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靖国を歩く/第38回 「九段の母」を探せ(宮崎太郎)

■月刊「記録」06年2月号掲載記事

       *          *           *

 毎年8月15日に日本武道館で行われる全国戦没者追悼式。2005年、この式典が1963年から行われるようになって以来初めて、戦没者の親の参列がゼロとなった。
 ただ、それ自体は大して驚きではない。戦没者の親の年齢を考えてみよう。親が子を20歳で産み、その子が敗戦の1945年に亡くなったとして、その時点で親は40歳。戦後60年が経った05年の時点で、戦没者の親は100歳に達していることになる。100歳以上の高齢者がこれまでと何ら変わりなく参列していたら……その方が驚きだろう。
 英霊の親、靖国神社といえば『九段の母』を思い浮かべる人は多いだろう。1939年にテイチクから発売されたレコードで、作詞は石松秋二、作曲が佐藤富房。当時の大ヒット曲だったという。

「上野駅から九段まで/勝手知らないじれったさ/杖を頼りに一日がかり/せがれ来たぞや会いにきた……」

 誌面の都合上、歌詞を掲載するのは1番のみにするが、歌は4番まで続く。2番の「こんな立派なおやしろに/神とまつられもったいなさよ/母は泣けますうれしさに」の部分に(いうまでもなく「おやしろ」は靖国神社)、当時の人々の靖国神社像があまりに率直に映し出されているようで、素通りするのをためらわせるものがある。
 もっとも05年の全国戦没者追悼式に英霊の親の姿はなかったとはいえ、「九段の母」世代は全国の至るところでまだ健在なはずだ。
 会いたい。会って、当時どんな心境で『九段の母』を歌っていたのかを聞きたい。そして今回の「九段の母」探しが始まった。
 はじめにあたったのは日本遺族会。英霊の母を探している旨を話すと、まず「戦死された方の母親ですよね、もう、相当なお年ですよね?」と驚かれた。
 対応してくれた方によると日本遺族会は各都道府県の遺族会の集合体のようなもので、全国の戦没者を一括して把握しているわけではないという。各都道府県の遺族会がそれぞれ名簿を管理しているということを聞き、次に東京都の遺族会である東京都遺族連合会にあたることにした。
 同連合会の男性によると、「母」に会うことは難しいだろうと言う。毎月15日に東京都戦没者霊園で同連合会が行う拝礼式にも、もう戦没者の親は姿を見せないという。「親を探すのは、相当大変だと思いますよ」と男性は言う。
 次に注目したのは靖国神社境内にある献木だった。到着殿の脇にひっそりと植えられた献木の立て札にはこうあった。
「元北支派遣独立混成第九旅団/独立歩兵第三十九大隊/戦友遺族一同/事務局連絡先…」
 植えられたのが1971年とかなり時間が経っていることはあるが、直に遺族に連絡を取ることができれば、九段の母にはぐっと近づく。献木は他にもあったが連絡先が書いてあるものは他になかった。
 電話に出たのは声からしてかなり年配の男性だった。「元北支派遣」の名を出すと、ああ、と何か思い出すような声を出した。話を聞くと、今も年に1度のペースで当時の隊員たちと集まりを開くものの、ここ数年で連絡をとれなくなった者が急に増えたという。もし隊員が集まれたとしても、その母親となると、生きている確率はほとんどないのではないか、と男性は言った。

■こうなったら現地で探せ

 九段の母に会いたい。ならば靖国神社に参拝に来る人にこそ手がかりがあるのではないか。母当人がその足で来ていなくとも、英霊の親族であれば、そのつながりで母を探し当てることができるかもしれない。
 そこで早朝6時の開門から夕方5時の閉門まで張り込んで「九段の母」が身近にいるという人を探した。
 朝6時の開門前。あと1週間で大寒を迎えようという九段は死ぬほど寒い。気温1度、靖国神社横のコンビニで何年ぶりかのホッカイロを買う。誰もいないことを予想していたが、40代くらいの男性がひとり、またひとりとやって来て意外に3人も神門の前で開門を待っている。互いに顔見知りらしく談笑するかと思えば「上を向いて歩こう」とひとり叫んで怪気炎を上げていたりする。高齢者だからというわけではないが、早朝に起きて靖国に出かけるというケースはありそうなものだ……、などということを考えていたがそれはなかった。
 8時頃、2人連れの夫婦に話を聞く。男性が小学校3年生の頃、海軍だった父親(当時39歳)は人間魚雷に乗ることになった。ただ、しばらくは男性には「父親は特殊船に乗りに行った」としか伝えられなかったという。「親孝行しろよ」という父親の言葉を覚えているが、当時男性がその言葉をどのように感じたかは覚えていない。英霊の母はもちろんもう亡くなっている。
 10時40分頃、第二鳥居の前にワゴンが停まり、中から車椅子のお婆さんと付き添いの女性が降りてくる。車椅子のおばあさんはかなりの高齢。これは!と思ったが、話を聞いてみると残念ながら「母」ではなかった。英霊として祀られているのは夫の弟。20歳で満州に出兵、そのまま帰って来ることはなかった。聞くと、付き添いの女性は親族ではなく、デイサービスのワーカーさんだという。「今日はお天気がいいから、久しぶりに靖国にお参りに来たくなって」とお婆さん。参拝にも様々なパターンがあるものだ。
 正午。お昼時だというのに食堂、みやげものを置く外苑休憩所には人の姿もまばらだ。ここでふと、みやげもの店で働いている人ならば「母」くらいの年代の高齢者が参拝にやってくることがあるか知っているのではないかと思い、話を聞くことにする。そしてここで重要な証言を聞く。
「去年までほとんど毎朝、それも早朝に来て、お参りしていくお婆さんがいたよ。その後はよく巣鴨のとげぬき地蔵に行くっていってたけど。年でいえば、100歳くらいでもおかしくないような感じだったね。私は7時半くらいにこの店に来て準備をするけど、まだ店が開いてないそれくらいの時間帯にそのお婆さんが来て『まだ店開いてないか』とよく言われたね。」
 その通りならば「母」である確率は極めて高い。なにしろ、ほぼ毎朝来るようなお婆さんなら身内で英霊となった人がいるだろうし、100歳という年齢だ。しかし、昨年の後半あたりから、もう姿を見せなくなってしまったそうだ。
 神社の境内を、中国人の団体観光客が歩いていく。それは珍しいことではない。靖国というとイデオロギーにまみれた場所であるイメージを持たれがちで、特に「中国」「靖国」といえば反日・抗日といった言葉と結びつけられそうだが、実際に靖国を訪れる中国の人たちからはそんな気負いを感じ取ることがない。カメラを構え、笑顔を浮かべ、呑気なものなのだ。……そんなことを考えていると、その観光客群の向こうからくたびれたえんじ色の帽子と同じ色の上着を着た小さいお婆さんがとぼとぼ歩いてくるのが見えた。
 とうとう来た。今度こそは……と思い早速話を聞いた。大正10年生まれの小野さんは現在85歳。英霊として祀られているのは兄だった。小野さんが挺身隊として旋盤を回しているとき、5つ年上の兄はニューギニアに出兵し戦死した。「ウチにいれば死ななくてすんだのになあ」と言う小野さんに『九段の母』について話をすると「ええ、私はずっと『九段の母』を歌って、踊ってましたよ」と驚くべきことを言う。
 聞くところによると、歌好き、踊り好きが高じて、踊りの先生に習いはじめ、いつしか高齢者施設などでお年寄りを前に歌い、踊っていた。「上野駅から九段まで…」ではじまる『九段の母』を振り付けつきで歌いだすと、聞いている人たちはみんな泣いてしまっていた、と言い、小野さんはその振り付けを披露してくれた。振り付けは簡単なもので、腰が曲がったお年寄りが杖をつきながら歩き、たまに体を起こして腰を反らせる、というようなものだった。歌いながら慣れた様子で振り付けをたどる小野さんの表情はどこか楽しそうに見える。
 85歳という高齢になった今では人前で踊ることはなくなったが、それでもわずか5、6年前まで踊っていたという。もう昔のものではないかと思っていた『九段の母』が、今でも歌にその思想を乗せて生き続けている。私が思うより、どうやら「戦争」は遠いものではなかったようだ。
 他にも何人かに英霊にまつわる話を聞いたが、「母」に続く直接の手がかりはとうとう得られなかった。身内に戦没者がいる高齢者でも、それは兄弟や親戚がほとんどだった。
 最後に、ある女性と話した内容を書こう。現在78歳のこの女性が10代のときに兄は出兵した。人間魚雷としてだ。「ほんの少し前まで一緒に遊んでいた兄がこう言ったんです。僕はカマボコになります。どういう意味か分かりますか? 魚の餌になって魚の肉になるということですよ。」
 この女性はこの日、初めて靖国神社を訪れた。これまで、つらくて来られなかったのだという。
「もしかして、ここに祀られている方のお母さんも、あんまりつらくて来られないのではないですか?」と女性は言った。
 九段の坂が急すぎるからか、高齢のせいか、それともつらすぎるからなのか。いずれにしろ、母たちにとって九段は遠い。 (■宮崎太郎)

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