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レバノン9.11・難民キャンプを歩く 第1回/ベイルートで迎えた朝

■月刊『記録』02年12月号掲載記事

■中村一成(なかむら・いるそん……新聞記者。日本の「国民教育」が排除する者たちの教育権や外国人管理の問題が主なテーマ。1969年生まれ。京都市在住。)

        *       *       * 

「9・11は恐ろしい暴力行為でしたが、新しいことではありませんでした。あのような暴力行為はいくらでもあります。ただアメリカ以外の場所で起きていたというだけです」(ノーム・チョムスキー)  

 2002年9月11日、朝5時に目が醒めた。頭の中に異物感がある。昨夜呑んだアラクのせいだ。 
 夕食を終えベイルート中心部にあるホテルに戻ると夜の10時を回っていた。1階のバーに入る。カウンター内のテレビではイラク放送が流れていた。イスラエルのパレスチナ侵攻、演説するブッシュ、乗っ取られた旅客機がワールドトレードセンター(WTC)に衝突する。繰り返されるその映像が「自業自得」のイメージを伝え続ける。笑うと目が無くなるレバノン人のバーテンが私の名前を訊ねた。「イルソン」。不思議な顔をするので付け加える。「ノースコリアの主席キム・イルソンを知っている? あれと同じ発音だよ」。「ノースコリア!知ってるよ!知ってる。イラク、イラン、‥‥キューバ!」。彼の目が無くなり、握手を求められた。「悪の枢軸」を連想したのだ。
「中東に生まれて不幸だよ」グラスを磨きながらバーテンが言う。
「なぜ?」
「今の世界にゃクレイジー・ビッグ・ワンが2人いるからな」
「シャロンとブッシュ」。思わずバーテンとハモった。「ブレアは?」
「ありゃスモール・ワンだ」
「じゃコイズミは?」
「?」
「日本の首相だよ」
「あぁ、違う、彼は違うよ」 
 テレビ画面を指差して訊く。「あの事件、どう思う?」。「9・11は確かに痛ましい事件だ。でもイラク人は12年間(湾岸戦争とその後も続く爆撃、及び経済封鎖で)、毎日殺され、イスラエルは米国の支援の下、パレスチナ人を毎日殺しているじゃないか」。 
 酒を酌み交せば日本の首相が「スモール・ワン」に昇格するのに20分もかからなかった。話は弾み、徹底的に呑もうかとも思ったが、明日の仕事がある。「店の奢りだ、もう一杯呑んでけ」。座った目で絡むバーテンを振り切って部屋に戻った。 

 私は9月6日からレバノンの首都・ベイルートに滞在していた。主たる目的は2つ。 
 1つは82年9月、イスラエル軍占領下にあったベイルート郊外のパレスチナ難民キャンプ、サブラとシャティーラに同軍の支援を受けたレバノン民兵組織が侵入、住民2000人以上が殺された。その虐殺事件の証言を聞くこと。もう1つは、今回の旅に同行し、通訳を務めてくれるアラブ文学研究者、岡真理さんとともに、彼女の里子に会うこと。地元NGO「ベイト・アトファール」がパレスチナ難民の貧困家庭の子どもを対象に里親運動を行っており、彼女も里親の1人だった。 
 もう一度、寝ようとしたが眠れない。テレビを点ける。カタールの衛星放送「アルジャジーラ」の映像が流れている。煙を上げるWTC。ブッシュ、シャロンの叫ぶ顔、イスラエル軍の戦車に投石する少年、近づいた男性が戦車に何かを仕掛け、周囲に白煙が立ち込める。棺の中には頭を撃たれ、耳と口から血を流した少年が横たわり、母親が亡骸を抱き寄せる。太ももに被弾し、丸太が倒れるように転がる男性‥‥。 
 パレスチナでは00年9月に第二次インティファーダが起きて以降、わずか2年間で、子ども480人を含む約1900人のパレスチナ人が殺され、1万5千人以上が負傷、1万6千戸以上の家屋が破壊されている。 
 スペイン内戦の最中、写真家ロバート・キャパは、頭を撃たれて崩れ落ちる共和国軍兵士をフィルムに収めて名を成した。そんな姿だけをとれば、ここから南、ほんの数十キロ離れた土地では日常である。それこそ、切り取り、消費することにすら飽きてしまうほどに。  

 午前7時過ぎ。サマータイムだから実際は午前6時過ぎ。窓から見た空は少し曇っていた。レバノンに来て以来、私は毎朝ベランダに出て、そこから見える空や町並みを撮っていた。飛び立つ鳥。家や店の前を掃いている人たちがいる。目が醒めると頭の中で鳴り始める前日の喧騒と、虐殺事件の記憶。証言として整理もできず、ただあの日の記憶を吐き出し続ける遺族たち……。朝のルーティンは、いわば深呼吸だった。 

 朝食をとり、外に出る。迎えが来るまで少しあった。「タクシー」「タクシー」。ドアを開けるや否や、ホテル周辺に屯する白タクの運転手たちから営業攻勢がかかる。かつて「中東のパリ」といわれ、金融や貿易、情報産業で栄えたこの国の経済は、20年近く続いた内戦の後遺症に苦しんでいる。国内人口約400万人の3倍ともいわれる在外レバノン人からの送金で、貿易収支は黒字を記録してはいるが、インフレが激しく、金のやり取りはほぼ紙幣のみ。失業率も高く、車一台で始められるタクシーには、膨大な就労層が流れ込んでいる。 
 根元まで吸ったタバコを指に挟んだ白髪の老人が寄って来て乗車を勧める。パレスチナ人という。難民キャンプに通っていることを告げると、親しげな仕草に拍車がかかる。かつてはPLO(パレスチナ解放機構)のメンバーで、70年代には中国や日本を訪れたこともあるという。別れ際には名刺を握らせて顔を近づけ、「実は今もPLOを支持してるんだよ」。こそっと呟いた。 

 70年にヨルダンで起きたパレスチナ人大弾圧「黒い9月事件」で、PLOが同国を追放された後、レバノンは82年までPLOの拠点だった。今も国内には12の難民キャンプがあり、約35万人のパレスチナ難民が暮らす。大半は48年、イスラエル建国と第一次中東戦争で故郷を離れざるを得なかった人々で、多くは第三次中東戦争の停戦ラインより西側の出身者という。つまりは93年にイスラエルとPLOが交わした「土地と和平の交換」たるオスロ合意で、PLOが放棄した土地である。この合意は「中東和平に新たな地平をもたらした」として、当事者3名がノーベル平和賞を受けた。しかし、世界がパレスチナに望んだ“和平”とは、帰還というシンプルな願いを遠のかせ、皮肉なことに「解放」への道筋を巡る同胞間の混乱と対立を激しくしている。老人が声を潜めたのには、そんな背景があったのかもしれない。

「ベイト」で働くパレスチナ難民の青年、モヘッディーンさんが迎えに来てくれる。車はトヨタ製、日本からの寄附で購入したものだ。林立するビルの間を抜けて幹線道路に出る。車窓からみえる高層ビルは、砲撃で大破し、無残な姿を晒している。注意して見ると、廃墟の中ほどには洗濯物と人影がある。一方では更地と白亜のビルが建っている。道路を走る車の大半は、腐食して車体に穴が開いていたり、どこかが剥がれているが、そんな間を、場違いな最新型の高級車が縫って行く。内戦で欧州諸国に避難していた富裕層が近年、相次いで帰国しており、貧富の差はますます広がっているという。 

 高速道路に乗る直前、UNRWA(国連パレスチナ難民救済事業機関)の事務所前を通り過ぎる。総会の決議で48年のイスラエル建国にお墨付きを与えた国連が、第一次中東戦争後、離散パレスチナ人の社会保障などを目的に設置した支援機関である。 
 頑丈そうな門のそばにはレバノンの国軍兵が立っている。両脇に伸びる歩道はテントが並び、何枚ものプラカードが掛かっている。「(破壊された)ナバテア・キャンプの再建を許可せよ」「レバノンのUNRWAはパレスチナ人を抑圧している」「なぜ心臓病、腎臓病、癌患者は治療が受けられないのか」。ガードレールに縛り付けた鉄パイプの上に粗末なシートを被せただけのテントの隙間からは、疲れた顔をした男性や、ヒジャーブ(イスラム式スカーフ)を被った女性たちが腰を下ろしているのが見える。 
 離散から半世紀が経ち、パレスチナ問題の解決が国際政治の力学に歪められ続けるなか、UNRWAの予算は年々、削減傾向にあるという。今では負担の大きい医療は援助の対象から外され、最低限の生活を保障することすらままならない。座り込みは既に2週間を超えるという。 

 右手に地中海を臨みながら高速道路を南下する。左手には、照明灯ごとにコカ・コーラの看板が据えつけてある。ユダヤ資本の同社はマクドナルドなどと並び、長く、アラブ諸国からボイコットされていたが、今ではどこでも見られるようになっている。 
 高速道路を降りると、左手には約6万人が暮らす国内最大のパレスチナ難民キャンプ「アイネルヘルウェ」が見える。「かつてはこのあたりまでイスラエルの占領地だった」とモヘッディーンさんが教えてくれる。 
 バナナやナツメヤシの畑が並ぶ単調な風景が続く。赤と白のバリケードが目に入る。検問所だ。砲台を四方に向けた戦車が並び、見張り塔の上にはAK47を抱えた兵隊がいる。旧ソ連製の自動小銃は、おそらくシリアからのものだろう。78年の占領以来、22年間もイスラエルに占領され、今も国境線を挟んで緊張が続いている影響からか、南部にはたくさんの検問所がある。街灯には、レバノンの国旗とクロスして自動小銃を持つ手をデザインした旗と、男性の肖像画が据え付けてある。82年に結成された、レバノンの主要政党の一つ、ヒズボラ(神の党)の旗と幹部の肖像である。 

 イスラエル軍が南部レバノンを撤退した00年5月、国連は安保理決議に基づく撤退は完了したとして手を引いた。一方、レバノン政府は、国連が設定した「ブルー・ライン」は本来の国境線ではないとして、シェバア農地など一部地域の領有権を一貫して主張している。同党はそれらの奪回を訴えており、現在もイスラエル軍としばしば衝突している。米国は従来から同党を国際的なテロ組織に指定しており、01年9月11日以降は、テロ組織資産凍結リストに加えている。 
 未舗装の道路を進むと検問所が見える。その向こうに、この日の訪問地、ラシーディーエ・キャンプがある。モヘッディーンさんが身分証の提示を求められる。「どれだけ滞在するんだ」。国軍兵士の高圧的な質問に答え、通過を許される。生い茂った木々の間を縫って、でこぼこの道を進む。視界が開けると、パレスチナの旗とアラファトの肖像が据え付けられたゲートがある。キャンプの入り口だ。シャヒード(殉教者)の肖像写真が至る所に貼ってあり、門の近くでは米軍が使用する自動小銃・M16のオモチャをぶら下げた子どもが同じ歳くらいの子どもと戯れている。 
  コンクリートの壁に赤いスプレーで書かれた落書きがある。「アラファト+エルサレム=パレスチナ」。このキャンプではアラファト支持派が優位のようだ。 

  小さな3階建ての建物の前に着く。「ベイト」の現地事務所である。ミリアム・スレイマーン所長と、ソーシャルワーカーのイブティサーム・フセインさん、ウマイマさんの3人が出迎えてくれた。「ホダーが心待ちにしているから、まずは行きましょう」。イブティサームさんが私たちを促した。
(■つづく)

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