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靖国を歩く/第18回 靖国神社に参道にそびえ立つ大村益次郎像(奥津裕美)

■月刊「記録」03年8月号掲載記事

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   九段坂を上がっていくと「靖國神社」と書かれた大きな社標が見えてくる。その入口の先には大鳥居がある。そして、その鳥居を抜けると白い参道が広がり脇には桜の木が並んでいる。その中心に大きな銅像が立っている。大村益次郎の像である。 
   資料によると、台座5.4メートル、鉄の台4.2メートル、像3メートルの計12.7メートルという大きさ。やや離れたところからだとよく見えるが、近くから見ると大き過ぎて見えない。それにあまり長時間見上げていると首が疲れて痛くなってしまう。この銅像は日本で最初の洋式銅像だといわれているが、作るにあたって制作者である大熊氏広はイタリアやフランスに渡り制作技術を学んだそうである。 
   1882(明治15)年に銅像建設が発案され、1893(明治26)年2月に完成した。11年という長い歳月がかかったが、日本最初の石膏を原形にした洋式銅像の制作は日本の美術史の中でもかなり重要なポイントであるに違いない。 
   益次郎は西洋から学問を学んだにも関わらず、大の異人、異文化嫌いで、洋服も着たことがなかったという。『11月5日大村益次郎暗殺さる』(ビッグフォー出版)によると、「写真についても、あれはいいものだといいながら自分は1枚も撮らさなかった」とある。にもかかわらず、後に「西洋かぶれ」というレッテルを貼られ「国賊」だということで暗殺されてしまう。 
   西洋文化になじまなかったにも関わらず、西洋かぶれといわれ暗殺され、死後作られた銅像は西洋の文化を取り入れた造りで、さらに西洋式銅像の第一号となるのはなんとも皮肉なことである。
  「靖国神社の銅像の基になった肖像画は、生前の益次郎の顔を思い出したり益次郎の選者の顔を参考にしたりして書いたもの」とも書かれているが、さすがに自分の死後、銅像を造られるとは思ってもみなかっただろうが、坂本龍馬のように一枚くらいきちんとした写真を撮っておけば、関係者は困らなかっただろうに……と余計だが思ってしまった。ちなみに『ようこそ靖国神社へ』(近代出版社)によると、銅像の大村益次郎は袴を身につけ、左手に双眼鏡を持ち、「上野の彰義隊を攻める折に、江戸城富士見櫓から北東を凝視している姿をモデルにした」とある。1933(昭和18)年まで、弓矢をモチーフにした鉄柵と大砲八門が配置されていたそうだが、撤去され陸軍省に献納されたそうである。 
   靖国神社の前身の東京招魂社の建立を決定した大村益次郎とはどのような人物だったのだろうか。

■ 開業医としてはイマイチの評判
 
   1825(文政8)年、現在の山口県にあたる周防の鋳銭司に生まれた。父親は医師。幼名は宗太郎といった。その後、村田亮安と改名し、さらに村田蔵六となる。 
   蔵六は、1846(弘化3)年に適塾に入門する。ここで適塾を少し説明する。江戸末期に活躍した医学者でもあり蘭学者でもあった緒方洪庵が1838(天保9)年、大坂(現在の大阪)船場に「適々斎塾」をひらいた。適々とはどうのような意味が込められているのだろうか。快適・最適という事なのだろうかと考えてしまった。適塾にはたくさんの才能あふれる弟子達が入門した。蔵六のほかにも、福沢諭吉、橋本佐内、大島圭介、長与専斎などその後の日本に多大に貢献した人材ばかりである。洪庵は、江戸で蘭学を学び長崎でオランダ人の医者ニーマンに医学を学んでいる。1862(文久2)年に適塾は閉鎖されるが、塾生の顔ぶれを見る限り適塾の功績は大きい。 
   適塾出身で後に慶應義塾を創設し、『学問のススメ』を著した福沢諭吉は蔵六の後輩にあたる。彼の自伝『福翁自伝』(岩波文庫)に、蔵六と洪庵の葬儀で会った時の話が書かれているが、諭吉の話によると、蘭学を学んだ蔵六が攘夷論者になっていて驚いた。諭吉は最後まで、蔵六が攘夷論者になった理由がわからなかったそうである。 
   適塾で蘭学・医学を学んだ蔵六は、さらに長崎へ赴き蘭学を学んだ後、適塾に戻り塾長を務める。1850(嘉永3)年、故郷に戻り開業医となるが、評判はいまいちだったという。 
   1853(嘉永6)年に、宇和島藩主伊達宗城に招かれ宇和島藩士となる。3年後には藩主の参勤交代に帯同し江戸へ出てきている。そして江戸にて蘭学塾の鳩居堂を開く。その後さまざまな塾で学問を教えたのち、桂小五郎(木戸孝允)に推されて長州藩に入る。 
   桂は蔵六の才能を知っていて、さらに認めていたのか、仕官させるためにずいぶんと努力したそうである。その努力も政治力があったからこそなしえたのだろう。本来ならば彼がやるべき重要な任務を蔵六に任せ、ものすごい速度で出世させている。医師上がりの蔵六には当然、もともと武士階級の者たちの「医者上がりに何ができる」といったやっかみがついてまわったが、そうした彼らとの溝を埋めていったのも桂小五郎である。結果、蔵六に対する否定的な考えが少なくなり、逆に肯定する考えが広まっていった。私の身近にもそんな人物がいたら心強いだろう。 
   そのようにして地位を確立していった蔵六だが、ある時、桂小五郎から名前を変えないかと打診された。ちょうどそのころ、桂小五郎から木戸孝允と名前を改めており、蔵六が高杉晋作に頼まれて上海へ武器を調達しに行ったことが幕府に嗅ぎつけられていることも知った蔵六は名前を改めることにしたそうである。しかしその前にも、藩庁の役人からも打診があったそうだが、そのときは必要がないと一蹴したそうだ。
  『大村益次郎軍事の天才といわれた男』(PHP出版)によると、大村益次郎の「大村」は故郷の鋳銭司大村から取り、益次郎の「益」は父の孝益から取ったと書かれている。そして村田蔵六は大村益次郎になったのである。 
   それでは、軍略家としての益次郎はどうだったのだろうか。その手がかりとして、第二次長州征伐の石州口の戦いと、上野での彰義隊討伐の2つの戦いにスポットをあててみることにする。 
   石州口の戦いでは参謀として参加している。戦いとはいえ、ただ戦えばよいというわけではなく、頭の切れるブレーンが戦略を練り進めていくということが必要である。やみくもに敵をやっつけるわけにはいかないのだ。そんな事をしていたらかえって負け戦になってしまいかねない。この戦いでは、時に農民を金を使って信用させ利用し、また時には見方をも罠にはめ勝利を収めた。しかしこれは軍略家というより、策略家(いい意味でずる賢い)という感じである。戦いに関する知識があることもそうだが、やはりそれだけの知識を活かせるだけの頭脳があったからこそうまくことが進んだのではないだろうか。 
   次に彰義隊討伐である。彰義隊は、勝海舟の談判と英国公使パークスの示唆による「江戸城明け渡し」と前将軍徳川慶喜の恭順という非常に穏便な解決に反抗し、徹底抗戦(「戦うんじゃ-!」)を叫んだうちの一つである。 
   討幕軍の指導者であった西郷は、江戸城の受け取り任務を海江田信義に任せていた。海江田と大村は彰義隊討伐の際に対立してしまう。当時、海江田は江戸で軍事の実権を握っており、そこへ突然、朝廷から委任されやってきた益次郎のことが気に入らなかったのだろう。最後には論争がエスカレートしけんかになってしまったそうである(大人気ない)。その一件から、海江田は益次郎のことを憎みだしたそうである。後に起こる益次郎暗殺襲撃事件では、黒幕はこいつなのでは…という説も飛び交った。真相は藪の中である。 
   作戦会議では、薩摩と肥後の兵を黒門口に配置し、長州は団子坂に配置するといったが、長州は上野の地理がわからなかったり、鉄砲の使い方で手間取ったりと失敗したらしい。資料を見た限りでは、どうも大村益次郎はそんなにすごい人物だとは思えない。彰義隊を自らの案で1日で壊滅させたが、本当のヤリ手ではない気がする。 
   彰義隊討伐では実戦の指揮をしているが、戊辰戦争では後ろに下がり兵站指導者として活躍し勝利に導いたそうである。 
   明治に入り兵部大輔になった益次郎は近代兵制樹立を目指しフランス式の軍制を採用した。それ以前にも軍服に洋服を取り入れたり、天皇に対する立って挨拶をする案を発案したりと近代的なアイデアを出している。政府に参加するより、せっかくだからその知識を塾生に教えたりしたら、もっとたくさんの優秀な人材が生まれたかもしれない。時代がそうさせてはくれなかったのだろう。

■ 不潔な風呂水が命取り

   それと時を同じくして、益次郎の身に事件が起こる。休暇を取り京都へ来ていた益次郎は、友人と好物の豆腐を食べながら酒を飲んでいたところ、刺客に襲われたのである。その時は難を逃れ怪我をしただけですんだが、その時身を潜めていた風呂の湯が不潔だったのか、それが原因で足を切断する事になったが、すでに手遅れでその2日後に亡くなった。(享年45歳)
   『11月5日大村益次郎暗殺さる』(ビッグフォー出版)によると、死因は敗血症だったとかかれている。敗血症とは、細菌が体の中に入り増殖し、血液の中に入って身体全体に細菌がまわってしまう状態のことである。 
   医者でもあった益次郎が、自分の傷の状態を見極められなかったのは運が悪かったの一言に尽きる。もしかしたら、それも彼の運命だったのかもしれない。 
   それでは益次郎はなぜ襲われたのか。先ほどの資料によると、版籍奉還、廃刀令、旧武士階級(士族)が独占していた軍事を国民皆兵にしようという案を益次郎が出していたかららしい。士族にしてみれば、今までしてきた事が水の泡となり、さらに農民と同じに扱われる。プライドもあっただろう。それによって、一部にあった積年の恨みが爆発し、そのような事件が起こってしまったのかもしれない。政府高官の中にも国民皆兵を反対していた者もおり、益次郎が暗殺された事を喜んでいた人もいたそうである。江戸時代から昭和にかけて暗殺はたびたび起こったが、今の時代で起こったとしたら、誰が襲われてしまうのだろうか…想像するのが恐ろしい。 
   45歳で亡くなった益次郎だが、故郷の鋳銭司に大村神社というのがあるそうだ。そこには益次郎が祀られている。そうだとすると、ここのご利益は学業に関する事だろう。主に医学部あたりに効果を発揮すると思われる。湯島や北野天満宮もいいが、この大村神社も新しいご利益スポットとしていいかもしれない。 
   もし今の時代に大村益次郎が生きていたとしたら、彼は政治の世界にいるのだろうか。それとも学問の世界にいるのだろうか。  (■つづく)

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