振り役

 だが問題は、プルトニウムの扱いだけにとどまらない。
 原発の使用済み燃料は、高レベル放射性廃棄物として、青森県六ヶ所村へはこばれている。ここでは、二〇〇三年の操業にむけ再処理工場が建設されている。高レベル放射性廃棄物の最終処分地は、いまだに決定されず、六ヶ所村にしても、一時的に受け入れているだけである。
 最終処分地をどこかにつくりあげようと、政府はあせっている。北海道の幌延町には「深地層試験場」なるものを建設し、そこでの実験を突破口に最終処分地に選定しようとしたが、住民の反対が強く、ことしの二月には科学技術庁が白紙撤回を打ちださざるを得なくなった。岐阜県の土岐市にも同様の施設が計画され、最終処分場としての疑惑がもたれている。しかし、これもさほど計画が進展しているわけではない。
 また先述したプルサーマル計画によって、またまた発生する廃棄物をどこに捨てるのかという問題も、今後の大きな課題になる。福井県などは廃棄を了承したようだが、捨てる場所さえ決まっていないのに了承するなど無責任もはなはだしい。
 そんな状況のなか、電気事業連合会(電事連)会長の荒木浩会長が、原子力委員会の懇談会で発言した内容が新聞に報道され、読むものを唖然とさせた(四月二五日『朝日新聞』)。
 荒木会長は原発推進の代表者でもあるが、なんと「電気事業者でありながら、こんなに大変な問題であることをはじめて知った」と、高レベル放射性廃棄物の問題について語ったという。そのうえ「原子力を始めた当初、(高レベル放射性廃棄物は)一生使っても、豆粒一つぐらいと思っていた」と言ってのけたというのだ。こんな程度の認識しかない男が、原子力推進の旗振りをし、日本を核汚染列島にしようとしているのだから、お粗末というだけでは済まされない。この無責任さは糾弾されるべきである。
 彼はさらに「もう少し国民に(原子力についての的確な)情報を発信してほしい」と国に要望したというが、原発反対運動では放射性廃棄物の問題を数十年も前から批判してきた。この発言によって、彼が反対意見にまったくきく耳をもたなかった事実も明らかになった。
 さらに、この日の懇談会では、これまでの方針のように廃棄物は地下数百メートルの地中層に埋めることを合意したほかに、「発生者負担の原則」から電気事業者と民間主体の組織が処分を担うことも合意されたという。これは最終的に電力会社そのものが核廃棄物の責任をもつのではなく、民間下請け企業に処分を任せるといった無責任な方針の決定を意味する。人類にもっとも危険な高レベル放射性廃棄物を、これほどいいかげに扱うとは呆れるほかない。

■原発1つで霞ヶ関ビル3個分

 では低レベルの廃棄物について処理方法がきちんと決まっているのかといえば、これまたいいかげんことのうえない。
 三月三一日に運転が停止され、解体が決まった茨城県東海村の原発は、日本における廃炉時代の先駆けともいえるものだ。だが、この一六万六千キロワットの小型原発でさえ、解体されれば、霞ヶ関ビル三個分の鉄骨コンクリートの廃棄物に変わるという。
 現在稼働している原発の多くは、この一〇倍にあたる、百十万数キロワットの発電量を誇るマンモス原発である。これを廃炉にした場合には、なんと確実に霞ヶ関ビル一〇個分以上の廃棄物となる。つまりこれから廃炉時代が進むにつれて、使用済み核燃料以外にも、膨大な核汚染物質が発生することになるのである。もちろんその始末の仕方も決まっているはずがない。高レベル廃棄物の回収処分地も決まっておらず、廃炉による廃材の処分も決まっていないのにもかかわらず、政府はいまだに原発の建設を増進しようとしている。
 四月二五日の『朝日新聞』の記事によれば、通産省・資源エネルギー庁は、二〇一〇年度までに二一基の原発増設が必要だとほざいている。そうしなければ、温室効果ガス削減の国際公約達成のため、エネルギーの使用削減が強制的におこなわれるようになるため、国内総生産(GDP)が押し下げられ、七三~二二五万人の失業者が発生すると脅迫している。
 この不況時代にさらに失業がでるぞと脅し、原発誘導にむけようとはまさしく火事場泥棒。原発にたいしての反対世論が強まり、打つ手がなくなった通産省・資源エネルギー庁の姑息なやり方がよく表れている。
 だいたい「二〇一〇年までに二一基の原発を建設する」といった数字は尋常ではない。現在、日本では一八ヶ所、五二基の原発が建設されている。これらは国内初の商業炉である東海原発の運転開始から現在まで、三二年間に建設されたものだ。一二年間で二一基という計画がどれほど強引かわかるだろう。
 じつは二酸化炭素の削減を名目にした、原発関係者の原発増設へむけての巻き返しは、日本のだけのことではない。米国でも平均寿命を四〇年としていた原発を、さらに一〇~二〇年稼働させるという恐るべき方針を打ちだしている。
 しかし、考えてみるがいい。地球温暖化という危機的現象を、もっとも危険な原発によってくいとめようという発想が、そもそも主客転倒している。人類がいま問われているのは、エネルギーの消費をどういう形で少なくし、どのような文明を創造していくべきかという選択の方法なのである。まず、今後もエネルギー需要が伸び続けることを前提にしているという、恐ろしく時代遅れな発想は根本から間違っている。エネルギー需要や産業高率だけを視野に入れた主張では、もはや誰も納得しない。

■安全性よりフル操業

 ところが原発関係者は、時代の必然ともいえる意識改革の必要性に気づいていない。その典型例が、原発における定期検査期間の短縮だ。これは稼働率を引き上げるために、定期検査による炉の休止期間を短くするというというものである。この方針により、福井県内の原発は前年度より二・四ヶ月も短縮されてた。つまり安全性よりもフル操業を選んだわけだ。
 たしかに最近、わずかながら原発の事故件数が減っている。だが原子炉を停止するほど大規模な重大事故も、全国で一二件も起こっているのである。もっと細かな事故をふくめると、福井県内の一四基だけをみても二一件にものぼるという。もんじゅは運転中止となり、ふげんは七件もの事故が発生し、敦賀原発一号機が三件、大飯発の二号・四号基でも二件ずつ事故が起こっている。このような状況で、検査日数を減らすのは自殺行為である。

■自衛隊の武器使用まで

 原発が破壊するのは、自然環境だけではない。地域の環境までも大きく変えてしまうのである。
 現在、原発周辺でよく聞かれるのは、原発の所在地付近で厳戒体制がとられていることだ。監視カメラやセンサー、警備員が大量に配置され、その結果、住民情報が原発サイドに徹底的に収集されているという。地域住民の反原発運動の高まりを警戒してのことである。
 一方で、住民の意識をうまく利用しようとする人物も現れている。ことし三月、使用済み核燃料の搬入おこなわれた青森県では、県知事の木村守男が橋本龍太郎首相に面会を要請した。このパフォーマンスは大いに話題になったが、二人が原発にたいしてどのような意見を交換したのかは、明らかにされていない。原発や再処理工場の建設、あるいは高レベルの廃棄物の搬入について、木村知事は反対を表明したことがない。そして首相の考えていることは、原発に関わる問題を既成事実化することだけだ。皮肉なことに、このパフォーマンスで明らかになったのは、強行手段を用いなければ、原発問題について首相が地元の知事と話し合うことさえありえないという現実だけだった。
 さらにもっと悪質な形で原発を利用しようという輩もいる。
 フランスから日本までのプルトニウム運搬は、以前から核ジャックが懸念され、運送護衛手段の強化が世界各国から要請されていた。現在、日本では海上保安庁が防衛にあたっているが、最近、政府内には自衛隊を活用する方針が検討され、武器使用まで確定されようとしている。警備会社や警察力では対応できないといういい方によって、自衛隊の治安出動への道がひらかれようとしているのだ。
 結局、原発は造れば造るほど、処理不能な高レベル廃棄物を発生させ、廃炉も増え、日本を放射漬けにする。そして厳戒国家となる。そればかりか各国からは核兵器製造の疑惑をかけられ、対策としてプルトニウムを燃料化すれば新たな危険を生む。そのうえ地域環境を壊し、国内の軍事態勢の強化までも導きかねない。これがどんづまりにきた、悪魔の物質「核」をとりまく現実なのである。 (■談)

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鎌田慧の現代を斬る/ご都合主義政権なクビ切りにはダンコ抵抗を!

■月刊「記録」1998年5月号掲載記事(表記は記載当時のままです)

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■将来を暗示する三人の社長の自殺

 新年度を迎えたが、日本経済は土壇場になっている。昨年度の倒産件数は一万七千四三九件に、負債総額も一五兆一千二〇三億円にも達し、戦後最悪だった前年度を六五%も上回った。大型倒産の予想記事などが週刊誌などでもしきりに掲載されているように、依然として暗い見通しにあるのに変わりはない。
 ことしの二月二六日、国立市のホテルで三人の社長が心中するという事件が発生した。これから日本各地で頻発するであろう悲劇の幕開けを感じさせる事件だった。 九六年六月期の決算において、三人の社長が経営する会社は六四億三千万円、二七億七千万円、一三億一千万円もの売上高をあげていた。金額を見てもらえばわかる通り、中堅の企業といえる。だが銀行の貸し渋りもあり、三人とも資金繰りに困って自殺していったのだ。一見、非常に特異な事件のように思えるが、よくよく見てみるとここには日本経済の将来が暗示されている。
 この事件の特徴は、自動車関連業種であったことと、三人がたがいに密接な取引関係にあったことである。好況をつづけてきた自動車業界にあって、三人はそれぞれ、車内装飾メーカー、その卸商、そして小売業者という関係にあった。しかも彼らは頻繁に会っている友人だったのだ。
 彼らは密接な取引関係にあったために、連鎖的な経済が一挙に崩壊していく。このもたれ合いは、日本の産業システムの縮図そのものだ。しかも、このような崩壊が、日本経済を長年ささえつづけてきた自動車産業で起こった事実は、経済全体の見通しに暗い影を投げかけている。
 なにも自殺などしなくともよかった。多くの人がそう考えたであろう。だが自分の身体を抵当にして保険金を貰う以外、自社の再建見通しがつかなかった事実は、いまの資本主義の根源的な矛盾をあらわしている。
 現在の不況は、橋本内閣の無責任・無能体制にある。彼らは調子に乗って財政改革などを旗印にした。年金を圧縮し、公共料金を上げ、医療費を上げ、税金を上げ、消費税を上げ、弱いものいじめを繰り返した。まさに人民殺しの経済政策だ。国民がカゼをひいている状態を知りながら、内閣は減税を止めるという形で布団をはいだのだ。結果、日本国民は四〇度以上の高熱にうなされ続けている。そんな状態に、いささか慌てたのか、ようやく今頃になって減税を含めた財政出動八兆円などを政府は発表した。だが、これも容態をずいぶんこじらせてからのハナ薬だ。
 これによって、またぞろ公共事業を増やすことになる。今の経済不安を解決するために、国の資金を使うことには反対しない。だが本当に国民のために使われるのかというと、疑問が残る。これまでの銀行の救済策とおなじような大企業救済策で、悪名高い公共事業の大幅復活で、財界寄りの政策でしかない。疲弊した国民生活を直接的に救済するには、どうすればいいのかといった方針がまったくみえない。不況を利用した財界救護策というしかない。
 橋本内閣のとんでもない経済政策として触れておかねばならないのは、こればかりではない。PKO(株価維持策)などは想像を絶するシロモノだ。この政策は株価を政府資金でつり上げようとするものだが、そもそも投機を目的とするバクチ的な株式市場に政府資金をつぎ込むなど尋常のサタではない。

■まやかしの失業率

 総務庁の発表によれば、失業率は三・六%、完全失業者は前月より八万人多い二四六万人に達した。一九五三年の調査開始以来、最悪の数字である。
 もう少し細かく見てみると、男性の失業率は三・七%。女性は前月より〇・二ポイント悪化の三・四%となっている。まっ先にリストラの対象ともなる五五~六四歳の男性の失業率は六・二%である。さらに世帯単位でとらえた世帯主の失業率は、二・七%にまで上がっている。
 だが、この数字でさえまやかしなのである。かつて指摘したように日本の失業率は、完全に失業しているものと職業安定所を通じて求職しているものを基準に統計を取っている。そのため実質的には五%前後の失業率だと考えられている。パートタイマーも家内労働者もすべて就業者に入れている数字のマジックが存在する。このようなごまかしからも、政府が雇用危機をどう考えているかわかろうというものだ。
 産業別の就業者の統計も厳しい。前年比で製造業は六四万人が、建設業では一四万人が減少している。これだけ就業者が減りだすと、これからのリストラにたいする不安もあって庶民は財布の紐をきつく締める。その影響を受け、百貨店の売り上げも一年以上もの間、下がり続けている。このまま失業者の増大、消費の低迷、コストの下落という悪循環に陥れば、待っているのはデフレ経済である。
 五〇年前のアーサー・ミラーの作品『セールスマンの死』とおなじような状況が、日本のあちこちで起こりつつあるのだ。『セールスマンの死』は三〇年以上おなじ会社に勤めたセールスマンが、成績が悪くなったのを理由に解雇され、住宅ローンを保険金で払うために自殺する、という米国の悲劇だった。だがこの話は、対岸の火事ではない。それどころかもっと深刻な様相を呈しはじめている。
 九七年度の個人破産件数は七万一二九九件となり、前年の五万六四九四件をはるかに上回ったという報告がある。とくに住宅ローンを払いきれず破産する例は、あとを絶たない。
 不動産業者や銀行にそそのかされ、最高値で住宅を売りつけられ、無担保の融資に踊った庶民の傷は深い。家をもつような身分でもなかったのにもかかわらず自宅を構え、残業が減ったためローンが払えなくなっているケースが多い。生活水準に比べて基本給が決して高いとはいえない日本では、持ち家は残業で建てるほかない。ここにも世界一といわれた日本経済が隠しもつ貧弱さがある。
 ローンが払えなければ、家を売るしかない。だがこの不景気では売れるはずもない。結局、購入時の三分の一で競売されるといった悲劇が、無数に発生している。
 身分不相応な行動を起こしていたのは、個人だけにとどまらない。かつて金余りの日本企業は米国に進出し、米国内の不動産を買いまくった。ところが今や、日本の焦げ付いた担保物件が米国資本に買われるという逆流現象が起こっている。
 日本企業の進出は米国ばかりではなかった。アジアにも競って投資した。それが現在、大きな焦げ付きとなっている。結果どうなったかといえば、日本資本の「オーバープレゼンス」が問題になったインドネシア・タイなどの国で経済混乱が起こっているのである。アジア経済混乱を引き起こしたのは、やはり日本だったわけだ。かつての戦争とおなじような罪過を犯したことになる。
 思い返してみれば、バブル期は経営者も労働者も酒に酔っぱらったような状態だった。それをあおったのが銀行であり不動産屋であり、そこから多額の広告収入を得ていた新聞社なのだ。社会の木鐸といわる新聞の正体までがこれである。いま、必要なのは、批判的なジャーナリズムである。

■大量のリストラ予備軍

 不況を利用した極端なリストラも深刻である。
 現在、リストラ対象者は定年間近の就業者だけではない。三〇歳を過ぎればリストラの対象になる。『朝日新聞』三月二八日の朝刊には、最近の主なリストラが掲載されていたので抜き出してみた。このあとに発表されたリストラ計画も加えておいたので、眺めてみてほしい。 レナウンは五〇〇人の希望退職募集。新日軽は四〇〇人の希望退職募集。レナウンルックは二〇〇人の希望退職募集。吉富製薬は早期退職に一三二人が募集。サクラダは希望退職に一〇〇人弱が応募。鐘紡は早期退職制度などでグループ全体で一万八千九〇〇人を二〇〇〇年度に二千四〇〇人削減。全日本空輸は選択定年などで一万四千七〇〇人を二〇〇〇年度までに千人削減。大阪ガスは退職者補充の抑制などで一万二〇〇人を二〇一〇年までに二千二〇〇人削減。東急建設は出向などで四千九〇〇人を二〇〇〇年度までに九〇〇人削減。ジャパンエナジーは三千二五〇人を二〇〇一年までに七五〇人削減。ヤクルトは二千八〇〇人の従業員を二年間で三〇〇人削減。清水建設は九千人を三年間で千人削減。
 大手企業では千人規模のリストラが、当たり前のようにおこなわれようとしている。しかもこの表にはあらわれていない中小企業からこれ以上の大量の労働者が放出されるのだ。これでは庶民が消費を控えるのも当たり前である。
 もちろんリストラと同時に新規採用も減らされている。四月六日に『朝日新聞』朝刊が報じたところによれば、来春の新卒採用に関する主要企業二〇〇社を対象にしたアンケートにおいて、「『増やす』が二九社(一四・五%)、『減らす』が六六社(三三%)、『前年並』が六九社(三四・五%)、『未定』は三六社(一八%)だった。去年六月にまとめた今春の採用計画アンケート(対象百社)では、五三%が『増やす』と答え、『減らす』は一三%だった。対象数がちがうので、正確な比較はできないが、今回は採用抑制の傾向がはっきりとうかがえる」と書いている。企業は社員を欲していない。いつでもクビが切れ、人件費もかからない派遣労働者を望んでいる。ここに大きな問題がある。
 いま財界と労働者を御用学者と企業側ですすめているのが、労働基準法の改悪、労働者の総パート化、総アルバイター化である。能力賃金など、能力のないものは、「死ね」との分断政策である。

■組合意識も雲散霧消

 こういった不景気ほど労働組合にがんばってほしいのだが、相変わらず彼らはだらしがない。
 たとえば鉄鋼労使などは、二年間の賃上げを固定させる「隔年春闘」を打ち出した。来年もおなじ額の賃上げが保障されたとして、この制度を喜ぶむきもあるが、それが恒常化すると賃上げ闘争など消えてしまう。賃上げ闘争はたんに賃金を上げるばかりではない。労働運動の中心に位置する柱なのである。それが解体されてしまえば、もはや労働組合などまったく存在理由がなくなるだろう。
 いまや政府および経営者のやりたい放題が続いているが、それにたいするチェック機能はない。これが日本最大の悲劇である。現在、コミュニティーユニオンや管理職組合などが、個人個人の労働者の権利をかろうじて守っている。本来ならもっと大がかりに労働組合が対処すべきであろう。だが自分の身分の安定しか考えていない連合の幹部などには、そういった意識はまるでない。連合会長が経営者と同窓であり、おなじ様な身分であることが日本の労働運動の退廃を象徴的に物語っている。
 これから必要なのは、各現場でのクビ切りを認めず、失業者をこれ以上増やさないこと。失業者の闘争をつくり出していくこと。さらにはローンの破綻者の運動を形作ること。この三点だろう。
 現在噴出している資本主義の矛盾にたいして、もっと個別な現象から大胆な運動の提起が必要とされている。 (■談)

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ホームレス自らを語る/若気の過ちが一生を決めた・高島伸夫(六二歳)

■月刊「記録」1998年7月号掲載記事

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■ポンを教わったのが運の尽き

 ……オ、おれ……う、うまく……話しが……で、でき……ないんだ。そ……そんなでも……き、聞いて……く、くれる……のかい。(彼は強度の吃音者。以下の文章は、どもりながら、とつとつと語ってくれた話を構成し直したものである)
  生まれは千葉の館山。おやじは漁師をしていた。漁師といっても、自前の船を持っているわけじゃなくて、雇われて漁船に乗る漁師のほうなんだ。
  おれは七人兄弟の六番目。兄弟は多かったけど、特に貧しい暮らしというわけじゃなかった。小学校四年生のときが、終戦。館山には航空隊の基地があっただろう。時々だけど、米軍の空襲があった。空襲警報が出るたびに、海岸べりにあった防空壕まで、走って逃げ込んでいたんだが、もうそれをしなくていいっていうんで、子ども心にホッとしたのを覚えているよ。
  中学を卒業して、おれも漁師になった。おやじがそうだったし、上の兄たちの何人かも漁師になっていたから、そうなるのが当然のように育てられてたしね。おやじが乗っている船に、一緒に乗ったこともあるよ。
  漁は近海漁業が主で、巻き網船に乗ることが多かった。二隻の船で網の両端を引きながら、魚を巻き込むようにしてとる漁で、サバやイワシなんかをとった。
  二隻の船で重い網を引くわけだから、タイミングとか、呼吸が難しいんだ。それに海の上での力仕事でもあるから、危険でもあった。だけど仕事がつらいと思ったことはなかったね。むしろ楽しいくらいだった。カネにもなったしね。そのころ(一九五一年ごろ)は、同じ中卒で工場に働きに出た連中なんかより、何倍も稼げたんだから。
  ただ、一五、六歳のガキが小金を持つと、ろくなことにならないね。漁師っていうのは、ひまなときが多いんだ。漁に出るのが朝早い分、昼ごろには陸に上がっちゃうだろう。海がしけて漁のできない日は、一日中ゴロゴロして、そんなのが何日も続いたりするからね。
  そうすると、悪い誘いがくるんだ。おれも知り合いのヤクザに誘われて、ばくち場に出入りするようになっていた。花札とか、チンチロリンとばく。ありガネを全部巻き上げられても、若いからブレーキがきかなくなって、どんどんのめり込んじまうんだ。
  それにポンも覚えさせられた。ポンっていうのはヒロポンのことで、今でいう覚せい剤だよ。ポンをやると、三日くらいぶっ続けでばくちを打っても平気なんだ。それでばくちは負けが続くし、ポン浸けだろう。借金だけが増えていく。ヤクザからの借金だから、取り立てが厳しくてね。
 どんどん追いつめられていって、泥棒でもするしかなくなっていた。ホントのところは、ヤクザがそれとなく泥棒の方法を教えてくれて、そう仕向けるんだけどね。深夜、魚を養殖しているイケスに忍び込んで、生きたイセエビとか、クルマエビなんかを盗み出すんだ。
  そのころの館山には、カツギヤのおばさんというのがいっぱいいてね。毎朝、始発電車に乗って東京まで行商に行くんだが、そのおばさんたちに買ってもらうんだ。イセエビは高く売れたよ。これもヤクザに教わったんだがね。
 ただ、せまい街だろう。すぐにバレて、警察に捕まっちまった。そのときは、まだ未成年だったし、初犯ということもあって、書類送検だけで許されたけどね。
  若いというか、ガキというか、それでも懲りないんだよね。また同じことをして捕まった。今度は重犯だから少年院に二年間入れられたよ。少年院は非行少年の更生施設とかいってるけど、そんなのはうそ。入所している先輩たちから、上手なカツアゲ(恐喝)の仕方とか、悪い手口ばかりを教わって、かえって悪くなっちまうんだ。あんなところに入って、よくなることは絶対にないね。

■地方を転々と日雇い回り

 少年院を出所すると、おれもいっぱしの悪ぶって、ヤクザとつき合ったり、またばくち場に出入りしたり、もう漁師で働く気なんてないからね。やっぱり、またカネがなくなってきて、泥棒に入った。前と同じでイケス泥棒さ。またすぐに捕まった。さすがに、親もあきれたらしくて、それで勘当されたよ。
 このときは、二〇歳になってたから刑務所に送られた。刑務所ってところも、ひどいところさ。懲罰の革手錠って知ってるかい? 片手を肩から、もう片方は腰から背中に回して、両手首を革手錠でしばるんだ。それをやられたときのつらさとくやしさといったらなかったね。 刑務官もひどかった。あれは人間じゃあないよ。刑務所のことは思い出したくもないし、これ以上いいたくもない。少年院と同じで、刑務所に入って、よくなる人間なんていないよ。
 刑務所を出たのが、二二歳のときだった。それからは、旅回りの仕事さ。日雇いの土工になって、飯場から飯場をわたり歩く生活。それを、ずっとやってきた。初めは、親から勘当されてたし、なるべく遠くと思って鹿児島に行った。その後、金沢だろ、高知、静岡、伊豆、千葉、いろんなところで働きながら、だんだんに東京に近づくようにして戻ってきたんだ。
 ちょうど、経済が成長する時代だったから、仕事はいくらでもあった。一つの現場が終わると、次の仕事が待っているような具合だった。でも、カネはたまらなかった。土工の日当は安いよ。八〇〇円くらいかな。今でも、一万二五〇〇円くらいだろ。そこから、部屋代と飯代を引かれたら、いくらも残らないもの。
 日当が安い割には、危険な仕事でね。神楽坂のビルの現場で、仲間のトビが足場から墜落して死んだのを見たよ。昔はほとんどの仕事を、人間の力仕事でやってただろう。危険も多かった。それが、今ではたいがいのことは機械がやるから、安全になった。一番変わったのが、この安全になったことだね。日当の安いのだけが、変わらないんだ。
 稼いだカネは、みんな酒で飲んじまった。仕事を終えると、毎晩飲み屋に通って一升五合からの酒を飲むんだから、カネなんてたまらないよ。結婚は考えたこともなかった。経済的にも、嫁さんを養っていく自信なんてなかったしね。刑務所を出てからは、ばくちとギャンブルだけは縁を切ったよ。これには、手を出さなくなったね。

■役所の世話になるのはごめんだ

 ホームレスになったのは、九〇年からだ。腰と背中が痛くて、土工の仕事ができなくなったんだ。若いころの力仕事の無理がたたったんだと思う。四〇代のころから痛み始めて、五〇を越えるともう痛くて、力仕事をできる体じゃなくなっていたね。
 福祉事務所?行かないよ。役所の世話になんか、なりたくないんだ。そのくらいなら、ホームレスをしていたほうがましだよ。ホームレスって生き方があることを知ってたから、何とかなると思った。だから、段ボールハウスに寝るのに抵抗はなかった。どうということもなかったね。
 最初は、都庁の玄関前で寝ていたんだけど、追い立てられて、新宿駅西口の地下通路に移った。そこも九六年の強制排除で追い立てられた。それで京王新線の地下通路に移ったら、そこもダメだっていう。次に東京都インフォメーションセンター前の広場に移った。そうしたら、九八年には火事だ。おれも手に軽いやけどを負った。 地下広場にも住めなくなって、今は昼間は公園のベンチで過ごして、夜はどこか適当なところで寝ている。決まった場所というのはないな。「なぎさ寮」にも行かないよ。役所の世話にはなりたくないし、これだけの荷物があるだろう。寮に入るには荷物を処分しなきゃならないんだ。これは、おれの全財産だからね。捨てられないよ。
 昼間、毎日街を四時間くらい歩いているんだ。自動販売機につり銭の取り忘れが残っていないか調べながら、代々木とか、中野のほうまで行ってるよ。多い日には八〇〇円くらいになることもある。ダメなときは、一〇円だけって日もあった。貴重な現金収入だね。
 エサ(食料)は、夜、そば屋とか、すし屋の残飯から、食えそうなものを拾ってきて食べるんだよ。ハンバーガーのときもある。
 若気のいたりというか、過ちというか、こういう生活になったのも、若いころのムチャが原因だったと思うね。どもり?いや、どもりがホームレスの原因にはなってないよ。それより酒だよ。立ち直るきっかけはあったんだが、どうしても酒におぼれちゃう。気持ちが弱かったんだね。自分がもっとしっかりしていれば、こうはなってなかったとも思うよ。
 これから先のこと?このまんまだろうね。役所の世話にはなりたくないから、このまんま変わらないよ。 (■了)

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ホームレス自らを語る/おれは巡回探職労働者・高橋茂(五〇歳)

■月刊「記録」1998年8月号掲載記事

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■結婚費用稼ぎにマグロ船に

 一八歳のときに、ある娘と家が近所同士で、子どものころから行き来があって、何となく結婚する雰囲気だった。親同士が相談したとか、田舎(青森県八戸市)の風習とか、そういうんじゃなくて、自然の成りゆきでそうなってたんだね。まあ、丈夫だけが取りえのような子だったよ。
  だから、その子とは結婚しなくちゃならないと思ってさ。結婚式の費用を稼ぐために、東京に出てきたんだ。二〇歳のときだよ。それで船員手帳を作って漁船員になって、三崎(神奈川県)のトロール船に乗り込んだ。それまでにも漁船に乗ったことはあったし、戸惑うこともなかった。仕事にもすぐに慣れた。
  おれが乗った船は近海漁が主で、マグロや、サケ、マスなんかをとっていた。漁場には四、五隻の船団で行って、競争でとり合うんだ。 「向こうは何万トンとったらしい」「こっちは何ケースとった」って具合。まあ、船主がもうけるために、そうやって競い合わせているんだけど。
  それだから、漁場では魚のいる限りとり続けるんだ。それこそ、根こそぎって感じで、これじゃあ魚がいなくなっちゃうって心配なくらいとりまくったよ。二四時間フル操業なんて当たり前。網を引いているときに仮眠して、網を巻き上げたら戦場のような忙しさだった。おれの仕事は冷凍係。とった魚を箱に氷づめにして、船倉に積み上げる仕事だよ。
 一回の航海で海の上にいるのは、だいたい三ヶ月。ただ、ずっと海の上にいるわけじゃない。船倉が一杯になると、魚の値動きを見ながら、船主と相談して、その近くで一番高い値をつけている魚市場に水揚げするんだ。終われば、また沖に戻って漁をする。その繰り返し。
  漁船員にとっては、この水揚げのときが一番の楽しみだったね。一晩、陸に上がって、みんなで飲み屋に繰り出し、思い切り酒を飲んで、女を買う。漁船員の給料は歩合制で、それに慰労金もついていたから、普通のサラリーマンなんか問題にならないくらいよかったよ。だから遊び方も豪快で派手だった。
  ただ、水揚げのために魚市場に向かっても、船がいっぱいだと岸に着けられないこともある。そんなときは、朝まで沖待ちになる。そうすると、船から海に飛び込んで、陸まで泳いで遊びに行くようなやつもいた。おれはそこまでして遊んだことはないけど、男が女とやりたいときのエネルギーだよね。「すごいなあ」と思ったよ。  それが二二歳のときにけがをしちゃってね。酔っ払って転んだ拍子に、左膝の皿を割っちゃったんだ。治療のために漁を一回休んだ。その次の航海にも誘われたけど、それも断った。揺れる船の中で、足を引きずりながら働いても、仲間に迷惑をかけるだけだろう。ハンデを負いながら働くのは、嫌だったんだ。
  漁船っていうのはチームで働いていて、一人一人の役割が、キッチリ決まっている。だから、一回ならともかく、二回も続けて休むと、代わりのメンバーが入っちゃう。チームから外されてたよ。今にして思えば、けがの治療中に遊びぐせがついちゃったのかもしれないよな。
■日雇いがうらやましくてね

 それからは、久里浜にあった水産物の冷凍倉庫の社員になって働くようになった。ああいうところは、社員のおれたちは監督をするだけで、実際の作業は日雇いの人がやるんだ。
  日雇いには毎日、日払いの賃金が支払われる。わたすのがおれの役目さ。連中を見ていると、もらったその場所で、日雇いの親方に、「競馬だ」「競輪だ」って賭け金をわたしている。親方がノミ屋をやってるんだよ。日銭が毎日もらえて、楽しそうで、うらやましかったよ。そうかと思うと、気が向かないと休んじゃう人もいるだろう。「気ままでいいな」とも思ったね。
  それでおれも社員を辞めて、その倉庫で日雇いで働くようになった。なってわかったんだけど、そのノミ屋の親方に毎日賭けていないと仕事を回してもらえないんだ。そういう仕組みだった。まあ、おれもギャンブルはきらいじゃないし、それでもよかったんだけどね。
  それより頭にきたのは、それまで同僚だった倉庫の社員たちさ。おれが日雇いになった途端に、掌を返したようにするんだからね。仕事がひまなときにタバコを吸っているだけで、どなられたりするんだから。それもおれの後輩の社員だったりしてさ。そんなところには、いつまでもいられないよね。
  倉庫の日雇いを辞めて、横浜に移った。寿町っていうドヤ(簡易宿泊所)街に住んで、港湾荷役の日雇いになったんだ。そのころは、仕事はいくらでもあった。だから、賃金を聞いて、安いと行かなかった。「三部通し」「四部通し」っていって、二四時間、三二時間を、ぶっ通しで働くようなこともさせられた。その分、賃金が倍づけ、三倍づけだったからね。
「タンククリーニング」なんて仕事もあった。原油タンカーのタンクの底に残ったスラッジ(汚泥)を片付ける仕事だよ。真っ暗な底を、はいずり回って、ペール缶にスコップでかき入れる。クソ暑い上に、油まみれになる仕事さ。
 作業は、タンクのガス抜きをして、残留ガスの検査をしてから始める。だけど、この「ガス検」がいいかげんというか、あんな大きなタンクだから全部は測りきれないんだ。どうかすると、ガスがよどんでたまっているところがある。運が悪いと、それを吸い込んでぶっ倒れる。暗いなかでの仕事だから、ペール缶をつり上げるウインチに巻き込まれて、片手吊りで持っていかれるやつとかもいた。「汚くて、危険で、きつい」3Kの代表みたいな職場だった。まあ、それだけに賃金はよかったんだけどね。
 こう話すと、まじめに一生懸命働いたように思うかもしれないけど、ホントは違うんだよ。働いてカネがたまると、それがなくなるまで遊んで暮らすんだ。それから白手帳(日雇い労働者の保険制度)を二冊も、三冊もつくって。そのころは、ドヤの判が居住証明になって、簡単に手帳がつくれたんだ。それであぶれ手当の二重取り、三重取り。そんな悪いこともしたよ。カネは、酒とギャンブルと女に消えちゃったね。

■おれはホームレスじゃない

 故郷に残してきた娘が、「ほかの男と結婚したらしい」ってうわさを耳にしたのは、二三歳のころだったかな。東京に出てきたばかりのころは、頻繁に電話で話もしたさ。けれども、だんだん連絡を取らなくなった。結婚のうわさを聞いたときには、「そうか、それもしょうがないな」と思ったよ。だって、日雇いでフラフラしているおれを、いつまでも待ってなんかくれないよね。それも仕方ないさ。
 それからは、ずっと日雇いでやってきたんだが、九〇年代前半ころから仕事がパタっとなくなった。一泊二五〇〇円のドヤ代さえ払えないんだからひどいね。不況だとか、コンテナ貿易が主流になったからだとか、外国人労働者が入ってきたからだとか、いろいろいわれるけど、おれにはよくわからないね。船が入らなくなって、仕事がなくなったことだけが事実なんだよ。
  新宿に移ってきたのは九五年のことだ。でも、新宿にきても、仕事がないのは同じだったね。あっても、港湾荷役のときより、全然日当が安いしさ。段ボールの上に寝るしかなかったわけよ。だけど、おれは今でも自分のことを、ホームレスだとは思っていないんだ。仕事さえあれば、働く意欲はあるからね。だから、自分のことを 「巡回探職労働者」って呼んでるよ。カッコいいだろう?
■クズでもクズなりに

九八年二月の火事のときも新宿にいたよ。南口に通じる地下通路を歩いていると、すごい煙のにおいをかいだ。急いで西口地下広場に行ってみると、煙がモウモウで、とても近づけなかった。助けようにも、助けられなかったね。噴水の水をくんで、バケツリレーをしたけど、消せるような状態じゃなかった。
  死んだ人には悪いんだけどさ。火事が出たのは、朝の五時すぎだろ?あの時間というは、ボランティアがおにぎりを配給した時間の、ちょっと後なんだよ。そんなころまで、腹も減らさないで、ぬくぬくと段ボールハウスに寝ていられるなんて、ホームレスでも恵まれたほうだったと思うよ。普通だったら、腹が減って四時すぎには目が覚めちゃうんだからさ。
  故郷に帰りたいとは思わないよ。八戸といえば、子どものころから災害の多い街だった。まず小学生のときに白銀大火(白銀は八戸の地区名)があった。放火だったらしいけど、家がボンボン燃えてね。米軍基地に燃え移って、ドラム缶が噴き上がるのが見えたよ。
  中学生のときが、チリ沖地震の津波。東京へ出てきた年には、十勝沖地震があった。このとき、おれはパチンコをしていたんだ。台がはじけ飛んで、パチンコ玉が飛び出してきたよ。表に飛び出すと、看板は降ってくる、薬局が火事で燃え上がるで、大混乱だった。そんな混乱のなかで、酒屋に人だかりがしているんだ。のぞいてみると、割れた酒びんの底に残っている酒を、みんなで争うようにして飲んでいた。群集心理ってやつだろうね。つい何年か前にも大きな地震があった。
  子どものころ、米軍基地でクリスマスの集まりがあって行ったことがあるよ。大きくて広いスケート場があった。生まれて初めて、ヘリコプターに乗せてもらった。ハンバーガーを食べたのも、そのときが初めてだった。本物のビーフがはさんであって、でかくて、「こんなにうまいものがあるのか」と思ったよ。今のおれの主食も、売れ残りのハンバーガーなんだよ。よほどハンバーガーがついて回る人生かと思っちゃうよね。
 こんな生活になったのも、覇気がない。逃げる人生。やる気がない。だらしない。ヤケクソの人生。自殺する勇気もない。ゴミだ。クズだ。大衆のじゃまだ・・・・。自分が弱くて、いじけていて、しっかりできないからなんだよ。
  でも、このままでは終わりたくないよ。「クズでも、クズなりに」って思うよね。 (■了)

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だいじょうぶよ・神山眞/第2回  ものすごいものの担当

■月刊「記録」1999年9月号掲載記事

*       *         *

 N学園のそれぞれの部屋には、聖書になにかしら関連した名称がつけられている。シロアム、カナン、ダビデ、シナイ……。築八〇年は経っていると思われる廊下は、ぼくが歩くたびにミシミシ鳴った。通りすがりに各部屋をのぞくと、昼食を終えたばかりの子ども達がどの部屋でものんびりくつろいでいる。
 テレビを見る子、マンガを読む子、ゲームをする子。彼らの姿は、一般家庭のそれとなんら変わらない。ただ、どの部屋からもトイレの臭い、汗の臭い、何のものだかわからない奇妙な臭いなど、独特の臭いが漂ってくる。

■新しいぼくの担当児童

  「シオン」に入ると、すでに四名の子どもがそれぞれ思い思いの格好で待機していた。周囲には、何故か興味津々といった面もちの保母が二名いる。
  「え~っ、紹介しますね? 左から児玉、小島、岡田。この三名は高校生です」
 主任のしゃべり方のトーンが先程とはうって変わって、わざとらしいユーモラスなものに変化した。案の定、高校生三人も「またかよ」といった顔つきで、主任を見上げて含み笑いをしている。冷めているのか、疲れているのか、高校生三人は、それ以外に反応らしい反応もせずに、挨拶を済ますとさっさと部屋を出ていった。
 主任は、残りの一名を指さした。
  「神山センセ、彼が実里と。ほ~ら、頭がよさそうでしょ?  実里は中学生です」
 けれど実里は挨拶をしなかった。いや、挨拶しないどころじゃなかった。口とズボンのチャックを半開きにしたままボーッとぼくの顔を見ている。心なしか異臭も放っているように思える。
 なんだ? 挨拶したくないのか? 挨拶を知らないのか? 知的障害者か? ダウン症児か? 精薄か? ぼくの頭の中をたくさんのクエスチョンマークがよぎった。ふと隣を見ると主任が大げさに困った顔をつくり、その表情をわかりやすく周りにアピールしていた。二名の保母は、実里に「挨拶しろ」という合図を盛んに送っている。だが、この少年にとっては周囲の人間も彼らの気持ちも関係がなさそうだった。間が抜けたように時間だけが流れる。そして、この瞬間こそが、ぼくと正利のファーストコンタクトだったのだ。
  「ほら、正利。挨拶しなさい。新しいパパよ」
 いつまでたっても挨拶しようとしない正利に業を煮やしたのか、主任は隣にいた一二〇キロはありそうな巨大な保母に助けを求めた。保母が冗談交じりに正利に挨拶を促すと、彼は全身をくねくねさせたあとにベコッと頭を下げた。頭を下げる瞬間、厚ぼったい半開きの唇がゆっくりと動き、同時にものすごい速さで右手が右斜め上空に伸びあがった。髪型といい、だぶだぶの服といい、全身の動作といい、体が左右対称ではないのではと思わせるほど、正利の動きはアンバランスなものなのだ。そして、そのアンバランスさをユーモアにつなぎ止めているのが、笑うとカモメみたいな形になる「つながり眉毛」だ。
  「とにかく、ものすごいものの担当になってしまった」
 これがぼくの正利に対する第一印象だった。
  挨拶を終えると、ぼくは主任に執務室という部屋に連れて行かれた。机とテレビ、それに大きなベッドが置かれている六畳ほどの部屋だ。本来は、職員が日誌をつけたり子ども面談をするための場所らしいが、なぜか三人の子どもがベッドの上に寝そべってテレビを観ていた。  「ほら、どきなさい。テレビは居間で見なさい」主任に注意されて、彼らはしぶしぶ立ち上がった。彼らはぼくをみつけるとニッコリ微笑みかけ、よろしくとか あとで部屋に遊びにおいでとか声をかけていく。なんだか先輩みたいだった。ここにもぼくが望んでいた暗く絶望的な子どもはいなかった。そういえばさっきから、まだ不幸な子どもに一人も出会っていなかった。ものすごいのには一人、出会ったけれど……。
  「どの子どもも親の事情でここに来ています。どんな事情だか、神山先生わかりますか?」主任からの簡単なレクチャーが始まった。
  「両親が死んでしまったんですね?」とぼく。
  「違います。昔はそういうパターンが非常に多かったんですけどね。それは、ず~っと昔の話です。ほら、震災孤児とかって聞いたことあるでしょ?」
  「はぁ」
  「今はほとんどの子どもには親がちゃんといるんです。いるのだけれども離婚、失踪、虐待、犯罪などの複雑な事情で親は子どもを手放してしまうんです」
   「はぁ」
 いままで見せられてきた、アットホームで学校の休み時間のようにも見える光景と、主任の話とがなかなか一致してこなかった。ここの子ども達は、学校にまともに行っていなかったので他の児童よりも学力が劣るらしいのだ。だから勉強をみてやってください。虐待に遭っていた子どもは発育が遅いことが多いので一緒に運動をしてください。そんな主任の話が実感のないまま耳に届く。
 レクチャーが終わって、ぼくはやっと解放された。少し気疲れしたぼくは、外の空気を吸いたいと思った。中庭へのドアに近づいたところで、舌足らずなのか舌が長すぎるのかわからないが、とにかく何を言っているのかさっぱり聞き取れない少年の声が聞こえてきた。
 ドアを明けると正利が叫んでいた。低学年の小学生ばかりを周りに集め、バスケットボールを手に何かを訴えているようだった。しかし、他のメンバーには全く理解されていないようで、しばらくすると、業を煮やしてついに正利は叫んだ。
  「よぉーし、おれについてこぉい!」
 その言葉を合図に、唐突にバスケットボールは開始された。小学校一、二年生を相手に、身長一七〇センチを越える中学二年生の正利が、次々とゴールにダンクシュートを決めている。
  「正利くーん、ダンクなしにしてよー」と、哀願する小学生達の声には耳を貸そうともしない。ただ、嬉々として自分のためだけにバスケットをしているのだ。その姿はまるで遅れ咲きのガキ大将がはしゃいでいるようにも見えた。そこには、不幸の形が不気味なユーモアにねじ曲げられて描かれた、ピカソ画のような子どもがいたのだ。
 とにもかくにも、僕の擁護施設における生活が、この日からスタートした。

■ついに事件が起こった…

 思春期の子どもが八〇人。しかも共同生活だ。寝坊、ケンカ、盗み、タバコ……なにかしらの問題が当然のように毎日起こっていく。しかし不思議とそれらのどれにも僕はびっくりしなかった。子ども達に対して情がわいてないせいもあったし、問題を起こしている子どもが僕の担当外だったせいもあった。
 そのことよりもついていけなかったのは、子ども達が問題を起こした時の保母の怒り方だった。あっちで「き~っ」、こっちで「き~っ」。あっちこっちで過剰反応を起こしている。まるで他人より大げさに怒ることが、本気で自分が子どもと向かい合ってる証明でもあるかのように。このヒステリックな勘違いには、いささかうんざりした。
 それでも「他人の不幸は密の味」とはよくいったもので、直接自分の身に降りかからない問題や事件に関しては、まだ、それらの光景も楽しめていたのである。しかし平和なんてものはいつの時代も長くは続かない。特にぼくの場合には……
 とうとうあいつが問題を起こしたのだ。ぼくはこの道二十年のベテラン保母である和枝先生に呼び出しをくらってしまった。
 「神山先生、正利はねぇ、動物と一緒なの。わかる?」と、和枝先生は、ぼくをにらみつけて言うのである。 (■つづく)

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保健室の片隅で・池内直美/第四回 “切れる”ナイフをポーチに忍ばせて

■月刊「記録」1998年4月号掲載記事

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■セロテープとホチキス

 九八年一月、栃木県黒磯市の中学校で一年生の男子生徒が英語担当の教師を刺殺するという事件があった。この事件に「サバイバルナイフ」が使われたことから、ナイフを持ち歩く子どもに焦点が当てられた。なぜナイフを。そういえば私もナイフを持ち歩いていた時期があったっけ……。
 中学一年生くらいの頃から読み始めたマンガのなかに、不良少女のイジメや売春、地域抗争、親や学校との関わり合いを描いたものがあった。イジメが原因で自殺未遂した主人公は、退院してから街のなかを毎日一人で歩き回り、いろいろな人と出会い、「はじめての経験」を積み重ねていく。
 そこで出会う人たちは不良と呼ばれるような人ばかりだったが、それぞれが一匹狼のように一人で強く生きている。その姿が印象的で、カッコよく、心の強さがうらやましく、自分でも不思議なくらいあこがれたことを覚えている。
 その主人公が出会った人々のなかに異母姉妹がいた。姉はいつもポーチを持ち歩いていて、ポーチの中には口紅と、ハッキリとは覚えていないが、セロテープとホチキスを入れていたと思う。よく覚えているのは、妹がケンカするときに、ホチキスを使っていたということだ。セロテープもホチキスも、小学生のときの私の「お道具箱」に入っていたものである。それをケンカに使うというのは、なんとも不思議だった。
 以前に「スケバン刑事」というテレビドラマがあり、その主人公はヨーヨーを武器にしていた。それを見てみんなが必死にヨーヨーを練習したように、私はセロテープやホチキスで自分の身を守ろうと練習した。何度も何度も自分で納得のいくまで、マンガと同じ方法で、マンガと同じようにできるまで練習した。
 それからポーチを買い、中に口紅とライター、そしてマンガをまねたセロテープとホチキス、小さな刃のにぶいナイフを入れて持ち歩いた。
 ポーチには自分流の飾りをつけた。みんながこれを見てこわがり、遠ざかってくれることを心のどこかで期待して・・・・。今、考えてみると、なんともいえない情けない話だが、当時はそれがカッコいいと思っていたのだ。
 しかし、しょせんはマンガにすぎなかった。セロテープとホチキスでは、いざというとき役に立たないことを、私はある「事件」で思い知らされた。
 男子生徒によって、私の髪の毛がナイフで切られてしまったのである。そのとき使われたナイフは、先に引いた黒磯市の事件で話題となったバタフライナイフだった。
 うまく回すことができるようになったのが自慢だったのか、彼は私の前でナイフをクルクルと回し、制服に切れ目を入れるフリをする。「切れないから」と彼は何度もそういったが、私はこわくてしょうがない。
 そして髪の毛にまで、何度もナイフを当ててくる。何度目かにジャリ、と切れる感覚が伝わって、一束の髪の毛が教室の床に舞い落ちた。私は驚いた。髪の毛とはいえ、体の一部を他人に切られた経験などはじめてだ。自分でも意外なほどショックを感じたことにも驚いた。切られたことよりも、ナイフを向けられて、ただドキドキしておびえていることしかできなかった自分にショックを受けたようにも思う。
 その後、そのナイフで誰かの制服が切り裂かれたといううわさも耳にした。
 切りにくいナイフは存在しても、絶対に切れないナイフは存在しない。だったら私は「切れやすいナイフ」を持ち歩こう。自分の身に何かが起きたとき、自分を守るのは自分しかいないのだから。
 切れるナイフを持ち歩き、それで誰かを傷つけたとしても、それは正当防衛だ。そう信じた私は、もっていた刃のにぶいナイフに、研石で鋭い刃を入れた。刃をといだことのない人間がつけた刃が、本当に鋭い光を放っていたかどうかはわからないが、このナイフならば、髪の毛などより深く相手を傷つけられるだろうと思った。
 こうして本当の凶器となった私のナイフは、その後もポーチに潜んでいた。誰にも見つけられなかったし、私がナイフを持ち歩いていることを誰も想像しなかっただろうが。

■あの頃、誰もが敵に見えた

 私が毎日保健室にいることは、学校中のほとんどの人が知っていたことだ。その保健室にいる私のところに、ある日、招かざる客がやってきた。髪の毛を切った彼と友人達である。その日は、たまたま保健室に私しかおらず、ヤバイと思ってもどうすることもできなかった。連中にされるがままに腕を取られ、カーテンで仕切られたベットまで連れていかれた。
 次の瞬間、何をされるのか考えるひまもなく、私は首を絞められていた。声にならない声で「やめて」と叫ぶ。けれど彼らはやめてくれない。逆に、もがく私を楽しんで、さらに強く首を絞めてくる。
 苦しくてバタバタもがいていると、誰かが「ヤバイじゃん」とつぶやき、急にノドに酸素が通るようになった。せきが止まらなくなり、苦しさも消えず、そのままトイレに駆け込み、胃の中のものを全部吐き出した。
 保健室に戻ったときにはもう誰もいなかった。他の人たちは何も知らずに、何事もなかったかのように、今頃、授業を受けているのだと思うと、悔しくて涙が出た。叫ぶことさえできない自分がくやしかった。私がここで、こんなことをされているということを知らない教師たちが許せなくて泣いた。
 私の身の上に「危険」という文字が浮かんだのは、これが二回目だった。「もし今度、何かあったときには、絶対このナイフで相手の顔を切りつけてやる!」と心に誓った。次は嫌でも正当防衛になるだろうから、たとえ間違えて殺してしまったとしても、殺人の罪には問われないだろうとさえ考えたほどだ。
 そのときから、私の周りは「敵」ばかりになった。
 自衛のためにナイフを持ち歩くことを考えたのは、自分の周りに味方が一人も見えなくなってしまった結果だった。周りに敵しかいないということは、自分の身に何か起きたときに、みんなが寄ってたかって便乗して、迫って来るような気がしたのだ。誰も助けてくれる人などいない気がした。今までのことを考えてみれば、それはまさに事実だったのだから。
 毎日、戦々恐々としていた私には、ことの善し悪しがわからなくなっていた。おびえたネズミは、猫にだってかみつく。あのときなら一つ間違えれば、私も犯罪者の一人になっていたかもしれない。誰でもいつでも犯罪者になる確率はあるけれど、あのときを振り返ると、本当に明日はわが身だったと感じる。

■戦々恐々とする弱い子ども達

 そして今、子どもたちは、あのときの私と同じ立場に立っている。ナイフを持ち歩くということは、確かに良いことではないけれど、彼らのなかにはカッコつけが目的ではなく、自衛用としてナイフを持ち歩いている者がいないとも限らない。
 自衛用にナイフを持っている子どもに、本当の友達がいるかどうかを尋ねてみればいい。カッコよさでナイフを持ち歩いている者がクラスにいることを誰もが容認し、何かが起こっても、きっと誰も止めようとはしないことが容易に想像できる世界に暮らしている子どものことを。
 教師さえも見て見ぬふりをする。そんな姿は、私が自分で誰よりも多く見てきた。教師は全く頼れないのだ。もちろん親だってそうだ。
 自分の子どもが傷害事件を起こしても、「子ども同士のケンカですから」と突っぱね、自分の子どもには何の責任もないと言い張る。教師が彼らを体で止めようと争えば、すぐに傷害事件として学校を訴える。
 子どもに理解を示すことと無干渉になるのとは違う。親は子どもに、ものごとへの責任の取り方を教えなければならない。親としての責任を果たさなければならない。そんなことさえできない親が増えている。だから見て見ぬふりをする教師も増えていく。
「自分で自分を守るしかないのだ」。そう、弱い子どもほど思ってしまう。そして戦々恐々として一触即発の毎日を暮らしていかなければならない……。

■我慢できない子どもが増えている

 人がいろんなものに興味をもつのは、生まれたときからもっている性というものなのだろうか。通信制高校に通い始めた頃の私にも強く興味をひかれるものがあった。それは手錠だ。手錠をかけられた瞬間の気持ちを感じてみたかったのだ。たぶん決して知ってはいけない気持ちだし、そのために犯罪を犯すほどではないが、「重い」のか「冷たい」のか、すごく興味を感じてしまったものだ。
 突然、警察署に行って「手錠をかけてください」と言ったら、きっと変な子だと思われるだろう。もっとも、手錠をかけられた気持ちを知りたいという時点で、もう十分、変なのだろうが。でも謎とは、いつまでも謎だからおもしろいのであって、そんなふうに無理なことをすれば、きっと迷惑をかけられる人が出るだろう。拳銃に触れてみたかったので、警官を襲ったという子どもがいたが、触れたいのなら、海外のそういう店に行けばいい。
 何かをしたいと思ったときに、即座に実行しないと気がすまない子どもが増えているという。まあ、今からあげるような、愛きょうのある行動なら、実行してみてもかまわないと思うが。
 車の免許を取ってから、まだ初心者運転期間中だというのに、三回も検問を通った。はじめてのときは緊張し、二回目のときはふつうに、三回目には検問の看板が見えたときから「よし、今日こそは敬礼してやるぞ!」と心に決め、警察官の横に車を止め、「スチャッ!」と敬礼した。免許証を見せ、警察官の質問に答える。「こんなに夜遅くに(午後一一時)若い女性が何してたんですか?」
 アルバイトで歯科助手をしていた私は、白衣のまま通勤していた。そのときも白衣を着ていたたのでコートを脱ぎ、警察官に白衣を見せた。それを見た警察官の目は点になり、私は吹き出しそうになるのを必死にこらえて言った。「仕事です。歯医者で働いているんです」「……ご苦労さまです。暗い夜道は危険ですから、気をつけてお帰りください」。警察官はバツの悪そうな顔で答えた。私は「ごくろうさまー」といって、また敬礼した。そして何事もなかったように車を走らせた。
 そこから家に着くまで笑いっぱなしだった。べつにお巡りさんをバカにしたわけではない。ただ単に、敬礼してみたかっただけなのだ。検問している警察官にだけでなく、道に立っている警察官にも私はきちんと敬礼している。でも、ときどき、ただの警備員だったりもするのだけれど。 (■つづく)

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鎌田慧の現代を斬る/官主主義日本とお先棒ジャーナリズム

■月刊「記録」1998年4月号掲載記事(表記は掲載当時のままです)

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■官に杭打つものなし

 日本は「民主主義国家」といわれているが、実態は「官主主義国家」というしかない。
 民主の主は、「王の頭に杭を打つ」という意味だったとも伝えられるが、いまは官の上に杭を打つものはいない。完全なる官僚独裁政治の時代である。
 デタラメ天下りとハレンチ遊興の限りを尽くしている実態がようやく明らかになった大蔵官僚だが、三月七日現在、逮捕されたのはノンキャリア官僚三人、キャリア官僚に至ってはたったの一人である。最初ノンキャリア二人を捕らえ、あとからキャリアとノンキャリアを一人ずつ逮捕したのには、キャリア官僚への検察の「気配り」が感じられてならない。その捕まったキャリアでさえ、大蔵省のヒエラルヒーのなかでは、まだ下っ端なのだ。世論を沈めるための人身御供的存在にもみえる。
 逮捕された榊原センセイは、東大法学部卒業後、二〇後半で岐阜県多治見で税務署長を務めて、らせん状に出世してきた典型的なキャリア官僚である。そんな彼が検察庁の手に掛かったのは、大蔵官僚の乱行があまりにもデタラメだったためにほかなならない。彼の逮捕は、大蔵官僚八万のなかのわずか一%しかいないキャリアの一滴でしかない。
 「(接待にかんして)自分は関係ない、ということのできる大蔵省の人間はいないと思う。だれもがある程度は見に覚えのあることだと思っている。自分もそう。その意味でも、全員がざんげするしかない」(朝日新聞・三月六日朝刊)という大蔵官僚の声が報道されれているほどだ。
 これまでキャリアは「官僚のなかの官僚」と祭り上げられ、自分が日本を支配をしているといった傲慢さを、大蔵官僚は身につけてしまった。企業からカネを貰ったり、接待を受けても当然だという意識を形成したのである。「官主主義」たるユエンである。
 しかしこのような退廃は、彼らだけで作れるはずもない。官僚汚職の構造で強力な力を発揮したのは、大企業であった。企業と官僚の相互協力によって、日本の腐敗を進めてきたのである。すでに多くの社会主義国家は、官僚の腐敗によって解体された。「官主主義」である日本もまた「国家解体」」前夜にある。

■東京三菱は我が世の春

 先述したキャリア組の逮捕と同時に行われたのは、東京三菱銀行など大銀行二一行にたいする二兆一〇〇〇億円もの公的資金援助である。これぞ大判振る舞い。

・日本勧業銀行  一〇〇〇億円
・日本長期信用金庫 二〇〇〇億円
・日本債券信用金庫 三〇〇〇億円弱
・第一勧業銀行  一〇〇〇億円
・さくら銀行  一〇〇〇億円
・富士銀行  一〇〇〇億円
・東京三菱銀行  一〇〇〇億円
・あさひ銀行  一〇〇〇億円
・三和銀行  一〇〇〇億円
・住友銀行  一〇〇〇億円
・大和銀行  一〇〇〇億円
・東海銀行  一〇〇〇億円
・三井信託銀行  一〇〇〇億円
・三菱信託銀行  五〇〇~一〇〇〇億円
・住友信託銀行  一〇〇〇億円
・安田信託銀行  一五〇〇億円
・東洋信託銀行  五〇〇億円
・中央信託銀行  六〇〇億円
・横浜銀行  二五〇億円
・足利銀行  一五〇億円
・北陸銀行  一〇〇億円

 東京三菱銀行など金融不安によって、預金者が逃げだした中小銀行の資金を集めまくり、我が世の春を楽しんでいる。それでも国の資金を受け取るという。銀行のなかで、資金を受け取らない銀行と受け取る銀行に分かれると、受け取った銀行の信用不安が発生する。それで横並びにカネを受け取る。相変わらずの護送船団方式である。はたして、これらのムダガネが貸し渋りの解消につながるのだろうか。
 この少し前に、東京郊外の国立のホテルで、三人の社長が同時に自殺するという事件が発生していたことを覚えているだろうか。不況のなかで社長が自殺をするほど追い詰められている企業は少なくない。しかも不況に追い打ちをかけているのが、銀行の「貸し渋り」である。 銀行が自分の身の安全を守るため顧客を締め上げている。バブル期、放漫経営によって土地や株を大量に買い込み、それが焦げついたのは銀行の自業自得である。にもかかわらず、一方では国の資金を使って経営の安定を図り、一方では貸し渋りによって中小・零細企業をいじめているのが、現在の銀行の姿だ。片手でカネを受け取り、片手で中小企業のクビを締めているのだから、まるで泥棒と人ごろしのセットである。
 官僚と銀行のこれだけの腐敗を前にして、国民がなんら運動を起こさないという状況もまた無惨といえる。社会主義の崩壊は「市民革命」ともいわれている。それはフハイした政府に国家にたいする市民の抵抗があってのことだった。ところがこの日本では、権力を批判する運動の先頭に立ってきた労働組合は労働貴族の連合化となり、野党は国会から姿を消した。
 大臣のポストをエサにし、政党助成金で買収することによって、どこにも反対派はいなくなったのだから、日本は自民党と財界にとって、世界でもっとも安泰な国だということになる。
 検察幹部は、「大蔵省自身が、きちんと調査すれば、局長級も含めて少なくとも一七、一八人のキャリアが辞職せざるを得ないのではないか」(朝日新聞・三月六日朝刊)と語っているという。だが大蔵省自身が内部変革をとげる可能性は、極めて低い。彼らに権力を与えすぎていたからである。
 たとえば、自主廃業した山一證券の八〇億円の債務隠しが、英国のペーパー会社を使って行われており、五年前の九三年に大蔵省はその事実を把握されていたことが判明している。
 また大蔵省の証券取引取引等監視委員会上席証券取引検査官が、今回逮捕されたが、山一證券の簿外債務について調べていた検査官幹部のワイロ・接待漬け生活も、今まで見過ごさせてきたのである。この二つ事例からも、大蔵省が簿外処理を指導していた可能性は極めて高い。
 このような行為は、多かれ少なかれ日本中の金融機関に蔓延していたはずだ。つまり日本の官主主義が解体されない限り、なんの解決にもみないことになる。
 これからの課題は、官僚機構を監視する野党がどういった形で形成されるかであり、さらには情報公開がどれだけ国民に広がるかにかかわっている。さらに東大法学部が官僚機構を全面的に支配している東大絶対体制を解体することだ。「泥棒」もそれを取り締まる検察も、どちらも東大法学部出身。これは日本社会のマンガ性をよくあらわしている。

■調書を鵜呑み?

 いまや検事が正義の味方のようになり、検事がんばれといった風潮が強まっている。しかし今度の文藝春秋の検事調書の流失という事態から、検事たちの秘密防衛も大したことがないとわかった。
  検事調書を誰が流したかについては、まだ明らかになっていないが、文春に掲載される前に各マスコミの送られていたこと判明している。新聞社はそれらの情報を使いながら、送られてきた検事調書をまた警察に手渡すという行為をしていたという。マスコミが情報操作にきわめて弱いという体質を、これらの事実は明らかにしている。
 また文春が「真実」だとしても、大々的に売り出した記事が、自分が取材した情報で作ったものでもなく、スクープでもなく、各社に流されていたものだというのも笑わせる。
 検事調書は警察調書とおなじように、「自供」によって作られたものである。その「自供」は警察官や検察官の誘導によって行われ、潤色されているというのは裁判に関心があるものの常識だ。そんな調書を鵜呑みにして発表するというのは、えん罪を増やすことにつながるだけで、なんら真実の解明につながらない。調書が誘導尋問によって作られ、のちの裁判で全面的に否認されるケースはこれまで無数にあった。自供を真実だと考えるジャーナリズムは、権力のお先棒ジャーナリズムというしかない。マスコミはそんなチェック機能さえ無くしていることが、神戸少年事件の調書に群がったマスコミの姿勢によって明らかになった。
 一方では、この事件をチャンスとして、少年法を無茶苦茶攻撃するマスコミが現れ、検事がマスコミの自主規制を主張するというとんでもない事態も起きている。いまマスコミの報道はバーゲンセールのような売らんかな主義に陥り、社会にたいしてどういう影響あたえ、社会をどう変えていくかという視点が欠如しているのである。
 さほど報道されている問題ではないが、権力と出版の関係について見過ごすことができない事件が発生しているので紹介しよう。

■警察が取引銀行に圧力

 最近、三一書房で発行された『警察が狙撃された日』という本を巡って、警察が動いていたという問題が発生している。これは警視庁本富士警察署長・石川末四郎の名前で、三一書房の複数の取引銀行にたいして、「捜査関係事項照会書」なる文書が届いた事件である。
 その内容は、「一、口座番号(当座・定期・普通)、設定年月日  二、名義人住所、氏名  三、取引状況写し  四、印鑑の写し 五、その他の参考事項」と、取引状況全般にわたっている。出版社の取引状況を明らかにすることが、なんのための捜査に必要なのか。これは捜査のためというのは口実だろう。貸し渋りが吹き荒れる状況で、銀行の融資を止めようという権力の行動が透けて見える。出版・報道・ジャーナリズムにたいするこれほど露骨な攻撃を見逃すことはできない。
 現在、日本政府は消費税の引き上げなどによって、庶民の消費を不活発にして不況を招き、その一方で中小企業にたいする銀行の貸し渋りを誘発し、そのうえ犯罪的な銀行にカネを与えている。これはかつて、アメリカの湾岸戦争を支持して、アメリカに1兆五千億円ものバカげたカネを無駄に使った時とおなじような愚政の繰り返しだ。2兆円ものカネを大銀行に渡すなら、銀行の貸し渋りで困っている企業の救済を考えるべきである。放漫経営で苦しんでいる一部の銀行の救済のために、大手銀行すべてにカネをばらまくべきではない。なにに使われるか、わかったものではない。
 これ以上、橋本内閣にバカを繰り返させないためにも、権力依存のマスコミ体質を改善する必要がある。 (■談)

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保健室の片隅で/第三回 保健室で見つけた希望

■月刊「記録」1998年3月号掲載記事

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■嫌らしい女だらけの教室

 高校に進学して、すぐにその高校が嫌になった。女だらけの教室。そこでは、みにくい女の争いも目に見えてしまう。嘘をつく人、かばう人。すぐ群れをなすグループだらけのなかでの生活は、苦痛以外の何ものでもなくて、苦しくて、悲しくて、そこにいる自分もひっくるめて嫌だった。
 仮面をかぶって教室に入ってはみるものの、やっぱり食事もろくに食べられなかった。もともと私は、人前で食事をとることが苦手なのだが、このときは一口もダメだった。食べる気にならないわけじゃなくて、ノドを通ってくれないのだ。
 けれども、どんなに苦しくても学校を休むことは許されず、同時に逃げる場所も与えられなかった。なぜならば高校では中学のときとは違って、保健室に行くのに担任の許可が必要だったからだ。
 ところで、私が人前で食事をとれなくなったことには理由があった。幼稚園でお世話になった先生から、久しぶりに手紙を頂いて、当時の話に母と花を咲かせていた。
 そのとき私が、「私、幼稚園のときから、お弁当食べられなかった?」と聞くと、母は、「あなた、具合が悪いときにお弁当を食べたら、皆の前でもどしちゃったんだって。それで、お弁当を食べたらまたもどすからこわいって、フタを開けることができなくなったんだって」と教えてくれた
 我がことながら驚いた。今まで生きてきたなかで、一番不思議に思っていたのが、この食事ができないことだったのだが、経過した月日は長く、幼い日の記憶は薄れていて、まったくといっていいほど覚えていなかった。
 結局のところ、私は当時から人前がこわかったことがわかった。見ていたみんなの目がこわくて、そんな小さな事件さえ、心の傷になったのだ。教室が、教室のなかにいる皆が敵で、こわくて、そのなかにいるときはいつもドキドキして、緊張していることしかできない子どもだった。そういえば逃げ場を探して、よく運動場の隅の土管のなかに入り込み、ボーッと過ごしていた。「このままでいられたら、きっと幸せだろう」と思ったことを思い出した。とうとう戻ってしまった!

■とうとう戻ってしまった

 
 高校生になっても、結局、私の逃げ場は変わらなかった。おなじみの保健室へ。ただ違うところは、それが自分の学校の保健室ではなくなったこと。朝はふつうに家を出て、一度は駅まで友達と行く。それでも学校に行けなくて、どうしようもなくなったとき、駅に背を向けてひたすら歩いた。
 誰にみつかっても、なんて思われても構わないから、帰ろうと思った。どうしてそこに帰りたかったのかわからないけど、そのとき涙目で見上げた中学校は、とてつもなく大きかったことを、今でもハッキリと覚えている。
 ドキドキしながら走って、思いっきりドアを開け、保健室のなかに飛び込んで、涙がかれるほど泣いた。
 保健の先生の胸で泣きわめく私を、他の先生たちは取り囲んだ。珍しそうに見る後輩。恥ずかしさなんか少しも感じなかった。心のなかで何回も、「帰ってきちゃった」とつぶやいた。行き場がなくて、逃げ場がなくて、かばってくれる人もいなくて、私はもう少しで「存在しない人間」になりそうだったのだ。
 高校なんて行くんじゃなかった!  心からそう思った。どうして止めてくれなかったのかと先生を責めた。もともと通信制の高校に行くといっていた私に、全日制の高校へ進学するように強く勧めたのは先生たちだったからだ。進学した先で、私が教室に行けるか行けないか、そんなこと、考えもしなかったのだろうといってなじった。
 中学生のときに、「中学校の先生っていうのは、生徒をいい高校に進学させるのが仕事なのよ。その後のことは、高校側の責任。二〇歳を過ぎて犯罪者になっても、先生たちには関係ないのよ」と聞いたことがあった。
 あれは本当だろうか。本当であれば、内申書には、きっといいことばかりが書かれてあったのだろう。協調性がなくても、出席日数が足りなくても、ふつうの生徒のようにごまかされていたのかもしれない。
 そう思えば思うほど、先生や学校が憎くなって、責任転嫁だとわかってはいたけど、どうすることもできない感情のほこ先を、私はぶつけるしかなかった。ただひたすら泣き、今まで起きたことのすべてをぶちまけて、泣きながら、自分の高校生活が夢であることを祈った。
 行き場も逃げ場もない苦しみが、みんなウソであってくれることを願った。あまりにも大きな孤独感で、それは、まるで地獄へ突き落とされたような毎日だったのだ。私は叱ってほしかった。

■私は叱って欲しかった

 でもあの日、中学に帰ってきてしまった私を、どうして先生たちは温かく迎え入れてくれたのだろう。もっと冷たく突き返されるかと思っていた。けれど先生たちは、授業を中断してまで私のところに来てくれた。あの中学の、ああいう雰囲気に、いつも私は救われていたのかもしれない。
 そして「もう、学校を辞めてしまいたい」と私がいうと、「今、辞めてどうするの。がんばるって自分で決めて行ったんでしょう!」と、先生に怒られた。このとき感じた。たぶん今の私に一番効く薬は、怒られることなのだ。それをわかっていて、先生達は、私を叱り、カツを入れてくれているのだ。
 思えば、私にとって保健室とは、メッセージをもらう場所だった。そこでは心臓が痛いといえば、いろいろなメッセージつきのシップ薬を貼ってくれた。そのうち心臓が痛かったのか、心が痛かったのか、本当のことはわからなくなって、痛みが引いたとき、心のなかにはメッセージが残っていた。人が放つ言葉は、心の奥にいつまでも残り続ける。私はきっとあのとき、メッセージが欲しくて、保健室へ戻ってしまったのだろう。
 通信制の高校に入り直してから、みんなの話を聞いてみると、通信制の高校へでさえ、進学することを拒む中学の教師が多いという。願書を書いてほしいと頼んでも、断られてしまうというのだ。当然のことながら、普通高校への進学などさせてはもらえない。なぜかといえば、自分の教え子が登校拒否児だったと知られるのが恥ずかしいからだという。
 事実、担任にそう言われてしまった友達を私は知っている。彼女は、当時の担任が他校へ異動になるまで、高校へは進学できなかった。それを知ったとき、どれほど自分の環境が恵まれていたかが、さすがの私にもわかった。私は今、進学や保健室登校を認めてくれていた中学に感謝している。もし、保健室がなかったら……

■もし、保健室がなかったら・・・

 保健室を追い出された生徒は、一体どこへ行けばいいのだろう――。
 保健室に行くのに担任の許可が必要だった高校で、結果的に私は行き場を失って、中学校の保健室に逆戻りしてしまった。けれどそこにも、何度も通うことは当然できず、今度は不登校をするようになった。
 中学生の不登校と高校生の不登校では、あきらかに違う。なぜなら高校は義務教育ではないからだ。私の頭のなかには、つねに留年という二文字が揺らぎはじめ、これがかえってプレッシャーとなって、ますます足が遠のいた。
 一度、休学してプレッシャーを取り払い、落ち着いてからもう一度やり直そうかとも考えたが、そこまでしても仕方がないとわかった。どうせなじめないのだから、高校など辞めて、もっと他のことをしたほうがましだと思い、そう両親に伝えた。
 高校を辞めるという私を、両親はあまり引きとめず、理解してくれた。退学届を出したあとで、中学にその報告をしにいくと、先生たちも、「わかった」という一言を添えて見送ってくれた。
 保健室に行くために行った中学校ではなく、辞めるつもりで行った高校ではないけれど、結果的にそうなってしまった。保健室に行っていた自分を、私はずっと恥ずかしくてみじめだと思っていたし、いくら強く勧められたからといって、行きたくもない高校への進学を決めたのは、少しは世間を気にしていたからかもしれない。
 でも、学校という組織を完全に抜け出してみたら、本当にすっきりして後悔はまったくなかった。
 まず、絶望の底にいた私が、夢をもとうという気持ちになれた。養護教諭を夢見て、当時は大学検定を受けて、大学へ進学することを夢見ていた。そして、学校という組織にどうしても同化できなかった私に、義務教育時代、もしも保健室がなかったらと思うと、考えただけでもゾッとする。
 いまこうして笑っていられるのは、保健室があったからに違いない。保健室は、私のような子供にとっての避難場所なのだから。 (■つづく)

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ホームレス自らを語る/暴走族から鑑別所、そして…・原田忠雄(四四歳)

月刊「記録」1999年3月号掲載記事

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■ナナハン乗って暴れ回った

「ブラックエンペラー」という名前の暴走族のチームがあってね。若いころ、そこのメンバーだったんだ。中学生から高校生にかけての、四年くらい入っていたよ。毎週土曜日になると、夜の一二時に渋谷に集まって、バイクで暴走を始めるんだ。
 走り始めのうちは、バイクの台数もそれほどじゃないんだけれども、「ニーヨンロク」(国道二四六号線)を下っていくうちに徐々に集まってきて、最後は二〇〇台くらいになるんだ。そりゃあ、すごい迫力だったね。
 おれも上から下まで黒づくめの格好をして、ホンダの 「カスタム」っていったかな、ナナハン(七五〇㏄)のバイクにまたがって……。まあ、目立ちたかったんだろうね。パトカーをしたがえて集団で走るのは、すごい快感だったよ。
 悪いこともした。何しろ、乗ってるバイクだって盗んだもんだからね。今の子どもたちと違って、バイクを買うカネなんて、とても持っていない時代だからな。みんな盗んできて、それを乗り回してたんだ。カツアゲ(恐喝)したり、電気屋の倉庫に忍び込んで、テレビとかを盗み出したこともあった。
 暴走族のチーム同士でケンカしたときなんか、相手側の女の子をカッさらってきて、みんなで「回す」なんてこともしていた。要するに輪姦だよね。ただ、おれたち下っ端は見張り役とか、見てるだけで手は出せなかったけどね。
 ケンカもよくしたよ。利根川の先のある町には「ブラックエンペラー」に対立するチームがあってね。よく遠征していってはケンカをしたんだ。おれも木刀を武器に暴れ回った。
 警察に逮捕されたこともあるよ。おれの場合、道路交通法違反に無免許、それにバイクの窃盗もあったから、少年院だか、鑑別所のようなところに半年間入れられたよ。まあ、それで暴走族をやめることになるんだけどね。
 結局、今の暴走族の連中もそうだけど、一人じゃ何もできないから群れてるんだよね。でも、若い時分に一度くらい羽目を外すのもいいことだとは思うよ。今ではビシっと偉くなってるのでも、元暴走族っていうのはいっぱいいるからね。暴走族からそのままヤクザになるのは、案外少ないんだよ。

■一八歳で娘ができた

 生まれは東京。おやじは大工だった。八人兄弟の末っ子なのだが、上の七人のうち三人は知らない。何でも栄養失調のようなもので、おれが小さいころに死んでしまったらしい。それくらい家は貧乏だった。
 飯もスイトンだとか、ラーメンだとか、そんなもんばっかりでね。おやつといったって、ジャガイモの蒸したものがあればいいほうだった。
 それでも、おれは末っ子だったし、高校までやってもらった。都内の私立高校の農業畜産科に進んだんだ。もっとも農業になんて興味はなかったよ。本当はおやじの跡を継いで、大工になりたかったんだ。
 だから本当は工業高校に行きたかったけれども、中学のころから暴走族に入ったりして、勉強のほうは全然ダメでね。中学校の担任が、おれの成績でも何とか入れた農業畜産科に無理やり押し込んだわけよ。
 そんなわけだから、高校にはほとんど通わなかった。そのうちに警察に捕まって、鑑別所に送られて、学校は退学になった。高校二年のときだよ。
 高校を退学になる前のことだけど、授業をサボって渋谷で遊んでいたら、かわいい女の子を見つけてね。思わずその子の後をつけて家をつきとめたんだ。今でいう「ストーカー」みたいな感じでね。
 それで強引に家に押しかけていったら、意外にも素直に部屋に入れてくれるじゃない。そのまま押し倒しちゃった。学校をサボって盛り場をフラついていた子にしては、スレてなくて処女だった。まあ、おれのほうも童貞だったけどね。その子の名前は、一応A子ってことにしておこうかね。
 A子は母子家庭だったんだ。だから母親が働きに出ている間は彼女しか家にいないので、訪ねていっては関係を続けたよ。ところが、おれが一八歳のときにA子は妊娠しちゃった。それで女の子が生まれた。ただ、A子の母親が許さなくてな。裁判になって、おれの娘としては認知できないことと、娘には会えないことになった。それからA子は水商売で働きながら、娘を育てあげたんだ。大学も出して、嫁にやったよ。
 何でそんなにくわしいのかって?実は、娘には会えなくなったけれども、おれとA子の関係はずっと続いているからなんだ。今でも週に一回くらいは会っているよ。今、A子は新宿のピンサロで働いているから、朝のうちに家に訪ねていけばいるからね。まあ、おれが野宿(ホームレス)していることは、内緒にしてあるけど……。
■四六歳までには何とかしたい

 暴走族をやめてからは、町工場で働いたり、自衛隊に入ったりと、いろいろな仕事をやってきた。きっと性格が飽きっぽいんだろうね。
 二二歳のときからは、建築現場のトビ職をやってきた。半月契約で飯場に入って、カネを稼いで、それがなくなるまで遊び暮らして、また飯場に入る。その繰り返しだった。それでも、羽振りのいいときもあったんだけどね。けれども、A子にプロポーズはできなかった。やっぱり、ちゃんとした会社に入っていない引け目だったんだろうね。
 野宿生活をするようになったのは九六年からだ。仕事が減ってきて、カネもないし、路上に寝るよりほかに選択がなかったんだ。仕事は減ったけれども、それでも野宿を始める二、三ヶ月くらい前までは少しはあったんだよ。この二、三ヶ月はホントになくなったね。だからまったく働いていないよ。
 まあ、おれもまだ四四歳だからね。四六歳までには「何とかしたい」っていう目標はあるんだ。ちゃんとした会社に入って、A子ともちゃんと結婚してって。今は年がいってから結婚するのがはやってるから、今から結婚してもおかしくはないよね。トビの腕だって、まだ大丈夫だし、何とかするよ。 (■了)

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ホームレス自らを語る/美人の妻に逃げられ暗転・丸山隆一(五二歳)

■月刊「記録」1999年4月号掲載記事

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■土木のほうが稼げるらしい

 生まれは北海道。帯広市の先にある本別という町です。おやじは営林署の職員でした。これが変わったおやじでね。「勉強をするくらいならば、家の手伝いをしろ」っていう育てられ方をしました。中学の修学旅行のときは、「子どもが旅行に行くなんてぜいたくだ」って費用を出してくれないんです。仕方がないので担任の先生に立て替えてもらっていきました。
 そんなふうだから、高校進学も当然ダメでした。そこで、これまた担任の先生が、帯広にある住み込みのクリーニング店の就職先を見つけてきて、そこから定時制の高校に通えるようにしてくれたんです。ホントに変わったおやじでした。
 結婚したのは二六歳のときで、相手は友人が紹介してくれた娘です。なかなかの美人でしたよ。翌年には女の子が生まれました。ただ、子どもができて家族が三人になると、クリーニング店の安い給料で養っていくのは大変でした。
 実はクリーニングの国家試験に合格した二一歳のときに、店の親方からは「独立するように」と勧められたことがあるのです。でも、当時は一人でやっていく自信がなかったのと、資金もなかったんで、店は出せませんでした。それ以来ずっと、クリーニング店に働き続けていたというわけです。
 悩んでいるところへ、「土工のほうが、もっと稼げるから」と、誘ってくれる友人がいて店を辞めました。それで帯広から西へいった山のなかにある日勝峠の道路工事の飯場に、何ヶ月間か入ったんです。
 ところが、工事がやっと終わって、帯広のアパートに帰ってみると、嫁さんがいないじゃないですか。調べてみると、どうも男を作って逃げたらしい。まあ、何ヶ月間も一人で放っておかれて寂しかったんでしょうね。
 それよりも何よりも困ったのは、まだ一歳にもならない子どもを残していったのと、僕の名前で一二〇万円もの借金がこしらえてあったことです。月給が四万円くらいの時代の一二〇万円ですから、途方に暮れるような金額でしたよ。
 仕方がないんで、幼い子どもを僕のおふくろに預けて、東京に出て稼ぐことにしました。上京してからは、それこそ遮二無二、昼も夜もなく働いたものです。宅地の造成とか、ガスの配管工事とか、土工の仕事でした。それで何とか借金は返したんです。三〇歳くらいまでかかりました。

■皇后陛下の控え室を作った

 それからは「町トビ」の組織っていうか、会社で働きました。町トビというのは、江戸火消の伝統を引き継いだもので、僕が入ったのは池袋にあった「七番組」でした。イベント会場の設営をしたり、大きなホールなどの内装をするのが仕事です。正月の消防の出初め式の会場を作ったりもしました。
 昭和天皇が病気になったときには、宮内庁病院の部屋を模様替えして皇后陛下の控え室にしたんですが、それも僕らの仕事でした。それから逝去のときに執り行われた大喪の礼の新宿御苑の会場も作りましたよ。
 皇室の仕事をするのは、手続きが大変でね。でも、普通の人では入れない皇居に入れたし、あれが町トビの仕事の一番の思い出です。
 町トビを辞めた後は、また土工の仕事に戻って、千葉県にある新日本製鉄の君津工場とか、富津の火力発電所の工事、さらにはゴルフ場の造成工事なんかで働きました。おおむね千葉方面での仕事が多かったですね。
 ところが九七年のことでした。やっぱり千葉県の木更津にある港の工事で働いていたとき、急に寒気がして立ってられないくらいになりましてね。その日は飯場で休ませてもらったんですけど、次の日になって右足が腫れてすごいことになってしまった。すぐに病院に担ぎ込まれたんですが、医者から「治療が後少し遅れていたら、右足切断だった」といわれましたよ。
 働いていた飯場は田んぼの上に建てられていて、ジクジクと湿っぽいところでした。風呂も田んぼの地下水をくみ上げた汚い水を使っていました。その水にバイ菌が含まれていたんですね。それが右足の擦り傷あたりから入ってきたんだろうと思います。結局、病院には四ヶ月も入っていました。
 九八年二月に病院を退院してからは、東京に戻ってきました。でも、仕事が見つからない。アパートを借りるカネもなくなってしまっては、ホームレスになるしかなかったんです。右足のほうは治って、完全によくなりました。ただ、一方で九四・九五年ころから、左脚に破傷風の発作が、毎年一回は出るようになっていたんです。秋から冬の季節の変わり目によく出ますね。突然、高熱に襲われて、けいれんを起こすんです。そのたびに救急車で運ばれて入院するんですが、どうしても治らないですね。
 仕事さえあれば、まだまだ働く意欲はあります。土木の仕事は誰にも負けないつもりですし、ガードマンの仕事だってあればやろうと思ってます。でも、仕事はないし、あっても長い期間続くのはありませんからね。

■北海道には帰りたいけど

 やっぱり、若いころに嫁さんに逃げられて、それから人生が狂ったような気がしますね。美人というだけで、家のことは何もしない嫁さんでした。それでも、いなくなってみると恋しいもんですね。
 ただ、結婚はそれで懲りました。その後、再婚を勧めてくれる人もあったけれども、結婚はしませんでした。子どもを預けていた親に、またまた迷惑がかかるようなことになってもいけないと思ったしね。
 北海道に残してきた娘は、九九年で二五歳になります。僕のおやじは今、寝たきりの状態で入院しているんですが、「その面倒をよくみてくれるんで助かる」って、おふくろがいっていました。時々ですが、電話を入れて話をするんです。もちろんホームレスをしていることは、内緒にしてありますがね。
 娘とも電話で話しますよ。「お父さんが北海道に帰ってくるのは、死んでお骨になってからよね」などと娘からはいわれてます。本当は娘にだけは会って、顔を見てみたいと思っているんですがね。
 しかし、北海道に帰ったところで、こっちよりも景気は悪いんでしょう。農業をするのもままならないっていうしね。帰りたい気持ちはあるけれども、帰ったところでどうなるというわけでもないのでね。まあ、景気がよくなることだけが願いです。景気がよくなって、仕事さえあれば、何とかなると思うんですよね。 (■了)

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鎌田慧の現代を斬る/大蔵スキャンダルは複合汚染の土壌に咲いた毒花の群生

■月刊「記録」1998年3月号掲載記事(表記は掲載当時のままです)

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■自省心のカケラもない大蔵官僚

 大蔵省のスキャンダルは、金融検査部・金融証券検査官室長・宮川宏一、同部管理課課長補佐・谷内敏美の逮捕後、おなじノンキャリア組の銀行局総務課・大月洋一氏の自殺へと展開した。このままノンキャリア組のスキャンダルだけで決着させるのか、さらには大蔵省がどういった形で分割されるのかが、今後の焦点となっている。
 この事件で大きな問題となったのは、銀行を監督するはずの検査官が、接待のみかえりとして検査日程を銀行側に伝えていたことだ。このような大蔵省の腐敗ぶりは、まさしく悪代官と悪徳商人の関係である。官と民との歪んだ構図が、ここにある。
 だが、これだけ根深い腐敗を摘発されても、大蔵官僚たちには罪の意識のかけらもない。それが証拠に、先日放映されたNHKのスタジオ番組では、西村吉正前銀行局長が驚くべき発言をしている。
「接待というから、なにか快楽的なイメージになるのであって、会食というべきです。銀行側との会食は必要でしょう」
 このようなことを白昼堂々テレビで語るほど、大蔵官僚は「会食漬け」になっている。彼らの会食とは芸者つきの高級料亭であり、風俗営業店での飲み食いである。しかもそのあとには、高給クラブや接待ゴルフが待っている。庶民のワリカンなどの会食ではない。会う用事があるなら、支払いを折半にしたらどうだ。
 高級官僚たちが、こぞって東大法学部出身というのも気持ち悪い。大蔵省に採用されているのは、国家公務員上級職試験を通過したエリートからさらに選ばれた、いわゆる超エリートである。しかしこの超エリートの実態は、たんに勉強ができた受験秀才、あるいはガリ勉クンにすぎない。子どもの頃からひたすら丸暗記と受験技術だけで優位を勝ち取ってきた連中には、そもそも人間性の形成されるような機会も、時間もなかったはずだ。それは現代の受験システムをみれば容易に想像がつく。
 この『もやし』のような促成栽培秀才たちが大蔵省に入り、二〇代そこそこで地方に派遣され、税務所長として君臨する。地方では地元の商工会や地方官僚が、彼が中央に帰る日に備えて腫れ物に触るように扱いチヤホヤする。お呼ばれの酒席でそっくり返り、お土産をもらい続ける生活に慣れ親しんできた連中なのである。
 つまり、入省直後から当然もてはやされる者として汚職の特訓を受けてきた人間ということになる。だから接待供応が人間として極めて恥ずかしい行為であることがわからない。業界から見返りを要求され応じていた事実は棚に上げて、「会食」などといい換えて口を拭おうとする。
 このような人物が大蔵省を埋め尽くしているのだから、大蔵省の腐食は根が深い。今回の事件だけが、特殊な例では決してないことは、つぎの例からも容易に想像がつく。
 大蔵省の腐敗の歴史をひもとくと、七九年には鉄建公団の「過剰接待」が問題になり、自粛を求める官房長通達が出されている。九五年には元東京協和信用組合から香港接待などを受けた田谷広明元東京税関長や、中島義雄元主計局次長などが辞職している。このときも官房長通達が出されていたが、カエルの面にションベン。「会食」をやめる気はもうとうないようだ。

■天下り禁止以外に解決法はない

 現在、公務員倫理法が作成されようとしているが、腐敗した土壌を変えることなく規則だけ厳しくしても弊害のほうが大きい。すでに公務員は、国家公務員法によっ職務上知り得た秘密を守る義務が課せられているのである。だいたい飲ませ食わせの見返りに、相手に便宜をはかるなど、犯罪以前のモラルに属する問題だ。守られることのない法律を作ってお茶を濁し、かたや泰山鳴動して鼠一匹という終わり方など絶対に認められない。
 そもそもこのような退廃を作りだした根源は、政治献金と天下りにある。複合腐食の構造をどう切開するか、どう根絶やしにするかが問題の核心である。今回の問題はこの複合土壌に咲いた毒花が、たまたまつまみ取られただけに過ぎない。
 銀行が自民党にたいして巨額な政治献金をしていたことは、今更いうまでもない。政治献金とは、政治家にたいする明らかな買収行為である。にもかかわらず抜け穴だらけの法律を作り、疑惑がささやかれれば陳謝するという態度を繰り返してきた政治家が、今度は、飲み食いだけを取り締まるという姑息なやり方を取ろうとしているわけだ。
 また、天下りの問題も根が深い。
 帝国データバンクの調査によれば、昨年三月時点で、大蔵省や日本銀行などから全国の銀行一四六行に天下りした役員は、二三一人にもたっした。二月五日の『朝日新聞』でも、大蔵省のエリートキャリア官僚の天下りについて、次のような数字を報道している。
 都市銀行と長期信用銀行一三行のうち九行に一三人、さらに地方銀行には五〇人。銀行では不況下でのリストラが進んでいるというのに、天下り数だけはまったく同様の数字で推移していく。省庁ではさんざん接待を受け、業界に情報を漏らしたあとで、その業界に大手を振って天下って行く。この国家的逆人身売買制度には、あきれるよりほかはない
 もちろん銀行側にも問題はある。
 今回問題になったMOF担(Ministry of Finance担当)は、大手銀行では行内の出世コースにあたるのはこれまで指摘されていた。都市銀行と長信銀一三行のうち、MOF担を経験している頭取と会長が、なんと三人もいるのだ。さらにMOF担の直属の上司にあたる企画部担当の部長職経験者は、副頭取以上の役職に一〇人もいるという。国の秘密を盗んだものが出世するのが、銀行のモラルだ。
 つまり接待の席で銀行に情報を流した連中と受けた輩が、のちのち一緒になって役員幹部に収まるのである。好待遇で天下るために国家の情報をどんどん垂れ流す大蔵官僚と、その情報を使いながらも不正を隠すMOF担。醜悪な者同士が助け合って権力を握るなど、許されることではない。
 さらに天下りした連中は、ことごとく現在の官僚の先輩にあたることも忘れてはならない。おなじ東大卒の先輩と後輩の間でポストを回している現状は、構造的腐敗そのものだ。天下りを禁止する以外に、解決する方法はない。

■抜け穴指導が官僚の仕事

 先輩がいる、自分の将来の天下り先である銀行に、大蔵官僚がどれほど甘かったかは、一九九五年秋に発生した大和銀行ニューヨーク支店の巨額損失事件をみても明らかだ。当時、大蔵省が巨額損失を知りながら長い間隠していたことは報じらていた。また破綻した東京共和と安全信用組合を救済するために、債権を処理する公的機関が作られたことなど、一般企業に比べて特別処遇が過ぎる。あとに続く大阪信用金庫の破綻でも、この機関は大活躍している。そして、そんな銀行への甘やかしによって生み出されたツケは、現在も確実に大きくなっているのである。
 さらに大蔵省が甘やかしているのは銀行だけではない。
 証券会社との癒着も有名になった。自主廃業に追い込まれた山一證券の副社長(当時)にたいして、大蔵省の松野允彦証券局長が損失の簿外処理の方法を指導したという疑惑は、いまだに解決されずくすぶっている。この指導によって山一證券が悪名高い『飛ばし』に堂々と踏み切るようになったことは、ほぼ間違いない。
 あまりに明らかな官と民との共同謀議・共同正犯である。だがこれもしょせん、氷山の一角に過ぎない。民間企業の利益のために、さまざまなな法の抜け穴を指導することが、大蔵省官僚の大事な仕事となってきたからである。
 ところで大蔵省の天下り先が、銀行や証券会社だけでないことは、今回の問題以降、知られるところとなった話だ。彼らの人生を比喩する「渡り鳥人生」とは、特殊法人を転々と渡って、その度に退職金を稼いでいる事実を指した言葉である。退職したあと、五回も天下ったという剛者もいるし、退官後の退職金を一億八千二〇〇万円もせしめたという悪徳官僚もいる。
 もちろん法人内で、さらに私腹を肥やす連中も多い。日本道路公団の外債発行をむぐる汚職事件で逮捕された、元大蔵省造幣局長・井坂武彦の例は記憶に新しい。
 このように日本の経済は、倫理もモラルもまったくなく、周りからチヤホヤされて育ってきたバカ殿様に指導を任せてきたのである。その結果が官僚のやりたい放題であり、庶民の生活を破綻させた金融危機・経済危機である。

■たとえば低金利政策だ

 バブルの時期、大蔵官僚の天下り先がことごとく無茶な経営をおこない巨額な負債を発生させた。それをカバーするためにおこなわれたのが低金利政策である。
 後先考えずにおこなわれた乱脈経営の尻拭いのために、預金者の金利を極端に下げることなど許されるはずもない。この政策は、まわりまわって市民の老後の生活をも破綻させているのだ。
 なぜなら、老後の不安を覚える老人が、預金額の目減りを減らすために、悪徳商法に手を出しやすくなっている。豊田商事をはじめとして、和牛商法やオレンジ共済組合などのインチキ商売が、明らかに胡散臭さを漂わせているにもかかわらず、これほど多くの人を惹きつけてやまないのは、低金利政策と無縁のことではない。庶民の生活を疲弊させ、不安感を煽り、その出口をインチキ商法へとむけさせた責任が、大蔵省にはある。
 さらに、このようなインチキ商法を許してきた監督官庁の責任も追及されてしかるべきなのだ。にもかかわらず、被害者による国への賠償請求は一切認められないという判決が出ている。
 庶民を踏みつけながらうまい汁を吸えるだけ吸い、罰せされることもなく、責任を取りもせずにいる。大蔵官僚の行動が「無期懲役」にも匹敵する重大な犯罪にもかかわらずだ。
 日本の財政(予算配分)・国税(税金の徴収)および銀行・証券会社への指導。この国にかかわるすべての金を握った権力者が大蔵省である。絶対権力者が、絶対的に腐敗する、とはよくいわれることではあるが、大蔵省も例外ではなかった。
 現在、日本国家の中枢は完全にいかれれている。たとえていえば暴風雨の中、船を操縦する船長や一等航海士が酒を飲み、女性と戯れているようなものだ。このような船員達に任せていたなら、日本は沈没して当然である。
 しかも銀行(企業)、政治家、官僚とを結ぶ三角形は、まさに腐海のトライアングルというべき構図を作りだしている。企業は政治家に献金してさまざまな便宜を計ってもらい、政治家は見返りに産業界にとって都合のいい法律を官僚に作らせる。官僚が政治家につくらせている貸しは、資料や国会答弁などになる。その官僚を飲ませ食わせして手なずけてしまうのが民間企業である。この三つ巴が魔のトライアングルとなって、国家の政治経済という土台を腐敗させているわけだ。
 今後、大蔵省は解体される方向にあるというが、どういう形で解体されるのか。この極度の権力をもった官庁が、市民の生活のためにどう変わるかを、主権者である私たちは監視する義務がある。監視義務を怠り、政治家や官僚に土下座する生活をつづけてきた「庶民」にも、この腐敗の責任があったことを知るべきである。(■談)

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首都高速道路500円通行の正義 第15回/もう愚痴はいうまい

■月刊『記録』95年10月号掲載記事

■激情家・内藤国夫

 地下の小さな小料理屋のカウンター。人肌の日本酒が心地よく喉を通り過ぎます。カボチャの煮っころがしとサトイモをつっつきながら残念会が始まりました。サシツササレツ、とにかくハゲ鼠のオッサンはくやしがった。「なぜだ、なぜボツになってしまったんだ。文藝春秋も全くアホなことをしたもんだ。これだけ大きなテーマに取り組んできたのに。このテーマが理解できないなんて、何が文藝春秋だッ」と怒る、怒る。ついに、感極まって涙腺が開いてしまった。大変な激情家の内藤さんです。
 そして、「本当に和合さんには申し訳ない。これを持っていてくれ」と、返送されたボツ原稿入りの封筒をポンと投げてよこしました。今でき得る、最大の好意のつもりだったのでしょう。
「しかし、なぜボツになったのだろう?会心の作だと思っていたのに、本当のところどう思う?」と、今だ腑に落ちない様子の内藤さんをどう慰めてよいやら。私は、「内藤さんの原稿が本当に掲載されるのかという一抹の不安がありました。500円しか払っていない和合がスーパーマンとして書かれているからです。和合・和合の連発で主人公が公団ではなく和合になってしまっているからです。2000人の大組織に立ち向かう三文芝居のスーパースターというわけです」と答えました。
 私の言葉で内藤さんは我に返ったようで、「やはり和合さんのいう通り、あまりにものめり込んだのが原因か。500円通行の経験があまりにも強烈だったということか。わかった、もう愚痴はいうまい。こうなったら、あらゆるチャンスにこのことを書き続ける。文芸春秋がその時になって、シマッタ、といっても遅い」と元気になりました。シメシメ。文芸春秋一発で終わるよりその方がよっぽどいい。彼ほどの人が、全てのチャンスに書いてくれたら、世の中に問うボリュームがどれほど大きくなるか。
 彼は約束を実行しました。あらゆるメディアに書きまくったのです。「今度はここに書くから」とその都度必ず連絡がありました。代表的な自動車雑誌『ベストカー』では8回の連載を完遂しましたが、そこで彼は500円通行体験をこう書いています。
       *          *
 だらしがない、と自分をふがいなく思い、旧料金通行への果敢なる挑戦者、和合秀典氏をつくづく凄いと再認識した。普通の神経なら100回も200回ものトラブルを重ねながら挑戦し続けられないだろう。自分のやっている事は正しい、社会改革に役に立つとの強烈な使命感に支えられない限り持続するのは不可能だと和合スピリットに惚れ直した。
 和合氏から旧料金通行のノウハウを伝授され(やってみないか)と誘われた際には(面白いな、やってみる)と気軽に応じた。だが首都高団幹部に(やっても無駄、不足料金は割増金も含め三倍分を請求する。払うまでトコトン追求するので結局は損)[裏の声=オバーカサン、損得でやるのではありませーんよ、これはロマンです、さあーいらっしゃい、100円のロマンです、これほど安いロマンはありません。ロマンの価格破壊です]と警告されすっかりやる気をなくした。約束は、しかし実行しなければならない。
 体験記を記事に書く必要がある。どんなトラブルに見舞われるか。それを体験する事に意味があるのではないか。怖じける自分を叱りつけて用賀料金所に向かった。
 恥ずかしながら胸はドキドキ。血はドックンドックン。Uターンして引き返すほうが無難では、と軽率な自分を後悔した。だが料金所通過は拍子抜けするほどたやすかった。ものの10秒とかからなかった。期待した(同時に恐れていたのだが)トラブルは何一つ起こらなかった。徴収員は五百円玉を受け取り(当たり前だが)領収書は切らず、早く車を発進させろと言わんばかりの態度を示した。この間わずか10秒たらずである。後続車の抗議と催促のクラクションがしきりと鳴る。あわてて急発進、急加速をさせて首都高の車群の流れに乗り入れた。
 首都公団はこれでもう私の旧料金通行を規制出来ない。不足料金の催促さえ出来ないのだ。徴収員は車のナンバーをメモしなかった。    

      *     *     *

 100円の料金不足は犯罪か、秩序を乱す不穏の輩か、世の中の実験か、ロマンなのか。その人その人の人生観によって考え方は違うだろうと思います。有名人の内藤さんは社会改革の強烈な蟻の一穴と考え、自分自身の料金不足体験を披露し、確信犯として、チャンスある限りペンで世に問うたのです。内藤さんの、執念に近いすさまじいエネルギーはとどまるはありません。あまりにも強烈な旧料金体験とボツ原稿から発した屈辱とプライドは、少々のことで燃焼するほど薄っぺらいものではなく、ついに1冊の単行本を生み出すに至ってしまうのです。
■クレームをつける大切さ

 ダイナミックセラーズという出版社の高田さんという実に爽やかな若者が、ほんのチョッピリ有名人となった私に本を書けというのです。そのリクエストにビックリ仰天しました。文章を書くなど、遠い昔の学生時代の作文しか経験がない当時の私としてはとても無理な話です。しかし、私には内藤さんと云う伝家の宝刀があるではないか。一計を案じ高田さんに提案しました。「どうだろう。私は本を書くなどとてもできないが、内藤国夫さんならよく知っている。私とは奇妙な仲間同士なのです。彼の持っている高速道路行政の知識は本格的なものです。お互いプロ同士、ギャラなどの難しい問題もあるでしょうが、紹介させて下さい」。
 すると高田さんは、「本当ですか、内藤先生を紹介して戴けるのですか。願ってもないことです。ゼヒお願いします」と大喜び。お見合いは見事に成功し、ブスブスと半煮え状態の内藤エネルギーは思いのたけを放出できる舞台を手に入れたのです。誰にも干渉されず、書きたいことを書けばいいのです。
「怒れドライバー」とのサブ付きで『高速道路は金のなる木か!?』という名の付いたその本が店頭に並んだのは、89年2月10日です。思いのたけを吐き出した内藤さんの独壇場であるのは当然!

「500円で通過したいのですが?」 「えッ?500円では通れないですよ、ここは」。4回に渡り同じ言葉が繰り返された。これだけのやり取りで後続車の列ができた。やむを得ず、用意した名刺を渡しながら最後通告を発した。「とにかく通りますから」。
 不運な巡り合わせで私に対応するおじさんは、驚いたことに名刺を受け取ろうとせずに、身を引き加減にしてつぶやきを繰り返した。「私が困るから、困るから」。意外な消極姿勢に呆気にとられる思いで、さらに念を押した。「いいですね、通りますよ」。徴収員は「ええ」とはっきりいった。名刺は受け取らずに500円玉だけをサッと受け取り、早く行ってくれといわんばかりの態度を示した。半身に逃げる姿勢を取り、トラブル車との関わり合いを避けているのだ。私はホッとする思いで名刺をポケットにしまい込んだ。無理に渡すこともなかろうと咄嗟に判断したのである。
 和合氏の提唱に従って名刺には捺印しこう書かれてあった。「料金不足通行を体験すべくあえて500円で通る者です。逃げ隠れは致しません。首都高速道路公団様」本来は公団本社の関係部局に回されるはずの名刺が、今も記念品として机の中に保存されている。     
 彼のほとばしるエネルギーは最終ページをこう締め括る。

 クレームをつける大切さ、意味・効果が世間大衆に知れ渡る状況になかなかならない。しかし、和合氏は意気軒高である。値上げ分不払い運動はすでに1年を越え、首都公団側は抵抗のポーズを示さなくなった。クレーム提起を事実上認めているのである。
 クレームのつけかたは人によってさまざまな形態があって当然である。なかでも和合氏流の少々荒っぽい抗議行動が意外と大きな効果を上げるかもしれない。建設省などの重い腰を上げさせるにはユーザーである私達が手荒な行動に決起するしかないとさえ思われる。騒動師、扇動師役の必要性を考え、その手助けになるのであればと願う次第である。
 これはもう完全な確信犯。500円通行をこれだけ高い評価をしてくれた内藤さんにはつくづく感謝しています。この運動は大変な数のマスコミが取り上げてくれました。土井たか子さんではないけれど、「山が動いた」一時期もあった。しかし、世論は動かない。問題の解決は手の届くところに見えているのだけれど、蜃気楼のように距離が縮まらないのです。(■つづく)

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首都高速道路500円通行の正義 第14回/内藤国夫さんのボツ原稿

■月刊『記録』95年9月号掲載記事

■和合さん、凄いッ、実に凄い

 取材を申し込んできた彼に私は「500円通行をしてきて下さい」と条件を出しました。やるのとやらないのとでは考え方が全く違ってくる。全く新しい方向で見られ、新しい世界が広がってきますから、と。
 待ち合わせ場所の池袋のとあるラウンジで待っていた私を見つけるなり、彼は自己紹介もソコソコにまるでこらえていた堰が爆発するように口角泡を飛ばして話し始めました。相手の顔すら知らない初対面同士が当然といった風に、やあ和合さんとくる。
「和合さん、凄いッ、実に凄い。やってきましたよ。500円通行ですよ。こんなに簡単にできるとは思わなかった、もちろん何も起こりませんでした。本当にどうなるかと思いました、今でも胸がドキドキしています。イヤー色々見えてきました。道路行政の節穴というか、裏側というか、そんな感じです・・・・」。
 やせぎすの年期の入った小柄なオッサンです。おデコが広くほぼハゲ上ってはいますが、ごく細い毛がハラハラとあり、不毛地帯の最後の生命体という感じ。これが、ジャーナリスト・内藤国雄さんとの出会いでした。
 私は、「そうでしょう、別にどうということはありません。NHKの不払いと同じで不法でも何でもないのです。それにしても、私の取材で500円通行をやって来た人は貴方が初めてです。有り難うございます。共通の経験から始まる今日の話しは楽しいものとなるはずです。宜しくお願いします」と挨拶しました。
 すると内藤さんは、「私の方こそよろしくお願いしますよ。本当にいい経験をさせていただきました。このハラハラドキドキを和合さんは100回もおやりになっているなんて信じられない。たいしたものです」。いやいや内藤さんこそたいしたものです。聞くところによるとなかなか高名な方だそうです。
 彼は文芸春秋の依頼で首都高問題の取材に来たのです。そしてのっけから500円通行を強いられてしまったのです。共通の経験を持つ2人は夜の更けるのも忘れておしゃべりを楽しみました。
 しかし、原稿はものの見事にボツ原稿となったのです。このボツ原稿物語が今回のお話です。
 内藤氏にとってこの体験がいかに強烈であったか、たった100円が醸し出す体験が彼の人生観が変わえてしまったのです。世の中に発表されるなかったボツ原稿には内藤氏のドキドキハラハラの500円通行はこう書かれている。本邦初公開です。暫くは迫力のあるプロの文章をお楽しみ下さい。なお誌面に限りがあるため、誠に僭越ながら私自身が要約した部分があります。

 その首都高で値上げ以前の旧料金500円で難なく料金所を通過するグループが話題と関心を集めている。正規料金を払わなければ通れないと信じこまれていたのに意外と簡単にパスできるらしい。「500円で実際に走り、どういうトラブルが生ずるのか体験して欲しい、その上で首都高の問題点摘出を」と本誌編集部から注文が寄せられ気軽に喜んで引き受けた。あり得ないことがなぜまかり通るのか、以前から注目していたし、首都高に不満をもっている点では人後に落ちないからである。
 盲点を衝き500円通行へと突出挑戦中の和合秀典氏に会うために横浜の自宅からマイカーで池袋へ向かった。首都高用賀料金所で料金不足通過を初体験しようというのである。だが、正直に告白すると、「気軽に喜んで」の気持ちが消えうせ、重苦しいものに変わっていた。たかが100円のトラブルどうということはないはず、それなのに恥ずかしながら胸がドキドキ音を立てる始末、緊張する自分が情けなかった。それ以前首都高団への取材で、浅井理事長や副理事長から、「500円通行はルール違反、馬鹿げた事は絶対にしないで欲しい」とくどいぐらいにお願いされた。

 内藤さんは公団理事長クラスとの面談を終えていました。私がどんな手を使っても会えなかった理事長に、簡単に会える内藤さんに嫉妬を感じたものです。ブランドとはこういうものか。

 おまけに電話で面会の約束を取り付けた際に和合氏からは、「タダ乗りが目的ではない、一方的値上げへの抗議行動です。その主旨を名刺に書いて500円と一緒に料金所のおじさんに渡してください」と注意を受けた。料金所を突破するゲームを楽しむ暴走族とは違うのだから、との説明であった。首都公団の牽制はすさまじいものだった。一部を再現しよう。
浅井理事長談=文芸春秋ともあろうところがそういう企画を試みることはどうかなと思いますよ。伏してお願いしますよ。もしもやると、納入通知書が届きます。最後は強制的に差し押さえます。
野村副理事長=それだけは困ります、編集部から話があったとしても是非やめて戴きたい。勘弁してください。もしも、やられたら、私どもは催促の電話をドンドンかけ職員が催促のためお宅へ行きます。
 渋滞を解消し値上げ時期を遅らせる、努力を怠る首都公団のシリを叩くには、料金不払い抗議行動が効果的。好きでやるわけではないのだけれど試みる価値はありそうだ、そう主張する当方に対して総務部長、広報課長が脅しをかけた。「料金が高いと値上げに反対するのは自由だが社会のルールは守ってください。料金不足通行は不法行為ですからね、警察だって黙ってはいませんよ。和合には一週間ごとに3倍の料金を請求しています」。驚くことに和合と呼び捨てにしている。「フリーウエイクラブの面々は和合に踊らされているのだ」・・・・。
 心臓の強さを自認する私ながら、これだけしつこく翻意を促されると当初に抱いた好奇心、ファイトが萎える。どうせ名刺を渡すのだ、料金所を無事に通り抜けられたとしても不足分をあとで請求される。差し押さえ無効を訴えて裁判で争うつもりはない。トラブルで後続車に迷惑をかけたくない気持ちもある。
 最初は勇み立ったのに引き受けた軽率さを悔やんだ。このままUターンして引き返したくなった。しかし重い気分でハンドルを握りながらも、首都高渋滞への不満はさらに強まった。時間的損失、エネルギー損失を年間合計した天文学的数字について指弾したい思いにかられる。旧料金と新料金と100円の差を突き、和合氏が最終的に裁判での決着を覚悟して首都公団に匕首を突きつける突出行動の重さ、パンチ力を改めて思った。私も逃げずにせめて一度くらいは挑戦するべきだ。ひるむ弱い自分をムチ打って用賀料金所へと車を乗り入れた。
 2月12日午後5時37分、6レーン6ブースあるがボックスの左側から2番目に入った。用意した録音カセットのスイッチを咄嗟にONする。これから始まるであろう料金徴収員とトラブルの会話を正確に記録しておきたかった。緊張のあまり、どんなやりとりになるのか予想できず、また記憶するのが不可能と思ったからである。以下録音されたものを圧縮再現する。

「500円で通過したいんです。そういう経験をしたいものですから」「えッ、何ですって?500円じゃあ通れないですよ、ここは600円」。4回にわたり同じ言葉が繰り返された。徴収のオジサンは始めのうち事態が把握できずに大声で600円を強調した。
「いや、そういう体験ができると聞いたので通らせてもらいます」 「えッ誰が?そんなことないですよ」
 これだけのやり取りで後続車の列ができ、抗議のクラクションが鳴り始める。やむえず用意した名刺を渡しながら最後通告をした。「とにかく一応体験してみますから」。不運な巡り合わせのおじさんは驚いたことに名刺を受け取ろうとせず、身を引き加減にしてつぶやきを繰り返した。「いやいや、私が困るから困るから」。
呆気にとられる思いでさらに念を押した。「いいですか、いいですね」。徴収員は「ええ」とはっきり言った。
 私の差し出した500円玉と名刺のうち500円だけをサッと受け取って、早く通り抜けてくれといわんばかりに半身に逃げる姿勢をとった。「あえて500円で通るものです。逃げ隠れは致しません。首都高速道路公団様」と添え書きした名刺をポケットにアクセルを踏んで急発信させた。「これで逃げ隠れしていることになるのかな、それにしても難なく通れるものだ。阻止しようとしたり、たしなめたり態度がかけらもなかったのはなぜだろう?」。思いつくまままに初体験感想を録音し始めた。情けないほど緊張しただけに物足りない感じがする。
 やりたくなかったけどやってよかった。これまでわからなかったことがわかってきた、いろんなことが見えてきたことをうれしく思うのだった。発見の喜びである。

 とまあこんな具合に延々と続く。さまざまなマスコミとの付き合いのなかで私はたくさんの賞賛と激励を受けてきましたが、ほとんどが川の向こう側から拍手を送ってくるばかりでした。確かに500円通行は危険ではないけれども、始めた当時としては特出した行動には違いない。マスコミの皆さんは向こう側の安全地帯にいて「頑張って下さい」などという人が大半です。最も分かり難いのが「陰ながら応援しています」。何じゃいこりゃあ。
 内藤さんの凄いところは、いかに私が提示したことであれ、有名人でありながら500円通行を自分で体験したことです。しかも、自分が500円通行をやったことを白状し、その調査結果の提出を要求しました。これには完璧に公団が詫びを入れてきた。内藤氏の500円通行を止めることはできないからです。彼は公団の上層部と話のできる自分の環境を最大限に生かしたわけです。 原稿創作中の数週間、私と内藤さんとは24時間ホットラインで、夜中の12時に連絡を取り合うことなどしょっちゅうでした。「あッ和合さん、このことはどう思う。フムフムなるほど、わかった、それじゃまた」てな具合に連日の打ち合せでした。

■あきらめて今夜は飲もう

 誠に残念ではあるけれど、この原稿がボツとなったのです。内藤さんはプライドもあるだろうに、心中いかに、と思うとかわいそうになった。内藤氏は力なく、「和合さん、文芸春秋ではここのところをこう直せば載せてくれるといっているのだけれど、どうだろうか?」と聞いてきます。私とて文芸春秋に載れば一躍世論に取り上げられ、一挙に問題提起にとなるのは間違いないと神にも祈る数週間だったのです。年の離れた親友となってしまった内藤さんにもこの思いは伝わっています。
 世の中うまくいかないものだなあ、とつくづく思います。それでも私は決断しました。「これを直したら意味が全くなくなります。あきらめましょう」。その時の内藤氏の驚いた顔は今でもハッキリ覚えています。「えッ?いやあ和合さんは勝負師だ、わかったあきらめよう、よし今夜は飲もう」となって、後は彼のオゴリで残念会が始まったのですが、泣く子も黙る内藤先生は実は泣き上戸だったのです。その先は次回で。
 とにかく内藤氏は100円で凄じく感激したのだ。人生観が変わるほど感激したのだ。読者諸君はどうでしょうか?ゼヒとも一度体験することをお薦めします。これはやった者でないと絶対に理解できない世界なのです。
 500円通行は、いわゆる常識と非常識の境界線にあります。しかし、この境界線は日々変化が激しい。本質的には変わりはないのでしょうが、外観の変化が激しいのです。価格破壊しかり、自社連合しかりです。つい最近までこんな政治の形は想像もできなかったのに、今は現実となっているではないですか。
 何が起きても不思議ではない歴史の大きな曲がり角である今、私は公団との勝負に本気で勝つつもりです。歴史は逸脱した道を本筋に戻すべく大きくカーブを切り始めているのだから。(■つづく)

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首都高速道路500円通行の正義 第12回/マスコミとの付き合いが始まった

■月刊『記録』95年8月号掲載記事

■週刊ポストに電話を突っ込む

「ふざけるな」の一念で始めた500円通行の先には、今まで知らなかった世の中の信じられないほど馬鹿げた仕組みがありました。何じゃこりゃと激怒し、なるほどこうなっていたのかと感嘆の声を上げながら新しい世界を歩き始めたのです。たった100円で未知の扉を開く事ができたのです。素晴らしく得をした気分です。しかし扉を開くには大変なエネルギーが必要でした。
 まず、当時の首都高速道路公団のしつこさといったらありませんでした。「100円払え」の大合唱のうるさいこと。当時は「勝手に値上げしておいてうるさい野郎だ」と本気で思っていました。時にはチームを5つも組んで何度でも会社に説明に来てくれるので、全く知らなかった有料道路の知識を洪水のように脳味噌へインプットできました。そんな時に電車の中で開いた『週刊ポスト』の「首都高公団の値上げに反対 道路建設の談合を暴く」といった見出しが目に飛び込んできました。同誌は値上げ反対のキャンペーンを張っていたのです。
 すぐさま、「モシモシ、私は和合といいます。値上げに反対して旧料金で通行しています。どうでしょう、公団の連中が来週100円払えと大挙して押し掛けてくるので取材に来ませんか?何で500円で通れるのかって?いや普通に通っているだけです。もう半年前からです」と編集部に電話で告げると絶句しているので、「モシモシ聞こえていますか?私は和合と申します。モシモシ取材に来ませんか?」と繰り返すと、やっとかぼそい声で、「申しわけありません。今、記者の皆さんも出払っています。よろしければ電話番号を教えて下さい。こちらから連絡をさせて戴きます」と気乗り薄な返事。そのまま忘れてしまいました。
 そしてある日、見るからにクラーイ感じのする眼鏡青年が訪ねてきました。将棋の飛車角みたいな顔に見事なエラが張り、眼鏡の裏側から猜疑心そのものといった細い薄目でこちらを見た後、飛車角は目よりさらに薄い唇から「コンニチワ」とか何とか声を発しました。「会社カラ取リアエズ行ッテコイト言ワレタノデ・・・・取材ニ来マシタ」とボソボソ話す彼こそがポストの「公団を暴く」の専任記者であるフリーライターの中川さんでした。
■記者を乗せての不払い実演

 彼を招き入れた私は、「30年で償却し、無料の約束をしておきながら首都高は絶対にその約束を守れない。その原因はプール料金制度という奇々怪々な仕組みにある」と例のごとく口角泡を飛ばしてまくしたてました。ところが今ひとつノリが悪く、ジッと私を見つめています。彼はワゴウという名の世にも不思議なしゃべる動物を観察していたのです。600円のところを500円しか払わず、正義は我にありと滔々と弁論しているワゴウを、シーラカンスでも見るように下から上から観察していたのです。なぜならば、彼は先に取材をした公団から、「和合は気違いだ。とてもふつうの神経の持ち主ではないよ。ポストさんも気をつけてほうがいいよ」などと貴重な忠告を戴いていたのです。
 ちなみに、以後多数の取材を受けましたが、公団取材の後から来た記者諸君は、「大丈夫かな。食いつかれないかな」などと遠くからコンニチワなどと言って様子を観察してから取材を進めます。逆に先に来た記者諸君は実にあっけらかんと、「和合さんの武勇伝は聞いています。ぜひお話を聞きたいのですが、どうでしょうか。私も首都高には頭にきています」と明るいものです。
 しかし、当時はこんな内幕は知らなかったので、「コリャかなわん」と戦術を変え、「百聞は一見にしかず、実践で500円で通るに限ります」と宣言し、いやがる中川さんを隣に乗せていつもの高島平から首都高へと入りました。料金所が近づいたころに隣を盗み見ると、何と彼はカメラを構えてシャッターチャンスはいかにと細い眼を輝かているではありませんか。つい先ほどのボンクラとは別人です。普段はウラメシヤーとでもいいたげな彼の眼が輝くと、その反動で人の倍も輝いて見えます。なるほど、こういうことかと彼を瞬時に好きになりました。
 熱しやすく冷めにくい私は、普段でも人より熱くなっているぐらいですから、ここ1番では全身全霊でサービスしてしまいます。彼のシャッターチャンスのために職員どもを蹴ちらして3度も首都高を往復しました。職員は、「また来たーっ」と大混乱です。
 中川さんも「これは凄い」と大ハシャギです。以後、ポストの特集には毎回私の写真が飾られました。フリーウエイクラブも中川さんとの密着取材の過程で仲間が増えて設立に至ったのです。毎回30人くらいが集まって気勢を上げました。

■フジテレビ出演拒否騒動

 朝6時からフジテレビのお早う目覚まし時計でニュースのまとめなどをしている軽部真一キャスターは、丁寧に区切りをつけて正確に話す誠実さが災いを引き起こしました。公団のデタラメを話してほしいとの依頼を受けた時のことです。
 その頃の私は、番組責任者と徹底的に話し合って、納得を得てから出演していました。見ようによっては無頼漢かトンデモイナイ野郎になるだけに、私の行動に反対の人の番組に出るわけにはいかず、結局3分の1はお断りしていました。
 打ち合わせ中、軽部氏は長時間丁寧に話を聞いてくれ、明朝6時に自宅まで車を回すとのディレクターの挨拶で打ち合わせが終了しました。しかし軽部氏は仕事が終わって気がゆるんだのか、あるいは忠告のつもりなのか、私にとってはとんでもないことを口走ってしまったのです。「なるほど大きな問題です。しかし、私は和合さんの行動に賛成できません。決まったことは決まったこととして守った上でものを言うのが民主主義の原点です」。
 軽部さんらしい真面目な意見ですが、そんなことは百も承知でやっているのです。ある公団幹部に「気持ちはよくわかりますが、決まったことは守るべきで、特出した行動を取るべきではない。他の方法を取るべきです」といわれたことを思い出しました。「他に方法があるならば教えてほしい」というと、「新聞に投書するとかいろいろあるでしょう」と笑止千万な返答でした。巨大官僚組織の横暴を新聞投稿で止められるでも思っているのだろうか。
 いずれにせよ、この一言で出演キャンセルを決断してディレクターに伝えると、驚いたディレクターは、「うかつでした。和合さんの思い入れを軽く考えていました。お許しください。ひとつ曲げてお願いできないでしょうか」といいました。軽部さんも深々と頭を下げてくれて気の毒でしたが、出演は目的のための手段であり、それがマイナスになるのであれば意味がありません。
 ディレクターは、軽部さんを外す形で出演の了解を求めてきました。軽部さんは大変なことになったとうつむいています。打ち合わせに同席していた5人ほどの仲間も、「これほどいうのですから出ましょう」いいますが、答えはNOです。機材を抱えて帰る彼らのさびしそうな後ろ姿を見ながら、「ゴメン。しかしこれは大きなテーマなのだ。道路行政の根幹に当たる大問題なのだ。テレビ出演云々の問題ではないのだ。軽部さんは今回のことを教訓として頑張って下さい」とつぶやきました。
 この話には後日談があります。6年の歳月が流れ、その後のフリーウエイクラブは度々マスコミを賑わしました。ある日私の移動電話になつかしい声が入ります。「もしもし軽部です。覚えていますか?」「いや、よく覚えているよ。毎朝拝見させていただいています」「ありがとうございます。今度うちの企画で首都高を取り上げます。ぜひ和合さんにインタビューをお願いしたいと、お叱りを覚悟で連絡させていただきました。あの時のことを考えると誠に恥ずかしい思いです。これほど大きな問題とは思っていませんでした。和合さんがこれほどのエネルギーで行動しているとは思ってもみませんでした。和合さんに面識があるということでこの役目を買って出ました。よろしくお願いします」。
 もちろん異存があろうはずはありません。こうして軽部さんと劇的な再会を遂げました。しかし、約2時間もかけて制作したインタビューが2分間しか放映されず、ますます磨きのかかってきた軽部さんのクソ真面目さにも腹が立ちます。しかし、これは彼のキャラクターであり生活の糧。もし文句をいえば、「和合さん、内部干渉もいい加減にして下さい」と逆襲必至です。
 ハイッ、すんません。(■つづく)

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首都高速道路500円通行の正義 第11回/ジャガイモ刑事の虚報逮捕

■月刊『記録』95年6月号掲載記事

■フリーウエイ・パレード

 さあ、出発です。山口さんの赤い軽自動車を先頭に、私の愛車プレーリーを頭にハーレーダビットソンやら種々雑多の20台ほどの車と総勢30人ほどのメンバーが続々と続きます。マスコミや警察の車を含めると40台以上の車の行列が出来上がり、道行く人々は何事かと驚いて足を止めます。
 メンバーの顔は輝いています。晴れ晴れと素敵な表情をしています。やがて打ち合わせ通り、最初の入口である阿波座ランプに到着しました。ここで信じられない最初の出来事に出会います。何と入口が閉鎖されているではないですか。しかも首都高と同じ格好で武装した物々しいカラス天狗達が立っています。
 阪神高速道路公団に問い合せると「混雑のために閉鎖した」との返事ですが、見たところ全く混雑はありません。わけのわからない出来事に苦笑しながら構わず入口に向いました。
 2回目の事件は10分ほど経過した頃に起こりました。けたたましいサイレンが鳴ったかと思うと私の前にパトカーが横づけされたのです。「しまったッ、どこかで一時停止でも怠ったか?おっとシートベルトをしていなかった」。あわてて着用して警官を待ちます。さて、パトカーがサイレンを鳴らし、私の車を停止させた理由は何でしょう?私は断言できるが、答えは麻原尊師にも絶対予言できまい。まずパトカーから出てきたのは制服警官ではなく私服の刑事でした。彼は窓越しに私の耳元でボソボソと、「和合さん、何も大阪まで来るこたあないだろう」と言いました。どうも停止理由は道交法違反などではないようです。

■大阪まで出しゃばるんじゃねえ

 まん丸顔にエラが張ったり頬骨が出ていたりでやけに凹凸の激しい顔立ちをギンギラの油ぎった表皮で包み込み、ニキビの噴火口が点在しているこの刑事を「ジャガイモ刑事」と私は名づけました。このイモは私に旧料金通行を止めさせようと脅している「つもり」なのです。可哀想にフリーウェイクラブの会長を知らないなら教えてあげようと、「何だお前は。刑事なら刑事らしく警察手帳でも見せたらどうだ。話はそれからだ。礼儀の知らねえ野郎だ」と挨拶すると、ジャガイモはハトが豆鉄砲を食らった上に激辛キムチを食べてしまったような顔をしています。普段は羊の群れのような一般市民によほど威張って日常を過ごしているようで、ガンといわれる免疫ができていないのです。
 さて会長も静かに下車します。パトカーを前にして対峙している刑事と私の周りの人達は何事かと固唾を飲んで見守っています。ジャガイモ刑事は、「東京だけでやっていればいいだろう。大阪まで出しゃばるんじゃねえよ。グジャグジャ言うとしょっ引くぞッ!」と放言、お行儀の悪さでは完璧に会長の上を行っています。大阪府は税金でヤクザを飼っているのかしら?当然のごとく会長の火山は、「ジャガイモ野郎!しょっ引けるものならやってみな」と大噴火します。完全に東西ヤクザ抗争の様子を呈してきました。マスコミもどうなるかとカメラを回すのも忘れています。
 ジャガイモはさらに恐ろしい事を耳元に囁きます。「調子に乗りやがって、てめえ何を言っているのかわかっているのか。東京まで追っかけてふんじばるぞ」。会長は道行く国民にガンガンと聞こえる大声で「税金で飯を食っている野郎が善良なる国民に何をいっているのだ!ふざけるな、頭が高いッ!帰れーッ」と怒鳴り返しました。ジャガイモ野郎はみるみる赤黒くなって(顔が黒いので赤くなることができない)すさまじい形相でパトカーで走り去りました。大阪は恐ろしい。東京では絶対にあり得ません。後日わかったことですが、阪神高速道路公団の理事長は代々大阪府警からの天下りです。

■不当どころか「虚報」逮捕

 入口を物色しながら最終打ち合せの港大橋ランプに着きます。「騒ぎは大きい方が意味がある」が持論の青木さんが公団に情報を流していたようで、現場はとにかくいるわいるわ、職員がウジャウジャ待機しています。パトカー5台と警察官もあふれ返っています。山口さんが料金所へ車を乗り入れ「一方的な値上げに抗議し、旧料金通行をします」という声明文を読み上げると、さすが大阪、「アホンダラッ、ちゃんと払わんかいッ!」と、途端に品の悪い怒号が浴びせられるとともに職員に囲まれニッチもサッチもいきません。やむなく「値上げハンターイ」とメンバー全員がシュプレヒコーで抗議するといった応酬が1時間ほど続きます。
 野上さんがソッと寄ってきて、「警察の動きがおかしい。気をつけたほうがいい」と忠告してくれたその時。あのジャガイモ野郎が勘高く一声、「山口逮捕!」と吠えました。「バカバカしい、理由は?」「傷害だ」「えッ、山口さんが何かしたかい?」やがて1人の警官に抱えられてきた職員がズボンをたくし上げ、山口さんの車が足にぶつかったと一心に説明しています。納得できない私は、「だってオッサン、何にもなってないじゃないか。それに山口さんの車は走っていないよ。止まっている車がオッサンの足に当たりようがないじゃないか。俺はガンガン走っていたから当てたとしたら俺しかないよ」と憤慨して一生懸命説明したものです。
 しかし彼らは原因や理由は何でもよかったのです。またもバカタレジャガイモが「山口逮捕!傷害現行犯だ」と叫びます。私も人混みで身動きできず、10人くらいの警官が山口さんを連行して行くのをどうしようもできません。しかし山口さんはアタフタとした様子はなく、実に堂々と警官を従えるように歩きます。「今に見ていろジャガイモ野郎。山口さん悪い」とわびます。信じられないことに、同日から12日間も拘留されたのです。
 さあどうする。取りあえず全員集合して対策を練りました。青木さんはマスコミを集め、篠塚さんが記者会見をします。大津卓滋顧問弁護士に頼んで同期の川下先生が駆けつけて下さり、早速港警察署で接見。山口さんは意気剛健で、「人生の良い経験をさせてもらっている」と話をしたそうです。
 たった1日、されど長い長い1日でした。色々な勉強をさせてもらいました。帰りの新幹線の座席に身を沈めると山口さんの顔が浮かびます。少し待って欲しい、そんなに時間はとらせないよ。

吉報です。
フリーウエイクラブ会員の田中健さんが東京都江戸川区議に当選しました。彼は先生になっても首都高通行は500円です。(■つづく)

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行動派宣言! /水俣病センター相思社

■月刊『記録』94年8月号掲載記事

■「水俣病を記録し伝える」考証館活動を展開/財団法人・水俣病センター相思社

■運動の目標

 財団法人の寄付行為には「この法人は水俣病患者ならびに関係者の生活全般の問題について相談、解決にあずかるとともに、水俣病に関する調査、研究活動を行なうことを目的とする」と記載されている。当初目指したことは、患者との共同作業所として、患者のこころの拠り所として集える場所、医療基地として、水俣病を記録すること、の4点があった。しかしそれらも実現の努力がなされ、試行錯誤はあったが、形としては最後の「水俣病の記録と伝達」が現在の活動の中心となっている。

■発足の経緯

 69年に提訴された水俣病第一次訴訟の運動と、同時平行的に展開していたチッソとの自主交渉派の運動が、結審後に東京交渉団として合同して、73年7月、水俣病補償協定書をかち取った。水俣病事件を後世に長く残していきたいという気持ちと、患者たちのこころの拠り所を、という気持ちが水俣病センター相思社を作るきっかけとなった。
 この構想はすでに72年頃から始まっており、同年のストックホルム環境国際会議でも提起された。石牟礼道子、宇井純、原田正純らが設立委員となって、数多くの賛同者を集め、また資金カンパも呼びかけた。

■運動の歴史

 相思社の歴史は大きくは、74~89年まで、90年~現在と分けられる。前期は未認定患者運動を全面的に支えた歴史であり、後期は「水俣病を記録し伝える」水俣病歴史考証館運動に集中している。
74 水俣病認定申請患者協議会設立
75 県議「ニセ患者発言」にたいする闘争
77 ヘドロ処理工事差止め請求/水俣の甘夏取扱開始/水俣実践学  校の開催(現在にいたる)
82 水俣生活学校開校(92年閉校)
86 アジア民衆会議
88 水俣病歴史考証館開館
89 いわゆる甘夏事件、理事相思社辞職
90 考証館移動展開始/機関誌「相思社だより」発行(現「ごんず  い」と改題)
93 埋立地での行政企画にユージンスミスの写真出品

■今後の抱負

 水俣病事件関係のことなら、どんな要求にも対応できる資料・記録のリファレンス機能を持ちたい。また、子供向けの水俣病事件を伝える書籍の出版を。
思い出深い出来事
 89年の甘夏事件。相思社の経済的支柱であった甘夏みかん販売を巡り、「不正がある」との指摘に対して、理事総辞職・職員の半数辞職という事態になった。この問題は甘夏みかんの販売にとどまるものではなく、水俣病患者運動の曲がり角、患者と支援者の関わり、産直運動の困難、などが集中的した結果に起きたことである。
 これによって相思社は患者運動を全面的に支えるという姿勢から、「水俣病を記録し伝える」考証館活動に転化していった。

■工夫している点やユニークな視点

 運動団体にありがちなコスト無視・時間おかまいなしではなく、いわば一般の会社のような規律で運営したい。勢いと数・気持ちだけで押し切る運動ではなく、10年・20年後までも思想的にも、企画としても残って意義ある団体ににしておきたい。

■運動の問題点

 テーマである「水俣病を記録し伝える」ことが、経済的基礎になっていないこと。カンパ・会費・物販が主要な収入である現状が、経済的不安定をもたらしている。企業・行政などからの寄付や、本来的な活動からの収入を軸にすることが問われている。
運動を継続するためのポイント
 水俣病事件の思想的意味や現代的意味を、誰にも分かる言葉にすること。(さとう)

■■■ことばメモ

【水俣病】
 熊本県水俣市にあるチッソ水俣工場のアセトアルデヒド製造工程で生じる有機水銀が汚染した、不知火海の魚介類を食べ続けた周辺住民に発症した。
 意識を失って死亡するほか、手足にしびれや痛み、運動障害や視野狭さく、難聴などが長期間続く。
 公式発見は、チッソ付属病院が1956年、保健所に報告したが、経済優先を掲げていた政府が公害認定したのは12年後。その間に被害は拡大し、多くの裁判が各地の裁判所で争われた。
 熊本地裁の1次訴訟は、73年に認定患者がチッソの企業責任を認めさせた。認定棄却患者らが救済を求めた2次訴訟も原告勝訴、行政責任を問う3次訴訟は、国・県の責任部分について各地裁判所で判断が分かれる。
 また、前述の熊本県の認定作業遅れを違法状態と確認したり、遅延賠償を求める訴訟や、認定棄却の取り消し訴訟、チッソ幹部の刑事責任を問う裁判などもある。
水俣病認定制度は60年に発足。環境庁によると(92年現在)、認定者数は2942人。

■現在の……「水俣病センター相思社」ウェブサイトhttp://www.soshisha.org/

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行動派宣言! /第9条の会

■月刊『記録』94年7月号掲載記事

■憲法9条を拡げるため米国人が設立/第9条の会

①運動の目標
日本国憲法第9条に表現されている戦争放棄の崇高な理念が、取り入れられるように改正が行われること。

②発足の経緯
 91年オーバービー氏が設立した動機は、湾岸戦争において米国政府がとった軍事優先の解決方法が、ばく大な人命の犠牲と、重大な環境破壊をもたらしたことを憂慮、あらゆる国際紛争は第9条の精神に従い、非暴力的手段によって解決すべきであると痛感したことによる。

③運動の歴史
 91年12月、会はオハイオ州政府によって、非営利・平和・教育団体の法人として公式に認可された。
 92年1月、オーバービー氏は東京で開催された国際シンポジウム「アジア太平洋の平和・軍縮・共生のために」に参加のため来日し、この機会に名古屋、広島、東京、仙台において「21世紀以降のモデルとしての第9条」と題する講演を行った。
 92年8月、米国ピッツバーグで開催された「退役軍人平和の会」年次大会において、オーバービー氏の提案により「第9条の会」の趣旨に同意し支持することが決議された。
 93年11月、オーバービー氏は再来日して1か月余り滞在し、北海道から沖縄まで全国約20ヶ所の都市で「第9条は世界への日本の贈り物―非暴力紛争解決による世界平和を目指して」と題する講演会、市民集会を開催した。
 93年11月、「第9条の会」と「平和憲法(前文・第九条)を世界に拡げる会」との共同声明を発表、オーバービー氏、豊田利幸氏(名古屋大学名誉教授)、樋口陽一氏(東京大学教授)による「憲法9条の普遍的心理」と題する対談が行われた。内容は「軍縮問題資料」94年2月号・3月号に掲載された。

④今後の抱負
 人類の歴史における重要な変革期にあたり、21世紀の各国にとって有望な規範と考えられる類いのない立派な日本の平和憲法を、全世界がこれを見ならうように訴えていく。国内、国外からの憲法改悪の圧力に屈することなく、「平和憲法を世界に拡げる会」など、同じ目標をもって活動する草の根市民団体と協力し連帯して運動を進める。

⑤思い出深い出来事
 各地で行われた講演会の準備にあたって、多くの平和運動団体の間に横のつながりができた。ほとんどの講演会場で予想以上の出席者があり、講演後の質疑応答も熱心に行われた。また思ったより若い世代の出席者が集まった。
 93年12月、オーバービー氏は衆議院議員・國弘正雄氏のお取り計らいで、衆議院議長・土井たか子氏、同副議長・鯨岡兵輔氏と懇談することができた。

⑥工夫している点やユニークな方法論
 現在機関誌は発行していない。庄幸司郎氏のご好意によって「告知板」の誌面の一部を提供していただいている。

⑧運動を継続するためのポイント
 関心をもって集まる人は、戦争体験の世代が圧倒的に多い。若い世代の人々に、この運動を継承してもらうことが今後の重要課題であろう。

■■■ことばメモ
【日本国憲法第9条】
 1947年に施行された日本国憲法は、第2章第9条で「1項/日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」「2項/前項の目的を達成するため、陸海空軍その他の戦力はこれを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」と定めている。
 また第9章第96条には憲法改正の規定がある。条文によると「各議院(参議院と衆議院)の総議員の三分の二以上の賛成」によって発議された後、「特別の国民投票」を行うか、もしくは「国会の定める選挙の際行われる投票」を通じて、全投票の過半数を得なければならない。
 政府は1954年12月21日、「自衛のために必要な限度において持つ自衛力は戦力にあたらない」とし、自衛隊合憲論を展開した。以後、自由民主党憲法調査会が1982年に「9条2項を削除して,〈2章の2 自衛隊〉という新しい章名のもとに9条の2を新設するなどとした改正試案を発表するといった動きなどがあったが、改正が具体化したことはない。

■現在の「9条の会」団体ウェブサイト・http://www.a9s.org/

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行動派宣言! /富士見産婦人科病院被害者同盟

■月刊『記録』94年7月号掲載記事

■あれから14年-民事裁判は続く/富士見産婦人科病院被害者同盟

①運動の目標

 事件発覚と同時に被害者の把握と救済、事実を明らかにすることを目的に開始。国や県、医師会、学会などに働きかけ、二度とこのような事件が起こらないよう関係者の責任を問い続けてきた。
 刑事裁判は無資格者による医療の管理責任を問うことに終わり、障害罪告訴は不起訴になったので、病院の組織ぐるみの犯罪、医師の障害行為は民事裁判で問いたいと、14年経ったいまも、東京地裁で闘っている。

②発足の経緯

「おなかの中がわかるいい機械がある」といって超音波診断装置を宣伝に使い、無資格者が診断、手術を勧め、医師たちは不必要な手術(子宮・卵巣摘出)をしていた。この事実を、一患者として入院した人はほとんどみな、見ぬけなかった。
 不信を抱いた患者たちが集まって初めて被害が確認できた時、医療への信頼は裏切られ、崩れた。この時の怒りが出発点であり、「許せない、忘れない、繰り返すまい」が合い言葉である。

③運動の歴史

 同盟結成直後から「アンケートによる実態調査」を行い、カルテ類の証拠保全をして、被害の事実確認。三次にわたって刑事告訴。同様に三次にわたる民事提訴。6か月の閉鎖命令を受けた病院の再開に反対、市民大集会を開き、署名活動、陳情もする。4年後に病院は競売に付され廃業になる。現在は院長が別の所で小さなクリニックを開いている。
 運動は全国の薬害・医療被害者と結び、厚生省や県衛生部へ改善を求める行動に広がり、厚生省交渉の場では患者側からの発言を続けてきた。また、「女のからだと医療を考える会」の発足にも参加。子宮筋腫手術や出産・更年期などに関わる医療を、女の立場で問い直す試みが始まった。
 会員連絡紙は、6年目から「所沢発・なんじゃかんじゃ通信」と題号を変え、現在に至る。「かんじゃ」側から日本の医療が抱える問題を考え合いたいと、医療をめぐる疑問・発言・情報、体の相談コーナーも設けている。ぜひ、お便りをお寄せ下さい。

④今後の抱負

 なんといっても、原告67人が医師6人と理事長、病院、県、国を相手に闘っている裁判に勝つこと。そして、富士見病院の医療は、金もうけのための手術だったことをはっきりさせ、事件が患者主体の医療を確立することに少しでも生かされたらと願う。

⑤思い出深い出来事

 事件報道が盛んだった当初、カメラに追いかけられると、自分が悪いことをしたかのように、顔を隠したり返答を避けたりしないではいられなかった。だが、被害をみつめるなかで、自分は患者としての当然の権利を侵害されたのだという自覚が育った。
 私たちは被害者から自立した患者へと変わった。同時に周囲の女性たちも、自分のからだについて大きな声で話すようになっていった。いまや、インフォームド・コンセントは当たり前というところまで患者の意識は高まってきた。この変化は運動を続けてきたなかで、本当に大きいものとして実感できる。

⑥工夫している点やユニークな方法論

 富士見病院へ行ったという一点だけで知り合った被害者たちは、年齢も環境も考え方もバラバラ。同盟は200人ほどだが、被害を保健所に訴え出た人は1000人を超えた。民事裁判原告を核にして、市民、弁護士、わずかな医者が周囲を支えてきた。
 運動論も何もなく、偶然の出会いから、やむにやまれず関わり合い、その時々の道を探ってきた。不思議なことに、困った時に、頼りになる新たな支援者が現れたり、情勢が転換したりした。
 出会い。寄り合い。去る人。来る人。そんな人の潮に自然に乗ってきたのかもしれない。これからも、怒りを共有してくれる仲間が増え、広く医療への感心を育て合うことができたら、うれしい。そんな機会を待ちたい。

⑦運動の問題点

 裁判が長期化すると息が切れてくる。障害罪告訴が不起訴になったのは医者の裁量権という壁に突き当たったからだが、医療裁判では公平な判断をどこに求めるべきか。やはり良心的な医者の多数の参加がほしい。

⑧運動を継続するためのポイント

 あまり気ばらずに、その時々で一番大事なことを見極め、集中することが大切。納得のいくまで同じ件をむし返したり、ペースの遅い人に合わせる辛抱強さも必要。「木を見て森を見ず」という落とし穴に注意を払い、大きな目的を確認し合っていきたい。

■■■ことばメモ
【富士見産婦人科事件】
 80年9月、埼玉県所沢市にあった富士見産婦人科病院の北野早苗理事長が、無資格で超音波断層診断装置を操作して診断行為をしたとして、医師法違反の疑いで逮捕されたのをきっかけに、手術の必要のない正常な子宮や卵巣を摘出されたという元患者からの訴えが相次ぎ、大きな社会問題になった。
 被害者同盟は、理事長と北野千賀子院長らを傷害罪で告訴、県警は11月、院長ら5人の医師らを医師法違反ほう助と保健婦助産婦看護婦法違反の疑いで書類送検、理事長と院長が起訴されたが、傷害罪は「手術は医師の裁量の範囲内で、治療目的でなかったとするには証拠不十分」として83年不起訴に。
 88年、浦和地裁川越支部は両被告に有罪判決を言い渡した。89年、東京高裁は控訴を棄却、次いで90年、最高裁が上告を棄却したため、早苗被告の懲役1年6月・執行猶予4年、千賀子被告の懲役8月・執行猶予3年の刑が確定した。民事裁判は係争中。

■現在のウェブサイト・http://higaishadoumei.com/

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行動派宣言! /全国じん肺患者同盟長崎県連合会

■月刊『記録』94年7月号掲載記事

■「継続は力なり」を理念として/全国じん肺患者同盟長崎県連合会

①運動の目標

 ①労災保険法、じん肺法・労基法等の改悪阻止の運動の継続②労災保険遺族保証並びに葬祭料の不支給事件に対する是正を求める運動の強化③じん肺症は「全身性疾病である」との法的認知を早急に実現を求める運動の強化④じん肺有所見者(潜在患者)の救済活動の継続強化⑤じん肺の根絶と全被災者の救済を目指す「じん肺訴訟」の支援継続の運動強化⑥会員・准会員・ご遺族との相互扶助と親睦交流の拡大と、物故者の慰霊に関する事業の継続強化⑦同盟本部・友誼団体との運動の研修・親睦交流強化。
 発足時から昭和50年頃までは、もっぱら組織拡大に活動の主体がおかれたが、53年のじん肺法改正、翌年の労災保険法改正等に伴い、療養と保証への危機感が強まり、運動の実践強化が全体の意識として確立してきたといえよう。

②発足の経緯
 若干の推測も加わるが、昭和30年7月けい肺特別保護法(外傷性背髄障害者と抱き合せ)の制定、臨時措置法が33年5月に発足した。また、東京石工・土連総連の運動の継続と合せ、よろけ病撲滅の運動をはじめた。足尾銅山被災者と労働組合の運動が奏功し、35年に「じん肺法」が制定施行されるという歴史の流れと、全ての患者の団結と連帯した運動の体制作りこそ、重要との呼びかけに呼応したといえよう。

③運動の歴史
 基本方針を毎年度開催する「全国代表者大会」において協議し、当面した最重要運動事項をまとめ、労働者を中心に「療養と補償と医療福祉」に関連した各省庁に対し陳情交渉を行ってきた。
 昭和55~56年頃から「中央委員会」を構成し、各地方から選出された中央委員と、同盟本部役員の合議によって「当面する運動課題」をまとめ、労働者(中央労働基準局)を中心に運動を継続。
 長崎県連合会では、個別毎に発生した諸問題は、直ちに関係する行政窓口と対応した問題処理を行っている。

④今後の抱負
 基本理念は「継続は力なり」。法律と施行規則等、法と規則の運用に、不合理と矛盾が残されている現実に対し国会への対応と労働者への個別的問題発生と機敏性のある対応など、過去の運動をしっかりと総括し反省して、体制の再構築が必要である。

⑤思い出深い出来事
 じん肺の根絶と全被災者の救済を究極の目的とした、いわゆる長崎北松じん肺訴訟。日本初の石炭鉱山労働者のじん肺被災者が、被告企業の責任を追及する提訴を、昭和54年11月1日に行ったが、準備体制作りに、52年秋から奔走し、実現させた。
 労災保険法による遺族補償並びに不支給事件に対する、遺族からの要請に応じた不服審査請求を百数十件実施し、原処分の取消しを6件成功させた。
 労災保険による遺族補償並びに葬祭料不支給事件に対する、約百件の再審査請求を民主的有力弁護士と協力し合って実施し、原処分の取消しを4件成功させた。
 かつての親しき仲間であった会員で死去された、物故者の慰霊事業を県連合会の発足と同時にはじめて21回を終えたが、ご遺族の感謝の念はますます高まり、「運動とは形ではない、心から燃え立つものに尽きる」ことを教訓として学んだ。

⑥工夫している点やユニークな方法論
 世話活動に当たるすべての人々が療養患者であるので、県連本部役員のみでは体制が弱く、また行動効果にも低さは免れぬため、大きな世帯会員数を保持する支部長級(5人)を、県連本部役員に準じて、県連本部役員会(年6回)にも出席して頂くと共に、行動についても「各個の体調、地域条件」に従って協調行動を行い、問題処理の遅滞を防ぎ、幅広い助け合いできびしい患者運動を維持するために苦心している。

⑦運動の問題点
 ①直接携わるすべての人々は、同時に療養中の認定患者であるから、その時点における体調によって、行動に大変制約を受ける。
 ②世話活動に当たる患者の高齢化と病気の悪化は必然の傾向であり、後継者の育成で大変苦境に立っている。

⑧運動を継続するためのポイント
 ①犠牲的奉仕精神の強い後継者育成に努力を怠らぬこと②法律(療養と補償と医療福祉)に対する研修は怠らず、問題点の整理をしっかりと行い、先見性に立った説得力のある理論によって、陳情交渉を行い、成果を引出す工夫が必要③療養と補償の関係は、その根本が法と制度の運用にあり、国会審議にゆだねる度合いにあるので、一人でも多くの超党派の国会議員の理解と協力を得るための努力をいっそう強めること。

■■■ことばメモ
【じん肺】
 職業病の一つで,長期間にわたって吸入された多量の粉塵が肺に沈着した結果、肺に広く繊維増殖性変化(肺繊維症)を起こす病気。肺胞への空気の出入りが悪くなり息切れが起こる。病気が進むと,呼吸困難などの自覚症状が起こる。
 長崎じん肺訴訟は、85年の長崎地裁判決で、患者20人分の請求を時効を理由に退け、43人分について一人当たりの慰謝料を2300万円から1000万円の3ランクに算定。89年の福岡高裁判決は、患者30人分の請求を時効とし、一人当たりの慰謝料を1200万円から300万円の四ランクに算定した。じん肺は、症状が重くなるにしたがって管理区分2から管理区分4まで大まかに三段階の行政認定を受ける。
94年2月の最高裁判決で、可部恒雄裁判長は、最大の争点になっていた時効の起算点について、「患者にとって最も重い行政認定を受けたときから時効が進む」と患者側に緩やかな判断を示して、二審で逆転敗訴になった10人の患者について「時効は成立していない」と認めるとともに、33人については、二審の慰謝料額の算定を「低きに失する」とし、合わせて患者四十三人分の審理を福岡高裁に差し戻した。残る患者22人分については、最高裁の判断でも時効が成立するとして、原告側の上告を棄却した。(■つづく)

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鎌田慧の現代を斬る/ヤラズボッタクリ介護法成立に怒る

■月刊「記録」1998年1月号掲載記事 (表記は掲載当時のままです)

*           *            *

■無能無策の労働組合

 不況のうちに新年を迎えた。残念ながら、社会状況はこれからますます厳しくなりそうである。山一証券に代表されるような大型倒産続出の影響は、じわじわと日本社会に浸透していきそうだ。これらは放漫経営によるツケが労働者にまわされたものだが、最大の問題は、労働組合が完全に御用化し、なんの機能も果たしていなかったことである。
 倒産の当日まで、労働組合の幹部がまったく情報をもっていないのは信じがたい。これは経営にたいするチェック機能をもつはずの労組が、なにもしていないことを如実に物語るものだ。企業にたいするYESマンだけで執行部を形成しているから、倒産にたいしてもなんの手も打てない。さらに社員の行く末についてなんの責任ももてない状態にある。銀行・証券の経営危機につづいて、これからはゼネコンの倒産が深刻化するといわれている。すでに闇の存在である外国人労働者の解雇は、急速に進んでいる。力の弱い企業からどんどん整理されていくであろう。そんな状況で労組がまったく役立たないのは、労働者にとっての悲劇といえる。
 また倒産の憂き目をみなくとも、かなりの数の社員がリストラによって会社の外に放りだされ、派遣社員やパートタイマーに代わろうとしている。日本百貨店協会の調べによれば、九二年をピークに社員数は減少している。たとえば、九六年度一〇%だったパート比率は、九九年度には倍の二〇%になると見込まれている。これらは本社員を中心とした労働組合が、組合最大の眼目である雇用さえ守れなくなったのをしめしている。組合費を払っている組合員を守れないのでは、なんのための組合費だかわからない。
 経営者のいうがままの労働組合に破綻が生じているのは、予想された事態である。同様に国を信じきっている国民もまた、ますますひどい目に遭うことが予想される。その典型的な例が、一二月九日に成立した「介護保険法」である。
 これは強権・自民党と腰巾着・社民党などによって強行された法律だが、一口でいえば「福祉」の名を借りたヤラズボッタクリ法である。大衆収奪の極端な例だ。訳のわからない評論家の一人である樋口恵子などは、「問題が多いが条件付き推進派」などといっているが、この法案の本質をわかっているのだろうか。たしかに福祉の問題は、彼女がいうように社会全体で考える段階に入っているが、なにもボッタクリ法案に賛成する道理などない。
 高齢化社会をまじかに控え、老後の介護をどうするかは国民的な課題である。まして社会福祉の遅れている日本は、その制度の充実が期待されている。その国民の不安と期待に乗るような形で同法案を成立させたのは、極めて罪が深い。
 まずこの法案は、実施時の状況がまったく考慮されていない。この法案は二〇〇〇年四月から運用されるが、このとき保険料が一人当たりどれぐらいになるのか、さらにその保険によってどのようなサービスを受け入れるのかが明らかになっていないのである。
 具体的にいうと、二〇〇〇年四月以降に四〇歳以上のものは、加入する医療保険に応じて数千円の掛け金を強制的に払わされる。しかしサービスを受ける権利をもつ六五歳以上のうち、どれだけの人間がサービスを受けられるのかが決まっていないのである。保険料を払っているのにサービスは受けられないという「国家的詐欺(自民党議員)」(朝日新聞・一二月一〇日号)という声まである始末だ。
 そもそもこの法案は、汚職官僚・岡光序治が始めた「新ゴールドプラン」に乗ったいい加減なものである。具体的な内容が決まらないうちに、国民の金を収奪する方法だけが国会を通過したのには、驚かざるを得ない。

■7つの問題点

 介護保険の問題点については、東京都の武蔵野市が簡明にしてわかり易いパンフレット作成し、各戸に配布している。タイトルは「介護保険について、もう一度考えてみましょう。まだ間に合います。保険者とされる武蔵野市からの提言」である。
 ここで述べられている項目は次のようなものである。「一・保険あって介護なし、二・コンピュータによる介護認定は正しいか、三・困った時にサービスが受けられるか、四・選択されてしまう被保険者、五・知られていない被保険者負担、六・厚生省がすべてを管理する中央集権の制度、七・二〇〇〇億円の無駄な事務費」。これらの提言は、法案の本質をみごとに突いている。保険者(実施者)としての自治体が、住民の福祉のために体を張ってこの法案を阻止しようとする姿勢はすばらしい。 まず「保険あって介護なし」という批判については、「介護保険は、はたして、医療保険とおなじように、『いつでも、どこでも、だれでも』必要な時に必要な介護を受けられるような制度となるのでしょうか」と設問している。現在、多くの地域では介護の基板が整っていないためにサービスを供給できない状況にある。この未整備な体制の上に介護保険が導入されれば、介護サービスを受けられない市民が大量に生まれ、地域社会が大いに混乱すると武蔵野市は分析している。
 これは労働災害保険の例からみても、正しい予想だ。 現在、過労死や過労による自殺などを労働災害として申請しても、ほとんど棄却される。保険の認定が官僚の判断によると、不服申し立て申請をしても、なかなかラチがあかないのである。これこそ日本社会における長年の悪弊である。
 それだけではない。労災保険によって徴収された資金は、労働省官僚の経費として使用されているのだ。労働省のさまざまな施設が厳しい審査もなく作られるが、肝心の被災労働者への支払いは極めて姑息に制御されている。介護保険が労災の二の舞になることは、間違いない。

■保険料を払っても介護されない?

 次に武蔵野市が指摘しているのは、「要介護」「要支援」のコンピュータによる判定である。というのも介護を認めないための言い訳として、この判定を使う懸念があるからだ。
 だいたい人間の諸症状が、コンピュータや一律の基準によって「要介護」「要支援」などと判定できるのだろうか。この法案に賛成している人は、医療保険とおなじように考えている。保険証があれば、全国どこでも、だれでも、病院で治療が受けられる制度と混同しているのである。だが実際の介護保険は、介護を要するかどうかを調査員の訪問調査ののち、コンピュータでの処理・判断をさせるという。介護の要請者にたいして、膨大な却下を発生させ、「コンピュータによる基準がありますので」と要請者を締め出す可能性は高い。さらに幸運にして厳しい医療介護認定をくぐり抜けても、一律のサービスが支給され、個人の状況に応じたきめ細かい対策にはなりそうもない。
 しかも四〇歳以上、六五歳未満の人はほとんど無条件に給付されないのである。たとえば交通事故で要介護になっても、対象とはならない。いったいどんな人を介護しようとしているか、さっぱり実態がみえてこない。
 さらに最大の問題が、この法案に隠されている。それは救うべき弱者を切り捨てるシステムが内蔵されていることだ。
 まず保険料の問題がある。保険料は所得別に五段階に分けられているのだが、最低で月額一二五〇円、最高で三七五〇円の定額保険料となっている。しかも導入後はアップが確実で、二〇一〇年には平均で三六〇〇円になると見込まれている。
 先ほども述べたように、これだけ保険料を払っても認定を受けなければ介護を受けられない。さらに介護を受けるために、利用者はサービスの一〇%を負担しなければならないのである。たとえば月三〇万円のサービスを受けたとしたら、その老人は月三万円を支払わなければならなくなる。たとえば年金で月四万円ほど貰っている老人は、保険料と負担料で年金のすべてが国家に巻き上げられてしまう。となれば食べるために、介護をあきらめることになろう。
 一〇%もの負担は低所得者にとって、極めて重い負担だ。これによって、タダ掛けポイ捨ての弱者が多数発生する。しかも介護には保険外負担もあるのだ。それを全額自己負担できる人が、日本にどれほどいるだろうか。今までか細い社会福祉制度でかろうじて支えられてきた人も、保険料・利用者負担・保険外負担によって、受給から排除されることになる。
 あたかも社会福祉を充実させるようなポーズを取りながら、生活最底辺層の経費に国家が手を突っ込み、収奪してポイする法案が許されて良いはずはない。
 もちろん自治体としての問題もある。この法案は、厚生省によって実施するため、市町村にはほとんど実質的な権限があたえられていない。結局、「機関委任事務」が新たにふえたことになる。地方主権が叫ばれているなか、時代に逆行した政策が大手を振って成立したのだ。 このように国民生活に重大な影響をおよぼす新たな制度が、討論のないままに国会を通過し、国民が衆知することなく実施される。しかも社会保険料から天引きされるという最悪のパターンが決定している。これは国民の基本的な人権を剥奪するファシズム的な政策そのものだ。

■国家的火事場泥棒の時代になった

 武蔵野市が先ほど述べたようなパンフレットを作成したのは、保険者(実施者)としての現実的な不安によるものである。土屋正忠市長は、保険料未納者には市がペナルティーを課さなければならなくなると語る。なぜなら未納者が増えると保険が成立しなくなり、市の一般財源をもち出さなければならなくなるからだ。さらに医療介護状態にたいする認定でも、市に不服申し立てが続出するという不安を表明している。コミュニティで支えていく福祉の実践に挑戦してきたからこその言葉には重みがある。
 武蔵野市は介護保険法案に代わる方法として、「高齢者の自立支援・介護は全国民の連帯で支えるため、消費税賦課方式より介護財源を確保する」ことを提唱している。これは消費税方式で徴収された税金が市町村に配分され、市町村が独自のサービスを加えて提供できるように求めたものだ。
 国家がすべての金を握っている中央集権制度とは、またちがった方式である。中央が画策したヤラズボッタクリの大衆収奪法を排除するのに必要なのは、地方自治と住民の連帯による新たな福祉制度の創設であろう。一律に中央がコントロールすべきものではない。さまざまな方法によって介護は行われるべきである。
 介護問題を解決するには、個人の生活を防御する社会福祉政策をどのように充実させていくのか、そのような本質から考えるべきである。高齢化社会における介護不安を呼び水に、不安解消のかけ声で惑わせ、一挙に成立した火事場泥棒的な決定は混乱を招くだけである。それぞれの地域で生きる人の思いを含んだ政策が望まれる。ここで強調したいのは、抵抗しなければ、なにをされるかわからない時代に入ったということだ。 (■談)

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鎌田慧の現代を斬る/大不況を生きる

■月刊「記録」1997年12月号掲載記事 (表記は掲載当時のままです)

        *           *              *

■貧乏人殺しの政府の犯罪

 最近、日本経済の先行きの困難さを、週刊・月刊誌が競うように特集記事にしている。政府はこれまで緩やかな景気回復にむかっていると言い続けてきたのだが、ついにどうしようもない破綻を引き出したのは国家である。すでに三、四年前から、不況は深刻化していたのである。にもかかわらず消費税の値上げなど、政府は逆手の経済政策をとり続けた。これによって余計に経済的な混乱を極めてきたのだから、政府の態度は人殺し的である。
 バブル景気に大盤振る舞いしていたゼネコンの倒産が相次いでいる。東海興業は七月に五一一〇億円の負債を抱えて倒産しているし、多田建設は一七一四億円、大都工業は一五九二億円という巨額の負債を記録した。まさに大型倒産のラッシュである。しかしゼネコンの倒産は、これから本番を迎えようとしているのが実状なのだ。 建設だけではない。銀行も統廃合の方向にあり、三洋証券も三七三六億円の負債を抱えて倒産した。さらに大規模な海外進出を図り、人々の目を引いていたヤオハンも倒産。ダイエーに資金を肩代わりしてもらう状態となっている。このような状況のなか、莫大な不良債権を抱えている銀行がさらに融資を引き締めようとしているのだから、今後、中小企業へも倒産が波及する。そもそもこの経済混乱は、バブル期の放漫経営が破綻したものだ。しかもそのバブルを煽ったのが政府だった。
 たとえば中曽根康弘首相は「舶来品を買え」と大号令をかけ、デパートで自らネクタイを買うデモンストレーションをしたことさえしていた。当時、日本企業の輸出攻勢によって貿易摩擦が激化。海外からの強い批判を輸入品の購買によってかわそうという姑息な手段で、無駄な買い物をしろと国民に強要したのだ。では企業はどうしていたかといえば、合理化を進めて現場の労働者を苦しめながら過大な超過利潤を獲得。一方で海外摩擦というツケを、勤労者の無駄な買い物によって解消させようとしていたのであった。
 バブル期の精神的な後遺症は、無駄遣いの増大と、ローン至上主義だった。これは土地や株が暴騰するという前提の上に立った価値観だ。銀行でローンを組み、不動産や株を買えば儲かるなど虚妄としかいいようがない。しかも土地の高騰は、税収入を増やし国庫を潤したのである。バカをみたのはなけなしのお金を不必要な不動産や株に投入した庶民であった。しかも地価の高騰にたいする期待が身分不相応な不動産を買う傾向につながり、いまなおローン地獄に苦しんでいるサラリーマンは、膨大な数にのぼる。バブル崩壊以降、自己破産の件数がうなぎ登りになっているのは、その証明である。
 むろん不動産業も、ゼネコンも、銀行も、生命保険も、膨大な不動産を取得したはいいが、塩漬けにしている。それが事業経営に大きな負担になってしまったのだからバカげた話だ。そして銀行は苦し紛れに、ゼネコンや証券会社への支援を打ち切らざるを得ない。輸血を止めるなら、死ぬしかない。ツケを先延ばしにして延命してきた企業に、遅ればせながら地獄が現れたのである。

■四八万人が一年以上失業

 これまでも不況はつねにあったわけだし、それに伴う解雇・首切り・リストラは続いてきた。しかし今回は、世界経済の不況も同時に起こっている(米国経済は、まだ堅調であるが)。香港の株式暴落やタイのバーツ暴落などにより、アジア各国に投資した膨大な資金を回収できるかどうか。それが今後非常に注目すべき問題となっている。
 またアジア各国の不況により、海外進出の伸びが止まった。たとえばタイのトヨタ工場は、操業中止に追い込まれた。いまにも各国で操業中止・撤退が始まろうとしている。こうなると内需拡大しか景気浮上の方法はない。しかし先ほど述べたように消費税の値上げは大きく、減税はうち切られ、医療費の値上げも実行された。そのうえ厚生年金への不透明さが将来への不安を煽り、消費へ手がまわらない。
 すでに消費税の値上げによりデパートやスーパーの消費が低落してきていたが、ついに一人勝ちを続けていたコンビニエンスストアの売り行きも落ちてきている。いま街には底冷えの気配が濃厚になってきている。
 これにともなって失業者の増大にたいする懸念も強くなってきている。いままでも大失業という見出しによって、バブル崩壊前後にも何度か不況が取り沙汰されてきた。しかし、これは大失業という脅かしにより、労働者の抵抗を抑えるという戦略的な誇大宣伝の色彩があった。しかし今回は少しちがう。
 総務庁が六月に発表した九七年の労働力特別調査によれば、完全失業者二三〇万人のうち、一年以上の長期に渡って失業している労働者は、四八万人と全体の二〇・九%を占めている。
 そもそも日本の失業率統計は、きわめて曖昧なものだ。調査期間の一週間に一日でも働いたものは、失業者に入れないという厳格な基準がある。つまりパートやアルバイトで一日でも働けば、立派な就労者として集計されるのである。さらに半失業状態の家内工業で働いているものも、就労人口のなかに組み入れられている。こういった数字の操作により日本の失業率は三%を保っているが、実態は五%強とも推測されている。こんなごまかしだらけの総務庁の統計でさえ、一年以上就労していないものが二〇・九%もあるというのは、これまでになかった非常に深刻な事態である。

■年収五〇〇万から一八〇万に

 都立労働研究所調査には、次のような事例が報告されている。
 この調査は、都内の職業安定所や専門学校へ通う四〇~六〇歳代の六五人に、研究員らが面談調査した。いくつかの実例をみてみよう。
 <2年前にレンガ製造会社を早期優遇退職した57歳の男性は、あっせんされた再就職先が倒産。自分で探した会社に移ったものの経営が不安定でこれも退職、友人と事業を起こした。が、採算はとれず、妻がパートに出始めた>
 <49歳の自営デザイナーは、得意先の倒産などで一時は500万円あった年収が180万円程度に。1995年春に廃業後、経験を生かせる再就職先はない。在学中の子供2人を抱え、妻のパート収入と預金の取り崩しでしのいでいる>
 <課長として働いていた機械設計会社が倒産した45歳の男性は、これで3度目の倒産・閉鎖。設計技術を生かそうとしても、募集は40歳まで。子供2人が在学中。妻はパートに>
 <52歳の男性は総務部長を務めていたホテルが閉鎖され、後始末のため最後まで残った。その過程で経営者と従業員の間のトラブルに巻き込まれた。人間関係への不信が始まり、1、2年で転職を繰り返すなど、定職に就けなくなった>
 <47歳の男性は印刷工場などを15年間経営していたが、バブル直前に街の再開発計画が浮上、協力するため事業をやめ、土地を売った。売却益で他の土地など資産を獲得、事業再開時の元手にしようとしたが、バブル崩壊で資産価値が低下、再開発計画も進まず、身動きが取れなくなった。やむを得ずハイヤー運転手になったが、会社が親会社に吸収され退職、無職に>
(読売新聞 九七年一月二一日)

 日本の失業者は欧米よりも深刻な問題を抱えている。なぜかといえば、雇用保険(かつての失業保険)がきわめて短いからだ。そのため若手・若年労働者は、低賃金なパートに出るしか方法がなく、中高年は行き場を失うはめになる。もちろんヨーロッパのように、失業していてもいくつかの社会保障によって生きていける福祉型社会には到達していない。
 また日本社会では、失業者が無能なものとして差別される傾向が強い。本人も昼間ぶらぶらしているのが格好悪いと感じ、仕事もないのに毎朝定時に出勤して世間体を保つという現象まで起きている。失業しても堂々と生きているヨーロッパなどと比べると、社会的な風習に大きなちがいがあるのがわかる。

■自分の権利は自分で守れ

 問題は労働組合である。
 自民党の陰謀によって、総評が解体され連合が成立した。そして多数の労働組合出身議員を抱えていた社会党が崩壊をみたのは、周知のとおりのである。これによって大企業の労働組合は、多くの機能を失ってしまった。 このたび連合会長になった鷲尾悦也のように、東大出身の官僚が労働官僚にスライドするという状況が生まれているのである。まったく労働運動の経験がなく、労働運動の精神などとは無縁の人物が労働界に君臨しているところに、大企業を中心とした労働組合の退廃が表れている。
 失業者とは、工場の塀の中から表に叩き出された労働者のことであり、労働組合とは塀の中から失業者を出さない歯止めとなるものである。しかしオイルショック以降の労働運動は、経営者の要請に合わせて労働者を組合が首にしてきた。これでは今回の不況にたいして労働組合がまったく機能しないのは当然である。そもそも労働組合の精神など、とっくに喪失しているからだ。
 一方で、中小の労働組合や地域ユニオン(コミュニティユニオン)、なんの組織もなく追い出された管理職を組織した管理職ユニオンは、依然として健闘している。これらは個人加盟の労働組合であったり、地域の労働組合が集まって組織をつくり、一人の首切りにたいしても他の労働者が駆けつけるという昔ながらの労働運動を展開している。
 大企業と大組織はすでに空洞化しているが、その周りにある中小の労働組合が、これからどれだけ失業にたいして連帯して闘争していくか、ここに可能性がある。そういった運動が、不況に名を借りた政策的なリストラにたいする歯止めとなるであろう。
 また労働者を簡単に首にはできないという信念を、個人ももつべきである。不当な解雇や嫌がらせにたいし、労働法や憲法の基本的な人権を中心とした共闘がさらに必要となってくる。この二〇数年間、日本の労働者はあまりにも安閑とし過ぎてきた。この不況にたいして無抵抗のまま、経営者の言うがままに解雇が進めば、それがさらに購買力を失わせ、不況の泥沼に落ち込んでいくであろう。
 日本およびアジアの経済の見通しは、米国経済に依拠するきわめて変則的な状態になっており、米国の株価の上下に一喜一憂する状況になっている。米国経済がどこまで好況を保ち続けるかは、保証の限りではない。こうして世界同時不況という恐怖に、いま全世界が落ち込んでいる。これらは工業生産や金融に特化し過ぎた経済行政の必然的な結末であった。本来は国際競争や企業間競争だけでなく、農業や各種産業をバランス良く発展させていくべきである。
 いずれにしても不況は深化しそうだが、いたずらに動揺すべきではない。自分たちの権利は自分たちで守るという抵抗を基にした自己防衛が必要となる。クビ切りを認めてはいけない。抵抗しても殺されるわけではない。人間のプライドをかけて、闘うべきだ。 (■談)

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だいじょうぶよ/第一回 殴り倒して気分は真っ暗

■月刊「記録」1999年7月号掲載記事

■神山 眞(かみやま まこと)・・・1967年東京都生まれ。1991年4月障害者プロレス団体「ドッグ・レッグス」に参加。1994年横浜にある養護施設の児童指導員となる。1998年養護施設を退職。同年6月、日焼けサロン「マチズモ」をオープン。

         *          *            *

 あれは九月の中頃、夕方から夜にかけての出来事だった。
  「てめぇ、店の金盗ったろ。ふざけんじゃねえぞ。しかも友達のせいにするとはいい度胸じゃねえか。ぶっ殺すぞ」
 ぼくはわれを忘れてあいつを殴った。薄暗い四畳半の部屋。あいつは壁まで吹っ飛び、床に崩れ落ちるように倒れた。脱ぎっぱなしの洋服。生ゴミが詰まったコンビニの袋。無造作に丸めただけの布団。それらがところどころ小さな山を形成している安普請の小汚い部屋。
 髪の毛、むだ毛、埃、食べかすで覆われたじゅうたんは、もはや元の色を判別することすらできない。そんな部屋の床にへたり込んだあいつの口は、まぬけに半分開かれたままだ。震えているわけでもなく、怯えているわけでもない。ぼくにはあいつの表情から何かを読み取ることはできなかった。
  ……お似合いだ。はじめの勢いを失ったぼくは、壁にもたれたあいつの顔を眺めながら自嘲気味にそう思った。汚く混乱した部屋でうだつのあがらぬ三〇過ぎの男が、IQ72のアホ面した男を殴る。落ちぶれた感じがしてとてもいいじゃないか。この日の夜は二人にとってまさにお似合いの夜だったのだ。

■「だいじょぶよ」が口癖

 あいつの名前は正利。頭ばかりが異様にでかく、極端ななで肩。機嫌がいいと眉毛がカモメような形になり、笑ったような表情になるが、機嫌が悪いと下唇が出っ張って悪人づらになる。IQは72。ちなみに、知的障害者として『愛の手帳』が発行される上限を示す数はIQ80だ。しかし実際の生活能力はもっと低く、他人とのコミュニケーションではいつもズレが起こる。うつろな目で鼻水を垂らして半開きの口でいう独り言が、あいつの数少ない意志表示の方法となる。
  「あっ、そうかぁ。はははは」これは誰かと話したい、いわゆる機嫌のいい時。
  「こまったなぁ。ちょっとむずかしいよなぁ」これは欲しい物があるのにお金が足りない時。お前なぁ、…わかりやす過ぎるよ。
 しかし、そんなあいつの仕草や表情を見て、「かわいい、かわいい」と騒ぐ女の子達もいる。彼女達には半開きの口やつながった眉毛さえも、あどけない無垢なものに映るようだ。
 とんでもない! ぼくにはあいつの表情もしぐさも、すべて計算されたむかつくものとしか思えない。基本的な生活習慣――あいつは一八歳になったというのに、洗濯する、掃除する、風呂に入る、顔を洗う、歯を磨く…等々、どれ一つできずに、ぼくが手取り足取り教えている――さえ欠如しているのだ。なのに、そんな仕草だけ計算できるとはどういうことだ!? おそらくは本能的にやっているのだろうが。
 いずれにせよ、ぼくがあいつと出会ってすでに五年が経とうとしている。そして、いつでもぼくはあいつを怒り過ぎてしまう。なぜ、ぼくはいつも怒りすぎてしまうのか。それはきっとあいつからの反応がないからだ。ぼくがどんなに腹を立てていようと、あいつは何も感じない。何も焦らないのだ。
 いつもそうだ。いつだってあいつはそうだ! いつも自分では何もしないし考えない。誰かが何とかしてくれると思ってる。どんな時も誰かが助けてくれると思ってる。
  「だいじょぶよ」
 あいつの口癖だ。いつでもどこでも誰にでもあいつはそう答える。だが、あいつの人生は、決して大丈夫ではなかったはずだ。あいつの親はあいつに熱湯はかけたけれど、ご飯は食べさせなかったじゃないか。あいつの親はあいつの頭に傷が残るほど暴力をふるったけれど、学校には通わせなかったじゃないか。再三にわたる虐待。 そんなろくでもない親から捨てられたのは、あいつが小学校三年生の時だった。養護施設に入ってなんとか学校に通い始めたのに、まもなくあいつには新たな問題が発生した。名前も満足に書けない状態だったのだ。まともな教育を受けていなかったせいもあるが、実は知的能力がいちじるしく劣っていた。

■お前のための店なのに

 IQ72。これは、あいつがはじめて知能テストを受けた時の数値である。小学校、中学校と普通学級で過ごしたが、授業内容はほとんど理解できなかった。オール一の成績では高校進学も叶わず、中学卒業と同時にあいつは社会の荒波に放り出された。それでまともに勤められるはずがない。現場仕事を転々とする毎日だ。結局あいつは逃げ出し、僕の経営する日焼けサロンにたどり着いたのだった。
 ぼくとあいつは日焼けサロンで共に働き、四畳半の倉庫で共に暮らした。今度こそ何もかもがうまくいきそうに思えた。まさに二人とも「だいじょぶよ状態」だったのである。そう、最初のうちは……。
  「おい、そこのゴミ捨てといて」「あとでやっとくよ」「買い物しといてくれた?」「あー、明日やっとくよ」「大丈夫なの?」「だいじょぶよ」「おい、店では敬語使えっていったろ?」「だいじょぶよ」「だからそれが敬語じゃねぇんだよ!」 住むところと職場、そして友達をゲットしたあいつは、次第に調子に乗り始め、僕の言うことを聞かなくなっていった。
 だいじょぶよ、だいじょぶよ。きっと今日もだいじょぶよ。寝坊したけどだいじょぶよ。店の金少し盗んじゃったけどだいじょぶよ。友達のせいにしとけばだいじょぶよ。だいじょぶ、だいじょぶ。いままでだってだいじょぶ。これからもきっとだいじょぶ。だいじょぶ、だいじょぶ、だいじょぶよ。
 そもそも日焼けサロンだって、あいつのために作ったようなものだった。どこの現場に入っても同僚にいいように騙され、金を巻き上げられ、ついには罪を被せられて追い出されてしまう。そんなあいつがずっと働き続けられる場所をこしらえるために、さんざん借金して作った店だった。なのにあいつは無反応。そしていつもマイペースだ。
  「正利、客来ねえなぁ」「だいじょぶよ」「正利、電話も鳴んねえぞ」「だいじょぶよ。ははははは」

■限界を越える日がやってきた

 慣れぬ仕事を終え、くたくたになって倉庫に戻る。そこからがまた大変だ。倉庫には店で使うタオルが何十枚と干してあり、乾かすための乾燥機が常にゴーゴーと音を立てていた。倉庫の湿度と温度は著しく上昇し蒸し風呂のようだ。この悪条件の中で大の大人が二人、じめっとした布団の上で大汗をかいて、明日に備えて眠らなければならない。
  「もうダメだ……」
 あいつを殴った夜、ぼくは心身ともに疲れがピークに達していた。こんなに疲れて頑張ってるのに、それなのに奴は店の金を盗みやがった。人の心配をよそにイビキかいて居眠りしてんじゃねえよ。ぼくは決めた。今日はあいつにとってはじめての「だいじょぶ」じゃない夜にしてやろう。だいじょぶなんかにするものか。ぼくがあいつにとって、はじめてのだいじょぶじゃない人間になってやる。
 やることはただ一つだ。壁に力なくもたれかかっているあいつを再び引きずり起こし、さらに殴り続けることだ。「正利、てめぇでていけ! 顔も見たくないんだよ。お姉ちゃんのところに電話しろ!」そう言うやいなやぼくはあいつに近づき、胸ぐらを力一杯つかんだ。
  「やだ」。いつも通り短く簡潔な返事だったが、心なしか声が震えているような気がした。驚いて顔を上げると、伸びきったダブダブのシャツに埋もれたあいつの顔に、少しだけ変化が表れていた。おびえているのか? そう思うとぼくの体中に喜びがあふれた。良くも悪くもあいつが反応を示している。怖いのか!? このぼくを! 怒りと嬉しさの渦が湧きあがってきた。倒錯の喜びのただなかで、ぼくはひたすらに殴り続けた……。

■倉庫に戻るとあいつは

 いったい何発殴ったろう。自分の拳に違和感を感じて、ぼくはわれに返った。血がついていた。ぼくは手を洗って表に出た。すっかり陽は暮れている。もうあいつが金を盗んだことも、友達のせいにしたこともどうでもよくなっていた。それよりも人を殴る快感のほうがはるかに強かったのだ。
 なんて気持ちがいいんだろう。抵抗しない人間を殴りたいだけ殴る。罪悪感も うしろめたさも哀れみも忘れて殴る。そして何より、いつもぼくにつきまとっていた不安が、たとえひとときでも一切消えたのだ。
 しかし、そんな異常な精神状態がいつまでも長く続くはずがなかった。ぼくはふとあいつのことを思った。「いったいどれだけ殴ってしまったのだろうか?」いずれにしても、あいつが何かを決心するのには、十分だったのに違いない。

――せんせい いろいろとありがと 
  おれ、いえとしごと をさがしにいくよ
  ここにいるとまたうそをついちゃいそうだから
  さよなら
                  まさとし――

 深夜二時。仕事を終え、倉庫に戻るとあいつの姿はなかった。あいつは出ていったのだ。一枚の書き置きを残して……。
 探さなければ。そうは思うものの、全身の力が抜けてしまってどうにもならない。もうあとの祭りだったが、「バカなことをした」とぼくは、ぼくのしたすべての行為を後悔した。
 つい殴り過ぎてしまったこと。いつも叱りつけてたこと。朝、いつまでたっても起きないあいつの頭に目覚まし時計を投げつけたこと。そういえばあいつは倉庫に扇風機が欲しいと言ってたっけ……。でも金がなくて買ってやれなかった。予想以上にかかる店の設備投資を優先するしかなかった。だから毎日汗をびっしょりかきながら二人で寝ていたんだ。食費も切りつめるだけ切りつめてきた。米だけ山ほど炊き、おかずは一日一品だけ。それでお腹をいっぱいにしたんだ。二人で今さえ切り抜ければ何とかなる。ぼくはそう思っていた。それなのにあいつは……。

■このたまらない喪失感

 ぼくは部屋中を這って、何か手がかりになりそうなものを探した。ぼくの菓子パンが二つとも消えていた。ぼくのシャンプーがなくなっていた。店の自転車もない。炊飯器の中はすっかり空になっている。トイレには流し忘れの大きなウンコ……。ぼくは仲直りのつもりで買ってきた二人分のコンビニの弁当が入った袋をぶら下げたままだった。コンビニの弁当は食生活を切りつめていたぼくらにとっては贅沢品だった。
 昼から何も食べていないことを思い出し、弁当に少し口をつけてみた。だが、どうしても喉を通らない。これからどうすればいいのか。とりあえず外に出て、自転車に乗った。
 公園、空き地、駅のホーム。手当たり次第に探し回った。出がけに降っていた霧雨が、新聞配達のバイクとすれ違うころには激しい雨に変わっていた。台風が近づいていた。
 あいつは三日経っても帰ってこなかった。一週間、一〇日、二週間……。それでもあいつは帰ってこなかった。その気持ちをなんと表現したらいいのだろう? 喪失感? 強いてあげれば父が亡くなった時の気持ちに似ているような気がする。とにかく寂しかった。四畳半の二人でいるとあんなに狭く感じた部屋が。
 ぼくらには布団を畳み、押し入れにしまうという習慣がなかった。朝起きたら、掛け布団も敷き布団も一緒くたに丸めて部屋の端に押しやっていた。それだって日焼けサロンで使うタオルを畳むためのスペースをつくるために無理矢理やっていたぐらいだ。いつもグルグル巻きの布団が二巻き並んでいた。それなのに今は一巻きしかない。たまらなくあいつに会いたかった。
            *
 今から五年前の春。ぼくは横浜にある養護施設、N学園で児童指導員として働きはじめた。仕事の内容は簡単にいうと、親の事情で入所した小学校一年から高校三年生までの子ども達の生活指導をすることだ。
 N学園の職員は指導員、保母合わせて一五名。それぞれが四から六名の子どもを担当している。どの子どもを担当するかは、年度末に行われる職員会議で職員同士のディスカッションによって決められることが多く、子どもが職員を選ぶことはできない。初年度であるぼくには、主任によって選ばれた四人の子どもが決められていたが、勤務初日の四月一日までは会うことはできなかった。

■ぼくの「家族」を作るのだ

 どんな子ども達だろう? 想像するだけで、月並みな表現ではあるが、期待と不安で胸が一杯になった。できれば思いっきり暗い顔をした不幸な奴がいい。そういう奴らとぼくが思うところの、理想の疑似家庭を育むのだ。人を信じない奴。家族とさえ打ち解けられなかった奴。友達を作れない奴。恋すらしたことがない奴。きっと養護施設はそんな奴らの宝庫に違いない。胸が震える。 ぼくは、養護施設に入る前には、叔父のタクシー会社に勤めていた。右を見ても左を見ても親戚だらけのいわゆる血族会社だ。業績は市内で二、三位を争う優良企業であった。
 社長である叔父は売上ばかりを気にする真面目一辺倒な性格。さらに血のつながりをやたらと大事にする人だった。実際、仕事上のつきあい以外に友達と呼べる人間が誰一人としていない彼にとって、家族、兄弟、親類、そしてそれらみんなで寄り添うように作った会社は何より大切なものだったろう。
 けれど叔父にとって大切なものは、ぼくにとっては何一つ大切ではなかった。むしろ疎ましいものであった。私生活はおろか先祖代々までわかり合った者同士が顔をつき合わせて働く職場。血と利害が絡み合うがんじがらめの毎日は、ぼくにとって窮屈以外の何ものでもなかった。そんなものに価値を見出して、しがみついている叔父の姿がたまらなかった。目にしたくもなかった。
 ぼくは、ここではない違うどこかで、血のつながっていない者だけで「家族」を作ってやろうと考えた。血など介さなくても、人間は信じ合うことはできるのだ。そして叔父の会社を辞め、養護施設を選んだのだった……。

■不幸な子ども達よ! ここへ来い

  「来るんじゃなかった」
 勤務初日だというのに、ぼくの頭の中はすでに消極的になっていた。桜の花が満開に咲き乱れる中庭。バレーボールに興じる男の子と女の子。彼らの姿は兄弟にも見えるし、友達同士にも見える。皆、暖かい陽射しを受けて、きゃーきゃーはしゃいでいる。彼らの姿から悩みや不幸を感じ取ることはほとんどできない。
 その楽しそうな顔を見ていると、ぼくは疎外感を感じた。そして「来るんじゃなかった」という思いばかりがますますふくれあがった。
 だが、もう手遅れだ。状況はすべて整ってしまった。造りはしっかりしているが、かなり古びた建物。その建物の入口から四十代の男がぼくに手招きしている。もう逃げることも隠れることもできないのだ。だってもうすぐ、ぼくのためのオリエンテーションが始まるのだから。
  「神山先生は初年度ですから、あんまり問題のある子どもを担当することはないですよ」と、全く抑揚のないしゃべり方で主任は言った。どこか事務的な感じがする。それでも話すことは好きなようで、ぼくが「問題のある子もいるのですか?」と話を向けると、やくざになった男の子や妊娠してしまった女の子の話を得意げに始めた。
 ぼくは改めて主任のいでたちを眺めた。すると全身が、いかにも養護施設で働いている人間っぽい。アディダスでもナイキでもない、どこにも属さないメーカーのジャージのパンツに古びたセーターの四十男。その着こなしに、ぼくは少し好感と親近感を抱いた。
 やはり養護施設なんだな…。先程までの「来るんじゃなかった」という気持ちが少し薄らいだ。
  「ちょっと、待ってくださいね」
 主任はおもむろに立ち上がると、マイクを手にして館内放送をかけた。四名の名前を呼んでいる。ぼくの担当児童である。さあ、いよいよだ。来い、来るんだ、不幸のどん底みたいな奴よ、ここに集まれ!
 そしてぼくは、主任に促されるままに「シオン」という部屋へ向かった。 (■つづく)

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保健室の片隅で/第二回 自殺未遂の果てに…

■月刊「記録」1998年2月号掲載記事

            *         *            *

■誰かに止めてもらいたかった

 生きていくことに、何の意義があるのかと疑問を持った瞬間、死にたくなった。
 生きていてもしょうがないって思い始めたのは、中学校にあがって、保健室にたびたび顔を出すようになった頃だ。やっぱり、保健室にいつも顔を出すっていうのは尋常じゃないから、先生はいろいろな質問を投げかけてくる。
「友達いないの?」
「教室嫌い?」
「好きな子いないの?」と。
 そんなこと聞かれたって、どれも答は一つだけ。「先生には関係ないじゃん」だ。特に私を気にかけてくれていた新米の先生にはコタえる返答だっただろう。
 けれども、聞かれる私もつらかった。友達がいなくても平気みたいな顔していたけど、本当は寂しかったから。行けるものなら教室にも行きたかったし、その頃はじめて経験した恋は、「このまま、あの人を好きでいるまま死んでいきたい・・・・・」などと、死に迷う私に追い討ちをかけていた。
 見た夢は数限りなく、やりたいことは人一倍多かった。だけど、その夢をかなえるための手段がわからなくて、越えなければならない難関も多くて、かなうアテのない夢への絶望が、私に大きくのしかかる。もう、お先は真っ暗状態、何もやる気になれない。できることなら、この世の果てまで逃げ出したかった。死んでしまいたかった。
「この前、一騒ぎ起こしたんだって?」
 中一の夏休み明け、学校を騒がせた私は、真っ先に向かった保健室で先生にいわれた。
 夏休み明けに私が起こした事件は二つあった。そのうち一つは家出だ。いつもこの家を出ていきたいと思っていたから、タイミングを見はからって遠い街まで遊びにいったのだ。「家を出るときには、すべてを置いて出ていけ」というのがわが家の鉄則だったから、ほとんど手ぶらで家を出た。
 何度もうしろを振り返っては、誰も見ていないか、追いかけてきたりしないか、半分の恐怖と、半分の期待で心臓は破裂寸前となった。バカなことをやっているのはわかっていた。だから、誰かに止めてもらいたかった。でも、止めてくれる誰かを探して振り返る先には、出勤や登校に急ぐ人の波が冷たく流れていた。この家出が、私が「逃げ道街道」を歩き始めるキッカケだった。
 家出といっても、泊まるあてがあるわけではなくて、知らない街で誰も知らない時間をすごし、お金が尽きたところで家に連絡をして迎えにきてもらった。
「先生たちも一生懸命、探し回ってくれたんだからね。みんな心配してるのよ」
 誰からとなく、何度も聞いたこのセリフ。そんな時間が、親や周りの人に迷惑をかけている時間が楽しかったといったら、精神的になんらかの異常があると思われるだろうか。今になって思えば、自分でもそうだったかもしれないと感じている。
 学校側が知っている私が起こした騒ぎはこれだけだったけれど、実はこの前日にもう一つ、事件を起こしていた。

■それは自殺未遂。

 正確にはそこまでいうほど大ゲサなものではなかったけれど、興味半分で、カミソリで手首に切り目を入れてみた。テレビドラマとは全然違っていて、にじみ出る程度の血と、ほとんど感じない痛み。そして心に残ったものは、愛する人を手首に封印したという自己満足感と、自分には見えてしまう、ミミズばれのような悲しい傷だった。
 何に対しても投げやりになっていた。感情というものが、私のなかから消え去っていたんじゃないだろうか。
 その後も、自殺未遂騒動を二回起こした。この二回は結構騒がれて、救急車と警察官まで出動させるほどになったりもした。クズと思われていたに違いない
 何で死にたいと思うのかと聞かれると、いつも生きている意味がないからと答える。死ぬ理由がないかわりに、生きる理由もない。だから生きていたくない。それだけのことで自殺未遂なんて、話を聞いている人達はあきれたに違いない。
 でも、たったそれだけの理由で死を選ぼうとするのは、実は私だけじゃなかった。そのときの私の周りには、何人も同じような子がいたから、何の不思議も感じなかった。ただ、実行に移していた子は、少なかったけれど。
 いつも質問ばかりされている私が「ねえ、何で私は生きていなけりゃいけないのかなあ?」と先生に質問を投げかけた。相手にしてくれる先生、してくれない先生、みんな答えはバラバラだったから、何人にでも、自分の納得のいく答が出てくるまで聞き回った。
「せっかくもらった命は、大切にしなきゃいけないのよ」。そんな答が多かったけれども、ひねくれ者の私には、「生んでくれと頼んだ覚えはないわ」としか思えなかった。そう私が口にすると、「生きていれば一度くらいは、そう感じることがあるのだ」といわれた。そういえば、「どこの家庭でも、同じようなことがあるんだよ」といわれたときには、迷子になった自分の心が一瞬、戻ってきたような気がした。
 思えば、どこにいるときでも、周りにいる誰もが心配してくれていたと思う。学校に行っても教室には行けない私を、担任の先生も部活動の顧問も保健の先生も、校長先生までもが心配してくれていたと思う。でも卒業間際のギリギリになるまで、私には気がつけなかった。
 先生達はみんな、私みたいな保健室に閉じこもりっきりの生徒はクズだと思っているに違いないと思い始め、それが止まらなくなって、もともと遠のいていた教室や学校がどんどん遠くなって、知らず知らずのうちに自分から敬遠してしまった。
 世の中はみんな鉄の塊。私のなかの学校は鉄の塊。
 鉄の制服を着て、鉄の教室に鉄のカバンを持って行き、鉄のように冷たい机に向かわなきゃいけないと思えば、気分は最悪。それが学校だけならまだしも、当時の私には、世間すべてが鉄の世の中にしか見えなくなっていた。
 今や高校くらいは卒業していて当たり前。ブランド企業に就職しようと思えば、ほとんどが大学を出なければならない。そんななかで中学も真面目に行っていないなんて、ろくな人間じゃないと思われてしまうのがふつうらしい。いわれてみれば、そうかもしれないけれど、そんなに私はろくでもないものかな。
 結局、高校を中退して通信制の高校に通ったけれど、世間には「通信教育は高校とはいえない」という考えをもつ人が多い。アルバイトの面接にいっても、履歴書の最終学歴欄に書くのは「高校中退」だ。初対面の友達に、自分の立場を説明したときにも「一応高校生」。いっそ中学卒業で通したほうが、楽なんじゃないかと思うことも少なくない。通信制の高校というものを説明するのが難しく、面倒くさいからだ。
 さらに面倒なのが、ご近所様の好奇心や興味に応えることだった。ご近所様のうわさは、すぐに立つ。うわさが立てば、真実を突き止めようとする人が必ず一人は現れる。そのときに質問の的になるのは、なぜかいつでも母なのだ。私のところに直接聞きにくる人は一人もいない。こういったことに関しては、どんな立場の人でも反応は同じらしい。
 学校の先生も私に関するうわさの確認には、おそるおそる遠回しに、母に聞いてきた。聞きたいことがあるのなら、知りたいことがあるのなら、ハッキリと私に聞きにくればいいのに、どうして母に聞きにいくのか、いつも不思議でならなかった。けれども、そんなうわさも話題も、みんな私のことなのだ。だから、遠回しにされればされるほど、わずらわしいけど気になってしまう。
 どうして私が学校に行けないか、母は知らない。学校に行った自分の子どもが、学校で何をやっているのか、ふつうの親にはわからないように、私の母にだってわからない。まさか私が毎日保健室に行っているなんて、思ってもみなかっただろう。そしてたとえ知っても、理由なんかわかりっこないのに。
 なのに家に閉じこもっていれば、ご近所様が「どうしたの?」と聞いてくる。結局、世間も私にとっては、鉄でできた空間になった。そして、ナゾ解きの的が母に向けられたときから、矢のように冷たい視線を母からそらすことだけを考えるようになった。母に危害が及ぶくらいなら、この町から消えてしまいたいと心から思った。

■「死」への逃避は自分への負け

 保健室登校児が生まれる発端には、こういう「周りの目」があるのではないか。ご近所様の目を気にするように、子供は親の目も気にする。また親に向けられた他人の目も気にしている。人の視線が痛いから、とりあえず学校には行くけれど、やっぱり教室には入っていけずに保健室に行く。そういう子どもが増えているのじゃないか。保健室登校児や自宅にこもりきりの子どもに、イジメとは無関係なケースが多いのは、実はこんな理由によると思う。
 保健室登校は、最近徐々に認められつつある。確かに保健室登校児は、ある意味で、自分の意思を貫いているようにも見えるからだろう。彼らの存在が認知されつつあるのは、そういう理由だ。
 だが、保健室登校を認めることで、逃げようとしている子どもの「逃げ」の部分を許すような世の中になってはほしくないと思う。たとえば、イジメられて自殺して、テレビで騒がれた子が、ヒーローのように祭り上げられたことがあった。自殺した彼は、自分の考えを全身で訴えていたようにみえて、私も一時は、そんな人間になりたいと思った。
 でも実は、それはヒーローでも何でもなくて、ただの負け犬だった。確かに逃げることは一つの手段だが、死を使って逃げてはいけない。いつだって私は「逃げ道街道」の真ん中を歩いてきたし、手首に切り目を入れたこと、睡眠薬を大量に飲んだことだってあるけれど、だからこそわかる。死に逃げるのは卑怯な負け犬だ。
 死を選ぶのはかっこいいことでも立派なことでもない。それはつまり、自分自身に負けるということ。今ではこの世で一番の恥だと思っている。 (■つづく)

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ホームレス自らを語る/最愛のおっかあは粉々に・角田浩一(五八歳)

■月刊「記録」97年10月号掲載記事

             *         *           *

■夢の土地はだまし取られた

 タンスの上に置いていたちり紙の束が、すごい音をたてて畳に落ちたんだ。普通ならば音をたてるはずもないのに、バサっという音が家中に鳴り響いた。その音で飛び起きたほどだ。その数分後、駐在のおまわりさんが飛び込んできた。
「おめえのおっかあ、電車に飛び込んだぞ」
 聞いたときはぼう然とした。何だかわけもわからぬまま、駐在さんに引きずられるようにして現場に行った。駅員さんや警察官が総出で、粉々になったおっかあを集めていた。おれも小さくなったおっかあを、一つずつ拾い集めていったよ。バケツに少しずつおっかあが集まっていく。それがつらかった。
 空にはおっかあの肉を狙っているカラスが飛び回り、ガーガーと鳴き続けていた。その声を聞きながら、おれは自分を責めていた。おっかあが自殺したのは、おれのせいだとね。
 一九三九年、埼玉県の久喜に生まれた。ヒロポン中毒の義父はおふくろを抱くためだけに結婚した。家計を支えていたのは、ホステスをしていたおふくろだ。そんな状況だったから、学費は自分で工面するしかない。新聞配りから牛乳配達まで何でもした。でも、どうにか稼いだカネさえ家に置いておけないんだよ。義父に盗まれてしまうから。仕方なく、他人の家にある柿の木の根元に穴を掘り、少しずつためていったんだ。
 そこまで頑張って高校に入学したが、やはりカネが続かなかった。仕方なく中退し、和食・すし・中華料理と日本中の料理屋で修行を始めた。厨房に立てば、給料のほかにチップが入る。一八歳から始めて二一歳のころには、七〇万円も貯金を持っていたよ。当時の初任給が一万円弱のころだったから、かなりの額だ。
 そんなとき、おっかあに出会ったんだ。おれより二つ上の二一歳。宮城県出身のホステスだったが、とにかく辛抱強くて、性格がよかった。すぐ結婚を決めたよ。貯金をはたいて権利金を払い、新居を構える代わりに貸店舗ながら埼玉県浦和市にすし屋を開店した。当時の売り上げが四万円、粗利が二万円ほどあったから、同い年のサラリーマンの倍以上は稼いでいた計算になる。
 そのうえおれは趣味の山登りと酒を飲むくらいにしかカネを使わなかったから、どんどんカネはたまっていった。おれが二六歳、店を始めて五年たったころには、埼玉県上尾市に七二坪の土地を買っていたほどだ。自分の土地で、自分の店を持つ。それはおれの、そしておっかあの夢だった。おれたち夫婦の幸福を約束してくれる土地。おれたちはそう考えていた。
 ところがこの土地に目をつけたのがおれの兄だ。おっかあをだまして、手に入れた権利書を売っちまった。彼女は身よりの少ない家庭で育ったから、何よりも身内を大切に思っていた。頼みを断れなかったんだろう。しかも兄に権利書を渡したと、おれにいえなかった。店の設計図面を持って上尾に行ったとき、土地が他人に渡ったことを初めておれは知った。

■七八〇万円が一週間で消えた

 店を出すには好条件の土地だったから、せめて土地を売っていなければな。落胆したよ。どうしておれに話してくれなかったのか、おっかあにも怒ったが、どうしようもない。もちろん、おっかあも絶望の淵にいた。自分のせいで土地がなくなったんだから。
 彼女が自殺をした日、体の調子が悪かったのに息子を幼稚園に送るといってきかなかったんだ。おれが送るというのも振り切って、「どうしても送りたい」と息子を連れていった。死ぬ気だったんだろうな。
 おっかあが残した保険金は、手元に残したくなかった。七八〇万円が一週間で消えた。使い切れなくて、一〇万円単位でホステスに配ったりもした。四歳の息子の腕を引いてバーに陣取り、浴びるように酒を飲み、カネをばらまいていたから異様な光景だったと思う。
 結局、おっかあとの思い出がつまっている店は閉めることにした。だいたいおっかあがいなければ、息子を置いて出前に行くわけにもいかないから、売り上げも激減していたんだ。
 それでも息子は育てなければならないし、おふくろも養わなくちゃいけない。だからおっかあを思い出さないように、がむしゃらに働いた。中華そば屋やキャバレーを出したこともある。どこもそれなりに繁盛していた。なかでも神奈川県の川崎市に出した中華そば屋は、客が入っていたよ。でも、この店も最後は手伝ってくれていた人にあげちゃった。店をやっていると、どっかでおっかあを思い出すからつらかったのかな。本当のところは自分でもわからねえな。でも、ほしいっていうからやったよ。
 そんな理由で、一時期包丁を置いて運送会社で働いたこともあったんだ。おふくろに息子を預けて、トラックを転がした。これはもうかった。その後、飲食関係の職場に戻ったりもしたけれども、ホームレスになる前の一五年間は、タクシーの運転手をしていた。
 どの仕事でも生活できるだけの給料は稼ぎ出していたし、働くのも好きだった。それにギャンブルや女に狂ってもいないから、カネに困るはずもなかった。ただ友人がつくった借金の保証人になったのが、運の尽きだよ。 一緒に山を登った仲間から「判をついてくれ」と頼まれて、五万円くらいの金額ならば断れない。軽い気持ちで引き受けた。ところがその後、友人はおれへの相談なしに借り入れ金を増やしていったんだ。友人が失踪したときには、七五〇万円もの借金を背負っていた。
 タクシー運転手をしていたころは、月二七万円の給料から二四万円を借金の返済にあてていた。生活が厳しくても、借金の返済をあきらめようと思ったことはなかった。
 ところが五〇歳も半ばをすぎたころになって、おやじ・おふくろ・弟・孫が立て続けに死んでいった。腹違いの弟は、まだ四二歳だったのに、頸動脈が破裂してあっけなく死んじまった。ふと気づけば、自分を頼りにしてくれる人は誰もいない。おっかあをなくしたとき心の支えだった息子とも仲違いしていた。
 心に穴の空いたおれを、さらに突き落としたのは弟の嫁だった。九六年七月、おれが墓を訪れたときのことだった。そこで見たのは二つの墓石。弟の名前が刻まれた墓石が、親族一同の墓石の横に立っていたんだよ。同じ墓の敷地に、二つも墓石があるのは変だろう。早死にした一族が安らかに眠れるようにと、おれが祈りを込めて買った墓に、血を分けた弟の墓石を別に立てたやつがいたのさ。
「お兄さんはいなくてもいいのよ」
 どうして弟だけ別に墓石を立てたのかと問いただしたおれに、義理の妹は吐き捨てるようにいったよ。弟夫婦は同じ墓に入りたくないほどおれが嫌いで、別に墓石を作ったらしい。残った親族すら相手にしてくれない自分が情けなかった。
 人の借金まで背負い込み、どうして働き続けているのか。この事件をきっかけに、疑問はだんだん大きくなっていったんだ。きっかけさえあれば暴走していく予感はあった。

■警官を殴っていた

 墓参りから一〇日ばかりたった夜、仕事途中になじみのウナギ屋で旧友に会ったんだ。結局、そんな小さな偶然がきっかけになった。
 おれは不自然にはしゃぎ、酒を流し込んだ。店先に何時間もタクシーを置いておけば、当然目立つ。チェックしていたんだろう。酔いの回ったおれが運転し始めると、すぐにパトカーがマイクで停止を指示してきた。目の前に赤信号。左に寄せて停止すれば、免停ですんだはずだ。でもおれはアクセルを踏んだ。追っかけるパトカーを振り切るために急停車と急発進を繰り返し、ぎりぎり通れる路地を疾走した。もちろん逃げられるはずもないけどな。
 やっと停車したおれの車の窓に首を突っ込んだ警官は、「酒に酔っているね」とつぶやいたんだ。その途端、おれは警官のあごを殴っていた。苦痛にゆがんだ警官の顔を見て、さらに二発目をたたきこんだ。結果は、罰金五万円と二〇日間の拘留、さらに三年間の免許停止。そして職を失った。
 拘留中の態度も悪かったから当然だろうな。何たって捕まってから三日間、飯を食わなかったんだから。やけになっていたんだよ。普通に考えれば、少しでも警官の心証をよくしておくべきだ。でも、おれは反抗した。どうにもならない自分の人生に、かみつきたかったのかもしれないな。
 警察から解放されると、次は借金取りが待っていた。それこそ二四時間襲ってきた。職もないんじゃ、カネを返せといわれてもどうしようもない。仕方がないから、家を捨てたんだ。

■ただただ涙だけが流れ続けた

 手持ちのお金二七万円を持って、まず鬼怒川温泉に行った。最後のぜいたくだと思ってね。六日間、いろいろな宿に泊まった。
 温泉を選んだ理由には「どこかでもう一度、旅館の板前になれないか」なんて思いも確かにあった。でも、出てくる料理を見て、やっぱり旅館には勤められないと感じた。器が違うんだ。有田焼なんかの大きな器に、料理が盛られている。おれが学んできた盛りつけとは、まったく違うんだ。皿の模様を生かす盛りつけだからな。料理人に戻るというはかない夢もあきらめて、おれは路上生活を選択した。親族への体面など、もはや気にする必要がなかったしな。
 そんなおれに次の不幸が襲ったのが、新宿に来て三日目だった。カネも服も靴も盗られちまったんだ。はだしで歩いている自分がみじめだったよ。そのとき、心から死にたいと思ったんだ。酒びんを抱えて、朝の五時からJR総武線のホームで飛び込む機会をうかがった。電車が近づくたびにホームの端まで迫ってみたが、どうしても死ねない。飲んでも飲んでも不思議と酔わない。ただただ涙だけが流れ続けた。電車に飛び込んだおっかあを思い出していたのかもしれないな。結局、終電まで粘ったが飛び込めなかった。
 おれは生き残った。でも、その日から心が死んでしまったんだ。生きるために必要な「心の張り」が消えたんだ。寝たまま目が覚めないことが、今の一番の願いだ。 (■了)

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ホームレス自らを語る/怠け続けた人生だった・遠藤良一(五九歳)

■月刊「記録」99年2月号掲載記事

           *         *          *

■兄弟全員父違い

 うちは男だけの三人兄弟でしたが、ちょっと複雑でしてね。三人とも父親が違うんですよ。
 私が長男で、一九四〇年に生まれました。生まれてすぐに、父親は陸軍に招集されて中国大陸へ送られたようです。どうせ下っ端の兵隊でしょうがね。それで牡丹江というところで、戦死したらしいです。父親については、それしか知りません。母親が教えてくれませんでしたからね。どんな父親で、どんな仕事をしていた人なのかも全然わからないんですよ。
 母親が再婚して、すぐ下の弟が生まれました。ただ、その再婚した相手の人は、韓国籍の人だったようなんです。戦争中だったこともあって、その人の名は戸籍には載っていません。だから、その弟は母親の私生児ってことになっています。
 そして母親は、その二番目の夫とも別れて、三人目の男と結婚するんです。どういう事情でそうなったのか、私は小さかったし、わかりません。結局、その男が、私の育ての親ってことになります。

■親にだまされて少年院送り

 これが、ひどい親でしてね。定職もなくて、職場を転々と変えてばかりでした。そのうちに、母親とその男の間に子どもができたんです。私にとっては、父親の違う二番目の弟になります。それからは、私達、上の二人の兄弟への、継子いじめが始まりました。いじめに、いじめられましたね。
 そんな義理の父親のいじめと、男を次々に変えるだらしない母親に育てられて、うまく子どもが育つはずありませんよね。小さいころから、親や教師の目を盗んで、怠けることばかり考えている子でした。
 中学を終えて、いったんは就職しましたが、すぐに辞めて、また就職して、すぐに辞める。そんなのを繰り返しているうちに、家でブラブラしていることが多くなって……。今でいう家庭内暴力が始まったんです。自分でも頭がおかしくなったんじゃないかというくらい、ひどい暴れ方でした。母親に殴りかかってけがを負わせる。ナイフで畳をズタズタに切り裂く。障子をメチャクチャにたたき壊す。とにかく、母親への憎悪がすごかったです。
 たまりかねた母親が、警察にでも相談した結果だと思うんですが、国分寺市(東京都)にあった関東医療少年院に入れられました。母親につき添われて入院したんですが、「てんかんを治療する」という口実でした。確かに私には小さいころからてんかんの持病があって、それを直すために、てっきり普通の病院に入院するんだと思っていました。ところが、行った先は少年院だったわけです。二年入ってました。
 少年院を出てからは、もう家には寄りつきません。山谷のドヤ(簡易宿泊所)に泊まって、日雇いで働いたり、ブラブラ遊んで暮らす生活になっていました。二三歳のときには、ドヤで知り合った仲間に誘われて、松戸市(千葉県)にある民家に押し入りました。要するに強盗を働いたのです。仲間四人で、手に手に出刃包丁を持って、深夜の寝込みを襲いました。こわかったです。何しろ初めてのことなんで、すごくこわかった。どうやって逃げ出すのか、そればかりを考えていましたね。
 家人が差し出したカネを仲間の一人がふんだくり、あとは夢中で逃げました。何とか逃げきって、盗み取ったカネを四人で分け合ったのですが、結局、一人当たりの取り分はいくらにもなりませんでした。
 それからは、身を隠すようにして、川崎市(神奈川県)や町田市(東京都)あたりにあった飯場を転々としました。でも、この逃亡生活のほうが、強盗したときよりもずっと苦しくてこわかったですね。飯場を変わるたびに、「自分の手配書が回っているんじゃないか。いつか突然、警察官が踏み込んで来るんじゃないか」と考えてしまうからです。それを心配し始めると夜もオチオチ寝てられないんです。
 とうとう耐えられなくなって、三ヶ月後には警察に自首して出ました。そのときの気持ちは「助かった」というか、「ホッとした」いうか、すごく気持ちが楽になったことを覚えています。裁判で懲役三年の実刑判決が下り、甲府市にある刑務所に入りました。

■弟への無心も手が尽きて

 刑務所を出てからは、ずっと日雇いの土工で働いてきましたが、子どものころからの悪い癖で、仕事は怠けるし、嫌になると黙って辞めちゃう。それの繰り返しでした。ただ、つい最近まではそんないいかげんな仕事ぶりでも、働き口はいくらでもあったんですね。高度経済成長とか、バブル景気とかがあって、私のようなものでも収入を得てやってこられたわけです。
 大阪に一〇年ほど行っていたこともあります。大阪で万博(日本万国博覧会)が開催されていたころで、当時は関西のほうが景気がよくて、日当も高かったんです。よく飛田新地に行って、女を買って遊んだりしました。 女は好きですよ。でも、結婚はしませんでした。手に職があるわけじゃないし、ドヤと飯場をわたり歩いている生活で、結婚なんてできませんよ。アパートだって、これまで一度も借りたことがないんですからね。
 しかし、バブル景気が崩壊するまではいくらでもあった仕事が、最近ではだんだんに減り始めてきました。それでも、九八年の五月までは細々ながらも何とかあったんですがね。例の悪い癖で、その月に黙って飯場を飛び出しちゃったんです。
 ところが、ここからがいつもと様子が違っていました。飛び出してからは仕事はサッパリ、まったくありません。すぐ下の弟に無心して、何とかかんとか食いつないでいましたが、それも尽きましてね。野宿をして暮らすようになりました。
 まだホームレスになりたてで、どうしたらいいのか、よくわからないんですよ。夜は地下広場に行って、みんなが寝ているところに割り込ませてもらっています。飯は、朝にボランティアの人が配ってくれるニギリ飯一個という日が多いです。仕事はないし、これからは寒くなるし、途方に暮れるばかりです。 (■了)

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ホームレス自らを語る/おれには孤独の菌が巣くう・遠藤四郎(六八歳)

■月刊「記録」97年11月号掲載記事

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■新婚はたった三日間

「おまえには孤独の菌が巣くっている」と、友人にいわれたことがある。おれの周りには、誰も居着かないんだ。死んだ人もいるし、去っていったやつもいる。たまに幸せになったかと思うと、すぐに孤独がやってくるんだ。
 最初に去っていったのはおやじだった。自殺によって……。
 太平洋戦争の前までのウチは金持ちだったよ。瓦職人だったおやじは常時一〇人以上を雇っていた。おれが小学校に入学したときには、新しい服を上から下まで用意してくれた上に、ランドセルまで買ってくれたんだ。ところが終戦のどさくさで、おやじは事業資金をだまし取られ、首をつった。
 次はおふくろだった。
 小学校を卒業し、東京・亀戸で旋盤工として働いていたおれに、いきなり「病気で死んだ」と知らせが入ったんだ。まだ戦争の爪跡が色濃く残っていたころだよ。しかもおふくろの死は、貧しかったおれからカネも奪っていった。治療費やら葬式代やらで、「必要だから」と一緒に住んでいた親族から催促があったんだ。断れないよ。酒代を減らし、身を切るようにしてためてきた一〇万円がそこで消えた。一九五〇年代初頭だから、ヒラの銀行員のン年分くらいはある大金だったよ。でも「使った分以外は返す」という約束は守られなかった。
 そして最初の女房との別れを、おれは経験する。たった三日間の新婚生活を思い出に、彼女は逝っちまったんだ。
 女房の知子と知り合ったのは、五三年、おれが二四歳のときだった。義理の姉さんが経営していた酒場で出会い、次の日からつきあいが始まった。夜勤の旋盤工として働くおれのために、毎日弁当を作って会社に届けてくれた。おとなしくて、優しい性格だった。なかなかの苦労人だったらしいよ。
 しかも美人なんだ。おれと知り合う前には、ダンサーとして有楽町で働いていたらしい。ハイヒールをはいて踊っていたというから、ラインダンスでも踊っていたんじゃないかな。もちろんスタイルは抜群。おれより一〇センチも身長が高かったからね。
 身持ちの堅い女で、毎晩会っているのにどこに住んでいるのか教えてくれない。一ヶ月ほどたって、ようやく彼女が住んでいる寮を訪ねることができた。真剣に愛していたから、すぐ結婚を約束したよ。数日後には籍を入れ、彼女の部屋で一緒に暮らすことになった。彼女の寮仲間が結婚を盛大に祝ってくれて、やっとおれにも幸福が舞い込んできたと思った。
 ところが暮らし始めて三日後、彼女が倒れた。知り合いの医者が世田谷区の東急二子玉川園駅近くにいたから、あわててタクシーで連れていったが、医者は彼女を診察するなり、「もって一週間でしょう」なんていう。思わず「どうにかしろ」とつめ寄ったけれども、いくら医者をどなっても、こればっかりはどうしようなかった。 実は彼女の肺は、このときにはほとんど動いていなかったんだ。彼女も自分の肺が悪いことは知ってはいたが、かわいそうにおれには言い出せなかったんだな。好きだから一緒になりたい。でも自分の命も長くない。そんな葛藤を抱えていたんだ。
 仕事の合間を縫ってできる限り病院を訪ねたよ。医者から「遠藤さんは本当によく来るね」なんていわれた。少しでも長く会いたかった。彼女も頑張って、入院してから一ヶ月も持ちこたえけれど、結局ダメだったね。会社に危篤の知らせが届き、病院に駆けつけたときにはもう意識がなかった。半狂乱で医者をどなりつけたが、死んじまったものは戻らない。

■新興宗教にのめり込む

 知子が死んで、おれの心にぽっかりと穴が空いた。寂しさを埋めるためにのめり込んだのが新興宗教だった。人の一生なんか、いつどうなるかわからないという思いが、おれを宗教に向かわせたんだと思う。だから一生懸命布教したよ。入信させた人数は、いつも地区でトップだったほどだ。
 人から悩みを相談されたときは、一緒になって悩んであげる。若い女性なんかは、それだけで入信するんだ。笑うかもしれないけれど、おれは命がけで布教していた。だから数千人を束ねる地区の班長にもなれたんじゃないかな。今から考えればうそみたいだけれども、当時は大勢の人の前で話すことも、全然苦痛じゃなかった。説得すれば、かなりの人が入信してくれる自信もあった。 でも、これだけ力を入れていた宗教団体からも、おれは追い出された。原因は布教方法だ。おれは布教のとき、わかりやすい言葉で教義を説くようにしていた。最初に理解するのは教義の一部分だけで十分で、入信してから少しずつ理解を深めてくればいいと思っていたからだ。でも幹部は、その方針に反対だった。
 おれも命をかけてやっている布教だったから、あいまいには引き下がれない。結局、幹部と論争になって、おれは放り出されたというわけさ。まあ、いまだにその教義だけは信じているけれども、この論争以降、教団の宗教行事には出席できなくなった。
 知子も死に、生きがいだった布教もできなくなり、人の多い東京で暮らすのが、おれにはつらくなった。だから信州・上田にわたって、製材工として働くことにしたんだ。
 木はいいよ。一本丸太から角材や板を切り出す作業は、知子やおふくろを忘れさせた。少しずつ「孤独の気」もなくなっていくようだった。
 でもいくつかの後遺症は残ったね。まず貯蓄をしなくなったこと。カネをためるのがばからしくなったんだ。どうせいつ死ぬかわからないという気がしてね。それと職を転々とするようになった。上田の製材所では、五人ほどの若い従業員のかしらだったから、それなりの給料をもらってはいたけれども、一ヶ所ににじっとしてはいられなかった。
 何でかな。丸太の渡し、解体屋、飲み屋の亭主、木こりと、ありとあらゆる仕事を転々としたが、いつでもしばらくすると、何か新しいことをやりたくなる。守りたいものがなくなったからかもしれない。

■淫乱の虫を飼った女

 結局は再び東京に出てきて、何度か結婚した。そのうちの一人が君子。だが、これがひどい女だった。とにかく尻が軽い。仕事から帰って九時くらいには一緒に布団に入るんだが、夜中になるとこっそり家を出ていってしまう。結婚当初からそうだった。でもおれは何もいわなかった。他人の事情を聞くのが嫌いなんだ。いや、単に真実を知るのがこわかったのかもしれない。結婚してすぐに息子も生まれたが、君子の生活は変わらなかった。 そのうち彼女の仕事仲間から、とんでもないうわさを耳にした。結婚後も彼女は新聞の配達員として働いていたが、仲間のほとんどが彼女と関係していたというんだ。解体の仕事が休みのときに、彼女の仕事を手伝いに行って聞かされたから驚いたよ。
 毎日毎日、男をとっかえひっかえするのは尋常じゃない。だから病院にも連れていったが、「この病気は治らない」と医者にいわれた。この女は、「淫乱の虫」を股に飼っているんだと、心底思ったよ。
 そのうちに入園したばかりの息子を残して、彼女は家を出ていってしまった。新聞屋の金持ちをたらし込んだらしい。それからはおれが、毎朝息子に弁当を作り、幼稚園まで送っていった。仕事が終われば真っ先に幼稚園に飛んでいき、息子の手を引いてアパートに帰る生活が二年は続いたかな。でも小学校入学を前に、出ていった君子に預けることにした。やっぱり息子には母親が必要だからな。
「お母さんをしっかり守ってやんなさい」と息子にいったら、うなずいていたよ。五歳じゃわからなかっただろうけれども……。それ以来、息子には会っていない。 八三年のことだ。高田馬場で昔の友人にばったり会ってしまったことがある。友人は二七歳になった息子におれに会ったことを連絡したらしい。息子はおれに会うために飛んできたようだが、おれは逃げたよ。息子は君子の下で働いていたと聞いていたから、おれに会えば無用な争いが起きる。「会ってはいけない」と思ったら逃げるしかなかった。

■新宿で得た平穏

 君子と正式に別れてから一年後くらいに三歳下の好恵と結婚した。新聞屋の売店で働いていたおれに、彼女はなぜか自分から寄ってきた。「おじちゃん、おじちゃん」なんていってね。
 おれも三四歳にもなっていたし、結婚なんかするものか、と思っていたが、なついてくる好恵はかわいい。仕事が終わってからラーメンを食べたり、映画をみたりしているうちに彼女のアパートで暮らすようになった。籍を入れてしばらくすると娘もできた。
 でも、娘の七五三を見ることはなかった。結婚して三年後には、妻が娘を連れて家を出ていったんだ。暮らしていたアパートに男を引きずり込んだ形跡があったから、その男のところかもしれない。女房からは何も聞かされていなかったけれどな。その後は、一切音信不通。娘の顔もそれ以来見ていないから、横を通ってもわからないだろう。
 それからも転職を繰り返し、五年ほど前に解体の仕事をクビになった。理由は年を取りすぎて危ないから。すぐにアパートを追い出され、放浪が始まったよ。池之端では「カネを盗んでこい」と、ホームレスの仲間からいわれたのが嫌で逃げ出した。江戸川では賽銭泥棒を強要されて離れた。悪さをしてまで生きていたくないんだ。おやじが生きているまでは金回りもよかったし、その後は自分で稼いできたから、人様のカネを盗むなんてしたことがない。仕事も好きだったし、今でも働きたいと思っているくらいだからな。
 新宿に来て、やっと平穏に暮らせるようになったよ。これだけのことがあっても、女房を殴りつけたことも、くわしく事情を問いただしたこともなかった。知子と死に別れて以来、深く人と関われずに孤独と隣り合わせで生きてきた。でも、この新宿では信頼できる仲間もできた。ときおり襲う寂しさには、「南無妙法蓮華経」を唱え、毛布をかぶるようにしている。 (■了)

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保健室の片隅で/第一回 イジメって?

■月刊「記録」98年1月号掲載記事

         *            *           *

■理由なんてない
 私は中学生のとき保健室登校生だった。
 べつに学力が人より劣ってるわけでなく、体に障害があるわけでもない。だけど教室には入っていけず、保健室に登校していたのだ。
 イジメと保健室登校、そして不登校にはつながりがあると思っている人が多いようだが、私が見ている限りではまったくなかった。事実、私も中学生のときにイジメられていないし、その気配すらなかった。といっても、イジメられるほど仲がいい友達もいなかったから、気にならなかったのかもしれない。
 じゃあ、何でそんな私が保健室登校をするようになったかと聞かれると、私自身「わからない」というのが正直なところだ。きっと、学校に行けない不登校の子どもたちも、自分がどうして教室に行けないのか、何で学校に行けないのか、はっきり理由がわかっている人はそう多くないと思う。
 中学を卒業し、通信制高校に通っていた頃にもらった手紙のなかに、「自分の子どもが不登校なのだが、どうして学校に行けないのか、本当の理由を聞き出してほしい」というのがあった。しかし、理由もなく教室に行けない人がいるのだということも知っておいてほしい。
 理由もなく教室に行けない人も、親や学校の先生、また社会の大人に、どうして学校に行けないのか、教室に行けないのかと聞かれると、「何か答えなければ」という衝動にかられてしまう。
 理由もないのに教室を拒否し続けると、サボリと思われるんじゃないか、逆に精神異常とみられて、病院に閉じ込められてしまうのではないかと不安になるのだ。そうしてこわくなって何かを答えてしまう。そして自分の答え自体に対して、また不安を抱くという悪循環をくり返す。
 たしかにこういった悪循環は、精神的に何らかの異常があるからかもしれないが、ものの考え方を一つ変えれば、病院に行くほどの異常とはいえないだろう。

■イジメとは一体何?

 人間、誰しも欠陥を持っている。
 人にできることができない人、できないことができてしまう人、それぞれにいいところと悪いところを持ち合わせていて、その出方が人と少しズレているのだと思えば、そんなに悩むほどではないのではないかと思う。私が教室に行けないことも、欠陥の一つ。人見知りするのも、慣れていない人の前で食事を取ることができないのも、病気ではなくて欠陥の一つでしかないのだ。
 では、イジメとは一体何なのか? 大きくわけて二つのパターンがあって、自分がイジメられていると思ったときに初めて成立するイジメと、「イジメてやろう!」と思って故意に行われるイジメがある。
 私が経験したのは今まで仲のよかった友達がだんだん遠ざかっていくという、精神面での孤立だった。
 名前を呼んでもらえなくなり、クラスの一員として認められているのかいないのかさえわからなくなり、自然と孤独になってしまった。どこのグループにも属さない人間は、いつしか誰にも相手にされなくなる。その子に近づく者も同様で、いずれクラス中から白い目を向けられるようになるのだ。
 こういった精神的なイジメは、そのうち消えるときが来る。いいかえれば時間が解決してくれるのだ。なぜかというと授業でグループを作る時などに、どうしても孤立が目につきやすいイジメだから、誰かが何らかの対処をすることができる。
 ただし、その時まで待つことができればの話だが。
 私には時が解決してくれるのを待つだけの力はなかった。子どものころから慣れていない人の前で食事を取るのが苦手で、教室が苦手で、協調性なんかなかったから、今さらどうやって人とつき合っていけばいいのか、どうやって接していけばいいのか、さっぱり見当もつかなかったのだ。
 教室のなかに一人ぼっちで、冷たい視線を気にしながら食べるお弁当がノドを通らなくなり、着ている制服も重たくて、何も入っていないカバンが重たくなった。学校が遠く感じられて、しかしそんな私に気づく人は誰もいなくて、受け止めてくれる人も逃げ場も何もなかった。
 今こうしている自分に「気づいてほしい」と思う反面、「親には心配をかけたくない」という思いもあった。 口にはもちろん態度にも表さないよう、初めのころは気をつけていた。親に心配をかけないように気をつけるのは、故意に行われているイジメでも同じだろう。

■またイジメちゃおうか

 故意に行われるイジメはどうしようもなく悪質だ。
 まわりの人間が気づいたときにはもう手遅れで、何か手を打とうとすればするほど裏目に出てしまうものだ。イジメられている本人はそのウズに翻弄されて、精神的にも肉体的にもいたぶられていく。
 私がこれまで一番ショックを受けたのは、この故意にイジメを行ったことのある人の話を聞いたときだった。「あいつのこと、またイジメちゃおうかなぁ」
 そんな何げない言葉から、過去にその人がイジメっ子だったと知った。どういうイジメを行っていたのかと聞くと、イタズラ電話や、「デブ」「チビ」など、その人がコンプレックスを抱いていることをあえて強調する言葉の暴力、トイレに連れ込んでは集団で殴るけるといった肉体的な暴力もあったという。
 何でそんなことをするのかと聞くと、特別にこれといった理由はない。ストレス発散だとか、ただ単にムカツクから、ということなのだ。
 イジメられている方にはまったく何も悪いところはない。どうしてその人をイジメの対象に選んだのかと質問すると、「顔が気にいらないから」と答えた。私からみれば、みんなと同じふつうの顔立ちなのに、誰か一人が気に入らないというと、皆の標的になってしまうらしい。
 そのくせ、イジメられている子が学校を休むとみんなで心配するんだから、不思議でならない。イジメが発覚するのがこわいのだろう。結局、イジメている方は臆病者なわけだ。そんなにビクビクしながらイジメるくらいならイジメなんてしなければいいのに、なくならないというのは、やっぱり社会現象だからだろうか?
 イジメられている方の気持ちをいえば、「人には気づかれたくないから、誰にも心配かけたくないから、今日一日だけは休むけど、明日からはがんばるよ」といった感じが多い。そこからすぐに不登校に発展したり、保健室登校をするようになるのは実際には珍しいことなのだ。
 基本的に、保健室登校や不登校をする人は、教室や学校を自分自身が気づかないところで徐々に拒絶し、知らない間に足がそちらに向かなくなってしまう。

■教室に近づけない

 人に劣るところはないのに、直接イジメられているわけではないのに、人と同じことができなくて、気づいたときにはもう私は教室に近づけなくなっていた。逃げ場を探して学校中をさまよい歩き、途方に暮れやっと見つけた保健室。もしその保健室にさえ拒否されてしまったら、もう行き場はなかった。
 私の場合は、保健の先生がそこを「逃げ場として使ってかまわない」といってくれたから、どうにかして学校にも行けた。もし、「もう来ないでほしい」といわれていたら、きっと学校に行くこともできなくなっていただろう。そして心の底から学校という社会を嫌いになっていたはずだ。
 保健室登校生が保健室に行き、いったい何をしているのかはあまり明らかにされていない。私がそこで何をしていたのかというと、みんなと変わらないふつうの学校生活を送っていた。
 休み時間は休み、授業時間は勉強をしてきちんと出席扱いになっていたし、テストだって受けていた。みんなと違うところといえば、クラスメートがいないことと教科担任がいないこと、ほとんどが道徳の授業だったということだけだ。
 どうして教室に行けないのかということには一切ふれずに、保健の先生はいろいろな話をしてくれた。
「心の言葉を文章に表しなさい。たくさん作文を書いて、先生に読ませて。詩でもいい。絵でもいい。自分の好きな表現で、心の中を表すの」
「別に、ずっとここにいてもいいのよ。逃げ場がなくなったら、つぶれてしまうのは誰だって同じなんだから。いつか自然にここから出ていけるようになるときまで、無理に追い出したりはしないから」
 後になって知ったことだが、私のような教室に行けない生徒を保健室でかばっていると、職員室のなかで冷たい目を向けられることもあるらしい。それでも先生は一生懸命、私の居場所を作ってくれた。私だけじゃなく、教室に行けないみんなに。

■カラーに染まる

 保健室にくる生徒には、どこか似たようなところがあった。友達がいないというわけではないけれど、人を信用できない。電話で話すのは好きだけど、自分からは絶対にかけない。お祭り騒ぎは好きだけど、心のどこかで、「何でこんなバカなことをしているんだろう?」って疑問を抱く。いったん疑問を持ったら止まらなくなり、すべてがバカらしく思えてしまう。
 どうしてみんなでトイレに行かなきゃいけないのか? 何でみんな同じような格好をしなきゃいけないのか? ルーズソックスに、ミニスカート、茶パツにカラオケ。持っているおカネさえも、みんな似たりよったり。財布の中身なんて、人それぞれ違っていて当たり前じゃない。それなのに統一したがるのは、みんなと同じじゃないと不安になるからなのか?
 みんなと同じじゃなかったら、少しずつみんなが遠ざかっていってしまうからなのか……?
 同じカラーを持っていない人間は、同じ形をしていない人間は、みんなに不思議そうな目で見られる。一緒にトイレに行かないだけで、夜遊びができないだけで、友達の家に泊まりにいったときに親があいさつの電話をするだけで、みんなと違うカラーだといわれてしまう。
 教室にあるグループとは、同じカラーを持つ者たちの集まりで、そのグループに「入りたい」と思えばその色に染まり、その形に自分を整えればいいだけだ。カンタンなことだと思う。
 でも、私があえてそのカンタンなことをしなかったのは、無理をしてまでみんなのなかにいようとは思わなかったからだ。
 一人に慣れてしまえば、一人でいることを苦に思わなくなり、誰にも何もわかってもらえなくても構わなくなる。わかってくれる人がいれば、それはそれでうれしいけれど、もう、そんなことはどうでもよくなっていた。 いつかきっと、自分と同じ考えを持っている人に出会える。そう信じて何もいわずにいたら、結果的に一人になっただけなのだ。
 これに関しては、私にも非があったろう。自分の気持ちを口に出さなかったら、誰も何も気づいてはくれないのだから。
 自分の周りに自分と同じ思いをしている人がいなければ、世の中の人間はみんな同じバカにしか見えなかっただろう。つい最近まで、ずっとそう思ってきた。くだらないことに笑い、くだらない遊びを本気で楽しんで、愛だの恋だのと騒いでいる生徒・学生たちがクソガキにしか見えなかったのだ。
 それは世の中の大人たちだって同じだった。外に出れば、バカの塊が動き回っているようにしか見えなかったのだ。 (■つづく)

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鎌田慧の現代を斬る/くたばれ! 政府容認サティアン原発施設

■月刊「記録」1999年11月号掲載記事(記載は掲載当時のままです)

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■中曽根親子で巡る因果

 ついに、日本の原発施設でも大事故が発生した。次第に頻度がふえてきた原発事故と規模の大きさからは、原発の縮小、代替えエネルギーへの移行そして運転中止の必要性がもとめられている。原発によるこれ以上の被曝をくい止めるために、政府は責任をとるべきだ。
 これまで政府は、「安全だ」、「安い」だけの理由で原発を推進してきた。「安全」と「低コスト」。この相対する概念を一緒にしてきた政府のいい加減さが長年まかり通ってきた。この矛盾を解決するには、建設予定地にカネを大量にばらまくだけである。
 そもそも日本が原発時代に突入したのは、一九五四年、中曽根康弘議員が原子力予算を提案したことにはじまる。国会をなんなく通過した予算総額は、二億三五〇〇万円。原発で使われるウラン二三五との語呂合わせで、予算の数字が決まったといわれる。
 当時、日本学術会議などは、日本の原子力利用に反対したが、「札束でほっぺたを叩いた」といわれるほど強引な方法で、中曽根はカネで強行した。それが「金力発電」の出発である。五九年には、彼は科学技術庁長官に出世して、キケン極まりない原発推進に力を注いだのである。
 この中曽根の強引さが、日本中に原発を生み、こんどは息子の中曽根弘文が科学技術庁長官として、この大事故の処理に追われている。これこそ「因果は巡る糸車」というもので、こんご中曽根親子の責任を追及する必要がある。
 原発は出発からして利権のキナ臭さがただよっている。だから、東海村で臨界事故が起きた当日の九月三〇日でさえ、通産省資源エネルギー庁の河野博文長官は、さっそく次のようなコメントを発表している。
  「環境問題との共生、エネルギーの安定供給のことを考えれば、今後も原子力発電の重要性は変わらない」
 この無責任、無知、無謀な発言など、負け戦を隠して「勝った、勝った」と騒ぎ立てた大本営発表とおなじである。あるいは「撃ちて死なん」の玉砕主義といってもよい。
 通産省は、二〇一〇年までに一六基から二〇基の原発を新設するという供給見通しを立てている。今回、これだけの大事故に見舞われてもなお、拡大政策を変えず、ひたすら推進しようとしている。まるで「原発無理心中」「大東亜原発戦争」といった状況である。

■労災が認められない被曝労働者

 また通産大臣である与謝野馨は、いまごろになって、「今後は原発だけでなく、燃料加工施設にも多重防護(フェイルセーフ)の考え方を取り入れる必要がある」などと発言している。与謝野晶子の「君死にたまふこと勿れ」の詩でもよく読んだほうがいい。危険な放射性物質を扱いながら、フェイルセーフの考え方のかけらもなかった。そうしたJCOの実態にたいする自己批判がまったくない通産大臣の発言には、驚くほかない。
 そもそもフェイルセーフのシステムどころか、核物質にかんする基本的な知識すら、この会社では従業員に教えていなかったのである。事故を引き起こして病院に運ばれたJCOの労働者は証言している。
  「二三年前に(会社に)入った直後に研修を一回受けただけで、意味がよくわかっていなかった」
 このように教育をあたえないで、最高の危険物を扱わせていた政府・通産省・化学技術庁は、犯罪者集団といっていい。
 さらにJCOの工場は、放射線漏れを防ぐような建築物でさえなく、臨界を止める装置もなかった。これまで原発は「トイレのないマンション」などと呼ばれてきたが、これではまるで「ブレーキのきかない自動車」というようなものだ。
 これだけ危険な暴走核工場が、日本のあっちこっちにあるのがおそろしい。だいたい安全対策など手の回らない中小工場に、危険な作業を押しつけ、日本の原発のコスト削減を実現するなど、弱者いじめにほかならない。結局、その後始末役は、もっとも立場の弱い労働者に回ってくるからだ。
 JCOの臨界事故をかろうじてくい止めたのは、突入させられたJCOの社員三三人の冷却水の抜き取りやホウ酸注入などの作業である。中性子線を防ぐ防護服もなく、被曝覚悟の特攻精神によって、この事故はくい止められたのだ。事故当日、千葉の病院に担ぎ込まれた三人の労働者や、そこで働いていた労働者、そしてこの特攻隊に駆りだされた労働者の被曝が、住民の被曝とともにこれから心配される。
 放射線被曝は、将来における白血病やガンなどのほかに、免疫性の低下による病気の多発という症状を引きだす。今後、どのような病状が労働者、住民の被曝者にあらわれるのか、とても心配だ。
 といっても日本における被曝は、けっしてこの事故がはじめてではない。これまでも原発の定期点検作業などによって、膨大な被曝者を発生させ、数多くの死亡者をだしてきた。ただ原発労働者の死亡は、因果関係が明らかではないという理由によって、これまで労災に認定されていなかった。つまり原発で被曝者がでていた事実そのものが、隠蔽されてきたわけである。「原発は安全だ」「死者は発生していない」というインチキな政府発表によって原発は押しすすめられてきた。かつては、「クリーン・エネルギー」などと宣伝されたのだから、欺瞞のエネルギーといえる。
 もっとも危険な原発関連施設では、安全に細心の注意を払わなければならない。ところがJCOは、その安全を二の次とした。そもそもこんどの事故は、労働者の作業ミスが原因ではない。会社のコスト削減要求が生みだした事故である。
 たとえ核物質を扱わなくても、安全第一がモノを作る工場の大原則のはずである。しかしJCOは、安全性よりもコスト削減を第一に掲げ、より手早く仕事を終わらせるために、バケツによるウラン溶液の加工をおこなった。工程短縮、手抜き生産である。これは原発側のコスト削減要求によっている。つまりは、ほかの労働現場でもけっして許されない手抜きの思想が、キケンきわまりない原発関連工場で最優先でとられていたということだ。このような思想を押しつけた政府と電力会社の責任はきわめて大きい。

■安全神話が危険を招く

 この核工場の事故であきらかになったのは、高速増殖実験炉「常陽」の燃料が、いまでも作られていたことだ。
 このところ、日本の原発は事故を多発している。九五年一二月には、高速増殖炉原型炉「もんじゅ」でナトリウム火災が発生。いまだにもんじゅは、運転再開の見通しすらたっていない。九七年三月には、東海村の再処理工場で爆発事故が発生し、作業員三七人が被曝している。ことしの七月には、敦賀原発二号機での冷却水漏れの事故が発生した。
 これらあわや大事故という一連の事故によって、高速増殖炉実用化の見通しは遠のき、高速増殖炉はすでに停止する事態になっていたはずだった。ところが常陽は、ひっそりと運転をつづけているのである。
 しかも原発各社は、高速増殖炉の代案として、プルトニウムを燃料として使うために、混合酸化物(MOX)燃料の使用を強行しようとしている。天然ウランまたは劣化ウランにプルトニウムを混ぜるMOXは、運搬や運転での危険性が指摘されている。にもかかわらずまだ計画を中止する気配はない。次から次へと危険な技術を導入し、なおかつ事故により信頼性を完全に失った方法まで強行している。この懲りない原子力産業界の体質は、膨大な住民を放射線にさらす危険を生みだしつづけている。
 原発の事故は、これまでの批判通りのものだった。「原発は安全だ」、やれ「原発は安い」などといって政府が強行してきたのだが、核工場が野放しになっていたいたとは、想像外のことだった。ただ儲けるためだけの競争が、今日の事故を発生させ、多数の被曝者をだすことになった。原発もおなじ構造である。
 これまで取材した原発地帯の首長たちは、「原発に不安はないのか」という私の質問にたいして、ほとんどが「政府が安全だといっているから」と答えていた。それが原発推進派の逃げ口上である。
 そのあまりにも楽観的な見通しが、逆にどれほど危険かを今回の事故はしめしている。いざ事故が起こってみれば避難もままならず、通報施設も完備していないことに気付かされる。モニタリングポストといったって、限られた場所に設置されたもので、すべての放射線を捕捉できるものではないこともハッキリした。
 このように安全をいいつのる限り、必ず起こる事故は防止できない。「安全神話」および「原発教」をばらまき、カネと安全とを取り引きした中曽根以下、歴代の大臣たちの罪はきわめて深い。

■原発は秘密・依存・ファシズムの三原則

 日本における原発推進の原則は、公開・自主・民主であるという。しかし、原発建設地帯の歴史と現状をみるかぎり、公開の代わりに秘密であり、自主の代わりに依存であり、民主の代わりにファシズムであった。これはいまも変わらない原発を推進する政府・自治体、電力会社の三原則である。
 だいたい原発の建設されている自治体に取材にでかけても、たいがいうさんくさい目で見られ、ろくに資料すら提供されない。国からタップリ補助金をもらっている地方自治体にとって、原発批判など許されないからだ。「自治体」が、完全に政府と電力会社に依存している状況で、どうして公開・自主・民主といえるだろうか。
 用地買収一つを例にとっても、公開・自主・民主がいかにみせかけかがわかる。六〇年代ならいざしらず、近年における原発の用地買収は、すべてウソと秘密によって塗り固められてきた。ごく最近の例では、石川県珠洲市の用地買収がある。九九年一〇月一一日『朝日新聞』の朝刊も、この問題を報じている。
  「関西電力(大阪市)が、石川県珠洲市に計画している珠洲原子力発電所の予定地付近で、反対派住民とみられていた地主の所有地の買収を清水建設などに依頼、これを受けて大手ゼネコンの関係会社数社がこの土地を取得していたことが、関係者の話で明らかになった。関電はこれまで、発電所の用地取得では地権者以外と交渉しない、と説明してきた。買い主側、地主とも、売買の表面化で反対運動を刺激することを恐れて、土地を担保にした金銭の貸借を装っていた。さらに国土利用計画法の届け出を免れるため、土地を九分割して譲渡、売買成立までに多数のブローカーらを介在させていた。買い主側は、仲介者への手数料を含め、関電が当初地主に提示した三倍以上の額を支払う結果になっていた」
 もちろん今回の事故でも、公開・自主・民主というお題目がいかに空疎だったかがわかる。たとえば事故直後、地元の茨城県や東海村の担当者が、「危険な施設とは思ってもみなかった」と発言していた。これは建設申請の段階で、危険物だということをなんら通告していなかったことを示していてる。これこそ秘密主義のサイたるものである。
 原発の安全性を信じこまされていた人たちも、ようやく眼を覚ましはじめた。原発反対は大きな世論になりつつある。たしかに時間がかかったが、まだ間にあう。これだけの事故が起きても、政府は原発をまた増設・拡大しようとしている。こうした玉砕主義をここでストップさせる必要がある。こういう連中と一緒に地獄へ行くのは、マッピラだ。 (■談)

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ホームレス自らを語る/離婚がすべてを狂わせた・井上宏(五一歳)

■月刊「記録」97年11月号掲載記事

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■頑固な妻に嫌気がさして

 結婚したのは二六歳のとき。そのころ、私は医療写真専門の現像所で働いていて、嫁さんもそこで一緒に働いていた。ただ、同僚たちには「あの女はサゲマンだから」と結婚を反対された。うちの家族にも反対された。嫁さんは小柄で体も弱かったからね。でも、ほれた弱みっていうか、私には魅力的な女だった。
 東京・赤羽にアパート借りて、最初は強引に同棲しちゃったんだよ。結局、二年後に子どもが生まれた。男の子だった。ところが、嫁さんの産後の肥立ちがよくなくて、「田舎に帰りたい」と言い出した。それで、写真の仕事は休職して、一家三人で嫁さんの田舎である徳島に帰った。もちろん、また東京に戻る約束でね。

 ところが、田舎で暮らすうちに嫁さんの体調はすっかりよくなったのに、「もう東京には戻りたくない」と言い出した。それからゴタゴタが始まった。もう毎日「戻る」「戻らない」の繰り返しだった。
 私としては戻るつもりで休職したわけだから譲れなかった。それに、徳島では郵便局の非常勤職員で働いていたが、日当は三〇〇〇円と、小遣いにも足りない額しか稼げず、一家三人なんてとても養っていけない。嫁さんの実家に入って、生活費の面倒はみてもらっていたが、初めのうちは歓迎してくれていた嫁さんの家族も、長くなるに連れていづらい雰囲気を漂わすようになってきた。
 もっとも、嫁さんの気持ちもわからなくもないんだ。生まれたところに帰って親兄弟に囲まれていれば、もう東京にUターンするのは嫌になる。誰だってそうだろう。徳島もいいところだよ。でも、それをいうならば、私には東京こそがふるさとだからね。
 私は、東京に戻るという約束がホゴにされるし、思うように稼げないから当然面白くない。嫁さんは嫁さんで「戻らない」と頑固一徹だから、夫婦ゲンカが日常茶飯事になってくる。いがみ合ってばかりいるうちに愛情なんてものもなくなっていった。もう、嫌気がさして、我慢も限界だった。ついに三二歳のときに別れることになった。

■区役所に住民票がなかった

 私は群馬県に生まれて、二つか三つのとき一家で東京に出てきた。小さいころのことだからよくわからないんだが、どうもおやじの重婚がバレて逃げるようにして出てきたようだ。
 上京してからのおやじは何度か事業を起こしては、そのたびに失敗をして、生計を立てられない生活力のない男だった。その分、母親が男勝りな人で池袋で飲み屋を始めて、それで家計をまかなっていた。ただ、そんなおやじでも子どもの私にはいい父親だった。一緒に遊んだり、スポーツの相手をしてくれた。今でも植木いじりが好きなのも、おやじに教えられた影響なんだよ。

 高校へ入学するとき、住民票を取りに区役所へ行ったら「ない」といわれた。群馬を逃げるようにして出てきたので、住所を移すことができなかったらしい。住民票が取れなくてはどうしようもないので、家庭裁判所で書類を作ってもらって、やっと入学できた。
 高校は都立の普通高校だったが、ちょっと変わっていて、午前部、午後部、それに交替部(夜間)の三部制の学校だった。生徒はその日の都合で、三部のうちのどれかに出席すればいい。定時制高校とは違って、自衛隊員とか、看護婦のような、不規則な仕事をしている人のための四年制高校といったところだね。
 その高校を卒業して、先に話した医療関係の写真を専門に現像する会社に入ったわけだ。もともと写真が好きで、高校生のころもよく夜行列車に乗って、信州に写真を撮りに行ったりしていた。仕事は現像をしたり、引きのばしたり、デュープ(複製)を作ったり、毎日が面白かった。

■子どもは一度も会いに来ない

 嫁さんと別れて、一人で東京に戻ってきたが、もう前の会社には戻れなかった。一応は休職ってことで徳島に行ったけれども、何しろ三年間も放っておいたし、徳島での生活費に困って退職金までもらってしまっていたからね。
 それからは、いろいろやったよ。一〇本の指ではおさまらないんじゃないかな。スーパーや一部上場の工場で働いたこともある。でも、一人だけだとどうしても気力も続かなくて、すぐに我慢できなくなっちゃうんだ。最後は、アスファルトの検査をする仕事だった。辞めたのは九四年かな。

 退職にともなって社員寮からも立ちのかねばならなかったので、母親のアパートの部屋に居候させてもらって、また住み込みで働ける仕事を探した。しかし、この不況でこの年だから、なかなかそんな仕事はない。たまに土木の仕事なんかがあるのだが、今まで経験したことがないのでしり込みしてしまうしね。
 そのうち、母親の部屋代とか面倒をみてくれていたのが腹違いの兄だったこともあって居候もしづらくなってきて、サウナや映画館のオールナイトで過ごすことが多くなった。そのうちに、中に衣類とか保険証なんかが全部入っていたバッグをコインロッカーに入れたまま、何日も放っておいたら処分されてしまった。それで、この新宿西口地下広場に寝泊まりするしかなくなったんだ。
 私は、今でもね、自分が生きていくためのカネは自分で稼ぐのが当然だと思っている。だから、炊き出しとか、ボランティアが配るおにぎりとか、一度ももらったことはない。仕事っていうのは、新聞ででも何でも自分で探すものだと思っている。
 今はね、主に使用済みのテレホンカードを集めて回っている。これが、一枚七円から八円で引き取ってもらえるんだ。ついでに雑誌があれば拾うし、信販カード、電車の定期券なんかでもカネにかえられるから拾っている。そうやって、五、六万円は月に稼いでいる。
 今では「こんな生活も、カネがないんだからしょうがない」というあきらめの境地にある。小屋の住み心地はよくない。ちゃんとした布団の上で生活するのが本当だろう。自分だって好き好んで、こういう暮らしをしているわけじゃない。
 こうなったきっかけは、結局は離婚だったかな。その挫折感のようなものが、何だか、続いているのかなって思うね。自分ではそうは思わないんだけど、みんなにサゲマンとかいわれたところをみると、やはりそうだったのかとも考えるよね。
 ただ、子どもがね。離婚したときには四歳のかわいい盛りで、私にもなついていて、別れるのは本当につらかったよ。考えてみれば私の親も重婚とか離婚をしているんで、これも血なのかなって思う。

 子どもは大切に思っているから、いつか修学旅行などで、子どもが東京に出てきたときには会いにくるかもしれないと思って、再婚はしなかった。子どもが二〇歳になるまでは、結婚しないって自分で決めたんだ。でも、一度も会いには来なかった。今、どうしているのか。うわさも聞かないね。
(九七年九月取材)

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ホームレス自らを語る/一生に三度の倒産・園部俊彦(五二歳)

■月刊「記録」98年4月号掲載記事

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■バイク・カメラ・ジャズが趣味
 休日はバイクに乗るのが好きだった。愛車はホンダのCB二五〇。使い慣れていたニコンのカメラを積み込み、西へと向かう。特に行く場所を決めてはいなかったけれども、奥多摩や相模湖・津久井湖・山中湖なんかによく足を運んだ。高速道路を使わないで走るのが好きだったから、バイク好きがコーナーを攻めることでも有名な大垂水峠にもよく通った。曲がりくねったカーブも面白いし、何よりおいしい空気と景色があった。
 疲れるとバイクを止めて写真撮影に向かう。カメラにはかなり凝っていたからリバーサルフィルムを使っていた。紙に現像するんじゃなくて、スライドにして保存しておくんだ。本当によく撮ったね。
 家に帰れば音楽が待っていた。ジャズやラテン音楽が好きだった。コンポでお気に入りのCDを聞くのは最高だった。ジャズは近年の激しいものより、八ビートをしっかり刻んでいる古い曲をよく聞いた。ジミー・スミスなんか、繰り返しかけていたっけね。
 結婚もしなかったからカネもあった。なかったのは時間だよ。時間ができたらカメラを担いでバイクで日本一周したいなんて、そのころは考えていた。今じゃ、ひまがあっても飯にさえ困るというのに。いつの間にか、実現できない夢になったな。

 生まれ故郷は茨城県だ。工業高校で電気を勉強して、卒業後に電気部品を扱うメーカーに就職した。数回、会社を変わるうちに、あらゆる電気部品にくわしくなった。強い電気が流れる配電盤や、弱い電気で動く家電まで、電気関係ならばおよそどんな仕事でもできる自信があったよ。
 今、思えば、あの自信がアダになったな。自分でやってみたくなったんだ。男だったら誰だって、自分で事業をやってみたいだろう。それに、会社が得意先に出す仕事の見積もりを見るたびに、安い給料で働くのが嫌になったんだ。一九八三年、三八歳で会社を興した。会社といっても、自分一人の会社だったけれどね。東京都稲城市のマンションを自宅兼事務所にして始めた。
 コンピュータ部品や医療用電化製品の組み立てが主な仕事だった。幸い、親会社が必要な機材を提供してくれたから、設備投資にカネをかける必要もなし。おかげで借金もしなくてすんだんだ。
 会社を興してしばらくは順調そのもので、サラリーマン時代の月給を上回る収入も得たし、何より自分のために働いているのがうれしかった。

 ところが従業員一人の会社なんて、つぶれるときはあっけないもんだった。八八年、僕が四三歳のときにいきなり倒産。営業センスと事務能力がなかったのが、致命的だったんだろう。僕は職人肌だからね。採算が合わないと思っても、ついつい時間をかけて仕事をしてしまう。それを止める人もいないから、自分が納得するまで頑張ってしまう。
 職人だけでは会社は持たないよ。営業と技術屋の両方がいないとな。あの本田宗一郎だって、彼の右腕になった営業マンがいたっていうじゃないか。僕は気がついたら、どうしようもない状態にまで追いつめられていた。もう、会社をたたむしかなかった。
 堅実な経営をしていたから負債は少なかったが、ショックは大きかったよ。しばらくは何もしたくなかったね。でもまあ、働かないわけにもいかないから、電気関係の仕事を探したんだ。ところがこれがない。預金で食いつないでいたけれど、三ヶ月たっても仕事が見つからなかった。当然、カネはどんどん減っていく。仕方がないから、知り合いの建築関係の会社で働くことにしたんだ。

■五〇歳に雇い口なんかない
 ビルの壁に不燃材を吹きつける仕事だった。僕が入社する数年前までは、ボロもうけだったらしい。でも、最初は建築現場で働くの嫌でね。好きだった電気の仕事から離れるのもつらかったし、こわい世界だと思っていたんだ。いかつくて、ガラの悪い男がどなりながら働いているイメージがあった。ところが働き出してみると居心地は悪くない。三人一組で現場に入るが、みんないい人ばかりだった。仕事が完了すると、現場が変わるのも気分転換になって意外によかった。

 仕事は鹿島、フジタ、大成建設なんかの大手から直接入っていたから、大きな物件がほとんどだったよ。短くても一週間、長ければ一ヶ月くらい同じ現場に通う。納期が迫ってくれば、週休二日というわけにはいかないが、仕事さえ終われば午前中で帰れる。いつの間にか、吹きつけの仕事が好きになっていたんだ。埼玉方面の現場が多かったので、住居も巣鴨に変えた。月六万円のアパート暮らしは快適だった。
 ところが、ちょうど僕が入社したころから、発がん性物質としてアスベストが問題になり始めたんだ。うちの会社はこれを扱っていたからね。だんだん行政や建築会社のチェックが厳しくなって、経営も傾いていった。
 僕はつくづく運が悪いと思うよ。一緒に働いていた先輩なんか、よくこぼしていたんだから。「昔はこの仕事で家が建ったのに」って。そして、とうとう九六年に、会社は解散してしまった。

 従業員三〇人ほどの会社だったが、独立する人や辞める人が一挙に重なった。数週間の間にどんどん人がいなくなっていった。仕事自体は山ほどあったけれど、仕事を受ける従業員がいなくなってしまったんだ。二、三人が見切りをつけ始めたことから、連鎖反応が起きたのかもしれない。会社に行っても仕事ができないから、ついには誰も来なくなってしまった。給料が払われるかどうかもわからなくなった。
 不景気でつぶれるなら、うわさが伝わってくるから事前に準備もできた。ところがずっと先まで仕事がつまっているのに、いきなり人間だけがいなくなったんだから驚いた。もっとも自分の生活については、まったく心配していなかったけれども。会社をつぶしたときに比べれば、のん気に構えていたね。また会社を変わればいいんだって。
 でも甘かったよ。当時、僕は五〇歳になっていた。どこを探したって雇い口なんかない。数百万円の預金で食いつないで、職探しをしたが見つからない。職安にも行ったけれども、態度がひどくてね。人をバカにしたように応対するんだ。だから結局、職員とは口をきかなくなって、求人票を見に行くだけだったよ。役に立たなかったね。

■最後の幸運もつかの間
 日に日に目減りしていく預金残高が恐怖だった。きちんと雇ってくれないならば、せめて日雇いでもと、高田馬場で手配師から声をかけられるのを待った。引っ越しの手伝いなんかによく出かけたが、日給六〇〇〇円では預金の持ち出しを止めるわけにはいかなかった。
 そんなとき高田馬場の公園で、「ハウスクリーニングの仕事をしないか」と声がかかったんだ。手配師ではなく、従業員が辞めて困っていた社長が、じかに声をかけてきた。幸運だったね。手配師のようにマージンを取らないから、一日一万一〇〇〇円になる。これで助かったと思ったよ。二〇日も働けば、どうにか生活していける。一生懸命働いた。だが、これが自分にとって最後の幸運だったんだ。数ヶ月後には、また会社がつぶれた。人生に三度も倒産にあうなんて、自分には疫病神がついているんじゃないかと思ったよ。もう、どうにでもなれという気持ちになっても仕方ないだろう?

 少しでも収入を上げようと高田馬場に通ったが、五〇歳をすぎた体では、なかなか仕事はもらえない。仕方なくバイクを売った。気に入っていたカメラも質屋に入れた。コンポも。そして自分の手元に取り戻すことは、とてもできなかった。
 いつの間にか、カネ目のものがすべてなくなっていた。預金も二~三〇〇〇円になった。家賃なんか逆立ちしても払えない。身の回りの衣服だけをバッグにつめて、そっとアパートを抜け出した。どこに行くあてがあったわけでもない。気がついたら新宿にいたんだ。

■住所だけでもほしいんだ
 新宿中央公園でホームレスが寝ているのを見て、ここにいようと思ったんだ。段ボールを敷いて寝た。何もする気が起きず、二、三日はただただ寝ていたよ。貯金がなくなっていくことで、かなり精神的に追いつめられていたから、家がなくなり、家賃や食費の心配がなくなって、かえってホッとしたくらいだ。それが九七年の夏。
 それからは飯場で泊まり込みの仕事を探すようにしている。飯場に入れば、少なくとも一五日間は食事にもありつけるし、雨露もしのげる。でも、最近はこの不況だからね。やはり仕事にあぶれてしまう。休みなく仕事を入れるには、手配師と顔なじみになっていかなければならないけれども、僕にはそういうことは苦手だし・・・・・。
 高田馬場に仕事を探しに行き、あぶれた日の夜には、新宿の西口地下で寝るのが習慣になっていた。ところがこの前の火災で、地下からも追い出されてしまった。「なぎさ寮」に入りたかったが、定員オーバーで受付もしてくれなかったよ。今は、夜も中央公園で眠るようになったよ。
 自分がなるまでは、ホームレスなんて、酒やばくちで身を持ち崩した人ばかりだと思っていた。ところが結構まじめに生きてきた人間もいるんだよ。僕だって、どうしてここにいるのかわからない。何が悪かったんだろう。いまだにホームレスをしているのが信じられない。
 住所不定じゃ、定職も見つけられない。手配師が扱う日雇いの仕事しかできないんだ。しかも年金をもらうには、まだ早い。だいたい住所もないのに、どうやってもらえばいいんだ。そのうえ不況が深刻になってからは、五二歳はすっかり年寄り扱いだ。仕事がほしいよ。国が仕事を斡旋してくれないなら、せめて住所だけでもほしいんだ。そうすれば職探しができるのに……。

 九五年に実家を訪ねたときには、「土地をやるから自分で家を建てろよ」なんて兄にいわれてね。「家を建てるカネがないよ」なんて笑ってたけれど、もらっておけばよかった。今は切実に家がほしいよ。でもここまで落ちぶれてしまうと、もう、親族なんかに連絡はできないんだ。自分でもどうしていいのかわからない。寒さに震えて眠るしかない。
(九八年三月取材)

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靖国を歩く/第40回 勝利祈願は靖国でOK?

■月刊「記録」06年4月号掲載記事

        *         *          *

 ここのところ、新聞やニュースで報道されるときの靖国神社は「A級戦犯が祀られているのに首相が参拝に行くのはいかがなものか、という中国(や韓国)からの批判があった」という内容がほとんどだ。そういう報道を繰り返し耳にしていて、かつ一度も行ったことがない人には、靖国という場所はどことなくタブーな、簡単に触れてはいけない場所というイメージを持たれているかもしれない。
 はじめて靖国神社をおとずれる人には、ぜひ神社に飾られている絵馬を見てほしい。鈴なりにぶら下げられた絵馬には脈絡なくあらゆる願い事が書き込まれている。これらを見れば、この神社が決して「こわいところ」ではなく、どんな人からも親しみやすいことが分かってもらえるのではないだろうか。
 安全祈願、昇進祈願、恋愛成就にはじまり、個人的な願い、たとえば「給料を上げてほしい」「今年こそVIPクオリティ!!」「氷室京介LOVE」、中には「明鏡止水」など祈願なのか何なのかよくわからないものもある。「先祖代々のお墓を直す為に何卒三億円の宝くじが当たりますように」という異常に率直な願い事もある。いったいどんな墓だ。
 いつもなら願い事の傾向など存在しなかったと記憶するが、注意して見ると、時期的な理由からか、受験合格を祈願したものが多いことに気付く。大学では立教、法政、明治、早稲田など、高校ではやはり靖国から近いからか九段高校合格を願うものが多かった。
 なるほど、たしかに靖国は戦死者を慰霊し顕彰する神社であると同時に、祀られている戦死者たちは国のために戦ったのだから、受験生たちは受験を戦争に見立てて靖国を「戦いの神が祀られている神社」として参拝に来るのかもしれない。
 ここでふと疑問に思ったのは、靖国は勝利祈願をする神社としてふさわしいか、ということだ。というのは、日本は日清・日露戦争では勝利しているが、太平洋戦争で惨敗しているということに思い当たったのだ。要するに、英霊とひとくくりにされてはいるが、中には勝ち戦の英霊と負け戦の英霊がいるわけである。そんな英霊たちがごちゃ混ぜに祀られているという事情を抱える靖国は、勝利祈願をする神社として果たしてふさわしいのだろうか。

■靖国は勝利祈願する場としてふさわしいか

 まず、靖国神社にたずねた。
「当神社は、国のために尊い生命を捧げられた方々を慰霊顕彰申し上げる神社です。ただ、参拝者がどのような目的で参拝されても、御祭神は大いなる威を発して御導き下さるものと信じます」。
 勝利祈願にふさわしいと直接いっているわけではないが、「どのような目的」でも「御導き下さるものと信じます」というのだから、靖国自身では勝利祈願にふさわしいと考えているのということだろう。「大いなる威」というのが何なのかよく分からないが、それで受験に合格できるのなら御祭神にどんどん発してもらっていい。 ただ、そうであっても、実際に祈願におとずれた受験生は勝利しているのか。気になったので、参拝に来る受験生と思われる学生に聞くことにした。
 男子高校生2人組。私大の受験を2つ控えている。
「合格祈願に来ました。…靖国神社が勝利祈願にふさわしいかどうか…については、考えたこともないです、すいません。ここに来た理由は、そんなに遠くなくて、有名だからです」
 なぜか謝られてしまった。しかし、これから受験する人に勝ったか負けたかを聞いてもしょうがない。聞きたいのは、あくまで祈願した結果がどうだったかなのだ。 女子高生2人組。
「受験生ではないです。弓道部のレギュラーに選ばれたくて祈願にきました。祈願にふさわしいかはよく分からないですけど、姉が2年前に彼氏と一緒に明治大学の合格祈願に来て、2人仲良く落ちてしまいました」。
 なぜ彼女の姉は合格祈願に靖国を選んだのだろうか。「やっぱり近いからじゃないですかね」。
 靖国に勝利祈願に来た理由は、ただ「近いから」「有名だから」という理由からが多かった。たしかに絵馬に「よりスタイリッシュに生きたい」というような願いが書かれているこのご時世、祈願に靖国を選ぶ理由に深いものなどないのかもしれない。サンプル数が少ないということもあるが、この時点では靖国神社は「まったく」勝利祈願にふさわしいとはいえない。

■トリノ勝利祈願はゼロ

 ただ、受験における勝利祈願といっても、それは個人的な問題だ。やはり、国をあげての祈願ということになれば事情はちがうのではないだろうか。「日本代表」の看板を背負う選手団を送り出したトリノオリンピックには国費も当然投入されている。ならば誰にとってもトリノはまったく他人事ではないはずだ。当然、各競技で日本の必勝を願った絵馬があってもいいところだろう。
 しかし! なんとなんと、絵馬はひとつも見つからなかった。自衛隊員が書いた「死んでもこの国を守ります」とやたら気合いの入ったものは見つけたが、「安藤美姫が金メダルをとりますように」と書かれたような絵馬はゼロだった。
 なぜだ。なぜ「トリノ必勝」絵馬がないのだろう? 「勝った英霊」と「負けた英霊」が混在しているため、純粋に「勝利祈願のための神社」とはいえない点はあるが、「お国のため」に戦った英霊たちが祀られている靖国に、国をあげて世界に挑むという大イベントであるオリンピックでの成功を願う絵馬がまったくないという事態は問題だといっていいのではないだろうか。
 絵馬を見ていた主婦風の女性にたずねてみた。いきなり、少し(大いに?)珍しい質問をぶつけられて戸惑った様子の女性だが、少し考えてから話してくれた。
「うーん…、やっぱり、今のオリンピックはCMなどで盛り上がってはいるんですけど、昔はもっと、選手たちには日の丸を背負って戦うんだという気概のようなものがあったと思うんです。今の選手は、自分のために戦う、と平然として言うようになりましたよね」。
 たしかに女性のいうことはよくわかる。しばしばいわれる「公共という概念の喪失」ではないけれど、国民としての一体感を感じることは生活していてほとんどない。私も、愛国心のようなものはほぼ持っていないし、愛校心もなかったから高校の校歌なんてまったく覚えていない。親の世代からはこの感覚が理解できないらしい。 考えられるのは、現在では受験などの個人的な戦いであればどんどん祈願するが、日本がひとつにまとまって戦うというような場合については、国民は総じて一体感のようなものを持たなくなったということだろう。念のためトリノの必勝祈願があったかどうかを靖国神社にたずねてみるが、「何を祈願されるかは個人の自由です」とかわされてしまう。しかし、多分絵馬がゼロなんだから、わざわざ祈願に来る人もいなかったのだろう。
 靖国とオリンピックは無縁であるから祈願には来ないということでもない。1932年のロサンゼルス大会、「バロン(男爵)西」こと西竹一騎兵中尉(当時)は馬術大障害で金メダルを獲得した後、硫黄島の戦いで戦死したので英霊として靖国に堂々と祀られている。果たしてどれくらいの人がこのことを知っているかという問題はあるが。
 あるいは、テレビでは大いに盛り上がっているように伝えられたトリノだったが、結局それはエンターテイメントとしての行事という位置づけだったのだろうか。エンターテイメントに国民の一体感を求めてもしょうがない。かといって、他に国民が一体になることができる行事はあるのだろうか。トリノの勝利祈願は靖国ではなく他の神社でする、という知られざる傾向があった可能性も否めない。英霊の多くは第二次世界大戦の戦死者であり、誰もが知るようにそれはボロ負けの戦争だった。アタマの片隅にそれがあり、なんとなく、足は明治神宮に向かっていた…という場合が少なからずあったりして。 ひょっとすると、英霊たちはトリノ必勝祈願にひとりでも来ることがあれば、「大いなる威」を発してなんとか選手を勝たせようとじっと待っていたのではないか。しかし、結果的にひとりも祈願に来ることはなかった。これに激怒した英霊の怒りが、トリノの日本選手たちに悪い流れを呼び込み、結果的に荒川静香の金一点を除けば他は惨敗という結果につながった。いささか超常現象的な考えだ。けれど、次回の北京オリンピックで挽回のメダルラッシュを狙うのであれば、万全を期してJOC(日本オリンピック委員会)から英霊に歩み寄ってみてはどうだろうか。…などと考えつつ、靖国の社務所に問い合わせてみると、「正月の縁起物として取り扱っているため、ただいま絵馬は品切れです」とのこと。
 …すいません、いろんな意味で。 (■つづく)

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阪神大震災現地ルポ 第14回/都市計画の非人間性

■月刊『記録』96年7月号掲載記事

■ 道路ばかりが広がる区画整理 

 新長田駅前の銭湯「波止湯」には、区画整理反対を訴えるいくつもの垂れ幕が、建物いっぱいに掲げられている。この一帯「新長田駅北地区」は、震災直後に「復興」の名目で土地区画整理事業の都市計画決定を受けている。事業区域の総面積は42.6ha。幹線道路や街区道路、防災公園の整備などが計画されている。
 波止湯を営む森重光さんら反対住民は「新長田駅北地区区画整理計画中止を請願するまちづくり協議会連合」を組織して、神戸市に対して意見書を提出するなどの活動を行ってきた。「計画の大前提として、住民参加と合意があるべきだが、全く実質が伴っていない」と森さんが憤る。この地区には1町(丁目)ごとに21のまちづくり協議会があるが「神戸市が派遣した都市計画コンサルタントが提案を出してきて、住民はまだ議論もしてないのに、いきなり賛否を問う。市はこれで住民参加・合意が出来ているとすりかえている」のが実情という。

 神戸市の計画では、公共用地が震災前の5.7haから12.2haに増加するのに対し、宅地は29haから23haに減少する。森さんは「宅地の利用増進をうたいながら、これで利用増進といえるのか」と、市の計画を批判している。詳細な事業計画や予算書まであるのに、神戸市は住民には決して開示しないという。 
 よく知られているように、区画整理は減歩(私有地の一部の無償提供)や換地で公共用地を確保する。この非人間的手法は、なにも「株式会社」神戸市だけに限らない。そもそも日本の都市計画は、住民無視で非人間的な制度なのだ。 

 なかでも区画整理は、日本でだけ異様な発展を遂げた都市計画の手法だ。戦後制定された土地区画整理法の前身は明治時代の耕地整理法で、もともとは農地に適用されていた。いびつな形の農地を整然と区割りして農道を広げるためのものだった。広い農道なら農機具を積んだ自動車を乗りつけることもできる。区画されていることで機械化の効果もあがる。減歩されて地積が減少しても、生産性の向上で収入が増えるから、利益になっていたのである。 
 土地それ自体が生産手段となっている場合は、これでもよかった。それを宅地に応用したことが間違いの始まりだった。区画整理をすれば減歩されても地価が上昇するから財産価値は高まる、というのが行政など推進する側の言い分だが、土地転がしでもするならともかく、住み続ける限り、地価が上がっても借金の担保価値が増すぐらいしかメリットはない。土地が小さくなって利用範囲が狭まるデメリットと、どちらが重要だろうか。むしろ固定資産税の負担が増すだけだともいえる。宅地造成の際に実施するならまだしも(それでも問題が起きている例もある)、既成市街地に適用することが、どだい無茶苦茶な話なのである。

■ 上からの計画押しつけ 

 にもかかわらず、行政が区画整理を好んで都市計画事業に適用するのは、減歩によって道路用地をタダで確保できるからに他ならない。この「道路偏重主義」は、産業基盤としてしか道路を位置づけてこなかったこなかった経済成長至上主義のあらわれである。幹線道路やその間をつないで町中を通る道路の整備には熱心だが、その道路に挟まれた空間―これこそが市民の居住空間なのだが―の整備には、とんと関心を払わない。 

 だから新長田駅北地区でこのまま事業化が進んだ場合、たとえ高層化されても、減歩で狭くなった土地にさらに住宅が密集するようなことも考えられる。現に長田区では、過去にも戦災復興や中央幹線道路のための区画整理が実施されており、その結果として住宅集地ができあがったとしている専門家もいる。それに区画整理で整備されるのはインフラだけだから、資金に余裕のない住民は、住宅の再建に割高な難燃素材をそんなには利用できないだろう。そうなると、防災機能を高めるためという区画整理の目的は、いったいどこまで実現できるのか。甚だ疑わしい。森さん達も反対理由に挙げているように、結局は過去の例と同じで、道路整備のための区画整理ではないのか。 
 こんなことがまかり通るのも、日本の都市計画がその理念において「上から押しつける」ことを最善の策としているからである。住民はエゴむき出しでまとまりっこないから、行政が作成した計画に黙って従え、というわけである。住民がその土地でどんな生活を営み、どんな歴史を持っているかなど全く意に介さない。まるで子供の「お絵かき遊び」のように、計画図を描いていく。 

 4月26日の神戸市計画審議会と、5月29日の兵庫県都市計画案が、それぞれ原案通り承認された。455人の署名を付した約100件もの森さん達の反対意見は、ことごとく退けられた。 
 震災前は4000人ほどだった地区の住民も、現在は2000人台という。16のまちづくり協議会が実質的に賛成に回っており、反対住民も現状では少数派だ。だが住民1人1人のレベルでは決して賛成ばかりではないという。今後は行政手続法による不服申し立てや、住民側の対案を作成して、神戸市に投げ返すことを検討している。「持久戦でいく」と、森さんが語った。 (■つづく)

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学歴は変えられるのか? 短大から大学への編入

■月刊『記録』97年11月号掲載記事

■年々進む短大離れ

 九〇年、二六九二人。九五年、七七八八人。五年で三倍近くも膨らんだ数字は、四年制大学(以下四大)に編入した短期大学(以下短大)生の数だ。九一年、文部省が大学設置基準を改正し、編入定員を別枠で設けることができるようになってから、編入は一つのブームとなった。
 このブームに輪をかけたのがバブル崩壊と男女雇用機会均等法だ。九三年頃から、女子学生の就職状況を意味する「氷河期」・「超氷河期」という言葉が新聞の見出しに踊るようになる。かつて一般職という名前で募集されていた事務系の女性は派遣会社の女性に代わり、短大から一般職そして結婚という一つの人生パターンは急速に崩れていった。短大の女子学生の方が就職しやすいという神話も、同時に崩壊した。
 日本短期大学協会の調べでは、昨年、入学試験で学生数が定員に満たない短大が一七・五パーセントもあった。これは前年の六・二パーセント増にもなる。特に深刻なのが英語・英文科で三四・六パーセントが定員割れを起こすという異常事態となった。確かに一八歳人口は、九一年をピークに年々下がってきている。しかし九五年から九六年にかけての人口減少は、わずか3パーセント弱に過ぎない。どれだけ短大離れが進んだのかがわかるだろう。
 また短大とは逆に、専門学校への進学率が上昇している点も見逃せない。昨年五月に文部省が調べた統計によれば、専門学校への進学率は短大を三・六パーセント上回り、短大より五万人ほど多い二六万人が入学したという。
 このような状況を前に、短大も変革を余儀なくされた。短大を廃止し、四大への改組を打ち出すところも増えてきている。短大の名門・学習院短期大学でさえも来年四月から四年制の学習院女子大に改組される。「学短」という名称で、並の四大以上に人気のあった学校だけに、他の短大に与えた心理的影響も大きいはずだ。

短大離れとともに沸き起こった編入ブーム。
 このように四大への編入は、たしかに就職対策としての学歴アップを狙った短大生により増加した。だが、じつは意外に知られていないことだが、編入は大学教育の活性化にも大いに役立っているのである。
 大月短期大学から東北大学の経済学部経済学科に編入した津久井紀子さんは、次のように語る。
「編入に向けての勉強は楽しかったですね。高校時代の受験勉強は、暗記中心の詰め込み式でしたが、編入試験に出題される経済学は、社会と密接に結びついていますから。それこそ新聞を毎日読むことが、勉強につながるという実感がありました。
 だから経済学は、試験のために勉強していたというより、勉強が楽しくて、やっているうちに夢中になっていった感じです。」
 また國學院大学の二部から一部に編入した新井由花さんは言う。
「二部の学生は真面目な人が多かったから、一部の雰囲気とは随分違いました。もし最初から一部に合格していたら、何も考えない自分のままだったと思います。社会人の学生や普通の学生と出会えたからこそ、今の私があります。編入の経験は貴重でした」
 大学が遊び場と化した現状では、学問の楽しさを知らない学生も多い。そんななかにあって、編入という目標に向かい自分の好きな学問を勉強してきた学生や、社会人とともに勉強してきた経験をもつ学生、大学卒業後に勉強をしたくなって自ら大学の門を叩く学生などは、勉強に対する意識も高く、大学からの評判も良い。そんな学生を取るために、大学も積極的に編入生を受け入れはじめている。
 今年の五月、国立大学の三二医学部が大学を卒業した人を、三年次ぎに編入制度の導入を決めた。総定員数を変えず、一般入試枠を削る形で編入する学生を入学するシステムをとる。この理由として、国立大学協会の医学教育特別委員会は「高校卒業者を主な対象とする現在では、必ずしも医学部志望者としての自覚や動機を備えた適任者が入学するとはいえない状況にある」としている。
 また高崎経済大学の「地域政策学部」でも、三年次編入の枠を二五人設けている。この大学では編入時の入学金は免除されており、主婦や高齢者などの編入を期待しているという。

■五〇名以上が編入する短大

 優秀な学生を獲得できる編入試験は、大学にとって願ってもいないチャンスとなるが、大学への編入を希望する学生を抱えている短大側は、編入についてどう思っているのだろう。
 九四年四五人、九五年五〇人、九六年五八人と、毎年編入希望の学生を大量に出している大月短期大学を訪ねた。この短大は、在校生二三〇人前後だが、学生の二〇%以上が毎年編入している。しかも国公立などに非常に強いのである。
「べつに編入用に特別な授業を組んでいるわけではないんですよ」と、同短大の進路相談室長・金丸典男室長は言う。だが、九六年の編入合格実績を見ると、東北大学・山形大学・福島大学・埼玉大学・中央大学・立命館大学など、そうそうたる大学名が並んでいるだけに、にわかには信じがたい話だ。
「他の短大に比べて、編入者が群を抜いて多いのも別に我々が意図した結果ではないのです。大学の授業を面白くしようという取り組みの一環として、すべての授業を少人数制にし、先生と学生との心の距離を近くした。授業中に分からない部分があれば、授業後すぐに質問ができる人間関係を目指した。その結果なのです。
 うちは経済の単科大学ですから学生の数も限られていますし、交流が深まってくれば、学生のニーズも、耳に入ってくる。それを着実に実行してきたら、いつの間にか編入学の合格者数が上がっていたんです」
 そもそも大月短大は、編入のための相談口を公に設けていたわけではなかった。進学情報部というサークルがスタートし、学生自らが過去の受験問題を集め、編入への対策を行っていた。ただ他の大学と違っていたのは、併設している付属高校の先生を含め、すべての先生が編入希望者の学生を快く指導していたことだ。先輩から後輩へ、編入試験のための情報は代々引き継がれ、少しずつノウハウを蓄積していったのである。大学が編入試験の情報を学生に代わって集めるようになったのは、つい最近のことだという。
「大学に編入しても単位がそのまま生かせる四単位の授業が多かったり、英語の授業にもかなり力を入れたりと、編入に有利な条件はそろっていました。また入学した四月中は自分の進路をどうするのか考える期間に指定し、自分なりの目標を持つように指導をしています。でも、それなども別に編入のために作ったシステムではないんです。より良い大学生活を送るために、作り出したものだったんです」と、前述の金丸氏は語る。

■編入生は成長する

 合格するための技術だけが求められる大学受験と、短大で充実した生活を送ることで合格できる編入試験。この違いは、かなり大きなものだ。大月短大から都留文化大学に合格した佐久間智子さんも、次のように述懐する。
「大月短大の二年間は、本当に充実していました。サークルにも所属し、アルバイトもし、短大の勉強も編入のための勉強もしました。私は初等教育を学びたかったので、編入のための専門の科目の勉強は独学でやるしかなかったのですが、仲間や先輩からさまざまな情報を入手できました。仲間同士で励まし合い、勉強しようという刺激にもなりましたから、他の短大とは違っていたと思います。
 またあの学校の素晴らしいところは、さまざまな学生と過ごせることです。就職する人も、編入する人も、さらには専門学校に通おうとする人もいる。そんな人との出会いは、私にとって大きな財産です。漫然と大学に入学した学生より、遙かに貴重な体験をしたと思っています」
 編入試験が受験テクニックとは違った勉強方法を必要とされるなら、転部・編入の予備校では何を教えているのだろうか。この業界の老舗として知られている宍戸ふじ江教務・転部課長にお話を伺った・
「就職も決まり、遊び回っている友達を尻目に勉強するのは辛いんですよ。それに編入試験は面接が重視されますから、自分が何を勉強したいのか、どうして大学に行きたいのかが重要になってきます。だから私達も学生に問いかけますし、学生も自分で答えを見つけようと自問自答します。答えの見つからない学生は、挫折していきますしね。
 当校では入学時点でアンケートを取りますが、学歴にこだわって転部を決意する人は三~四割ほどです。あとの六割は、何らかの勉強をしたいからというのが理由です。でも漠然と当校に通い始めた学生も、時間が経つにつれて変わっていきます。成長していくんですよ。
 自分なりの答えを見つけて編入しますから、大学に合格してからの身の入れ方も違います。大阪大学や広島大学・神戸大学などにも当校で勉強した学生が入学していますが、どの大学からも卒業生達がよく勉強をすると聞いています。
 本当にやりたいことを勉強するための受験を指導するのは、私にとってもやりがいのある仕事ですね」
 やはり編入試験の予備校では、受験テクニックを教えているわけはなかった。だからこそ、この予備校の卒業生達が、大学から高い評価を受けることになるのである。

■意識の違いだけではない

 しかし、一体どうして編入学で入学した学生だけが、それほど高く評価されるのだろうか。本当に意識の違いだけが理由なのだろうか。
 前述の津久井さんは語る。
「優秀な学生も多いし、ゼミも少人数なので楽しく勉強していますが、大教室での授業があると、短大との違いを感じます。大月短大の頃なら、授業後に質問しに行けたんですが、大教室だとそうもいかないですからね。少し寂しいですね」
 彼女の通う東北大学は、比較的真面目な学生の多い大学だといわれているが、なかには授業に出席しない学生や、試験をパスすることだけを考えている学生もいるという。まったく興味を持てない授業が毎日続けば、学問の面白さを見つけることもないまま卒業していくのも道理だろう。じつは編入する学生の質が良いという話は、そのまま大学の現在の授業内容の疑問へとつながっていく。自ら編入という形で望まないかぎり学生の興味をまったく引かない授業を続けている限りは、伸びる芽も伸びないのではなかろうか。

ひそかに広がる大学地方受験の実態

■ 甲子園の有名投手と同級生

 それは何気ない会話だった。
 最近、地方の小さな大学が、東京で受験会場を設けているが、「知名度が低い地方の私立大学が東京で受験機会を提供しても受験生が集まるわけがない。どうしてだろう」と編集部で話していたのだ。そこへやってきた編集長、話しを聞くやいなや「どうしてかわからなければ、なぜ取材してこないのだ」と一喝。その一言で、私の八年ぶりとなる大学受験が始まることになった。
 受験をするためには、まず受験校を選ばなければならない。取材目的に合致する大学は、レベルや校風などは関係なく、なるべく東京で名前が知られておらず、東京から遠くにある地方大学で、なおかつ東京で地方受験を行っている大学でなければならない。東京で知られている大学を、東京在住の学生が受験するのでは、何の不思議もないからだ。
 とりあえず東京から離れているという一点に絞り込み、西日本の大学を調べてみた。すると、あるある。軒並み東京での地方受験を行っている。その中でもダントツに心ひかれたのはK大学。なぜかというと、同校は甲子園を沸かせた有名投手が進学すると聞いていたからだ。どうせならば超高校級の投手と一瞬でも同窓生気分になりたい。しかもそれ以外で東京での知名度はゼロに近い。かつて受験生だった頃の私でさえ聞いたこともなかった。
 というわけで志望校は決定。さっそく大学に電話し、願書を入手した。ところがその時点で出願締め切りまで、なんと四日しかなかったのである。しかも消印有効ではなく、締め切り日までに大学必着のあわただしさだ。急がなければ企画が落ちてしまう。
 すぐに自分の出身高校に電話し、調査書の作成を依頼した。ところが通常なら一週間かかると、つれない返事が返ってくる。翌日までに調査書がなければ、受験はできない。「大学の出願日が迫っているから、どうしても明日までに調査書をください」と頼み込み続けた。一〇年以上も前に卒業したOBが電話口で泣き落としにかかるのだから、高校の事務職員もたまらなかっただろう。結局、私の熱意に負けたのか、翌日までに調査書作成を承諾してくれた。大学受験に必死になっている三〇歳を目前にひかえた私に、職員も同情してくれたのにちがいない。
 翌日に調査書を受け取ると、すぐに銀行で受験料二万八〇〇〇円を収め、願書も無事に郵送した。

■ 受験生を追う地方大学

 そして二月上旬、いよいよ入学試験の日を迎える。会場は、都区内にある学習塾の教室だった。私が志望した経済系の学科の受験生は私を含めて三人。同時に行われる第二部の試験には三人、工学系には一二人の受験生が集まっていた。この日、K大学では本校の構内はもとより、全国計一二ヵ所で一斉に試験が行われていることを考えれば、この人数は決して少なくはない。とはいえ三人はさびしい。
 緊張の中、試験が開始した。
 小誌三月号の特集「ピンク映画が危ない」の取材に追われていた当時の私は、試験前日までピンク映画の鑑賞に多くの時間を費やし、頭はほとんどピンク一色。もともと学力がないうえにこれでは、手の打ちようもない。
 一時限目の英語は文法問題が思い出せず、惨敗。二時限目の国語は、古典もどうにかわかり、喜びのうちに終了したものの、三時限目の世界史では、『アンクル・トムの小屋』の作者が誰かという問題以外、全て運を天に任すこととなった。
 ここまで試験の出来がひどければ、せめて取材ぐらいはきちんとしなければならない。昼休みと帰り際に、同じ学科を受験した学生を会場から出て捕まえた。
 K大学の地元に在住の現役女子学生は、第一志望が日本大学。志望校のほとんどが東京にあるため、受験期間は東京でホテル暮らしが続いているという。
 「地元の大学は行きたくないのですが、塾の先生の薦めもあって、この大学を受験することにしました。受験期間は東京にいるので、地元の大学も東京で受けることになったのです。同郷の友達の多くも、東京で地元の大学を受験していますよ」。なるほど、それで東京会場を設けている理由がわかった。
 もう一人の受験生は、東京在住の男子学生。彼は受験の動機について「父の仕事の関係で家族が転勤する先にある大学なので受験しました。もちろん東京で受験できるのも、志望校決定の理由です」と教えてくれた。
 学生の多くが地元在住の地方大学は、一八歳人口の減少への対策として、地元の受験生が東京に出てくるのを追って地方受験を行っていたのだ。東京で受験を行えば、取材した男子学生のような地方の受験生も捕まえることができて、二重にウマミがある。
 試験当日の大学職員は、確認できた範囲で二人。小さな会場と少ない職員で行える地方受験は、実施自体はさして大変ではない。これで二〇人弱の受験生を拾い上げられるなら、大学側としても悪くない話だろう。
 さて試験から一二日後、お楽しみの合格発表が電子郵便で自宅に届いた。ドキドキしながら封を切ると、みごと合格しているではないか。落ちている番号が少ないだけに、見間違えるはずもないのだが、何度見直しても自分の受験番号が合格者の欄に印刷されている。
 やった。自己採点ではおよそ一科目平均で四割弱の正解率を示し、編集部員および部を訪れる九割方が不合格を確信し、慰める者まで現れる始末だった。にもかかわらず、会心の勝利をもぎ取ったのであった。
 この後、合格自慢と祝宴の要求に全力を注いだため、知人・友人・同僚から嫌われまくったのはいうまでもない。

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靖国を歩く/第39回 英霊として祀られることは果たして幸福か

■月刊「記録」06年3月号掲載記事

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 靖国神社には、靖国的な言い方をすれば「日本のために、戦死という形で生命を捧げた」英霊たちが祀られている。その数246万柱余り。日本が生まれ変わる過程といえる戊辰戦争で多くの命が失われ、その戦死者たちを慰霊するためという明治天皇の意向を受けて前身の東京招魂社が明治2(1869)年に創建された……というのはよく知られているところ。
 ただ、戊辰戦争以後の戦死者であれば全員が祀られているのかどうかといった細かい部分についてはあまり知られていない。
 先にいってしまえば、戊辰戦争以後に戦死していても祀られていない場合はある。そして、戊辰戦争以前であっても祀られている場合もある。
 今回は、西郷隆盛や彰義隊といった、戦死時に反政府の立場にあった人たち、いわば天皇に刃向かった人たちは果たして英霊として祀られているのかどうか、そして大西瀧治郎や南雲忠一など、旧日本軍において「ムチャな」作戦を実行し、結果的に多くの日本兵を死に追いやった将校たちが祀られている事実について「この人たちは祀られていていいのか」という疑問を靖国神社に問うた。
 では、この人は英霊として祀られているのか? ということを疑問に思ったとき、それはどうやって確かめることができるのだろう。
 靖国神社の社務所に問い合わせてみると、英霊として祀られているかどうかを知りたい場合には、神社の調査室に頼めば調べてくれるということだ。
 それにしても、いつも思うのだが社務所の女の人は対応がいつもつっけんどんだ。そんなことも知らないんですか? という冷笑的な感じでものを言う。
「電話やファクスで問い合わせいただき、後にこちらからお返事をさせていただきます、あとは神社の図書館に行っていただき確かめるという方法もありますが」
「神社の図書館?」
「遊就館の隣の靖国会館にある図書館に」
 靖国会館1階にある「靖国偕行文庫」は靖国神社創建130年を記念して平成11年に開館、約9万点の図書と資料からなる閉架式の図書館だ。同館のホームページによると、「蔵書全体の内容を分類から見てみますと『國防・軍事』に関する図書が全体の約70%を占めており、次いで『歴史』に関するもの、『思想・宗教』に関するものが多く、この3分類で約90%を占めて」いるとのことだ。
 靖国会館を入って右手が偕行文庫、左手が休憩所になっているが、ソファの置いてある休憩所にはほとんど人がいなく、がらんとしている。
 図書館に入る。といっても、大きい机が4つほど置いてあるこぢんまりとしたスペースだ。
 カウンターにいるメガネの女性に、英霊として祀られているかどうかを調べたいのだがどうすればいいだろうかとたずねる。といっても自分の祖父などいわゆる一般人が祀られているかどうか知りたいという場合と、歴史の教科書に出てくるような人について調べるケースとがある。
 まずは一般人についての場合だが、調べたい人の親族、または戦友のような間柄であれば調査をお願いすることができる。誰彼かまわず個(故)人情報を教えるわけにはいかないということだろう。

■英霊かどうかの基準は「官か賊か」

 では、歴史上の有名人たちはどうか。
 たずねてみると、調べてほしい人のリストを受付の人に出せば、調査してくれるとのこと。ふと、歴史上の人物でも遺族はいるだろうし、有名人であるから一般人ではないということにはならないのではないかと思ったが、そんなことをここで言えば調べてもらえなくなるかもしれないから、だまっておいた。とにかく、この人は祀られているんでしょうか、と聞けば、有名人ならば教えてもらえる。
 現にこのとき、大西瀧治郎、南雲忠一、彰義隊、坂本竜馬、西郷隆盛の名前を書いたリストを出したが、その場で調べてもらえた。調べてもらった、というよりも、これくらいならもうジョーシキ、とばかりに受付の2人で「これはそうだね、これはちがうね」とやりとりされ、30秒くらいでカタがついてしまった。さすがだ。
 西郷隆盛と彰義隊に「×」がついている。英霊でない、ということだ。メガネの女性とやりとりしていた初老の男性に話をきく。
「西郷隆盛と彰義隊は祀られていないんですか?」
 いとも簡単にリストをより分けたので、なんとなく超基礎的な質問をしているとき特有の居心地の悪さがあるが、とりあえずきいてみた。
西郷と彰義隊にまつわる矛盾
 維新の英雄とされる西郷隆盛は明治天皇の厚い信頼を得ながらも、大久保利通の画策などあって中央から退くことを余儀なくされる。1877年に私学校の生徒を率いて西南戦争を起こし、城山で自決している。また、徳川将軍の護衛という名目で上野の寛永寺に集結していた彰義隊は抗戦したものの新政府軍に破れている。
 男性は丁寧に答えてくれた。
「ええ、西郷隆盛は祀られていません。祀られている御祭神は国家の命に従って戦死された方々ですので、そうでなかった方々は祀られておりません」
 官か賊か、ということなのだろう。いうまでもなく天皇の国家のために戦った官軍は政府軍であり、西南戦争を起こした西郷以下、そして幕府側だった彰義隊は賊軍だった。天皇に刃を向けたと見なされ、賊となった彼らは、その死後100年以上経った今でも祀られていない。しかし、ここで疑問なのは、靖国神社に雄々しく祀られている大村益次郎が叩いた彰義隊の旗が遊就館には飾られている。これは何を意味しているのだろうか。
 そして、西郷についても腑に落ちない点がある。
 西南戦争で自決した西郷だが、ずっと賊として冷遇されていたわけではない。1889年、大日本帝国憲法発布にあたり、西郷は大赦されさらに正三位を追贈されている。これには黒田清隆のはたらきかけがあったとされる。 ただ、やはりそこで問題になっているのは、政府から正三位を受けたにもかかわらず、西郷が英霊として祀られていない、ということだ。赦されているんだから祀られてもいいのにねえ、と思うがなぜかそうはなっていない。
 戊辰戦争以前でも祀られている場合がある、と先に書いたが、坂本竜馬がそのパターンだ。一般的には、靖国神社に祀られているのは戊辰戦争以後に戦死した人々、と認識されているが、坂本竜馬が京都で暗殺されたのは1867年。戊辰戦争の前年だし「戦死」でもない。
「戊辰以前であっても、国事により倒れた、ということから御祭神として祀られている場合があります。坂本命はそれにあたります。しかしどこまでも遡ってしまえば際限がなくなってしまいますから、安政の大獄までが範囲になっています。ですから、あまり知られていないところでは(安政の大獄で処刑された)吉田松陰命も御祭神として祀られているのです。」
 さて、ここからが問題だ。
「特攻の父」として知られる大西瀧治郎、ミッドウェー海戦で惨敗した南雲忠一。両者はもちろん英霊として祀られている。

■大西瀧治郎は何を思う

 大西はフィリピンのマバラカット基地で零戦に爆弾を乗せて敵艦に体当たりするという作戦を提案する。海軍の総意だったという説もあるが、悪名高い「特攻作戦」を発案し、結果的に悲惨な戦死者を多く生み出すことになった。大西が祀られているのはどうなのか。聞いたことはないが、「大西は祀るな」的な意見があってもまあおかしくはない。このことについて聞くと、それまで比較的に柔和な表情だった男性の表情が少し緊張を帯びたものになった。
「あなたは今、結果的に多くの人を死なせることになった、と言いましたが、結果論というものがその当時、果たして存在したでしょうか。司令部の命令に従って、割り当てられた任務を遂行した彼らにはそれほど非があったのでしょうか。」
 初老の男性はあくまで毅然とした態度でいる。
 男性の話を聞きながら、皮肉なものだな、と思った。というのは、たしかに大西は日本国のために戦い英霊として祀られてはいるが、その手で特攻隊の悲劇を生みだし、最後は特攻隊員を詫びるために介錯をつけずに長い間苦しんだ末の自決を果たしている。そして靖国には特攻隊員たちが祀られている。大西は、祀られていることを本望だと思っているだろうか?
 図書館を訪れたあと、別に出してあった質問書に対し、靖国神社広報から回答があった。
 先に述べたものと同じような質問を出し、同じようなことが回答として返ってきた。つまり、「大西瀧治郎命、南雲忠一、私共はこの方々を戦犯者とは思いませんし……」。そして、この回答書の冒頭にはこうあった。
「靖国神社は国のために尊い生命を捧げられた方々をお祀りする場所であり……」
 確かに最後には西郷や彰義隊は賊軍なったが、彼らは国のために戦ったのではない、のだろうか?
 祀られているからシロ、祀られていないからクロ、などという一元的な色分けはそこにはないはずだ。(■宮崎太郎)

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靖国を歩く/第38回 「九段の母」を探せ(宮崎太郎)

■月刊「記録」06年2月号掲載記事

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 毎年8月15日に日本武道館で行われる全国戦没者追悼式。2005年、この式典が1963年から行われるようになって以来初めて、戦没者の親の参列がゼロとなった。
 ただ、それ自体は大して驚きではない。戦没者の親の年齢を考えてみよう。親が子を20歳で産み、その子が敗戦の1945年に亡くなったとして、その時点で親は40歳。戦後60年が経った05年の時点で、戦没者の親は100歳に達していることになる。100歳以上の高齢者がこれまでと何ら変わりなく参列していたら……その方が驚きだろう。
 英霊の親、靖国神社といえば『九段の母』を思い浮かべる人は多いだろう。1939年にテイチクから発売されたレコードで、作詞は石松秋二、作曲が佐藤富房。当時の大ヒット曲だったという。

「上野駅から九段まで/勝手知らないじれったさ/杖を頼りに一日がかり/せがれ来たぞや会いにきた……」

 誌面の都合上、歌詞を掲載するのは1番のみにするが、歌は4番まで続く。2番の「こんな立派なおやしろに/神とまつられもったいなさよ/母は泣けますうれしさに」の部分に(いうまでもなく「おやしろ」は靖国神社)、当時の人々の靖国神社像があまりに率直に映し出されているようで、素通りするのをためらわせるものがある。
 もっとも05年の全国戦没者追悼式に英霊の親の姿はなかったとはいえ、「九段の母」世代は全国の至るところでまだ健在なはずだ。
 会いたい。会って、当時どんな心境で『九段の母』を歌っていたのかを聞きたい。そして今回の「九段の母」探しが始まった。
 はじめにあたったのは日本遺族会。英霊の母を探している旨を話すと、まず「戦死された方の母親ですよね、もう、相当なお年ですよね?」と驚かれた。
 対応してくれた方によると日本遺族会は各都道府県の遺族会の集合体のようなもので、全国の戦没者を一括して把握しているわけではないという。各都道府県の遺族会がそれぞれ名簿を管理しているということを聞き、次に東京都の遺族会である東京都遺族連合会にあたることにした。
 同連合会の男性によると、「母」に会うことは難しいだろうと言う。毎月15日に東京都戦没者霊園で同連合会が行う拝礼式にも、もう戦没者の親は姿を見せないという。「親を探すのは、相当大変だと思いますよ」と男性は言う。
 次に注目したのは靖国神社境内にある献木だった。到着殿の脇にひっそりと植えられた献木の立て札にはこうあった。
「元北支派遣独立混成第九旅団/独立歩兵第三十九大隊/戦友遺族一同/事務局連絡先…」
 植えられたのが1971年とかなり時間が経っていることはあるが、直に遺族に連絡を取ることができれば、九段の母にはぐっと近づく。献木は他にもあったが連絡先が書いてあるものは他になかった。
 電話に出たのは声からしてかなり年配の男性だった。「元北支派遣」の名を出すと、ああ、と何か思い出すような声を出した。話を聞くと、今も年に1度のペースで当時の隊員たちと集まりを開くものの、ここ数年で連絡をとれなくなった者が急に増えたという。もし隊員が集まれたとしても、その母親となると、生きている確率はほとんどないのではないか、と男性は言った。

■こうなったら現地で探せ

 九段の母に会いたい。ならば靖国神社に参拝に来る人にこそ手がかりがあるのではないか。母当人がその足で来ていなくとも、英霊の親族であれば、そのつながりで母を探し当てることができるかもしれない。
 そこで早朝6時の開門から夕方5時の閉門まで張り込んで「九段の母」が身近にいるという人を探した。
 朝6時の開門前。あと1週間で大寒を迎えようという九段は死ぬほど寒い。気温1度、靖国神社横のコンビニで何年ぶりかのホッカイロを買う。誰もいないことを予想していたが、40代くらいの男性がひとり、またひとりとやって来て意外に3人も神門の前で開門を待っている。互いに顔見知りらしく談笑するかと思えば「上を向いて歩こう」とひとり叫んで怪気炎を上げていたりする。高齢者だからというわけではないが、早朝に起きて靖国に出かけるというケースはありそうなものだ……、などということを考えていたがそれはなかった。
 8時頃、2人連れの夫婦に話を聞く。男性が小学校3年生の頃、海軍だった父親(当時39歳)は人間魚雷に乗ることになった。ただ、しばらくは男性には「父親は特殊船に乗りに行った」としか伝えられなかったという。「親孝行しろよ」という父親の言葉を覚えているが、当時男性がその言葉をどのように感じたかは覚えていない。英霊の母はもちろんもう亡くなっている。
 10時40分頃、第二鳥居の前にワゴンが停まり、中から車椅子のお婆さんと付き添いの女性が降りてくる。車椅子のおばあさんはかなりの高齢。これは!と思ったが、話を聞いてみると残念ながら「母」ではなかった。英霊として祀られているのは夫の弟。20歳で満州に出兵、そのまま帰って来ることはなかった。聞くと、付き添いの女性は親族ではなく、デイサービスのワーカーさんだという。「今日はお天気がいいから、久しぶりに靖国にお参りに来たくなって」とお婆さん。参拝にも様々なパターンがあるものだ。
 正午。お昼時だというのに食堂、みやげものを置く外苑休憩所には人の姿もまばらだ。ここでふと、みやげもの店で働いている人ならば「母」くらいの年代の高齢者が参拝にやってくることがあるか知っているのではないかと思い、話を聞くことにする。そしてここで重要な証言を聞く。
「去年までほとんど毎朝、それも早朝に来て、お参りしていくお婆さんがいたよ。その後はよく巣鴨のとげぬき地蔵に行くっていってたけど。年でいえば、100歳くらいでもおかしくないような感じだったね。私は7時半くらいにこの店に来て準備をするけど、まだ店が開いてないそれくらいの時間帯にそのお婆さんが来て『まだ店開いてないか』とよく言われたね。」
 その通りならば「母」である確率は極めて高い。なにしろ、ほぼ毎朝来るようなお婆さんなら身内で英霊となった人がいるだろうし、100歳という年齢だ。しかし、昨年の後半あたりから、もう姿を見せなくなってしまったそうだ。
 神社の境内を、中国人の団体観光客が歩いていく。それは珍しいことではない。靖国というとイデオロギーにまみれた場所であるイメージを持たれがちで、特に「中国」「靖国」といえば反日・抗日といった言葉と結びつけられそうだが、実際に靖国を訪れる中国の人たちからはそんな気負いを感じ取ることがない。カメラを構え、笑顔を浮かべ、呑気なものなのだ。……そんなことを考えていると、その観光客群の向こうからくたびれたえんじ色の帽子と同じ色の上着を着た小さいお婆さんがとぼとぼ歩いてくるのが見えた。
 とうとう来た。今度こそは……と思い早速話を聞いた。大正10年生まれの小野さんは現在85歳。英霊として祀られているのは兄だった。小野さんが挺身隊として旋盤を回しているとき、5つ年上の兄はニューギニアに出兵し戦死した。「ウチにいれば死ななくてすんだのになあ」と言う小野さんに『九段の母』について話をすると「ええ、私はずっと『九段の母』を歌って、踊ってましたよ」と驚くべきことを言う。
 聞くところによると、歌好き、踊り好きが高じて、踊りの先生に習いはじめ、いつしか高齢者施設などでお年寄りを前に歌い、踊っていた。「上野駅から九段まで…」ではじまる『九段の母』を振り付けつきで歌いだすと、聞いている人たちはみんな泣いてしまっていた、と言い、小野さんはその振り付けを披露してくれた。振り付けは簡単なもので、腰が曲がったお年寄りが杖をつきながら歩き、たまに体を起こして腰を反らせる、というようなものだった。歌いながら慣れた様子で振り付けをたどる小野さんの表情はどこか楽しそうに見える。
 85歳という高齢になった今では人前で踊ることはなくなったが、それでもわずか5、6年前まで踊っていたという。もう昔のものではないかと思っていた『九段の母』が、今でも歌にその思想を乗せて生き続けている。私が思うより、どうやら「戦争」は遠いものではなかったようだ。
 他にも何人かに英霊にまつわる話を聞いたが、「母」に続く直接の手がかりはとうとう得られなかった。身内に戦没者がいる高齢者でも、それは兄弟や親戚がほとんどだった。
 最後に、ある女性と話した内容を書こう。現在78歳のこの女性が10代のときに兄は出兵した。人間魚雷としてだ。「ほんの少し前まで一緒に遊んでいた兄がこう言ったんです。僕はカマボコになります。どういう意味か分かりますか? 魚の餌になって魚の肉になるということですよ。」
 この女性はこの日、初めて靖国神社を訪れた。これまで、つらくて来られなかったのだという。
「もしかして、ここに祀られている方のお母さんも、あんまりつらくて来られないのではないですか?」と女性は言った。
 九段の坂が急すぎるからか、高齢のせいか、それともつらすぎるからなのか。いずれにしろ、母たちにとって九段は遠い。 (■宮崎太郎)

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鎌田慧の現代を斬る/米国戦闘支援列島と化す日本

■月刊「記録」1997年11月号掲載記事  (表記は掲載当時のままです)

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■進む有事体制

 先月号でも指摘したが、政府は「有事体制」への整備を着々と進めている。危険に満ちたこのような政府姿勢を前にして、日本のジャーナリズムが本質的な問題追求をしないことに、私は強い不満を感じている。
 日本時間の九月二四日未明、日米両政府によって合意をみた「日米防衛協力のための指針」(新ガイドライン)は、日本が米国の戦争にさらに強く従属させられる方向性を決定した、危険きわまりない取り決めだった。ところがこのニュースでさえ、大々的に報道されたのは合意発表後だ。それまで神戸での少年殺人事件を追い回していたマスコミは、新ガイドラインの合意にむけ、日米両国がどのように動いているのかを明らかにしてこなかった。もちろん新ガイドラインと歩調を合わせるように、日本の有事体制化が進んでいるという視点もマスコミには欠けている。
 独禁法のなしくずし的な改悪はどうだ。公正取引委員会は、なんの規制も行っていない。三井石油化学工業と三井東圧化学、秩父小野田と日本セメントなど、ことしから公然と始まった大型合併は公取委の合併審査を素通りしている。「公取委が審査基準を緩和した」と業界から声があがるほどだ。これは経済の国際競争に即応したものだが、巨大企業の寡占状態は、潜在的な軍事生産力である。戦後の財閥解体はそのようなものだった。持ち株会社さえ復活した現状は、第二次世界大戦前夜の日本を思い出させるには十分である。
 労働問題もひどい。さきに人材派遣法が成立し、職業安定法の骨抜きが進められてきた。女子の深夜労働が認められるなど、労働条件の著しい改悪が進んでいる。農業も例外ではない。新農業基本法の制定が目論まれ、大企業による農地取得が進められる可能性も高くなってきた。これは戦後の農地改革に逆行している。金のあるものが農地を所有し、小作農として農民をコキ使うなど許されるはずもない。
 さらに規制緩和という形で、公営事業の規模が縮小されつつある。経済改革・財政改革・政治改革など、改革を旗印に進められてきた規制緩和だが、じつは企業の新分野進出と政治的な保守基盤の確立を満たすための戦後の民主化の一掃である。
 文化的・思想的には、自由主義史観という形で教科書攻撃が進められ、従軍慰安婦の問題がターゲットにされているが、このアジアに対する侵略と暴力を公然と否定する姿勢には、不気味な恐怖を感じざるを得ない。
 そして、治安対策の強化である。「組織的犯罪対策法」の立法が目論まれているのだ。市民運動団体から「盗聴法」と呼ばれているこの法律は、電話の盗聴を公然と始めようとするものだ。施行されれば、労働者や市民運動家を組織的暴力として監視の対象に入れようという動きが強まるにちがいない。この法律に、自民党政権がかねてより進めてきた国民総背番号制をリンクさせると、監視国家の確立となる。
 現在の日本は、戦後に構築された民主主義的な諸政策を投げ捨てつつある。今後、日本の将来に大きな影響をあたえるであろう新ガイドラインは、このような背景を隠して取り決められていることを見抜いてほしい。新ガイドラインが示す先に、日本の支配層の危険な舵取りが見えるはずだ。

■米軍へさらなる「思いやり」

 ソ連の脅威が崩壊したあとの軍備縮小の方向に逆行するようにして、新ガイドラインは作られた。世界の憲兵として君臨しつづけようとする米国に、日本列島が全面的に協力する。
 対外的には米軍の戦争に協力し、対内的には戦争体制を確立しようとしている政府は、抑圧的な社会状況を作り上げようともしている。小選挙区制でつくりだされた翼賛体制の政治状況のもとで一挙に行われようとしているのである。
 現在、在日米軍維持のために使われている金額は、六四七六億円(九七年度予算)。このうち米軍への「思いやり予算」は二七〇〇億円にものぼっている。不況にあえぐ日本が、これだけ多額のお金を米軍のために使っているわけだ。一方、韓国は二〇五億円、ドイツは六一億円、イギリスは四〇億円という数字である。米軍にたいして日本がいかに手厚い「思いやり」を行っているかが明らかだろう。にもかかわらず、新ガイドラインは米軍にさらに安上がりの戦争をさせることを約束した。敗戦の教訓によって作られた日本国憲法の前文の精神からは、著しく逸脱しているとしかいいようがない。
 この指針の目的は、「日本に対する武力攻撃および周辺事態に際してより効果的かつ信頼性のある日米協力を行うための、強固な基礎を構築することである」と書かれている。ここで重要なのは「周辺事態」である。これまで日米安保が想定していたのは、日本が攻められた場合の武力行使(これも憲法違反であるが)だった。ところが今回の指針は、米軍の極東戦を念頭に置いている。日本が攻められなくても、「周辺事態」の際に米軍は日本の基地を積極的に使い、自衛隊はその支援にむかうことになるのだ。
 そのうえ「周辺事態」の解釈も、曖昧で拡大解釈が可能ときている。「周辺事態は日本の平和と安全に重要な影響をあたえる事態である。周辺事態の概念は、地理的なものではなく、事態の性質に着目したものである」
 この文言からわかる通り、「周辺事態」とは地域的には規定されていない。「事態の性質」という意味不明な言葉でごまかしているが、結局、「事態」とは事変および戦争のことであり、「周辺事態」とは戦争状態にある地域の周辺なのだ。つまり地域に限定しないことにより、極東のみならず火薬庫とも呼ばれる中東で戦争が起こっても、日本は米軍の戦争を支援することになる。
 さらに周辺事態が予想される場合には、「日米両政府は……事態の拡大を抑制するため、外交上のものを含むあらゆる努力を払う」と新ガイドラインには書かれている。この「あらゆる努力」とは、武力的な活動も含まれているのは、疑う余地もない。それだけではない。新ガイドラインでは、形を変え、言葉を換えて、日米の軍事協力をうたっている。
「日米両政府は、事態の拡大を抑制ためのものを含む適切な措置をとる」
「必要に応じて相互支援を行う」
 非常にあいまいな言葉だが、戦争状態での自衛隊の活動に期待をしているということだけは確かなようである。逆に、自衛隊に軍隊として期待しているからこそ、あいまいな表現にならざるを得なかったのだ。

■米軍は勝手に予備訓練

 さらに細かく見てみよう。
 新ガイドラインの別表と呼ばれる資料には、周辺事態における協力検討項目の例が並んでいる。まず注目したいのが、「米軍の活動に対する日本の支援」という項目だ。ここには、「補給」・「輸送」・「整備」・「衛生」・「警備」・「通信」・「その他」の後方地域支援体制と、「施設に使用」について書かれている。なかでも「補給」の内容には、驚くばかりだ。
「自衛隊施設及び民間空港・港湾における米航空機・船舶に対する物資(武器・弾薬を除く)及び燃料・油脂・潤滑油の提供」 ここで米航空機・船舶とあるのは、戦闘機および戦艦であるのは間違いない。この条文を読んで思い出すのが、ことしの九月に相次いで行われた米海軍の民間港入港である。空母・インディペンデントが小樽へ入港したのに続き、佐世保にも空母が寄港。さらには駆逐艦が鹿児島に寄港したりもした。これらの入港は新ガイドラインに示された補給活動の予備訓練でだったのである。
 さらに「衛生」の欄に目を移すと、傷病者の治療・輸送が盛り込まれている。これは日本列島全体が戦闘支援列島となることを意味する。
 まだまだ問題はある。
「運用面における日米協力」という部分には、戦争の「情報交換」、「機雷掃海」という項目が目につく。これは平和時ではなくて、戦闘状態での機雷掃海であるから、日本も戦闘状態に突入する危険性をはらんでいる。 別表には載っていないが、「臨検」と呼ばれる船舶検査を自衛隊が担うのも大きな問題である。これは周辺海域を通る船舶に停船を命じ船内を検査するもので、相手が抵抗すれば武力行使に至る危険性がきわめて高い。

■反対運動封じ込め

 いったいこの新ガイドラインが、どうして日本国憲法の枠組みに収まるのか。「戦力の保持」と「武力行使」を否定している憲法を逸脱し、踏みにじっているとしかいいようがない。戦後五〇年、日本が軍事力を持って他国の人々を殺さずにすんだのは、この憲法のおかげである。ところが新ガイドラインは、既成事実によってその憲法を骨抜きにし、国民を人殺しに駆り立てようとしているのである。
 しかも国の命運を決するこの重大な決定は、国会の決議なく決まってしまった。国民が選出した議員によって国の方向性を決めるのが民主主義の大原則だ。ところが今回の決定は、防衛担当官僚だけで秘密的に行われたという。米国の戦略に日本が従う危険性について、国会でなんの議論もなく決定されるのは、民主主義の著しい逸脱であり、憲法の前文の精神を根こそぎ失わせようとするものだ。「前文」には、こう書かれている。
「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷属、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと務めている国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思う」
 戦争によってではない、平和のための行動による国際貢献の思想である。そのあとに、全世界の国民が「平和のうちに生存する権利」が謳われ、「自国のことのみに専念して他国を無視してはならない」とも書かれてある。
 ここで、強調されている考えかたは、相手の国を尊重し、信頼することである。
 かつて六〇年安保改訂にさいしては、日本が戦闘に巻き込まれるとして、国民的な反対運動が起こった。国会議事堂への大デモ行進は、国民の恐怖感に裏打ちされたものだった。しかし「周辺事態」というあいまいな規定によって、戦争に巻き込まれる危険性が強めた新ガイドラインは、まったく反対運動が起きていない。それは大紛争に発展しないように、秘密をもっぱらにして国会に持ち出さない方法を採ったからである。
 それどころか官僚が作りあげた規制事実をテコに、憲法改定に大きく踏み込もうとさえしている。すでに国会内では憲法調査会が設置され、憲法改悪への具体的な対策をはじめようとしている。
 新ガイドラインの問題を通して考えるべきことは、日本の平和だけではない。アジア全体、世界全体を見回し、日本は、平和を軸にした外交をどのような形で進めていくべきなのかに思いを巡らす必要がある。そのためには積極的な市民の運動が必要となってくる。新ガイドラインでは、朝鮮半島有事と台湾海峡有事の危険性をにおわし、北朝鮮をソ連に代わる仮想敵国に仕立て上げ、これから経済進出を拡大しようとしている中国さえ仮想敵国に含めてしまった。この方向へ対置する思想とは、アジアの民衆に日本人が与えた痛みを反省し、共感を基礎にした平和的な協力を進めるころである。アジア各国との民衆レベルの平和的なネットワークの拡大が、米国の軍事的介入を防ぐことになろう。このままではアジアの鬼っ子となった日本が、米国とともに世界と対立することにもなる。(■談)

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使い捨てられる外国人労働者

■月刊『記録』99年10月号掲載記事

*日系ブラジル人を含む外国人労働者が人口の12%を超える群馬県大泉市。不況が彼らにどのような影響を与えているのか。現状を知りたくて現地に赴いた。

■靴にキスしろ

  「友達が自殺したことかな」
 イラン人のハッサンさん(三一)は、一瞬考え、言葉を選ぶように言った。
  「日本で一年半、一番記憶に残ってるのは友達の自殺。ボク、ほとんど泣かない人だけど、友達が死んだの聞いて一日中泣いた。すごく悲しかったから。
 遺書がなかったから、なんで死んだのか本当のことわからない。でも、きっと日本で生きていくのイヤになったんだと思うよ」
 彼の旧友が亡くなったのは、一九九八年四月。ハッサンさんの話によれば、自殺の原因は日本人上司との言い争いだった。同じ職場のイラン人のために上司に抗議した彼は、その上司からにらまれてしまう。しかも味方であるはずのイラン人も、保身のためにすべて上司の側に回った。
  「日本人のボスとケンカした次の日、友達が会社に行くと、ボスやイラン人が彼を待ってた。その時、ボスから言われたのが『ひざまずいて靴にキスすれば許す。そうしないと(おまえは)会社に戻れない』って。
 日本語をペルシア語に通訳したの、一緒にいたイラン人。だからボスが本当にそう言ったかわからない。でも友達は、会社を辞めることにした。
 当時はずいぶん落ち込んでいたよ。しばらく連絡なくて、『茨城県の会社で働いてる』って電話あったのが、事件から一ヵ月後。やっと元気になったのかと思ったのに、いきなり死んじゃった。
 工場の高い屋根に登って、首にロープかけて死んだんだ。五年も日本で暮らしてたのに……」
 不況は、どのような影響を外国人労働者に与えているのか。現状を知りたくて、群馬県大泉町に赴いた。
 群馬県内にある七〇の市町村のなかでも、下から二番目に小さいこの町には、九九年八月一日現在、五一四八人の外国人登録者が住む。これは町の総人口の一二・一%にものぼる。大泉町を含む群馬県南部は自動車部品、電器製品、食料品などの工場が群生しており、深刻な人手不足を補うために、外国人労働者を続々と受け入れてきた土地だ。
 特に九〇年の「出入国管理および難民認定法」の改正は、町の様相を激変させたという。ラテンアメリカの日系二・三世が単純労働につくことが認められ、どんどん町に住み着いたからだ。なかでも日系ブラジル人は増え続け、現在でも外国人登録者の七割以上がブラジル国籍者であるという。田舎町のなんの変哲もない店舗の隣に、ポルトガル語の看板を掲げた店が並ぶ。大泉町では、そんな風景が珍しくない。

■会社の入口に立つな

 この町で、そんな日系ブラジル人の労働状況を取材していた私に、「日系ブラジル人よりも悲惨だ」と訴えてきたのが、先述のハッサンさんをはじめとする三人のイラン人だった。
  「不景気で仕事が減っているし、なによりボクらのほとんどがオーバーステイだから、仕事を探すのが大変だよ。イラン人のイメージ、日本では悪いし。イラン人だと、すぐに薬売ってるとカン違いされるし。
 この前、(職を求めて)ある会社に行ったら、『イラン人の方には仕事はありません。帰ってください』と言われて、『会社の入口に立たないでください』って怒られた。それに日系ブラジル人のための仕事の紹介所も、イラン人にはほとんど仕事は紹介してくれない」と、一週間ほど前にクビになったハッサンさんは言う。
 母親の入院費を稼ぐために日本に出稼ぎに来たファラードさん(二九)も、今年に入ってから二ヵ月半しか仕事をしていないと肩を落とした。またファラードさんの隣に座るアリーレザーさん(三四)は、「五人の妹のために日本に出稼ぎに来たのに、今年働けたのは二ヵ月と少しだけ」とうつむいた。
 法務省入国管理局の統計によれば、九九年一月一日現在、滞在期間を過ぎても日本にいる不法残留者総数は二七万一〇四八人にのぼる。この二七万人以上の人々が、食べるために、そして金を貯めるために、日本のどこかで働いている。もちろん日系ブラジル人など、合法的に滞在している外国人より、はるかに劣悪な労働条件なのはいうまでもない。
 群馬県の不法滞在者の支援を続けている群馬外国人労働者支援連絡会(フレンズ)の原田桃世さんは、彼らの状況を次のように語る。
  「不景気になって、残業代のカットや首切りが多くなってきました。三〇歳をすぎると、もう職を探すのが難しくなりますから。もちろん日本語を話せないに人も職がありません。あと他の国の人に比べると、イラン人も大変でしょう。まずイラン人に対するイメージが良くない。薬を扱っているという噂が流れましたから。しかも顔がアジア系と少し違うでしょ。顔のつくりも就職に影響するんです。
 オーバーステイの外国人と聞くと、なぜ祖国に帰らないのかと考える人もいます。しかし実際は、帰れない人も多いんです。スリランカ・パキスタン・バングラディシュ・イランなんかは、祖国が政情不安を抱えています。さらにミャンマーなんかは、パスポートを再発行するのに、『日本での滞在月数』×『一万円』が必要だといわれています。まあ、半分ぐらいまでは値切れるようですが……。でも、これじゃあ、帰れないですね」
 祖国には帰るに帰れないうえに、不況で仕事を奪われていく。オーバーステイの外国人は、労働者がつくるヒエラルキーの最底辺にいるだけに問題も深い。しかし日本で生活している以上、彼らの問題はまぎれもなく日本人と日本社会に関係する問題なのだ。

■四五歳が大きな境目

 イラン人などに比べれば、合法的に働くことができるはずの日系ブラジル人。では日系人は、整った労働条件の許で働くことができているのだろうか。
 いや、違う。その待遇は、単にオーバーステイの外国人と比べれば、多少良いという程度にすぎないようだ。
 日系ブラジル人が情報交換のために集まるショッピングセンター・ブラジリアンプラザで、カク・ヨシオさん(二四)は日系人が三つに色分けされていることを教えてくれた。
  「同じ日系人といっても、就職業況は大きく違うんです。
 まず、四五歳以上か未満かが大きな境目でしょう。不景気になってから、四〇代後半の日系人は仕事をすごく見つけづらいですから。さらに四五歳以下の日系人でも、日本語を話せる人と話せない人では、仕事の探しにくさが違います」
 バブル時代、タイムカードさえ押せれば老人であっても仕事があるといわれた大泉町だが、景気失速とともに募集条件はすっかり厳しさを増した。
 公園で会ったクラモト・サダオさん(四八)は、きれいな日本語を話す。しかし彼の年齢は大きなネックとなっていた。
  「ちょうど二年前に来日しました。ブラジルの派遣会社にうまいことを吹き込まれてね。社員になれるという言葉を信じて、飛行機代を含めた五〇万円もの借金をして、日本に来たんです。なぜか使える期間の短い復路の航空券まで買わされてね。
 ところが日本に来たら、社員になれるような仕事なんかない。日本の派遣会社は、ブラジルでの契約内容なんか知らないという。それでも日本の派遣会社を頼るしかありませんでした。紹介されたホテルに泊まって、その会社から仕事を紹介してもらうのを待っていたんです。
 やっと一週間後ぐらいに仕事を回されたけれど、雇用された期間は短かったですね。派遣会社が住むように指示してきたホテルの代金と、新しくアパートを借りるための資金で、働いた分のお金はほとんど消えていきました。それからは自力で職探しです。
 毎朝、二〇社以上の派遣会社を廻り、仕事を紹介してもらう。でも決まらないんですよ。日本に来て二年のうち、仕事のあったのは一年三ヵ月だけ。九ヵ月間は失業していました。もう、今年の末には、ブラジルに戻ろうと思っています」
 結局、クラモトさんが日本で手に入れたのは、五〇万円の借金だけだった。
 日本での生活はどうだったかという質問に、彼はボソッと答えてくれた。
  「勉強になったというかね……。若い人には日本の生活も楽しいかもしれない。でも僕らの世代は、考えることも多いから」
 視線を落としたままの深い沈黙が彼を包み、取材はこの言葉で終わりを告げた。

■外国人らしさが命

 ここ半年ばかり、日本人の失業者に関する記事が多く流れている。それだけに日本語を話せず、四〇代中盤にさしかかる外国人の解雇など、読者は驚かないかもしれない。しかし日本人と日系人を含む外国人では、そもそも労働条件の出発点が違う。
 日系ブラジル人のための日本語教室を開き、彼らのさまざまな相談にも応じている日伯センターの代表取締役・高野光雄さんは、その違いを説明してくれた。
  「日本人の失業者の多くは、本意でない仕事をさせられたり、仕事そのものに見切りをつけたりして、会社を辞めているでしょ。でも日系ブラジル人の多くは、最初から仕事の質なんて考えていないんですよ。日本人がやりたがらない仕事でもいい。なんでもいいから、一円でも賃金の高い仕事につきたい。そう思って仕事を探すわけです。
 だからある意味では、この不景気でも仕事はあるんです。例えばエアコンの組み立てなんかは、三、四ヵ月の季節工です。生産ラインを動かす時に雇い、つくられなくなればクビを切る。経営者側からみれば、いつでもクビにできる労働者のスプリング役として日系人は重宝がられているわけです。
 クビにしても労働問題にはならないし、日系人以外の外国人よりも日本人労働者との摩擦が少ない。こんな便利な存在はなかなかない。逆にいえば、外国人らしさを失ったら、つまり日本人と同じような労働条件を求め始めたら、日系人を雇う意味などなくなってしまうのです」
 高野さんが語る通り、この不況でも日系人の仕事はある。ただし労働条件は圧倒的に悪くなっている。社員の口はなくなり、短期のアルバイトが増大した。賃金のカットや突然の解雇もついて回る。景気の動向に企業側が細かく対処するために、日系人は「スプリング」としての役割をより求められるようになり、不満を言わない労働力として切り売りされているのだ。
 一七歳の日系三世、ダニエル・ルーゼンニさんも、現在の状況を憂える一人だ。
  「解雇された経験がない人なんかいないよ。仕事がなくなると、すぐに紹介所を廻ってアルバイトを探すんだ。職探しは大変だけれど、仕事しなくちゃ、遊ぶ金だってないからね。親父は六〇歳だから、まったく仕事がないし……」

■日本に来る理由が変化

 九〇年、日系ブラジル人の先頭を切ってブラジル料理店「ブラジル」を開いた日系二世の太田健仁さん(三一)は、この不況が日系ブラジル人に「先の見えない不安」をもたらしていると指摘する。
「社員が減り、アルバイトで食いつなぐ日系人が多くなりました。その不安定な職業形態が、先を見えなくしているし、収入も減少し、将来への不安を呼び起こしているのです」
 しかも日系人にとって、さらに不幸だったのは、日本での定住を日系人が模索し始めた時期と、不況の時期が一致していたことだ。
 太田さんによれば、入管法が改正されて九年で日系人の意識はかなり変わってきたという。
  「最近、日系人は二つのタイプに分かれるんです。一つは、時代の節目である二〇〇〇年をブラジルで迎えるために、従来同様、お金を貯めているグループ。そしてもう一方は、日本の生活になじみ、定住を考え始めたグループです。彼らはずいぶんと日本食を食べるようになりました。またギリギリまで生活費を切りつめてブラジルにカネを持ち帰ろうとするのではなく、日本での生活を楽しむために、多少お金を使うようになったのです。そうした定住を考え始めた日系人にとって、この不景気の影響は大きかったと思います」
 太田さんの言葉を裏づけるような資料もある。九八年九月に、日本労働研究機構研究所が発表した『日系ブラジル人の日本での就労に関するアンケート調査』だ。
 この報告書は、在ブラジルの日系人を対象に、出稼ぎの意欲や帰国後の状況などを調査したものだ。そのなかで特に注目すべき事柄は、出稼ぎの理由についての調査結果だろう。
 九三年の調査では、出かせぎの理由のトップは、全体の六一・二%を占めた「不動産を買うため」だった。ところが九八年の調査では、「日本を知るため」が四三・七%を占めてトップとなり、「不動産を買うため」は三五・〇%に半減している。
 さらにブラジルでの平均月収と出稼ぎによる月平均送金額についての調査も、面白い結果をはじき出している。九三年調査時は、ブラジルでの平均月収が六二三・〇ドル。一方、日本からの月平均送金額は、一六六三・七ドル。つまり一〇四〇・七ドルもの開きがあった。ところが九八年の結果を見ると、平均月収が一八〇六・一ドル。日本からの月平均送金額が、一八四七・六ドル。つまり日本に働きに来ても、ブラジルで働くのと比べてわずか四一・五ドルしか儲からない。ここ六年間で、日本は大きく稼げる場ではなくなっていたのである。

■入管法改正に商工会が要望

 九〇年六月、バブル景気の最中にあった日本で、入管法は改正された。当時の新聞をめくってみると、外国人の不法就労者締め出しのために規制が強化され、逮捕を恐れた外国人が一斉に帰国する様子が報じられている。
 一方、バブル景気を支えるために必要とされた外国人労働者を、企業は何らかの形でつなぎとめたいと考えていた。大阪商工会議所が単純労働に携わる外国人労働者の受け入れについて、首相はじめとする関係省庁に要望を出したのは、その典型的な例といえる。
 こうした企業側の要望を見越して、入管法改正に取り入れられたのが、ラテンアメリカからの日系二・三世の受け入れだった。定住資格を日系三世までにとどめたことで起こる日系四世の在留資格問題。日本人の血統主義ともいえる政策に対する近隣諸国からの不満。これらの問題を放り出し、労働力という観点だけで日系人を受け入れた。そして、このような経緯で行われた法改正の延長線上に、現在の日系ブラジル人の雇用情況がある。
 日系人が金のためだけと割り切り、ひたすら単純作業に従事する間は、問題はなかった。しかし定住を視野に入れた将来設計を立てようとすると、解決できない問題が目白押しとなる。人は文化をもち、感情をもって日本に来ることを、政府は忘れていたのではないだろうか。
 不法滞在者は表の世界から隠され、日系人は感情をもたない生産ロボットのように企業から扱われている。不況が深刻になればなるほど、日本社会が備える冷酷さはよりハッキリしてくるだろう。
 この不景気のなかで、日本人以上に声を上げられない労働者がいることを、私達は記憶しておく必要がある。 (編集部)

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阪神大震災現地ルポ 第13回/誰もが心労を重ねる

■月刊『記録』96年6月号掲載記事

■4月25日

  2ヶ月ぶりに神戸を訪ねた。1~2月と比べて、自宅を再建し入居を始めた人達の姿が目についた。今回は会えなかったが、東灘区に住む田中尚次・比早子さん、朝倉有子さん達も、家の建て替えが終わり、再入居を済ませていた。 

  長田区でまちづくり活動に携わっている、三谷真さんを訪ねてみると、高熱を出して寝込んでいた。「今までの疲れが一度に出たようだ」と夫人が語った。震災から1年あまり、三谷さんはさまざまな活動に精力的に関わってきた。本業との「二足のわらじ」でもあったから、相当に疲労が蓄積されていたようだ。 

  そういうわけで今回は詳しい話を聞くことはできなかったが、最近の三谷さんは「長田アジアタウン」構想に加わっている。以前から話を聞いているが、長期的には長田区を「多国籍アジア化」しようという試みで、さしあたっては新長田駅北区地区の土地区画整理事業区域内の一角に「アジア自由市場」を開設する。当初は4月27日にオープンすると聞いていたが、その後7月20日に延期されたという。 

  住民レベルの発案による復興プランであり、地域の特性に根ざした内容だといえよう。ただ1点、神戸市から区画整理事業区域内に用地の提供を受けるのが気になるところだ。べつに無闇やたらに行政と対決すべきだとも思わないが、この地域は、一方では区画整理の是非を巡って住民の反対運動も起きている(この問題については次回以降詳しく報告する)。住民の思惑が様々に交錯している状況下では、行政とのそうした連携は安易にすぎないだろうか。今後さらに取材していこうと思う。

■4月26日 

  兵庫区の本町公園テント村に、兵庫県被災者連絡会の河村宗治郎会長を訪ねた。「住民の再起の手だては住宅と仕事だが、この両方とも対策がなおざりにされてきた」と、行政の無策を批判する。河村さんは神戸市内で12万戸の被災者向け住宅が必要という。だが市の供給する災害復興住宅は8万2千戸。公営住宅は全体の6割で、残り4割は民間住宅をあてにいている安直な計画だ。 

  民間の賃貸住宅再建には、公的機関の融資制度や「阪神・淡路大震災復興基金」からの建設費補助と利子補給、家賃減額補助などがあるが、いずれも一定規模を有するものが優遇される。河村さんは「家賃補助は家賃の高騰を行政が追認する欠陥政策だ」として、融資枠や利子補給の充実・拡大を提唱している。いちがいに欠陥政策とばかりはいえないと思うが、量的には最も多いはずの中小規模賃貸住宅の再建に、大規模住宅ほどの支援措置がとられていないから、結局これらの補助に、家賃高騰を抑える実効性はほとんどない。 

  しかし、家賃高騰はここでは文字通りの「死活問題」だ。取材を続けるうちにわかってきたことだが、神戸での住宅・生活環境を首都圏と単純に比較しては実態を見誤る。河村さんが「本町公園周辺でいえば、家賃1万5~6千円のアパートはほとんど潰れた。月収が15~16万円しかなくても、これぐらいなら何とか払って暮らしていけた。そういう人達が大勢いるのが現実だった」と話すように、家賃の高騰は、「住めなくなる」以前の問題として「生活できなくなる」ことを意味している。 

  河村さん達はまた、災害救助法23条7項に定められている「生業に必要な資金、器具又は資料の給与又は賞与」が全く実施されないまま同法の適用が打ち切られたとして、これらの実施と「緊急生活援護金」の支給・貸与を、神戸市に対して要求している。そのうえで、被災者への公的支援を制度化する新規立法措置をと、被災地外の支援者達とともに訴えている。 

  不思議なことに、河村さん達を「ならず者」扱いし、一切の交渉を拒否してきた神戸市が、震災1周年の頃から話し合いに応じるようになっていた。執拗に避難所解消・住民追い出しを画策していたが、「どこに住むかは本人が決めること」といった表現で、事実上断念したらしい。この姿勢の変化は、被災住民の窮状をようやく認識したからだろうか。それとも単なるポーズにすぎないのだろうか。

■4月27日 

  今回の取材で会った人達には、健康を害している人が多かった。三谷さんは前述の通りだし、河村さんも会うたびに痩せていくのがわかる。ともに心労を重ねているからだろう。久しぶりに訪ねて行ったら、心労のあまり亡くなっている人もいた。 

  中央区の仮設住宅に住む中村いさ子さんも、耳に悪性の腫瘍ができ、2週間前に手術したばかりだった。近くをトラックやトレーラーが通ると、安普請の仮設住宅がドスンと縦に揺れる。「また地震かとそのたびに驚く。住民はだいたいこれで神経が参っている」と語った。ここにも心労を重ねる人達がいる。 

  誰もが心労を重ねている。力尽きて斃れる人達もいる。再建後に家賃が数倍に高騰した賃貸住宅には、とても戻って住むことはできない。持ち家を再建した人達も、10~20年後、多重ローンに耐えかねて家を手放していないとの保証はない。 

  こんな状況がつくられていくなかで、道路や建物ばかりが再整備されていく。そんなものが復興といえるのか。(つづく)

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阪神大震災現地ルポ 第12回/部落でも深刻化する住宅問題

■月刊『記録』96年5月号掲載記事

  生田川の人々に出会ったことで、「犬も歩けば棒に当たる」よろしく、震災と被差別部落の問題に行きあたった。取材をもっと深めようと思い、長田区の番町地区を訪ねた。神戸最大の被差別部落で、2500世帯、5000人以上が暮らしているという。 

  番町がいわゆる都市型部落の様相を呈するのは、明治も終わり近くなってから後のことだ。開港以前は神戸自体が寒村だったからでもある。しかし、それでは1871年の「解放令」はいったいなんだったのか。生田川(新川)は当時は部落すらなかった。発令後に部落が形成・拡大されたのは、解放令がいかなる内実も伴っていなかったことをよくあらわしている。 

  新川と番町は、市内の零細窮民が追いやられることで肥大化していった。長田区の番町とその周辺、中央区の生田川周辺に今も在日コリアンが多く住んでいるのは、この差別政策に起因している。前々回その消息を伝えた在日2世の清本吉伸さんも番町に住んでいる。「下町」としての長田は、震災後、広く知られるようになった。その下町の温かさが、差別の結果生まれたものだということも、忘れてはならないだろう。 

  番町地区の被災状況は、死者42人、全半壊1400戸、一部損壊1000戸にのぼる(部落解放同盟兵庫県連調べ)。被差別部落でありながら同和対策事業の対象とされなかった「未指定地区」の被害が大きかった。改良住宅は6棟・505戸分が被災したが、生田川同様、ここでも改良住宅の存在が、被害をある程度はくい止めたといえるようだ。高層の改良住宅は、部落の豊かなコミュニティを破壊する、新たな差別の象徴になるとの批判もあったというが、被災軽減がせめてもの救いだろうか。 

「皆が帰って来られるような状況を早くつくっていきたい」と、部落解放同盟番町支部の滝野雅裕書記長が語る。改良住宅505戸のうち303戸の建て替え用仮設住宅は確保できた。残り202戸(うち90戸の行先は部落解放同盟でも把握していないが)は親類宅や仮設住宅などに身を寄せているという。「番町は大きな部落なので、地区外の人との付き合いがなくても暮らしていけたから、一般の仮設住宅に入ったお年寄りには、かなりのプレッシャーになっているだろうと思う」と、滝野さんは心配していた。 

  改良住宅は既に再建工事が始まっているが、既存不適格の規制で、以前と同戸数を維持するためには、1戸あたりが小型化してしまう。それでいて家賃上昇も見込まれている。戻れない人も出てくるかもしれない。「改良住宅は第2種公営住宅といって、第1種の一般市営住宅とは歴史的経緯も異なる。収入面でも同和地区の人は低いので、同じ家賃というわけにはいかない」と、滝野さんが語った。解放同盟でもこの問題に取り組んでいるという。 

  民間住宅でも事情は同じだ。家主が高齢だと、倒壊した貸家や長屋の再建は困難になる。借地権を買い取った人も、建蔽率の規制で、例えば10坪の土地なら8坪程度の家しか建てられない。「これでは家にならない」と悩んでいるという。部落外の被災地で起きていることは、例外なく被差別部落でも深刻化している。

■ 部落差別で採用内定を取り消し 

「皆が助け合った震災直後の気持ちを大切に復興させていきたい。それが人権問題の根本だと思う」と滝野さんは話す。だが、一方では悪質な就職差別も起きていた。関西のある事業が社員を震災ボランティアに派遣、番町で活動していたが、ここが被差別部落だと知ると、自社の採用内定者に番町出身者がいないかを調べ、当該者の内定を取り消したのだという。いったいどうすれば、ボランティアに行く精神と、部落を差別する精神とが両立できるのだろうか。滝野さんも「何でそういうことをするのだろう。人事担当者は酸いも甘いも噛み分けた人ではないのか。人をいじめてそんなに楽しいのか」と憤る。滝野さんならずとも腹が立つ。 

  町を流れる新湊川も差別の結果だった。新開地開発のため、明治末に部落北側の高台めがけて付け替えられている。大雨のたび洪水が南の低地の部落へとあふれた。最大の被害は1938年の「阪神大水害」で、豪雨とともに土石流が阪神地方を襲い、死者・行方不明者557人、流出・倒壊家屋2万戸の被害を出した。「なかでも生田川・宇治川・都賀川・新湊川の川筋の被害が大きかった」(『神戸市史』)。つまり流域の被差別部落を直撃したのである。 

「川というのは自然とそこにあるものだと思っていた。部落が洪水になろうが、かまわずに付け替えられたものだと知った時、本当に腹が立った」と、滝野さんが語る。この国は、こうした差別の結果を基礎に繁栄を築いてきた。今日の私達の生活も、その上に成り立っている。「私は差別していない」「自分は差別とは無関係だ」と言ったところで、何の意味があるだろう。 

  滝野さんと電車に乗る機会があった。被差別部落出身者の外見に何ら違いのあるわけがないから、誰も気にとめない。車内の雰囲気も全く変わらない。それなのに部落出身というだけで、差別の標的にされる。これが部落差別の無意味さ、デタラメさだと思う。だいたい外見が異なろうが差別のあっていいわけがない。差別することは「くだらない」と、つくづく思う。(■つづく)

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O-157事件・カイワレ大根は無罪だ!/大阪府・南野農園激白

■月刊『記録』96年9月号掲載記事

(南野芳則……1969年7月号生まれ。大阪農業大学校を卒業後、南野農園を受け継ぐ。)

■騒動は96年7月24に始まった

「ウチ、ちゃうやんか」。
 8月7日の管直人厚生大臣の記者会見で指摘された農園の特徴は、うちとはまったく違っていた。ところが「大阪府内の特定の栽培業者が納入したカイワレ大根が原因である可能性が否定できない」と、管厚相が発言したことにより、うちは病原性大腸菌O-157の感染源にされた。
 騒動の発端は7月日だった。保健所職員に「老人ホームの給食のメニューに、おたくのカイワレ大根が入っているので、とりあえず検査させてください」と訪ねてきたのだ。その時は「堺市もえらいことになっているな」と、農園がおおごとになるなんて思ってもいなかった。その日、保健所は栽培中のカイワレ大根から種子、生育に使う井戸水、排水までを持ち帰り検査した。8月2日には、「O-157はまったく発見されなかった」と結果が出て、感染したみなさんには申し訳ない言い方になるが、ほっとひと安心した。そんな中で出されたのが、8月7日の原因究明調査の中間報告だった。

■どこに牛がおるんや

 記者会見の始まる分前には保健所から、「どうやら厚生省からO-157の感染源に対する発表をするようだが、動揺しないように」という電話があった。電話の直後から、テレビをかじりつくように観ていたが、どうしても南野農園のことを話しているようには感じられなかった。
 たとえば「カイワレ大根の水耕栽培に使用された水に、もともとO-157に汚染されている牛フンなどが流れ込んだとも考えられる」という発言だ。この発言のおかげで農園に押しかけたマスコミ関係者の第一声は、「どこに牛がおるんや」だった。ところが牛舎はうちから~離れたところにしかない。そのうえ牛の運搬車も、この辺りを通らない。いったいどこから牛フンが紛れ込むのだろう。
 そんな感想を抱いた会見だったが、騒動は一気に大きくなっていった。会見が終わり、最初に駆けつけたのはNHK。工場の消毒設備などを説明するために、テレビクルーを連れて農園をひとまわりして帰ると、今度は民放各局がカメラを構えていた。私はマスコミへ対応するとともに、検査結果が出るまでカイワレ大根の出荷を自粛することを、その日に決めた。さらに6日と7日に出荷した分の回収も始めた。

  夕方には、再度保健所から連絡が入った。「再調査をお願いしたい。伝染病予防法という『伝家の宝刀』を抜きたくないので、協力してくれないか」という問い合わせだった。私自身、農園の衛生には絶対の自信を持っていたので、早く真実を突きとめてもらいたい気持ちから快く承知した。
 8・9日と、保健所は立ち入り調査を行い、培養液や作業所に隣接する自宅の浄化槽の水まで、第1回目の調査の倍に当たる検体を採取した。もちろん私を含めた従業員の検便も行われた。しかし立ち入り検査は、これだけで終わらなかった。日には、南野農園近隣4市町を対象に4河川から採水、さらに周辺の水路からも水と汚泥を採取していった。
 菌が発見されないとわかると、再度の立ち入り検査というやり方は、私達を傷つけるだけではない。保健所の職員のプライドさえも傷つけている。厚生省に従わざるを得ない職員に同情さえした。

■従業員の姿を無断で放映

 これだけ誠実に対応していたにも関わらず、マスコミを通じて流される情報はめちゃくちゃだった。
 どうやって調べたのか、水利組合の用水路が氾濫したとの報道があった。生まれてこのかた年以上、この辺りの用水路が氾濫したことはない。というのも農園の周辺にある水路は、第1の堤防を超えても、第2の堤防が水を用水路戻す仕組みになっているからだ。いったいいつ、用水路が氾濫したのか教えてほしい。
 南野農園が有機肥料を使っていると言った政治家もいた。うちでは種類の化学肥料と消毒液を混ぜてスプリンクラーで散布している。肥料からO-157が入り込む余地はない。
 つい先日もNHKと産経新聞が、日本かいわれ協会の独自調査により、南野農園近くの河川からO-157が検出されたと報道した。驚いて協会に問い合わせてみると、「協会としては、報道機関にコメントした覚えはない。何でこんなことが紙面に出たのかわからない。協会も産経新聞を読んで初めて事態を知った」との答えをいただいた。(編集部注 後日、日本かいわれ協会はO-157を採取できなかった旨の報道が流れた)
 もちろん誤報だけが、私達を苦しめるわけではない。一番腹が立ったのは、農園にパートで働きに来ている従業員を映したことだ。経営者の私が写るなら問題はない。しかし従業員には小さい子どもを持つ人もいる。子どものいじめなど、どんな影響がでるかもわからないと思い、映さないようにとお願いしたのにも関わらずテレビで放映された。きちんとした配慮をしてほしいものだ。
 新聞報道では、私の味方になってくれた記者も多かった。人によっては、農園がスケープゴートになっていると断言してくれた人もいたほどだ。ところが紙面では、農園の主張は小さく扱われている。もっとも松本サリン事件の河野義行さんに比べれば、はるかにましだとは思うが……。

 厚生省の見解と全く食い違う事実も、私の元に届いている。
 カイワレ大根は少し辛いこともあり、子どもの好き嫌いが表れる野菜だ。O-157に感染した児童が多くでた学校でも、もちろん状況は変わらない。カイワレ大根を好きな児童が、嫌いな児童3人からカイワレ大根をもらっている。ところが発病したのはカイワレ大根を食べていない3人だった。4人前のカイワレ大根を食べた児童は、まったく感染していない。3人分のカイワレ大根を食べた児童の母親から、私はこの話を直接聞いた。彼女は、南野農園が疑われていることを知り、わざわざ農園に電話をかけてきてくれたのだ。
 これだけではない。肉料理だけを食べ、カイワレ大根を残した児童がO-157に感染した事実もつかんでいる。この児童は登校拒否児で、出席した日も限定される。取引先の子どもの話だ。おかしなことに事のしだいを保健所に報告した子どもの両親は、「この話は黙っとけ」と言われている。その後、この件の調査が進んでいるとは聞いていない。
 匿名でうちに送られてきた堺市役所の職員ニュースでも、カイワレ大根を感染源とする説に疑問が噴出していた。ところが市の職員が疑問に思っていても、表には出てこない。

■もう野菜は食べられない

 そして、私がもっとも疑問に思っているのは、潜伏期間の問題だ。O-157の通常の潜伏期間は4~9日程度と報道されていた。ところが小学生を中心に大量感染が発生したのは7月日。一方、疑われている給食は8日と9日の両日だ。カイワレ大根が騒がれる前に、しきりに話題になっていた潜伏期間はどこにいったのだろうか。
 さらに8・9日から、カイワレ大根が特定された経緯もあいまいだ。8日の問題のメニューは、「パン、牛乳、とり肉とレタスの甘酢あえ、はるさめのスープ」。9日は「パン、牛乳、冷やしうどん、ウインナーソテー」が問題になっている。この2日の共通食材で、加熱しておらず、単独の製造メーカーから納入されているのがカイワレ大根ということらしい。
 米国ではハンバーグでO-157の感染が起こった例もあるというのに、どうして非加熱の製品を狙い撃ちしたのか。加熱した食品は、完全に火が通っていたといえるのだろうか。おかしい。生のダメだというのなら、野菜は食べられなくなってしまう。

 そもそも中間発表で、うちだけが名指しされたのはどうしたわけだろう。管厚相は、特定の食品を保護しようとするミエミエの発言を繰り返しているようにみえる。私にはダークサイドの情報が入ってこないので、本当のところは知るよしもないが、スケープゴートとして名指しされた部分もあるのではないか。少ないともうちが名指しされたことで、堺市に対する批判が収まったと言えるかもしれない。
 カイワレ大根の業者として、南野農園は大きいと報道されている。しかしうちは、家族経営の域を出てはいない。私と妻、そして歳を超えた父と母。それに人ほどのパートで、この農園を切り盛りしている。自主的に製品を破棄したとはいえ、その損失だけで250万円を上回る。またカイワレ大根以外の作物も、同じように市場に流すのを止めている。こちらは計算はしていないが、かなりの損失になるだろう。さらには、今後に予想される消費者のカイワレ大根離れなどを考えると、先行きはあまりにも不透明だ。家族の元気もない。
 仕事ができないくやしさは、一言では言い表せない。怒りとも違う。唯一救いがあるとすれば、生産を促すような声が取引先から出ていることだ。うちが衛生面でしっかりしていることを、知っていることもあるだろう。

 カイワレ大根の根本は、収穫半日前に4ppmの次亜塩素酸ソーダで殺菌している。作業中に使う水についても、ポンプが井戸水と次亜塩素酸ソーダを吸い上げ2~4ppmの液を自動的に作り上げる。水道水の塩素濃度の倍以上になる計算だ。種まきの時に使う水や、収穫時に使う箱、施設内を洗浄する水、培養液のための水もこのポンプから出てくる。さらに収穫直後には、ppmの濃度の次亜塩素酸ソーダでカイワレ大根を殺菌する。このときに使い終わった資材も消毒液につけ込み、オゾン水で洗い流すようにしている。これだけ徹底した消毒で作られたカイワレ大根に、O157が混入することはありえない。万に一つあったにしても、繁殖するための栄養素がない。
 管厚相は、これらの疑問に答えられるだろうか。公的な存在には公平な発言をして頂きたい。そして彼の発言が、どれだけ大きな影響を与えるのか実感してもらいたい。省のトップたる者が、国民に不安を抱かせるだけの会見をしてどうする。少なくとも大臣の側近が農園を訪れて、どこからO-157が侵入したのかを明確に説明し、断罪してくれれば納得したはずだ。
 ところがうちを名指ししながら、感染源はまだ特定されていないとの答弁。こんな逃げ腰の会見は納得できない。極端な言い方をすれば、5時間後に殺人現場を通りかかった通行人を逮捕したようなものだ。凶器もねつ造して発表。冤罪事件そのものだ。
 行政は感染源がカイワレ大根でなくとも大きな傷を負わないが、うちの農園の信用回復は簡単ではない。長年取引している業者さんや店舗は、南野農園の品質をわかっているのでまだいい。しかし一般の消費者からの信用回復は長い年月がかかるだろう。
 いますぐに「南野農園がシロだ」と、行政からはっきり公表してほしい。国民の不安を取り除く努力をしてもらいたい。あやふやなままで、終わらせてほしくない。長年にわたって築き上げた取引先と消費者の信用を、いきなり崩された者の気持ちを厚生省はわかるだろうか。

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中央線自殺多発の真相・誰がどうして死んだのか

■自殺の状況に6つの特徴・自殺が映す現代の病理

 JR東日本のまとめによれば、列車に30分以上遅れが出たケースに限っても、95年4月~今年1月末までに31件の自殺が起こっている。94年度が14件、93年度が13件だから、10ヶ月間で2倍以上の自殺者が出たことになる。さらに今年度上半期に起きた数を他の路線と比べても、中央線の自殺者は17件と、山手線5件、総武線4件、常磐線6件と比較しても際立っている。昨年11月30日には、中央線沿線の駅長が集まり都内4ヶ所で安全祈願のお払いを受けたほどだ。
 原因も、「中央線の沿線の景観が他に比べて良い」「中央線が自殺の名所になってしまったから」など諸説入り乱れているものの決定打がない。JR東日本広報部も、「時間や場所に偏りはみられないので、たまたま起きたのではないでしょうか」と語り、中野警察署の担当も、「不思議だとしかいいようがない」と話す。だが、国立精神・衛生センター武蔵病院の医師であり自殺の研究者としても有名な吉川武彦氏に分析を依頼した結果、いくつかの特徴が見えてきた。

特徴① 同日・翌日に集中
 まず事件の日付が重なっている。7月17日に3件、9月14日に2件、10月11日に1件起こった後、翌12日に2件、10月24日に2件、11月13・14日に1件づつ起こっている。1年間の集計にしては偏り過ぎてはいないか。全32件の37%にあたる12件が同じ日か、次の日に起こっているのだ(表1参照)。
[吉川氏分析]
 このような現象は自殺では珍しくない。第1の自殺が次の自殺を誘発する。鉄道各社が人身事故の際に流す状況説明の社内放送も問題。自殺のあった駅のみならず、前線で何時間も放送されるため、自殺願望を持った人が誘発される可能性が高くなっている。

特徴② 高級イメージ
 他の路線と違って、高級住宅街で総体的に高学歴・高収入の住民が多く住んでいる「中央線沿線」のもつハイソサエティーなイメージに憧れての場所設定である可能性も高い。
[吉川氏分析]
 自殺をアピールの手段として使う「アピール自殺」のケースでは、場所の設定が重要な要素となる。「ここに住みたい。この場所で一生を終えたい」と思う場所を選ぶ場合は多い。

特徴③ 多くが沿線住民
 受験エリートである高学歴・高収入者の精神的な危機が感じ取られる。自殺者は社会現象に敏感に反応するもので、高学歴・高収入者が持つ閉塞感が、かなり広まっていることを示している。
 オウム真理教信者が次々と逮捕されるなかで、どうしてこれだけ高学歴の学生がだまされたのかと話題になったが、実は彼れのような立場の悩みは深い。高学歴を取得するために、受験戦争を、さらに就職活動を乗り切る。そのような人が自分の人生を振り替える年齢になった時、受験能力だけを身につけてきたのではないか、自分はからっぽではではないか、人生の選択は正しかったのかと悩む。本当の意味での知力が育っていないため自信が持てない。そんな空虚さが自殺やオウム真理教のような存在を必要とする。

特徴④ 「飛び込み」に集中
 中央線は三鷹より東側が高架になっており、11月までの自殺集計を参考にすれば、三鷹以東の自殺者の70%以上がホームから飛び込んでいる。
[吉川氏分析]
 忘れがちだが、列車への飛び込みが自殺の方法としてポピュラーである。表2でわかるように、駅構内と鉄道路線での自殺数を加えると年間1100件以上起こっている。思い悩んでいる人にとってたいした準備もなくいきなり死ねる鉄道は、格好の死に場所となってしまうのだ。

特徴⑤ 帰宅時のラッシュアワー
 帰宅時のラッシュと重なる時間に自殺者が多い

[吉川氏分析]
 自殺は夜と明け方に多いといわれているため、電車の動いている時間を考えると、夜が多いのは頷けるが、それ以外に家庭に帰りたくなくなった人が自殺したと考えられる。
 踏切や路線には行って死ぬ場合はともかく、駅から飛び込む人は決断に要する時間は短い。死にたいと思っている人が、駅の外で自殺を決断し、わざわざ切符を買って飛び込むとは思えない。
 とすれば通勤通学で中央線を使っている人、中央線を使って目的もなく移動していた人が、家に帰る緊張感に耐えかねて発作的に自殺した可能性は大いにある。高学歴・高収入のために働いてきた者が、自分の空虚さに気付いた時、家庭は自分にとって重荷になっていくのではないだろうか。

特徴⑥ 若年層の高比率
 自殺者のうち8人が20歳代の若者だ。比率でみると全体の25%にも及んでいる。1985年前後から全国で起こった30歳未満13%前後を推移している。この数字から比べると、25%は少し多い(グラフ1参照)。
[吉川氏分析]
 自殺は常にマイナスイメージだけでとらえられるが、実は自閉症気味の人より治療は簡単だ。それは自殺をする人が、自閉症ぎみの人より行動力を持っていることに起因する。自殺をするには、かなりの勇気と行動力が必要となる。だから自殺未遂者が立ち直り、行動力や勇気がプラスの方向に転化すれば大きく成長する。このように考えると中央線沿線の20歳代の若者は全国平均より多少骨のある若者といえるかもしれない。

■「メディア影響」は過大評価

 最近、「自殺に関する報道が自殺願望者を刺激する」とよくいわれるが、今回の中央線自殺の増加については、マスコミ報道は一切関係がない。最初に新聞に大きく取りあげられたのが、10月17日の読売新聞。ついで10月23日朝日新聞が掲載し、おはらいの話が記事になったのが12月1日だ。また1番早く掲載した週刊誌も11月5日であることを考えると、自殺が収束に向かっている段階でマスメディアをにぎわせていたことがわかる。(表1参照)
 JR東日本広報課は、「自殺を抑制するために、報道機関に記事を掲載してもらった」と語る。自殺者に共通する危機感を分析し、取り除く環境を作ることこそが重要だ。
[吉川氏分析]
 マスメディアの報道が直接自殺を誘発するわけではないということだろう。短期的には情報が自殺を誘発することはあるが長期的にみるとあまり影響はないと考えている。マスメディアに対して情報の自己規制を求める動きもあるが、マスメディアに対して情報の自己規制を求める動きもあるが、あおりたてるような興味本位のものはともかく、情報コントロールを行うことは、長い目で見ると危険だ。

■すでにピークは越えた

 実は7~11月の5ヶ月間で中央線自殺のピークは終わった。悪夢の再来はないのか。
[吉川氏分析]
 自殺の方法や場所が長期間はやり続けることはまずない。長くて半年、普通は3ヶ月ほどで流行は収束していく。単純に自殺に関する情報が増えたため、自殺が急増するものでもない。
 1986年、アイドル歌手の岡田有希子が所属プロダクションの入ったビルから飛び降り自殺をした時、確かに若年層の自殺が増加し、「ユッコシンドローム」として大きく騒がれたが、やはり3ヶ月~半年で後追い自殺も収まってしまった。有名な高島平団地の自殺も、新聞が100人目の自殺者の存在を報じたため、自殺者が高島平団地に集まったようだが、共用通路に柵を取り付け自殺ができないようになるとともに、他の場所でも高層マンションが増えるにつれて自殺はなくなっていった。

 病気は、本人・病原・環境の3者の相関によって拡大するし収束もする。病原になるものをたたきつぶすことや病気が広がりやすい環境をかえることも大切だが、病気にかかりにくい人を増やすことが重要である。いま、公衆衛生はそこを目標にしている。予防の観点から自殺を考えると、自殺は病気ではないが、その意味でも、本人の「こころの健康」こそ重視されなければならないし、抜本的解決にならない。

これでも自殺しますか 藪内繁樹(鉄道整備士)
肌色のミンチ
 事故を起こした車両は、事故後2~3日して整備所に送られてくる。初めて事故車両を見たときは、「こんなものかな」といった印象だった。血糊がべっとり付いているわけでもなく、車両のへこみも自動車事故ほどではない。人を1人はねたにしては、大きな痕跡が残っていない。ところが車輪の下に整備を始めて、事故の悲惨さを知った。
 車輪と車輪周辺部の機械に肌色をした小さな物体が無数に付いている。赤味はなく、まるでささみのミンチのようだ。最初人間の肉だとは思わなかった。その時は車両正面にぶつかってはね飛ばされた状況ではなく、線路に寝ている人を巻き込んでしまったため、肉片は4両目まで飛び散っていた。機械故障の原因となる肉片は丁寧に取り除かれる。しかしミンチ状の肉片を集めても、どの部分の肉なのかさえわからなかった。

■生首がゴロン

 事故そのものが近くで起こり、おもしろ半分に見に行ったこともある。線路の周りには警察や社員が、ゴミ袋を持って歩き回っている。人によっては線路から10mも離れた場所を動き回っているのだ。何をしているのかと思って近寄ると、隣の警察官のゴミ袋から生首が転げ落ちた。見に来たことを後悔したがもう遅い、目に焼き付いて生首が脳裏から離れなかった。それ以来、事故現場に足を運ぶ気持ちは起きなくなった。
 さらに気の毒なのは、自殺者をひいてしまった運転手だ。電車はたいてい目視してからでは止まれない。飛び込んできた自向かって、即座にブレーキをかけるが手の打ちようもなく、姿を確認しながらひいてしまう。さらに事故後は、警察に呼ばれ事故の様子を再確認しなければならない。私の知り合いの中には、自殺者をひいてノイローゼにかかった人もいる。
 駅が近づくとブレーキをつい踏んでしまう。いつ人が飛び出してくるのか不安で、踏まずにはいられないという。もちろん運転手としては致命傷だ。特急や急行の運転がまったくできなくなったのだから…。
 ひいてしまった遺族の方にも、賠償金がかせられるときく。遺体の状況もかなりむごいものだ。バラバラになった遺体を確認しなければならない親族の気持ちを考えると気が滅入る。
 自殺者自身、親族、整備士、運転手、すべての人を不幸にする鉄道自殺は、何としても思いとどまってほしい。

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障害者ドラマを徹底批判する!(下)

■■■「障害者ドラマ」徹底批判!(下)

■■■-介護者の立場から-

■知的障害者にも性欲がある

(成田真由美……1965年、東京生まれ。都内の私立大学を卒業後、福祉業界へ。2年間、地方の精神薄弱更正施設に勤め、夫の転勤により東京に戻る。現在は、都内の老人ホームで働いている)

■生理が女性職員を悩ませる

 高橋克典は『ピュア』で。「彼女(和久井映見)は抱くとか、寝るとかそんな次元にいないんだ」と語った。しかし精神障害者の更正施設の女性介護者が最もショックを受けるのは、障害者の生理と性である。
 私は地方の知的障害者施設の職員として、2年ほど働いていた。男性が30人、女性が20人、計50人の施設だったが、私が勤めている間に、多くの女性が職員として就職した。しかし決して定着率は高いとはいえなかった。3日で辞めていった人もいた。彼女達は施設で天使に会えると思っていたようだ。しかし、精神障害者は、もちろん天使ではない。
 女性職員が一番最初に悩むのが生理だ。生理の処理が物理的に大変というわけではない。ナプキンを当てるだけなので、重症者の下の世話よりははるかに楽だろう。しかし精神的にはきつい。現状では子供を育てることができない女性が、子供を産む機能を持つことへのやりきれなさ。障害者が女として、性交もできることを知った驚き。それは聖人だと思っていた障害者が、1人の女として立ち現れることへの驚きであり、障害者に対して無意識に抱いていた女性としての優越感が壊されたことへの苦しみだろう。この苦しみを乗り越えられない女性介護者の多くが、悩みを抱えたまま施設を辞めていった。

■オルガンを引きずってトイレに

 しかし生理以上に大きなショックを受けるのが、障害者における性の問題である。
 私が介護者として勤めだして間もない頃、自閉症傾向のある男性患者が講堂のオルガンの上でズボンを降ろし、自慰行為にふけっていたのを発見した。私はショックのあまり、「そんなことはトイレでやりなさい」と彼を叱りつけてしまった。しかし彼はオルガンに乗らなければ欲情できない青年だったため、大きなオルガンをトイレまで引きずっていき、自慰行為をした。彼に性欲があることをきちんと認めていたなら、叱りつけることはなかったろうし、オルガンをトイレまで運ばせることにもならなかっただろう。結局、私自身も「障害者は天使だ」との思い込みと、人前では性欲を見せない健常者のルールに縛られていたのだろう。
 性欲も一人で発散しているうちは、さほど深刻な問題にはならない。しかし相手がいる場合は介護者の悩みも深くなっていく。私は施設内で「障害者の性を考える会」を作り、意見を交換したが、必ずしも問題は解決しなかった。例えば、軽度の男性障害者が、重度の男性障害者を自慰行為に使っていた。性欲の吐き出し方は、妊娠などの可能性がなければ、基本的に個人の意志を尊重することになっていたが、重度障害者には自分の意志を明確にできない人もいる。連れていった軽度の障害者を叱って問題は解決するわけではない。軽度の障害者が脅して使っているようにも見えないからだ。性という極めて個人的な問題に、職員はどこまで立ち入るべきなのか、職員によっても意見が分かれた。
 さらに男女の問題になると一層複雑になる。軽度の男性が重度の女性を襲うこともあり、妊娠することもある。障害者が健常者に恋する場合は、ほとんど肉体的な関係には結びつかないが、だからといってドラマのようにうまくいくわけでもない。1人の女性職員に惚れた男性は、彼女に惚れるだけではなく、自分の恋人だと勘違いしてしまった。そのため女性職員を追いかけ回し、彼女自身がノイローゼ気味になってしまった。職員全体で問題の解決にあたったが、結局は彼女が施設を辞めるしか方法をみいだせなかった。また施設の女性が施設外の健常者に強姦される事件も何件か起こった。施設の女性だと知って行為に及んだケースがほとんどだ。ドラマのように障害者が理解ある人々に囲まれていたなら、どんなに楽だっただろう。
 施設を卒業した女性が、性風俗の店で働くことも度々あった。私が親しくしていた女性も、自分が勤めている風俗店から楽しげに電話をかけてきた。工場での単純作業が向かなかった彼女にとって、性風俗店は働きやすい場所だったのだろう。本当に彼女の意志なのか疑問にも感じた。しかし彼女を1人の人間として認め、彼女の意志を尊重する以上、性風俗であろうと反対する理由にはならないだろう。

■障害者は天使ではない

 彼らを「ピュア」だと感じるのは、世間ずれしていない部分だろう。例えばチョコレート1つプレゼントしただけで大喜びしてくれたり、100m先の駄菓子屋に行くことが最高の楽しみになっていたり。しかし、それはピュアなのではない。狭い施設に閉じこめられている環境が影響しているだけ。ではピュアではない彼らに魅力がないか。もちろん違う。付き合っているうちに彼らの障害は個性に見えてくる。問題と思われる行動も楽しめるようになってくる。職員にかまってほしかった男性は、職員が洗う湯飲みにワザと小便をするようになった。洗おうとした瞬間、さすがに腹が立ったが、怒ろうとすると嬉しそうに逃げる彼を見て、いつの間にか怒りも消え、私も楽しくなっていた。
 メディアが障害者を扱うと、障害者は天使のように描かれる。そして障害者の実体を知らない健常者は、障害者が天使のような存在だと思いこんでしまう。障害者のありのまま姿を受け入れられない人達が増えるのは、問題ではないだろうか。幻想を持って障害者に近づいて来た人は幻滅し、障害者を現実以上に汚い存在と感じてしまうだろう。ドラマに障害者が登場することは、プラスの面もあるのだろうが、安易な作り方には反発を感じている。

■■研究者の立場から/ドラマヒットに見る心理

(小田晋……1964年東京医科大学総合法医学施設(犯罪心理学研究所)助手、69年同施設助教授を経て77年より筑波大学社会医学系教授。著書に『文化と精神医学』『人はなぜ、気が狂うのか?』など)

■障害者ドラマが人気を博している秘密は4点ある。

①現に存在する限界状況を描く物語は人の心を打つ
主人公の環境が過酷であるほど視聴者は共感し感動する。日本人が伝統的に好むドラマツルギーは、継母いじめと貧困であり、戦後の一時期は戦争と貧困が頻繁にドラマの主題として登場していたが、戦後50年を経た経済大国日本では現実感を持たない。その点、障害者の主人公は現在もリアリティーを持つ。限界状況を現実的な問題として感じられることが重要だ。

②障害者に対する世の視線はやさしい
ドラマも障害者を肯定的に扱っている。弱者イジメで名を馳せたビートたけしでさえ、障害者を扱った映画に対する姿勢は優しい。誹謗中傷の対象にならない存在がドラマの主人公に適していることは、かつて同様な効果を狙って作られた子役を主人公にしたドラマをみれば明らかだろう。

③視聴者の知的好奇心をくすぐる
医療や福祉などの知識が映画にちりばめられる。視聴者はその知識を受け取ることに満足感を覚える。

④役者にとって最もやりがいのある役の1つが精神障害
映画でも名優が障害者を演じている例は多い。『カッコーの巣の上で』のジャック・ニコルソンや、『レナードの朝』のロバート・デ・ニーロ、『レインマン』のダスティン・ホフマンなど数え挙げたらきりがない。役者の変身願望を刺激する役柄なのだ。

■病名設定のない『ピュア』

 海外と比べて現在ヒット中のドラマの演技にはどこか不自然さが残る。それは俳優が、障害者そのものではなく、ドラマや本で作り上げられたイメージを孫引きしているに過ぎないからだ。『ピュア』に至っては主人公の明確な病名設定がないのだから、本来のリアリティの出しようがない。障害者に密着して取材し、直接情報を取ったデ・ニーロとは大きく異なる。
 さらに障害者ドラマの量産は、障害者に対する優しい視線を失わせる。障害者をやさしく見守ることに、視聴者がやがて飽きるからだ。このような状況が障害者をパロディ化させる危険をはらむ。悪しきパロディには前例がある。かつて子どもを主人公に据えた貧困をテーマにしたドラマは善意に満ちていたが、今ではかなり辛辣なものになっている。その分岐点が『じゃりんこチエ』であり、今では「強姦」「中絶」といった実際の生活にはまずあり得ない状況まで、ドラマでは「当然」となっている。障害者ドラマが同様の経緯をたどることは、社会的に決して許されない。十分注意すべきだ。

■■声 -父母の立場から- 山口明

 出産時のミスにより、最重度の脳性マヒになったわが子を持つ親ではあるが、『ピュア』は結構楽しく観ている。もちろん気になる点はある。例えば、和久井映見は可愛すぎる。もし「しこめ」だったらどうなったのかと思うし、演技もコケティッシュな部分を強調しすぎている。障害者の母親が、子供に関わる部分だけで描かれているのも残念に思う。実際の親は、生活するために仕事もしており、子供にかかりっきりではない。いわゆる普通の生活が営まれている。
 しかし、子供が親から自立していく課程を自然に描いている点は評価できるだろう。障害者が、テレビ画面を通して認識されていくのは、悲しむべきことではないと思う。

■■-ドキュメンタリーの立場から-

(伊勢真一……映画・『奈緒ちゃん』の監督。主人公の奈緒さんは、姪にあたる。演出家としてヒューマンドキュメンタリー
中心に活躍している。主な作品に『光に向かって走れ-盲人野球の記録』『新世界紀行-ガンジス大紀行-』などがある。)

■映画にノーマライゼーションを

■現象の入り口

 1983年1月にクランクインした『奈緒ちゃん』は、95年春に完成した。12年の歳月と、100時間以上のフィルムが費やされた作品だ。私が撮影を終え作品としてまとめたのは、てんかんと知的障害を持つ西村奈緒さんが成人を迎えたためで、現在の障害者ドラマのブームとは関係ない。
 テレビドラマの主人公に障害者が使われているのは、ハリウッド映画の『レインマン』や『フォレスト・ガンプ』の影響が大きいと思う。障害者を主人公に据えることは悪い話ではないし、批判も受けにくい。流行に左右されやすい日本のマスメディアが真似したことも理解できる。
 メディアは目先の変わるものを企画として次々と取り上げていく。昨年は戦後50年が取り上げられた。今年は福祉、来年は老人かもしれない。だからといって、障害者ドラマのブームを批判する気にはならない。現象の入り口とみれば、テレビドラマも評価すべきだ。
『奈緒ちゃん』とテレビドラマの制作期間の点から比べる場合もあるが、作品の質と制作期間は関わりはない。またドキュメンタリーが、テレビドラマと比べて清廉潔白と言われることもあるが、それも見当違いだ。ドラマもドキュメンタリーも作品の質によって評価すべきだ。

■劇的な場面ばかりを強調

 障害者を映像で扱うことを考えると、テレビドラマ同様に記録映画や社会派ドラマにも問題があるように思う。いたずらに劇的な場面ばかりを強調しすぎる傾向もあるのではないか。ビックリする映像で、眼を引こうというあざといテクニックだ。初めに撮影する姿が決まっている予定調和のドキュメンタリーも、かなり多く存在する。制作者が決めた筋書き通りに言葉を引き出していくことは、そんなに難しいことではない。
 私が『奈緒ちゃん』撮影する際に、発作の場面を一切撮らないと決めいていた。そして、いわゆる福祉だけを強調せず、奈緒さんと家族を中心に人間関係に重きを置いて作ったのも、記録映画・福祉映画の枠組みを『奈緒ちゃん』で壊したかったからだ。初めに撮りたい画像や概念があり、それに合わせてショッキングな映像を取り入れていくのは、映像に力が出る反面、特定の視聴者にだけ訴える映像になってしまう。
 障害者を扱ったドキュメンタリーが批判されないことも問題だ。障害者を扱うことで、作品は50点の下駄を履かせてもらったようなものだ。特に大新聞は批判しない。批評家は現代社会の問題点が描かれるだけで良しとする。問題点を絞らないために、社会の問題点だけが列挙される映画さえある。結局、仲間内だけ盛り上がることになる。

■美化とマイナス面と

 障害者を映像で表現するために必要なのは何か。1つは人間をしっかりと見ることだ。じっくりコミュニケーションをとることだろう。具体的にはナレーションやインタビューに頼り過ぎず、激しいアクションだけを狙わないことだ。テレビドラマだろうとドキュメンタリー映画だろうと違いはない。理屈や概念から作品を作れば、不自然で質の落ちた作品になってしまう。
 視聴者にプラスカードを引かせることも重要だと私は思う。目を背けたくなる現実だけではなく、共感できる部分を映像で見せることだろう。『奈緒ちゃん』を見終わった観客のアンケートに、「勇気づけられた」「悩みが解消した」との意見が多い。彼らの悩みは、決して奈緒さんとは同じではない。しかし共感が悩みを癒し、勇気を与えるのだろう。このような感想が、私自身を元気づけた。
 そして最も大事なのは、障害者を扱った作品を特別視しないことだ。作品が批判の対象にならなければ、良い作品は生まれない。映像のノーマライゼーションが必要だろう。
 テレビドラマのように障害者を多少美化した演出は、障害者の内情を知っている人にとって不満だろう。障害者を映像で扱うことは難しい。しかし、作品がしっかりと批評されれば、少しでもよい形が出来上がってくるだろう。(談)

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障害者ドラマを徹底批判する!(上)

■月刊『記録』97年3月号掲載記事

■■■「障害者ドラマ」徹底批判!(上)

■■■センセーショナリズムに突き動かされるドラマ

     *    *    *

(■稲増龍夫……1952年4月、東京生まれ。73年に東京大学大学院社会研究科・修士課程修了。著書に『アイドル工学』『フリッパーズ・テレビ-TV文化の近未来』などがある。)
 
■ドラマのタブーを破り続けた

 90年代前半からドラマブームが起こり、バブル期に合わせた恋愛ドラマが数多く作られた。しかしありきたりの男女によって描かれたドラマでは、視聴者が満足せず、視聴率も取れなくなってきたため、レイプやレズなどドラマのタブーを破り続けてきた。その延長線上に、現在の障害者ドラマブームがある。
 障害者ドラマブームの起源について、一般的には『星の金貨』と言われているようだが、私は『ひとつ屋根の下』だと思っている。いくつものタブーを破ってきた野島伸司は、このドラマで障害者を主人公として登場させた。その後、『星の金貨』『愛してると言ってくれ』と続いた聴覚障害者を主人公にしたドラマが手話ブームを巻き起こしたことは有名だ。この障害者ブームに拍車をかけたのが、ハリウッド映画『フォレスト・ガンプ』だった。現在、放送されている『ピュア』『オンリー・ユー 愛されて』が同じように知的障害者を主人公に据えたのも、『フォレスト・ガンプ』がヒットしたからだろう。
 ドラマは本質的にセンセーショナリズムを合わせ持っている。売らんがために、作り手は今までにない設定を考える。もちろん、現実に即したドラマ作りとはいえないが、そうしなければ視聴率は稼げないだろう。作り手に差別意識はないのだろうが、ある種の見せ物的要素がないとはいえないだろう。

■ポジティブなレトリック

 ドラマにおける障害者の扱いを、日本とアメリカで比べた時、作り手の姿勢の違いは更にはっきりする。88年のアカデミー主演男優賞を受賞した『レインマン』のダスティン・ホフマン、昨年のアカデミー主演男優賞を受賞した『フォレスト・ガンプ』のトム・ハンクスは、精神障害者の役をリアリティーを失わずに演じ切った。2人とも個性派俳優だからこそだろう。一方で、日本のテレビドラマの主人公は、『未成年』の香取慎吾、『ピュア』の和久井映見、『オンリー・ユー 愛されて』の大沢たかおなど、カッコイイから、そしてカワイイから許されるポジティブなレトリックが働いている。そのため、ますます現実から離れていってしまう。
 障害者がステレオタイプに描かれているのも、日本のドラマの特徴だ。一方がポジティブな面だけを持つ人格、一方はネガティブな面だけを持つ猟奇的な人格だ。この両極端の人格は、表裏一体だ。実情を知らない作り手と視聴者は、プラスイメージとマイナスイメージに障害者を拡大していった。今後も両極のイメージが強まっていくと危険だろう。障害者に対するイメージが1人歩きしかねない。
 さらに視聴者の立場から障害者の立場から障害者ドラマを分析すると、ある種の優越感とある種の負い目を視聴者が持っていると推測される。障害者に対する無意識の優越感を全く否定することはできない。しかし視聴者の心をより多く捕らえるのは、日常生活で障害者に差別的な態度をとってしまう現実に対する負い目だろう。そのため障害者と対等に接するドラマの登場人物に、視聴者は共感を持つ。しかし、障害者ブームにはプラス面も多い。手話ブームにより、手話を交わすことが以前ほど特別視されなくなったこともあるだろう。障害者がステレオタイプに描かれているとはいえ、視聴者に障害者の存在を知らせることには成功していることを考えると、ドラマは一定の役割を果たしてきたといえる。現在は、送り手も視聴者も障害者のドラマをどう扱っていいのかがわかっていない。その意味で、障害者ドラマは始まったばかりだ。今後は日常生活に密着した部分も、ドラマとして取り上げていくべきだろう。

■■■知的障害者の立場から/障害者への無関心を助長させるドラマ

(■北島行徳……1965年6月東京生まれ。91年4月に障害者プロレス団体「ドッグレッグス」を旗揚げ、代表をつとめる)

■ドラマは後退している

 たとえ障害者が題材でなくても、いま流行っているドラマにリアリティなんかない。だから、「あんなかわいい(カッコイイ)障害者がいるわけない」とか「障害者の置かれている現実はあんなもんじゃない」というのは限りなく不毛に近い。テレビの世界は視聴率が全て。どんな内容であれ1人でも多くの人に見てもらえれば勝ちなのだ。視聴者だってテレビドラマに期待なんかしていない。面白くなければ、すぐにチャンネルを変えればいい。結局、テレビドラマなんてその程度のものなのだ。
 そんなことは百も承知だが、それでも我慢ならないことがある。それは、障害者を題材にするなら、もっと他に作りようがあるだろうという不満だ。昨年から障害者が主人公のドラマがたて続けに放送されている。しかし、障害者は皆、健常者社会の中で普通に生きているように描かれ、主人公以外には障害者がまったく登場しない。そこに障害者を主人公にする必要が感じられない。ハンディを克服し、一生懸命に生きる障害者と周囲の温かい支えを描いた一昔前のテレビドラマも問題だったが、今の描き方その頃より進歩どころか後退しているように思える。

■取材をしない脚本作り

 いまだに多くの健常者は、できれば障害者と関係をもたずに生活したいと思っている。そんな中、自立した障害者が健常者と恋愛をするストーリーは、どんな効果を生み出すのか。私には障害者に対する無関心をさらに増長させるとしか思えない。テレビが視聴率を重視するように、私達ドッグレッグスも基本的には観客動員を重視している。興行に観客が集まらなければ、赤字という実害が出るからだ。しかし、それ以上に、私達はメッセージを観客に伝えたいという強い気持ちを持っている。それこそが、障害者を題材とする意味ではないか。メッセージもないまま、障害者を題材にする作り手は意識が低いと言わざるを得ない。
 聴覚障害者を主人公にしたテレビドラマ『愛していると言ってくれ』を書いた脚本家のインタビュー記事を読んだ。なんでも、この脚本家は自分の感覚を大事にするために、取材をしないで脚本を書くらしい。さらに、聴覚障害者のネタは、テレビで手話のニュースを見て、手の動きの美しさに閃いたのだという。あまりにも安直な発想とお手軽な創作姿勢に驚いてしまった。しかし、こんなミーハー感覚が若い女性層にウケて、結果的には高視聴率を記録。このドラマをきっかけに、ちょっとした手話ブームが起きた。手話の本がベストセラーのランキングに突如として顔を出し、手話講習会には定員の何倍もの参加者が押しかけた。私の周りにもそんな人達がいたが、なぜ手話を習うのかと聞くと大抵「手の動きがきれいだから」という答えが返ってきた。
 だが、発音がきれいだからと言う理由だけで、外国語を習う人はいないだろう。外国人と話すための外国語であるように、手話は聴覚障害者と話すための手段だというのに……。

■プラスだけを積み重ねるドラマ
 知的障害者を主人公にした『ピュア』も同様な制作姿勢だ。トンチンカンな受け答えで知的な遅れを演出しているが、これが『愛していると言ってくれ』の手話にあてはまる。障害者のイメージをある点にだけ集約し、後は外見も内面も健常者と同じ設定で、健常者同士の付き合いのように人間関係を描く。そのため、ドラマ中の困難や波乱は大抵が恋愛のトラブルだ。障害者と付き合うこと自体はマイナスではなくプラスだけを積み重ねていくことのようにドラマは進んでいく。
 しかし、ドッグレッグスの障害者レスラーであるサンボ慎太郎や欲獣マグナム浪貝との付き合いは私にとってマイナスの連続だった。どうでもいい用件で毎日かかってくる電話、悩みごとがあれば人の職場に愚痴をこぼしに現れ、酒を飲んでは暴れ、借金をつくっては貸した相手に私が謝らなければならない。自分の生活を滅茶苦茶にされて、何度、関係を断ち切ろうと思ったことか。しかし、あまりにもマイナスが積み重なってくると、突然これがプラスに変わってしまう。まさに、マイナスとマイナスをかけたらプラスになるように。私は彼等に日常を破壊されたお陰で、新しい価値観や生き方を教わった。障害者プロレスもそんな付き合いの中から生まれたものだし。今では彼らがいなくなったら、なんてつまらない人生になってしまうんだろうとさえ思っている。
 恋愛1つとっても、現実の方がドラマに及ばないほどドラマチックだ。浪貝は、伝言ダイヤルで知り合った心の病を持った
女の子を、その日のうちに母親に紹介し、結婚を迫った。浪貝は純愛を育もうとしたが、彼女は浪貝の体が目当てで、二人は肉欲に溺れていった。デビューしたばかりの障害者レスラー「愛人(ラ・マン)」は、自立ホームで生活していたときに職員だった健常者の女性を口説き、付き合うようになった。それがばれてしまい2人で施設を出て、同棲した。その女性が「愛人」と暮らすことを家族に告げると、父親は「どんな会社でも、どんな学校でもチビでもデブでもいいから健常者にしてくれ」と語った。現在、重度の障害者ある「愛人」の介助は彼女が行い、2人で生活している。
 こんな現実の中にいる私だから、今の障害者が主人公のドラマなんか少しも面白いと思えないのである。

■■■ろうあ者の立場から/TVドラマ発「手話ブーム」は現実を変えなかった

(■大槻芳子……1942年、新潟生まれ。60年に新潟県立新潟ろう学校を卒業。79年財団法人全日本ろうあ連盟評議員を経て、80年より10年間ろうあ者相談員として横浜市役所に勤務する。)

■ロケ地確認の電話殺到

 『星の金貨』(日本テレビ)と『愛してると言ってくれ』(フジテレビ)の2つのドラマで、手話ブームが到来したかのように新聞・雑誌で報じられましたが、実際に手話の本が売れたのは番組が放映された昨年の7~9月の3ヶ月間位で、市販ものは10月に入るとガクンと売り上げが落ちました。また今年に入って手話サークルに加入した人数を確かめてみても、昨年と大きな変化はありません。若干増えている程度ではないでしょうか。一過性の現象だったように思います。この事務所にドラマのロケ地に関する問い合わせが多数かかってくるほどドラマはヒットしたようですが、振り返ってみると現実には大きな変化はありませんでした。
 手話ブームについても、単にドラマの影響だけでなくプラスアルファの要素もあったと思います。第1に、阪神大震災が起こり若い人達のボランティアに対する関心が高まった事。第2に、コンピュータの普及などで間接的なコミュニケーションに埋没していた人々には、直接のコミュニケーション手段である手話が魅力的に見えた事。しかしブームも終わりを告げました。手話が広まるには広まったが、手話を覚えるために勉強するかしないかは本人次第といったところでしょう。

■ろうあ者にわからないストーリー

 実は『星の金貨』のディレクターは、シナリオを持ってこちらの事務所に意見を聞きに来ています。内容について問題はなかったわけではありませんが、放送1回目に耳の聞こえない人からの抗議がテレビ局に殺到したようです。画面に主人公の会話しか字幕がつかなかったことが原因でした。耳の聞こえない人を主人公にしているのに、肝心のろうあ者がドラマを観れないのです。ディレクターが、2回目から全てのせりふ字幕を入れるべく徹夜を続けて働きかけてくれたからよかったものの、、もし彼の努力がなければ2週目から完全な字幕が入ることはなかったでしょう。しかし確かなことは、番組制作者の頭に耳の聞こえない人の存在が入っていなかったことです。主人公に据えていながらです。

■伝わらない手話を番組で

『愛してると言ってくれ』にも、おかしな点がいくつかあります。まず、ろうあ者の周りにいる人が優しすぎました。ドラマだから当たり前なのでしょうが、あれだけよい人が多ければ苦労はないでしょう。
 さらに豊川悦司が一切口を開かないことは不自然です。普通、手話での会話は、音を発しなくとも口は動かします。手の動きだけではコミュニケーションが取れません。まして豊川悦司の設定は、10歳で耳が聞こえなくなったことになっています。私も6歳で耳が聞こえなくなりましたが、ゆっくり話せば発音にあまり問題はありません。演出上、口を動かさなかったのでしょう。それは最後に豊川悦司が一言話すのを強調しました。
 もう1つ気に掛かったのは、手の動きの少なさです。あんなに少ない手の動きでは、意志を伝えられません。手話はもっと生々しいコミュニケーション手段です。演出上、手の動きをわざと少なくしたのでしょうか?
 さらに手話ブームを追って取材をかけてきた新聞・雑誌にも驚かされました。「手話ブームをどう思うのか」「手話の本の売れ行きはどうなのか」といった質問を、手話サークルの人達にもしていました。手話サークルに通っている人は、耳の聞こえる人です。手話ブームについて本当に語れるのは、実際に耳の聞こえない人でしょう。取材する人も、ろうあ者についての知識を持たぬまま取材に来ています。これも問題ではないでしょうか。

■手話通訳士たった700人の現実

 私達が発行している『わたしたちの手話』は、初版が1969年です。厚生省へ手話通訳養成の働きかけを始めたのは、40年以上も前の話です。今から30年ほど前は、路上で手話を話すことも大変勇気のいることでしたが、耳の聞こえない人自身が、手話サークルを作り手話を広めていきました。全日本ろうあ連盟は、自治体に対する運動として各地で活動し、時々にイベントを開催し手話の普及活動に力を入れてきました。そのような積み重ねで、ここ10年は外で手話を交わすことも自然にできるようになったのです。
 しかし手話通訳士の人口はまだまだ足りません。4千人必要だと言われている手話通訳士が、現在700人。さらに手話通訳士に必要とされるのは、技術だけではありません。手話通訳士が音声に変換した言葉は、耳の聞こえない人にはチェックできないため、ろうあ者そのものについても学び、信頼関係を築かなければいけないのです。好奇心・やる気・熱意の3拍子揃わなければ、なかなか手話通訳士になれないのが実情です。
 最初はトヨエツさんに憧れて手話を始めてもいい。学び続ける熱意を持ってほしい。
 ブームが終わったからといって私達の活動が変わるわけではありません。問題は山積みしています。聾学校では現在でも手話がのぞかれ、声を出して話をし、唇を読んで会話をするように教育されています。文字放送も全国で受信できるわけではありません。私達全日本ろうあ連盟は、このような問題のあふれた現実の変革を求め、完全参加と平等の現実に努力しているのです。(■「下」につづく)

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鎌田慧の現代を斬る/「インディペンデンス」国家の不思議

■月刊「記録」1997年10月号掲載記事
 (表記は掲載当時のままです)

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■戦時体制そのものだ

 政府の動きをみると、まるで戦時体制を準備しているかのようだ。いやむしろ戦時体制そのものといえる。米海軍の航空母艦インディペンデンスの小樽寄港に三六万人も集まった風景はおぞましい、
 たとえば九月二日、米軍用地強制使用の手続きを基本的に国の執行事務とする第三次勧告を、地方分権推進委員会(諸井虔委員長)は橋本龍太郎首相に提出した。これはことしの四月におこなわれた沖縄特別法(駐留軍用地特別措置法)の改悪を、さらに改悪しようとするものである。地方分権推進委員会は、地方分権あるいは地方主権を進めるためのものなのに、このように中央集権を進めているのにはあいた口がふさがらない。
 現在、米軍用地強制使用にかんして知事・市町村長などが四件の事務を委任されている。その四件のうち三件を国の事務としたうえに、新たな用地の強制使用にかんして最終的な裁決権を首相にあたえるなど、今度の改悪は強権国会につながるものだ。自民党沖縄県連の会長でさえ、「国がそこまでやってはいけない」と朝日新聞紙上でコメントを発表しているほどだ。
 米軍用地のために地主の土地を取りあげる行為は、沖縄県においてのみおこなわれている。この行為自体、沖縄県民の主権を著しく踏みにじるものである。にもかかわらず、かろうじて残された知事の権限さえ剥奪しようとは、驚くべき答申案だ。しかも強制使用される土地は、県民の望まない軍事目的に供されるのである。
 沖縄県民は「小指の痛みを知らない」と政府を批判してきたが、今度の答申における政府の態度は「小指を潰しても知らない」といったものだ。これまでも太田昌秀知事は沖縄の声を国に伝え続けてきたが、現在にいたるまで国はいっさい聞く耳を持たなかった。「基地問題に抵抗する沖縄にとどめを刺す内容。特別立法と何が違うのか」(九月三日・朝日新聞朝刊)という県民の憤りに、本土の人間も耳を傾ける必要がある。
 危険なのはこれだけではない。戦後民主改革の根幹を破壊しようとする動きが、最近の政治に目立つ。
 たとえば独占禁止法の改悪だ。欧米の巨大企業と対抗できる複合企業型の体質への変化が、大競争時代を迎える日本企業にとっては有益だと、一部マスコミは書いている。しかし大企業に経済力が集中すれば、自ずから中小企業の競争力は衰える。「国益」とは、寡占状態をつくる大企業の論理、それが戦争をもたらしてきた。
 労働基準法の改悪も問題だ。六月一一日、女子保護規定が撤廃された。これによって女性の休日労働・深夜業は、男性と同様に認められることになる。一見、男女差別をなくしたかにみえるこの改訂。しかし総務庁が同月の七日発表した労働力特別調査によれば、ここ一年間で一二〇万人増えた雇用者のうち九割が非正社員で、その三分の二が女性であるという。不安定な雇用形態を容認しながら労働基準をゆるめれば、どうなるかは明らかだ。女性の深夜労働を解禁することにより低賃金の労働力を長時間確保し、経営を強化しようする企業の論理に従ったのが、今回の改悪なのである。
 農業の自由化促進も弱いものいじめだ。政府の都合のいいように振り回された米作り小農家は、自由化によって潰されようとしている。いったい今までの減反や転作の行政指導はなんだったのか。一貫性のない政府の都合だけで生活基盤をいじくり回される小農家の悲劇は、政策の転換という言葉では癒されない。

■行革は公務のコンビニ化

 そして、とどめが行政改革である。
 明治以来の大改革と呼ばれ、いかにも税金の無駄遣いをなくすということで宣伝されている行革。しかし人間にたいするサービスを安定させることに主眼が置かれるべき公的部門に、資本の論理を導入しようとしているのが、今回の行革におけるもうひとつの側面である。独立行政法人の設立や民営化の推進は、諸手を挙げて歓迎すべきことではない。
 資本の論理に徹すればどうなるのかは、コンビニエンスストアをみればわかるだろう。狭い店舗を最大限利用するために選ばれた商品群。売り上げが悪い商品を即座に見つけだすポス・システム。便利という名のもとで違和感を持たれない定価での販売。正社員を必要としない営業形態。無駄のはぶかれたコンビニは、たしかに利益を生み出している。しかし一方で近隣の商店街が疲弊と倒産をもたらした。大量生産・大量消費、画一化した商品を特徴とするコンビニは、けっして文化を豊かにしない。資本の論理が行き着く先は、大都会の荒涼たる風景である。
 さらに法務の分野でも、見過ごせない事態があいついでいる。
 神戸で一四歳の少年が引き起こしたを殺人事件を契機に、少年法の改悪が画策されている。犯罪を犯した少年を更生させる趣旨の少年法を、刑罰強化を押し出した報復主義的な法律に変えるのは強権政治の前ぶれだ。そのうえ神戸の事件のどさくさに紛れて、永山則夫被告および三人の死刑囚が一挙に処刑された。たしかに永山被告は犯行当時一九歳であり、一八歳までは死刑にしないという少年法にはひっかからない。しかし二十歳未満で、無期懲役に減刑される判決をえた者を、検察は無理やりみせしめ的に死刑台に送るべきものではなかった。

■侵略の発端は邦人救出

 軍事的にも大きな問題があった。
 邦人救出という名目で、なんの必然性もないのに自衛隊の軍用機を橋本首相はカンボジアに出発させたのだ。これは露払いというものである。とにかくいまのうちに既成事実をつくっておこうという火事場泥棒さながらのやり口である。「邦人救出」が戦争の発端となった事実は、日中戦争の歴史をみても明らかだ。過去の東南アジアへの侵略は、先に日本企業が進出し、そのあと軍隊が救援名目で駐留するいう形でおこなわれてきた。当時から「邦人救援」とは、外国における大企業の利権確保でしかなかったのである。
 ともするとカンボジアでの「救出」は、自衛隊によって観光客の命が守られるような錯覚をおこすが、軍隊が民間人を守ることは幻想でしかない。敗戦直後の満州における日本軍の行動をみるがいい。このとき関東軍は、軍隊の防波堤として開拓農民を配置した。さらに敗戦が近くなると開拓民をおいて一目散に逃げてきたのである。沖縄でもひどかった。スパイの名目で沖縄人を殺害したり、足手まといになる住民を集団自決に追いやった例は、枚挙にいとまがない。住民を守るのではなく、むしろ住民を犠牲にして延命を図るのが、軍隊の本質なのである。
 このような日本の軍事拡張路線に、米軍のやりたい放題の行動が加わる。新聞報道によれば、日本の三一にものぼる民間の港湾において、港の水深から周辺の飲食店街の様子まで軍事目的で米軍は調査していたという。これは米軍が、有事に民間施設を巻き込もうとしている証拠である。このような危険な事態を前にして、日本の政治家が国際関係をどのように考えているのかといえば、これまた目を覆いたくなるほどの惨状だ。梶山静六官房長官が「周辺有事には台湾海峡も含まれる」などと発言して、中国から反発かっているのも記憶に新しい。国際情勢に疎い日本の政治家にとっては、アメリカのいいなりしか選択肢はないようだ。
 最近の政治におけるどう猛さは、戦前への回帰と見える。しかし、このような動きに反対する声は非常に弱い。これはかつて野党第一党であった社会党が、完全に自民党に屈服し、延命を図ろうとしていることと無縁ではない。彼らの無思想・無節操ぶりをみるにつけ、かつて彼らを支持していた層をこれほど足蹴にして天罰が当たらないのかと不思議に思うほどだ。まあ、社会党の議員がどうなっても知ったことではないが、政府をチェックし規制できる勢力を持っていない大政翼賛会の現状には、国民の自業自得とはいえ不安である。
 さて、このような状況をおおい隠すかのように、マスコミを賑わしていたのがダイアナ事件である。ダイアナの死亡を契機にイギリスの王室の不備への批判が強まり、それは皇室へも波及しそうだ。しかしこの事件契機にイギリスでプライバシー法の導入が検討されているのは、さらに驚嘆すべきことである。イギリスといえば、いちおう日本よりは民主主義的にかなり成熟した国である。その国でマスコミを規制する動きがでるとは、予想もしなかった。今後、それでなくとも規制しがたり屋の日本政府に、なんらかの影響をあたえないか心配である。 神戸の事件後、『フォーカス』による容疑者の写真掲載が問題となったが、さらに問題だったのは法務省が再発防止の勧告を出したことだ。これは政府の過剰反応だった。たしかに日本の週刊誌やワイドショーは、プライバシー暴露の悪習慣があるが、かといってそれを法的に規制するなど認められるべきものではない。マスコミ内での自主的な判断によって、問題は解決すべきである。その基準は、なんのために記事を書くということである。カネのためならなんでも書くという姿勢は、ジャーナリズムの正道ではない。たとえスキャンダル・ジャーナリズムでも、一定の基準はあるはずである。
 フェデリコ・フェリーニ監督の『甘い生活』では、マルチェロ・マストロヤンニが扮する記者と、相棒のカメラマンであるパパラッチが、ローマの街をスクーターに乗って駆け回るのが印象的であった。しかし「甘い生活」という題名からもわかるとおり、この二人は極めて自己否定的な「甘い生活」をおくっている。それはラストシーンのマストロヤンニの困惑した表情に如実にあらわれていた。スキャンダル・ジャーナリストの記者にある内心の困惑が、映画を通して伝わってきたのである。おなじようなテーマは、ウィリアム・ワイラー監督の『ローマの休日』が取りあげている。この映画は、グレゴリーペック扮する新聞記者が某国の王妃に出会うおとぎ話だが、それでも王妃の写真を撮ることに対する記者のためらいは重要なテーマのひとつになっていた。現代のパパラッチたちにも、そういった報道にたいする苦悩がないはずはない。

■責任は新聞社にある

 今回の事故では、大破した車で苦しむダイアナを撮影していたカメラマンがなん人もおり、日本円にして一億以上で売りつけたという話も伝わってきている。これではパパラッチに対する批判が一斉に吹き出すのもいたしかたない。しかし問題の本質は、これまでダイアナのスキャンダルを数千万円で買ってきた新聞社にある。新聞社が金儲けのためだけにカメラマンを利用した結果なのである。カメラマンたちを使っている新聞経営者の責任が追及されることなく、哀れなフリーカメラマンに全責任を押しつけて済まそうとするのは、本末転倒だ。さらに、そのような情報を貪るように読んでいる読者も、数千万円スキャンダルを支えている共同の責任者なのである。カネのためだけに紙面を作る新聞・雑誌社、他人を不幸にしてまでもカネを稼ごうとする記者とカメラマン。今回の事件は、現在のマスコミの堕落を典型的に物語っている。
 マスコミに代表される人の事を斟酌しない現代の風潮は、資本主義が末期的な状態になってきたことを示している。職場や学校におけるいじめの続発は、このような風潮と関連している。「人間はどのように生きるべきか」を考えることなく生活している大人が現代の荒廃を招き、さらに次世代の足元を崩しているのである。(■談)

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鎌田慧の現代を斬る/いじめを支える学校と地域社会

■月刊「記録」1997年4月号掲載記事
 (表記は掲載当時のままです)

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■愚劣な学校

 続発するいじめ事件への学校側や教育委員会の対応は、ハンで押したように同じで、まったく変わっていない。これは驚くべきことである。それどころか、いじめ自殺が増えることにより、最近では学校側がさほどショックを感じていないようにもみえる。慣れが始まり、いじめ自殺についての対応がパターン化する異常が、日常となっているようだ。何ら解決に至っていないのである。このことに私は大きな危惧を感じている。
 最近では、長野県須坂市に住む中学1年生の前島優作君が自殺した。事件は、今年1月7日に起こり、当初は本人の名前が伏せられていた。しかし学校側の対応が悪いために、家族が息子の実名と遺書のメモを公開するにいたった。
 この事件も、過去の事件とまったく同じパターンである。中学校や小学校でいじめ自殺が明らかになると、学校側はたちどころに「いじめはなかった」と発表する。それに対し家族側は調査を依頼するのだが、学校側は常にいじめはなかったと発表し、自己防衛のみに奔走する。結局、このような学校側の対応に不満を抱いた遺族は、いじめられたことを示す遺書を公開することになる。こうなると学校側もいじめの事実そのものは認めざるを得なくなるが、今度はいじめには気づかなかったと、ひたすら責任を回避しようとするのである。
 私は『せめてあのとき一言でも』(草思社)で、いじめ自殺で子どもを亡くした遺族の聞き取りを行ったが、学校側と遺族の間で、嫌になるほど同じような対応が繰り返されている。
 この長野県須坂市の場合も、事故調査報告書を作ったのは事件後の10日も経ってからであり、対応は著しく遅れていた。この点だけ取り上げてみても、学校側が誠意ある対応をしたとは、とても思えない。
 遺族が学校側に、いじめの問題を調査してほしいと要請するのは、たんに学校側と争いたいためではない。わが子が死に至るまで、学校でどのような生活をしていたのか知りたい一心である。自分の子どもがどうして自殺しなければならなかったのか、親自身が知らなければ気持ちが落ち着かないからだ。
 そもそも、親にとって、子どもに先立たれるほど不幸なことはない。どんな親でも、子どもよりは先に死にたいと思っているはずである。その順番が逆になるだけでも不幸なのに、死が自殺ともなれば、親は自分の力が及ばなかった無力感を抱くことになる。それだけに親が子どもの最後の姿を知りたいと思うのは当然である。そういった親の願いに対し、学校や教育委員会がまったく人間的に対応していない事実は、学校や教育委員会が愚劣な行政機関となって、人間の心を失っていることをあらわしている。
 いまや学校および教育委員会は、完全なる行政機関になったというほかはない。学校はすでに「学ぶ場」というよりも「教えられる場」という形態になり、さまざまな強制力が子どもに向けられている。強制力を強めることによって、教師と生徒の関係も変わった。子どもたちが学びながら自分を高め、教師は子どもとのふれあいを通して人間としての仕事をまっとうするという両者の関係が剥奪されてしまったのだ。その一方で、国は教育のすべてを取り仕切るという強い意志をあらわしている。文部省や自民党などが強要する日の丸・君が代の実行は、そのサイたるものだ。

■いじめの地域的拡大

 問題はそれだけではない。『せめてあのとき一言でも』でもふれたことだが、いじめ自殺など学校内で事件が発生すると、奇妙なことに被害者の立場にある遺族が地域から孤立させられ、いじめられることが多い。最近では、都会の東久留米市(東京)という都会でも発生していた。
 この事件は、教師から体罰を受けた東京女子中学生が、東京都や市を訴えた事件である。昨年9月、被害者の家族は勝訴したが、一部の父母達が全校保護者会をひらき、なんと体罰で訴えられた教師を養護する署名運動を始めたものである。そればかりか、この遺族のもとには「バカ家族」「市民をなめるな」「おまえの娘は不良だ」などの匿名のいやがらせ電話が殺到したり、注文もしないのにすしや肉が届けられたという。
 また、96年1月23日にいじめを苦に自殺した福岡県の大沢秀猛君の場合も、初七日にPTA総会が開かれ、家族がまったく孤立化させられた。このときは、公然と教師の体罰をもとめる父母の声があった、という。
 このような地域ぐるみの嫌がらせは、いじめ自殺したほうが悪いと主張する価値観と、まったく同じである。学校を批判する者に対して攻撃なのだ。これらのことは、学校がいじめ自殺の加害者であることの証拠でもある。いじめ自殺の遺族が地域から孤立させられ、批判されるのは、弱い者や異端者を排除していくいじめの構造の地域的な拡大といえる。
 地域住民は、いじめ事件にかかわると受験勉強が遅れるというような、きわめて狭いエゴイズムに貫かれている。これは、いじめられて死んだ子どもなんかにかまっていられないという、どう猛な強者の論理が働いているのであり、弱い者は踏みつけ、強い者だけがのし上がっていこうとする現在の日本を象徴的にあらわしている。
■一人歩きするスローガン

 学校が決してホンネを語らないタテマエ社会であると、私はかねてから強く指摘してきた。たとえば福岡県筑紫郡珂川町の小学校で発生した事件などは、その典型だ。
 この事件は、普通学級に通う知的障害児が、同級生からトイレ掃除用のブラシなどをなめさせられていた、というものだ。いじめていた子ども達は、「先生は人間平等というが、障害児だけ特別扱いして自分だけしかる。同じにしてほしい」という不満を持っていたという。
 障害者を普通学級に入れる行為は現在の教育状況ではきわめて進んだ方法である。がしかし、教師の指導がまったくタテマエ的であったことがうかがえる。小学生たちに、ごく自然に障害者をささえるような教育がいきわたらず、教師が障害者をただ保護する姿勢に不満が表れたのだと思う。障害者の障害をきちんと説明し、それでなおかつ健常者と障害者がともに学んでいくことの意味を、教師や学校がどれだけ子ども達と話し合っていたかが問われている。ところが実際には、部落差別をなくそうと教える教師が、子どもと向かい合っている現場では、学歴社会に応じた差別的な教育をしていたりする。
 差別やいじめは、学校やクラスそのものの体質を変えていかなくては解決していかないのに、スローガンだけが先行している。
 たとえば、親や教師は子どもに対して「みんなと仲良くしろ」というのであるが、これはきわめて空疎なスローガンである。人間がみんなと仲良くできることなどありえない。みんなと仲良くしろという教えは、みんなと仲良くできないものにもストレスをあたえる。
 大人自身も、仲良くしている友人はごく少数でしかないのだ。しかし、子どもには「みんなと仲良くしろ」と強制する。やはり「ちがう人の意見を聞きなさい」とか、「友達は少数でもよいが仲間をいじめるな」というように、ごく自然の人間関係を教えるべきであろう。
 いじめにかんしても同じことがいえる。学校でいじめはあってはならないというスローガンがまかり通っているために、いじめの発生を見たがらない傾向を生み出している。いじめがあってはならないということは、いじめがあっても、いじめとして認めないという行為につながる。しかし、現実にいじめはどこにでもあるのだから、それを認めて、少しでも早く発見し、解決するように発想を転換すべきである。
 本来、人間の心とかかわりあうはずの教育は、ドグマ化した「教育的スローガン」によって崩壊してしまった。教育が人間社会とかけ離れた怪物となって一人歩きしている。このような事態をつくりだしてきた責任は文部省に大きいが、それに迎合してきた現場の責任者(教育長、校長など)にもある。

■いじめをつくる教育方針

 学校は「みんな」というのが多すぎる社会である。みんなとおなじ、という教えが強いために、少しでもそこから外れたものがいじめられる。
 たとえば、「一致団結」や「みんなと仲良く」というスローガン、さらに同じ制服・頭髪・登校用のヘルメットなど、子どもたちの世界を一色に塗りつぶしてきたのは、学校や教育委員会の責任である。ちがいを排除し、管理や権力に迎合することを強制してきた。
 いじめとは強い者が弱い者に向ける排除であり、弱い者が強い者にみせる迎合である。それは価値観を同じにするという教育方針が、土俵となっている。
 いじめられた家族が、地域でいかに孤立していたについては、先にもふれた福岡県に住む大沢秀猛君の父親・大沢秀明さんが、裁判所の意見陳述でこう述べている。 「私のところは、秀猛の3人の兄も含めて従業員25人の自営業でした。原因究明をしない学校の態度が悔しくて、私が学校にかかりきりになり、ほとんど工場に行かないので、早く工場に来てくれと悲鳴をあげていました。秀猛のことを思うと仕事が手につかない日が何ヶ月も続きました。そのため、秀猛が自殺して6ヶ月後に会社は倒産しました。
 地域では、事件直後から『生徒を警察に売るな』との声が教育関係者を中心に根強くありました。その背景には、発覚ずみの加害生徒は速やかに警察に渡し、他の生徒を無関係とすることで、本件『いじめ』を加審生徒と私共との家庭問題にすり替えて、学校の立場を保つというという考えがあります。その結果、今、城島中学校の地区では、家庭の問題で死んだのに、学校の責任にすり替えているという噂がまかり通っています。
 私は、秀猛がどんな学校生活を送っていたのか、何が死へと追いつめたのか、真実を知りたくてこの裁判を起こしました。学校に、臭いモノにフタ式の秘密主義を改め、秀猛がどんないじめを受けていたのか、すべてを明らかにして欲しいと思います。そして、そうすることが、学校からいじめをなくす第一歩だと思うのです」。
 大沢さんが言うように、学校は「臭いものにはフタ式の秘密主義」におちいっている、かねてから「教室の密室化」は指摘されていたが、状況はさらに悪化している。「学校は神聖なものである」というイメージに縛られ、一般社会とのちがいが極度に強調されてきた。それでいながら、企業社会の価値観に合わせられてきたのは大きな矛盾である。
 いま必要なのは「学校はなんでもない」という価値観だ。価値観の転換により、学校でのできごとがすべてあきらかにされ、学校側が保護者とともに率直に語り合い、学校は子どもたちのためにある、ということを確認してこそ、学校本来の道が開けてくる。
 そのためには、学校教育のどん底でうめいている大沢さんのような人たちの悲痛な訴えに耳を傾け、それに寄り添うかたちで学校を再生するしかない。
 いじめの暴力にたいして、学校の壁はますます厚くなり、むしろ父母にむかって敵対するようなかたちとなっている。本当に子どものための教育を目指すのなら、その壁をどう開いていくのかが、いま問われている。 (■談)

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鎌田慧の現代を斬る/政官業総腐敗の先にあるもの

■月刊「記録」1997年3月号掲載記事
 (表記は掲載当時のままです)

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■日本システム崩壊

 日本は、末期的な症状を呈してきた。
 ロシアのタンカーが座礁し、日本海沿岸が重油漬けになったのにもかかわらず、政府が無策だったのは、軍備しかアタマになかったからだ。漁民やボランティアなど個々人の努力によってどうにか後始末は進んでいるものの、船腹は依然として海底に眠り、問題はこれからである。
 タンカーの事故は外からの影響によるものだが、日本の内側でも混乱は続いている。たとえば日本的生産システムとして喧伝されていたトヨタ生産方式(かんばん方式)が破綻するという事件が発生した。かんばん方式とは、米国から入ってきたジャスト・イン・タイムを日本的に徹底させたもので、下請けを支配し、下請けに生産を依存するものだ。欲しいものを、欲しい時間に、欲しい量だけ親会社に納入させるシステムで、下請けに犠牲を押しつけていたこの方法は、2月上旬のアイシン精機刈谷工場の火災によって、親会社のトヨタの工場を3日間の生産停止に追い込んだ。行きすぎた管理主義のツケである。
 さらにクレジット業界の信用情報会社「シー・アイ・シー」の個人情報が流失していたという事件が最近発覚した。これは集中化した個人情報が外部に流出するというプライバシー保護上での大問題である。これまでにも小さい規模の事件はおなじ産業で頻発していたが、この事件は1億4千万件もの個人情報を握っている会社の不祥事であり、情報の集中管理の恐怖を新たにしめした事件であった。
 環境問題・生産システム・情報の集中管理などの破綻があいつぐなか、日本の経済基盤の弱さも円安の深化によって露呈した。
 いままで「日本は優秀だ」などという慢心の中心的存在だった日本式システムが、いっきょに瓦解している。さらに農村の疲弊と、食料の外部依存、空洞化と失業の増大いう状況を加えると、日本の混乱は極みにたっしたと思える。

■4億5千万でお釣り

 政治家および官庁への強い不信感もまた、傲慢な日本的方式の破局をあらわしている。たとえば新進党の友部達夫議員のスキャンダルは、日本の政治構造を極端にマンガ的に表現した。カネで議席を買うという傾向については、べつに友部に始まったことではない。ただし友部の場合は、選挙民から直接選ばれたのではなく比例区で当選している。これまでの政治家と違うところは、この点だ。この欄でも前に批判した歪んだ選挙制度が、友部のようなピエロを浮かび上がらせた。
 なぜ得体の知れない友部が、新進党の比例代表区の13番目になったのかは、まだ解明されていないが、カネによって議席を買ったことはほぼ間違いない。友部がオレンジ共済で集めた資金は93億円にものぼり、6億円を政治工作資金として使ったこともあきらかになっている。このカネによって比例代表区13位の地位を買ったのは否めない事実である。
 当時、日本新党枠の責任者であった細川護煕は、友部について「私達とは住む世界が違う人と思った」と記者団に語っている。さらには「政治家として務まるかと思っていた」とも語っているのだ。にもかかわらず昨年の9月下旬に、彼は友部の次男にあたる共済組合専務理事・友部百男と、ステーキハウスで食事し、1本数十万円のロマネコンティをガブガブ飲んでいたという。
 住む世界が違う人間であり、政治家として務まらないと細川が思った人間を、新進党の最高責任者である小沢一郎などが政治家にした。これほど無責任な話はない。新進党の候補決定のプロセスについては、これからの捜査を待つしかないが、細川の側近であった初村健一郎元代議士が、94年夏に友部と出会い、95年の参議院選挙前には新進党の選対の幹部に友部を引き合わせていたことは、あきらかになっている。そのときにオレンジ共済から、1億円が手渡されたともいわれている。そのうえ、初村は細川に3000万円を渡したと報じられている。 カネで買った議席で、友部がもとを取ろうとしないわけはない。彼が集めた93億円にものぼる巨大な金額のうち、63億円は当選後に集められている。つまり議員バッチが集金の道具になったのだ。4億5千万円の政界工作費を使ったにしても十分にお釣りがくる買収だったことがよくわかる。
 このように議員バッチによって集められたカネは、都内の高級マンション、フェラーリやベンツなどの10台もの高級外車、さらには小鳥を放し飼いにするためのマンションの改造費や高級熱帯魚の購入費、そして妻のリムジンの代金やアイルトン・セナが実際に乗ったF1カーの買収など、これでもかこれでもかというほど浪費された。これほどの浪費が許されたことも、いままで日本社会で議員バッチがどれほどの効力を発揮してきたかの証明にもなる。
 友部はこれまで何度も選挙に立候補し、泡沫候補として落選してきた人間であって、なんら政治的な見識もない人間だった。それがどうして当選間違いなしの比例代表13位になったかが解明されなければ、本当の政界の浄化はありえない。友部のケースは、あまりにもやり方がズサンで失敗したからこそ、いま批判対象となっている。しかし、巧妙なやり方で議席の買収に成功すれば、けっして詐欺師といわれることはない。詐欺師は失敗したからこそ詐欺師であって、成功すれば立派な実業家であり、立派な政治家になれるということを、友部のケースは逆説的に証明した。

■危険を知っていた政府

 友部への疑惑は、これだけにとどまらない。95年春ごろ、彼は「21世紀青少年育英事業団」の設立をもくろんでいた。この財団では、日本留学を希望する東南アジアの青少年に奨学金を与えるための事業が行われる計画だったという。その趣意書には、鳩山邦夫元文相、小沢辰男元厚相の名前が使われていた。もちろん問題の初村も名前を連ねている。鳩山や小沢は勝手に名前を使われていたといっているが、オレンジ共済幹部からは「了承は得たはず。勝手に名前を使ったわけではない」といったコメントが出されている。
 まだ無断で名前を使われた人達が告訴したというニュースに接していない。勝手に名前を使われたというかたちで、事件がうやむやになる危険性を含んでいる。はたして友部が勝手に使ったのかは、これからどうしても究明する必要がある。
 また、この事件に付随して、95年夏ごろ初村から小沢へ現金100万円が渡ったということも事実も報じられている。初村はこの現金について、「財団設立のさいにお世話になったから」と語っているが、このカネが初村個人のものと考えるのは難しい。しかも、この事業団の設立にからんで、95年4月に初村から政治団体関係者に3500万円の政界工作資金が渡ったと、いわれているのだ。21世紀青少年育英事業団は、岡光元厚生事務次官が老人をくいものにしたように、東南アジアの留学生をくいものしようとしたシステムそのものといえる。「老人」や「留学生」など、弱いものを喰いものにするのは、許せない。
 さらに問題なのは、財団法人の設立にさいして行われた「スーパー定期記念セール」について、文部省は出資法違反の疑いがあると判断し、申請手続きを凍結していた事実である。これは一昨年のことであったから、政府機関が当時からオレンジ共済組合に疑問をていしていたことの証明である。
 出資法違反の疑いのある人間が、新進党の候補に公認され、公認ばかりか自動的に当選する順位に上げられたというのだから、友部ばかりを詐欺師呼ばわりするわけにはいかない。小沢や細川など新進党の幹部も、国民を愚弄するのに一役買っていた。カネで議席を買うのは、保守党の常套手段だった。

■庶民の金が政治家に吸い上げられる

 おなじ詐欺師でも、山本一郎は経済革命倶楽部(KKC)などというふざけた名前でカネを集めていた。この団体の会長である山本は詐欺容疑ですでに逮捕されたが、これまた日本政府の怠惰を象徴する事件だ。
 この事件は会員1万2千人から352億円ものカネを集め、無駄に投資して破綻したというものだが、忘れられないのは一般市民が高配当につられたことだ。銀行や郵便貯金の利率は、銀行の救済のため低金利に抑制されいる。年金生活者や退職金で暮らしている人達が、老後の不安を取り去るために高金利に飛びついたのもうなずける。この事件は、こういう詐欺師を横行させた政治の貧困を物語っているのだ。現代の日本は、友部や山本や彩福祉グループの小山のような詐欺師が、政治家や官僚を利用して市民の金を吸い上げ、そのカネがまた政治家や官僚にバックされるというおぞましい構造になっている。結局泣くのは、庶民なのだ。
 オレンジ共済組合と同じように重要な問題を含んでいるのは、三井・三菱などの財閥を巻き込んだ泉井純一の所得税法違反事件である。泉井は、三菱石油などから手数料の名目で60億円以上もの裏金を集め、それを政界官界に配ったとされている。泉井は自民党副総裁や外相を務めた渡辺美智雄と親しかったうえに、三塚博、加藤紘一、小泉純一郎といった自民党幹部の名前が彼との関係を取り上げられている。
 最近収賄の疑いで逮捕された元運輸事務次官の服部経治(関西国際空港前社長)は、泉井から現金や高額商品を受け取っていた。もちろん官界の実力者・服部が、政界とかかわりがないはずはない。彼が運輸省の政務次官に就任するにあたって、同じ岡山県出身の橋本龍太郎が運輸大臣のときに強く後押ししたと伝えられている。橋本は厚生族であって岡光との関係も深かったが、空港を取り仕切る運輸大臣としても、しっかり利権を確保したのだ。今後、泉井の捜査が進むなかで橋本の問題もとうぜん解明すべきである。
 与党の自民党が泉井問題を抱え、新進党はオレンジ共済問題を抱え、所詮はおなじ穴のムジナだ。二大政党論とか保保連合などといっても、汚職連合、汚職二大政党には間違いなく、これらの腐敗した政治家が、日本の未来を語っているほどバカらしいものはない。

■忍び寄る危険

 このような混乱に、国民は呆れ、そして危機感を抱いている。しかし、その危機感をちゃっかり利用しようとする手合いもいるから要注意だ。最近、国家の強化や英雄主義、愛国心を訴えるグループのキャンペーンが強まっている。右翼の宣伝カーは「国に誇りを持て」と声高に叫び、国を批判する者は非国民あつかいにされかねない。権力者の混乱が浄化につながるのではなく、それを利用して国家主義を広めようとしていることに強い危機感をもたなければいけない。
 従軍慰安婦問題を突破口にして、右派および右翼の言論グループが従軍慰安婦の事実の否定ばかりか、かつての日本軍部を批判する者への攻撃を強めている。
 この混乱期を反動のほうに追いやるか、あるいは転形期ととらえて前に進むようにするのかは、ひとえに世論の形成のしかたにあり、世論の形成は個人の無関心からの脱却と行動にかかっている。(■談)

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鎌田慧の現代を斬る/ペルー人質事件で報道の自由を憂う

■月刊「記録」1997年2月号掲載記事(表記は掲載当時のままです)

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■報道規制は正しいか?

 ペルーの日本大使公邸占領事件は本稿執筆段階(1月17日)でまだ解決していないので、発言は難しい。けれども報道をめぐる問題については、重要なので考えてみたい。
 今回、共同通信記者とテレビ朝日系の記者がゲリラが占拠していて、政府が「立ち入り禁止」にしていた日本大使館公邸内に入った問題についてまず感じたことは、この事件にたいする対応によって、日本のジャーナリズムが、ますます報道規制を受け入れやすくなるのではないかという不安だ。というのも、新聞社やテレビ局の記者は「企業内記者」であり、記者本人の判断ではなく社員として命令系統にたいする服務義務が彼らの重要な柱になっている。読者の知る権利よりも、上層部の意向、それが強まらないかどうか疑問だ。
 この事件に対するさまざまな反応をみていると、現場にいる個人の記者が独自に判断しにくくなるような傾向が現れていた。取材はあくまでも取材者の判断と責任においてなされるはずだが、会社側の決定によって、政府に謝罪したり、チェックされたりすることが、これから増えるのではないかと心配している。
 たとえば、朝日新聞(1月11日夕刊)には、つぎのような記事が掲載されている。

 -ペルーのパンドルフィ首相は10日夕(日本時間11日朝)、リマの大統領府で内外報道陣と会見し、日本大使公邸に入って国家警察テロ対策本部に拘束されたテレビ朝日系・広島ホームテレビの人見剛史記者(26)とペルー人通訳の行動について、テレビ朝日側が「残念で不適切な行動だった」として事実上の謝罪をしたことを明らかにした。2人の身柄は「数時間以内に釈放されるだろう」と述べた。
 テレビ朝日側と話し合った結果、テレビ朝日側は(1)自主的に記者を交代させる(2)取材陣に不適切な行動をとらないよう注意する、という2点で合意。没収した取材テープ2本について、パンドルフィ首相は「政府に没収する権利がある」としながらも、テレビ朝日側や内外の報道機関からの要請もあって、「特例」として東京の本社に直接返還する、と述べた。-

 その前日には、三塚博蔵相(首相臨時代理)が、「記者を帰国したら事情を聴く」などとバカげた発言をしている。どんな権利があるというのだ。越権行為そのものである。
 この問題の背景には、ペルーの政治情勢が絡んでいる。当然のことながらゲリラの発生には、フジモリ政権が行ったゲリラへの強圧政策にたいする反発がある。このようなことはあまり報道されておらず、ただゲリラ側の行為を伝えるのが人質の生命にかかわるというようなパターン化した言い方で報道規制が行われているだけである。問題なのは、ゲリラを発生させているペルーの政治であり、突入を防げなかった政府の無能であり、メンツだけで解決を長びかせているフジモリ政権の態度である。報道はいつでも自由であらねばならず、報道の責任とは、その結果である。本当に報道によって、人質の生命が危険になったかどうか。冷静に考えるべきだ。
 共同通信の場合も、朝日系の記者の場合も、記者本人の判断によって取材したにもかかわらず、共同がさほど問題視されることなく、テレ朝だけが謝罪をともなうことになっているのも妥当ではない。政府が強制しやすい媒体なのだ。
 報道の自由の権利とはそれ以上でもそれ以下でもない。誘拐事件の時に誘拐された人間の生命にかかわるという理由で、報道を規制したり、プライバシーにかかわる問題を自己規制するのは、あくまでも例外なのである。いつの時代でも、報道は報道する者の自由と責任においてなされなければならないという原則は貫かれるべきである。
 ペルー政府は一貫して報道規制をしてきたが、報道規制をすることがゲリラとの交渉に有利だというのなら、報道がなぜ人質の生命にマイナスになるのかを明らかにしなければいけない。それなしに人質の生命を損なうとの理由で報道を抑えるのは、権力側の戦略的な報道コントロールである疑いがきわめて濃厚である。
 私たちには、1990年の湾岸戦争の時、報道が完全に米軍にコントロールされたという苦い経験がある。権力側は常に報道をコントロールしたがるものだ。実はそのような権力の報道規制を破っていくのが報道するものの任務なのである。
 大使館公邸の中がどうなっているのかを報道することは、積極的な意味があるはずだ。それをたんなる政権の交渉技術に矮小化してはいけない。人質の状況をあるていど客観的に報道することは、むしろゲリラのやっている行為を判断する基準になるはずだし、報道がゲリラの一方的な声をひろめるという批判は、それを受け取る側の判断や知りたいという権利を奪うものである。

■ペルー政府情報の垂れ流し

 今回の場合は、まだトゥパク・アマル革命運動の実態が明かにされておらず、一方ではテロリスト、一方ではゲリラ、また一方では犯罪者集団との酷評もある。しかし彼らの要求が、これまで政治犯として逮捕された仲間の釈放であることを考えれば、政治犯として扱うべきだろう。
 政治犯の要求をすべて遮断してしまうことは、政治犯を弾圧している権力の側に加担することである。わたしはテロリズムには反対であるが、報道の自由というのは政治犯の声も明確に伝えていく義務もふくんでいる。トゥパク・アマルがどのような集団なのかは、事件が解決してみないとはっきりしたことがわからないが、とにかくいまの判断基準は、ペルー政府が垂れ流す情報に支配されている。
 繰り返すが、このような時にゲリラ側の主張を聞き、人質の状況を報道するのは、報道者に与えられた任務であり、抜け駆けだとか、人質の安全を阻害するとかと批判すべきものではない。安全を阻害するというのなら、どのような形で報道が人質の生命を脅かすのかをはっきり公表して批判すべきだし、すきあらば強行突入しようと構えている政府の硬直した姿勢こそ問題だ。
 これで思い出すのが、68年に静岡県の寸又峡の温泉旅館に在日朝鮮人が銃をもって立てこもった、「金嬉老事件」である。この場合も、在日朝鮮人の圧迫された民族の意見を公表する場として、金嬉老は報道陣と交渉して記者会見を開いた。これも普段の状況では、彼ら在日朝鮮人の声が反映しないという金嬉老の焦りから起こった事件であったが、この時に報道各社は、それなりに金嬉老の声を伝えていた。
 とはいえ最終的には、報道陣の中に混じっていた私服刑事が、記者会見の場で逮捕するというマスコミ史上の大きな汚点を残している。つまり、新聞記者は、私服刑事が報道陣を装って一緒に入っていたのにもかかわらず、むしろその状況を黙認することによって逮捕に協力したわけだ。警察と報道を一体化して、報道よりも逮捕を優先させた報道上の恥部だった。
 今回の場合も報道陣に私服警官が紛れていたという情報があり、赤十字が厳重に抗議したと伝えられるが、この抗議はまっとうな行為である。報道者は警察の片棒担ぎであってはならない。
 権力は報道を規制してでも権力を行使したがるものだから、報道者は規制を打ち破って、権力の暴走を防がなくてはいけない。過去の歴史に目を転ずれば、宣戦に至るまでの権力側に不都合な情報を報道規制によって遮断した結果、何も知らない国民が戦争に駆りだされた歴史ともいえる。常に権力をチェックするのが報道の役割だと、改めて肝に命じる必要があるだろう。

■報道の自由への挑戦行為

 報道が規制されている場合、報道者の側からも報道規制を打ち破る行為が必要である。ところが、残念なことに、それは批判されがちだ。日本の場合は、記者クラブ制度が強固なため、「抜け駆け」はとかくヤリ玉に上げられやすい。たとえば、私が雲仙普賢岳の噴火に関する取材で島原の立ち入り禁止区域に入って報道した時に、「地域住民の(鎌田の取材に)感情を逆なでにした」という報道があったが、まったくデタラメだった。住民は自分たちが住んでいた地域の状況を知りたがっていたし、報道されたことによって、初めて情報を得られた、とそのあと感謝されたほどである。
 今回の事件でも、人質がどういう状況にあるかを報道することは、人質および人質の家族にとっては重要だ。それを規制することは、人質の人権を軽視し、強権によって事件を暴力的に解決しようとする政府の姿勢を支持することにつながる。
 なぜならば人質としてとらわれている人たちは、すこしでも自分に関する情報を家族に与えたいと思うし、交渉の道をひらかせて、平和的に解決することを心から願っているはずだからである。
 報道はつねに、「国益の妨げになる」「政府に不利益」「企業のためにならない」などを口実に規制されようとしているし、「国家機密」や「企業秘密」の壁にさまたげられている。こんどの場合の批判は、「人質の生命」という金看板だ。これは嘘っぱちだ。わたしも島原で「人命」と「住民の反対」を理由に書類送検された(不起訴)。トヨタ自動車の内部のことを書いた(『自動車絶望工場』)ときにも、「取材方法がフェアではない」「記録性がない」などと、企業寄りの評論家たちから罵倒されたのに対して、反論した。「北方四島」の立ち入り取材では、「国家的利益」の見地から、再三にわたって外務省から呼び出され、拒否している。報道する者が、自己規制するようになることこそ、暴力的な支配を生み出すことにつながる。たとえば、ベトナム戦争での報道が、アメリカ軍の撤退をはやめた故事を思いだしてほしい。

■報道こそ人権を救う

 今回の事件では、これまでの結果をみる限り報道者とゲリラがオープンに会話をしている間は、人質の生命に危害を与えないことが保障されている。いっさい情報を遮断した状況では、軍隊の突入の恐怖がゲリラにも人質にも強まると思う。このような判断があって、共同通信の記者やテレビ朝日系の記者は自分の責任と判断において突入したのだ、と思う。
 それに対してペルー政府が、取材したビデオを政府側が押収し、ゲリラ側の発言を削除する、という。これは報道の自由に対する挑戦行為であって、フジモリ政権がいかに民主主義的感覚に薄く、報道の自由と敵対しているかを示している。
 だいたい現在のような報道規制が起こること自体が、フジモリ政権の体質を表しているわけであり、私は別にゲリラを支持するわけではないが、ゲリラを悪とすることによって、政府への批判を封じ、国際的に政府への支持を強めようとしているようだが、このように問題解決がこじれていることこそ、恥じるべきである。
 まして取材者を国家が逮捕し、長期間拘留し、取材した内容を検閲するような行為には、ペルー政府に対して報道者は抗議するべきだと思う。繰り返しになるが、ゲリラの発言を報道することは、ゲリラを有利にするともいわれているが、ゲリラの言い分が正しいか、正しくないかを判断するのは、読者や視聴者である。もしゲリラ側に耳を傾けるべき発言があったなら、それを土台に民主主義的な改善がなされるべきである。
 いま懸念されのは、ゲリラ側の疲労を待って政府が強行突入し、人質の生命を危うくすることである。そのような悲惨な結末を迎えないためにも、ゲリラと人質の状況を報道し、彼らの訴えにも耳を傾け、交渉に向けて誘導する正当な報道こそが、ゲリラを追いつめず、平和的な解決を道をつくる。(■談)

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鎌田慧の現代を斬る/日本陥没シンドロームを視る

■月刊「記録」1997年1月号掲載記事(表記は掲載当時のままです)

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■腐蝕のトライアングル

 前回、私は日本の政治を「どじょう鍋政治」とよんだが、このどじょう鍋もいよいよ煮詰まってきたようだ。今回の厚生省の岡光序治・前厚生事務次官のスキャンダルは、これから充実拡大させなければならない老人福祉を。先喰いしてしまった。もっとも悪質で貪欲な「ピラニア鍋」というものであった。
 ピラニアなど喰えるかと思う人もいるだろうが、これはスープやからあげなどにすると毒気が抜かれ、さっぱりして意外にうまい。アマゾン流域では、ピラニアの首だけでつくった首飾りを売っている。これから日本でも汚職官僚達の生首を飾った首飾りがはやるかもしれない。
 それはともかく、岡光の犯罪は次官になってからではなく、4~5年前からすでに始まっていたのである。小山博史とは十数年来の関係があったというから、いわばフンケイの友人であり、両方が利用し合っていたわけだ。このような人物が、厚生省あるいは日本の官庁機構の中心のいたるところで居座っていたことが問題である。 つまり彼が時間に推薦されたということは、その省全体で、彼の只食い、只飲み、タカリ行為を是認していたことになるし、官僚の体質そのものをも表している。
 ここで登場するのが東大だ。高級官僚はほとんど東大出身者に独占されている。独占禁止法違反で訴えてもよいほどだ。
 岡光の子分の茶谷滋は、岡光のミニチュア版だった。業界(小山)から政治資金をもらい、自民党の推薦を受けて立候補して挫折した。もし彼が当選していれば、さらに福祉の予算を増やし、それを喰らうという構造になり、政官財の関係のもっと矮小なサンプルが示されるところであった。高級官僚を業界と時の政権(橋本政権)がアベックで押し上げていくという構造がここに明確に現れている。
 茶谷は小山を引き連れて、埼玉から栃木への彩福祉グループの展開の露払いに徹していたわけだが、このような関係は別に今に始まったことではない。国際興業の小佐野賢治とロッキード事件、江副浩正とリクルート事件のように政官財の関係は続いてきた。
 岡光の金儲けの方法も過去の事件の焼き直しだ。国の金庫にねずみ穴を開け、そこから膨大な資金を関連企業に引いてくるという方法は、明治時代の三菱創業者の岩崎弥太郎、近年では北炭の萩原吉太郎、あるいは田中角栄や金丸信などの政治家が介在していた方法であって、別に珍しい方法ではない。
 ただ今回、小山が頭をひねったのは、そのようにもうけた利益を共同募金会に寄付して税金をのがれたことだ。共同募金に寄付したカネを今度は自分が作った福祉法人にそっくり受けるという方法である。これは今はなき笹川良一日本船舶振興会会長がさまざまな団体の会長を兼任し、自分が支払った資金を自分で受け取った方法とそっくりだ。小山は今までの汚職のあらゆる方法や、先人の経験をうまく駆使したわけで、これからも大小山や小小山が各業界に潜伏していくとは想像に難くない。
 厚生省のスキャンダルは、日本の政界・官界・産業界の腐蝕のトライアングルそのものである。今回明らかになったことは、小山がつくった医療福祉研究グループは、岡光を筆頭に厚生省の幹部ほとんどが頭を突っ込んでいたどじょう鍋グループであり、「詐欺師」小山の私設機関となっていたことである。
 テレビを見ていて、今さらながらあきれたのは岡光の表情が全く変わらず、まるでカエルの面にションベンといった態度だったことだ。おそらく彼には、「俺ばかりではない」という気持ちあったのだろう。彼の行為が犯罪であるならば、医療福祉グループに入っている厚生省幹部はすべて犯罪者だ。ところが犯罪という意識が彼らにないため、捜査が厚生省幹部にまで上りつめることができたのである。
 しかし、官僚たちが、これほどまでにカネに弱いというのは驚くべきことである。それは岡光個人ではなくて、権力を握っている官僚たちの「どじょう」(土壌)問題ともいえる。
 もうひとつの問題は、岡光に親分がいたことだ。それは東大の先輩であり、どうじに同郷、広島県出身で厚生事務次官を努めた吉村仁である。高級官僚はほとんど東大によって独占されている現状で、東大閥の中に地方閥があるのは、きわめて日本的なエリートシステムといえる。

■悪の供給源

 岡光の行動は親分吉村の直伝であったから、厚生省の官僚にとっては、さして驚くにあたいしない事実であろう。東大法学部出身者は20代で税務署長になるなど、若いガキの時分からふんぞりかえった生活をしている。それに地方の官僚が土下座しているのだから、19世紀ロシアの官僚制度を風刺したゴーゴリの『検察官』そっくりである。これは中央の役人と称するさぎ師に、地方の警察署長などがぺこぺこする姿を描いている作品だ。
 20代のエリートがらせん状にぐるぐる回って次官を目指す。それによって日本の陥没シンドロームは作られている。これらの官僚は、一方では地方に出て県知事や市長になり、一方では関連業界をバックにして政治家になり、一方では関連業界に天下って社長や会長になっている。
 このような官庁を中心とした産業界、政界の腐蝕のトライアングルにたいするチェック機能は、オール与党体勢の現在、まったく期待できない。
 中央官庁を中心にした「悪の供給」ともいえる天下りについてもうすこし補足すれば、たとえば通産官僚は許認可と行政指導によって、常に大企業の連中からゴルフや料亭などの接待を受けている。功労が甚だしければ、そのまま専務クラスから天下りして社長、会長になる。鉄鋼、造船、重機などの重工業の幹部に通産官僚出身者が多いのはそのためだ。これは地方でも同じである。地方通産局の官僚も地元の中小企業に天下っていく。
 すでに明らかになったように、大蔵省官僚は銀行に天下って、膨大なこげつきを発生させ、銀行倒産まで生み出した。運輸官僚が、船舶振興会やかつての笹川財団の手代になっていたことは記憶に新しい。建設省の官僚は土建業界に入り込み、それと同じような方法で厚生省の官僚はエイズの拡大にまで手を貸していた。
 「岡光現象」とは、業界が政治家に頼むよりも高級官僚に頼んだ方が手っ取り早いということを示したことにある。これでは政治家たちの利権がなくなり、彼らが憤慨するのは当然である。
 政治家から出るのもウミばかりだ。現在、首相の座についている橋本龍太郎は、もともと厚生族であって、水俣病患者に対して冷酷無惨なふるまいを繰り返してきた。厚生省はこれまでも公害病患者には冷たくしてきたわけで、橋本の態度は厚生省そのもといえる。一方では、漢方薬メーカーのツムラ前社長とツーカーの仲で、後援会への多額の献金が発覚している。カネの出所には甘い顔をするところまで厚生省とそっくりだ。
 自民党といえば幹事長の加藤紘一も、カエルの面にションベンのくちで鉄鋼加工メーカーの共和とのスキャンダルがあってなお健在そのものである。なまいきな小泉純一郎は、これもどうしようもない厚生族のはしくれで、退職金の大盤振る舞いにもつながる岡光の依願退職を許した。いまや政界の時限爆弾となっている泉井石油商会との関係もうわさされている。なおついでにいえば、新進党の友部などもオレンジ共済組合疑惑にまみれている。そもそも新進党が友部を参議院比例区名簿の当選ラインに置いて議員にしてやったこと自体が疑惑である。 このように政界・官界・産業界の腐蝕のトライアングルは、ロッキードやリクルートで大きな問題となりながら、なんら改革されなかった。業界は監督官庁から補助金や許認可をもらい、そのバックマージンを岡光のような高級官僚に支払っている。産業界は政治献金をつづけて、政治家を通して官僚を動かしている。官僚は業界からのカネと票をもらって政界への道を歩む。官僚が政界に人を派遣し、政治家は産業界の意をうけて官僚に法律をつくらせる。この悪の循環はとどまるところがない。 政官財癒着の日本システムが安泰をきわめてきたなかで、産業界は空洞化が進み、官庁は赤字の巣窟となり、政界は保身のどじょう鍋となった。それだけならまだしも、教育をみるだけでも、いじめ自殺が示すように子どもの世界を崩壊させ、中年は過労死、最後の砦である老人の世界も、政官財に喰いつくされようとしている。これが欧米に追いつき追い越せと走りつづけた日本の結末である。

■資金を握る東大悪官僚

 さて、橋本政権は「行政改革で火ダルマになる」などといっているが、すでに日本は国債の赤字まみれで火ダルマだ。行政改革で無駄をなくすといっているが、米軍に膨大なカネをめぐんでやったり、銀行の不始末にカネをつぎこんだり、この大盤振る舞いは尋常のさたではない。集団自殺行為ともいえる。
 行政改革などと「改革」を使っているが、これは中曽根流の「民活」と同じだ。たとえば橋本が会長をしている「行政改革会議」のメンバーを見ても、三菱重工の飯田庸太郎や、経団連会長の豊田章一郎、日経連副会長の諸井虔、芦田甚之助御用組合(連合)会長など、産業界を中心に編成されている。行政改革委員会も飯田庸太郎を筆頭に、宮崎勇大和証券特別顧問や、御用評論家などで構成されていて、公共部門の財産をどんどん大資本に配ろうとする意図が明らかだ。このような野党なき談合政治が「地方分権の時代」という趨勢を妨げないかどうか疑問である。
 中央官庁の腐敗とは、ぼう大な資金を少数の東大出身権力者の手に任せることによって生じている。この解決方法は地方への資金と権限の分譲にある。もちろんその前に、その地方の知事や市長など権力者が中央官僚の出張者や天下りであってはならないのは当然で、地方の市民運動の活性化をすることによって監視しなければいけない。
 もう1つはオブズマン方式などによる監視機関の充実である。上級官庁が下級官庁を監督するというのは、岡光が茶谷を監督しているようなもので、お笑い以外の何ものでもない。どんづまりにきたシンドローム状況が、どう解決されていくかは、国民1人1人の権利意識と民主主義的な意識によるものであって、それにはジャーナリズムの力が十分に発揮されなくてはいけない。
 「行政改革」など本気でいうのなら、まず、天下りと政治献金をせめてからにしたらどうだ。 (■談)

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鎌田慧の現代を斬る/政党談合政治を断ち切る

■月刊「記録」1996年12月号掲載記事(表記は掲載当時のままです)

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■ドジョウ鍋政治

 兵庫県の参院補欠選挙の投票率は21%だった。自由民主党、新進党、民主党、社会民主党、さきがけ、民主改革連合がタバになっておした前副知事が、共産党候補に2万7千票の小差でかろうじて当選した。これで県民の信任をえたというのは、でたらめでしかない。先月の衆院議員選挙の投票率の全国平均は、60%を割っていた。 最近は恥も外聞もないオール与党体制では、もはや選挙民に投票の自由はないといえる。政治家どもの頭の中を占めているのは、自分の議席の確保だけであって、もはや思想や主義はおろか、自分の主張さえもなくなっている。
 これを「ドジョウ鍋政治」という。断末魔のドジョウが苦しまぎれに、豆腐のなかに争うように頭をつっこむ。哀れである。彼らが煮て食われようと焼いて食われようと、そんなことどうでもいいのだが、よく考えてみれば国民もまた「全体主義」という怪物に食われてしまいそうだ。
 第2次橋本龍太郎内閣が発足し、また自由民主党単独政権にもどった。社民党や民主党は与党でありながら閣外協力ということだが、これまた妙なことである。与党になるなら、いままでどおり大臣の椅子を分けてもらえばいいのに、そこに世論の批判に対するためらいがあらわれている。
 社民党は選挙のときに、「市民との絆」と大きく打ち出していたが、与党でありながら市民とつながるなど、大政翼賛会の押しつけでしかない。土井たか子委員長も市民との絆を標榜するなら、村山富市や久保亘など「戦犯」とスッキリ手を切って、それこそゼロからの出発をすべきではないか。
 選挙制度の改悪と同時に、少数政党いじめのきわみである「政党助成金制度」が導入された。この制度は国会議員を5人以上有する政党か、選挙で2%以上の得票率を得た政党に、国民1人あたり250円の助成が行われる悪法だ。
 この悪法が、今度の選挙で大きく力を発揮していた。新聞などの政党宣伝は華々しく、テレビでは大政党の広告が連日にわたって流された。それぞれ広告代理店がつくったであろうコマーシャルフィルムであった。
 これには膨大な資金がかかっている。その資金は、国民からの税金だ。つまり国民の血税を使って、政党は大宣伝をおこない、広告代理店とテレビ各局と新聞社がもうかるという構造だ。
 この制度では議員を持たない政党が、きわめて不利な体勢になる。国会議員を5人以上もたない政党は、実質的には選挙公報も満足にできない。きわめて不平等な制度なのだ。
 共産党を除いた全政党は、社会党も含めて率先して政党助成金に賛成した。彼らはもはや市民の方はまったくむいておらず、ただ自分自身の保身だけを考えていることをあきらかにした。市民運動とか、少数の労働運動などを切り捨てて、自分だけが議席を獲得しようとしてるのは犯罪てきだ。もはや政権党と同じ体質だ。
 かつて私は「いまや社会党は自民党の看護婦になった」(『生きること、書くこと』―日本エディタースクール刊)と書いたことがあった。しかし現在の社民党は看護婦ですらない。使い捨てのホウタイだ。

■封建制度の復活

 比例ブロックに候補者をたてる場合、新制度では定数の2割以上を立候補させなければいけない。それだけの供託金は膨大であり、当選者がでなければ供託金は国庫に没収される。またテレビでの広告費も1回あたり3千万円かかるといわれ、これも政党助成金をもらっている大政党でなければできない。
 政党助成金制度は、国民からカネを吸い上げて、国民を縛るという制度であり、それに賛成した社会党の罪は万死にあたいする。
 いまや日本の政治は政党の独善にみちあふれ、談合政治になりはてた。与党政治家の多くは、ただ父親の地盤を受けついだだけであるから、彼らが住民運動、市民運動、労働運動の動きを気にすることない。
 親の七光りか、大政党のカネと組織票のバックアップがなければ当選は難しい。いまや市民運動などから国会議員を選出する道は完全に閉ざされてしまった。これは封建制度の復活ともいえる。これからは、みんな政権にスリ寄って推薦をもらうことに腐心するようになる。

■町内会レベルで国政

 小選挙区制は、選挙をきわめて矮小化した。小選挙区制で落選し、比例区で復活当選した山花貞夫議員自身が、「選挙区が狭くなって、運動がきめ細かくなった。200人の演説会より、10人、20人の座談会のほうが効果がある。どぶ板といえばどぶ板なんだが」といっているように、国会議員はきわめて狭い地域の利権を代表するというようになった。つまり国政を担当する政治家が、地域の利害で選出されるだけだ。
 国税と時間とのバックアップで生まれた国会議員が、町内会レベルの政治活動を余儀なくされるのが新選挙制度だ。選挙制度の改革とはいいながら、いっぽうでは企業献金はそのまま野放しにされている。大企業が政治家と政権党を支配する構造は変わっていない。まして小選挙区制は大政党に有利のため、そのすきまを狙う政党との談合で、ますます無党派の新人が国会にでる道は閉ざされる。
 このように大企業と官僚と七光り議員で国会が形成されて、かつて崩壊したはずの自民党の金権政治を復活させることにつながっていく。
 今回の衆院選挙の投票率が60%を切った背景には、いまや政治が政党同士の談合となれあいでしかなく、どこに投票しても同じ政党であるという翼賛体制に嫌気がさした選挙民が、投票を自主的に回避した絶望がある。

■ヒトラーばりのデマ政治

 いままで社会党を支持していたのは、自分でなんら運動を起こすことなく、社会党にだけ投票しておけば、日本の民主主義が守られるという幻想があったわけだが、いまはっきりと現実が露呈した。これから自分自身はどのように政治に参加していくのか、どういう市民運動をしていくのかが問われている。
 小選挙区制は、「政権交代を可能にする」というデマによって導入された消費税の導入もそうだが、日本の政治はヒトラーばりのデマ政治になってきた。
 比例区の導入は死票を復活させるという名目だったが、そのためならブロック制ではなく、全国区の比例代表制度で、小政党への票をすくう道をつくるべきだ。
 まして選挙制度の改革をするならば、たとえば日本で仕事をし、税金を払っている在日朝鮮・韓国人と外国人の選挙権をどうするかという問題が残っている。税金だけをとっておきながら、参政権をあたえないというのはおかしい。たとえば10年以上永住している者には選挙権や被選挙権をあたえるなど視野のひろい議論が必要だ。 とにかくこのまま大政党どうし談合が続けば、テロルかファシズムを呼びこむのはまちがいない。(■談)

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鎌田慧の現代を斬る/被災者見殺しは犯罪だ

■月刊「記録」1996年11月号掲載記事(記載は掲載当時のままです)

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■100人を超える孤独死

 阪神大震災から1年8ヶ月が過ぎ、この間の仮設住宅での孤独死は103人を超えた。死因は病死が90%を超えている。年齢別では60歳代がもっとも多い。
 最近では月に7~8人の被災者が死亡している。これは異常なことだ。大震災による6300人もの大量の死者は天災によるものではない。押しつぶされた家の奥に残っていた人達が、何の救いもなく悲惨にも死んでいったのは、人災によるものだ。
 地震列島にもかかわらず、人命救助が優先されない街づくりをしていた結果だろう。さらに日常生活の中で、100人以上の死者が発生したことは明らかに政治問題だ。住民の安全に責任のある行政が、死者の発生をいっこうにくい止められない事態は責任問題だ。
 9月29日に神戸市の人口島ポートアイランドの第6仮設住宅で亡くなった山下政夫さん(38)は、11月末に死亡していた。10ヶ月も経ってから遺体が発見されたということは、死んだ後10ヶ月ばかりか、生前から住居に誰も訪問していなかったということだ。38歳という年令に注目してほしい。
 仮設住宅は市街地からの交通の不便な場所に設置したこともあり、いったん入居したものの不便なために引っ越していく例も多い。そのため仮設住宅は櫛の歯が抜けたようになっている。これは仮設住宅を設置した思想が、人々にとっての生活の便利さを考えなかったことを示している。
 さらに問題なのは、かつて住んでいた地域をバラバラにして仮設住宅に配分したため、地域のつながりが断ち切られ人々のつながりを薄いものにしてしまったことだ。このような事態は、島原や奥尻の被災者などには見られなかった。ここにも神戸市などが進めてきた開発姿勢、つまり建物だけ作ればそれでいいというような思想が如実に現れている。人は人間的つながりを断ち切られては生きていけない。にもかかわらず行政の都市計画は、震災前から人のつながりを、まったく考慮に入れていなかった。
 家族や友人を失い、ひとり取り残されて生活する住民のストレスに対して行政は無関心だった。ストレスをやわらげるための人間的な手立てが、まったくなかった。このように人間の生活を考えない発想が、多くの被災者を見殺しにしているといっても過言ではない。
 島原、奥尻の場合は、同じ町内会の人達がおなじ場所に建てられた仮設住宅で暮らしていた。人のつながりは今まで通りのため、誰がどのような状態なのか、精神状態や健康などたがいに情報が交換できた。
 神戸の「103人目」の死者のように10ヶ月以上も放置されてた孤独死が報じられると、行政も反省しているかのようなコメントを発表するが、放置された遺体が発見されたのは、これが初めてではない。2、3ヶ月という例は、数件あった。まったく反省していない証拠である。なんら将来の希望を与えていなかったのだから、孤独死がなくなるはずもない。

■「仮設」のあとが決まっていない

 このような状況が報じられる一方で、阪神高速道路が開通し、いかにも復興が進んでいるように喧伝されている。たしかに神戸の町を歩いていると、焼け跡や瓦礫の山は片づけられ、空き地や駐車所になっていたりする。悲惨な体験は、外からでは見えにくくなっているのだ。神戸祭りや花火大会も開催され、地下街や繁華街の明かりも、震災前と同じようにまばゆいばかりだ。まちを歩く人たちも、あの時期の悲惨な表情は見られないように感じられる。
 もちろんいつまでも悲惨な状況に打ちひしがれているわけにもいかない。街に明るさが戻り、「復興」が進んでいることは喜ぶべきことだが、この「復興」だけがおおてをふって歩いているのは問題だ。死者や生き残った被災者の苦悩を受けとめないままの「復興」が進められている。神戸市行政は被害を拡大してたにもかかわらず、震災に対する反省がほとんどない。
 たとえば、笹山幸俊神戸市長は、瀬戸内海を潰して神戸空港を造る計画をいまだに変えていない。「交通のアクセスの多様化が必要で、防災面でも空港の重要性はました」と市長は発言しているが、ここにも建築物さえ造れば復興はことたりるといった発想がある。
 今年9月に行われた調査によれば、神戸市民向けの仮設住宅の入居戸数は27575戸で、57786人が仮設住宅での生活を余儀なくされていることがわかった。また今年の8月の調査では、神戸市内の旧避難所に260人(117世帯)、待機所には96人(62世帯)が暮らしていることが判明した。神戸市だけでもこれだけの人が不自由な環境で生活している。さらに公園などで生活している人も相当数いるのだ。この人達の落ち着き先はいまだに決まっていない。
 このような住居の不安に加え、失業の不安が被災者にダブルパンチを与えている。人間だれしも職業を奪われるだけで強い不安に襲われるものだが、それに加えて安心できる住宅を奪われ、家族さえ奪われている。そんなひとり暮らしの人達の不安の解消のために、政府と自治体が手を打つべきなのに、仮設住宅の使用期間は2年(3年に延びる場合もある)となっている。
 仮設住宅を出た被災者が、仮設住宅よりも安く住宅を借りられることはない。しかも低家賃住宅の建設は圧倒的に少ない。せまい空間に押し込められ、将来のあてもなく生活の不安がつきまとう状況では、病気、精神障害、自殺、アルコール依存症などをわずらうのは当然といえる。毎月、7~8人の死者を出して平然としている自治体の責任を、声を大にして追及すべきだ。

■人命よりも再開発

 被災者を追いつめているのは、地方行政だけではない。95年に村山富市首相が復興の特別立法には私権制限を服務処置を含むと発言して以来、政府はなんら軌道修正をしていない。死亡者ばかりか、不安に苛まれている被災者をも見捨てている。日本国家の方針は、どんな大きな災害が起こっても、被災者の私有財産に国が介入すべきではないと、言うきりだ。島原、奥尻でも公的補助は見おくられてきた。住民は特別立法を強く要求したが認められていない。神戸市民も公的補助を受けるために、市民立法のための運動を始めている。
 政府はいつまで個人補償を認めないつもりなのか。島原、奥尻は、それでもまだ被災者の数が少なく、義援金で息をつけた。ところが神戸のような大規模な災害になれば、国民の善意ではもはや解決できない。こういうときこそ国民の生活を擁護するのが国家の義務だ。
 住専問題のように企業と資本家を救うためには、さっさと血税を支払うのにもかかわらず、生き死にの苦しみをあじわっている人民を助けないとは、まるで戦争の論理だ。強い者が残り、弱い者が死んでいくしか仕方がないというのは淘汰の論理であって、人権や民主主義とは敵対する考え方といえる。
 再開発問題でも同じようなことが起こっている。災害に強い街をつくるという名目で、地方自治体は「減歩」という方式で市民の財産を、無料で没収しようとしているのだ。混乱とどさくさに紛れて公共事業を推進するのが、都市の再開発と呼ばれる代物だ。被災住民は救済するのが大前提だ。ところが震災以前に計画していた事業を強行するというのは、人命よりも事業という意識のあらわれである。
 そんな行政の姿勢に対し、いまなお根強い住民の反対がある。都市の再開発は被災者の住宅を中心にすえ、住み良い街につくり替えるべきだ。ところが大規模再開発によって、住民が土地を離れなければならないのでは本末転倒だ。残念ながら住民の立場に立ってまちづくりをしようとする政党はない。神戸市の「再開発」に諸手を挙げて賛成している。これはかつての労組の主張でもある。
 作家の小田実さんや市民運動家は、市民を中心とした再開発を行う「生活再建援助法案」を発表している。私もこのプランには全面的に賛成である。政府、官庁、政党に問題解決を陳情するこれまでの政治のあり方を根本的に変え、運動によって実態を変えていこうとするのは、自分たちの運命は自分たちで決めるという住民運動の姿勢である。
 最近はじまった第三次支給受付では、総所得が690万円以下の世帯に10万円の支給するものだったが、約15万世帯が殺到したという。被災者がいかに生活に困り、政府がいかに無策なのかを示している事例だ。
 地震国である日本では、さまざまな地域で大災害が見込まれている。政府と自治体による住民の見殺しを許さないことが重要だ。神戸住民の問題は、火山列島に住むわれわれすべての問題である。 (■談)

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もう一度バブルに踊ろう/最終回 クリスマスプレゼント狂想曲とその後遺症 

■月刊「記録」05年1月号掲載記事 

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 さて、問題はティファニーに敵対心を持っているかどうかである。
 クリスマスシーズンともなれば嫌でも視界に入ってしまう水色の袋を憎んでいることが、友人としての条件であろう。
 毎年、恋人もなく寂しいクリスマスを過ごし、「TIFFANY&Co.」と書かれた袋を下げたカップルに腹を立て続けているならベスト。恋人こそいるものの高額なプレゼント要求にホトホト嫌気がさし、ティファニーを嫌いになった男性もよろしい。しかし女性にも金にも苦労しないというなら、そやつはティファニー以上の敵である。 じつはクリスマスプレゼント高額化の歴史は、バブル以降のティファニー人気と密接なかかわりをもっている。このアメリカの老舗ブランドが日本で伝説を作ったのは1989年だった。バブル経済真っ盛り、日経平均株価が市場最高値を付けた年である。この年のクリスマス、ティファニーの銀座三越店は「売り切れ証明書」を発行したと話題を呼んだ。品切れで買えなかった男性客が恋人に釈明するため発行したという。経営陣が証明書発行を否定しているため真偽のほどは定かではない。ただこの噂によってティファニー人気は不動のものとなり、同時にプレゼント高額化の「戦犯」として記憶された。
 このころからクリスマス・プレゼントの人気投票で、ティファニーはダントツの1位を獲得するようになる。その一方で、91年1月7日の『朝日新聞』は「ホテル・ルームのゴミ箱からはティファニーの袋が山のように出てくる」と、プレゼント・宿泊費・食事代で数十万円もかかるイベントの象徴であるティファニーを揶揄した。

■家族から恋人にターゲットが移行

 では、どうしてバブル期のクリスマス・プレンゼントにティファニーが選ばれ、なぜプレゼント代は高額化したのだろうか?
 この疑問を解消するためには、80年代に起こった「クリスマス」の変容を理解する必要がある。しばしば指摘されることだが、もともと欧米のクリスマス・イヴは恋人と過ごす日ではなく、家族が集まる日だ。70年代までの日本も、そうした伝統に従っていた。80年代初頭ですらクリスマスのプレゼントといえば親から子へ贈るものであり、女性誌がクリスマス・プレゼントの特集を組むことなどなかった。その手の企画はバレンタインデーに集中していたのである。
 しかし1980年松任谷由実が発表したアルバム『サーフ&スノー』に、「恋人がサンタクロース」が収録された辺りから状況が変わってくる。家族に訪れていたサンタクロースが、対象をカップルへと移していったのだ。83年には、現在もクリスマスソングの定番とされる山下達郎の「クリスマス・イブ」がリリース。「一人きりのクリスマス・イヴ」を悲しむ風潮が一気に世に広まっていく。また同年12月24、25日には松任谷由実の「新さくら丸 クリスマス・コンサート」がスタート。横浜の夜景とユーミンと「恋人はサンタクロース」という必殺の組み合わせは、まさに恋人のためのイベントとして評判となった。
 こうした風潮を受け林真理子は『an・an』(1983年12月23日号)に「クリスマス・イヴなんか嫌いだ!」というエッセイを発表している。「来年こそ二人で――。毎年そう思いながら、寂しいイヴを迎えているわ。」という見出しから始まる文章は、独りで迎えるイブへの呪詛に満ちている。ただタイトル横に「イヴには、プレゼントどっさり。パーティーいっぱい。るんるん気分」、文中にも「イヴの日に何人もの男と会う約束をしてる女の子がいるじゃない」と書かれているところをみると、「本命の恋人とベッタリ朝まで過ごすのがイヴ」というバブル時代のクリスマスとは趣が異なるようだ。まだクリスマスパーティーにも、多くの若者が魅力を感じていたのだろう。
 そして84年にはワム!が「ラストクリスマス」を発表。数年後には街中で流れるクリスマスソングが、家族中心のクリスマスを象徴するビング・クロスビーの「ホワイトクリスマス」からラブソングの同曲へと変わっていく。
 こうした状況下で86年末からバブル景気が始まる。そしてティファニーの売り込み戦略がバブルとしっかりかみ合っていたのだ。87年10月にはティファニー社の会長が来日し、「カネ余りで高級化志向を強めている日本の消費者には、ティファニーの商品がぴったり」(『読売新聞』87年10月6日)と売り込みをかけている。当時の日本におけるシェアはわずか0.4%だったが、三越日本橋本店1階の店舗をティファニー社専属デザイナーの設計に基づいて大幅改装。ニューヨーク本店と同じイメージに仕立て上げている。
 こうした戦略に女性誌も反応し始める。88年9月15日号の『Hanako』は巻頭で「ティファニーのすべて」と題した特集を組んだ。翌年にはティファニーとカルティエを並べたてた記事がいくつもの雑誌で見られるようになる。
 しかも同年は13誌も女性誌が創刊された女性誌ブームだった。翌89年も11誌が新しく売り出されている。こうした創刊ブームの裏にあったのが、高級ブランドの広告増大だったといわれる。つまり広告とタイアップで女性誌が読者の購買意欲をそそるだけそそったわけだ。
 その上88年には皇太子が花嫁の条件を聞かれ「ティファニーであれやこれや買うようでは困ります」と発言した。これでブランドとしての知名度はさらに高まった。実際この年のティファニーは、三越の総売り上げの8.7%にあたる62億円を売りきっている。
 そして伝説が作られた89年のクリスマス直前、ティファニーの独占販売権を持つ三越は同社の株を買い増して筆頭株主となる。当時、人気商品の品切れに悩まされていた三越は、ティファニー社に強気で挑める万全の状態でクリスマスを迎えたのである。
 女性誌と皇太子(?)の後押しを受け、トップブランドに躍り出たティファニー。しかしカルティエなどライバルブランドを蹴散らし、クリスマス商戦でトップに立ったのはブランドイメージが確立したからだけではない。意外に思えるかもしれないが、当時、男性から選ばれた最大の理由は、その安い価格にあった。
 1897年のティファニーの国内売れ行きベスト30(『Hanako』88年9月13日)をみると、1~12位まではすべて2万円以下なのだ。トップのシルバーオープンハートが9000円、2位のビーンライターも9000円である。数十万のブランド品をプレゼントしたとされるバブル期のクリスマスの筆頭ブランドとは思えない値段だ。
 だがティファニーの戦略のうまさは、その価格帯の広さにある。当時大人気だったオープンハートでも、シルバーのminiなら5500円、Sなら9000円、Mなら1万7000円、18金のSなら5万6000円となる。だからこそみんなが買えたのであり、女性が求める金額も少しずつ上がっていったのである。
 バブル当時のクリスマスについて話を聞いた女性(36歳)は、「私はティファニーのゴールドしかもらわなかったよ。やっぱりねー」と話してくれた。ミスコン入賞者でもあり、それなりにモテた彼女にとってシルバーのティファニーは納得できない代物だったようだ。同じブランドでありながら一目瞭然にランク付けされる構造に、彼女を含めた多くの女性が踊ったのである。
 手を出しやすい価格を備え付けたティファニーに群がったカップルは少しずつ高額商品にも慣れしたしんでいき、年とともに他の高額ブランドまで買うようになってしまったのだ。もし、80年代後半にティファニーが販売攻勢をかけていなければ、多くの男性はブランド品のプレゼントを贈らなかったはずだ。バブル期とはいえブランド品を買う人が少なければ、「高いから」と断ることもできる。もちろん女性もおねだりしにくい。
  「大丈夫、そんなに高くないから」→「でも大きい方がほしいなー」→「やっぱゴールドでしょ」→「もうティファニーは卒業かな」。などと出世魚のごとく女性の金銭感覚を「成長」させることもなかった。
 あー、なんと罪深きティファニー。

■バブルの癖はなおらない!?

 しかもバブル期を過ごした女性のプレゼント癖はいまだに抜けていないという。
  『読売新聞』(03年12月18日)によれば、バブル期に20代で会社勤めをしていた37~43歳と20代の女性に今年一番もらいたい贈り物を調査したところ、両者とも3万円未満が最多だったが、37~43歳では10万円以上が36.6%もおり、20代の1.5倍もいたという。
 さらに恐ろしいことに、女性がプレゼントに希望する額は経済とは密接な関わりがない。プランタン銀座が95年から毎年行っているアンケート調査によれば、もっともプレゼントの希望金額の高かったのは、2002年の5万442円だった。ところがこの年の12月25日の日経平均株価は、95年から現在までのクリスマスで過去最低となる8501円。株価が実態経済を先取りしていると考えても、1年で17%も株価が下落しているなか、倍以上に希望値段が上がる理由など経済からは説明がつなかい。
 バブル期に女性の購買を引っ張った『Hanako』は、94年12月1日号で「速攻買いのクリスマス、これが私の欲しいもの」という巻頭特集を組み。エルメスやグッチ、ルイ・ヴィトンなどの高級ブランドの商品を紹介した。そのときに使われたリード文は次のようなものだ。
  「一昨年、昨年とがまんしてきたクリスマス。一番狙いは諦めて、セカンドチョイスでお茶を濁してきた。でも、がまんは体と心によくない。旬のおしゃれをいち早く楽しんで気分は上昇気流へ、今年は欲しいものが欲しい!」
 ちなみに「セカンドチョイス」でお茶を濁した92、93年のクリスマスの日経平均は1万7557円と1万7141年である。そして94年の日計平均は1万9633円。たしかに回復しているが、それでもバブルだった89年のおよそ半値でしかない。エルメスやグッチ、ルイ・ヴィトンなどの高級ブランドを買うほどの株価とも思えない。
 しかし、これがバブルを体験した証なのだ。変化した金銭感覚が簡単に戻ることはない。バブル期にブイブイ言わせてきた女性と付き合うなら、クリスマスの出費は覚悟しておくしかない。恨むならティファニーだな。
(■つづく)

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もう一度バブルに踊ろう/第6回 今からでも間に合う!? イヴのホテル!

■月刊「記録」04年8月号掲載記事

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 梅雨が明け、陽射しが肌を焼く。そんな夏への気配を感じたら、そう、クリスマスの予約である。
 うだるような暑さのおかげで、汗をかいたオヤジどころか恋人や猫にも近寄ってほしくないと感じる今日このごろだが、バブル時代の7月といえば恋人と過ごすクリスマスのホテルへの電話が恒例行事だった。予約受付が9月から始まるセンチュリーハイアットや東京ヒルトン、全日空ホテルなどを別にして、夏までに予約をしないと高級シティーホテルでのクリスマスイブは手に入らなかったのである。
 バブル時代を存分に楽しんだという37歳の知人の女性も、「バブルの時、ホテルの予約は夏までなんて言ってた、言ってた」と笑いながら当時を思い返してくれた。
 しかし夏までに動けば、すべてのホテルが予約できたわけでもない。
 91年11月4日『週刊読売』によれば、「当時の若者に一番人気の東京ベイエリア(千葉・浦安)のホテル群」は、「早いところは1月に、遅いところでも6月中には全室予約で一杯になったという。予約開始から1時間半で満室になったところもあるほどだ」と書いてある。
 げにおそるべきはバブル時代!
 最低でも3万5千円ほどする部屋が、半年以上前から埋まっていたことになる。さらに主要ホテルのイブを予約しておき、1万円ほどの手数料を上乗せして宿泊の権利を売り渡していた学生もいたというから驚きだ。
 今考えると、この熱狂がスゴイ!
  「キリスト教徒でもないから12月24日なんざ、ただの年末」なんて「言い訳」は通じない。彼女を保持するためには、シティーホテルぐらい当たり前という雰囲気があったのだ。
 好景気というものは、ここまで人を元気にさせるものだろうろうか? 
  「あの熱気よ、いま何処」ということで、新旧の人気ホテルにイブの予約状況を確かめてみた。 

■前日・当日の予約可能なニューオータニ

 まずは、あまりのドタキャンの多さに腹を立て、90年からクリスマス期間の予約客に、1泊分の前金を徴収して話題となったホテルオークラから。いわずと知れた日本を代表する高級ホテルのオークラなら、少しは予約も入っているかなと期待したのが、「最近は、クリスマスの前日・当日にご予約されるお客様もいらっしゃいます。1ヶ月ぐらい前のご予約ならお部屋を取ることは、まず大丈夫だと思います」とのこと。
 それならと、同じく名門のホテルニューオータニに電話をかけてみると、「クリスマスプランは、だいたい2ヶ月前ぐらいの発表となります。24日が平日の場合は、例年ですと当日や前日でもご予約ができる状況です」との答え。お得なクリスマス専用プランを企画しても、全室埋まるわけではないらしい。
 ならばバブル経済期、不動産などで大金を稼いだ「バブル紳士」に人気のあった赤坂プリンスホテル、通称「赤プリ」はどうだろう。
  「いつごろ予約が埋まってしまうのかは確実なことが言えないのですが、今の時点ではまず空いております」 9月の予約開始日には電話がかかりにくくなるという伝説を持つ西新宿のヒルトン東京も、「最近は事前の予約で部屋が埋まるということがないですね」と寂しげに語る。
 それでも品川プリンスホテルよりは、いくぶんマシかもしれない。
  「ダブルのお部屋は旅行会社に出しておりますので、お日にちが近づきますとお取りできないこともあろうかと思います。なるべく早めに確保という形でご予約をお願いいたします」
 名門・品プリにして、イブの夜が団体客で埋まる可能性があるらしい。
 ちなみに豪華な内装で最近、ジワジワと人気の上がってきている芝公園のセレスティンホテルは、「団体が入ると埋まってしまいます」とハッキリ言われた。イブの夜は、すでに個人の客をあてにする時代でもないということか……。
 今年のイブは金曜日。彼女と宿泊するならまたとない日程だと思うのだが、老舗ホテルの敷居はあまりにも低かった。
 そこで昨年11月、『TOKYO1週間』に掲載された読者男女500人が選んだ「憧れホテル 読者人気BEST5」に電話を。バブル時代の人気ホテルがそっぽを向かれていても、クリスマス前の情報誌で特集されたホテルなら話は違うはず。
 さっそく第1位に輝いたお台場のホテルグランパシフィック メリディアンに電話だ。
「10月ぐらいまでは、(埋まっていないので予約も)ぜんぜん大丈夫です」とのこと。現在人気のホテルさえ、2ヶ月前ぐらいからの予約で十分らしい。
 第2位の東京ドームホテルも、クリスマスプランができあがるのが10月ぐらいらしく、それほど早い予約も必要ないとのこと。
 第3位は先述した品川プリンスホテルで、第4位も先ほど書いた「予約で埋まらない」ヒルトン東京。第5位、汐留にできたばかりのパークホテル東京は、クリスマスプランの発表が夏過ぎてからのため、夏前から予約する必要なし、と。
 それにしてもイブのホテルを巡る状況は一変した。それにともなってホテル側の要求も変わった。バブル期、客の入れ食い状態だったホテル側にとって、心配の種はドタキャンだった。夏に張り切って予約したものの彼女と別れた男たち、あるいはいくつものホテルをとりあえず予約しておいて使わないホテルをドタキャンする人なども多かった。ホテルによっては、一晩で30室もの無断キャンセルが発生したというから深刻だ。
 こうした事態を防ごうと前金制にしたり、直前に確認書を送ったりするホテルが少なくなかったという。ところが今回の電話では、「とりあえず予約だけいかがですか」と、いくつものホテルから予約を勧められた。
 渋谷の駅ビルに入る渋谷エクセルホテル東急にいたっては、「個人様のご予約でしたら、前日・当日のキャンセル以外キャンセル料は発生いたしませんので、ぜひご予約を」と勧誘された。
 イブであっても、ホテルの状況は楽ではないのだ……。

■5つの勝ち組ホテルを支える、その施設

 イカン! バブルの熱気を取り戻すつもりが、すっかり不景気風に当たってしまった。
 さて、それでは満室のホテルは、まったくないのだろうか? いや、それがあったのだ。
 都内・横浜・千葉の人気ホテルに電話かけまくり、「満室」のという単語を耳にしたのは、わずか6回。まず、バブル期を再現したかのような人気を示したのが、ディズニーアンバサダーホテルと東京ディズニーシー・ホテルミラコスタの2店。そう、両方ディズニーリゾート内にあるホテルだ。
 この2つのホテルの予約は、宿泊の6ヶ月前と決められているが、なんと予約開始初日の朝のうちに12月24日の全室が埋まったという。7月21日現在、プレ・イブの23日にアンバサダーホテル5万3100円の部屋なら予約可能とのこと。
 上記2つのホテルとまではいかないものの、人気沸騰が続いているのが東京ベイホテル東急。4万円以上するダブル、5万円以上もするデラックスルームなども含めて満室。
 さらにサンルートプラザ東京とシェラトン・グランデ・トーキョーベイ・ホテルは、24日のダブルルームが満室。ツインルームに若干の空きがあるとのこと。
 しかし、よく見れば5つのホテルはすべてが舞浜なのだ。ディズニーランドやディズニーシーでクリスマスを楽しむカップルが、いっせいに予約しているだけ。ホテルが人気というより、クリスマスのディズニーランドが人気なのだ。
 都内および東京近郊のクリスマスホテル商戦は、ディズニーリゾート関連の独り勝ちといえる。業界2位も3位も総崩れ、1位だけが利益を上げ続ける構図は、最近の日本経済そのまま。せっかくはやっているホテルを見つけたのに、暗澹たる思いにとらわれた。
 そして、もう1つ「満室」という言葉を聞いたのが、新宿にあるパーク・ハイアット東京。名監督フランシス・コッポラの娘ソフィア・コッポラが監督した話題作『ロスト・イン・トランスレーション』にも登場する超高級ホテルだ。
  「12月24日のご予約状況ですが今はまだ空いてございますが、昨年は10月と11月に、いったん満室となっておりますので、お早めのご予約をお願いいたします」
 夏に予約がいっぱいになるまではいかないが、10月の段階で満室になるという話は、ディズニーリゾート近辺のホテル以外では聞けなかった代物だ。
 しかし1室5万円以上する高級ホテルが、2~3万円代のホテルより人気が高いのは、「持つ者と持たざる者」の格差が広まった証拠ではあるまいか……。
 あー、思い返してみれば、バブル時代はくだらないバカ騒ぎ連続だったが、今より経済格差は少なかった。好景気に支えられたサラリーマンも、アルバイト探しに困ることのなかった学生も、最高のクリスマスイベントに参加できたのである。
 2001年12月26日号の『SPA!』に掲載されたアンケートによれば、「今年のクリスマスに恋人と一緒に行きたい場所は?」という問いに、20代女性の半分近くが「高級シティーホテル」と答えている。少なくともこのアンケート調査では、「美味しいイタリアン」や「温泉」などを抑えて、20代女性の希望のトップである。しかし、そんな無駄遣いを多くの人がしなくなった。
 では、なぜしなくなったのか、それは次回のクリスマスプレゼント編で解説したい。(■つづく)

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もう一度バブルに踊ろう/第5回 マハラジャで見る盆踊りの夢

■月刊「記録」04年6月号掲載記事

         *        *         *

 どうやら巷では、80年代&ディスコがブームのようだ。
 昨年夏にはオリコンのアルバムヒットチャートのトップ50に、ディスコの名曲を集めたアルバムが3作品も入ったという。1979~80年の1年余り開業していた伝説のディスコ・キサナドゥが02年4月から青山で再オープンし、84~97年まで営業していたマハラジャ東京も昨年8月から再び店を開けた。ついでに、この連載が始まったのも今年1月である(いつも通りのこじつけですね、はい)。
 『記録』にしては珍しく流行を捕まえたか!?
 せっかくである。偶然とはいえブームに乗ったのだから降りるわけにもいくまい。で、見てきましたともマハラジャ東京。
 80年代後半、一世を風靡したマハラジャは入場が難しいことで知られていた。ジーンズなどの軽装はもちろん、入り口に立つ店員の「黒服」にダサイと判断されたら入れてもらえず、男だけのグループもダメ。女性グループを入り口付近でナンパして入場しようとする輩まで現れたのだ。当時もダサかった私は、入り口を眺めただけで満足したものである。
 そのうえ私は、15年たってもマハラジャ向きではない。毎日ジーンズで出勤しているため、スーツなんぞほとんど持っておらず、ダサイのも相変わらず。少し変わったのは、腹に脂肪が付いたことぐらいだ。それでもスーツは、取材用があるからよい。困ったのは同伴の女性だ。編集部の若いアルバイトに命令して付いてきてもらっても、客層が30~40代だから連れが店内で浮いてしまう。仕方ない。大学時代からの旧友にお願いしました。ご飯をご馳走する約束まで付けて……。
 と、ここまで気合い入れて六本木へとでかけたのに、マハラジャの敷居の低いこと、低いこと。店のあるビルには居酒屋やカラオケボックスが営業しており、肝心の入り口もほとんどフリーパス。しかも客がほとんどいない。私たちを含めて、わずか7人である。
「いやー、月曜日、火曜日は特にお客様が少ないんです。週末は2回転ぐらいするほど混むんですが」と黒服は言った。たしかに週の頭から遊ぶ元気など、30~40代にはありません!
 黒と金を基調にした内装は全盛期の面影を残し、お約束のマハラジャの象徴「金色の象」も置かれ、ミラーボールも回っている。しかし人のいない金ぴかディスコは、空いている遊園地と同じ。寂しさが漂ってしまう。フロアでは20代中盤とおぼしき2人の女性がパラパラを踊っていたが、とても一緒に踊る気にはなれない。
 仕方なく、私たちの隣の席でどんよりとした眼でフロアを眺めていた3人組女性の1人に声を掛けてみた。
  「私たちは7時半から来ているんですよ。入ったのは、一番で。しばらく踊っていたんですけど疲れちゃって」
 なるほど30代中盤、ほぼ同年代と思われる女性の顔には、色濃い疲労が見て取れる。
  「店が復活してから来たのは初めてです。若いときも、そんなに頻繁に来ていたわけじゃありませんよ。でも、昔はカッコイイ男の人もいたし、入り口で一緒に入っていただけませんか? なんて声を掛けられたりして楽しかったですよね。黒服の人も素敵だったし。まさか女の子5人しかいないなんて……」
 そりゃ、暗くもなるってもんです。このときすでに午後9時半。2時間いて入ってきた男は、私1人なのだから。
 ――失礼ですがおいくつですか?――とたずねると、彼女はブンブン手を振り、笑いながら「マハラジャの全盛期を知っている世代ですよ」とだけ答えてくれた。
 しかし改めて店内を見回すと、どうしてバブル当時、あそこまでマハラジャが流行ったのかと不思議に思えてくる。金ぴかで悪趣味な内装。オスカルの衣装かと見まがうような、赤の生地に金ボタンのたくさんついた「黒服」の制服。話もできないほどうるさい音楽。
 キャンペーン中だったため無料で入場したという3人組の1人も、「もう来ないかも」と呟いていた。3500円も支払った私などは、「もう絶対に足を踏み入れまい」と誓ってしまった。

■黒服が「特別意識」をくすぐる

 人が少なかったのを差し引いても、当時の熱狂はまさにバブルマジックである。ただし男がディスコに夢中になった理由は説明の必要さえない。女だ。
 89~90年にかけてディスコで遊んでいた川久保良幸さん(37)は、「ディスコの目的は出逢いでしょう」と単刀直入に語ってくれた。
  「うまく(女性を)つかまえられるときもあれば、ダメなときもあったよ。でも、女の子も期待してたんじゃない。今よりガードは堅いかもしれないけれど、とりあえず話は聞いてくれたからね」
 ところが女性に当時の話を聞くと、様相は若干変わってくる。やはりバブル期にディスコでよく遊んでいたという山口美由紀さん(39)は、「男は風景の一部だった」と、当時を思い出してくれた。
  「かわいい女の子とつるむために、ディスコに行ってたような気がする。ナンパもされたけれど、ついて行くこともなかったし。でも、ディスコの男の子って、キラキラしてみえたのよね。よく見るとブサイクだったりするんだけど(笑) ディズニーランドと似ているかな。ドレスアップして、別世界にいるのが楽しかったんだ」
 84年頃、高校3年のとき友達に誘われて六本木のディスコに通ったという好川あずささん(38)の思いも、山口さんと近い。
  「どうして、こんなところに誘うんだろうと思っていたけれど、行くこと自体が『あー大人じゃん』って感じてた。大人への通過点ですかね」
 2人の女性のディスコに来る目的は、踊りでも、男でもない。ドレスアップしないと来られない、あるいは大人じゃないと楽しめない、少し背伸びできる空間だった。
 じつはディスコ経営者の狙いも、こうしたところにある。マハラジャをつくった会社の社長である菅野諒氏は、『ザ・ビッグマン』という雑誌で次のように語っている。
  「日本人はみんな新貴族階級になりたいと思っているんです。その特別意識をくすぐるのがマハラジャ・コンセプトです」
 日常生活で遭遇することのない豪華な内装デザインも、入り口での服装チェックも、「特別意識」を育てるための仕掛けらしい。また、この戦略はバブル経済によって自分を中心に世界が回っていると感じている人々に共感を持って迎えられた。一方で、そうしたコンセプトは、しだいに客を遠のかせる要因ともなっていく。
  『ジュリアナのお約束』(パラス出版)という本では、マハラジャやエリア、シパンゴなどバブル期に栄えたディスコの末期症状を、次のように書いている。
「バブル時代の絶頂期、アブク銭をつかんだバブルオヤジが金で買えないものはないって感じで黒服とつるみ始めた。金のない黒服にチップをはずみまくって、VIPを取っては、黒服に女の子を連れて来てもらっていた」
  「特別意識をくすぐるため」に使われた黒服は、入り口でのチェックやVIPの認定などの仕事によって、自らが特権階級となり、その構造をバブル成金が利用しちゃったというわけだ。
 こうした状況だったから、バブルの終焉が近づくととともにディスコは減少した。85年に59店あったディスコは、88年には69店、さらに90年には88店舗と年々増え続けた。しかし91年81店と一気に減少に転じている。92年には、カラオケボックスやレストランにくら替えする店も多くなり、元気なディスコはお立ち台で有名になったジュリアナ東京だけという状況にまで落ち込んだ。
 では、どうして同じディスコのジュリアナ東京が、それだけ人気を誇っていたのだろうか? その理由の先述の『ジュリアナのお約束』では、「ゴールド(※筆者注:90年芝浦にできたディスコ)では日常の中の非日常を演習しようとしているが、ジュリアナはあくまで日常の遊び場を追及」と説明している。
 黒服が特権を持つことも、客に特別意識を持たせることもなくなった。その結果、客層は若くなり、露出もナンパもよりオープンになっていったのである。
 では、この「特別意識」くすぐりだけが、バブル期のディスコを盛り上げたのだろうか? いやいや、それはちょっと違うようだ。
 じつはバブル期とその前後のディスコと比べると、面白いことがわかってくる。
 現在39歳で高校1年から六本木のキサナドゥなど、いわゆるサーファー系と呼ばれるディスコに週2~3回通っていた柏原知恵さんは言う。
「憧れのすべてがディスコにあったんですよ。ファッションも音楽も人も。ディスコには、慶應や聖心女子大の学生、広告代理店や商社のサラリーマンが来ていましたね。当時のスーツが格好よくなかったので、サラリーマンは私服でした。みんな素敵な人たちでした。常連同士がみんな知り合いで、今でも連絡を取っている友達もいます。ディスコを出て、朝までキャンティーで飲んでたりするのも楽しかったな。
 バブルになってからのディスコは、ドレスコード(服装チェック基準)がどんどん高くなっていったんですよ。私の好きなファッションでもなくなって、付き合いで行くことはあっても、なんか違うと思ってました」
 一方、現在35歳でバブル期に、ディスコではなくクラブのはしりに通っていた飯田久子さんは、ディスコとクラブの違いを次のように説明してくれた。
  「クラブの方が服装も自由だし、何より音楽の種類が違うの。踊ることより、音楽にこだわっているというか。ディスコは、『みんなで同じ格好して、同じ振りで踊りましょう』って感じでしょ。あー、国民的な盛り上がりだなと思ったもん。もちろんイベントとかでディスコに行くときは、私もボディコン着たけどね」
 バブル前の六本木のディスコは、たしかに服装チェックはなかったかもしれない。しかし逆にファッションや会話も含めて、ある種の基準に達しなければ遊べない場でもあった。イタリア料理の名店として名高いキャンティーで朝まで飲むなど、それなりに遊んでない人には居心地が悪いに違いない。
 つまり服装チェックを設けることによって、マハラジャは「特権」を庶民に開放したのである。服さえ着れば仲間になれるなら、同じ服を買えばいいのだから。
 そうした雰囲気を、飯田さんは「国民的」と感じたのだろう。ディスコ崩壊後、音楽の趣向によって細分化されたクラブが全盛となり、ファッションや振り付けが決まっていたディスコは衰退していく。一方で、経済も横並びの年功序列が崩壊した。つまりバブル期は、集団が一緒に同じ夢を見られた最後の時期だったといえる。企業を村社会に、ディスコを盆踊りに例えると、当時の雰囲気がよく伝わるかもしれない。そして上京した元ディスコキングやクィーンは、村の盆踊りのために里帰りするのである。  (■つづく)

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もう一度バブルに踊ろう/第4回 バブル入社組への呪詛が聞こえる

■月刊「記録」04年4月号掲載記事

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 「拘束旅行」「オセロ」「4S」。さて、この3つの言葉に関係するのは、何でしょう? 
 言葉の意味を覚えている人など、ほとんどいないだろうが、正解は就職活動である。もっと厳密にいえば、バブル期の就職活動だ。
 今ではウソのような話だが、当時の企業はとにかく人手が足りなかった。1989年には、大学卒業予定の男子学生の3人に2人が上場企業に就職でき、平均で1人3.2件もの求人があったのだ。そうなると企業と学生の力関係は一変する。何がなんでも新卒の人材を確保したい企業は、なりふり構わぬ学生の囲い込みを始めた。
 そうした状況で生まれたのが、冒頭の3つの言葉だ。  「拘束旅行」は、内定を取り消して他社にいかないよう会社訪問が正式に解禁となる8月20日前後に、学生を旅行に連れ出すこと。
  「オセロ」は、学生が内定を取り消すこと。
  「4S」とは、OBが学生確保のために後輩を接待する場を指す。サウナ、すし、ステーキ、ソープランドの略だという。
 いやはや好景気はスゴイ! 現在、数千人単位でリストラを断行している企業が、わずか15年ほど前には学生にオンナをあてがって自社への就職を説得し、他社へと逃げないよう旅行にまで連れ出していたのだから……。 にわかには信じがたい話だが、こうしたリクルート活動は、当時の新聞や雑誌を幾度も報じられている。
 銀行や証券の間ではやったのは、「電話内定」だという。資料請求のハガキを投函すると、何度か電話がかかってきて、その後、指定された日に会社に行けば内定をもらえる仕組みだ。国公立大学や有名私大の学生なら、会わなくても採用というのだから尋常ではない。
 頭数だけ揃えるなんて、徴兵した軍隊じゃないんだから。それとも突撃するためだけに集められた「捨て駒」だったのか? そう考えると、現在、バブル入社組が大量リストラの危機にさらされている理由もわかる。
 90年8月20日の『朝日新聞』は、内定者を東北の温泉に連れ行く商社や、東京ディズニーランドに連れて行く金融会社があったと報じた。
 また、コンピュータ会社から6月に内々定をもらった学生のコメントも掲載している。
  「内々定をもらった時に、9月上旬に工場見学を兼ねて、米国西海岸に連れて行く、といわれました。早い人は、7月ごろにもう行っています」
 なんと海外。
 しかし上には上がいる。某外資系企業は、学生を香港に1ヶ月連れて行ったという。
 こんなの一部の企業だけだと思う読者もいるだろうが、それは大間違い。88年夏に日本経団連内に設けられた就職協定協議会の「拘束110番」には、400件を超える電話が殺到した。そのなかでももっとも多かった相談事が「国内、外の宿泊研修旅行の強制」だ。その数、なんと223件。
 こんなことが悩みだったのかという気もするが、仕方がない、それこそがバブルだったのだ。目の前の人手不足に加え、90年代後半からは若年労働者が減っていく。こうした現状を前にして、企業はどうしても頭数をそろえておきたかったらしい。
 90年に経済企画庁(現・内閣府)の発表した調査結果によれば、70.7%の企業が人手の「不足感」を持っていることが明らかにされ、その結果として48.5%の企業は、残業が増えたと答えている。つまり人手を確保できなきゃ、その分の仕事は寝る間を惜しんで社員が片づけなくちゃいけないわけだ。
 そうしたプレッシャーをかけられた就職担当の社員も、気の毒であった。
  「100人採るには、300人の内定をださなきゃだめだ。そのためには、3000人以上の学生とあわなくてはならない」(『AERA』89年7月18日)
 証券会社に入社した慶應大学OBの発言である。この人たちが、現在、採用したバブル組入社組のクビを切りまくっているかもしれないと考えると、巡る因果に思いを馳せざるを得ない。
 当時、高飛車な学生に苦労させられた人は、彼らのリストラに同情する気さえ起きないだろう。いやはや、調子に乗りすぎるとツケは後からやってくる。調子に乗れる環境にいたことすらない私が、肝に銘じてもせんないことではありますが。

■「固50~60万円」は不動産ならあり?

 こんなお祭りのような就職活動なら、フジテレビジョン製作で就職活動がトレンディードラマ(死語ですね)として映画化されたのもうなずける。
 1991年に公開された織田裕二主演、『就職戦線異状なし』。早稲田大学社会科学部に在籍する主人公が、テレビ局の入社試験を通して成長していく青春ドラマだ。
 いや、内容が軽い軽い。バーで就職担当者を殴ってしまった主人公が、テレビ局に受かってしまうのだから。  「『徳島への転勤は大丈夫ですよね』とか聞かれて、『全国、どこへでも行きます』と即答できいないと、次回の面接はもうありません」
 そう教えてくれたのは、昨年、就職活動を経験した早稲田大学の卒業生である。担当者を殴るどころか、転勤にひるむ姿すら現在の就職活動では致命傷なのだ。
 彼女によれば、説明会など就職活動に動き始める時期は大学3年の12月。1日3社もの企業を回って3ヶ月、やっと希望に合う中堅企業に内定したという。
「20人ほどのゼミの仲間でも、就職に失敗して留学に切り替えた人が3~4人。同じく就職が決まらなくて、大学院に逃げた人が5~6人ですね。
 だから就職できた人は半分ぐらいでしょうか。誰もが知っている有名企業に現役で入った人は、1~2人。出版社に入りたくて、風俗系の求人誌に就職した人もいましたよ」とのこと。
 天下の早稲田が、である。バブル期なら何もしなくても、電話で内定のもらえた早稲田がである。バブル入社組に対する呪詛の声は、下の世代からも響いているようだ。
 ちなみに早稲田の文系は、大学ごとに説明会を開く企業のランクでは第3グループだという。理系有名大学、国公立の下と。大手コンビニの説明会などでは、こうした順列通り3回目の説明会に呼ばれるとか。
 今、就職活動をテーマに映画を撮ったら、お涙ちょうだいモノになってしまう。少なくともフジテレビは製作しない。 
 今回、資料を読み込むうちに、何だか切なくなってしまった。子役で一世を風靡した人の没落を見ているような。バブル入社組の悲惨を耳にしてくいるからだろうか。あー、書いても書いてもバブルに踊りたくならないのが悲しい。 (■つづく)

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もう一度バブルに踊ろう/第3回 いたたまれない恥ずかしさの秘密

■月刊「記録」04年3月号掲載記事

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 イタタタタッ、イタイ! 
 突然だが、幕張はイタイ街である。
 学生時代の女友達から電話で自宅に誘われ、頑張ってオシャレをして出向いたら、ネットワークビジネスの勧誘だったとか。昔の日記を読み返してみたら、「モテるためにはブレイクダンスを練習しなくちゃダメだ!」と本気で書いてあったとか。そんないたたまれない気まずさを、そこほこに隠し持っている街なのだ。
 例えば、幕張の高層オフィスビル「ワールドビジネスガーデン」の一階吹き抜けには、椰子の実に見立ててランプが取り付けられた金色の椰子の木が10本近く並んでいる。電柱より高い金ぴかの椰子型街灯をイメージしてもらえればよい。見た途端、私は叫んでしまった。「あー、やっちまった」と……。ちなみに、このワールドビジネスガーデンは、マリブウエストタワーとマリブイーストタワーの2つの高層ビルを持っている。このネーミングもイタイ。
 計画面積437.7ヘクタール、居住人口約2.6万人、就業人口約10万人になるはずだった幕張新都心。キャッチフレーズは、「21世紀を展望したわが国最大級の未来型都市」だ。東京湾を埋め立てたまっさらな土地に、業務研究・商業・文教・住宅の4つの要素を計画的に配置して、情報ハイテク産業の中心地に仕立て上げる予定だったという。しかし計画推進中にバブルが崩壊。研究所や支社を造る予定だった企業、進出予定だった百貨店などが軒並みに計画を撤回した。
 おかげで先ほどのワールドビジネスガーデンや、ツインタワーが目印の幕張テクノガーデンなどのビジネス用の賃貸ビルも、陽が落ちると明かりの灯らない階が歯脱けの状態で浮かび上がる。商業地区の分譲にこだわっていた千葉県も、1999年から土地の貸し付けを解禁し、20年の契約でフランスのスーパー「カルフール」やアウトレットモールなどを誘致したという。体裁など構っていられない窮余の策である。

■ちょっとだけ「エエカッコしい」

 「典型的なバブル計画の失敗ですね」と総括したいところである。しかし幕張を歩いて感じた違和感は、どうもバブルの熱狂だけでは片付けにくい。
 バブル時代の計画はバカらしいほど楽観的で、振り返れば「無茶やってたぜ、俺たち」と呟きたくなる。ともすれば青春映画のような甘酸っぱさを感じるものだ。一方の幕張には、「若さ」では括れない恥ずかしい勘違いが含まれている。
 この勘違いの秘密を読み解くためには、幕張新都心の歴史を少し紐解く必要があろう。
 幕張の埋め立てが完了したのは、1980年。当初、この土地は学園都市になる予定だった。しかし誘致の目玉だった早稲田大学にそっぽを向かれ、研究開発機構と学術教育機能を担う未来都市へと計画を変えたのである。
 そう、ここで重要なのが学園都市から引き継がれた「教育」という柱だ。清く正しい場にしたい。そんな意思が、幕張の都市計画のバックボーンに働いている。つまり、ちょっとだけ「エエカッコしい」なのであった。
 例えば、幕張新都心の中心的な存在である幕張メッセについて、建設プロジェクトに深く掛かった通産省顧問の福川伸次氏は、『幕張メッセを創った男たち』(現代日本社)で次のように語っている。
「展示場でただ、モノをみせたり、ちょっと実演したりするだけではなくて、多くの人が集まるなら、それだけ人と人の知的交流の場にしていかなければならない。交流することで、互いの知的蓄積を高めていくようにできたら素晴らしい」
 また、見本市や展示会などのコンベンション産業が、日本文化に向いている理由も、次のように解説している。
「日本人はたいへん祭好き。自分たちの持てる技術や文化的な素養はすべて祭りに集約させてきた。さまざまなイベントも、その中に溶け込んできた。つまり、日本人は文化と産業を融和させる伝統を持っている」
 幕張メッセのドル箱企画が、コンパニオン目当てで男が集まるモーターショーと、オタクの集まるゲームショーであるという現状さえ考えなければ、実に説得力に富んだ話である。
 いや、日本の村祭りは夜が深まるにつれて乱交に変わっていったという歴史的事実や、オタクの「知的蓄積」は並みではないという現実を考えれば、完全にメッセの未来を見通していたとも言えるが……。
 さらにエエカッコしいの方向を強化したのが、80年代に起こった情報化社会への過度な期待であった。
 例えば、86年11月から8ヶ月間にわたって定期的に開かれた「情報化未来都市構想検討委員会」では、情報化未来都市に働く国際ビジネスエリートを、中間報告書で次のように想定している。
・国際的な業務に従事しており、活動の場が国際的である
・広域な人的ネットワークを有し、人的交流機会が多い
・海外出張をはじめとして、国内外での移動の機会が多い
 この定義には、大手企業が大量に雇う情報系派遣社員など入っていない。まして研究と仕事に忙しい理系エリートが、「人的ネットワーク」の乏しさから結婚さえできないという現実は、予想すらしてなかったようだ。
 ただし「持続的な緊張感による精神的ストレスの発生」などは予期しており、「心身のリフレッシュ、リラックスによる活力回復」のためにも「職・住・遊の融合によるアメニティの高い複合的な街づくりが必要」だと結論づけている。
 さて、そのアミューズメントだが、「ウィークエンドや夜も人の集まる場として、国際的レストラン、24時間対応のショッピングゾーン、各種ショーやコンベンションを行う施設が必要」らしい。
 さらに「海洋性プレジャー、ハイテック・ハイタッチなマシーン、空間による擬似体験、コンベンション、アスレ・ヘルス、ショッピング、グルメ」がアーバンリゾートには必要だとも書いている。
 もうカタカナが多すぎて訳がわからんが、とりあえず赤ちょうちんで一杯なんてのは、どこにも入っていないようである。

■「房総はカリフォルニアになる」

 こうした分析に使われたアンケート調査などからして間違っているので、結果のお粗末は仕方ないのかもしれない。例えば資料として添付してある「日常余暇の実態と希望」というアンケート調査では、「最近の週末にしたこと」で最も多いのが「テレビを見る」で46%。それが「休暇が増えたらしたいこと」では4.6%に減少し、代わりに「一泊以上の国内旅行」が45.6%でトップになっている。
 断言してもよい。このアンケートに答えた人のほとんどは、休暇が多くなっても旅行には行かない。「あーあ、テレビ見てダラダラ過ごしちゃったよ」という後悔が、アンケート結果に表れたに過ぎないからだ。
 このような未来都市住民への勝手な思い込みは、幕張の都市計画において中心的役割を果たした人物の暴走によって、さらに発展していく。
「房総の温暖な気候からすれば、太陽と海とカリフォルニアのライフスタイルの実現はそう難しいことではない。(中略)房総はカリフォルニアになるのである。もはや千葉を千葉としてとらえることがまちがっている。だから、幕張は“千葉的でないものを”という発想からとり組んだのである」(『幕張メッセの全貌』ダイヤモンド社)
 いかん、遠いところに行ってしまった……。
 いや、誰が悪いわけでもない、たぶん。ただ知識人と一般庶民の感覚が違っただけだ。
 故・ナンシー関氏は、「日本のほとんどはファンシーとヤンキーで出来ている」と喝破した。キティーちゃんが大人からも好かれ、『成りあがり』を書いた矢沢永吉が武道館を満員する国。それが日本なのである。ハイソの趣味など合わないのである。
 サービス残業のオンパレードでコンピュータに向かい続け、休日は眠るしかない。それが情報産業の労働者なのである。
「会社から飲みに行くときは、大概、会社のビル内にある居酒屋です。面倒くさくないですし。ただ、ここは街に人間味がないですよね。テレビで見る平壌のようです」と、幕張の大手企業で働く情報系技術者は答えてくれた。
 「海洋性プレジャー」や「ハイテック・ハイタッチなマシーン」などより必要なものが、この町にはあるようだ。 (■つづく)

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もう一度バブルに踊ろう/第2回 海辺に巨大プールを造り、テーマパークで別荘を売る

■月刊「記録」04年2月号掲載記事

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 バブルといえば、そう、リゾートである。
 今や「リゾート」なんて言葉自体とんと見かけなくなったが、バブル真っ盛りのころは、猫も杓子もリゾートに踊っていたものだ。
 1988年5月28日号の『週刊東洋経済』は、「ニューサービス――明日の生長産業」という特集で「リゾート、レジャーランド」を取りあげている。「千億円単位の大計画が続出」というタイトルが、今読むとちょっと悲しい。
  「一億総余暇時代」なんてノーテンキな言葉まであった。誰もが暇と金を持て余すようになると、なぜか多くの人が思い込んでいたのだ。だからリゾートが必要とも。
 あー、素晴らしき楽観主義!
 サービス残業当たり前で、起きてから寝るまで働くしかない。余暇があるのはリストラされたとき。そんな近未来を想像することさえできなかったのだ。
 “バブルマジック”恐るべし。
 もちろんお気軽ムードを盛り上げる政策を、きちんと政府も用意した。総合保養地域整備法、通称「リゾート法」である。「ゆとりある国民生活の実現と地域の振興を図ること」を目的として作られたリゾート法は、都道府県が構想を練り、国が承認するシステムを取る。見事、国から計画が認められれば、課税は優遇されるし、融資の支援だって受けられる。
 経済基盤が弱く、地域活性化の核を探していた地域ほど、このリゾート法に飛びついてしまった。ドカーンとリゾート施設を造って、ドカッと観光客を呼び集めよう。そういう思いとバブルの楽観主義が、採算を無視した巨大施設を作りあげたのである。
 まあ、気分はわからないでもない。
 さて、そうしたバブリーなリゾート施設のなかでも、もっともお気楽さを感じさせるのが、宮崎県のシーガイアである。88年にリゾート法の指定第1号を受けたが、その規模がすごい。
 総事業費が、なんと2000億円。高層ホテルやコンベンションセンター、ゴルフ場など、バブルリゾート「三種の神器」ともいえるハコモノを配し、さらに世界最大の室内プールまで作ってしまったのである。その名もオーシャンドーム。
 全長300メートル、幅100メートルのドームは、屋根が開閉式。夏ともなれば、屋根が開かれ野外プールに早変わり。熱い陽ざし浴びながら、波の出るプールでゆっくりくつろぎ、夜は隣接する豪華ホテルに宿泊できるという算段だった。
 ただし立地は、海の隣なんですけどね。
 海水浴は夏しかできない。しかもベストシーズンが台風の到来と重なりがちとなる。そんな事情を一気に解決するっていっても、海に隣接した波のプールに数千円を支払うのは、どこか納得のいかないもんでしょう。やっぱり。
 自慢ではないが、このバブルリゾートに私は行ったことがある。
 シーガイアを運営する第三セクターが、計3261億円の負債を抱えて会社更生法適用した01年2月の直前だったためか、とんでもなく宿泊費が安かったのだ。オーシャンビューの部屋は、セミスイートかと思うほど広く、朝には人生で一番とも思える朝食をいただき、1人1万数千円。
 シーズンオフの冬だったが、常夏のオーシャンドームは快適そのものだった。ただプールで滑り台を滑ったり、子ども騙しのアトラクションに乗ったり、波に揺られたりする以外、何にもすることがなかったのだが……。 会社更生法の申請手続きに踏み切ったとき、佐藤棟良前会長は「長期滞在型施設は、日本人の生活になじまなかった。リゾートの意味が分からずに、遊ぶ施設を造れば人が来るという安易な考えがあった」(『AERA』2001年10月29日号)と涙ながらに語ったようだが、確かに典型的な日本の私には、長期滞在どころか半日でも時間を持て余してしまった。じっとしていることの苦手な貧乏ライターなど、施設のターゲットにもなっていなかったのだろうが……。

■テーマパークでの定住を提案

 リゾートを取りあげるなら、長崎県のハウステンボスに触れないわけにもいくまい。92年3月開業以来、経常赤字のまま03年2月に会社更生法を適用。すっかり勢いを無くしてしまったテーマパークだが、その志はなかなかのものである。
 「エコロジー(生態系や環境の保全)とエコノミー(経済)の共存」をコンセプトに作られ、2200億円初期投資のうち600億円を環境対策に使ったという。法律に定められた基準より4倍厳しい廃水処理するなど、その徹底ぶりは驚くばかりだ。
 しかしオランダ人が見ても納得するほど精巧なオランダの街を作りあげ、定住できるアミューズメント・パークとして運営するのは、やはり無理があったのだろう。 定住型リゾート実現のため、1戸平均1億5000万円の別荘や平均6300万円もするコンドミニアムも発売されてもいた。バブル期は予約が殺到したと伝えられたが、バブル終焉とともにキャンセルが続出。大幅値下げをしたものの、現在でもほとんどが売れ残っているという。
 よくよく考えてみれば、金を持っているなら「日本のオランダ」に別荘を持つ必要などない。オランダでホテルに泊まればいいわけだし。どんなに建物を似せても、外は日本。しょせんテーマパークでしかないのだから。 私事になるが、まだ若かりし頃「東京ディズニーランドみたーい」と誉められながら(?)、女性に振られたことがある。当時はよく意味がわからなかったが、今なら理解できる。一緒に数時間いるのは楽しいが、浮世離れして落ちつかない人とは付き合えない。そんな意味だったのだろう。
 つまりテーマパークなんかに定住するヤツはいないってことだ!
 高級志向のホテルも、経営の足を引っぱった。
 ハウステンボスを作りあげた人々の活躍を描いた『ハウステンボス物語』(プレジデント社)で、ホテル群の経営責任を担っていた窪山哲雄・NHVホテルズインターナショナル社長の次のような言葉を紹介している。
「集客戦略面からはHanako族も修学旅行の生徒も大切です。しかし、全体の雰囲気をリードし、社会を動かしていくのはデシジョンメーカーの人たちです。(中略)だからぼくは、ハウステンボスのホテル群はホテルヨーロッパを中心にデシジョンメーカーの人たちを対象としたものである、という明確なコンセプトを作り、ハード、ソフト、ヒューマンウエアにわたって、そういう層のお客を想定したホテルづくり、運営計画を進めている」
 まず初めに言葉がわからないので、調べさせていただきました。「デシジョンメーカー」とは、意思決定者のことらしい。つまり企業などの要職にあり、ホテルにいろんなお客さんを引っぱってこれる人という意味ですね。
 平たく言えば、金持ち用に施設である、と。Hanako族の口コミより、デシジョンメーカーが決定するコンベンションや会議、研修のほうが客を連れてくると踏んだのだろう。
 しかしデシジョンメーカーでさえ無駄な金を使えない時代は、このとき目前に迫っていたのである。
  『ハウステンボス物語』では、ハウステンボス宮殿の復元において、レンガとレンガの間が本物より2ミリ広いことが発覚し、4000万円かけて200平方メートルのレンガを張り直したエピソードが紹介されている。この措置によってオランダ政府から強い信頼を得たというある種の成功秘話だが、現在では更正法適用を暗示させる話にもとれる。
  「当初総事業費千億円余りで開始したが、工事費が膨張、最終的に約2200億円に拡大。初めから過大な有利子負債を抱える一方で、入場者数は景気の失速で計画を下回った」(『読売新聞』03年2月28日)という更正法の申し立て理由を知ればなおさらである。
 しかしシーガイアとハウステンボスは、テーマパークとしてはまだまだ優良な部類に入る。帝国データバンクの調べによれば、少なくとも99年度の売上高ランキングでは、396億円のハウステンボスが2位、186億円のシーガイアが3位だったのだから。

■「協調と平和の惑星構想」のテーマパーク

 2000年8月に解散した熊本県荒尾市の三セク「アジアパーク」ともなると、もう何がコンセプトかすらわからない。
 発端となったのは、九州を一大観光地域にする87年の「九州アジアランド構想」だったらしい。このプロジェクトに乗り、荒尾市が「コンコルディア・プラネット(協調と平和の惑星)構想」をぶちあげ、93年7月にアジアパークが開園したという。
 すでに競走馬みたいな構想名からして理解できない。協調と平和はまだしも、惑星? それがアジア??
 このテーマパークの売りは、アジアの遺跡や建築物のミニチュアをボートで見学するアトラクション(?)だった。ところが水路の長さは、わずか460メートル。
 人の背丈ほどのタージ・マハールをボートから見て、何が楽しいというのだろう。『週刊朝日』の取材が訪れた際、このアジアパークの元社長は、「荒れた姿を見せるのは、アジアの人たちに申し訳ない」と撮影を拒んだとのことだが、テーマパークの存在自体が申し訳なかったといえなくもない。
 隣にある三井グリーンランドというアトラクション中心のテーマパークから流れる客をあてにしていたという報道もあり、開園当初から先は見えていたのだろう。
 そもそもテーマパークは、リピーターを獲得していかなければ立ちゆかない。そのため客寄せとなる新規のアトラクションが、毎年必要になってくるのだ。テーマパークの筆頭勝ち組といわれる東京ディズニーランドでさえ、新規のアトラクションを作り続けているのだから。 それにしてもバブル期の事業は規模がでかい。そんな心意気を見習いたいと思いつつ、カレーチェーン店の特売日をメモってしまった。反省……。 (■つづく)

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ユダヤ教は世界征服を狙っているのか?/日本ユダヤ教団 アーネスト・サラモン理事長と宇野正美氏に聞く

■月刊『記録』95年8月号掲載記事

■ユダヤ世界征服は冒険活劇/日本ユダヤ教団 アーネスト・サラモン理事長に聞く

■他の民族と同じ
------ユダヤ人の陰謀説が書かれている本がずいぶんと出版されているようですね。

 日本で出回っているユダヤ人陰謀説の本は、まるで冒険ものだ。ものによっては、侵略に来た火星人がユダヤ人に化けている話まで載っている。全くお話にならない。オウム心理教も、ユダヤ人が世界を支配しているかのような言動で終末思想を煽っていたようだが、これもセンセーショナルな話題を狙ったものだろう。

------ユダヤ人に対する迫害としての危機感はありますか?

 ユダヤ人陰謀説の本が売れているといっても、日本国民の1%も読んでいない。まして内容を信じる人は、読者の1%未満だろう。陰謀説が一人歩きする心配はしていないし、危機感もない。読む側も冒険ものとして読んでいるのだろう。

------ユダヤ陰謀説は、ユダヤ人が一枚岩のように書かれていますか。
 確かにユダヤ人は世界各国に散らばっており、宗教的には国を越えたつき合いがある。例えば、私達は旅行で訪ねた地方のユダヤ教徒と共に祈り、共に宗教的儀式をとり行うことができる。しかし、ユダヤ教を信仰しているといっても、生活している場所によって言葉は違う。ユダヤ人が世界を支配するために密接に連絡を取り合っているような誤解もあるようだが、言語の壁がある。またビジネスにおいては、ユダヤ人なのかそうでないのか分からない。それは、カトリックでもプロテスタントでも同じだろう。例えば、米国の銀行にもユダヤ人はいる。しかし、互いに同じ民族だということで協力することはない。銀行同士が張り合っており、銀行マンも競争をしている。取材もせずにでたらめを書かれる。

------日本でユダヤ人陰謀説が広がり始めたのはいつ頃ですか?

 そもそも、ユダヤ人と日本人は、第二次世界大戦中でも敵対関係になかった。あらぬ噂が広がり始めたのは、およそ10年ほど前に、宇野正美氏が興味本位にユダヤ人のことを書き始めたことに始まる。日本ユダヤ教団は、宇野氏に取材を受けたことはない。
 さらに日本語をきちんと話せるユダヤ人を教団で用意したにも関わらず、宇野氏から、「会う時間もなく、興味もない」といわれた。当事者に取材をしないでどこからネタを仕入れているのか疑問だ。宇野氏と同様に、陰謀説を扱った本の著者からの取材申し込みは全くない。もちろんオウム真理教が取材に来たこともない。

------このような状況を、増長させたものは何ですか?

 日本では出版社の大小に限らず、金儲けのためなら本の内容の善し悪しを抜きにして出版する傾向がある。米国の大きな出版社は、会社の権威を落とさないために、悪い内容の本を発行しない。そのため、書店に行って出版物を見れば、内容がどれだけ信用に足るものかが分かる。日本との大きな違いだろう。
 出版社だけでなく宇野氏をはじめとした著者も、金目当てで出版しているのは間違いないだろう。宇野氏などは、著作で儲けた金をイスラエルにせっせと寄付している。よく分からない行動だ。一方で、阪神大震災はイスラエルからのミサイル攻撃によるものだと講演会で話している。そのためかどうかは知らないが、講演後は商工会議所の使用を断られている。450人ほどの観客がいたそうだが、さすがに信じた人はいないだろう。

------オウム真理教事件でも、ユダヤ人の名前がささやかれましたね。

 サリンが騒がれた時、サリン製造の裏にユダヤ人がいると言った人もいたようだ。何か事件があるたびに、あるぬ噂を立てられる。ユダヤ人をスーパーマンだと考えている人がいるようだ。もっとも、私達は世界を制服したくもないし、スーパーマンになりたくもない。第一、たった2000万人未満のユダヤ人がどうやって世界を支配できるのか?

インタビュー中、宇野正美氏の名が登場したため、公正を期すべく氏の言い分を要約して併記する。

■日本ユダヤ教団への取材について
 
 取材をしていないことは事実だが、米国にいるさまざまな立場のユダヤ人の友人らから限りなく取材できる。
  
日本語をきちんと話せるユダヤ人を教団で用意したにも関わらず、取材を拒否したことについて
 
 そのような連絡を受けたことは一度もない。『週刊文春』で日本語のできるユダヤ人であるデーブ・スペクター氏と対談し、掲載されたことはある。すべて裏付けのあることだ。

■イスラエルへの寄付について

 私が『ユダヤが解ると世界が見えてくる』などを執筆した当時は限りなく親ユダヤであり、苦境にもめげずに頑張るユダヤ人の心を書き続け、日本人もそこに学ぶべしとした。ところが、全く日本語を知らない『ニューヨーク・タイムズ』のへーバーマン記者が誰かから聞いた部分訳だけを頼りに私を反ユダヤと騒ぎ立てた。ベギン元イスラエル首相らと親しく、イスラエルに30回以上も訪問していた私が反ユダヤであるはずはなく、イスラエルにいる多くのユダヤ人の友人達に寄付し続けたことは何等矛盾しない。

阪神大震災はイスラエルからのミサイル攻撃によるものだと講演したことについて
 
 全くそのような事実はない。私の講演はすべて記録と録音が証拠として残っている。※この件についてアーネスト・サロモン氏は、「日本ユダヤ協会と親しい2人の日本人が宇野氏の講演会に出席して、イスラエルの、ミサイルが阪神大震災を引き起こしたとの説明を聴いている。1人は講演中テープを回していたが、宇野氏の関係者に力づくで奪われた上、2人とも強制的に会場から追い出された。以後、宇野氏の講演への入場を断られている。宇野氏に何も隠すことがないなら、なぜ入場を拒否するのだろうか」としている。

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クソの役にも立たないコンビニエンスストア

■月刊『記録』97年4月号掲載記事

■ひたすら回った五一件

 コンビニエンスストアでトイレを借りるのは勇気がいる。特に女性は恥を忍んで頼んでいるものだ。ところが店によっては、その必死な申し入れを簡単に断ってくる。「我慢しろ」と言われても我慢できないのが便意。近くに公衆便所がないからお願いしているのに、いったいどうすればいいんだ。
 というわけで調べてきました。特に「貸してくれない」という恨みの声が満ちあふれる都心を対象に、暑さ和らぐ夜中にスクーターを走らせて五一件。ひたすらトイレを貸してくれるようにお願いした。元来弱気のため、トイレを借りたら商品を買わなければいけない強迫観念にさいなまれ、取材が終わったころにはスクーターの籠がガムやジュースで一杯という有様だったが、臭いトイレでしっかりとメモだけは取ってきた。
 コンビニエンスストアごとのトイレ貸し出し成績は表1の通りだが、注目すべきはローソンだろう。なんと一件も断らない。ローソンの広報部は、「今年の一月一日からステッカーなどを張り、お客様がトイレをご利用しやすいようにキャンペーンを張っております。現在、ほぼ全店でおトイレをお貸しできるようになっています。
 他のコンビニエンスストアでは、トイレは使えるのか使えないのかわからないうえに、使用を断られるケースもありますから、他者との差別化をはかるのが狙いです」と語っている。確かに便所の入り口には「トイレ美化宣言」と書かれたステッカーが目立つように張られている。これならばトイレも借りやすい。「お客様からも好評です」という広報部のコメントもうなずける。
 一方、ローソンのような差別化など必要ないと語ったのは、セブン-イレブン・ジャパン広報だった。
「当社の店舗は、以前から従業員の控え室や倉庫になっているバックルームを通らなくとも、売り場から直接トイレに行ける設計になっております。ですから他のチェーン店のようにトイレが借りられると明言しなくとも、従業員に一言お断りしていただければいつでもお貸しできます」
 しかし実際には35・7%も断られた。そのうえ「すみません。いま便所がないんです」と訳のわからない断られ方をされた店や、近くの公衆便所を教えられたものの便所がみつからなかったケースもありと、結果はそれほど誇れるものではない。
 この実状に関しては、日本一の企業と評判の高いセブン-イレブン・ジャパンも「どうしたんでしょうかね…。店舗によって色々な事情があるのかもしれませんね」と困惑顔。どんなに設計に気を付けても、トイレを貸さない店主もいるということだ。ただの広報の対応も含めて、今後の改善が期待できる雰囲気ではある。さすがは最大手。

■本部はトイレ使用を推奨

 あまり知られていないことだが、先述したセブン-イレブンやローソンのみならず、ほとんどの大手コンビニエンスストアはトイレの貸し出しを推奨している。
「古い店舗は商品倉庫や従業員室とつながっているために、お貸しできない場合も多かったのですが、新店舗は店内から直接お手洗いに行けるように工夫し、なるべくお客様のご要望にお応えするようにしています」(サンクス)
「基本的にはお貸ししています。店員に声をかけてください。ただ店舗設計の都合上、どうしてもお貸しできない場合もあるんですよ」(ファミリーマート)
「本部として、積極的にトイレをお貸しするように、オーナーさんにお話ししています。防犯上の問題がある場合は別ですが」(ミニストップ)
 今回調べたなかで唯一トイレの貸し出しに積極的になっていないエーエム・ピーエムでさえ、「都内などは店のつくりも小さく、構造上お貸しできない店舗もありますから店の自由に任せています」と語り、断るケースとして、店舗設計など解消できない問題を念頭に置いていることを明言した。
 つまりコンビニエンスストアのトイレは、基本的に借りられるのである。ところが三一・四%の店舗では断られている。本当に防犯上の問題なのだろうか。
 ミニストップ大島一丁目店は、便所に向かう通路の壁にビール缶の入った段ボール箱が積み上がっている。くすねようと思えば簡単のできる環境だ。さらに便所では、店の床を洗う大型のクリーナーとビール瓶のケースが陣取っていた。いたずらをする品物には事欠かないといった状況なのだ。商品の盗難が可能な物置と化したトイレ。店にとっては最悪の条件だろうが、この店舗は気持ちよくトイレを貸してくれた。
 九段三丁目にあるエーエム・ピーエムは、トイレの壁面には、商品と思われるビニールガサが三〇本以上に並んでいる。雨の日しか店頭に並べないため狭い店舗には置けないのだろう。かなり異様な光景であり、この店でカサだけは買いたくないと感じたが、この状況でもトイレを貸してくれる店自体には好感をもった。
 このように今回トイレを貸してくれた店舗のなかには、トイレ周辺に商品が積み上がっていたところもあった。店主の度量次第では、どこでもトイレは貸せるのである。

■小便以外はお断り

 新宿区原町三丁目にあるミニストップは、五一店舗のなかで最も度量が狭い店であった。「おトイレを貸してください」という申し出に、「便所だけ?それならウチは公衆便所じゃないから、断るんだけどね」と、こちらを一べつ。品物を買う旨を伝えるとトイレのドアを指した。やれやれと思ってトイレに入ろうとして、さらに驚かされた。「御利用する方は、従業員までお申し出下さい。但し、小用以外のご使用をお断りいたします」と書かれているではないか。しかも「小用」が赤字になっている。このトイレでは、絶対に大便はさせないぞという店主の強い意志が、手書きの文字からしっかりと伝わってくるようだ。もちろん便所内も徹底している。トイレットペーパーが置いていない。これでは大便はもちろん、女性の使用も断っているようなものである。
 そもそも店内に食べる場所が確保されているのが、ミニストップのウリとなっている。店内で食事ができて、トイレだけは使えないというのか。野暮な例えは承知でいわせてもらおう。カネ払って入れるのは歓迎、ただで出すのはお断りってことか。
 このような状況に対して本部の広報は、「いったいどうして、大便だけがダメなんでしょうかね。それが不思議です。たしか私が訪ねた一年半前には、『ご使用の際は従業員にお断りください』という張り紙だけがあって、お客さんの自由に使ってもらいましょうなんて、オーナーさんと話したのですがね。オーナーもいい人なんですよ。それなりの理由があるとは思いますが……」と店を弁護していた。では本社のいうことを聞かない「関東軍独走」なのか。どうして大便だけができないのか、改めて店長に取材してみた。
「昔は、すべての人に貸していたんですよ。ところが店が公衆便所のようになってしまったんです。朝、サラリーマンが便所だけを使い、何も買わずに出勤していく。しかもマナーが悪い。床に大便を転がしていくんですよ。アルバイトと私がいくら掃除をしても間に合いません。
 もちろん防犯上の問題もありました。暴走族が溜まり、便所でたばこを吸ったりするのです。そうなると若いアルバイトでは手に負えませんから、私が一日中詰めて対応していたものです。
 そんなこんなで、現在は大便での使用はお断りしています。特にウチのお店のトイレが頻繁に使われるような立地条件でもありませんので、お客さんの質の問題なんでしょうけれども寝ね」
 ところが、このミニストップから八〇〇メートルほど離れたローソンの見解は全く違う。
「ここらへんは子供さんのいない地域ですから、暴走族はいませんし、そんな怖いと思ったこともありません。また、あまりにも挙動不審な人には、トイレの貸し出しもお断りしています。本当に危なければすぐに一一〇番通報するよう、アルバイトの子にも指導していますしね。特にマナーの悪い人もみかけません」
 この証言のどちらも正しいとすれば、この地域の客はローソンで見せた紳士の仮面をミニストップで脱ぎ捨てて悪党になるということらしい。むろんそんなはずはない。第一、そんなに客が信じられないのだったら撤退すればよかろう。取材を通して断言できるのだが、ミニストップの問題は客の質ではなく店員の質にあるのだ。便所の張り紙や、店主のイヤミだけではない。カップラーメンだけを食べる客にはテーブルとイスを貸さないと宣言した張り紙さえある。
 「いらっしゃいませ。金だけ払ってさっさと出ていってください。この悪党ども」という底意地が透けて見えれば、おとなしい客だって「バカにするな」とマナーの一つも悪くなろう。
 だいたい、床に転がった大便を喜んで掃除するのが商売のイロハではないか。私事で恐縮だが、『記録』編集部には朝に夜に読者と称するさまざまな人からわけのわからない電話がかかってくる。酔った勢いで何をいっているかわからん人もいる。それでも編集部は読者である証拠もない相手に付き合う。別に威張っているつもりはない。世間に何らかの提案をした企業の大半は同様に、当然負うべき責務と考えていることである。ましてミニストップは「食べさせている」のである。「便所だけを使うサラリーマン」の裏には「食べて便意を催したが我慢して去っていった客」がいるという当たり前の想像力すら働かないのか。飲食店が当然提供するべきサービスを断るミニストップは反社会的存在といっても過言ではない。

■使用者の責任できれいに

 じつはこの店に限らず、高圧的な張り紙でトイレの使用を制限している店舗は少なくない。
 内神田にあるファミリーマートには、「当店では警察の指導により、トイレの御利用をお断りしております」と印刷されたプレートが、トイレの入り口に掲げられている。近所のコンビニエンスストアは警察からの指導もないらしく、トイレも貸してもらえたが、やはりこの店だけ治安が悪いのだろうか。
 神田淡路町のエーエム・ピーエムの張り紙も変わっている。トイレに通じる扉には「立入禁止 従業員専用の更衣室です」と書かれた紙が張られ、トイレには「無断使用の場合、身体検査をさせてもらうこともありますので、ご了承ください」と書かれている。実はトイレなんか貸したくないんだよという店主のぼやきが聞こえてきそうである。
「お客様のトイレ使用は禁止しています。やむを得ず使用する場合は、必ず従業員に申し出ください。また、汚した場合は、使用者の責任できれいにし、使用後は必ず消灯してください」
 これはミニストップ扇橋店のトイレに張られていたものだ。「使用者の責任できれいにし」とより大きな文字で書いてあるのが泣かせる。とにかく便所を汚されるのはイヤなのだ。
 トイレの使用を断る本当の理由は、やはりこんなところにあるのではなかろうか。使うほうが汚すからと言われればそれまでだが、やはり必死に便所を探す者の思いを、「トイレはない」の一言で断るのは接客業としては問題があるまいか。トイレも貸してくれないほど度量の狭い店など、お客様相手の店舗である資格はない。(本誌編集部)

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内部告発・豊島区は税金泥棒/最終回 区議会議員選挙立候補

■月刊「記録」99年6月号掲載記事

         *            *            *

 三月一九日の月曜日、国会議員の中村敦夫さんとともに巣鴨地蔵通り商店街を私は歩いていた。区議会議員選挙の運動のためにである。一軒ずつ商店を廻り、商店主や通行人に挨拶を繰り返した。
 私が立候補を決意したのは、半年以上も前のことになる。六ヵ月の停職処分の裁判における役所の対応が、その大きな原因である。
 当時、カラ超勤を証明する決定的な証拠を、私は裁判所に提出していた。その証拠とは、端的にいえばカラ超勤のためのマニュアルとも呼べるものだ。ある職員が作成したその書類には、カラと見えないようにするためにはどうするべきなのか、具体的な方法論が書かれていた。

■そんなばかな話があるか

 この証拠を前に、区役所の代理人はぬけぬけと言い放った。
  「これは一職員が作った個人文書に過ぎません。つまり公文書ではないのです」
 公文書ではないから、カラ超勤の証拠にはならないという主張である。だがマル秘と書いてある文書が、どうしたら個人の文書となるのだろうか。
 もし役所側が語る通りなら、文書を作った一職員の行動は奇怪極まりない。ありもしないカラ超勤を想定して、どうすればバレないかを想定。その方法論をワープロで打ち込んだうえに、ごていねいにマル秘の印まで押して保管してきたことになるからだ。それも職員としての仕事と関係なく。
 役所の代理人の浮き世離れした説明を聞いて、役所の自浄能力のなさに、私は改めて暗たんたる気持ちになった。裁判に勝ったとしても、これでは役所のカラ超勤体質の改善は進まない。
 ――もう区議会しかないかな。
 それが私の結論だった。区議会でこの問題を取り上げ、事実を指摘していけば、役所が変わる可能性だって出てくる。
 そして私は立候補を心に決めた。
 立候補するにあたって、まず最初の問題となったのは、私が役所の職員だったことである。
 というのも行政職員は、選挙に立候補することで、自然退職させられてしまうからだ。たまたま私は現業職員という立場だったので、この規約には触れない。だが現業職員でも、行政事務を担当している職員は自然退職しなければならないという規約があることがわかったから大変だ。
 公文書を作るのも行政事務の一部には違いない。選挙に落ちた途端、いきなり区役所を辞めさせられたのでは堪らない。
 そこでまず職員課に問い合わせると「選挙に立候補しても、現業職員は自然退職にはならない」という。だが役所相手に口約束など信じられるはずもない。文書を出すように私は要求した。
 さすがにいつも私ともめ続けている職員課だ。ほどなく文章が作られ、私の手元に送られてきた。
 だがその文書には、区長の印もなければ、担当課長の印すらなかった。それどころか文書を制作した担当者の名前さえない。マル秘文書を公文書ではないと言い張る役所が相手なのに、こんな文書を信じるわけにはいかない。選挙が終わったところで、そんな文章は職員が個人で作ったものだと言われ、自然退職の手続きが取られても抵抗のしようがない。
 そこで、さっそく職員課に電話をし、文書の不備をただすと、「区長の印など簡単にもらえるはずがない。こちらを信用してもらうしかない」などという。一体どうすればこれだけ嘘をつかれた役所を信じられるというのだろう。仕方なく、区長に内容証明の郵便を送りつけることを伝えて電話を切った。
 やはり内容証明の郵便には、効力がある。
 時間はかかったものの、私は区長から自然退職にならないお墨つきをもらい、選挙運動へ突入することができた。

■一日三〇ヵ所で演説の日も

 区民への私からの働きかけの第一歩は、「豊島区行革一一〇番」のビラを一軒ずつ区民のポストに配ることだった。選挙のために私を売り込むというのではない。区民が知っている区政の悪事、区に対する区民の不満などを集めるネットワークを作りたかったのだ。
 三月のはじめ頃だった。私は五時一五分に職場を出ると、まっすぐに家に帰り、食事を済ませ、ビラを持って出かけた。まだまだ春というには早い季節。ジャンバーを着込み、さらにその上に膝丈のナイロンのオーバーを着てひたすら豊島区を歩き回った。
 翌日は、もちろん仕事が待っている。それだけに無理はできない。七~一〇時までの三時間が、ビラ配りに使える時間の限界だった。
 もちろん体力的にも、決して楽ではない。
 歩き回った翌日は、ふくらはぎが張り、脚全体に疲れが残る。だが休むわけにはいかない。必死に歩き回っても、一晩で配れるビラは五〇〇~七〇〇枚にしかならないからだ。
 結局私は、三週間にわたって配り歩き、一万枚近くのビラを投函し終えた。
 職員や町会長に配った時には、ほとんど効果を感じなかったビラだが、さすがに区政に不満を持っている区民からは反応があった。職場から帰ってくると、「ビラを見ました。がんばってください」というメッセージが留守電に吹き込まれていたことも少なくなかったからだ。
 役所の職員として働いている限りは、カラ超勤やカラ出張など当たり前のことだと思ってしまう。だが一般企業に勤めたり、自分で商売をしている人にとっては、役所の常識などは通じない。ビラの反応を見て、改めてそう感じた。
 区議選の選挙運動期間は、わずか一週間しかない。その間に、区内三〇五ヵ所の掲示板に自分のポスターを貼りつけ、そのうえで街頭演説なども行わなければいけない。
 五日間の有給休暇を取り、すべての労力を選挙に向けて集中したが、その忙しさは半端ではなかった。晴れている日には、ボランティアの人達と区内を回った。一日に三〇ヵ所を回って、街頭演説したこともある。小さなスピーカーをボランティアに持ってもらい、およそ三分間、自分が立候補した理由を述べ、豊島区行政の浄化を訴えた。
 雨の日と夜はビラ貼り。
 人出の少ない雨の日に演説をするよりは、少しでもビラを貼ったほうが効果があると思えたからだ。
 選挙期間中の雨はひどかった。掲示板に叩きつけられた雨が、滝のように流れ落ちる。タオルで自分のポスターを貼る場所の水気を拭き取り、急いで貼らなければならない。私は雨合羽を着て貼り続けた。
 選挙管理委員会から提供された掲示板が記入してある地図は、ポスターを貼りに行くたびにボロボロになった。家に帰ると広げて乾かしていたが、最後には渡された三枚の地図が読みとれないほどまでになった。
 三〇五ヵ所の掲示板のうち、私が自力で貼ったのは、八〇ヵ所。二〇〇ヵ所は三名のボランティアの人達が貼ってくれた。残り二五ヵ所近くの掲示板は、私のポスターを貼ることなく選挙日を迎えてしまった。
 五七八票。
 それが私が得た得票のすべてだった。今回の当選者で最低の得票数は、一三〇二票。つまり七二四票 届かなかったわけだ。だが選挙を通じて、私は応援者を獲得した。

■闘いの果てに手にしたものは

 二〇年近く前、私はたった一人で役所と闘っていた。誰も応援してくれる人もなく、いじめられ、病気とも闘いながら、不正を訴え続けてきた。そんな私が五七八人もの支援者を持った。ギリギリだけれども、法定得票数にも達した。
 それが私には幸せだ。
 気がつけば、人生の約半分を区役所との闘いに費やしていた。好きで始めたわけでもない。攻撃されたから、自分の身を守るため、そして最低限のモラルを守って働きたいと始めたことだった。私は役所との闘いに楽しみを感じたことなどない。だが自分の人生を後悔してもいない。
 確かに闘い続けてきたことで、親孝行も充分にはできなかった。しかし自分が信じたことを、行い続けてきた自負が私にはある。それが私の誇りとなっている。
 私が闘い始めた頃とは、社会も大きく変わった。情報公開条例もできたし、行政訴訟で市民が勝てるようにもなってきた。私の裁判も、近いうちにされほど悪くない結果を生むと思う。
 連載は今回で終わりだが、裁判結果はいつかご報告したいと思っている。読者の皆様には、長期にわたりご声援をいただきありがとうございました。(■了)

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内部告発・豊島区は税金泥棒/第19回

■月刊「記録」99年5月号掲載記事

      *           *           *

 平成九年四月から出勤することになった新しい職場は、総合体育場といい、区の外郭団体である「コミュニティ振興公社」に統合されている一部署であり、体育施設の維持管理が主な業務である。先月紹介した通り、「コミュニティ振興公社」の上層部には私の仇敵ともいえる人々が勢揃いしていた。そんな職場が働きやすいはずはない。小さないじめが、日常の業務のところどころに顔を出した。

■レッテルを貼って送り出す

 私だけに業務連絡が届かない。担当の仕事を任されることもなく、脈絡のない仕事ばかりをさせられる。チクリチクリと針で刺されるかのように、私の神経を逆なでする出来事が続いた。
 なかでもショックだったのは、「どーうしようもない職員が来る」という噂が、配属前から職場中に広められていたことだった。噂の出所はまもなくわかった。それは所長であった。配属後のある時、私は当時の所長に「なぜ私には、行き当たりばったりの仕事を与えるのか、なぜ、まとまった仕事を与えようとはしないのか」と質問したことがある。すると所長は即座に「貴方は余分な職員だからだ」と正面から答えた。私はどちらかといえば鈍感な性格である。しかし、そこまで正面から言われたのでは「はぁ、そうですか」と終わりにするわけにはいかなかった。
 カチンときたので「なぜ、私は余分な職員なのか説明してほしい」と突っ込んだ。以下所長の返答である。
  「貴方の当体育場への異動は、こちらで望んで来てもらったわけではない。職員課の人事担当から『五十嵐という、箸にも棒にもかからない、どうしようもない職員がいる。彼を異動させたいのだが、どの部署でも願い下げだと言って彼を受け入れるところがない。何とか面倒を見てやってくれないか』ということだからやむを得ず受け入れたまでだ」ということであった。
 私は、これを聞いて、またまた望月治夫職員課長の辣腕に感服せざるを得なかった。停職中に私の戻るべき専従宿直業務を廃止に追い込み、復職後は、有無をいわさず自転車対策係に異動させ、二ヵ月にもならないうちに、さらに職務命令をもって一方的に外郭団体に派遣する。派遣先には、「どうしようもない職員」というレッテルを貼って送り出す。
 総合体育場は外郭団体であるから、出先機関の出先にあたる。当然、私と役所間の長い確執など知るよしもない職場である。役所の眼には、おそらく総合体育場が、私を厄介者として押し込めておくには、最適の場所として映ったのだろう。まさに職員課長は(それが誰に対してかは言わないが)、忠犬ハチ公そこのけの忠臣ぶりを発揮したわけである。 
 こうして、私はただの厄介者として、新しい職場で働き続けることになった。

■第二月曜日に出頭命令

  「どうしようもない職員」とのレッテルが貼られているのであれば、なおさら私は、細心の注意を払って働かなければならないはずであった。しかし異動してきてすぐ、私は同僚にひどい迷惑をかけてしまったのだ。
 毎月、職場が猛烈な忙しさに見舞われる日がある。それは第二月曜日だ。この日は、野球場・テニスコート利用日の抽選日となっている。この日に、私は二回続けて休むことになってしまった。同僚から「この日だけは休まないでくれ」と言われていた日であった。
 実は役所側の弁護士が、その第二月曜日を裁判日に指定してきたのである。弁護士を頼まず、本人訴訟で行っていたため、裁判には私が出席しないわけにはいかなかった。それでも、続けて二度までは愛嬌で我慢もしよう。しかし三度続いた時には、さすがに腹が立った。
 三回目に指定された時、私はさすがに頭にきて、第二月曜日だけは指定しないようにと裁判長に願い出た。そのかいあってか、以降、第二月曜日は指定されてはいない。しかし裁判を抱えていることなど知らなかった同僚達は、私の二回の有給休暇に、かなり怒っていたという。
 ほぼ月一回のペースで、裁判は開かれている。その一日を、三回連続で第二月曜日に指定してきたのだから呆れてしまう。事情をよく知る役所側が狙ってやったことだろう。私の職場での立場が悪くなればなるほど、役所側にとっては好都合なのだ。セコイといえばセコすぎる嫌がらせだが、こうした小さな積み重ねが職場の人間関係には大きく影響してくる。そしてこの二年間も、私には細かい攻撃が繰り返され続けた。

■カラ領収書のオンパレード

 しかし遂に、私と役所との形勢が逆転する日がやってきた。役所にとっては残念なことに違いないが、先日、裁判は、ついに私に身方した。
 私の提訴から逃れるために、九七八万八五二七円もの食糧費支出を、加藤一敏区長が豊島区に返還したのだ。 今から二年ほど前に起こしたこの裁判は、情報公開制度を利用して、豊島区職員が支払った食糧費の明細を引き出すことから始まった。予想された通りだったというべきか、公開された領収書は偽造のオンパレードだった。
 まず領主書に記されている通し番号が日付通りに並ばない。店からカラの領主書をもらい、適当に日にちを記入したものだから、通し番号まで合わせることができなかったのだ。
 また、店が作ったはずの領収書に、なぜか豊島区の公文書で使用されるゴム印が使われたりもする。領収書を作った区の職員が、何の気なしに押したのだろう。このゴム印など、領主書を偽造している決定的な証拠だと思うのだが、役所側は例によって認めようともしない。区役所で使っているゴム印を、店の店員がどこから手に入れ押したというのだろう。偶然で済まされるはずはないのである。
 さらによく利用する店の場合には、区役所は口座振替で代金を支払うのが通常であるのに、怪しい領収書に示された金額は必ず現金払いにされている。なぜ口座振替にならなかったのかは説明するまでもないだろう。金融機関に証拠を残すことなく、お金を動かしたかったからだ。
 もっと決定的な証拠もある。
 平成九年五月七日、フジテレビの報道番組で豊島区の食糧費疑惑が報じられた際、領収書を切ったはずの店の主人が、「白紙領収書に役所の職員が記入したものだ。うちの店はこんなに高くない」と発言しているのである。
 これだけ証拠が出そろっていても、区役所側は「支出は適切」などと裁判で主張し続けていたのだから救いはない。だが、ここでカラ領収書の存在を認めれば、私が指摘し続けてきたカラ超勤も説得力を持ってくる。役所には、それが怖かったのだ。
 最初、私はこの裁判に勝てるかどうか不安だった。
 いくら証拠がそろってはいても、裁判所が認めてくれなければ勝つことはできない。それまでの裁判経験から公的機関を追い込むのがどれほど難しいかわかっていただけに、私が入手した証拠がどれほど意味を持つものなのか、今ひとつ自信が持ずにいたのだ。
 しかもこの裁判は、弁護士を雇わない本人訴訟である。
 いくらこれまで裁判を何度か経験しているとはいえ、弁護士が行っていた仕事を自分で行うのは並大抵のことではなかった。まず裁判に必要な手続きの詳細がよくわからない。さらにどのように裁判を方向づけていけばいいのか、審理の進め方がわからない。そんなところでマゴマゴしている私をうまく導いてくれたのは、いつでも裁判官だった。役所と私の争点をしっかり見据えて、公平に裁判指揮をしてくれたのだ。

■様相を変えつつある私の闘い

 裁判所からは、まず領主書を発行した飲食店に送付嘱託命令が出される。つまり店側に、本来保管してあるべき領主書の原本を提出するように、裁判所からお願いをするのだ。この命令には強制力がないため、「どこにあるのかわからない」などという理由で、店側は証拠の提出を拒んできた。しかし、この時の店側のショックは、想像以上に大きかったはずだ。
 カラの領収書をくれとお得意さんに言われ、何の気なしに領収書を渡したがために、ある日、裁判所から命令書が届くのだ。もとよりカラの領主書なのだから、原本を店が保管しているはずもない。きっと区の担当職員には、店から苦情が入ったことだろう。
 そして次に、強制力を持つ命令書、証拠提出命令が裁判所より発行された。原本などもとから持っていない店側と、証拠などないとは言わせられない役所側は、さぞやあわてたことだろう。さらに四月から、区長が変わることも決定し、自分の悪事を新区長に引き継ぐわけにもいかないお役所事情にも迫られたことだろう。
 こうしたにっちもさっちもいかない状況を前に、加藤氏が選択したのが、請求された食糧費の全額返還だった。返還すれば、私には訴えの利益がなくなり裁判が終わる。そうすれば店への提出命令も撤回される。そう思ったのだろう。
  「相手側の主張を認めたのではないが、区長を退くにあたって跡を濁したままにしたくない」(『東京新聞』三月二三日付)。これが全額を返還した加藤氏のコメントだ。人を喰った言い分には、ほとほと恐れ入る。
 だが彼の予測は外れた。裁判は結審とならなかった。なぜ全額を返還したのか、その理由をハッキリしろと、裁判所は役所側に言い渡したのである。
 私の言い分を認めていないのに、言われた通り金は払う。この矛盾した言いぐさを、どうやって論理的に説明するのかは、今後の注目点になるだろう。
 食糧費返還のニュースは、朝日・読売・東京各紙の社会面で報じられた。それなりの大きさで扱われ、私自身が驚いたほどだ。ただただ孤独だった私と役所の闘いも、少しずつ様相を変えつつある。少なくとも、武器もなく、展望もないゲリラ戦からは脱却しつつある。
 この食糧費の裁判の行方は、私の停職処分に対する裁判にも少なからず影響を与えるだろう。二七年間にも及ぶ役所との闘いは、何らかの幕引きに向けて動き出している。 (■つづく)

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内部告発・豊島区は税金泥棒/第18回 異動に次ぐ異動

■月刊「記録」99年4月号掲載記事

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■停職明けは日曜日

 六ヵ月の停職処分が空けた日は、なぜか日曜日だった。指定された日が、そうなのだから仕方ない。職務命令違反になるのも嫌だったので、バカ正直に出勤した。
 案の定、日曜日の八時半なんて誰もいない。とりあえず宿直室に出向いたが、宿直の当番に当たっていた昼間の職員は、けげんそうな顔をして私を出迎えただけだった。
 それならばと庁舎の三階に総務課を訪ねてみた。だが、ここにもいたのは庁舎係長だけ。彼に出社の旨を伝えると、「そんな話は聞いていない」と言う。それならばと総務課の係長の実家に電話をすると、「今日じゃない。明日だ」と素っ気なく言われてしまった。
 当たり前だ。日曜日に停職が明けるわけもない。それでもついつい疑ってしまう。勝手に命令に逆らえば処罰の対象になるからである。疑り深くなってしまった自分に苦笑しながら、その日は自宅に帰ることとなった。
 翌日、ついに本当の出勤日を迎えた。ゼロからのスタートという気持ちだった。
 次に処分をくらえば、間違いなくクビ。ここまで追い詰められはしたものの、停職中に反撃ののろしをやっとあげることができた。情報公開で得た書類は、私の裁判を大きく変えていくに違いないと確信させるに充分だった。役所側に攻撃の糸口をつかませないよう、自分の言動には細心の注意を払わなければならないが、当時の私と役所の立場は五分と五分。本当の勝負は、ここから始まる。そう感じていたからこそ、ゼロからだと感じたのだろう。
 役所の三階、いつもの総務課を訪ねると、予想外の言葉に驚かされることになった。なんと「どこの所属になるか決まっていないので、決定するまで宿直室で待っていてくれ」と鈴木敏万総務部長が言う。停職中に所属している部署がなくなることも珍しいが、職場復帰した時に、所属が決まっていないのは尋常ではない。
 仕方なく、宿直室でボーっと、配属が決まるのを待っていることとなった。ところがいつまでたっても辞令が来ない。やっと呼び出されたのは、午後三時過ぎだった。ところが「今日は決定しなかったので、明日、また来てくれ」と、言われたのだ。
 果たして役所は、本当に私を働かせる気があったのだろうか。働かせる気がなかったから、所属を決めていなかったのではないか。当時、私の頭の中では、ある疑惑が頭をもたげ始めていた。
 実は、職場復帰の数日前、近藤勝弁護士の事務所に「五十嵐が処分を受けないように気をつけろ」という不気味な匿名電話が入ったのである。私の弁護士事務所に電話をかけていることから考えて、役所と私の闘いに関与している人物に間違いはない。そのような人物が、わざわざ電話をかけてきたのだから、役所になにかしらの動きがあったのだろう。しかも出勤当日になっても、所属が決まっていないという。勘ぐりたくもなる話だ。
 ただ私にとって幸運だったのは、初出勤の二日前から、豊島区のカラ超勤の問題を『東京新聞』が、二日連続で大々的に報じたことだ。マスコミが区の不正に注目しているとあれば、その不正と闘っている私を簡単には処分できない。マスコミの視線を感じた区当局が、私に対する処分計画を見直したのではないか。確証はない。だが、それならばすべてのつじつまが合う。不気味な符号を感じた。

■楽しい職場は許されない

 翌日、通常通り八時半に出勤すると、まだ所属が決まっていないという。結局、この日も半日に待機状態の後、所属異動の辞令を交付された。
 役所のお偉方、七~八人に囲まれて言い渡された配属先は、土木部交通対策課自転車対策係だ。何のことはない。放置自転車の撤去作業を行う係である。
 辞令の交付時に、助役に私は質問を申し出た。次の二点をどうしても問いただしたかったからだ。
 一つは、役所側が一方的に専従宿直制度を廃止しておきながら、私の所属する組合にも、影響を直接受ける本人にも廃止の合理的な説明をしていないのはなぜかということ。もう一つは、宿直勤務の職員の中で、どうして私だけ希望の配属先を聞かれなかったのかということだ。
 だが助役はたった一言、「質問は認めない」と切って捨てるように答えただけ。処分の口実を与えるわけにはいかない私は、こんな命令さえ忠実に守らなければならなかった。
 辞令をもらうと、すぐに所属の部署に向かうこととなった。土木部長の部屋に入り、まず部長に挨拶。この時、私はちょっと驚かされた。土木部長がごくごく自然に対応してくれたのだ。これは前の総務課では考えられなかったことだった。もちろん課長も二〇代の二人の同僚も、部長と同様に普通の態度で接してくれた。
 確かに仕事自体は、それほど楽ではない。出勤後すぐに車に乗り込み、外部業者と共に駅に向かう。放置自転車に警告を知らせる小さな紙を貼り付け、警告に従わなかった自転車を所定の場所に撤去する。
 トラックの荷台に上げ下ろしする自転車の台数は、一日で一人約一〇〇~二〇〇台ほど。昼休みの時間を除いて、一三、四時までの外部作業である。
 ところが私には、この職場が全く苦にならなかった。勤務時間が短く感じられるほど、外での作業も楽しかった。何よりありがたかったのは、誰もが普通に接してくれたことだ。職務命令違反を念頭に置いて、気を張りつめている必要もなかった。正直、これは良い部署に異動になったと感じていた。
 だが、楽しそうに仕事をしていれば、役所は許すはずがない。平成九年二月に配属されたのに、もう同年三月下旬に異動の命令が届いたのである。これには私も驚いたが、もっと驚いたのは同じ課の職員だったようだ。
 ようやく仕事にも慣れ、さあこれからだ! と思っていた矢先である。もうしばらくこの部署で勤務させてほしいと、私は課長に頼み込んでもみた。それに対して彼も、「よしきた。職員課に働きかけてみるよ」と、快く承知してくれた。だが、ここでも望月氏が私の前に現れた。「職務命令だから」。その一言で、私の異動は一方的に確定されたのである。

■上司の名前に驚愕

 豊島区コミュニティ振興公社の第二事業課の総合体育場。それが四月一日からの職場の名前だ。室内の弓道場、卓球場そして人工芝の野球グラウンドの維持・管理・使用料の窓口徴収が仕事である。役所はついに私を庁舎内から外へ押し出したわけである。
 しかも初出勤の挨拶で、居並ぶ公社の幹部職員の顔を見た時、私は「あっ、なるほど」と合点がいった。自転車対策係に異動させてまだ二ヵ月にも満たない私を役所側が、なぜ再度異動させたかの具体的な意図が理解できたからである。
 まず、公社の理事長が近藤秀夫助役なのだ。ご存じの通り、私の一五日、三〇日、六ヵ月の処分に積極的に関与した人物である。
 第一事業課長には、中島康博。
 総務課の課長時代に、私の停職三〇日の処分に同意した上司こそ彼であり、退職後、この公社に天下りしていたのだ。しかも当時、彼と私はカラ宴会費用の返還訴訟をめぐって法廷で対峙していた。もちろん被告と原告の関係である。被告には区長、他二名となっていたが、その他二名の一人こそ中島第一営業課長であった。最も多くのカラ宴会を主催していた人物として訴えた相手が上司とは、驚くばかりだ。
 それだけではない。
 近藤理事長と中島第一営業課長の二人は、公社職員の懲戒処分を審理し、決定できた機関の構成員として名前を連ねてもいたのである。
 これが私の新しい職場だった。(■つづく)

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内部告発・豊島区は税金泥棒・第17回 逆襲

■月刊「記録」99年3月号掲載記事

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■54万円の請求書

 役所の攻撃は、一通の手紙から始まった。差出人は望月治男職員課長。先月も触れた通り、上層部の指示に忠実に従い私を追いつめるために、あらゆる努力をした人物である。彼の名前が書かれた封筒が、ろくな話を運んでくるわけがない。案の定、中から現れたのは月々の天引き分として、9万円を毎月支払えという、合計額54万円もの請求書だった。
 決まった月給をもらい続けていると気にしないものだが、共済掛金が2種類、福利関係が6種類、会費が2種類の計10点が給料から天引きされている。
 この天引きに役所は目をつけたのである。
 停職処分によって給料が支払われていなければ、当然、天引き分もなくなり、直接私に請求することができるからである。
 手紙が届いたのは、停職処分が始まって14日後の8月22日である。貯金を切り崩す不安な生活に、なんとか算段を付けた頃を見計らっての攻撃。こうなると怒るというより呆れてしまう。もちろん私には、54万円もの現金を一括して払うことはきわめて難しいうえに、9万円を毎月支払う余裕もなかった。困ったときの頼みの綱と考えていた共済組合は、停職中の職員は借用資格者の規定から除外されている。
 しかし9万円を払わなければ、今までの天引き分の効果は中断してしまう。そのなかで気になったのは1年掛け捨ての両用給付保険、団体傷害保険、グループ保険である。これらは事故・病気・障害にあって入院あるいは通院した場合に、一定額の支払保証を受けられるシステムである。もし事故に遭ったら、病気になったらどうしようとも考えたが、ないものは仕方がない。なにか起きたらその時はその時だと腹を括った。幸い停職期間中に病気はしなかったものの、一歩間違えればかなり悲惨な状況になっていただろう。
 前述の保険などは、支払わなければ私に不利益が降りかかって終わりだが、なかには請求を無視するだけでは済まないものもある。税金だ。住民税などは、前年度の収入によって支払う料金が決まる。もちろん現在の収入が減っても、支払は変わらない代物だ。

■差し押さえ予告は赤文字で

 望月職員課長から追い打ちをかけるように、住民税の支払い要請書が送りつけられたのは8月23日だった。つまり前述の一通目の手紙を受け取った翌日である。どうせ出すならまとめて発信すればよいのに、あえて発信日を1日ずらして送付してくるというやり方、気のつき方にはホトホト感心した。このような考え方のできる職員こそが職員課長に最適な人物と、加藤区長は判断しているのかもしれないなと、ふと思ったりもした。
 以下参考としてその全文を掲載しよう。
「平成8年度分住民税の納付について
 無給期間中は特別徴収(毎月の給料から差し引いて納める方法)ができません。このため平成8年9月分からは普通徴収となり、ご本人が直接納めていただくことになりますのでご了承下さい。なお納税方法については、普通徴収として改めて住所地の税務課より通知書が送付されますのでよろしくおねがいします」
 カラ出張カラ転勤の存在は全職員が知っている。当然職員課長も知っているはずだ。同課長も一職員であった時には受領しているはずである。ところが彼は、カラは過去にも現在にも存在していないと組合交渉の席上で断言し、私の処分に同意し、涼しい態度で停職中の私にこのような文書を送りつけてくる。私としては彼を見事な処世術の達人として讃えるしか言葉がない。
 その後も、総務部税務課から停職中に白色の普通の納付請求書(11万3000円)が二度送られてきた。一回目は普通の請求書、二回目は督促状。そして復職後に三回目と四回目の請求を受けている。
 最後となる四回目の請求は、10年12月7日だった。黄色の用紙に赤文字で、差押事前通告書と書かれていた。金額は22万5000円、延滞金が6万4400円、催告期限は12月17日。警告文が赤文字で「もし期限までに納付がない場合は、法の定めにより財産の差押処分をすることになりますので、差押の実施に先立ち予告いたします」とある。
 11年2月現在、私は上記の住民税を支払っていないし、差押の執行は未だ行われていない。
 納税は住民の義務であり同時に権利であるから住民税は支払う。しかし今は支払うつもりはない。なぜならこれらの送付書は、区政中枢の圧力手段以外のなにものでもないと、私は判断しているからである。常識で考えれば、こんなことが公然と許されてよいわけがない。私が住民税を払うのは、停職処分取り消し訴訟の帰趨が最終的に確定したときだ。その際、延滞金については加藤区長にきっちり支払っていただくつもりでいる。
 次に私の所属する労働組合の組合長と副組合長の奇妙な動きにも触れよう。6ヶ月間の停職処分への提訴直前、この裁判を担当する近藤勝弁護士の事務所を、この二人が訪ねたのだ。6ヶ月の停職処分に対する訴訟を起こさないほうがいい。また組合は訴訟を支援できないと言ってきた。その理由は、カラ出張カラ転勤の証拠を示さないからと、訴訟を起こせば、私がひどい目に遭うからだという。ひどい目に遭うとは区長による停職6ヶ月より進んだ処分、つまり免職処分を意味するのだろう。アポイントを取って近藤弁護士を訪ねることに異論はない。しかし当事者の私も連れていかず、訴訟支援拒否を担当弁護士に言いに行くとは何事だろう。しかも私が所属している労組のトップがである。本来なら私を役所側から守る立場にある組合が、役所側の利益にしかならない訴訟支援拒否をするなど信じ難い。むしろ断固応援するから五十嵐のために提訴してやってくれというのは組合の取るべき筋道のはずである。だが、これが私を取り巻く現実なのである。

■復帰の職場がなくなった

 穏やかな攻撃のあとには、必ず激しい攻撃が待っているものだ。もちろん豊島区役所も例外ではなかった。
 停職が5ヶ月ほど経過した12月末、またも望月氏から電話連絡が入ったのである。嫌な予感は外れない。宿直の廃止が決定したという。停職によって私が職場にいないのをいいことに、密かに進められていた、懸案の専従宿直職員制度の廃止を役所は脱兎のごとくに決定したのである。
 95年の9月末、15日間の停職処分に対する裁判を終結させる際に取り交わした合意書(宿直勤務において私が不利益を被らないようにすると役所側が約束した文書)を、彼らは捨て去ったのだ。彼らにとって都合のよい判決は尊重するが、不都合な判決は一顧だにせず無視をする。残念だが、これが今日の豊島区役所中枢の偽らざる真の姿なのである。
 今までの宿直職員の仕事は、今後昼間の職員がシフトを組んで代行するという。だが宿直業務の始まりは、昼間の職員による事務代行が、サービスの質を低下させるという理由だった。それをいきなり元の制度に戻すなど、納得できるはずがない。
「宿直の廃止は、組合と合意を得たのか」
 真っ先に望月氏に私が確認したのは、この点だった。望月氏は「同意を得た」と即答した。一体どうなってるんだと思い、この点を組合長に確認した。彼は「そんなことは言っていない。彼らは組合の反対を無視して一方的に専従宿直職員制度を廃止したんだ」と言う。どちらの意見が正しいのかは、結局わからない。しかし決定してしまえば、組合が騒いでも覆される可能性は低い。決まってしまえば、職員は従うほかないのである。
 またあとからわかったことであるが、役所は、かつて10余年にわたり宿直の架空勤務を繰り返していた同僚には、宿直業務廃止に伴う異動先の希望を聞いていたという。もちろん私にそんな話は一切なかった。
 結局、この年の暮れ、私は役所によって合意書を簡単に反故にされ、復帰するはずであった職場を一方的に廃止されたことになる。(■つづく)

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阪神大震災現地ルポ 第11回/部落差別問題は避けられない

■月刊『記録』96年4月号掲載記事 

  昨年の震災直後、神戸市の生田川公園(中央区)のテント村で避難生活を送っていた中山いさ子(仮名、60)さん達は、近くの市営新生田川住宅13号棟の住民だった。築23年の13号棟は、12階建の4階の一部が押し潰される「層崩壊」で全壊した。ここでは市営住宅が2棟全壊し、3人が死亡した。 

  取材した当初は全く知らなかったが、この住宅は同和対策事業で建設された「改良住宅」で、この地域は生田川地区と呼ばれる被差別部落だった。被災住民に仮設住宅が専用的に確保されていたのは、一般の市営住宅とは異なり、部落の生活環境改善のために建てられたという経緯があるからだった。 

  当時、生田川公園を取材したのは、三宮周辺では数少ないテント村で、周囲と比較すると被害甚大という印象を受けたからだった。須磨区の西村栄泰さんを最初から在日韓国人と知って取材したわけではなかったのと同じで、最近まで被差別部落と知らずに取材を続けていた。震災取材を続けるうえで、部落差別の問題を避けて通ることはできないと以前から思っていたが、そう思いながら、自分でも知らぬまま被差別部落の人々から既に取材していたのである。 

  意識して訪ね歩いたわけではなく、出会った被災者が在日であり、そこが被差別部落だった。それは、やはりこれらの人々に被災が集中していることを意味しているのだと思う。震災の社会的格差を、ここでも痛感させられた。しかも生田川地区は、改良住宅の建設が完了していたため、被災地の部落のなかでこれでも軽微な被災だったという。以前の様子を知る中山さんも「改良住宅ができていなかったら、生田川も長田のように燃えていただろうと語っている。 

  生田川地区は、神戸開港後に形成された部落で、昔は「新川」の名で呼ばれていた。戦前から戦後にかけて活動した社会事業家の賀川豊彦が、一時期ここで暮らしキリスト教の布教を行っていたことがある。もっとも、賀川はその活動とは裏腹に部落への差別意識が強く、当時から水平社の強い非難を浴びていたが。開港前の神戸は辺鄙な場所だったというから、部落・一般を問わず、多くの人々が他の都市から神戸に流入して、都市が誕生した。神戸の差別史研究書『ミナト神戸コレラ・ペスト・スラム』(安保則夫箸)によれば、神戸市内に点在していたスラムを被差別部落の周縁部に押しつける「差別政策の結果」、新川がスラムとして肥大化していったという。差別政策は当時の市域の東西両端で実施された。東端が新川で、西端が長田区の番町地区だった。

■ 常に差別のプレッシャー 

   新生田川住宅が被差別部落と知った時、正直いって驚いた。そして考えさせられた。生田川公園テント村には、自衛隊以外に行政からの救援が皆無だったが、それは差別とは関係なかったのだろうか。テント村の被災者はほとんど全員が13号棟の住民だった。中山さんは「学校よりテントの方が気が楽だったから」と言うが、公の避難所の小野柄小学校ではなく、隣の公園に住民がまとまっていたことに「見えない壁」を感じるのは、うがちすぎだろうか。「13号棟は日頃から団結していたから助かった」と被災住民の女性が語っていたが、その日常的な団結も、被差別体験から否応なしに培われたものではなかったのだろうか。 

  中山さんは、新川のスラムで生まれ育った。生田川は各地から人が集まってつくられた被差別部落だが「両親は神戸出身ではないし、私も地区の外で育ったから、差別された経験はない」と言う。それでも、彼女の子ども達がまだ幼い頃、「地区のこと遊ぶようになってから、うちの子が悪くなった」と、人から露骨に言われたことがある。子ども達の躾に厳しかった理由を、「あんな親だから子どもも、と言われたくなかった。まして同和地区だから、と言われるんだから」と述懐しているように、常に差別のプレッシャーを意識させられてきたことも、また事実なのだった。 

   2年後には改良住宅が再建される。就職・結婚などでいまだ差別の根強く残る状況を考慮して、これまでは一般の市営住宅よりも低廉な家賃に設定されていたが、建設コストの増加などから、再建後は数倍に値上がりしそうな見込みだという。経済的な負担が増すことは避けられそうもない。中山さんもこう語るのだった。「神戸市は、一般の地区も同和地区ももう同じだという。でも山手と生田川と、芦屋と番町と、誰が同じようにみてくれるのか。決して同じには見てくれない」。 

  改良住宅以前はバラックに住んでいたという中山さんは、小学校は戦争のため満足に学べず、新制中学は貧困から途中で通学していない。働きながら、同僚達が書くのを真似て字を覚えた。夫が健康保険や年金の手続きを怠ったまま他界、彼女はそれを長い間知らずにいたため、結局、無年金状態である。65歳を過ぎないと息子さんの扶養家族には入れないから、健康保険も割高になっている。本人も「苦労のし通しだった」と今日までを振り返る。これらの苦労が本人の言葉通り部落差別とは無関係だとしても(本当は差別によるものだとしたら尚更だが)、理不尽との思いが募る。 

「長いこと生きていれば、それはいろいろなことがあるよ」と、中山さんは明るく乗り超えてきた。その明るさに魅かれて、このところ神戸に取材に行くたび、彼女のもとを訪ねている。 (■つづく)

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サッチー報道についてのそれぞれの言い分

■月刊『記録』99年9月号掲載記事

■■■メディアは「当事者」になってはいけない サンデー毎日編集部

■過熱する「サッチー報道について」

 まさに「過熱」ということが問題だ。火をつけ、あおったのはテレビのワイドショーだが、当初のように、「約束の時間に遅れた」「醜いと言われた」だのの次元にとどまっていれば、芸能界のゴシップとして許される範囲であったと思う。また、この時点で、野村沙知代さんがテレビに登場して反論していれば、あるいはここまで長続きすることもなかっただろう。しかし、野村さんが黙っていても、視聴率が稼げるものだから次第にヒートアップしてゆく。もとより視聴率は時代、あるいは社会の反映であるから、重要視することを否定はしない。が、遺産相続訴訟の相手方の実弟を登場させて「姉は米兵相手の商売女」としゃべらせたり、コメンテーターに「刑事事件になればいい」と言わせるのは明らかに行き過ぎであり、テレビが論争の一方の当事者になったといっていいだろう。線引きが難しいことは承知しているが、メディアは「当事者」になってはいけない。
「野村沙知代」が表すもの

 野村沙知代さんは、言ってみれば「最後の闇」を利用して一人で生きていく術を身につけた女性である。かつて、こういう女性はうしろ指をさされるだけだった。が、テレビを中心とするメディアに登場して目立ち出すと(チヤホヤしたのはあくまでもメディアの側であるが)、カンにさわり始める。しかも、その取り上げられ方が、どうやら新しい生き方としてクローズアップされる「自己実現」というものを体現している女性としてである。
 これは、旧来の価値観に基づいてじっと我慢を重ねてきた人達、それが美徳だと思ってきた人達にとって心穏やかではない。今、日本は、自分達の築いてきた戦後というものの意味を問われ、グローバルスタンダードという名のアメリカンスタンダードの波に洗われている。そうした不安感が実は「野村沙知代」という形で表れているのではないか。その意味で非常に今日的な問題であると思う。

テレビは「清濁あわせ飲む」メディア フジテレビジョン広報部

■「サッチー報道」の扱いについて

 野村沙知代さんの報道に対する当局の基本的なスタンスは、節度をもって扱うということです。当初、この事件は、二~三日で報道が終わるものだと思っていました。もちろん、その小さな事件に広がりを持たせたのが、テレビ・ラジオ・週刊誌・新聞などのメディアだという問題はありますが、現在も私どもは大きな事件だと考えておりません。
 だから野村沙知代さんに対する報道を、他局ほど流していないのです。例えば記録的な大雨となった六月末、当局のワイドショー番組は、野村さんの問題を一切取り上げていません。他局は違ったようですが。
 ただそうはいっても、この問題に対する視聴者の関心は高い。それは事実です。あの年代のタレントが正面きって文句をいうことは今までなかったので、話題性もあります。テレビ局として、全く無視するわけにはいきません。
 そこで一方的な報道にならないよう、常に注意を払って番組を作っています。

■報道の姿勢が大事

 例えば野村さんを批判した本が出版された時、当局は本が出版されたことは報じましたが、本の内容まで言及しませんでした。内容に立ち入れば、当然、一方的な報道になりますので。また、野村さんが借りたまま返さないと一部で報道された花瓶についても、野村さんのコメントも取り、双方の言い分を放送するようにしました。もちろん新事実がないのに、ワイドショー的な手法で話を引っ張り、報道を続けるようなこともしていません。
 視聴者が面白いものをテレビで見たいと考える。それは批判できないと思います。そもそもテレビというのは、全ての要素が入っているものです。「清濁あわせ飲む」メディアですから。日常をそのまま含んだメディアといえるかもしれません。
 もちろん野村さんへの報道も、そういった側面があります。そのため視聴者からテレビ局に寄せられる声も、「もっとやれ」というものから、報道批判まで、一八〇度にわたる違った意見が同時に寄せられるわけです。
 だからメディア論として、どうして野村さんを取り上げるのか、あえて理屈をつけることに大きな意味があるとは思えません。むしろプライバシーに注意して、慎重に報道する姿勢が大切ではないでしょうか。
(談)

■社会現象として扱い報道 TBS報道

報道に際する注意点

  「サッチー問題」については、他局と比べるとあまり報道していないのが実情です。ただし全く取り上げないわけにもいきませんでした。
 私どもは、ある段階からこの問題が、いわゆる芸能情報を越えた一種の社会現象へと変わってきたと感じ、情報番組などでもそのような社会現象としての扱いで報道をしてきました。その際、個人バッシングにならないように注意するのはもちろん、人権にも配慮した報道を心がけてきたつもりです。

■「サッチー報道」現象について

 サッチー報道全般についてどう思うかという質問にはお答えできませんが、前述のようなスタンスを持って当社が報道してきたことを、ご理解していただければと思います。

■■■マスコミの公人として扱う テレビ朝日 情報番組センター長・栗原直汎

■「サッチー」を取り上げる理由

 野村沙知代さんを当局が報道するのは、第一に衆議院議員として繰り上げ当選の権利を持つ準公人であり、公職選挙法に違反している可能性が高いからです。
 選挙当時の名刺の一部やパンフレットには、「コロンビア大学に留学」という文字が入っています。この言葉は、選挙戦の「装飾品」とされました。
 学歴詐称で参議院議員に当選した新間正次氏が禁固六ヵ月、執行猶予四年の判決を受けたことからも、彼女の疑惑がどれほど大きな問題かわかるでしょう。浅香光代さんらが訴えていたのも、まさにその点だったと思います。
 彼女を報道する二つ目の理由は、準公人としてあまりにも品位に欠けるからです。地元の酒屋に届けさせたビールをあまったから換金させたとか、花瓶を返さないなど今までに報道された疑惑は二〇あまりにもなります。
 ただし彼女の品位を問う報道については、視聴者も多くを知るところとなりましたので、新事実が出ない限りは、もうこれ以上取り上げるつもりはありません。ただ公選法違反については、いましばらく経過をみて、状況を追ってはっきりさせたいと思ってます。
 浅香さんが野村さんを批判し始めた当時、私は、これは二週間で終わるネタだと思っていました。実際、野村さんが記者会見を開くなど、通常の対応をしていれば、その程度で終わるものであったと思います。
 それが、ここまで長引いた理由の一つには、しばらく一切の釈明を拒否しておきながら、報道が下火になった頃に、野村さんが痛烈な反撃をしてきたからです。講演会もそうですし、フジテレビ系の番組や「おしゃれ関係」への出演、『サンデー毎日』での反論など、どれも都合の悪い質問を受け付けない、一方的な内容でした。だから、関係者から反撃が巻き起こったのです。「サッチー報道」の第一幕を落としたのは浅香さんでしたが、二幕、三幕目を作り出したのは、他でもない野村さんご自身です。
 マスコミ界に限っていえば、彼女は準公人ではなく、公人です。テレビ番組にも出演していましたし、本も出版して相当額の収入を得てきた方です。だからこそマスコミの報道に、彼女からきちんとした回答をいただきたいと思うのです。

■「サッチー」の報道にあたっては

 確かにマスコミの報道全体をみれば、一部に行き過ぎた面はありましょう。例えば、三〇年以上前の彼女のプライバシーを暴くなどは、すべきではなかったと思います。あれは人間の品位を傷つける報道でした。当局でも、かなり昔の話が一度だけ報道されましたが、すぐにそのような報道は行わないように徹底いたしました。
 現在、「論点をハッキリさせて、粛々と報道せよ」と、番組制作のスタッフに私は言い続けています。ズルズルと視聴率を稼ぐように話題をひっぱる報道は、すべきではないと考えているからです。
 一時期、視聴者からもヒステリックな反響がありました。まあ、七割が「もうやめろ」という声でしたが……。しかし現在、そうした状況を越えて、公選法違反という本題に論点も戻ってきています。その点では、現在の報道状況は適正なものであると思っています。

■■■公益性・公共性が判断基準 週刊読売 記者・臼井理浩

「サッチー報道」は報道か?

■そもそも「サッチー報道」は「報道」と呼べるのか。
 今さらいうまでもないが、報道の自由は憲法上の保障を与えられている(二一条)。ただし、それは国民が国政に関与するための判断材料を提供するためだ。そして、憲法は同時に、個人の尊厳に根ざした名誉、信用、プライバシーなどの権利も保障している(十三条)。シェイクスピアだって、「私の名前を盗む者は私の財産を盗む者である」と言っている。
 どちらが優先されるかは、公人であるか、私人であるか、公益性・公共性の重要度によって、あるいは具体的な事象の具体的な表現によっても、変わってくる。個人を侮辱し、罵倒するような表現があれば、それ自体で公益性がないと判断される。したがって、公益性・公共性がほとんどなければ、それは興味本位、のぞき見趣味と呼ばれ、報道の自由の埒外にある。「報道」でもなければ「報道人」でもない。
 そうした自分の会社の報道倫理綱領はおろか、憲法や民法の条文を読んだことのない人達が、短絡的に「視聴者や読者が望むから」と番組をつくり、文章を書けば、当然、今のようなファッショ的事態になるだろう。単純な数字至上主義の果てには、法廷での弁護士とのやりとり、謝罪文と損害賠償命令の書類が待ち構えているのをお忘れなく。
 ところで、人権派弁護士は何をしているのか。 ※このコメントは、『週刊読売』編集部としてのものではなく、臼井記者のものとしていただきました。

■各メディア、それぞれの言い分 『記録』編集部

  「サッチー問題」について、各種メディアにコメントを求めた。コメントを求めたなかで、意外な反応を示したのは日本テレビだった。最初の取材申し込みに対しては、「貴誌とつき合いがないので、今回見送らせていただきたい」と広報局から断りの電話。ただ、小誌はかつて日本テレビ・プロデューサーを取材したことがあり、「つき合い」はあった。しかも他ならぬ広報局を通しての取材だ。
 そこで該当する記事を郵送し、再度申し込んだところ、「検討中です」と言われた。だが、日を改めてもう一度コメントをお願いすると「あ~、その件はお断りします」という答えだ。仕方なく取材に応じない理由を尋ねると、「お断りする理由なんてありません。理由を言わなければならないんですか」と、逆に詰問された。日本テレビは、サッチー報道にはきわめて積極的だった局ゆえに、おおいに「言い分」を語ってくれると想像し、期待したので驚いた。あの報道ぶりをみれば誰だってそう思うはずだ。
 その他、サッチー問題を比較的大きく報じてきた各メディアの「言い分」を簡単に列挙しておこう。
 『女性自身』編集部からは、「編集部では、記事がすべてと考えております。本誌のそれぞれの記事・企画でご判断いただければと思います」と、ていねいな答えが返ってきた。また『週刊女性』編集部からは、デスクから直々に電話があり、「問題は継続中でもあり、今はコメントを差し控えさせていただきます」という回答だ。過激な記事で知られる『週刊アサヒ芸能』も、「うちはあまり報道しておりませんし、まだ騒ぎの最中でもありますので、現在はコメントを差し控えさせていただきます。経過を見てから、考えたいと思います」と話している。どのメディアもコメントを出さないまでも、出さない理由ぐらいは語るものだ。
 さほどサッチー問題を報じていない『週刊ポスト』からも、「個々の事件について報道しているだけなので、サッチー問題全体については、コメントは出しにくいですね」との電話を受けた。
 少なくとも「検討」の結果、「理由」もなく「お断り」するようなメディアは、一つしかなかったわけなのである。

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鎌田慧の現代を斬る/基地縮小の声をつぶすな

■月刊「記録」1996年10月号掲載記事(表記は掲載当時のままです)

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■最高裁判決への憤り
 沖縄問題は、政府と沖縄の関係だけではない。アメリカ政府と日本政府の関係の問題である。日本政府が、アメリカとの軍事同盟を解消すれば米軍基地はいらなくなる。この問題が解決しないのは、政府がアメリカとの対等の立場で交渉しないからである。
 9月8日、沖縄の住民投票は、沖縄の米軍基地縮小整備と日米地域協定の再編に賛否を問うための投票だった。結果は、米軍基地縮小と地域協定見直しに賛成482538票、反対46232票となった。投票率は59.53%だったが、これは8月4日に行った巻原発建設に対する住民投票の投票率より少なかった。しかし人口3万人の小さな巻町と127万人が生活する沖縄とでは、規模がまったく違う。この状況で89%もの賛成票が集められたことは、沖縄県民がいかに米軍基地問題で苦しんでいるかを明らかにものがたっている。
 投票の方法も「基地反対」が×印といったものではなく、基地縮小整備に賛成という非常にわかりにくい方式だった。無効票が12856票あったのかも気になる。 この投票は8月28日に下された最高裁判決に対する憤りも強く反映していると思う。私も判決を聞きに大法廷に出向いたが、沖縄の人達の想いを汲まない最高裁の態度に腹がたった。新聞などでも報道されているように、開廷したあと三好達裁判長は「主文、本件上告を棄却する」と言っただけで、15人の最高裁判事は全員逃げるようにして退席した。
 この時の沖縄の人達の深い失望は、その後の法廷を包んだ怒号にも表れていた。もちろん沖縄の島々で判決を知った人の失望も大きかったはずだ。傍聴に来ている人は1時間半近く法廷に座ったまま、「裁判長を出せ、どういうことだ」と声をあげ、不当な判決を追求しようとさえしていた。沖縄の戦後50年にわたる苦難の歴史をわずか数秒の判決で片付たのだ。彼らの強い怒りは当然のことだ。
 証人尋問で弁護団側が申請した23人の証人が却下された段階で、沖縄に住む人のナマの声を聞く姿勢が裁判所に全くないことは判明していた。しかし最高裁判事がここまでひどい態度で臨むとは、沖縄の人達も考えていなかったのではないか。15人の最高裁判事のうち実際に沖縄に行った人がどれだけいたのだろうか、沖縄の基地の存在による生活の不安や苦しさを、彼らはどれだけ感じることができたのか。結局、判決も杓子定規的な法律解釈に終始し、沖縄の想いは踏みにじられた。
 判決は「今回の土地使用認定に、無効となるような瑕疵(落ち度)は認められない」と断じ、地方自治に対する署名代行の申請にも違法はなく「知事の署名代行事務の執行の懈怠(怠慢)を放置することで、著しく公益が害されることは明らか」との「意見」を示した。これは大田昌秀知事を訴えた国の論理とまったく同じであって、最高裁の独自性はほとんどみられない。

■三権分立の放棄

「上告人(大田知事)の署名代行事務執行の懈怠を放置するときは、被上告人(橋本竜太郎首相)が本件各土地を駐留軍の用に供することが適正かつ合理的であると判断して使用認定をしているにもかかわらず、那覇防衛施設局長は、収容委員会に対する裁判申請をすることができないことになり、その結果、日米安全保障条約、日米地域協定に基づく我が国の国家としての義務の履行にも支障を生ずることになることが明らかであるから、上告人の署名等代行事務執行の懈怠を放置することで、著しく公益が害されることが明らかであるといわざるを得ない」。
 この判決に強調されているのは、日米安保、日米地域協定に基づく沖縄米軍基地の存続が国家としての義務だということだ。代理署名しないことが「著しく公益を害する」のであれば、公益とは何かと尋ねたくなる。
 公益を国益とする政府の見解に対して、沖縄の人達が訴えてきたのは、戦後50年にわたる米軍の占領状態や、米軍基地のおかげで個人の土地が強制収容されていることや、先祖代々の土地で米兵が度重なる人権侵害を起こしてきたことに対する切実な想いだ。さらには公益という大義名分のもとに、アメリカ本国の戦争に協力させられた悔しさだ。もうこれ以上戦争に協力したくないのに、強制的に協力させられてしまう不幸。アメリカ本国の国際戦略に沿って、沖縄が戦争に巻き込まれる現実。朝鮮戦争、ベトナム戦争、湾岸戦争などの国際紛争では、紛争地に向かう最前線基地として何度となく沖縄が使われたのだ。
 このような状況が公益に合致するのかどうかという議論を放棄して、最高裁の判決は下された。沖縄人民の利益と国の利益はまっこうから対立しているにもかかわらず、司法は両者の利益を判断しようともしなかった。そして最高裁判決は、「土地を駐留軍の用に供すること」を「公益」としたのだ。この判決は司法機関が3権分立を放棄し、国家機関として政府の方針に迎合する姿勢を明らかにするものだ。
 7人の裁判官から補足意見も提出されているが、これも国家と人権問題、土地の強制収容問題などを自分の頭で考えようとする熱意はない。「司法裁判所の審査に適しない性質の問題が介在している」(園部逸夫裁判官)、「司法による審査の限界を超えるもの」(大野正男裁判官など6人)。この補足意見を読んでみてもわかるだろう。彼らは自己で判断する機会を完全に放棄したのだ。
 日々発生する問題が適法で有るか否かを判断する責任を司法は持っている。にもかかわらず「外交上、行政上考慮すべき問題を比較検討すべきであるから、裁判所が一義的に判断するのに適切な事項とはいえない」と判決を下しているのだ。戦後50年経ってなお対米従属の姿勢は変わらず、変えようともしない。このような状況のどこに三権分立があるのだろう。

■住民いじめの「基地ころがし」

 行政に対する従属だけを考えた司法は、沖縄の人達の窮状については、いっさい耳を傾けなかった。
 沖縄において米軍基地に対する反対運動が起きたのは、少女暴行事件が発端だった。しかし運動が盛り上がったからといって、米軍による人権侵害がなくなったわけではない。米兵による暴行や交通事故が継続して発生し、報道されていた。
 沖縄では、戦後にもかかわらず準戦争状態が続いている。つねに戦争の危険にさらされているのが沖縄の人達だ。それは県道104号越えに実弾演習が行われていることからも明らかだろう。こういった状態を政府は放置し続け、本土に住んでいる日本人も目を向けることはなかった。自分達の生活の繁栄だけを目指して生活してきた。沖縄県民の窮状に対する無痛覚は、同じ日本人として恥ずかしい行為だ。
 少女暴行事件が報道されてから、政府は米軍基地を縮小整理する方向で話を進めている。しかしそれさえも抜本的な改革をしようとしているのではない。「基地転がし」によって、表面的な現象だけを押さえようとしている。
 臼井日出男防衛庁長官による静岡県の東富士演習場や山梨県の北富士演習場などの、実弾演習場移転候補地を抱える知事との話し合いは、まるで移転へのアリバイ作りだ。各県知事からの猛烈な反発は当然だ。日本の領土で不当に演習する米軍の駐留地を、沖縄以外の県で探そうという発想自体が間違っている。沖縄の人達が訴えてきたのは、日本全体の米軍基地そのものを具体的に整理縮小していく道筋であって、自分達の苦難を他人に引き受けてもらおうと訴えているわけではない。
 政府は国民の私有財産を守るべき責任があるのに、米国軍による「不法占拠」に向かい合おうとさえしていない。強い米国に立ち向かえない腹いせに、弱い地方住民の横面をはり倒すように「基地ころがし」をするのは、きわめて卑劣な行為だ。

■第2の琉球処分

 沖縄は太平洋戦争時に、日本で唯一日米の地上戦が行なわれ場所だ。本土決戦にそなえる時間稼ぎのために、多くの沖縄の人が死んでいった。この時行なわれた日本兵による沖縄住民の虐殺や集団自決の強制、波照間への集団移住によるマラリア患者の大量発生など、極めて悲惨な歴史を沖縄県民は忘れてはいない。被害を押しつけた本土の人間の身勝手を忘れていない。しかも戦後50年経ってなお、沖縄をくいものにする構図は変わっていないのだ。
 戦後日本の発展は、軍備を必要以上に増強せず米軍を駐留させ経済発展だけに力をつぎ込む「安保タダ乗り」によって得たものだ。もっと厳密に言えば、沖縄に米軍基地の75%を押しつけて本土の人間が繁栄をむさぼってきたのだ。日米安保の条約通り米軍を駐留させるのは国家として当然のことだといった理論を認めることはできないし、沖縄の人達に対する視点の欠落はどのように説明されても納得できない。
 国際紛争時には最前線基地となり、米兵による犯罪は多発する。そんな沖縄の状況にも、日本人(内地人)は平然と繁栄の享楽にひたっていた。日本人の沖縄問題に対する無関心は、アジアの人に対する戦後補償問題への無関心と同じだ。
 そもそも日米安保条約は、実質的な「日米戦争同盟」にほかならない。つまり日本は米国の国際紛争に参加しているのだ。このような同盟関係が、現状に即しているのかどうかを考える必要がある。
 8日に行なわれた住民投票は、基地を押しつけて知らん顔をしていた内地人に、沖縄の人達がはっきり基地縮小整理と地域協定の改善を訴えた。橋本首相も大田知事との会談で50億円の特別調整費計上を発表した。もちろん沖縄の経済振興は必要であるが、米軍基地返還の要請は先延ばしするわけにはいかない。いつまで、「琉球処分」を続けるのか。(■談)

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鎌田慧の現代を斬る/住民投票と原発

■月刊「記録」1996年9月号掲載記事(表記は掲載当時のままです)

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■投票率82・9%

 反対12478票、賛成7904票。
 8月4日、新潟県巻町で行われた原子力発電所建設計画に対する住民投票は、予想された通りの結果に終わった。嫌なものは嫌だという極めて明快な結論が出たわけだ。
 82・9%という投票率の高さからも、とにかく自分達の想いを投票に表わしたいという住民の意思が伝わってくる。一方で賛成票が8千票近くまで及んだことは、予想より少し多かったかもしれない。反対運動の盛り上がりに、政府と東北原発側はなりふり構わぬ巻き返しを展開した。原発の視察と称しての観光ツアーなどは買収行為そのものだ。
  もし政府と電力会社がてこ入れしなければ、賛成票はもっと少なかっただろう。このような状況の中で、明らかな反対の意思が表れたことは、非常に大きな成果だと思っている。
 しかし問題は解決していない。住民投票の結果を受けてさえ、塚原俊平通産相は、「結果は、まだ十分な理解が得られていないことを示していると認識しております」と発言し、八島俊章東北電力社長も「(投票結果が)絶対のもという認識はない。さらに理解活動をするしかない」と発言している。
 国や電力会社は、原発に対する地元の理解が足りないため、住民投票で負けたと考えているようだ。
 実はその認識こそが大きく間違っている。理解が足りないのではなく、住民が自分で理解し判断したからこそ、こういう結果になったのだ。賛成に投じた7904人こそが、原発の実体を理解していない人なのだ。

■札束で頬をたたく「理解」

 今までは原発に対する正当な判断が下されないまま、建設が進められてきた。たとえば巻町での賛成派のスローガンは、「原子力発電で町の活性化を!!」だ。原発によってもたらされるカネだけが焦点になっている。
 原発自体を好きな住民はいない。交付金が増えるとか、地方議員にそれなりのメリットがあるとか、地元の土建会社の仕事が増えるとか、カネに換算した賛成票が国と電力会社によって作られた。これは原発に対するYES・NOの問題でない。
 電気事業連合会の荒木浩会長は、電源3法交付金が公民館などの箱モノ造りだけにしか使えないことを取り上げ、「カネの使い方を変えなければ、もう地域の理解を得られない」と発言している。
 ばかでかい公民館や体育館を造り続けていたことに対する反省のようだが、交付金の使い方を変えても、金で買収していく発想はまったく変わっていない。しかし札束で頬をひっぱたくのは「理解」ではない。
 一方、巻町のNOの声は、自分達の運命は自分達で決めるという意思が明確になったものだ。過去の原発建設は、国と電力会社が地方自治体の長や議会だけを洗脳して進められた。しかし巻町の住民は、原発の賛否を住民に直接問いかけなければ承知しないという一歩進んだ見解を示した。
 住民の「理解」とは、どういうふうに生活していくのかを考えることから始まる。生き方に対する問いだ。国や電力会社が考えるようなカネの使い方が問題なのではない。カネやモノでは原発建設を説得できない時代に入ったのだ。
 もちろんチェルノブイリや、スリーマイル、もんじゅなど原発事故によって住民が危険性を感じた影響はある。しかしそれ以上に、地方自治体を買収していくということに対する反発の強さを、国や電力会社が理解しなければいけない。
 成田空港建設反対運動でさえも、政府のやり方がまずかったと運輸省が住民に謝っている。時代は変わってきているのだ。国益になるからだとか、カッコつきの地元のためなどで、政策を押しつけるのは民主主義ではない。
 今度の巻原発の問題ではっきりしたのは、強権的に意見を押しつけることは、国であっても許されないということだ。このような当然の事実が、巻町だけに適用されるわけがない。そのような意味で他の地域に与える影響が大きい。

■戦争時の論理だ

 住民が原発をいらないと言っているわけだから、いやなモノを押しつけてるのは、住民自治に対する挑戦だ。「計画の凍結を考えていない」と談話を発表する江崎格通産省・資源エネルギー庁長官などは、地方自治の精神をまったく理解していない。
 たとえば何らかの開発で、100%良いとものがあったとしても、住民が嫌だと言ったら開発は進められない。住民の判断を無視して意見を押しつけるのは、そこに住んでいる個人個人に対する冒とくだ。原発政策が初めにあり、方針通りに建設して原発の発電量を高めていくのというのでは、国の方針自体が間違っているとしか言いようがない。
 さらに国にとって重要な政策を、たかだか地方の住民に任せられるかどうかといった意見も出ている。これは本末転倒だ。国家権力が国益を理由に、嫌がる市民を駆り立てるのは戦争時に使われる論理だ。市民が嫌うことを押しつける権利は、国にはない。
 憲法でも地方自治がうたわれている。地方自治とは住民の意志を尊重するものだが、投票結果が出た後の政治家や役人のコメントを読んでみると、その辺の意識がまったくない。このような状況下で国の押しつけに対して、嫌だと意志を明らかにしたことは歴史的な意味を持っている。

■中間派が反対派に

 住民投票で原発反対派が勝利した要因は、反対運動の柔軟性にある。反対運動していた人達が、町民にわかるような言葉で説得をし、運動家と町民が同じ視点で活動してきた。たとえば原発反対の意志を千羽鶴を折って伝える。ポールを立ててロープを張り、自分の気持ちを書いたハンカチをクリスマスツリーのように結びつける。自分達ができるささやかなことを、こまめにやってきたことだことで、反対派の声は町全体の声になった。だからこそ中間派といわれる人達が、中間派を踏み出し、市民として勇気をふるって反対派になった。
 国策があり、電力会社の膨大な金があり、極めて強権的にやってくる原発計画に対して、ささやかすぎるようにも感じられる運動が、町民の気持ちを捕らえていったのだ。
 さらに決定的に他の運動と違うのは、原発建設は住民投票で決めろと提起したことだ。住民投票条例の制定は、芦浜(三重県)、窪川(高知県)、串間(宮崎県)などでも行われた。しかしこれらの地域は、まだ原発用地の買収が進んでいない状況だった。それに対して巻町では、建設のための準備はほとんど整っていた。いうならば9回裏だ。そこまで追いつめられていたのに、住民投票で決めようという雰囲気を作っていった姿勢はすごい。

■1万人が自主住民投票に

 選挙はどこでも膨大な金をばらまいて行われている。地縁や血縁、買収などさまざまな要素で成り立っている選挙は、原発だけを判断したわけではなかった。ここに住民投票を行う理由がある。住民投票による政治判断は、議会制民主主義を否定するものだという意見もあるようだが、議会制民主主義の機能を真に発揮させる手段として、住民投票もあるのだと思う。住民の直接参加による決定は、間接民主制の強化につながる。
 巻町でも最初は住民投票の意義が認められずに、自主住民投票が行われた。これも驚くべき発想だ。住民投票といえば、町が主催しないとできないと思ってしまう。そのときに町がやらないなら自分達でやろうというのは、強い自治意識の表れだろう。
 自主住民投票にかかるお金も自分達で工面したほどの熱意とエネルギー。賛成・反対を超えて、結果を住民の意識に任せようとする住民への信頼感。この2つが、巻町に新しい流れを生んだ。
 当時の自主住民投票では、賛成・反対含めて10328票が集まった。小さい町で、町長が反対している住民投票へ行くことは、町の体制に反対することだ。自主住民投票行くこと自体が、なかなか大変なことだったのだ。それを吹っ切って、夜行ったり、見つからないように投票に来た人が1万人を超えた。
 さらに、反対だが投票に行けなかった人を掘り起こすために、住民投票条例を押し進める議員を町議員選挙で擁立した。住民投票をしようという選挙運動は、原発についてまだ結論出ていない人や、無意識的に賛成だった人に、もう1度考える機会を与えた。そんな選挙活動にともなって、原発に反対する人が増えてきのも事実だ。
■住民不在の賛成派

 今回の住民投票に向けて、反対派は小さな集会を開き、個別訪問で意見を聞いて回った。賛成派は通産省の役人や、電力会社の幹部が応援にかけつけた。カネと人を導入し、原発がなくなるとエネルギーがなくなると脅かしさえしたのだ。巻町の住民をどうにか説得しようと、外から応援を呼んだ賛成派と、自分達のことは自分達で決めるからと、外からの応援を入れなかった反対派。投票前に、どちらがどのような姿勢で運動にのぞんでいるのかがはっきりと表れていた。
 じつはこのような反対運動を支えてきた基盤が巻町にはある。それは町有地と反対派の共有地だ。原発建設の歴史の中で、建設予定地に反対派が土地を買ったことはなかった。巻町の場合は、敷地内に共有地があったため、建設前の検査を行う安全審査委員会を通過できなかったのだ。
 原発建設予定地に町有地が残っていることも前代未聞だ。もちろん町有地、国有地は、どこの原発予定地でもあるが、先に地方議員が買収されるので議会は売却を決定してしまう。ところがこの共有地が裁判で係争していた土地だったことが幸いした。ようやく町有地だと落ち着いた時には、原発に対する批判も高まっていたのだ。 原則的には、町有地は町長の先決権で、勝手に売ることができる。しかし住民達が納得しないうちに決定すれば、次の選挙が危なくなる。そんな力関係が働いて売却ができなかった。

■メーカーの陰謀にも負けない

 自民党内では、これからの原発立地ができないなど、不安感が広がっている。エネルギーが足りなくなるなら、また住民を説得しようと考えているようだ。しかし本当に必要なのは、これからのエネルギー政策をどうするのかを考えることだ。
 原発では1時間当たり130万キロワットを発電し、広いエリアをカバーしようとしていた。そのような政策を見直し、地域ごとの小さな発電所で補っていけばよい。風力、地熱、太陽などの発電方法もある。また原発ができることで要りもしない電気製品がさらに売れるともくろむ電機メーカーの陰謀に負けないことも重要だ。膨大な欲望をすべて電力でなかなう生活から、電気を少しでも使わない生活に変える時期がきている。
 巻町の住民投票を契機に、これから日本のエネルギー転換や、新しい生活の仕方の模索を始める必要がある。 (■談)

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鎌田慧の現代を斬る/JR偽装倒産

■月刊「記録」1996年8月号掲載記事(表記は掲載当時のままです)

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■JRは2重の不法だ

 国鉄分割から10年目を迎えるというので、さいきんでは、テレビ・新聞などのマスコミでもこの問題をあつかうようになってきた。
 問題は大きく分けると2つある。
 1つは、分割に反対していた国鉄労働組合の組合員を中心に、解雇された1047人の問題が解決していないということだ。
 もう1つは、国鉄清算事業団に残された旧国鉄債務の問題だ。債務は今年3月までで27兆6千億円にもなり、年間の日払いは1兆3千億円に達している。さらに、国鉄が分割された時点から比べて、長期債務は2兆1千億円も増えている。しかも、これらの債務はそのまま国民に押しつけられようとしているのだ。
 そもそも分割民営化は中曽根康弘首相(当時)が行なった政策だが、彼は、「1人の首切りも出さない」と国会で豪語していた。ところが実際は、分割政策に反対した労働者を大量に解雇したうえ、9年経ってもこの問題は解決されようとしていない。

新幹線の運転士を売店に回すなどの不当な配置転換で、国鉄は彼らをいじめ抜いた。さらには「人材活用センター」という場所に、国労の活動家たちを集めて、いっさい仕事を与えないでいた。
 僕は「留置場に送られた政治犯だ」と表現した。仕事から外して島に流したようなものだ。国鉄がJRになったあと、彼らを採用せず、結局クビにしてしまった。このような処置は、地方労働委員会でことごとく不当労働行為だと認められ、中労委でもほぼ同様の見解が示された。また現在係争中ではあるが、最高裁判所でも労働者側の主張が認められた判決もある。
 労働裁判所というべき公の労働委員会で、不当労働行為だと認定して、法律にもとづきJRは謝罪文を掲載したにもかかわらず、まだ採用していないのはどういうことか。不当労働行為というのは、労働法違反であり、その行為を認定されてなおかつ採用しないということは二重に不法だ。法治国家である日本で労働委員会の決定を守らないのは異例の事態だ。
 理由のない解雇を国が押し進めたため、景気が悪くなったら、簡単に弱者をリストラする風潮ができてしまった。また当時、国鉄民営化に反対ならクビにしろと動労が主張したことにより、自分に対立する組合はどうなってもいいというような風潮もつくられた。日本の労働運動に非常に悪い影響を与えたことは間違いない。

■国民の金を大資本が略奪

 東日本・西日本・東海のJR3社は黒字で、営業努力のたまものと言っているが、黒字は初めから予想されたことだ。もうかる部分をそのまま引き継げば、黒字になるのは当たり前。誰が経営してももうかる。ローカル線など儲からない路線を切り捨てて、売店などで運転士たちを働かせ、もうけをあげてきたが、これはすべての地域の住民や労働者に犠牲を押しつけて上げた利益だ。
 これらJR3社に対して、経営が厳しいのは北海道・四国・九州のJR3島とJR貨物だ。利益をあげるのが難しいのは、分割当時からわかっていたにもかかわらず、見切り発車してしまった。
 国鉄民営化は偽装倒産の方法そのものだ。会社を潰して、労働者をいったんクビにして、言うことをきく労働者だけを再雇用し、もうかる部分だけで再建していく偽装倒産は、悪徳経営者がよくやる手法だ。このようなきわめて前近代的な方法を、国家レベルで実施したのが、一般に国鉄改革といわれる代物だ。
 さて、27兆6千億円まで膨れ上がった債務だが、当初、赤字は国鉄用地とJRの株を売って埋め合わせることになっていた。この計画は、バブル経済まっさかりの時期のものだった。
 当時、東京や大阪などでの都心に広い土地が全くなくて大きなビルが建設できず、建設業界や不動産業界が困っていた。当時は中央・千代田・港の3区を中心にして、ものすごい土地買い占めが行なわれ、土地を売らない商店にはトラックが突っ込むなど、地上げ屋が起こした悪質な事件が連日報道されていたのを覚えている人も多いだろう。零細商店なども金で頬をひっぱたかれて追い出された。当時の土地は膨大な需要見通しがあったが、供給量は不足している事態だった。ウォーターフロントの建設計画なども、このような状況を改善するため、東京湾を埋め立ててビルディング街を造ろうとする計画だった。
 さらに都心の土地を少しでも供給するため、国有地を民間に払い下げていこうする方針を国がつくった。国鉄用地売却もこの方針に沿って立てられたものだ。実は国鉄の土地売買の前にも、都心の公務員住宅が政府の方針にもとづいて販売された。当時、これらの土地は暴騰して買い手が殺到したのだ。
 結局、土地を売った金で国鉄の赤字を一気に埋めようとする、バブル経済をあてこんだ大プランはバブルとともに沈んだ。日本で一番強かった労働組合を潰して、労働運動を静かにさせてしまおうとした試みは、一応成功したのだろう。国労のバッチを付けているだけでも処分し、言うことをきかないとJRに採用しないなど脅しをかけ、国労は分裂させられた。当時、40万ぐらいいた組合員も、現在では3万人ぐらいに減っている。しかし後に残された問題はかなり大きい。
 分割民営化は、国民が税金で支えた国鉄の財産の収奪と、労働運動を潰すという2つの目的があった。当時は民活という言葉が流行したが、要するに大資本を活性化するプランだった。
 株式上場も、国民の金を株主が略奪していく構造そのものだ。国民の土地と国民の金を、大資本が喰っていくのだ。当時、NTTの株は高騰し、国鉄本社だった丸の内の土地も、1坪8千万~1億円といった声があった。土地を買って、ビルを造ってもうけていくという思惑が外れて、こんどはそのツケを国民に回すということを政治家と大資本が一体になってやったのだ。
 今後も分割から10年ということで、御用学者を中心にさまざまな宣伝が出てくると思うが、彼らがいくらJRは頑張ったと言っても、前述のようにそれは当たり前の結果に過ぎず、むしろ思惑がはずれて増えた借金をどうするのかといった問題が重要だ。
 国鉄処分のやり方が悪質であったのは、国鉄つぶしの3羽ガラス(3悪人)とされた井出・葛西・松田の3人が、もうかるJR3社の社長にスンナリ納まっていることからもわかる。自分達で会社を分割して、社長に納まる下克上だ。

■時代に逆行の廃線

 分割以前から合理化の名の下に、収益の上がらない路線は、どんどん切り捨てられた。鉄道は公共事業だから国民の足を確保しなければいけないのに、もうからないという理由だけで切り捨ててしまい、周辺の過疎を促進させてしまった。北海道では使われなくなった駅を中心に、周りの集落が壊滅状態のところがいくつもある。当初、廃線の代わりに代替バスを走らす計画を立てていたが、鉄道とともに生きてきた町は結局壊滅してしまった。
 例えば松江から中国山地を抜けて山陽本線に通じる島根県の木次線は、今でもかろうじて走っているが、JR西日本が上場されると廃線になるのではと地元の人は不安に感じている。株式会社は、合理化によって利益を追求する。公共性とか住民の便利さは考えなくなるだろう。住民が便利になるとか、生活が豊かになるとかいう方向で国鉄の改革が進んでいない証拠だ。
 鉄道には「我田引鉄」という言葉もあるほどで、政治家が地元への土産にするとの批判もあるが、少なくとも住民の要望は存在する。政治家が利権にからんで引っ張ってきたという問題はあるにせよ、多くの地域に鉄道が走るのは悪いことではない。公害は生まないし、資源を喰うこともなく、より安全だ。最近はそういった観点から、鉄道が見直されてきている。ところが時代に逆行して鉄道を切っていくという政策を取っているのがJRなのだ。

■土建屋行政のなごり

 さらに新幹線の問題がある。国鉄の赤字が増えたのは、新幹線建設の赤字を引き延ばし、解決しないうちに利子が雪だるま式に膨れ上がったのが原因だ。何しろ新幹線が登場するまで国鉄は黒字だったのだ。
 新幹線は政治的な利権の対象で、田中角栄の利権も大きくからんでいる。今まで政治家の利権の道具として使われきたから、分割民営化以後は政治家との関係を切れると国鉄経営陣は公言してきたが、現在、新聞を賑わしている整備新幹線問題では、旧態依然として、政治家主導である。
 民間企業としてのJR各社が、リスクを背負って新幹線を走らせるのなら問題はないが、JRは新幹線の建設費をカバーできず、自治体の負担を求めている。これは旧国鉄と全く同じ構造だ。あれほど政治に利用されないといっておきながら、また国の資金を使って整備新幹線をつくれといっているわけだから、公共性の強い交通を民営化するという試みは失敗したというべきだ。
 地方行政も新幹線と引き替えに、多くのものをひきうけてきた。青森県の核燃料サイクル施設の建設などもそうだ。長崎県の場合は、原子力船「むつ」の入港の条件と、長崎新幹線が利用された。新幹線は中央政府にとっても、政治的利用の大きな手段となっていた。
 整備新幹線に関して、96年7月16日の朝日新聞は、「7月16日には都内で国会議員140人を含む500人が参加して建設促進総決起大会も開かれる」と報道している。しかし、新幹線の建設経費は上がる一方だ。東北新幹線の建設では、8800億円の予算が組まれたが、実際には2兆6600億円もかかっている。なんと計画の3倍だ。上越新幹線にしても、4800億円の予定が1兆6300億円もかかってしまっている。
 新幹線ができると便利になると思い込んでいるが、新幹線の開通にともなって在来線が切られるので、国民は高い運賃を払わなければならなくなる。出張旅費が浮くので大企業にとっては便利かもしれないが、これから造ろうとしているところは、国民生活にそれほど多くの利益をもたらすとは思えない。もちろん、あったほうがいいのだろうが、なくて困るといった問題でもない。空路も発達してきている。それでも政治家が造りたがっているのは、土建屋行政のなごりだ。

■カード破産の日本国家

 現在日本は、放漫経営が破綻して公債発行高で220兆円にのぼっている。それがこれからの若い連中に押しつけられ、一方では、湾岸戦争や米軍への思いやり予算など無駄に金を使っている。なんと96年度の米軍駐留経費の総額は、約6400億円にもなる。今の繁栄のためにだけに、後の世代にツケを回している。日本はところかまわず金を使ってカード破産の一歩手前のような状態なのだ。
 その金を貸しているのは銀行だが、銀行は国鉄の場合でも金利はちゃんと回収している。だから年間1兆3千億円の金利は銀行に払っているのだ。日本の経済も行き詰まり、政治改革も議論されているが、10年前の大盤振舞の政治、経済構造は、今でも変わっていない。さらに責任を取る人もいない。大臣も高級官僚もすぐ変わってしまう。
 大資本と結託した政治が変わらない限り、日本は後世に大きなツケを残し続けることになる。(■談)

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鎌田慧の現代を斬る/空の女工哀史

■月刊「記録」1996年7月号掲載記事 (表記は掲載当時のままです)

■鎌田慧(かまたさとし)・・・ルポライター。新聞記者を経てフリーになる。著書に『痛憤の時代を書く』『コイズミという時代』『自動車絶望工場』『家族が自殺に追い込まれるとき』『壊滅日本』『ドキュメント屠場』など多数。 

        *         *         *

ガルーダインドネシア航空の事故で、スチュワーデスの問題が問われている。緊急時に意志疎通できるスチュワーデスがいなかったのは、安全管理上の問題である。スチュワーデスは安全要員だのだ。
 最近、少し頼りなげなスチュワーデスが国内線にふえている。1年ほど前から、アルバイトスチュワーデスの採用が本格化したからだ。日本航空・全日本空輸・日本エアシステム・日本アジア航空・エアーニッポン・日本エアーコミューター・ジャパン=エア=チャーターの航空7社では、現在2000人のアルバイトスチュワーデスが乗務しているといわれ、96年度上半期にはさらに1000人以上もの採用が見込まれている。

 全日本空輸の普勝清治社長は6月4日の会見で、アルバイトスチュワーデスからの正社員採用について、今秋の100人枠に加え、来年度も100人以上を採用すると発表した。
 1996年6月、運輸省の航空審議会答申において、人件費削減の中心として発表。8月には亀井静香運輸大臣(当時)が、「安全性に問題がある」と発言して導入が再検討されたものの、94年9月には採用が決定した。 当時のマスコミ各社の論調は、「アルバイトの導入に反対をとなえる亀井発言は、スチュワーデスになりたい女性の夢を壊すものだ」といったものだった。しかしこのような論理は、問題の本質を握りつぶしている。この問題は、労働運動史において重大な意味をもっているのだ。
 航空会社は人件費の削減を盛んに唱っているが、バブル期には海外の土地を買いあさり、ホテルなどを建設していた。しかも円高で燃料の輸入費が大幅に下がり、かなりもうけている。バブル経済に乗って浮かれていたツケを、スチュワーデスの雇用に回すのは、あきらかにおかしい。経営者の責任が問われるべきだ。
 航空企業は公共性が高い。それは何よりも安全性を重視しなければいけないからだ。スチュワーデスは、ただのお茶くみではない。出発に際してはエンジン音を聞き、運航中も窓から外部の状況を確かめ、コックピットから見えない部分を補強して、安全に航空機が運行できるようにしている。
 もちろんシートベルトの確認など、乗客の安全を確保するのも大きな仕事だ。安全業務に携わるスチュワーデスの人件費を削ることは、安全より利潤を重視した企業の体質の現れだ。

■俗情を利用する航空会社

 スチュワーデスやパイロットの高給は安全保障の面から社会的に認知されてきた。つまり高い賃金は既得権として保証されてきたのだ。航空各社は、この既得権をはく奪しようとしている。
「社員の賃金をいじるわけではない」と会社側はいうが、労働条件が重大な改変に瀕しているのは明らかだ。アルバイトスチュワーデスの賃金は、地上勤務が1100円、乗務が1800円となっている。この時給を年収換算すれば約250万円となり、社員の半額以下になってしまう。スチュワーデスの人気にかこつけてアルバイト制度を押しつけるのは、やり方がきたない。
 またスチュワーデスやパイロットは華やかな職業のため、やっかみをうけやすい。本来、他人の労働条件を劣化させる必要などないのに、やっかみを利用して世間の俗情を喚起し、高賃金を押しつぶそうとする会社側の策略に、新聞社は乗ってしまった。
 華やかで高給な職業を切り崩せば、それを突破口に他の労働者の賃金もカットできる。今後、整備士などの航空会社全体の賃金にも影響をおよぼすだろう。一方で会社側は、スチュワーデスの華やかなイメージを売りにして宣伝を作り、安全業務に携わる専門職という実体を隠している。安全面から考えれば、スチュワーデスはベテランの方がよいのに、排除しようとする動きも問題となっている。これは一種のセクシャルハラスメントだろう。

■臨時工制度の復活

 今後は職場の退廃も大きな問題となるはずだ。
 同じ職種の中で賃金階層を意識的につくり、アルバイトから何人かを正社員に採用するシステムでは、アルバイトと正社員の間に大きな溝ができる。正社員への窓口を狭くすればするほど、アルバイト内で競争が起き、経営者の好きな条件で働かせることができる。1年ごとの契約更新で3年契約という厳しい労働条件のなかで、労働者は言いたいことも言えず、上司への点数稼ぎを余儀なくされる。このような前近代的な労働条件は、臨時工制度と全く変わらない。アルバイトスチュワーデス問題は、アルバイトに名を借りた臨時工制度の復活だ。
 臨時工とは、雇用期間があらかじめ決められている労働者をさす。52年の朝鮮戦争停戦以後、臨時工は急速に増加し大きな社会問題となった。しかし高度経済成長の過程で、労働組合が臨時工の本工化闘争に力を注いだこともあり、本工に登用される臨時工も増え、臨時工制度は撤廃されていった。
 本工になりたいと願う臨時工の希望を悪用することで、臨時工は会社や上司に従属させられた。また自分の下に差別集団があることで、本工は安心していた。このような職場環境は社会そのものを悪くしていく。さらに不況ともなれば、臨時工は本工を守るために、まっ先にクビを切られた。
 差別は職場内だけに止まらない。宿舎も本工がきちんとした寮なのに対して、臨時工はボロ長屋を与えられただけだった。本工化闘争で、「臨時工は本工の防波堤ではない」「臨時工も人間だ」といったスローガンが掲げられたのは、このような理由がある。

■プライドが状況を混乱

 近年、サービス産業においてアルバイターが増えてきている。いつでもクビにでき、身分保障もなく、賃金が安く、社会補償費のかからないアルバイターは、固定費をどれだけ安く抑えるかに悩む企業にとって、うってつけの存在だ。ところがアルバイター自身は、そのように考えていない。
 アルバイトスチュワーデス問題でも、安全性に影響が出ると論じると、アルバイターをバカにしていると反論される。同じ能力を持った者が、同じ仕事をしながら賃金や身分において差別されているの現状を考えれば、どちらがアルバイターをバカにしているかわかるだろう。

■経団連の方針のさきがけ

 こうしている間にも、問題は深刻さを増してきているのだ。航空労組連絡会の会議では、アルバイトスチュワーデスが発言できない事態も出てきている。平均給与が13~14万円といわれるアルバイトスチュワーデスは、働かなければお金をもらえない。有給休暇もない。病気でも会社を休めない。国際労働機関(ILO)でも、パート労働条約が採択され、フルタイム労働者との差別は国際的に認められていないにもかかわらずだ。
 またアルバイトスチュワーデスは国内線を中心に勤務するため、今まで国内線勤務だった正社員は国際線に乗務しなければいけなくなった。そのため家庭を持っているスチュワーデスは、家庭での生活を犠牲にしなければならない。
 アルバイト制度発足当初は、ジャンボ1機あたり新人乗務員は3人以下と決められていた。ところが現在では、アルバイト10人に対して社員が3人といった飛行機も出てきている。新人ばかりの飛行機で、何か事故があればどうなるのか不安だ。このような状況に乗客は無関心だが、命に関わる問題とわかっているのか。
 多くの問題をはらむアルバイトスチュワーデスは、すぐにでも正社員にして、問題を解決すべきだ。ところが、このような前近代的な雇用体系を経団連は推奨している。
 エリートである社員と使い捨ての柔軟雇用グループにわけて雇用する方針を経団連は打ち出した。アルバイトスチュワーデスは、実質的に経団連の方針のさきがけとなっている。
 アメリカでは三菱自動車でのセクシャルハラスメントが大きな問題となった。日本国内でさえ近代的な職場を作れない日本企業が進出先で批判を招くのは当然だろう。このことは何年も前から私も指摘してきた。問題として表面化しにくいアジアでも同様の問題が起こり、いずれは逆襲されるだろう。もう一度、企業のあり方を見直すべき時期にきている。(■談)

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もう1度バブルに踊ろう/第1回 500階のビルが建ち、50メートル地下に飛行機が飛ぶ

■月刊「記録」04年1月号掲載記事

■大畑太郎(おおはたたろう)…1969年東京都生まれ。大学卒業後、サラリーマンをへて、アストラに入社。共著に『ホームレス自らを語る』(アストラ刊)などがある。

         *        *         *

 暗い! 恐ろしく暗い話ばかりである。
 まず景気のいい話を聞かない。雑誌やマンガまで売れない出版業界はもちろんのこと、業績の悪くない一部のメーカーの社員からも、浮いた話は聞こえてこない。
 給料が下がったの、大リストラが行われているの、仕事がきつくなったの、もうグチのオンパレード。
 多くの人が自信を失っているようだ。その落ち込んだ気持ちを支えるためなのか、景気が悪くなるにつれて偏狭なナショナリズムも活発になってきている。
 これは、イカン!
 思い出してもらいたい。わずか15年ほど前、日本はバブル期のまっただ中にあった。誰もが明るい未来を信じていた。株価は軽く4万円を超え、地価は青天井で上がっていくと確信していた。1989年12月29日に記録した3万8915円の株価最高値以後しばらくも、多くの人が株価が再上昇すると思っていたのだ。今考えれば酔狂な話だが、経済の専門家から素人まで、なぜか本気で信じていたのである。
 しかし「信じる者は救われる」との言葉もある。あの熱狂が実体経済を反映してなかったとしても、当時のむやみな自信と異常なほどのファイティングスピリットは、今こそ必要なのではないか!
 さあ、あのバブルの熱狂をもう一度感じるべく、当時の仰天世相を一気に紹介しよう。気分だけでもバブルに踊っていただきたい。
 ただ、現実離れした話が多くて、ついて行けないかもしれないけど……。
千代田区に匹敵する床面積
  『昭和63年(1988年)版国土土地利用白書』は、東京近郊の地価上昇の原因の1つとして、「東京への機能集中による商業地の受給逼迫」をあげていた。つまり東京への一極集中にともなって、オフィスなどの商業地が足りなくなったと言いたいわけだ。
 このどんどん高まる土地重要を見込んで、今や壊滅状態のゼネコンも大規模な建設計画を発表した。
 例えば、1989年に発表された大林組の「エアロポリス2001」。まず東京湾の浦安沖10キロに、直径740メートルの人工島を建造し、そこに高さ2001メートル、500階建てのビルを建設するというものだ。
 もう、テンションが違う。
 高いビル建てるために、人工島を造っちゃおうというんだから。まあ、仕方ない。東京の商業地は、今後どんどん足りなくなる「予定」だったのだ。
 延べ床面積もすごいぞ。1100万平方メートル、なんと千代田区に匹敵するほどの大きさだという。このビルには30万人が就業し、14万人が居住する計画になっていた。総工費予算は、なんと46兆6300万円。もはや国家予算なみである。
 そして超高層ビルにつきものの免震対策には、かつてないほどのユニークな方式を採用している。ビルの傾きと反対方向に向かって、ジャンボジェット機以上のパワーを持つ水が噴射されるんだと……。素人考えなんですが、ビルは折れないでしょうか?
 もちろん未来への提案という形でまとめられた構想であり、実現には多くの壁があったと思う。しかし少なくとも完成予想のパースを描き、大枠の見積もりまで計算している。その程度の手間をかけるぐらいは、本気だったということだ。今なら「こんな計画で?」と思うかもしれないが、それこそ“バブル・マジック”である。
 この計画を作った大林組も現在のゼネコン勝ち組に入っているわけで、夢を持つのはいいことだってことにしておきたい。
穴の中を飛行機が飛んでいく!
 しかし、こんな計画ごときで驚いてはいけない。ゼネコンの提案力(というか空想力かもしれん……)を、まざまざと見せつけてくれるのが、91年にフジタが発表した「ジオプレイン構想」である。
 一言で言えば、地中で飛行機を飛ばす計画だ。札幌・東京・大阪・福岡などの大都市の50メートル以上深い地下―大深度地下―に、直径50~56メートルほどのトンネルを掘り、その中で時速600キロの飛行機を24時間飛ばすという。80年代、多くの少年が夢中になった松本零時のアニメに登場する乗り物、空中にあるパイプの中を飛ぶ飛行機の地中版といったところか。リニアモーターカーに次ぐ、次世代の交通として提案したらしい。
 いや、このように書くと、あまりにバカらしく感じるかもしれないが、それなりの利点はあるらしいのだ。
 何より外を飛ばないから天候に左右されることがない。飛行機が欠航しても、ジオプレインは止まらないってことだな。大深度地下を飛行場とするため、近隣住民の騒音被害を気にすることなく、24時間の運行が可能となる。横風を受けないため、燃料効率も極めてよい。東京・大阪間ならジャンボジェットの4分の1の燃料で済む計算になるらしい。
 地球に優しいと低燃費の車として話題のトヨタ・プリウスでも、従来の車の4倍も走るかは微妙なところ。そう考えるとジオプレインのすごさがわかるのではないか(?)
 一番の問題は29兆円もの建設費をどうするのかということかもしれないが……。
 しかし、この計画を発表したフジタは、2002年10月に会社を分割し、不採算部門を別会社とした。1999年に取引銀行から1200億円の債権放棄を受けていながら不良債権の処理が進まず、苦肉の策として会社分割を選択したらしい。
 1989年には「ジオプレート構想」なども発表し、バブル当時は地下土木のパイオニアという印象もあったが、まさか十数年後に自社の経営状態が「地下」に潜るとは予想だにしなかったであろう。
 とはいえ91年は、すでに景気後退期に突入していた。そのさなかに発表されたのが「ジオプレイン構想」だと考えると、不安な兆しは見えていたのかもしれない。
 湾岸地域の開発を進めるウォータフロントの次に、大きな建設ラッシュをもたらすのがジオフロントだとの予測から、地中工事の技術をアピールするゼネコンは、フジタのほかにもあった。
 円筒状の掘削機を地中に入れて前方に掘り進むシールド工法で高い評価を得ていた熊谷組である。山手線や環七道路の地下化などの事業が大まじめに論じられたのが懐かしい。ただし熊谷組も2003年10月に会社分割を行い、フジタと同じく会社が「地下」に潜ってしまった。これらの企業が「トンネル」に強いのかと思うと、不思議な納得の仕方をしてしまう。
 いや、いかん。ゼネコンの行く末まで書いたら、すっかり気分が暗くなった。やはり私自身、不景気が身にしているからだろうか……。
「社会還元しろ」の声に従い過ぎた?
 せっかくフジタの話題が出たので、ぜひバブル期に行ったフジタの社会貢献についても書いておきたい。
 皆さんは「フジタヴァンテ」を知っているだろうか?
 ヴァンテはフランスで風を意味するらしく、訳せば「フジタ風」ということになるだろう。この施設は、フジタ本社ビルに造られた遊園地である。コンセプトは、「頭で遊ぶ、体で遊ぶ」だったらしい。「そりゃ、遊びすぎでしょう、フジタさん」とついつい思ってしまうが、それはさておき、フジタヴァンテそのものは素晴らしい施設だった。
 バブル期には大手企業がこぞって体験型のショールームを造ったが、フジタヴァンテだけは、ショールームの概念を完全に超えていた。15個ある遊具は、自社商品と関わりがわからない。(おそらくないだろう)
 その中で最もみんなを夢中にさせたのが、4分間の宇宙体験をシミュレートできる「コンセプター」だった。画面に合わせて動くシミュレートは、迫力十分。これがフジタと何の関わりがあるんだーといった思いも、乗り込めば一気に吹っ飛んでしまう。この施設の利用が、すべて無料だというから太っ腹じゃないか!
 フジタヴァンテについて雑誌の取材を受けたフジタの広報担当は、「企業利益の社会還元です。一時期よくいわれた“企業は儲けすぎる。もっと社会に利益を還元せよ”という言葉に従ったわけです」(『DIME』91年9月19日)と語っている。
 この後、銀行がフジタの債権を放棄し、そうした銀行の不良債権処理に血税が使われているのかと思うと実に腹立だしい発言だが、社会に利益を還元しようという態度はそのものは素晴らしい。最高利益をあげても、賃下げしようという企業もある今の世だし……。
 ちなみに雨後のたけのこのように造られたショールームは、フジタヴァンテを別にして残っているケースが多い。池袋にあるトヨタのアムラックス東京、松下電工のナイスプラザ新宿やNAISショウルーム汐留などなど。バブル期の遊び場というイメージからは遠のいたが、商品展示施設としては充実している。企業で進む激しいリストラの陰で「バブルの生き残り」がいるというのが、社員には気に入らないかもしれないけれど。
 振り返れば、とんでもない企画のオンパレードである。あらぬ妄想で突っ走ったとしか思えない。しかし、だからこそ熱気があった。短足を強調するあのダブルのソフトスーツだけは2度と着たくないが、バブルの勢いだけは少し分けてもらたい。
 みなさんも、そう思いませんか?  (■つづく)

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靖国を歩く/第37回 緊急現地ルポ緊迫!? 小泉参拝後の香港(奥津裕美)

■月刊「記録」05年12月号掲載記事

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 10月17日小泉首相が靖国に参拝した。8月15日に「いつでも来い!小泉」と鼻息荒く待っていた私の思いは届かず(届くわけないか)、彼は行ってしまった。
 しかも、そのニュースを知ったのは日本時間午後2時(香港では午後1時)くらい、NHKワールドプレミアムのニュースでだ。
 しかもそのニュースでは、香港の日本総領事館に向かって靖国参拝に関する抗議も行われたとも伝えていた。なんで領事館に向かってなのだろう、と不思議に思ったが、どうやら香港総領事館があるのは中環(セントラル)の交易廣場の46階らしい。
 そこには領事館以外の施設もあるので、靖国に抗議するのもいいが、同じ民族にも迷惑をかけているのは本末転倒ではないのか。
 靖国という単語が出ると必ずついて回るのが、中国や韓国から言われる「国民感情が傷ついた」である。傷つくのかもしれないが、それらを理由に会談などをドタキャンするのもどうかと思う。
 靖国は戦没者を祀っていて、慰霊・顕彰しているので戦争の象徴と見なされても仕方がないし、参拝されることで本当に感情が傷つけられている人もいるだろう。そこに弁明の余地はない。
 しかし、いつまでも靖国に参拝したから許せないといったり、抗議されるから行くのを止めたほうがいいという論議はなんの進歩にも解決にも繋がらないと思うのは私だけだろうか。
 それはさておき、本題であるこの約1ヶ月の香港の様子はというと、結論からいえば何もなかったの一言だ。
 靖国参拝の抗議には必ず、「国民感情を傷つけられた」という一文が入るが、傷つけられているとは到底思えない日々。
 ビックリするくらい何もない。中国といえば、4月17日に起こった大規模な反日デモを思い出すが、香港でも行われてはいた。香港から近いシンセンでは、日系スーパーのジャスコが襲撃されたり、上海では日本料理屋が攻撃されていたのは記憶に新しい。
 とはいえ、4月当時でもそういった激しい反日デモを直接見たわけではなく、テレビを通じて目にしただけ。私が実際に目にしたのは、いつもと変わらない香港での生活の中で、街中を練り歩く平和的なデモ行進だけだ。
 なぜ平和的かというと、近所でデモ行進が行われていたので見に行ったのだが、大人数でただ練り歩いているだけ、という雰囲気だったからだ。
 さらに言うならば、歩いている香港人の中には、日系スーパーの袋を持って歩いているという適当な人も何人かいたし、コース内にあるそごうや三越も襲撃されることはなく、シンセンでは襲撃されていたジャスコも無事で、ついでに満員御礼。買い物カートが一台もなくなる状況だったからだ。
 中国本土では日本人だというだけで襲われたと聞いたので、「お前は日本人か」と絡まれたときは、タイ人だのシンガポーリアンだのと答えておけばいいか、と考えていたが、そんな必要もなかった。
 靖国参拝後の香港の様子に戻そう。
 香港には日本のもの、店などがあふれているので、靖国参拝以降の日本に関連するところをウォッチしてみた。参拝直後の10月22、23日にビクトリアパーク(香港で一番大きい公園)で、「日本の祭」というイベントが開催されていたので行ってみた。
 会場は日本の観光地案内、イベント(エイサーの公演やアイドルグループのミニライブなど)、屋台で構成されていて、入場料に20ドル(約300円くらい)かかったが結構な人出だった。2日間とも行ったが、日本人以外に香港人も多かった。日本の食べ物屋台の行列に香港人も並ぶ。
 さらに会場内にはアニメのコスプレをした人や、白いフリルやレースのついた黒いスカートが特徴のゴスロリと呼ばれる格好をしている香港人などもいて、そういうのも海を越えて愛好者がいるんだな……と感心したりもした。
 祭の和やかな雰囲気が会場内には流れ、反日感情どこへやらという感じだった。
 さて、在住日本人にとって心休まる味と言えばもちろん日本食だが、香港にも回転寿司やラーメン店、居酒屋などなじみのものから、日本式(日式)のレストラン(日本風創作料理という趣)などいろいろある。
 日本人のみならず香港人にも人気のようで、特に回転寿司店の前には毎晩人だかりができている。
 私もよく行くが、週末は入るのに1時間くらいかかったりして人気ぶりが伺える。
 私の普段の食生活が露呈してしまうのでお恥ずかしいが、ほぼ毎日行っている某牛丼チェーン店も、ティーセットの時間帯に行くと、牛丼(並)と飲み物がついて約300円と安いせいかそこも香港人が多い。
 茶餐店というファミレスと喫茶店をミックスしたような店には「出前一丁」という即席麺がメニューに並んでいたりと、香港人の食生活の中に日本の食が入り込んでいることがうかがえる。食での日中友好はうまくいってるようだ。
 その他に、街中には雑誌や新聞を売っているスタンドがいくつもある。よく見ると新聞、雑誌、風水、アダルト雑誌に紛れて日本の女性向けファッション雑誌の日本語版や中国語版が置かれていたり、日本の人気漫画(『NANA』『電車男』など)の中国語版が売られていたりする。
 日本語の雑誌なんて読めるのか? と思うが、写真をみて楽しんだり真似したりするらしい。さらに、香港にも漫画喫茶があり、そこには中国語で書かれた漫画が多数置かれていたり、アイドルグッズやフィギュア、食玩(ミニチュア付きのお菓子)、キャラクターグッズなどを売っているビルがあったり、地元人が多い市場では、日本のアニメキャラクターのおもちゃなども売られている。
 映画は、邦画がコンスタントに公開されていて、今は女性の間で大人気の『NANA』が公開されている。
 ちょっと前は、純愛ブーム?を巻き起こした『いま、会いにいきます』『世界の中心で愛をさけぶ』『電車男』(「キタ━━━━━━(゜∀゜)━━━━━━ !!」とか画面に出るかわからないけど、香港人は意味わかるのか?などと考えてしまった……)なども公開されていた。
 日本の漫画『イニシャルD』など合作映画が作られたりと、エンターテインメントでの日中友好関係もうまくいっているようだ。
 経済や娯楽、一般生活の中では、なんら影響があるとはとうてい考えられない状況だ。
 上海や北京に暮らす日本人の間では、反日感情が高まった時、なるべく日本語をしゃべらない、企業の看板に布をかけるなどの防衛策をとっていたが、香港ではほとんど必要がないという感じだった。
 日系の塾に勤める友人からは、「バスに貼ってある紙の日本人という文字を隠す処置はした」ということを聞いたが、「特に敏感に反応する必要はなかった」とも言っていた。
 香港でよく見かけるのは、反日よりも中国の反共(反共産党)の文字を見かけることのが多い。さらに香港はデモが多いようで、12月も2回行われるらしい。どちらも日本には関係ないデモであるが。
 反日デモ以降、日本に住んでいる人から、「香港は大丈夫なのか」ということを言われることが増えた。
 デモが行われた時の日本のニュースには、連日日本料理屋を襲撃しているところや、領事館へ向かってペットボトルを投げているところばかり流れていた。
 そこだけ毎日流れていれば不安になるのは当然だが、同時にテレビの映像は偏りすぎているのではないかという印象を感じた。
 マスコミは反中国の思想を植え付けたいのだろうか、と思わせる構成が多い。マスコミは良くも悪くも視聴者に対して大きな影響を与える。最近は、その姿勢が顕著に表れているように感じるが、それでは中国の共産党体制と同じである。
 香港ではあるが同じ中国国内にいる私も、ここ以外の様子がよくわからないため、大丈夫なのかと心配になったりもした。私自身がそんなだから、日本にいる人が余計に不安になってしまうのは仕方がない。
 テレビから流れる映像と、実際の様子のギャップを肌で感じた今回の取材だった。
 100%安全・安心というわけではないが、香港だけに限って言えば、形だけの反日感情というように感じられた。活動家などは本気なのかもしれないが、一般市民に関していえば果たして本気なのだろうか、と疑問に思ったからだ。
 デモはお祭り。デモという名のパレード(日本でもたまにやっているが)といったところ。
 これは私の主観なので、本音はどうかは分からないが、仮に反日感情を本当に持っているのであれば、反日デモ以前、以後に限らず、寿司屋の前に人だかりはできないだろうし、日系スーパーやデパートへ来る客も少ないはずだ。
 しかし、現実は、今日も寿司屋の前に人だかりができ、日系デパートやスーパーへ足を運んでいるのだ。 (■つづく)

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靖国を歩く/第36回 トホホ……英霊めぐり in Singapore(奥津裕美)

■月刊「記録」05年11月号掲載記事

       *        *        *

 シンガポールのガイドブックを読んでいると、戦争に関する建物などが多いことに気づいた。直接靖国とは関連はしないが、やはり靖国ライターとしては行かねばなるまい! ということでそのレポートをお届けする。
 まず一番目。
 MRT(地下鉄)シティホール駅周辺をぷらぷらと歩いていると、突然現れる白い大きな4本の柱。
 その柱は高さ約70メートルで戦争記念公園(公園というより広場)内にある。ちなみにこの4本の柱はそれぞれ中国人、インド人、マレー人、ユーラシア人を意味しているそうだ。
 1967年に、シンガポール・日本の両政府の協力で建てられたこの塔の名称は「日本占領時期死難人民記念碑」といい、シンガポール占領中に虐殺された人の霊を鎮め、さらにこのような悲劇を繰り返さないように、という戒めの意味で作られたらしい。
 ガイドブックには、「戦争の悲惨さについて考えさせられる」と書いてあったので、どんなところなんだろうと少しわくわくしながら行ったのがいけなかったのか、圧倒的な存在感というより突然現れた白いトーテムポールという感じだった。
 街並みにとけ込みすぎていることに加え、シティーホールには国会議事堂や歴史博物館、マーライオンなどの見所がたくさんあるので影が薄くなってしまっているのはたしかである。それはそれでいいのだが、ガイドブックに書いてある肝心の「戦争の悲惨さ」は伝わってこなかった。
 このガイドブックを書いた人は、これを見て戦争について何かを考えさせられたのだろうか。
 では次。
 島すべてが一大アミューズメントパークになっているセントーサ島にあるイメージ・オブ・シンガポールという蝋人形館だ。
 セントーサはもう一つシロソ砦というところもある。日本軍に抵抗するためにイギリス軍が立てこもった場所らしい。中には入っていないが、セントーサをまわっているモノレールに乗ると一部であるが見ることができる。
 さてその蝋人形館だが、人形一つひとつがしっかりと作られていて、どれもがとっても本物っぽい。そのリアルな作りと少し暗い照明のおかげで不気味さまでもが際立っている。
 怖がりの私には迷惑なところだが、シンガポールの歴史、伝統、風俗を人形を使って説明しているので、わかりやすく知ることができるおすすめスポットである。
 靖国的目玉はシンガポールの歴史ではなく、1942年に日本軍がイギリス軍に降伏を迫るシーンと、1945年にイギリス軍から降伏を迫られる日本軍シーンの蝋人形の展示なのだが……これを見るために行ったにもかかわらず、その展示室は閉まっていた。
「なぜだ! なぜ閉まっている」と叫びたくなったもののこればかりは仕方ないので諦めることにした。
 それをカットして先に進むと、侵攻後のシンガポールの写真や占領下の資料が展示が。
 それ以前の展示では、中国語と英語のみの説明だったのが、日本語の説明が加えられている。これは「きちんと見なさいよ」という日本人に対するメッセージなのだろうか。
 丁寧に日本語の説明を付けてくれるのはいいのだが、日本語がめちゃくちゃで意味がわからない。日本語を話せるようになってきた外国人の話し言葉をそのまま書いて