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レバノン9.11・難民キャンプを歩く 第2回/答えられない質問

■月刊『記録』03年1月号掲載記事

 ベイルートから車で1時間半ほど走ると、岡真理さんの里子、ホダー・アル=シャーエルさん(21)が暮らすレバノン南部のパレスチナ難民キャンプ・ラシーディエに到着する。ブロック造りの建物は高くても3階程度で、空が広い。家々の間からは地中海が波打つのが見え、広い道を自転車に乗った子どもが行き交う。約1.5平方kmに2万2000人が暮らすという。 

 イスラエル軍が南部レバノンから撤退したのはわずか2年前のことである。民家の壁には銃痕が目立ち、南にわずか17km離れた国境線では、今もイスラエル軍とヒズボラが衝突を繰り返している。とはいえ、目の前に広がるのどかな風景は、ここが出入りの自由を国軍に管理された半世紀を超える「牢獄」であることを忘れさせる。6日からの滞在で何度か訪れたベイルート郊外の難民キャンプ・シャティーラとは対照的だった。 
 0.06平方kmほどのシャティーラには、パレスチナ難民やシリアからの出稼ぎ労働者、レバノンの貧困層ら約1万7000人が生活している。 

 20年前のサブラ、シャティーラ虐殺事件の際、斧やナイフで惨殺された死体で埋め尽くされたサブラ通りに立つと、生ゴミと汚水の匂いが鼻を衝く。未舗装の通りは排水設備すらも整備されておらず、雨が降れば泥の川となる。大きな箒で、一心不乱に汚水を掻き出している男性の写真を撮っていると、私の背後で通りすがりの男がぼそっとつぶやく。「撮れよ、撮れよ、これがシャティーラさ」。男の言葉は、難民としての生を強いる日常への憤りだったのか、あるいは、尊厳を傷つけるその日常を写し込む私のあさましさをなじったのだろうか。 

 サブラ通りから東側には狭く薄暗い路地が迷路のように伸び、ブロックを不恰好に積み重ねた7~8階建てのビルが、まるで光を求める植物のようにひしめき合う。足元をみれば至る所に水溜りがある。何十本もの電線が垂れ下がり、建物の合間から僅かな空がのぞく。レバノン政府は、歴史の暗部が刻まれたシャティーラの再開発と、住民の立ち退きを目論んでいるという。 
 シャティーラと違い、ラシーディエはどこかのどかだった。子どもたちがサッカーゲームに興じている。カメラを向けると、お気に入りの選手のブロマイドを手にポーズを取る。お菓子の付録だ。今年4月、私は占領下パレスチナの、虐殺事件から半月後のジェニン難民キャンプを訪れたが、殺戮と破壊にさらされた直後の子どもたちの中には、手榴弾の破片を掲げたり、角材や鉄パイプを自動小銃に模してポーズをとる者もいた。 

 駄菓子屋の前を通りかかった時だった。店内から小柄な女性が弾けるように飛び出してきた。私がカメラを構える間もなく岡さんに近寄った女性が、里子のホダーさんだった。岡さんと抱擁しあい、ぶら下がるように腕にしがみつく。身長150cmくらいほど。白いシャツの上に小豆色の上着。黒のスラックスを履き、薄紫色のヒジャーブを被っている。手紙や写真のやり取りで知った彼女の好みに合わせ、岡さんが京都で買ったお土産、薄紫の和紙製扇子やハンカチ、和紙の小箱がよく似合う。
「もっと大柄だと思ってた」岡さんが言う。
「そう?私、縮んじゃったのね」ホダーさんが返す。
「手紙、あまり書かなくてごめんね」
「私、忘れられたのかと思った」 
 里子と里親というより、まるで、就職か進学で町に出た後、長らく音信不通だったズボラな姉と、やきもきする故郷の家族をなだめつつ、彼女を待ちかねていたしっかり者の妹のようだ。 

 里親制度は、レバノンの難民キャンプ住民のソーシャルケアに取り組むNGO「ベイト・アトファール・アル=ソムード」が展開している貧困層の支援策である。 
 76年、ベイルート郊外のタッル・ザァタル難民キャンプで住民4000人余りが殺害された。「ベイト」はその虐殺の遺児を支援するために設立された組織である。内戦を経た今では、レバノン国内に12あるパレスチナ難民キャンプの10カ所にセンターを持ち、海外のNGOとも協力し、子どもの就学支援や、文化、芸術活動も展開している。レバノンには同様のNGOが20近くあるが、その中で、最も活発な取り組みをしている団体である。 

 里親制度は、サブラ、シャティーラ虐殺事件の遺児を支援するために始まった。子どものスポンサーを募り、毎月、仕送りを行い、手紙を交わす。生まれた時から難民生活を強いられている子どもたちが、世界の人と繋がり、絆を実感できる制度である。「ベイト」が撒いた絆の種は、フォト・ジャーナリスト、広河隆一さんが日本に持ち帰り、現在では、フランス、スイス、ドイツ、ノルウェー、マレーシアなどでも芽吹いている。 

 ホダーさんは現在、母と兄、弟の4人家族である。壁には軍服姿の肖像が掛けてある。父は90年8月、南部国境地帯での戦闘で死亡、母は看護婦をしながら、彼女と姉、3人の兄、そして弟の計6人を育ててきた。 

 平屋建ての小奇麗な家は3部屋。卓上にはバラの造花、中央にはデスクトップのパソコンがある。彼女が寝室に案内してくれた。天井から壁沿いに斑模様がついている。雨漏りの跡である。修繕したいが、出入りを管理している国軍が資材の搬入を認めないのだという。 
 彼女は当時、レバノン大の1年生、アラブ文学を学んでいた。「文法、古典、中世文学、フランス語、オスマン語、哲学も勉強しています。本当はジャーナリズムを勉強したかったけど、レバノンではパレスチナ人はジャーナリストにはなれない。母が『入っても先がない』と反対したから諦めました」という。パレスチナでもジャーナリストを希望していたパレスチナ人女性に会った。動機は単純明快である。「不正を告発したい。この状況を世界に知らせたい」。シンプルでピュアな思いは、それゆえに、私が属する、少なくとも日本のメディアの性癖、すぐ分かった気になり、飽きっぽく、出来合いの言葉で事態を切り取り、消費し続けるさまを痛烈に撃つ。今は教師を目指しているホダーさんは、「パレスチナ人に教えたい」と語った後、付け加えた。「経済的に可能ならだけどね」 

 20近い宗派の微妙な力関係の上に成り立つレバノン政府は、国内人口の1割近いパレスチナ難民の永住阻止を一貫した政策として掲げている。参政権はおろか、社会保障からも排除している。前述した難民キャンプにおける住居改修の禁止もその一環である。来春から大学の授業料が値上げされるが、レバノン人が2倍なのに対し、パレスチナ人は5倍、日本円にして実に75万円にまで上がった。仮に卒業しても、公務員はもちろん、医者やジャーナリスト、法律家やエンジニアなど、専門職を中心に70以上の職種への就労が禁じられている。 
 付き添ってくれている「ベイト」のソーシャルワーカー、イブティサームさんもレバノン大を中退していた。学費が工面できず、入学しても卒業ができない人が多いのだ。レバノンのパレスチナ難民という現実が、彼女たちの夢を諦めさせる。 

 客間で談笑している時、岡さんが話した。「実は私たち、4月にパレスチナに行ったんです」 
 すかさずイブティサームさんが聞いた。
「美しかったでしょ?」 
 それはレバノンに来て以来、「パレスチナへ行った」というたびに、何度も受けた問いだった。 
 今年4月28日、ヨルダン西岸の町、キリスト生誕の地といわれるベツレヘムで聞いた言葉が浮かんだ――  
 イスラエルで18歳の女性が行った「自爆攻撃」への報復として、4月1日、イスラエル軍はベツレヘムに侵攻、私たちが訪問した時、町は戒厳令下にあった。
「ここから先は軍がいる。私はもういけない」中心部から少し離れた場所で運転手が説明した。ハンドルのちょうど前の部分のフロントガラスには弾痕があった。外出しているパレスチナ人は、誰でも狙撃の対象である。 

 車を降りる。アラブ人とは違う顔立ちゆえ、昼間に私が撃たれる可能性は低い。いわばレイシズムの“恩恵”である。とはいえ、両脇のビルの中には、銃口をこちらに向けたスナイパーがいるのだ。何かのはずみで爆発しそうな緊張感の中、この日の待ち合わせ場所であるホテルまで歩く。 
 人影のない町には至る所にシャヒード(殉死者)のポスターが貼られている。通りでは回収できずに乾燥した生ゴミが宙を舞う。破壊された給水タンクが転がっている。路面は戦車のキャタピラで踏み荒らされ、電柱が倒されている。海外からの支援を受け、自治政府が積み上げてきた社会資本が徹底した攻撃を受けている。パレスチナ国家否定の思惑が、破壊の対象に現れていた。 
 装甲車が横付けされたホテルの1階には、M16を下げた兵隊がたむろしている。最上階の5階はイスラエル軍が占拠し、当時、追い詰められたパレスチナ人が立てこもっていた聖誕町内を監視していた。手持ち無沙汰なのか、兵士が入れ替わり私に身分証の提示を求める。 

 案内役のパレスチナ人青年2人アウニー・ジュブラーンさん(30)とバーシム・スベイハさん(25)と落ち合った。取材のコーディネートや、自分で撮った映像を報道機関に提供し、僅かな糧を得ているという。水も満足に出ないトイレに行ったアウニーさんが、戻り際、一人のイスラエル兵と言葉を交わす。「何を話したの?」。「『やあ、調子はどうだい』みたいな他愛も無い話だよ。仕事をつつがなくするためにイスラエル人への感情は置いておくんだ」。吐き捨てるように語った。 
 今日の予定を話し合っている時だった。突然、アウニーさんの目が険しくなった。言葉が怒気を含み、英語混じりのアラビア語でまくし立てる。ビリビリした空気が伝わるが、何も理解できない。私の苛立ちも募る。岡さんから後で聞いた彼の話は次のようなものだった。 
 彼女のアラビア語にモロッコ訛りを聞きとった彼が聞いた。
「モロッコは美しかっただろ」
「でも、パレスチナの方がもっと美しいですよ」
「美しいだって?」
 反射的にしてしまったアラブ世界の慣例的な受け答え。彼が感情を顕にした。
「こんなに毎日人が死に、血が流されている場所の一体、どこが美しいんだ? 2日前だって俺の友達が殺された。血まみれになった死体を前に、俺は泣き叫ぶべきなのか、あくまで仕事に徹してカメラを回すべきなのか分からなかったよ」
「それでもなお、パレスチナは美しいと思うんです」
「パレスチナが美しいなんてことは言われなくても分かってるさ。俺はパレスチナ人なんだから。でもここでは人が殺され、家が破壊されるのが日常なんだよ。俺たちは平和と自由を求めて闘っている。でも平和がどういうものか想像ができない。生まれた時からここは占領され、暴力が日常だった。君たちにとっては明白なのかもしれない。でも俺たちは分からない。教えてくれよ。平和とはどんなものか。自由とは何なのか…」

「美しかったでしょ?」長椅子に並んでいたホダーさんが目を輝かせ、質問を繰り返した。私たちは返事ができずにいた。
(■つづく)

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