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レバノン9.11・難民キャンプを歩く 第5回/キャンプの本当の現実

■月刊『記録』03年4月号掲載記事

 朝はバラの造花が飾られていたテーブルには食事用の黄色いカヴァーが掛けられていた。ナッツと手羽先を具にした炊き込みご飯。ヨーグルト、ナスの酢漬けとフライドポテト……。次々と、食卓いっぱいに料理が並ぶ。 

 準備が整うのを見計らったように、ホダーさんの兄・ハーレド(25)が帰宅した。レバノン大を卒業したが定期収入のある仕事はなく、今は鉄筋や鉄骨で日用品を作り、僅かな収入を得ている。近く結婚するため、連日、夜中までの仕事をこなしているとのことだった。「どんな作業をしてるの?」と私が訊くと、彼はもどかしげな表情で、溶接作業の内容を説明しようとする。新聞社で働く前、私は土木作業で食べていた。私が溶接機器の操作を身振り手振りで示すと、表情がぱっと明るくなった。 

 食事が和やかに進む。アラブのもてなしの慣習で、食べた分はすぐさま継ぎ足される。「もっと食えよ。日本に帰るころには、別人みたいに太ってるかもな」。ハーレドが嬉しそうに私の皿に食事を盛り続け、ホダーが囃し立てる。あまりの量に、さすがに音を上げると、彼が私の耳に口を近づけ、声を潜めて言った。「上へ来ないか?」 

 階段を上がった屋上が彼の仕事場だった。鉄パイプや鉄骨を切るための電気カッターがある。ろくすっぽ英語も出来ない私に、ハーレドは決して流暢とはいえない英語で話しかけてきた。「俺は腕がいい職人なんだ。何だって作れる。でも移動であちこちに行くのが煩わしいから、ここで仕事をしてるんだよ」。大事な仕事道具を指差して、彼が言った。「使っているとこを見たいか?」 
 電気カッターにスイッチを入れた。彼の顔が引き締まる。レバーを下げ、回転する刃を鉄パイプにあてると、勢いよく火花が噴き出した。
「写真を撮っていいか?」。私にこの姿を見せたかったのだと感じ、思わず言葉が口を衝いた。 
 鉄パイプを切ってみせた彼は、繰り返した。「これで何でも創れる。だけど、移動が嫌だからここで仕事をしてるんだ。君は友達だよ。分かるだろ。君は友達だ。分かるだろ」 

 拙い英語で、だがそれゆえに、言葉以上の思いが伝わるような英語で、何度も、何度も繰り返した。彼は決して「軟禁状態だから」や「難民だから」とは言わなかった。大学を出ても仕事はない。今では資材の搬入すらも妨害され、働くことも認められない。「難民」の意味を日々、思い知らされる暮らしのなかでは、「尊厳」を保つことがまさに闘いだった。彼はその「誇り」を、対極的な境遇にある私に示し、いうなれば「一人前の男」として張り合い、そして、「彼の闘い」に対する私の想像力を問うているように思えた。
「分かるよ。俺もそう思うよ」。私もただ、何度も繰り返した。 

 階段から降りる時、彼が屋上から私を呼び止めて言った。「母親が階段を綺麗にしているから撮ってくれよ」。見ると、空き缶を利用した「鉢」に植えられたハーブや観葉植物が、日光を浴びながら美しく並んでいた。 

 ホダーさんの家を辞去する。すでに午後3時近くなっていた。「もう一軒、寄って行きましょう」。ミリアムさんは私たちに促すと、路地に入り、傍らにある平屋のドアを開けた。すえた匂いがする。中には布団が敷いてあり、うつ伏せになり、首を直角に反らした異様な姿勢で寝ている男性の姿があった。無精ひげが目立つ口は大きく開かれ、生気が感じられない。側にはタバコの箱があり、灰皿の上には乱暴に押し潰した吸殻が数本、乗っている。開けたドアの枠内に広がる異様な光景は、少し前の和やかな雰囲気とはあまりにもかけ離れていた。すると枠の中に突如、男の子の顔が飛び込んできた。他人を拒絶するような、怯えたような眼に、思わず声を上げそうになった。 

 子どもは5人、寝ている父親は精神を病んでおり、母親が家計を支えているという。ベイトはこの家庭を支援しているが、父親がいるためUNRWAの援助対象からは除外されている。ミリアムさんが言った。「ホダーはまだ恵まれています。本当に貧しい世帯の現状がこれです。あなたたちに厳しい現実を見て欲しかったのです」 
 事務所に戻ると、運転手のモヘッディーンさんが寝ている。一階の壁に貼られた船の絵を指してミリアムさんに聞いた。「この船はどこに向かって航海するのですか」。「パレスチナですよ。どんなに海が荒れても進んでいく。希望のシンボルです」 
 センターの隣は更地になっている。むき出しになったセンターの壁に高校生くらいの男の子がペンキを塗ったり、欠けた部分に漆喰を塗りつけている。これもレバノンの「帰還促進」政策からみれば禁止行為である。 
 キャンプの門を出ると、モヘッディーンさんが言った。
「アインアルヒルウェに寄っていこう」

 
 青い空、緑の木々、家の合間からみえる青い地中海、軒先に干してある赤や青の洗濯物。陽射しに照らされた、水彩画のようなラシーディエの風景に浸った後では、都市型キャンプのアインアルヒルウェの景色は、鉛色に写った。国軍兵士のチェックを受け門をくぐる。デコボコになったキャンプ内の道は、機械油が染み込んだようにどす黒く、小さな子どもや青年たちが、路上に屯している。険しい眼が車の中の私たちに注がれると、否応なく緊張感が増してくる。 

 道を曲がりくねり、車を降りる。車幅より狭い路地を歩くと、グラウンドがある。その通り向かいにベイトのアインアルヒルウェ・センターがあった。3階建ての建物と建物の間の、やっと人1人が通れるくらいの路地に、無理やり押し込んだような高い鉄の扉があり、上には鉄の棘がある。その横の壁には、複数の銃痕が刻まれている。 
 モヘッディーンさんが扉を何度もノックするが、なかなか人が出てこない。門から建物までの距離が遠いのだろう。しばらくして、ようやく、女性職員が扉を開けてくれた。狭い路地を抜けると、建物の壁に四方を囲まれた小さな庭がある。日の射さない場所とはいえ、中心部は砂場になっていて、ブランコが1台、据え付けてある。その周囲には花が咲き、赤や緑に塗られた手すりが遊び場と通路を立て分けている。ベイトを支援している日本のNGO「パレスチナ子どものキャンペーン」から派遣されたボランティアが整地したのだという。 

 センターに入ると、壁にはパレスチナの伝統的刺繍で織られたパレスチナの地図がある。その地図には、48年以降、シオニストらに蹂躙され、消し去られてきたパレスチナの村々の名前が縫いこまれ、幾度となく繰り返された戦争のたびに引かれた停戦ラインも、度重なる国連の非難決議を無視して造成され続けるイスラエル人の入植地もない。 

 所長のバハー・タイヤールさん(45)がにこやかに出迎えてくれた。「一番問題の多いキャンプ。それは人口が一番多いからです」。開口一番、切り出した。 
 49年に出来たこのキャンプでは、6万人の人々が約1.5キロ平方メートルの敷地内に暮らしている。昼間はキャンプ内の市場で働くシリア人やUNRWA職員など、これに約1万人が加わるという。「80年代後半、レバノンのキャンプ内で党派間の争いが激しくなった。勢力争いに敗れた人たちがみな、このキャンプに集まったのです。例えば北部のキャンプではシリア系のダンズィーマートが、南部はファタハ(アラファト派)が牛耳っているが、ここには全部あって衝突を起こしている。普通、キャンプには一つの人民委員会があり、行政機構的役割を果たすが、ここには4つある。それが対立していることが青少年に悪影響を与えている」と話す。
「具体的にはどんな問題がありますか?」
「いろんなプロジェクトを企画しても、党派間の対立を調停する努力がいる。それから、先日は15人の少女が性的に利用されていたことが分かりました。でも問題をどこに持ち込んで、解決させればいいか分からない。4つ委員会があるということは、言い換えれば責任を持つ組織がないということです。無秩序ゆえレバノンで犯罪を犯した人が逃げ込んで来たりもする。先日もそれでレバノンの警察官と党派との間で銃撃戦がありました」 
 そこまで言っていいのかと、率直さにこちらが困惑する。色白で乾いた顔に栗色の髪、茶色い瞳で私たちを見つめ、よく質問を聞いた上で、ていねいに答えてくれる。 

 バハーさんは57年に生まれたパレスチナ難民2世である。パレスチナ北部の町、シャァブ・アッカ近くの村が故郷で、76年、タッル・ザアタル虐殺事件の後、ベイトが設立された時のメンバーである。「ベイトには約200人の孤児がいました。私は80年からの2年間、7人の孤児の母親代わり、当時は私が最年少の職員でした」 

 82年、サブラ・シャティーラ虐殺事件が起きた年、アインアルヒルウェに赴任した。その時が、自身にとっての原点になっているという。当時、南部レバノンは戦場だった。
「避難所が爆撃され、200人余りが殺されました。サブラ・シャティーラでも、子どもや女性、老人たちが獣のように屠殺されました。あの時私は、パレスチナの子どもたちのために、もっと、もっと働きたいと思ったのです」
「今の対立が与えている悪影響とは?」
「矛盾です。何が正しくて何が正しくないか。例えばオスロ合意一つとっても、党派によって評価が違う。私は大人で自分で考えることが出来る。それでも一体、何が正しいのか私でさえ当惑することがある。ましてや17歳の子どもには……。例えば民族舞踊の企画をするにも、女の子と手を繋ぐことを『ハラーム(禁忌)』だと言う党派もある」 
 じっくりと、言葉を選びながら話しているのだが、時おりウンザリした表情をみせながら話す党派対立への批判は手厳しく、激しい。
「サブラ・シャティーラの前にもいろんな組織はありましたが、目的は一つ『解放』だった。でも今は違う。アラファトのやり方がもたらしたのはインティファーダであり、ジェニンの虐殺だった。『帰還』一つとってもアラファトの主張か、宗教勢力の主張か、どちらを支持すればいいのか。(オスロ合意でパレスチナの約78%を諦めたアラファトに対し)『私たちはパレスチナ全土の主人である』とのスローガンを主張する党派も出た」 
 すでにパレスチナ難民キャンプには、4世、5世が誕生している。世紀を超えて続く不正を国際社会は放置し続け、出口の見えない状況が続くなか、北欧や欧州に移住する人たちも相次いでいるという。「解放」「帰還」……。何よりも彼ら彼女らが待ち望む言葉の実現を巡る道筋が、同胞間の対立を激しくさせている。 

 部屋に並んだたくさんの壷にも鮮やかな刺繍を施したカバーが被せてあり、暖かい雰囲気が醸し出されている。彼女が刺繍したのだという。「子どもたちの多くは、家では寝るのも食事も同じ場所、外に出れば殺伐としたスラム。くつろぐ場所が必要なのです」。一言一言に深い思慮と知性を感じさせる彼女とのインタビューは和やかに進んだ。その表情が一転したのはこんな質問がきっかけだった。
「Suicide Attack(自殺攻撃)についてどう考えますか」
「‥‥」 
 最初、彼女はその言葉が何を指すのか分からないようだった。「パレスチナ人が爆弾を身に付け……」。説明するのを制し、頷きながら深呼吸をすると、彼女は愕然とした表情で呟いた。「『自殺攻撃……』。そう名付けるのですね。貴方達は」。みるみる顔が上気した。
(■つづく)

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