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靖国を歩く/第17回 靖国と馬(奥津裕美)

■月刊「記録」03年7月号掲載記事

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 ウィンズ(場外馬券売場のこと)や東京競馬場は、小さな子供からご年配の方まで幅広い層で埋めつくされている。一応、未成年や学生が馬券を買うことは禁止されているが、親子3代、家族総出で競馬新聞を片手に持ち、熱心に勝ち馬を予想している姿を見ると、競馬浸透率というのはすごく高いのだと実感させられる。
 日本で初めて競馬が行われたのはいつなのだろうか。JRA(日本中央競馬会)の資料によると、文久2年(1862)、当時横浜に住んでいた外国人によって行われたのが最初だそうである。それが世代を越え人々を魅了し続ける競馬の礎となったのだ。
 そして明治になり、1906年に日本人による初めての馬券販売を用いた競馬が開催されたが、それは2年という短期間に終わった。しかしその翌年には、施設の維持管理や賞金等に対して政府から補助金が出され、馬券を用いない競馬として復活。どの馬が勝つかを当てることが醍醐味の競馬にもかかわらず、馬券を売らない競馬は14年も続いたそうである。
 靖国神社はこの競馬、正確には競馬も含めたスポーツ全般と縁の深い関係にあるのだ。1870年、前出の横浜で行われた競馬を真似した競技が日本人の手により行われたが、その場所が靖国神社だったのだ。例大祭で奉納を目的として行われたそうである。ギャンブルのイメージが色濃い競馬だが、大正天皇もしばしば観覧された由緒正しいスポーツのようである。
 ところで靖国神社には馬も祀られていることをご存知だろうか。第14回全国戦没馬慰霊祭実施報告書によると、名簿に書かれている馬の名前は3073頭と書かれている。実際は、靖国神社監修のオフィシャルガイドブック『ようこそ靖国神社へ』(近代出版社)によると、「大東亜戦争だけで20万頭が犠牲」になっており、こんなにもたくさんの馬が戦地に行き死んでいったのかと思うと、賭けの対象にはなってこそいるが、今生きている競走馬は幸せな馬人生を歩んでいるのかもしれない。きっと現代に産まれていれば、名馬と呼ばれる馬がたくさんいたはずだ。

■日本馬改良政策は異例のスピード

 明治以降、日本の軍隊も西洋化されたが、馬はまだ戦略的に重きを置かれていた。しかし、日清・日露戦争で日本馬が劣っていることが白日の下にさらされたのである。日清戦争(1904~05年)では、5万8千頭の馬が戦地に送り込まれたが、その6割の3万5千頭が無去勢だったそうである。去勢をすると性格などの荒々しさがとれておとなしく従順になるため、競走馬でも手なずけることが難しい荒い馬の場合は去勢されるのだが、それをしていなかったのだ。さらに牝馬も含まれていたというから、戦いが長引けば盛りの時期(発情期)と重なってしまうこともある。いずれにせよ戦闘に集中できる環境とはいいがたい。
 かくして北清事変(1900年)の際には、「日本軍馬は猛獣の如し」と列国から酷評されたそうである。それがよほど悔しかったのか、馬の飼育法の重要性を思い知らされたのかは定かではないが、1906年に馬政局が官制化され、30年計画で北海道を拠点として日本馬を改良するという大号令が発生された。北海道の牧場は本州とは違い、ミヤコザサが密生していた。ミヤコザサは冬でも枯れない強靱な植物で、雪の下に生えている笹を食べて生きることができるので冬季の放牧も可能だった。その後、優秀な軍馬がたくさん生産されたそうだが、クマが多く出没したため厳重に警戒されたそうである。大切な馬が襲われたり、食べられたりするわけにはいかないもんな。
 軍馬の供給、育成などを円滑に行うために、1908年に軍馬補充部令が定められたが、十勝に置かれた補充部には、1932年のロサンゼルス五輪大会の馬術で金メダルをとった「バロン西」こと西竹一が勤務したこともあったそうだ。
 戦地に供給するために幼駒の購買もしていたが、軍部は良馬の育成には良馬が必要ということで、当時世界的に名を馳せていた種牡馬を買い、内国産の牝馬と交配して良馬生産にいそしんでいたそうである。この政策は、明治後半から馬産振興に大きく貢献したそうである。この30年計画において、日本の馬に対する情熱は相当のものだっただろう。わずか30年で日本馬改良政策を発展させたのはすごい。日本人の勤勉さがプラスに動いたよい例ともいえるかもしれない。
 手塩にかけて育てた軍馬の仕事とはどのようなものだったのだろうか。戦地では、野砲を引いたり、装備一式をそろえた兵士や食糧、蹄鉄、武器などを乗せていた。重そうだ。そして食べ物がなくなったとき食糧として食べられたそうである。そんな馬も戦地では大切に扱われ、獣医も同行した。今でこそポピュラーな獣医だが、日本での獣医史は軍用馬とともに始まったという。私は、「獣医=ペットのお医者さん」という固定観念があったせいか、代表的なペットである犬あたりが獣医の始まりだと思っていたので、軍馬がきっかけだったということに驚いてしまった。
 1935年に30年計画は無事成功し、日本人による改良の速度はまれにみるスピードということでよい評価を与えられた。これによって俄然やる気になったのか、その翌年また新たな30年計画を掲げたのだ。第二段階ではさらにレベルアップし、生産方針の確立と種類の固定など現在の馬産の基礎となっている方針を打ち出している。
 この馬政局も終戦と共に終わりを告げることになったが、60年間でめざましい進歩を遂げた馬産業には脱帽だ。

■伝説の英雄「バロン西」

 靖国と馬でもう一つ忘れてならないのが、先述のバロン西こと西竹一の存在だろう。彼は私と同じ7月12日生まれである。さらに言うならば、私の母の旧姓は西である。なにかの運命をビビッと感じてしまったのは言うまでもないが、『オリンポスの使途』(文藝春秋)は、西の最期は本当に俗説の通りなのかということを、西の近くにいた仲間からの証言を用いて考察している。
 今では伝説として語られているが、硫黄島でアメリカ軍が「バロン西、オリンピックの英雄バロン西、出てきなさい」と呼び掛けられたが、それには応じず総攻撃の後に戦死したという説である。しかし著者は「仮に呼びかけがあったとしても『バロン西』という呼びかけ方は、いかにも不自然である。日本語で呼びかけるのだから、『西中佐』あるいは『西連隊長』と呼ぶのが普通だろう」と書いている。そういわれると確かにその通りである。敵を投降させるのに、わざわざ『バロン西』と気取って言うのも変だし。
 もう一つの説に、「宮城に頭を向けるように部下に命じてピストルで自決した」というものがある。これも私からすると不思議でしょうがない。もし、本当に宮城に頭を向ける行為をした部下がいれば、その部下は相当冷静だったはず。追いつめられた状況の中でそんな演出ができるのだろうか。少なくとも私にはとてもできない。読み進めていくと、この自決説は証言者の作り話だということが書かれていた。
 真実は一つだが、戦争中のごたごたした中で彼の最期はどのようなものだったのかということを掘り下げていくのは不可能なことである。混乱の中にあれば人の記憶というのはばらばらになってしまう。伝説は伝説として生き続けることがよかったりするのかもしれない。
 西竹一が硫黄島で亡くなってから、15年後の秋。靖国神社でサイ・バートレットというアメリカの映画プロデューサーが西竹一の慰霊祭が行い、永代祭祀料を奉納したそうである。彼は、西がロサンゼルス五輪の際に馬術練習をしていたクラブでかわいがられていたそうである。再会を心待ちにしていたであろう彼は、西のその後を知りさぞかし落胆したであろう。靖国では外国人が祭りを主催することが初めてのことだったらしく、ものすごく気合いが入っていたらしい。
 『ようこそ靖国神社へ』によると、「スポーツと縁の深い靖國神社」と称して2ページにわたり書かれている。それによると、オリンピック代表選手に選ばれた英霊が30余柱いるそうである。戦争とは残酷なものである。もし、彼らの血が脈々と受け継がれていたら日本のプロスポーツは今とは少し違っていただろう。
 馬の話に戻して、西竹一の愛馬ウラヌス号は彼の戦死後、獣医学校の厩舎で西のあとを追うようにして死んでいったそうだ。しかし、ウラヌスの遺体は獣医学校に埋められたが、空襲によってこっぱ微塵に吹き飛ばされてしまったそうである。
 あとを追うように…と出てきたが、私の祖父が亡くなった時、世話をしていた金魚が2、3日後に死んでしまったということがあった。ウラヌス号も金魚も主人が死んだことがわかったのだろうか。どちらも老衰で死んだのだが、よく聞く話でもあって単なる偶然にしは思えない。やはり動物でも「主人を一人にはしておけない」とか「そばにいたい」と考えるのだろうか、はたまた本当に偶然だったのか。
 最後に私の個人的な馬の思い出をひとつ。幼少の頃、熊本県にあるクマ牧場というクマがたくさんいる牧場にいった。そこの一角にある草原で食事をしていたら、お弁当目当てに馬が一頭近寄ってきた。あげたくないので放っておいたら、その馬に糞をされた。今は私も大人になり、競馬も少し嗜むようになって馬への愛着もわくようになったが、あの時ばかりは「この馬野郎!」と心で叫んだものだ。正しくは「馬鹿野郎」なのだが、鹿はいなかったので「馬野郎!」。きっと馬や鹿は「バカ」に似た気持ちを人に一度は感じさせる動物だから、「馬鹿」という言葉ができたのだ(編集長訂正:ただの当て字です)。
 いずれにせよ、競争馬も軍馬も人を泣かせたり喜ばせたりする存在で、靖国には英霊とともに彼らの歴史と霊が眠っているのだ。 (■つづく)

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