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レバノン9.11・難民キャンプを歩く 第3回/土踏めぬ故郷

■月刊『記録』02年3月号掲載記事

 生まれた時、既に難民だったホダーさんやイブティサームさんにとって、故郷パレスチナは、肉親の話や書物、映像など、間接情報を通してのみ知る場所だった。南にわずか17キロの場所にありながら、その土を踏むことすら叶わない。私たちが4月、その地を訪問したことを知ると、2人が続けざまに訊いた、「美しかったでしょ?」。長椅子から身を乗り出し、まるで、私たちの口から出てくる次の言葉の中に、自らの叶わぬ夢の実現を求めるかのように。 

 数秒くらい経っただろうか。私たちが言いよどんでいると、我に返ったようにイブティサームさんがぼそっと呟いた。
「外国人のあなたたちは行ける。でもパレスチナ人の私たちは行けない……」 
 1948年、イスラエル建国に伴うパレスチナ人の分断と離散から半世紀余りが経つ。パレスチナ解放を目指す闘いは今も続いているが、国際的な現実政治の力学の中で、事態はむしろズルズルと、際限なく後退を続けている。彼女たちも故郷への帰還どころか、訪問することすら出来ないのだった。 

 00年5月下旬、20年以上、南部レバノンを占領していたイスラエル軍が撤退。国境地帯が解放された。異郷レバノンで難民として暮らす多くのパレスチナ人が国境を訪問、渇望してやまない故郷の姿を目に焼き付けた。しかし、それは長く続かなかった。その年の9月、イスラエル右派政党リクード党のアリエル・シャロン党首(現・首相)が約1000人の武装警官を引き連れ、エルサレムのハラム・アル=シャリーフ(イスラム教の聖地)を強行訪問した。 
 当時の与党・労働党の「和平」路線に反発する国内世論を惹き付け、目前に迫った選挙を有利にするための示威行為である。暴挙に対し投石で抗議したパレスチナ人に向け、警官隊が発砲、おびただしい人々が死傷し、第二次インティファーダが始まる。それをきっかけに、レバノンのパレスチナ難民が国境地帯を訪問することは事実上、禁じられた。 

 わずか4ヵ月だけ実現した国境への訪問。その間、ホダーさんたちも家族や友人、NGOの「ベイト」の人たちと共に、国境を訪問した。その時の感想をホダーさんに訊いた。
「フェンス越しに婚約している人や、贈り物を交換している人も……。感動しました」。彼女は大きな目を輝かせた。 

 レバノンに暮らすパレスチナ難民たちのこの国境訪問の様子はドキュメンタリー映画『夢と恐怖のはざまで』(01年、メイ・マスリ監督)に記録されている。 
 ヨルダン川西岸のパレスチナ難民キャンプ・デヘイシャに暮らすマナールと、レバノンの難民キャンプ・シャティーラに暮らすモナ。国境線に隔てられた別々の難民キャンプに暮らし、お互い顔も知らない2人の少女とその仲間たちが、「ベイト」などのNGOを介して手紙や電子メールで交流を始める。 
 少年、少女たちはお互いの日常を伝え合う。自治区をわがもの顔で蹂躙するイスラエル軍の戦車に投石を繰り返し、射殺されてしまうパレスチナの少年。展望のないシャティーラでの暮らしに見切りをつけ、海外への移住を決意、友達に告げぬままロンドンに渡り、「同胞を裏切ってしまった」と、自責の念にさいなまれる少女……。そして、イスラエル軍が南部レバノンを撤退。子どもたちは、ついに、国境で対面する。
「今日のこと、忘れないでね!」「絶対に忘れないよ!」 

 M16を構えたイスラエル兵に監視されながら、自分たちを分断する有刺鉄線越しにキスし合い、言葉を交わす子どもたち。傍では半世紀以上前に生き別れとなった家族の写真パネルを掲げ、レバノン側の人々にその消息を尋ねているパレスチナ人の老女がいる。鉄の刺の間に手を伸ばし、故郷の土をかき集める子どもがいる。有刺鉄線から引き剥がされ、兵士に怒りをぶつける老人がいる。少しでも故郷に近づこうと、鉄の棘に押し当てていた彼の額からは、血が流れていた。 
 パレスチナ人であるがゆえ、死と破壊の日常を強いられ、国境を越えることが許されない。理不尽な現実。子どもたちは言う、「この鉄線を引きちぎってやりたい」。 

 実はあの映画で、土を取ろうと手を伸ばしていた少年が、13歳になるホダーの弟・カリームさんだった。有刺鉄線の間に頭を入れる彼にイスラエル兵が訊いたという。
「何をしてるんだ?」
「ぼくたちの土地に触ろうとしてるんだ!」。そう答え、地面に手を伸ばした彼に、兵士は言った。「お前たちの土地じゃない。ここは我々の土地だ」 

 私たちが訪問したこの日、弟は親戚の家に行っており不在だった。彼は心臓を患っており、外科手術を受けているのだが、その治療費を工面するのが難しい。前に述べたように、難民への医療支援は、国連パレスチナ難民救済事業機関(UNRWA)が行っているが、難民の帰還どころか、占領の終結にも目処が立たないなか、年々、施策は後退。近年、癌や心臓病などの高額医療は対象から外されている。それは、学業を続けたいホダーさんにも重く圧し掛かっていた。 

 いろんな話をしているうちに、午前11時になっていた。アラビア語が分からない私を蚊帳の外に、岡さんとホダーさんが2人で盛り上がっている。泊って行くよう、ホダーさんが勧めてくれているのだという。この際、とも思い気持ちが揺れたが、あとの予定もある。センターではモヘッディーンさんが、次の訪問地に私たちを連れて行くために待機している。相対する感情を引き摺ったまま、「次に来た時、宿泊させてください」と話すと、ホダーさんが岡さんの腕を抱え、即座に次の提案をする。「じゃあ、昼御飯を一緒にしてくれないとイヤだ」。「それはぜひ」。抱えた腕を左右に揺らし、ホダーさんが喜んだ。まるで小鳥のようだ。ただ少し間がある。イブティサームさんの提案で、一旦、センターに戻り、ミリアム・スレイマーン所長の話を聞くことになった。

■ 圧政と、貧困と
 
 白い家々と子どもたち。家々の間からのぞく青い海、強い日差しが建物や路面、木々の葉にまで反射し、目がチカチカする。「ベイト」の事務所に戻り、鉄柵の門をくぐる。外から入ると、ベージュを基調にした部屋は薄暗く感じられる。天井近くに張られた紐からは小さなパレスチナの旗が吊るされ、玄関を入ってすぐの壁には、ノルウェーで開いたサマーキャンプの記念写真が、その模様を伝える新聞記事と共に貼ってある。 
 階段横にはボードがすえつけられ、紙を切り抜いた船が貼ってある。大きな船から海に向けて9本のタスキが伸び、取り巻くように6隻の小船が浮かぶ。タスキと船には、伝統刺繍教室など、センターが行っているプログラムが書いてある。 

 今日、私たちの運転手をしてくれているモヘッディーンさんが待機している部屋を覗く。既に数時間、待たせているのだ。私たちを見て、彼の顔がぱっと明るくなる。申し訳ないと思いながら、ホダーさんたちと昼食を一緒し、滞在がさらに数時間、伸びることを詫びる。 

 所長室は2階にある。エルサレムにある黄金のドームの絵が貼られたドアを開けると、日当たりのよい6畳くらいの部屋には、伝統刺繍でつくったパレスチナの地図が掛けられている。格子のはまった窓の向こうでは地中海が波打っており、規則的な潮の音が聞こえてくる。

「このキャンプの最も大きな問題は?」。ミリアム所長に訊いた。
「問題だらけ。とてもひとつなんて言えません」 
 ミリアムさんは68年生まれの難民2世である。リゾート地・サイダにあるレバノン大の文学部を卒業し、89年から「ベイト」で活動しているという。これまでの経験に鍛えられたのか。強い意志と包容力を感じさせる眼差し。実際はもっと大きな印象を与えるが、身長は150センチほど。海の色を思わせる青いズボンに、落ち着きを感じさせる黒い上着、ふっくらとした顔をブルーのスカーフで包んでいる。
「ただ、根本的な問題を上げるなら、やはり貧困です。経済的な困難が、結局は健康や、精神の状態に反映されてきます」 

 内戦による疲弊、それでなくても失業率は高く、首都・ベイルートでさえ就労状況は悪い。しかも、パレスチナ難民の“定住阻止”を掲げるレバノン政府は、70以上の職種からパレスチナ人を締め出している。ベイルートのシャティーラ・キャンプで私は、レバノン政府がパレスチナ人の就労を禁じているデザイナーを目指し、専門学校に通う17歳のパレスチナ難民の女性に会ったが、それも都市に居住していることが少なからぬ影響を与えているように感じる。農村型キャンプ・ラシーディエでは状況は更に厳しい。ホダーさんが47歳の母親の意見に従ってジャーナリストを諦め、現実的な選択をした背景のひとつもそこにあるように思える。
「海で魚を採るにも、家を建設するにもレバノン政府の許可がいります。一時的に、果樹園で季節労働をする人もいましたが、今ではシリアなど、海外から来る人たちが安価な労働力として使われ、パレスチナ人はそこからも締め出されているのです。たとえば大学を出て医師免許を取ってもレバノンでは勤めも開業も出来ません。唯一の職場は赤新月社(イスラム世界の赤十字)ですが、そこも雇用人数には限界がある。結局、安価な肉体労働に就くしかないのです」と現状を説明する。 

 このキャンプで同センターがケアしているのは計54世帯。対してソーシャルワーカーは2人だけ。単純計算で1人あたり27世帯を担当していることになる。ベイルートなどではセンター内に歯科医院を設けているが、ここにはない。健康を損ねている人も多いが、UNRWAの施策は後退している。そればかりか、予算が年々削減されることに伴い、そこで働くパレスチナ人職員の処遇も悪化、訪問時は、処遇改善を求める職員のストライキが、2週間に及んでいた。 
 社会資本の整備もなされていない。水はキャンプ内に泉が湧いており、浄化して使う。電気はレバノンの電力会社から引く。しかし、トランスが古く、許容量以上だと壊れてしまう。ガスボンベ1本が1万リラ。貧しい家庭では木を買って燃料にしているという。
「明確に変わったのは4年前からです。知っての通り、建築資材も搬入させない。家庭用のランプだってだめ。これは政府の政策です。建築許可は、スールにある建設担当当局に申請して許可を受けますが、何ヵ月も待たされるうえ、下りるとも限らない」
「なぜだと思いますか」
「レバノン政府の高官に聞けば『帰還促進の為』というでしょう。彼らが恐れているのはパレスチナ人の永住です。でも、私たちは『永住したい』と思っているのではありません。帰還したいことと、雨漏りのしない家に住みたいというのは別問題です」(■つづく)

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