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レバノン9.11・難民キャンプを歩く 第4回/たび重なる虐殺と「記憶の熱さ」

■月刊『記録』03年3月号掲載記事

 小麦粉の塊を捏ねる母親の手、幅2メートルもない路地で壁にぶつかりそうになりながらボールを蹴り合う子どもたち……。身近な人たちの笑顔を捉えた写真に混じり、砲撃で穴だらけになった家の壁や、窓から陽が差し込む部屋の中で、物憂げな表情で毛布に包まっている父親、二の腕の刺青をカメラに誇示する兄の姿もあった。おそらく彼らは失業しているのだ。 

 ラシーディエ難民キャンプにホダーさんを訪ねた前日、私たちは、ベイルートのユネスコ宮殿を訪れた。英国の写真家の発案で、キャンプの子どもたちがインスタントカメラで自らの日常を写した写真の展覧会が開かれていた。 
 来場者でいっぱいの会場、パネルの傍には小さな写真家たちが、いくぶん照れ臭そうな顔で立っている。少し恥ずかしい、でも自分の作品を見て欲しくてたまらない、そんな顔をした子どもたちと人びとが言葉を交わしている。会場風景を撮ろうとカメラを構えると、「ねぇ、僕の写真だよ!」とばかりにこちらを向く少年がいる。閉塞した環境の中で得た自己表現の機会。こんな場が、彼ら彼女らの自信につながるのだと思えた。 
 開幕式典の冒頭、レバノン政府の広報大臣が挨拶に立ち、延々とパレスチナの大義やらパレスチナ人との連帯を訴えた。01年6月現在、レバノンにいるパレスチナ人約38万3000人のうち、56%が難民キャンプで暮らす。このれは、同じく離散パレスチナ人が生活しているシリアの28%、ヨルダンの18%に比べてもずば抜けて高い。「帰還促進」に名を借りた、抑圧政策の結果である。貧困や失業の現実を伝える写真を前に、大げさな身振りで「連帯」や「解放」を口にする政府要人の姿に、カメラを構える気すら失せてしまった。 

 NGO「ベイト・アトファール・アル=ソムード」のラシーディエ・センター所長、ミリアムさんが話す難民キャンプの窮状に、私は前日の出来事を思い出した。それを話すと彼女は言った。
「えぇ、でもあの大臣はまだマシな方ですよ。4年前から資材の搬入も駄目。これは明らかに政府の方針です。繰り返しますが、『帰還』と、『雨漏りのしない家に住む』のは、まったく別問題です」 
 彼女の故郷は国境線から見えるサファドである。00年には彼女もベイトの子どもたちを連れ、事実上、禁じられるまでの数ヵ月間に6回、国境を訪れた。
「故郷を見てどう思いましたか?」
 みるみる目が潤んだ。彼女は少し間を置いて言った。
「あれが私の村かと……、その気持ちは表現できません……」。亡くなった父に聞いたり、本を読んだりして知る故郷。有刺鉄線越しに出会った同胞に、パレスチナの石とオリーブの枝を貰い、今も部屋に飾っているという。「ますます故郷に帰りたいとの想いが募りました。もう一度、故郷が見たい」 

 私たちが訪問する少し前、韓国からやってきたジャーナリストが、ベイトの子どもを国境線に連れて行き、感想を記事化することを試みた。30数人を連れて国境に向かったものの、結局、レバノン当局に阻止されたという。最初、ミリアムさんからこの話を聞いた時は、ネタ取り的な浅ましさを覚えたが、現実問題として、そうでもしなければ子どもたちは自分たちの故郷を目にすることすらできないのだ。それは、分断された民族の一人ゆえ思い立った行動だったのかもしれない。私は、朝鮮分断後、知人の車で韓国側から停戦ラインに赴いた力道山が、突然、上着を脱ぎ捨て、故郷である38度線の向こうに向かって、およそ言語化できない音で、ただひたすら絶叫し続けたというエピソードを思い出した。

「ちょうど、1年前でしたね」ミリアムさんに訊いた。彼女は即座に質問の意味を理解し、ゆっくり噛み締めるように語った。
「おそらくどの民族にも増して、私たちこそ、9・11の犠牲者の痛みを感じたと思う。サブラやシャティーラ難民キャンプでの虐殺事件のように、罪もない人が理不尽に殺されていくことを、私たちこそが何度も経験しているからです」 
 ミリアムさんが語った、パレスチナ人にとっての9月の記憶「サブラ、シャティーラ虐殺事件」。82年9月、PLО撤退後のパレスチナ人難民キャンプに、イスラエル軍の支援を受けた、レバノンのキリスト教マロン派民兵組織「ファランジスト」が侵入、3日間にわたり2000人以上を殺害した。民兵たちは白い武器、つまり鉈や斧を多用した。キャンプのメイン・ストリートであるサブラ通りは、夏の日差しで腐乱し、家族ですら判別できない死体で埋め尽くされたという。首から上がない死体、頭を斧で潰され、うつ伏せになったまま絶命していた老人、両足を別々の車に縛られ裂き殺された男性、強姦された上、腹を割かれて胎児を引きずり出された妊婦の死体……レバノン滞在中、目撃者から聞いた当時の一場面である。およそ考えうる限りの方法で「屠殺」されたのは、抵抗勢力が去った後、キャンプに残された、高齢者や子ども、女性ばかりだった。 

 当時、現場を仕切っていたのは、アリエル・シャロン・イスラエル国防相(現首相)である。占領地で民間人の安全を確保するのは国際法上の義務だが、シャロンはイスラエル軍に、「(民兵を)妨害するな、自由裁量と援助をレバノンのキリスト教民兵組織に与えよ」と命令、同軍は、民兵組織をキャンプに立ち入らせた。そして夜には、子どもが昼間と見紛う程、おびただしい照明弾でキャンプ内を照らし続け、民兵の殺戮を支援した。虐殺は、両者の「共同作戦」だった。 
 事件はイスラエル国内でさえも批判を浴び、議会が調査した結果、シャロンは責任を問われ、国防相辞任に追い込まれた。だが、その刑事責任は、今に至るまで問われていない。レバノンでのパレスチナ人抹殺が、イスラエルの利益、ひいては米国の中東政策に反することではなかったからだ。 

 ミリアムさんは当時、14歳で、国境から17キロの、ここラシーディエもまさに戦場だった。虐殺の噂を聞いた彼女らは、レバノン最大のキャンプ「アインアルヒルウェ」に避難した。砲撃の危険に怯え、母親は夜も眠れず、ただ彼女たちをだき抱えていたという。 
 事件から20年の節目。現地にはイタリアやスペイン、欧州を中心にした各国から代表団が訪れ、数々の行事が開かれた。ベイルートの「ベイト」の事務所屋上で開かれた証言集会もその一つだった。60人はいただろうか。それでなくても狭く、蒸し暑い会場には聴衆が詰め掛けている。演壇の上には、白地に赤い格子模様が縫い込まれたクーフィーエ(スカーフ)とパレスチナの旗が敷かれ、ミネラル・ウォーターのボトルと録音機が並んでいる。その向かい側には、これから登壇するヒジャーブ(イスラム式スカーフ)で頭を覆った女性たちが座り、たくさんのフラッシュを浴びながら、重い空気を漂わせていた。 

 集会は、レバノン人とパレスチナ人で作る「対シャロン委員会」が開いていた。ベルギーには、組織的大量虐殺(ジェノサイド)や戦争犯罪、そして人道に対する犯罪については、容疑者の国籍や犯行場所を問わずに訴追できる人道法が存在している。82年12月、事件は国連総会でジェノサイドと認定(米国は棄権)されており、その判断を根拠に、シャロンの刑事責任を問う運動が進められているのだ。証言者は全員、同委が作成した起訴状の話者である。しかし集会での話の数々は、およそ「証言」とは程遠いものだった。
「私の子どもが殺されたように、シャロンを殺してくれ」 
 最初に演壇に座った、年老いたヒジャーブ姿の女性、サミーハ・アッバースさんは、同委メンバーに「証言を」と促された後、こう叫んで泣き崩れた。 
 証言者は8人だった。話が続くと、岡さんは私に通訳の困難さを訴えた。スペインとイタリアの代表団は、事前に渡されたペーパーを元に、話の内容が翻訳されていたが、実際、その場でなされた話は、論理性がない言葉の断片で、しかも言語はアラビア語が第一言語でない者には理解するのが困難な、方言だったという。 
 ある人は、行方不明の弟の身分証明書と、故郷の土地の所有証明書をかざしながら、ただ時系列で「その日」の出来事を話す。またある人は、自分以外の人間などいないかのように、一点を凝視したまま淡々と話した。遺族たちの姿はさまざまだった。ただ、私が一様に感じたのは、ふとした弾みで暴力的に湧き上がる記憶の熱さ。そして、それと向き合うことの困難さだった。 

 パレスチナ人にとって、このような悲劇は珍しいことではない。イスラエル建国直前の48年4月、後の首相、メヘナム・ベギン率いる極右シオニスト組織で、現在の与党リクード結成時の核になった「イルグン」を中心とする武装グループが、エルサレム西の村を襲撃、民間人254人が殺された「デイル・ヤシン村虐殺事件」。76年、ベイルート郊外の難民キャンプが、レバノン右派民兵組織に半年間に及ぶ包囲攻撃を受け、住民4000人以上が殺された「タッル・ザアタル虐殺事件」。そしてサブラ・シャティーラ。さらには記憶に新しい02年4月の「ジェニン虐殺事件」……。パレスチナ人の歴史はまさに虐殺の歴史であり、それは現在も続いている。 

 これほどの事態が起こりながら、いったい、その下手人はいかほどの罪を問われたというのだろうか。ジェニンに至っては、米国の支援を受けたイスラエルが国連の調査団受け入れを拒否、実態すら調べられていない。力がすべての価値観が大手を振るっているのだ。
「今の状況のなか、『自爆攻撃』を選択する若い人がいることをどう思いますか?」
「私こそ世界に聞きたい!」。ミリアムさんは即座に切り返した。
「誰だって生きたいんです。たとえば小部屋に押し込められ、食べ物や仕事、あらゆる手だてを奪われれば、自分を殺すしかないでしょう。たとえ難民として、キャンプで死ぬとしても生きていたいに決まっています。私たちは希望を持って生きたい! 世界の他の人と同じように、私たちも生きたいんです!」。出口の見えない現状への苛立ちを隠せないように、眼を潤ませ、搾り出すように話した。 

 すでに11時50分、最後に「夢」について聞いた。
「それは個人として? それともセンター長として?」少し表情を和らげ、ミリアムさんは語った。
「所長として言えば、今後の計画は書ききれない位、頭の中に詰まっています。施設の増築もその一つ。ここには歯医者もありませんから。ただ、とにかく資金が足りません。子どもたちが執筆する機関誌も休刊状態。刺繍のプログラムも中断しています。奨学金もそうです。大学を最終学年で退学する子もたくさん居る。助けてあげたいけど、今の資力ではどうすることも……」。財政難は深刻化する一方という。
「そして個人としては、まずは故郷に帰ること。次にパレスチナの人々のために働くこと。3点目には、私たちの声が外に届き、世界の人びとが私たちの権利を支援してくれることです。どうか私の話を、日本の人たちに届けてください」。もう昼食の時間である。事務所の1階にホダーさんが迎えに来ていた。(■つづく)

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